「これで…男として見れる?」
ワカくんは何とも綺麗な笑みを浮かべて、私の唇を奪った―――。
事の発端は三日前。
大学生になってからダイエットと体力づくりの為に二年前から通いだしたジムで再会した彼に相談したのが始まりだった。
「え?家出るの?」
「うん。もう何時間も電車で通うのツライし、どうせ卒業後はコッチで就職するから二十歳を機に一人暮らししようかと思って」
私の家は通っている大学からかなり遠く、電車で片道二時間近くはかかる。
おかげで朝は早起きだし、帰りは友達とゆっくり遊ぶ事も出来なくていい加減嫌になったのだ。
幸い母も今の内から一人暮らしに慣れておけ、と賛成してくれた事もあり、今は絶賛良物件お探し中なのだ。
ついでにバイトも見つけて遊ぶお金くらいは自分で稼ごうと思ってる。
幼い頃に両親が離婚、母親が女手一つで育ててくれたから、出来れば母の負担は減らしたいのだ。
昔は色々あってグレて泣かした分くらいは親孝行をしたい。
いつものボクササイズを終えた後、そんな話をトレーナー兼ジムのオーナーである彼に相談した。
「それで探してる最中なんだけど、なかなか条件に合うものがなくて。何かこの辺でいい物件とバイト、知らない?ワカくん」
「あー…どう、かな」
汗を拭きながら彼はリングのロープに寄り掛かった。
今牛若狭―――。
五歳年上の少し変わった名前のオーナーは外見も少し変わっている。
ド派手な紫と金のツートンで彩られた肩まである髪は後ろで結ばれ、前髪の両サイドに垂れている髪すら紫と金に分けられている。
何とも派手な髪型にイメチェンした彼を最初に見た時は度肝を抜かれた。
でも彼が目立つのは髪色だけじゃない。そこら辺の女性よりも整った、その端正な顔立ちだ。
少し垂れ気味なのにも関わらず、大きくて鋭い印象を受ける瞳は、どこか涼し気でいて色っぽくもある。
五年前、まだ私がヤンチャをしてた頃に初めて会ったワカくんは、もっと野性味のある凄みみたいなものがあったけど、今は少し落ち着いて別の意味でオーラがある人だと思う。
出逢った頃の彼は関東制覇を目指していた黒龍のメンバーで"最強2トップ"の一人だった。
仲の良かった地元の先輩が黒龍のメンバーになり、何度か集会に遊びに行った時にその存在を知ったのだ。
ワカくんは当時からカッコ良くて強くて皆の憧れで、少なくとも私も彼に憧れる女の子の中の一人だった。
声もかけられないほど雲の上の人だったワカくんと初めて話したのは、今でも思い出すと怖くて足が震えてしまう、五年前のある夏の夜のこと。
あの日は黒龍の皆で花火をやるのに集まると先輩に聞いて、私と友達は急いでその場所に向かっていた。
でもその途中、"族の女狩り"と称しては、チームに関係している女の子達を拉致して輪姦するのが目的の危ない奴らに捕まり、私と友達が拉致されそうになった。
どれだけ強がっていても、まだほんの15歳。
複数の男達に大きなワゴン車に連れ込まれそうになった時は、本当に怖くて抵抗したいのに手足が上手く動かせないほどに震えていた。
無理やり車へ押し込まれて、もうダメだ、と諦めかけた時、間一髪で私と友達を助けてくれたのが、ちょうどバイクで通りかかったワカくんと、もう一人の最強ベンケイさんだったのだ。
当然のように最強2トップはアッという間に男達を片付けて病院送りにしてしまった。
「…大丈夫か?」
ワカくんにそう声をかけられた時、それまでの恐怖と、助かった安堵感と、初めてワカくんの視界に入れた嬉しさに心の中がグチャグチャで、私は大泣きをしてしまったけど。
彼はそんな私が泣き止むまで傍にいてくれて、落ち着いた頃に何故かバイクに乗せてくれた。
憧れのワカくんのバイクに乗せてもらえるなんて思ってもいなかった私は、いつの間にか涙も止まって笑顔になっていた。
「オマエ、笑ってた方が可愛いんじゃねーの?」
バイクから私を下ろしながら、そう言ってくれたワカくんは、死ぬほどカッコ良かった。
今思えば、あの時バイクに乗せてくれたのも、そんな言葉をくれたのも、怯えて震えてた私を少しでも元気づけようとしてくれてたんだと分かる。
それがキッカケで顔を合わせると声をかけてくれるようになり、私はしばらく舞い上がってた気がする。
でも関東制覇を成し遂げて少しした頃、黒龍は突然解散してしまった。
当時の黒龍の総長、佐野真一郎くんが「黒龍より上がいなんじゃ、これからは弱い者イジメになる」と言ったとかで、惜しまれながらも解散するのが決まってしまったようだ。
ワカくんはそれ以降、新しいチームも作らず入らず、そういった噂もそのうち聞かなくなって。
当然連絡先の知らなかった私は、彼と会えなくなってしまった。
その少し後で私も高校を受験する事を決め、悪い仲間と遊ぶ機会も減って、少しずつ普通の生活を送るようになっていった事で、それきり黒龍の皆の話は入ってこなくなった。
その後は散々泣かせてしまったお母さんを喜ばせたいなんてガラにもない事を思って、それまでサボっていた分を取り戻す為に必死に勉強して。
以前から母が切望していた大学へ進学する事を決めて、二年前晴れて大学に入学。
世間でいう女子大生というものになれたのだ。
そして大学に入ってすぐの頃、新入生歓迎会と称した飲み会が続いた事で少し体重が増えてしまい、その当時付き合っていた彼に「太った?」と言われダイエットを決意。
大学の近くにあったこのジムに入会しに来た時―――まさかのワカくんと再会した。
「あれ?…?」
入会手続きをしていると、そこを通りかかったワカくんに声をかけられ、私は口から心臓が飛び出るんじゃないかと思ったくらいに驚いた。
昔と髪型や服装が変わっていたのもそうだけど、ワカくんはすっかり大人の男の人になっていたからだ。
「久しぶりじゃん、」
そう言ってワカくんは、昔と同じような優しい笑顔を向けてくれた。
あれから二年―――。
理想体重をキープする為、私は未だにワカくんのジムに通っている。
ただ私も大人になったからなのか、あの頃の憧れの存在だったワカくんも、今は何でも相談できる優しいお兄さん的な存在に変化していた。
そしてワカくんも私をいつも妹扱いしかしてこない。
「この辺でいい物件ねえ…」
「やっぱり大学に近い場所にしたくて」
「まあ、この辺りだと歩いて通えるもんな」
「そーなの。でも不動産屋のオジサン、適当な物件しか紹介してくれなくて。進めて来るとこは希望条件満たしてないとこばっかだし、なーんか大家と利害関係結んでるっぽいの」
「あぁ、いるな、そういうヤツ。希望条件じゃない物件進めて来るのはだいたいそうなんじゃねーの」
ワカくんはグローブなどを片付けながら、他のスタッフに後を任せて、私の所へ戻って来た。
最近ボクササイズがテレビで紹介され始めて人気が上がったせいか、入会希望者が一気に増えたらしく、ジムも大盛況といった感じだ。
「また人が増えたね。それも女の子、多め」
「あー。もうすぐ夏だしな。それまでに痩せたいらしい」
ワカくんは苦笑気味に言うと、私の頭へポンと手を置きグリグリと撫でで来た。
「と一緒だな」
「そりゃ薄着になるし少しは痩せたいよ、女の子としては」
「はもう必要ねぇだろ。二年も続けてキープしてんだし」
「コーチの腕がいいからです。いつもありがとう御座います」
わざとかしこまってワカくんに頭を下げると、彼は軽く吹き出している。
昔は仲間と騒いでよく笑っていた彼も、今はそれほど笑わなくなったから、何気にこういう笑顔は貴重だったりする。
「じゃあの彼氏も満足してるだろ」
「え?」
「ダイエット頑張ってるのに彼氏がまだ太ってるって言って来るとか言ってなかったっけ」
「あー…それなんだけど…」
そう、確かにあの頃飲み会に行き過ぎて太った事で高校三年の終わりから付き合っている彼氏に散々太ったと言われていた。
ジムに通いだして半年も経った頃には、かなり痩せて引き締まって来たのにも関わらず、あの男は「まだ太ってんじゃねえ?」としか言わず、いちいち私をけなしてくるようになった。
でもその理由も分かって、今はすでに―――。
「実は別れちゃったの。アイツと」
「…え?」
「去年の…クリスマスにね」
「は?半年も前じゃん」
「ま…まあ…そう、です」
「何で言わねーの?」
ワカくんは少し驚いたような顔をした。
まあ別れた後もまだ付き合ってるような素振りをしていたからだろう。
「言おうと思ってたんだけど…別れた理由がベタ過ぎて恥ずかしくて言えなかったというか…」
そう言って笑う私を見たワカくんの目が僅かに細められた。
「……女か」
「うん…まあ…」
「はあ…」
ワカくんは呆れたように溜息をつくと「じゃあ尚更、言えよ…」と私の額を指で小突いた。
「辛かったんじゃねぇの?そんな別れ方じゃ」
辛かった、とは言えなかった。
彼氏とは一年近く付き合ったけど上手くいってたのは二か月ほどだったように思う。
ちょっといいなと思っていた彼から告白されて、深く考えずにOKしたのは私だ。
付き合い当初は彼も優しくて愛されてるなって思ってた。
だけど最初に倦怠期が来ると言われてる三か月目を過ぎた頃から、確かに彼の態度が変わって行って。メールも電話もだんだん回数が減って行ったような気がする。
私も大学に入って新しい環境になってからはデートする時間もなくなり、会わなくなってからの去年のクリスマス。
彼氏とは約束すらせず、私は友達と街に繰り出した。
そこで知らない子と腕を組んで歩いてる彼氏とバッタリ出くわし、そこで私達はあっさり終わりを告げた。
というより彼氏は半年も前からとっくに自然消滅したと思っていたらしい。
後から彼氏の友達に聞いた話では「アイツ、俺のこと好きじゃねーんだよ」と付き合い当初から愚痴っていたようだ。
私の素っ気ない態度とかで彼氏は傷ついていたようだった。
言われてみれば、私は彼の事をちゃんと見ていなかったかもしれない。
心の奥に、煌くような思い出がいつまでも燻っていたから。
「…?大丈夫か?」
「え?あ…うん。大丈夫だよ」
気づけばワカくんが心配そうな表情で私の顔を覗き込んでいた。
「ワカくんが心配するほど辛くなかったし」
そう言うとワカくんはしばし黙った後で「、これから時間ある?」と訊いて来た。
「え、うん。今日は特に何も…」
「じゃあ飯でも行かねえ?久しぶりに」
「え、ご飯」
「俺も今日はこれで上がるし、ちょっとに話もあるから」
「話…?」
何だろう、と少しドキっとしたが、断る理由もないので行くと返事をした。
ワカくんはシャワー浴びたら受付で待ってて、と言って、彼もシャワールームへ行ってしまった。私は言われた通り、シャワーを浴びて髪も乾かし簡単なメイクをし直した。
ワカくんに最初にご飯へ誘われたのはジムに通いだした頃だから、かれこれ一年半ぶりかもしれない。
「お待たせ」
受付で待っていると、ワカくんもトレーニングウエアから私服に着替えて歩いて来た。
出る前にスタッフやトレーニングコーチなどに何やら声をかけた後「行こうか」と私の頭にポンと手を乗せる。
今もトレーニングしている数人の女性たちがチラチラこっちを見ているのは気のせいじゃないはずだ。
「半分はワカくん狙いか」
「え?」
「会員が増えた理由、もうすぐ夏だからってだけじゃないかもよ?」
「…何言ってんの、オマエ」
私の言った意味が分かったのか、呆れたように笑うワカくんに促され、エレベーターに乗り込む。
八階建てのビルの五階にワカくんのジムがあって、彼は黒龍解散の後くらいから、得意な事を仕事にしようと考えてジムを始めたらしい。
確かにワカくんは運動神経というより身体能力じたいが高いと思う。
彼が得意とするどこかの国の伝統武術は、素早い動きに加えてまるで踊るように技を繰り出し、華麗でいて艶やかに舞う蝶のようだった。
一度でもあの舞いを見たら誰だって魅せられてしまう。
「、何か食いたいもんある?」
「えっと…ワカくんは?」
「俺が訊いてるの」
苦笑しながら見下ろしてくるワカくんを見て、相変わらず綺麗なご尊顔…と思いながらも食べたい物を考える。
だけどこういう時ってなかなかパっと出て来なくて余計に焦って来るのは何でなんだろう。
「ないの?」
「う…ないって事もないけど…」
「どっちだよ」
ワカくんは笑いながら、また私の頭をクシャリと撫でる。
今日はよく笑うな、ワカくん。何か機嫌が良さそう。
そう思っていると顔にポツっと冷たいものが落ちて来た。
「あ…」
「雨かよ…」
二人で灰色に染まった空を見上げると、小さな雨粒が落ちて来る。
6月も終わりだというのに、まだ梅雨は明けないようだ。
「仕方ねぇな…。、こっち」
「え?」
目の前の信号が青になったのと同時に、ワカくんは私の腕を掴むと、ジムのあるビルとは反対側の道路へ走り出す。
渡ってすぐ前のマンションがワカくんの家だというのは前に聞いて知っていた。
ワカくんは私の手を引きながらオートロックのキーを外すと、マンションのエントランスロビーに入って行く。
「、濡れなかった?」
「うん。まだポツポツってくらいだったから」
そう言って外へ視線を向けると、次第に雨脚が強くなって来た。
「あーこれじゃ傘ないと無理っぽいね」
「っつーことで飯は俺んちで食おう」
「…えっ?」
また腕を引っ張られ、驚いてついて行くと、ワカくんはエレベーターのボタンを押した。
チンという音と共にドアが開いて、ワカくんは当然と言ったように私を連れてそれに乗り込む。
状況がまだ把握できていない私は、隣に立つワカくんを見上げると「ワカくんちで…ご飯?」と訊いてみた。
「雨ん中、歩くの嫌だろ?、ヒールだし」
「あ…うん…まあ、そうだけど…イヌピーは?一緒に住んでるんでしょ?」
イヌピーとは黒龍初代総長の真一郎くんに憧れて彼のバイクショップに入り浸っていたという少年で、真一郎くんだけじゃなく黒龍初代メンバーを未だに崇拝しているみたいだった。
ジムにワカくんを訪ねて来ていたので、私も何度か話をした事がある。
確か乾青宗というカッコいい名前だった。
そのイヌピーが半年前くらいに家出してワカの家に転がり込んで来たようで、仕方ないから一緒に住んでいると前に話していた。
「ああ、イヌピーは黒龍解散する事になったって言って昨年末に出てったよ。今は別のチームに入ってる」
「え?黒龍解散って…」
「ああ、は知らねぇか。まあ…あの後も何だかんだ総長を代替えしながら一応、チームは残ってたんだよ。イヌピーは十代目の総長についてたんだ」
「し、知らなかった…」
てっきり初代でなくなってしまったと思っていた。
私もあの後にチームとか関係ない普通の高校生やってたせいで、その辺の話を耳にする事もなかったのだ。
「って事で、また寂しい一人暮らしに逆戻り」
ワカくんはそう言いながらエレベーターを降りて自分の部屋へと歩いて行く。
その後ろを歩きながら、よくよく考えたら彼の家に来るのは初めてで、その事を思い出した途端、少し緊張してきた。
「ここ、俺んち。どーぞー」
「…お、お邪魔します」
ドアを開けて入って行くワカくんの後に続いて入る。
その瞬間、ワカくんからいつもしている白檀の香りがふわりと香って来た。
この匂いが私は好きだった。心が落ち着く。
「うわぁ…広いし綺麗…」
広い玄関で靴を脱ぎ、恐る恐る上がらせて貰うと、リビングに入って驚いてしまった。
男の一人暮らしとは思えないほど片付いているのもそうだが、壁一面が真っ白な空間にモダンなグレーベージュの大きなソファがドンと置かれ、正面には大きな画面の液晶テレビやオーディオ類。部屋の隅には観葉植物のパキラが飾られ、カウンターキッチンにもアイビーがハンギングされていて、どこかお洒落なカフェに来たような雰囲気だ。
「あんまジロジロ見るなよ」
ワカくんは着ていたジャケットをカウンター前のスツールに引っ掛けると、照れ臭そうに私を睨んだ。
「あ…ご、ごめんなさい。思ってた以上に綺麗な部屋で驚いちゃった」
「そっかー?ま、あんま物もねぇしな。あ、適当に座って」
「う、うん」
とは言われたものの、何となく落ち着かなくてベランダの方へ歩いて行く。
先ほど降り出した雨も今は本降りで、あのまま移動してたら二人ともびしょ濡れになっていただろう。
「あ、ここからジムが見えるんだ」
「あーそうそう。ここから見てテナント募集してるの見つけたの」
「そっか。でも職場が目の前って楽でいいね」
「まあ多少の寝坊は出来るかな」
「あーやっぱりこの辺に部屋借りたいなあ…」
ここからなら大学まで10分もかからない。
ただ、この辺は人気でいい物件はすでに決まったりしている事が多いのだ。
「、何かデリバリー頼む?腹減ったろ」
「あ…うん、そうだね」
ふと時計を見れば夕方の五時過ぎ。
トレーニング後なので余計にお腹が空いていた。
「それともパスタで良けりゃ作るけど」
「えっ?ワカくんが?」
「茹でるだけなら俺でも出来るって」
「あ、じゃあ私がやる」
「え、マジ?いいの?」
「うん。私こう見えても料理は人並みに出来るの。お母さんに習ったし」
「へえ、じゃあ頼もうかな」
ワカくんはパスタを出しながら、ついでに冷蔵庫からビールを出して私に一本くれた。
「あ、ありがと。えっと…冷蔵庫見ても?」
「いーよ。適当に使って。この前ベンケイとウチで飲んだ時に中華作ったから野菜とか余ってると思うし」
「え、ベンケイくんと中華作ったの?」
「ベンケイがね。アイツ、あの見た目で意外と料理やるんだよね。笑うだろ」
ワカくんは軽く吹き出したのを見て、私もつい笑ってしまった。
ベンケイさんもジムに何度か来た事があって、再会した時は「久しぶりだな!ちゃん」と驚かれた。
「昔は可愛らしいヤンチャな女の子って感じだったけど、すっかり美人の女子大生に成長して、俺は嬉しいよ」
なんて、どこかオッサン臭い事を言われて笑ってしまった。
そんな事を思い出しながら冷蔵庫を開けると、野菜室に結構色々と入っている。
本当にベンケイさんが料理したんだと思うと、やっぱり笑ってしまう。
「ワカくん、ナポリタンでいい?」
「あー好き好き」
「じゃあ、そうしよっと」
野菜と、ついでにベーコンも見つけて手早く下準備をしていく。その間にパスタを茹でつつ、
「ワカくん硬め派?」
「うん」
「りょーかい」
という事は炒める事も考えて早めに湯切りをする。
その湯出汁を使ってコンソメがあったのでスープも作っておく。
後は準備しておいた野菜などを炒めながらパスタを足してケチャップやホワイトペッパーを借りて味を調えたらアッという間にナポリタンの出来上がりだ。
「はーい、出来た」
「あ、さんきゅー。おー美味そー。あ、サラダとスープも作ってくれたの?」
「うん、余った野菜とかで簡単に作れるし、レタスとかもあったから」
「へえ、やっぱ女の子が作ると早いのに綺麗だな。ベンケイはザ、男の料理って感じで見た目が雑なんだよ」
ソファでバイク雑誌を読んでいたワカくんはそんな事を言いながらも「いい匂い」とお皿をテーブルに並べてくれた。
そして冷蔵庫からビールをもう本出してくると「カンパーイ」と言って、それを持ち上げた。
「カンパーイ。あービールが美味しい」
「、結構いける口なんだ」
「あ、うん、まあ…大学入った時に散々飲み会に連れて行かれたから」
「へぇ、じゃあ今度ベンケイや武臣と飲み会やる時は誘おうかな。男同士じゃ味気ねーし」
「え、武臣くん元気…?」
明司武臣、初代黒龍の副総長だった人だ。
私は殆ど話した事がないけど、当時は軍神と言われてチームのメンバーに称えられた。
「まあ、一時元気なかったけど、最近はマシになってきたかな」
「そっかぁ。何か懐かしい」
当時を思い出しながら、ビールを飲んでいると、ワカくんは「んま!」と言いながらナポリタンを頬張っている。
あの頃を思うと、今こうしてワカくんの家で一緒にご飯を食べているなんて不思議な感じだ。
「、飯作るのマジ上手い」
「ナポリタンなんて簡単だってば」
「いや、パスタの硬さとか絶妙。ほんと美味いよ」
「…あ、ありがとう」
そんな真剣に言われると照れ臭いから、誤魔化すのに私もナポリタンを口に運んだ。
そして食べ終わった頃、ワカくんがいきなり切り出した。
「さー。バイト探してるならウチでバイトしない?」
「え?ジムで…ってこと?」
「そう。最近、忙しくて人手不足なんだよ」
確かに会員も増えてトレーナーも増やすって話をしてたし、今の人数では大変そうだった。
「え、でも私、トレーナーなんて出来ないよ?」
「ああ、違う違う。にやってもらいたいのはジムはジムでも事務仕事」
「え…?事務…?」
「経理とか今まで俺がやってたんだけど、それも大変でさ。それで半分に手伝って欲しいんだよね」
「け、経理…?」
経理とは会社の日々のお金の流れ、取引の流れを記録する役割をもった事務系の事だ。
会社の会計にかかわる仕事で、数字として取引を記録することでお金の管理を行い、最終的には経営者や企業の利害関係者に会社の状況を報告しなくてはならない。
「、前に経理はある程度は出来るって言ってたろ。だから良ければバイトしてくれないかな」
「い、いいですけど…」
「大学が終わって空いてる時間にやってくれて構わないからさ。あ、ちゃんとバイト代は弾むし」
「え、でも…いいんですか?私で」
「もちろん。信用出来る人に頼みたいから。あ、あとさ」
ワカくんは私の方に身を乗り出し「部屋探しの件だけど」と言ってニヤリと笑った。
「さっきも話したようにイヌピー出てったから、その部屋空いてんだよね」
「…え?」
「ってことで、そこに住まねぇ?もちろん家賃はタダでいーよ」
「えぇ?!タ、タダって…」
「あーでもその代わりといっちゃアレだけど…」
とワカくんはキッチンの方を指差し「家の事とか簡単にやってくれるとすげー助かる」と言ってニッコリ微笑んだ。
あのワカくんがこんなに笑うなんて、本当に珍しいと驚いたけど、そんな事を考えている場合ではなかった。
言われた事を頭の中で整理していくと、ワカくんのジムでバイトをして、ワカくんの家の部屋を借りれる。しかも家賃タダ。家事をするだけでいい。
こんな好条件があっていいのかってくらい、私にとっては有難い申し出だ。
まず大学の近くに住めて、その近くで仕事が出来るのだ。
ただ一つ問題なのは…
「え、えっと…それってワカくんと一緒に…住む、という事だよね…?」
「まあ…そうなるな。あ、でも部屋のドアはちゃんと鍵がかかるし安心していいよ」
「……あ、安心って…」
少しドキっとしつつ、そういう心配をしているわけではない。
何といっても今牛若狭という男は昔も今も女性にかなりモテる人なのだ。
そんな人が私みたいな年下の女を相手にするはずがないし、そもそも私は彼に妹くらいにしか思われてない。
それに今は私もワカくんの事をお兄さん的な存在だと思っている。
でも実際に血が繋がっているわけじゃない男の人と住む、というのは私も初めてで、多少は考えてしまうのは当然だ。
だいたいお母さんにどう言えばいいのか分からない。
でも、この好条件には凄く惹かれる。いや、望み通りの立地と仕事。
「?やっぱ無理?」
私が脳内でアレコレ考えていると、困っていると勘違いをしたのか、ワカくんは悲しげな顔で私の顔を覗き込んで来た。
あまりその綺麗な顔を近づけないで欲しい。眩しすぎる。
「あ、あの無理とかじゃなくて……お母さんにどう説明しようかと…」
「え、じゃあ、いいってこと?」
一瞬ワカくんの表情が明るくなる。そんな嬉しそうな顔を見てしまった日には―――。
断る理由が見つからなかった。
「私で良ければ…宜しくお願いします」
そう言って頭を下げた時、今日一番の笑顔をワカくんは見せてくれた。
新しい事を決める時はいつだって、心臓がドキドキするものだ。
始まりの名を知られぬよう
だいたい2006年辺りのワカです。
ワカがボクシングジムをウチのジムと言ってる描写(26巻)があったので適当に創作して勝手にオーナーにしてみました笑