
04-大人の階段上る
都会の喧騒を聞きながら、梵天のナンバー2である三途春千夜は目の前のマンションを見上げながら深い溜息を吐いた。かれこれ三十分は車内の後部座席で同じようなことを繰り返している。
それをバックミラー越しに見ていた部下の男は内心ビクビクしていた。いつ自分にとばっちりが来るか分からないからだ。
彼は今日一日、春千夜の運転手を務めていたが、組織のナンバー2はずっとこの調子で元気がない。また何かに少し苛立っているようで、些細なことでも怒鳴ってくる。これまでも似たようなことはあったものの、今日の春千夜の不機嫌さは以前の比じゃない。
ただ、最近は物凄く機嫌のいい日が続いていた。おかげで部下の男も被害に合わずに済んでいたのでホっとしていたのだが、他の幹部達が言うには機嫌のいい理由が、どうやら春千夜に恋人が出来たらしい、ということだった。直接彼が教えてもらったわけではないが、幹部達の会話の端々にそういった話題が出るのでちょっと小耳に挟んだだけだ。
これまで適当な女と会ってたのは知っていた部下も、春千夜が特定の女と付き合う姿を見たことがない。なのでそれなりに驚いてしまったのだが、春千夜の機嫌が良くなるなら助かる、くらいは思っていた。
そして本当に最近はずっと機嫌も良かったはずなのに、ここへ来て一転、今日は朝から何となく不機嫌そうだった。小さな連絡ミスをした部下はボコボコにされ、トップである万次郎の好物を間違えて買って来た新人は病院送り。ついでに春千夜の飲むコーヒーのブレンドを間違えたこの男も、先ほど三発ほど顔面に喰らい、今は左半分が若干、腫れている状態だった。
それでも運転手として春千夜を自宅マンションに送り届けるまでは帰れないので、車から降りるのをジっと待つしかない。さっきは「自宅へ帰る」と言われ、今夜は早く上がれそうだと思った男は、その場でつい梵天仲間の友人へ連絡をしてしまった。久しぶりに早く上がれそうだったので飲みに行きたくなったのだ。ちょうど友人の男も灰谷兄弟を目的地まで送り届け、すでにお役御免になってるということで、一時間後に待ち合わせをした。
なのにマンション前まで送り届けたにも関わらず、春千夜は一向に車を降りようとせず、冒頭のように溜息ばかりついている。時折マンションを見上げては、帰ろうかどうしようか迷う素振りまでしている始末。その姿はまるで妻が怖くて家に帰れないサラリーマンのようだった。
――いや、まさか。三途さんに限ってそんなことは…。確か今はその恋人が愛田に狙われてる可能性があるから一時的に三途さんと一緒に住んでると蘭さん達が話してたけど…恋人が実は一緒に住んだら物凄く怖い女だったとか?あ、そういや三途さんって潔癖症なんだっけ。そういう人が他人と暮らすのは色々とストレス溜まりそうだし、もしその恋人が大雑把で掃除も出来ないような女なら部屋を散らかし放題で帰りたくないって理由も考えられる。いや、それとも単純に浮気がバレて帰りづらい、というパターンもあるな…。
運転手の男は脳内で春千夜がすぐに家へ帰らない理由をアレコレ詮索しつつ、三途さんは一体いつになったら家に帰るんだろうか、と困っていると、しばらく窓の外を眺めていた春千夜が不意に男へ顔を向けた。
「おい」
「は、はい!」
まさかのバックミラー越しに目が合い、男は口から心臓が飛び出るんじゃないかと思うくらいに驚いた。こっそり見ていたことで春千夜の機嫌を損ねないとも限らない。ああ、遂にオレも新人と同じように病院送りか、と覚悟を決めた時だった。春千夜は怒るでもなく、いつもの口調で「"ダブル"に行け」とひとこと言った。
それは幹部達が行きつけのウイスキーバーである。どうやら春千夜は帰るのをやめ、飲みに行くようだ。行けと言われれば、運転手として理由など聞かず、すぐに向かわなければならない。
男は「はい」と返事をしてすぐに車を発車させると、春千夜に言われた店を目指した。夜の六本木はそれなりに道は混んでいるものの、さほど時間もかからず、バー近くまで辿り着いた。
「…ここでいいわ」
バーは表通りから少し奥まった場所にある為、運転手は手前の大通りで車を停車すると、すぐに降りて後部座席のドアを開ける。すると「オマエは帰っていい。明日は昼にマンションまで迎えに来い」と春千夜に言われ、内心ホっとした。明日の迎えを頼まれたということは本当にここで終わりのようだ。これなら約束の時間にはギリギリ間に合う。
「お疲れ様でした!」
路地へ向かって歩いて行く春千夜の背中に深々頭を下げると、男は春千夜が見えなくなるまでその場で見送っていた。
「それにしても…珍しいな。部下も連れずにひとりで飲みに行くなんて」
そんなに帰りたくなかったんだろうか?と首を捻りつつ。そんなことより自分の自由な時間が訪れた嬉しさで、男は浮かれた気分ですぐに待ち合わせ場所へと車を走らせた。
一方、部下にアレコレ詮索されていたことなど知らない春千夜は、芋洗坂を少し下り、六本木通りの喧騒を避けた小道にあるウィスキーバー"ダブル"へやって来た。
扉を開けると、樹齢500年の水楢が煉瓦壁の間を押し開くように鎮座して春千夜を出迎えてくれる。有名なオフィスタワーが立ち並ぶ土地柄か、この店には大物客も多く、そういった界隈の人間がお忍びで来たりもするらしい。店内の雰囲気とは裏腹に中華や鍋料理など食事のメニューも充実している。これは肩肘を張った会食で十分な食事を取れなかった客への心配りだという。マスターのそういった人柄が気に入って、梵天幹部達も通うようになった。
どんなTPOで利用したとしても、約5000本はあるという膨大な数のストックから、相応しい一杯を仕立ててくれるので、春千夜も時々大物の接待として、ここを利用している。
「いらっしゃいませ。三途さん」
「…いつもの頼む」
「かしこまりました」
笑顔で出迎えてくれたバーテンダーに注文し、春千夜は溜息交じりでカウンターのスツールへ腰をかける。今夜はまだ時間も早いせいか、店内もガランとしていた。そもそも隠家的なこの店を愛用している人間は、こんな時間に来たりはしない。だからこそ春千夜もふと思いついて久しぶりに顔を出そうという気になったのだ。しかし、バーテンが熟成されたマッカランのストレートをグラスで出してくれた瞬間、背後から「あ?三途かよ」という最も聞きたくない声から名前を呼ばれ、春千夜は盛大な溜息と共に振り返った。
そこにはラバトリーから出てきたであろう、灰谷蘭が苦笑交じりで立っていた。そう言えば、と視線を走らせれば、カウンターの端の方に呑みかけのグラスがある。どうやら蘭も珍しくひとりで飲みに来たらしい。
「…チッ」
「いや、挨拶もなしに舌打ちかよ」
「何でテメェがいんだよ…灰谷」
「そりゃ飲みに来たに決まってんだろ」
最もな答えを返しながら、蘭は自分のグラスを持つと、わざわざ春千夜の隣に腰をかけた。
「…あっちで飲んでろよ」
「いいだろ、別に。こうして顔を合わせちまったんだし」
迷惑そうな顔を隠そうともしない春千夜に笑いつつ、蘭は気にすることなく酒を煽る。それを横目で睨んでいた春千夜は諦めたように、自分も来たばかりの酒を煽った。マッカランはシングルモルトのロールスロイスと呼ばれる高級銘柄のスコッチであり、甘くて飲みやすい味わいがある。疲れた時は無性に呑みたくなる酒だった。
「で、オマエは何でひとりで飲みに来たんだよ。ちゃん待ってんじゃねえの」
「…うるせぇな。話しかけんじゃねえよ」
「何だよ。機嫌わりいな。今は可愛いちゃんと同棲初めて幸せいっぱいじゃねえの」
またしても舌打ちされ、蘭は苦笑いを浮かべながら葉巻へ火をつけた。香ばしい独特の香りが春千夜の鼻腔を刺激してくる。
「だったら何だよ。――同じの」
ぐいっと一気に酒を煽り、すぐに同じ物を注文した。それを隣で眺めていた蘭は、不思議そうに小首を傾げている。大方、彼女を放って飲み歩いてていいのかよ、と言いたいんだろう。それくらいの空気は春千夜でも感じ取れる。
しかし春千夜には家に帰りたくない、いや、帰りにくい事情があった。だがそれを蘭に話すつもりはないし、むしろ話したくもない。
(言えるわけねえ…。が可愛すぎて、もう我慢も限界だってことは――)
ふと可愛らしい笑顔が頭を過ぎり、会いたいという気持ちが強くなる。さっきも本当ならマンションに着いた時に速攻で帰りたかったというのが本音だ。ただ、部屋で一緒に過ごしていると、どうしても頭がエロいことで一色になってしまいそうになる。ソファに並んで座っている時も、風呂上りに二人で飲んでいる時も、ちょっとした接触で意識がそっちへ向かっていくことが増えてきた。そうなるとが気にして、また自分がする、と言い出すに決まっているし、出来ればそれを避けたいといったところだ。
もちろん彼女が自分の為に頑張ってシテくれる姿はめちゃくちゃ可愛いし、エロいし、興奮もする。ただ、その想いが昂ると、それだけで我慢できなくなるのがきつかった。
彼女は男が出せばスッキリすると思っているようで、実際にもその通りではあるものの。言ってみれば、それは体だけの話だ。やはり好きな女を抱けないストレスの方が強いというのを、春千夜はを好きになって初めて知った。
そもそも彼女がしてくれる行為は前戯といった感覚であり、惚れた女のそんな姿を見て悶々とした気持ちは、やはり彼女を抱きたいという欲求に変換される。春千夜としては口でされて何回出したとしても途中で行為を止められてるような感じだった。そのストレスが蓄積されてきて最近はかなりキツい。でもには会いたいし、傍にいれば抱きしめたり、キスをしたくなってしまう。そしてそれをすれば――と、こんな感じで悪循環なループが始まり、それが今日のイライラへ繋がっていた。
とはいえ、このまま避けてばかりもいられない。が自分の帰りを待っていると思うと罪悪感に苛まれるし、余計に会いたい思いが募っていく。
なので、とりあえずモヤモヤしたそういうのを払拭したくて、ちょっとだけ飲みにきたというだけの話だ。ただ蘭がいたのは想定外だった。
「何だよ。マジでケンカしたとか?」
二杯目もぐいっと飲み干す春千夜を見て、蘭が怪訝そうに眉を寄せた。蘭もとは無関係じゃない。たとえ一時でも雇っていた経緯があるせいか、春千夜と顔を合わせるたび色々と聞きたがるので、出来れば今夜は会いたくなかったと思う。
「…別にケンカなんかしてねえ。変な詮索すんな」
「詮索したいわけじゃねえけどさー。一応ちゃんの姉はウチの店の大事なキャストだし、砂羽が心配するようなことになってなきゃいいなと思っただけだよ」
「…だから心配されるようなことは何も――」
「はいはい。まあ…ケンカしててもしてなくても、何か問題あるならエッチしちゃえば万事うまくいくだろ、彼女との関係なんて」
「…………」
蘭は何の気なしに言ったつもりだろうが、今の春千夜にはその一言が地雷だった。そもそもエッチを出来ないのが一番の問題なのだから。
「あれ、何固まってんだよ、三途」
突然、動かなくなった春千夜に気づいた蘭が、ギョっとしたように顔を覗き込む。春千夜はグラスを持ったまま見事にフリーズしていて、目の前で手を振ってみても何の反応も示さない。普段は何でもぽんぽん言い返してくる春千夜にしては珍しい反応だ。特に蘭相手にこんな風になったことは一度もない。
その様子を見ていた蘭はしばし考えこんでいたが、ふと何かに気づいたようにニタァと悪い笑みを浮かべた。
「あれぇ?もしかして三途…まだちゃんとエッチしてないとか?」
「……ぐっ」
「あ?マジで図星かよ」
つい痛いところを突かれ、素の反応が出てしまったようだ。春千夜の単純な一面が仇となり、蘭は全てを察したような笑みを浮かべた。今さら違うと言い訳したところで、もう遅い。蘭は組織の中でも一番勘が鋭く、特にこういった話は何かのアンテナが反応するのか、ちょっとした違和感から何かしら気づかれてしまう。前にへのプレゼントとして春千夜がティファニーのネックレスを買った時も、真っ先に詮索してきたのも蘭だったことを思い出す。
「一緒に住んでんのにまーだヤってねえのかよ。三途~」
「うるせぇな!テメェに関係ねえだろがっ」
「しー。あまりデカい声だすなって。ここは静かに酒を嗜む大人空間だから」
「…チッ。だったら話しかけてくんじゃねえ」
春千夜はイライラしながら酒を煽ると、すぐに立ち上がった。これ以上、蘭と話していると色々ボロが出そうだからだ。ここはサッサと帰るに限る、と春千夜は支払いを済ませてバーを出ようとした。その時、蘭が「どうせちゃんが怖がって出来ねえとか、そういうアレだろ?あの子どう見ても処女だもんなあ?」とズバリ言い当てるのを聞いて、春千夜の足が止まる。
「あ、そっちも図星なんだ」
「………」
この男はアレか?千里眼でも持ってんのか?と問いたくなるほど、男女のことに関しては精通してるらしい。苦笑している蘭は、何もかも見透かすような目つきで春千夜を見ている。相変わらずムカつく野郎だ、と内心思いつつ、もう一度「オマエには関係ねえ」と言って今度こそ帰ろうとした。
だがしかし、「女の子がセックス怖がらなくなる方法、教えてやろうか」という蘭の言葉を聞いて、再び春千夜の足がピタリと止まる。思わず振り返ると、蘭はニヤリとしながら「聞きたい?」と春千夜を煽るように訊いてきた。
出来れば無視して帰りたい。この男に弱みを見せたくないからだ。しかしのことになると冷静さは半減する春千夜だった。ついでに芳醇なスコッチを連続で一気飲みしているので、多少ふわふわする程度には酔っている。蘭のことは気に入らないが、一応自分より年上であり、経験も豊富。梵天所有のクラブをいくつも任せているので、色んなジャンルの女の扱いに長けているのは春千夜でも知っている。
この際、酔いに任せてそれくらいの話を聞きだすのは、まあやぶさかではないか、と思う。なので――。
「…んな方法あんのかよ」
と、つい訊き返してしまった。蘭は春千夜の答えを分かっていたかのように微笑むと、再び隣のスツールをポンと叩く。要は席へ戻れということだろう。その偉そうな態度は気に食わないが、渋々といった様子で春千夜は席へと戻った。
「ああ、こいつにもう一杯、同じもの頼むわ」
「かしこまりました」
一度は支払いをした春千夜だが、バーテンは笑顔で頷くと、再びマッカランを注いだグラスをテーブルへと置いた。景気づけにそれを一口飲んだ春千夜は「んで?」と答えを促すように蘭を睨む。
蘭は笑いながら「焦んなよ」と軽く頬杖をつくと、仏頂面の春千夜を見ながら「まずは聞きたいんだけどさー」とニッコリ微笑んだ。
「ちゃんってオレが見るに男の経験はゼロって感じなんだけど合ってる?」
「あ?あー…まあ…そんな感じ…だな。その辺は聞いてねえけど」
「やっぱなー。ま、それで怖がってエッチ拒まれてんだ。かわいそー三途」
「はあ?別に拒まれたわけじゃねえっ。ちょっとそんな風に見えたから手ぇ出してねえだけだ!」
蘭の煽りにカチンときて言い返す。その辺は本当のことで、からハッキリ「イヤだ」と拒否をされたことは一度もなかった。ただ春千夜がの表情や態度から先に察して行為を途中でやめてるだけだ。可愛いが怖がってるのに無理やり抱けるほど鬼畜でもない。それに――。
「それに…オレは別にヤれりゃあいいって思ってるわけじゃねえしな」
「え、そーなの?」
「当たり前だろが。は今まで相手にして来たような適当な女とはわけが違うんだよ」
蘭がウイスキーを飲みながら目を丸くする。女に対しても暴虐武人だった、あの三途がひとりの女を慈しんで大事にしてる事実に驚いたのだ。
「じゃあ…何で戻って来たんだよ。怖がらせずにエッチできる方法知りて―んだろ?」
「あ?そりゃ…あいつを怖がらせずに済む方法があるなら、それに越したことねえと思っただけだ」
「………」
「…?何だよ、その顏は…」
今まで饒舌だった男が急に黙ったのを不審に思って視線を向けると、蘭は心底びっくりしたような顔で口をぽっかり開けていた。
「いや…そこまでマジとは思わなかったわ」
「……あ?」
「オマエ、マジでちゃんに惚れてんだな」
蘭のその言葉を聞いて、春千夜は怪訝そうに眉を寄せると「何言ってんだ、テメェ」と鼻で笑った。
「当たり前のこと言ってんじゃねえ」
灰谷蘭のことは心底気に入らないし、いちいち彼女とのことに口を挟んで欲しくはないが、自分の想いがハッキリしている今、別に彼女への気持ちに嘘をつく気はない。普通のテンションで認めると、蘭はますます驚愕したようだった。
「前はからかったら、ただの代行だの何だの言ってた三途がねえ…」
「あ?あん時は別に付き合ってもねえだろが」
「…ああ、なるほど。そういうことね。ったく、三途は普段粗暴なくせに変なとこ真面目だよな、昔から」
「ハァ?真面目って何だよ…バカにしてんのか、テメェ」
「いや、褒めてんじゃん」
すぐムキになる春千夜に笑いつつ、「さて、本題ね」と蘭は言った。そこで春千夜も何故、いけ好かない蘭とこんなに話してるのかというのを思い出す。こんなことは知り合ってから今日まで初めてのことだ。
「処女の子はさあ。最初に痛いだの何だのって情報だけはシッカリあるから、そう脳に刷り込まれてること多いんだよ。だから、そこを少し変えてやればいいわけ」
「…変える?何を」
「経験ある子とエッチするみたいに、処女の子を抱こうとしても怖がらせるだけだろ。相手にしたら未知の行為なわけだし。だからそこは少しずつ体を慣らしてあげるのが大事。焦らずゆっくり少ーしずつな」
「……ゆっくり、少しずつ…」
言ってる意味は分かるが、具体的にどうすればいいのか分からず、しばし考えていると、蘭が苦笑気味に春千夜の顔を覗き込んできた。
「どうせ三途のことだから、経験値の高い女を抱く時と同じように抱こうとしたんじゃねえの?それ、されたら未経験の子は怖いだろ」
「………」
言われてみれば思い当たらないでもない。普通にキスをして、その流れで最初は抱こうとしてしまった気もする。いや、気がするというより、結構なことをしたかもしれない。
「あーやっぱ、それやったんだ、三途」
「…あ?」
「いきなり抱こうとするんじゃなく、まずはオマエに触れられることに慣れさせろ。もちろん優しーく触れてあげることと、触れられたら気持ちいいってことを根気よく体に覚えさせんだよ。まあその間、男は我慢する羽目になんだけど、本気で惚れた女の子相手なら、それくらい出来んだろ?」
「チッ。んなこと分かってんだよ。ってかテメェが言うと、とことんエロいな」
「いや、エロいことを話してんだから当たり前じゃね?」
春千夜のツッコミに吹き出すと、本当に分かってんのかねぇ?三途は、と溜息を吐く。これまで好き勝手に寄ってくる女を適当に抱いてきたような男だからこそ、本気で惚れた相手をどう扱っていいのか分からないんだろう。そう考えると生意気な春千夜も可愛く見えてくるので、蘭も軽く吹いてしまった。
「何笑ってんだ、灰谷」
「別にー。三途も大人の階段上り始めたのかーと感慨深くなっただけー」
「テメェ、バカにしてんじゃねえぞっ」
「バカにしてねえって。つーか、それより時間いいのかよ。ちゃんは家から出られねえんだし、寂しい思いしてんじゃねえの。早く帰ってやれば?」
「…分かってんだよ、んなことはテメェに言われなくても!ってか引き留めたのテメェだろが」
「話を聞きたがったのはオマエだろ?まあ…帰ったら実践してみろよ。まずは優しくボディタッチから」
「うるせぇな、分かってるっつってんだろっ」
だんだんイラついて熱くなってきた春千夜は、残りの酒を一気に飲み干すと最後に蘭をじろりと睨みつけ、そのまま店を出て行ってしまった。その様子は若かりし頃の春千夜を見ているようで、蘭は再び吹き出すと、バーテンに酒のお代わりを頼む。
ちょうどそこへ女性客が入ってくるのを見て、蘭は笑顔で「こっち」と手を上げた。
「あ、蘭さん。ごめんね、遅くなって」
「いや、退屈ではなかったから平気。それより何飲む?」
何のことはない。蘭はデートの待ち合わせでこの店にいただけだ。そこへ春千夜が難しい顔をしながら入って来たので何事かと思ったが、聞いてみれば何とも春千夜らしくない悩みだったので、ついアドバイスなんてものをしてしまった。
(ま…オレも処女の子とエッチしたことはねえんだけど…。ま、いっか)
春千夜に知られたら「ねえのかよ!」と突っ込まれそうなことを思いながら、自分に寄り添ってくる隣の女に、蘭はニッコリ微笑んだ。
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「ったく、偉そうに…。あいつはセックスの伝道師かっつーの」
バーを出てタクシーでマンションまで帰ってきた春千夜は、酔いもあってかブツブツ文句を言いながら部屋の前に立つと、軽く深呼吸をしてから中へ入った。時刻は午後十時。まだ遅いというほどの時間でもないが、今日は早く帰れると言っておいた手前、少しだけ気まずい。
リビングからは明かりが洩れているので、当然は起きて待っているんだろう。どう言い訳しようか考えながら、春千夜はリビングのドアを開けた。しかし、いつもなら可愛い笑顔で「お帰りなさい!」と出迎えてくれるはずのがいない。一瞬焦ったものの、よくよく見ればソファの上で気持ち良さそうに眠っているの姿が見えて、春千夜はホっと息を吐いた。付けっぱなしのテレビにはサスペンス映画のような映像が流れているので、観賞してるうち寝落ちしてしまったというとこだろう。
ソファの傍には以前、春千夜が暇つぶしにと買った映画のBlu-rayが積んである。
「そりゃそうか…ずっとここに一人なんだし、暇だよな」
ソファの上で丸くなり、気持ち良さそうに寝ているの前へしゃがむと、春千夜はそっと彼女の髪にキスを落とした。寒い時期だというのに、ブランケットすらかけてない。風邪を引いては大変だと、春千夜は彼女の体をそっと抱きかかえた。そのまま寝室へを運ぶと、起こさないようベッドへ静かに寝かせる。しかし、やはり振動で目を覚ましたらしい。の瞼がぴくりと動いて、ゆっくりと目が開いていく。そのふにゃんとした眠そうな視線を彷徨わせたは、薄闇の中に見える鮮やかなマゼンタ色の髪に気づき、「春千夜さん…?」とかすかに笑みを浮かべた。
「わりぃ…起こしたか…?」
ベッドに腰をかけ、彼女の顔を覗き込むと、はゆっくり首を振った。自分がどこに寝かされているか気づいたんだろう。申し訳なさそうに目を伏せた。
「わたしこそごめんなさい…起きて待ってようと思ったのに…寝ちゃってましたか?」
「別にいい。オレが遅くなったんだし…。その…ちょっと一杯飲みに行ったら灰谷に捕まって」
最後に悪かったな、と付け足すと、は笑顔で首を振った
「早く帰るってメッセージ来たのに遅いからちょっと心配したけど、そういうことなら」
でも今度からは遅くなる時は連絡下さいね、と可愛く言われて、春千夜もふっと口元が緩む。自分のことを心配しながら待っていてくれる存在がいるのは、案外いいものなんだな、と思った。ただ待っている方からすれば、それは不安でしかないだろう。そこに気づいた春千夜は、彼女に言われた通り今度からすぐに連絡しようと思った。
「分かった。今度からちゃんと連絡入れる」
素直に頷く春千夜を見て、も嬉しそうに頷く。そして「あ」と思い出したように上体を起こした。
「春千夜さん、ご飯は?何か作りますか?」
「いや、いい。つーか、オマエはホント、隙あらば仕事しようとすんな。いいから寝てろ。眠いんだろ?」
の性分なのか、春千夜が言った通り、彼女は気づけば掃除したり、洗濯ものをしたりと常に何かしら動いていることが多い。それはありがたいのだが、二人でリビングで寛いでいる時も、「あ、お酒飲むならツマミでも作りますね」だとか、「氷なくなりそうだから持ってきますね」と春千夜の傍から離れてしまうのだ。
とのんびり過ごしたい春千夜も、最終的には「いいから傍にいろ」と強引な方法で引き留めることになる。
今も似たようなもので「でもお腹空いてるんじゃ…」と心配そうな顔をしていた。
「いや、そこまで減ってねえ。酒も入ってるし。それよりオレはシャワー浴びてくっから、は寝てろよ」
優しく頭を撫でて言えば、彼女は慌てて「寝ないです。眠くないし…」と首を振った。しかし、その顏はどこか眠そうに見えて、春千夜もつい苦笑してしまう。
「嘘つけ。目なんかとろんとしてんじゃねえか。今夜は何もしなくていいから寝とけって」
額に口付け、起こした体を再びベッドへ寝かせると、の口が僅かに尖っていた。
「せっかく春千夜さん帰ってきたのに…寝るのもったいない」
「………」
そんな可愛いことを言われ、尚且つ上目遣いで見られると、春千夜の口元も自然に綻んでしまう。はしっかり者のイメージが強かったが、こうなってみると、かなりの甘えん坊みたいだ。
「…またオレを煽んのかよ」
「え、そ、そういうつもりじゃ…」
「そういうつもりじゃなくても、は無意識にオレをその気にさせる天才だからな」
「え…ン、」
言った通り、彼女の小さな唇にちゅっと口付けると、はすぐ照れ臭そうに瞳を揺らす。その瞳を見ていたらたまらなくなり、春千夜は彼女の顔の横へ手をつくと、もう一度、今度はゆっくりとくちびるを塞ぐ。
――相手にしたら未知の行為なわけだし。だからそこは少しずつ体を慣らしてあげるのが大事。焦らずゆっくり少ーしずつな。
その時、蘭に言われた言葉が脳裏を掠めていった。