よくガキの頃に世間で言う所の"ヤンチャ"をしてた奴が、大人になってから「昔は良かった」なんて口にるすが、俺はそんな事を言うつもりはない。
今もそれなりに楽しいし、好きな事を仕事に出来て、生活だって昔に比べたらかなり安定しているから俺的にはかなり満足している。
たまに昔の仲間と車でドライブしたり、酔い潰れるまで飲んだりして、未だに楽しくツルんでもいる。
ただ、それでも日々の生活の中で、不意に過去のキラキラしていた時間を思いだす瞬間はある。
それは道を歩いている時に近くを通ったバイクのエンジン音や、排気音、オイルといった匂いだったり。
記憶を呼び覚ますものに触れた時、過去の様々な思い出が頭に浮かぶ。
一晩中、色んなヤツと殴りあっては、体のあちこちに傷を作って、血を流して、でも仲間と笑いあって、またバイクを走らせる。
可愛い子がいれば声をかけて、いくつか恋愛ってやつもしてきた。
ああいうのを"青春"と呼べるのかは分からないけど、今思えばあの時の俺は確かに青春してたんだろうなと思う。
時々思い出すガキだった頃の自分や仲間との楽しかった時間。
でもそれだけで、俺には十分だった。
なのにある日突然、俺の"青春"時代を知る一人の女の子が突然目の前に現れた時、煌いていた時間に一瞬で引き戻されたような気がした。
それはタイムカプセルを開けた時のような感覚に近かったのかもしれない。
その子の顔を見てすぐに名前が頭に浮かんだ。―――。
あの頃、無邪気な笑顔を惜しみなく俺に向けてくれてた女の子。
当時は髪もかなり白に近いブロンドで、メイクや服装もそれなりに派手にしていた気がする。
でも今は明るめだった髪も黒に戻していて、顎までのボブだった髪が腰まで伸びていた。
メイクもスッピンに近いほど薄いもので、服装も今時の大学生といった感じでお洒落な女の子といった印象だ。
ベンケイじゃないけど、すっかり大人の美人女子大生ってやつになっていた。
でも一目で彼女だと気づいた。一度だけ、素顔を見た事があったからかもしれない。
クソな事をしようとしていた集団に彼女が拉致されそうになったあの時。
俺が運よく通りかかって助けた後で、散々泣きじゃくっていた彼女の派手なメイクがすっかり落ちてしまっていたから。
そこまで女の子に泣かれた事もなかった俺は、どうしたらいいのか分からずに、まずはバイクに乗せてあげた。
俺自身、むしゃくしゃした時にバイクを飛ばせば気分がスッキリするからだ。
女の子に効果があるのかは分からなかったが、彼女は意外と楽しんでくれたようで、最後は可愛らしい笑顔でお礼を言ってくれたのは今でも覚えている。
それからは見かけるたびに「元気?」と声をかけるようになった。
あの事がトラウマになっていないか様子を伺っていたのもある。
でも彼女は比較的逞しかったようで、俺が声をかけるたび照れ臭そうな笑顔で返してくれるのを見て、ホっとした記憶がある。
そんな彼女との交流も、黒龍を解散してからはなくなった。
俺も心の拠り所にしていたチームがなくなり、今後の事を考えるのに忙しくて、黒龍にいた頃の事はあまり思い出す事がなくなっていった気がする。
だからジムに来た彼女と再会するまでは、その子の事も忘れたと思ってた。
だから一目で気づいた時は俺自身、ちょっとだけ驚いた。
まさにタイムカプセルの中に懐かしい写真を見つけた時のような、そんな感覚だった。
「―――はあ?タイムカプセルぅ?んなもん埋めたっけか?」
何となく話したら、ベンケイがアホ面でそんな事を言って来た。
「…いや、埋めてねぇけど。感覚の話ね、感覚の」
「何だ、そのモヤっとした感じは。もっと明確に言え」
グラスビールを一気に呷ったベンケイはゲフっと言いながら(オッサンか)ビールの追加を注文している。
コイツに話したのが間違いだった、と一瞬後悔していると、ベンケイが「それより…」とカウンターテーブルに肘をついて身を乗り出して来た。
「マジでちゃんと住むのか?ワカ」
「だからベンケイに引っ越しの手伝い頼んでるんだろ」
「はあ…何がどうなってそうなったんだ?」
「それ説明したろ。がバイトと部屋を探してて、条件に合うのが俺んとこだっただけ」
「だからってオマエ…彼女でもない女と住むって大丈夫なのか、それ」
昔は"赤壁"なんて呼ばれていた荒師慶三が、人並みに道徳でも説くつもりかよ、と失笑が出る。
「大丈夫も何もは俺のこと親切な兄貴くらいにしか思ってねぇよ」
「いや~俺が覚えている限り、ちゃんは昔オマエに相当お熱だったろうよ」
「お熱って…何か表現がオッサン臭いよな、ベンケイは」
「あ?俺はまだ25だっつーの」
「イヌピーに最初40歳と思われてたけどな」
「ぐ…っ!あのチビイヌ、マジで失礼なガキだったぜ」
ベンケイはその時の事を思い出したのか、バーテンに出されたグラスビールをコーラでも飲んでるかの如く喉に流し込んでいる。
そもそもこの店は一気飲みするような場所でもないってのに。
近場がいいと思って、ウチのマンションの一階に入っているプールバーにしたが、これじゃ居酒屋にでも行った方が良かったかと内心苦笑した。
「んな事より、ちゃんも了承済みなんだな?」
「ああ。彼女もマジで困ってるみたいだったから、バイトとかもすぐにウチで頼みたかったんだけどさ。あんまり出しゃばると彼氏に悪いかなと遠慮してたんだよ。でも別れたって言うから、なら頼んでみようかなと」
「まあバイトは分かるとしても、何でオマエんとこに住む話になんだよ」
「の大学から近いし彼女の希望条件、俺の家がバッチリ合ってたから?」
「は?それだけ?」
「後はちょっと家事とかやってくれねぇかな?っていう少しの願望はあった。、料理得意みたいだし」
「ああ…ワカは仕事で疲れて帰ったら何も作る気しなくなるって言ってたもんな。だからこの前俺が作りに行ったんだし」
「そうそう。最近外食やらデリバリーとかばっかで、さすがに飽きたわ。手料理に飢えてるのかも」
溜息交じりの俺を見て、ベンケイは鼻で笑っている。でもだいたいの男の一人暮らしなんてそんなもんだ。
グラスに残ったカクテルを飲み干し、俺はまた「同じ物を」とバーテンに注文した。
「さっきからワカが飲んでる酸っぱそうなの何だそりゃ」
「カイピリーニャ」
「カイピ…?」
「カシャッサベースのカクテルだよ。サッパリしてて熱い今時期はこれ飲みたくなるんだよな。ベンケイも飲む?」
「カ…カシ…日本語喋れ、テメェ」
「……あ、一つでいいです」
バーテンが気を利かして待っていてくれたが、自分の分だけ注文する。
彼の肩がかすかに震えているのは気のせいじゃないはずだ。
昔は大勢でワイワイ言いながらビール飲むだけで満足だったけど、大人になるとこういう空間で静かにカクテルを飲むのも楽しみの一つになった。
変われば変わるもんだな、と思う。まあベンケイは相変わらずジョッキ命なんだろうけど。
「で、明後日だっけ?引っ越し」
「うん。が友達の部屋をシェアするって言っただけで、母親がすぐOKしてくれたらしくて」
「は?それだけで?相手がワカだって知ってんのか」
「まさか。女の子だと思ってるだろ、多分。あと最初から借りると敷金礼金かかるだろ?それがないって説明したら大喜びでOKしてくれたって、さっき電話来た」
「こりゃバレたら大変だぞ…?どーすんだよ」
「別に悪い事してるわけじゃねえし」
「そうだけど、他人の男と女が同居って色々問題あるだろーが。それともオマエ、ちゃんのことマジで妹みたいに思ってんのか?」
ベンケイにググっと迫られ、俺は思わずのけ反った。
古い付き合いではあるが、やはり至近距離で顔を合わせると、このデカいオッサン顔は迫力がありすぎる。
昔は散々殴り合った仲だけど、今思えばこんな"ぬりかべ"みたいな男とよく凝りもせずやりあったもんだ、と自分で呆れる。
ベンケイを殴った時の感触が岩みたいだった事を思い出し、思わず吹き出しそうになった。
「何ニヤニヤしてんだよ、気持ちわりぃ」
「い、いや…ちょっと思い出して」
「…何を?」
「別に…で、何だっけ。ああ、を妹みたいにってやつだっけ」
「ああ。少なくともちゃん、昔はオマエに憧れてたろ。今はどうなんだよ、その辺は。もうかれこれ二年はジムに通ってんだろ」
「は俺のこと兄貴みたいにしか思ってねぇよ。ガキの頃はチームのヤツなんて皆カッコよく見えてただけだろうし」
あの頃、俺達の周りに群がって来てた女の子達は、だいたいがそうだった。
特攻服来て、颯爽とバイク飛ばしてるだけで、不良に憧れる思春期の彼女たちからしたらキラキラした世界の住人に見えてたのかもしれない。
「ふーん。で、ワカは?」
「俺?」
「オマエ、ちょうど二年前に女と別れてからサッパリじゃねーか。前は別れたらすぐ次の女ちゃっかり見つけて途切れたことなかったくせに」
「あーまあ…寂しがり屋だからね、俺」
「…ぶははっ。オマエが寂しがり屋ぁ?なら尚更この二年、何で女作らなかったんだよ。散々告られてたんだろ?会員様から」
会員様と訊いて俺は僅かに顔をしかめた。
確かにそういう客がいないわけじゃないけど、あの場所は大切な俺の仕事場だから余計にその気にならない。
「お客様に手ぇ出すわけにいかないだろ。そもそも今の俺は簡単に女を好きにならねぇの。もうガキじゃねーんだから」
ガキの頃は付き合うなら可愛ければ何でも良くて、でも別れる時は必ずと言っていいほどに中身は関係してくる。
最初から中身なんてお互いに期待すらしてないんだから途中で壊れるのは当然だった。
あの頃の俺は束縛されるのもするのも嫌だったから、そういう理由でケンカ別れして、でもすぐに他の子が傍に寄って来る。
今、思えば好きだの何だの口では言っても、別れたらすぐ忘れるくらいの付き合いだった。
セックスだって、思春期特有の熱を吐き出したくて、相手に思い入れがあったわけでもない。
十代なんて生意気言ったところで、何一つ責任なんか取れない年齢なのにやってる事は大人のそれだった。
でも今はもうそういう恋愛ごっこなんかする歳でもなければ、好きでもない相手の為に時間を割いてまでデートをする気も起こらない。
時々「彼女にしてくれなくていいから」なんて言って来る子もいるけど、いつも断ってしまう。
元々器用じゃないから、体だけの不確かな関係を築けるほど、気軽に誰かの誘いに乗れるほど、軽くもなれない。
ベンケイにそんなような事を漏らしたら、鼻で笑われた。
「ま、確かにガキの頃とは違うよな。つーかオマエが相変わらずモテてんのはムカつくけど」
「好きでもない子にいくらモテてもね」
「あ?オマエ、そりゃ自慢か?」
「自慢じゃなくて俺の本音だよ」
変な所で嫉妬をしてくるベンケイに苦笑しながらカクテルを飲んでいると、左頬に痛いほどの視線が突き刺さる。
横目で見れば、ベンケイが眉間に皺を寄せて軽く首を傾げていた。
「…何だよ」
「いや…何となく今のワカの発言が好きな子にはモテないって言ってるように聞こえてよ」
「………」
ベンケイのクセになかなか鋭いのは嫌になる。
「気のせいだろ?」
「…そうか?まあ…ワカが好きな女を落とせないなんてあるわけねーか」
「……俺はそんな器用じゃねぇけど」
「あ?オマエ、見つめるだけで女の子落としてたろーよ!知ってんだぞ?」
「だから、いつの話、それ」
再び絡んで来たベンケイに辟易しながら、ふとの事を考える。
あの殺風景な部屋に、彼女の明るい笑い声が響くのも、もうすぐだ。
そんな事を想像すると、ガラにもなく早く時間が過ぎて欲しい、なんて事を思ってしまった。



「え、住むとこ見つかったって、ジムのオーナーの家なの?!」
「う、うん、まあ…」
彼女の綺麗にカールされた長いまつ毛が驚きの表情で何度も瞬きをする瞳の動きに連動してふわふわ揺れるのを見ながら、私は苦笑いを零した。
ワカの家に住むと決めた次の日、早速大学の友人である祐奈にアリバイ工作を頼んだのだけど、まあ予想通りの反応ではある。
母には夕べのうちに話して許可を取ってある。
そして一緒に住む子って誰?と訊かれ、よく話題で出していた祐奈の名前を借りてしまったのだ。
「お願い。祐奈と部屋をシェアする事にしておいて」
そんな事を頼めば当然「じゃあ実際は誰と住むのよ?!新しい彼氏?!」なんて問い詰められる羽目になり、仕方なく本当の事を話した。
「嘘…昔馴染みだって前に話してた人でしょ?!遂に付き合ったの?!」
「ち、違う違う!付き合うとかじゃなくて、ただの同居だってば!」
「はあ?同棲じゃなくて?どういう事よ」
祐奈は全部聞くまで帰さないからというように私の腕に自分の腕を絡めて「ちょっとそこでお茶しよ」と大学近くに出来た世界最大のコーヒーチェーン店に入って行く。
そこで暑くてサッパリしたものが飲みたいと祐奈が言うのでコーヒーエイドのレモントニックを注文した。
「はぁー生き返る!今からこんな暑いんじゃ梅雨明け死にそう…」
「ホントだよー。もう髪乾かすのも暑いもん…」
「は長いからね~。あ、で?さっきの続き、教えてよ」
散々暑いを連呼した後で、やっぱり覚えていたのか祐奈が興味津々といった顔で身を乗り出してくる。でもハッキリ言って彼女が期待してるような甘い話は一切ないのだ。
仕方なく昨日あった事をきちんと説明すると、祐奈は「え、家賃もタダ?!家事するだけで?」と更に驚いた。
「それちょっと美味しすぎじゃない?何か裏があるとしか思えないんだけど」
「う、裏って…」
「だーっての都合に良すぎだし。ほらよく言うじゃん。美味しい話には裏があるって」
「え、でもワカくんはそんな裏を考えるような人じゃないよ?私がホントに困ってたから―――」
「だったら家賃くらいは取るんじゃない?アンタ、それ家事の中にエッチも入ってるんじゃないの?」
「えっ…ちって、そ、そんなわけないじゃない!ワカくんはそこら辺の男と違うんだから」
とんでもない事をサラリと言われ、頬が熱くなってきた。
そもそもワカくんは私になんか手を出さなくたって、その辺の事に困ったりしないはずだ。
昨日だってジムに来てた殆どの女の子が、ワカくん狙いなのは知っている。
ワカくんがちょっと声をかければ、彼女たちは喜んでついて行くはずだ。
「どう違うのよ。ってば昔憧れてた人だからって美化してない?男なんて皆同じだって」
「美化なんかしてないしワカくんは今でもほんとカッコいいんだよ。モテるんだから私なんかに手を出さなくたって他にいーっぱいその手の事を喜んでさせてくれる人がいるってば」
「ふーん…まあ二年も傍にいて結局何もないんだもんね。じゃあ、ホントに困ってる妹に手を差し伸べたって感じか」
「そうだよ…」
祐奈が納得したように頷いてくれた事で、内心ホっとしながらドリンクを飲む。
今のやり取りで更に体温が上がって来たせいで、レモンの酸味が喉にちょうどいい刺激をくれる。
「だからお願い。お母さんに祐奈と住むって事にしておいて」
「それはいいけど…何?私に連絡してくる感じ?」
「ううん、それはないと思うけど、万が一の場合はって事。お母さん今のとこ信用してるし」
「そっか。まあ、でも大学卒業するまでだっけ?」
「うん。ワカくんがその間に家賃払ったつもりでその分を貯金しとけって言ってくれて。私がお母さんに負担かけたくないって言ったからかも」
「え、何、その人。マジ優しいじゃん」
「だから言ってるでしょ?ワカくんは優しいし大人なの」
そう、ほんと悔しいくらい大人で、二十歳になっても未だに私の事は子ども扱い。
きっと女として見てないから平気で自分の家に住めって言って来たんだと思う。
「じゃあはその人の事どう思ってるの?もう好きじゃないの?今でもカッコいいんでしょ?」
「す、好きって…昔はそう思ったりもしたけど…」
「そんな人が近くにいたら再燃しないわけ?当時の熱ーい想いが」
「あ、熱いっていうか…その辺の事は考えないようにしてきたから」
「え、何でよ」
「何でって…本気で好きになったりしたら…困るから?」
「…え、ちょっと待って。よく分かんないんだけど。何で好きになったら困るのよ」
祐奈は不思議そうな顔で首を傾げている。
確かに意味不明な事を私は言っているのかもしれない。
でも、だって今更ワカくんの事を好きになってしまったら本当に後戻りできない気がするのだ。
だからなるべく男として意識しないように接してきたし、兄のように頼る事でラインを引いて来た気がする。
そうしているうちに自然と付き合えるようになって、何となく今に至るという感じだ。
祐奈にそう説明すると「え、後戻りできないって何。危ない奴なの?やっぱり」と更に首を傾げている。
「そういうんじゃなくて…あるでしょ?ああ、この人を好きになったらダメだっていう防衛本能」
「だから何がダメなの?」
「それは…ほら、絶対に報われないっていうか…。報われないのに好きで好きで仕方なくなりそうで怖いっていうか?」
「あーなるほど。要するに、沼りそうな相手って事か。まあそれだけ好きになっても女として見てくれない相手じゃ確かに不毛よね」
「そう!そうなの。だから私はこの二年、きっちり距離を取って接してきたんだから」
「でもその距離を取ってた人と明日から一緒に住むんでしょ?矛盾してない?」
「だから今は平気だってば。男としては意識してないもん。ワカくんだってきっとそうだよ」
それに憧れの土地に住めて大学からも近くて、バイト先だってそう。
これからは前より自由に生活が出来るのは私の中で今一番大事なのだ。
それもこれも全部ワカくんのおかげだし、その分きちんと経理の仕事をして家の事もやろう、と心に誓った。
「あ、私、そろそろ行かなくちゃ。荷造りまだ少し残ってるから帰ってやらないと。明日の昼にはこっちに引っ越してくるから」
「あ、そうか。って、荷造りそんなすぐ出来るの?」
「持ってくるものって衣類とか靴とか大学のものくらいだもん」
「ああ、テレビとか洗濯機とかいらないもんね。そりゃ楽だわ」
「うん。という事で私は帰るね」
「気を付けて。あ、今度そのワカくん?紹介してよね!いつも話でしか教えてくれないんだから」
「う、うん…そうだね」
「じゃあ、また来週ね」
そう言って手を振って来る祐奈に笑顔で手を振り返し、急いで駅へと向かう。
ボストンバッグやキャリーバッグに詰めるだけ衣類やコスメ、アクセサリー等を詰め終えたから、後は帰って大学で使う物をまとめるだけだ。
「明日は車で迎えに来てくれるって言ってたっけ…。お母さん早番だって言ってたし大丈夫か」
いくら荷物がないといってもバッグが四つとかになれば運べない。
そこでワカくんが自分の車で家まで迎えに来てくれると言ってたのだ。
「ワカくんが車なんて何か変な感じ」
昔は颯爽とバイクにまたがって風を切って走ってた。
あの頃のワカくんはもう見られないのかな、と思うと、少しだけ寂しく感じた。



「ちゃん、ベッドはどっち向き?」
「あ…じゃあ、こっちの壁側に頭を西向きでお願いします」
「はいよー」
さすがはベンケイさん。重たいセミダブルのベッドを軽々と動かしていくのを、私は感心しながら見ていた。
今朝はワカくんの運転する車にベンケイさんもいて驚いた。
引っ越しを手伝えと言われたそうで、でも何も大きな荷物はないのに、と思ったけど、こういう事だったのか。
ワカくんが貸してくれた部屋はかなり広くて、家具付きだから私としては凄く助かるが、好きな位置に動かすのは力的に無理だった。
そこで力持ちのベンケイさんが私の使いたい位置に家具を移動させてくれている。
因みにワカくんの部屋は廊下を挟んで向かい側だそうだ。
「よし、とこんな感じでいいか?」
「はい。わー凄くイイ感じになってる。ベンケイさん、ありがとう」
「いや、これくらい軽いもんだよ。ま、後でワカにビールでも奢ってもらおう」
のん兵衛のベンケイさんはそう言いながらもすでに「喉が渇いた」と言い出した。
そこにワカくんが顔を出す。
「お、イイ感じに女の子の部屋になってる」
「ベンケイさんが全部動かしてくれて」
「さすがチーム一のバカ力」
「バカは余計だ。ああ、あとコレ。ベッドの下に落ちてたぞ」
ベンケイさんはニヤリとしながらワカくんに何か雑誌のようなものを渡している。
それを受けとったワカくんは苦笑しながら「イヌピーのヤツ、忘れていったな」と、それを私に見せた。
「な…何それ…もしかして…」
「そう、そのもしかして」
裸の女性が表紙になっている雑誌は、いわゆるエロ本と呼ばれている類のものだった。
思わず顔が赤くなると、ベンケイさんに笑われてしまった。
「今時こんなもんで赤くなるなんて可愛いなあ、ちゃんは。女子大生って行ったら合コン三昧じゃないんか」
「ご、合コン三昧ってほどしないです。たまに誘われるくらいで…」
「そーなんか?ちゃんは合コンじゃモテそうだなぁ」
「ま、まさか…モテないですってば」
そういう場で声をかけてくる男達はだいたいが軽い付き合いを望んでいるような男ばっかりだ。
たまに人数合わせで付き合わされたりもするけど、合コンに来るような男は何故か一様にして皆、ノリが軽くてつまらない。
「でも女子大生との合コンって響きがいいな。俺も合コン行ってみてーわ」
「ま、またまた…ベンケイさん、あんなに綺麗な彼女さんいるじゃないですか」
ベンケイさんは黒龍時代から付き合っている同じ歳の彼女がいるのは当時から知っていた。
再会した後、何度目かにジムへ顔を出した際、その人と一緒に来たので、まだ付き合ってたんだと凄く驚いた。
お互いに一途なんて羨ましいと思ってしまう。
彼女の話をしたからか、ベンケイさんは照れ臭そうに笑っている。
「ちゃんは?」
「…え?」
「彼氏と別れたんだって?」
「あ…ワカくん、話したんだ…」
ジロっと睨むと、彼は頭をかきつつ「わりぃ…」と苦笑いを浮かべた。
別にバレてもどうって事はないけど、改めて言われると少し恥ずかしい。
「せっかく夏だってのに独り身じゃ寂しいだろ」
「全然。元々半年も会ってなかったし。今年の夏は遊んでないでガンガン働きます」
「ああ、ワカんとこで働くんだろ?コキ使われそうだな」
「人聞きの悪い。ウチはホワイトだから定時で上がらせるよ」
ワカくんは笑いながら「ま、でも最初の内は仕事覚えるの頑張ってもらうけど」と言って意味深な笑みを浮かべた。
経理と言ってもそんなに簡単ではないし、ミスしないようキッチリワカくんのやり方を覚えなくてはならない。
そこは「頑張ります、社長」と言って頭を下げた。
「社長って…ガラじゃねぇなあ、ワカ」
「うるせぇな。ああ、それより模様替えは終わったんだろ?そろそろ飯でも行くか?もう夕方だし」
「あーそういや腹減ったな…」
ふと外を見れば太陽が沈みかけている。
もうそんな時間なんだ、と思いながら、確かに少しお腹が空いて来た。
「でも出るの面倒だしデリバリーでいいだろ。ワカ、寿司でも頼めよ」
「引っ越しには蕎麦じゃねえの」
「蕎麦で酒が飲めるか」
「はいはい。は?寿司でもいい?」
「え?あ…うん。お寿司久しぶり」
「おっけ、じゃあ寿司は頼んでおくからベンケイ、コンビニでビール買ってきて。冷蔵庫見たら切らしてたから」
「マジか。あーじゃあ近くのコンビニで適当に買って来るわ。ちゃん、何か欲しいもんある?」
「いえ、ないです」
「そ、じゃあ行って来る」
ベンケイさんは買い出しに行き、ワカくんはデリバリーの注文の為にリビングへ歩いて行った。
その間に私はすぐ使う物だけ出してしまおうと、歯磨きセットやお風呂で使うシャンプーの類をバッグから出していく。
「えっと…お風呂場ってコッチかな…」
この前は住む事になる部屋を見せてもらっただけで、風呂場までは見ていない。
多分この辺だろうと勘を頼りにドアを開けると、そこに洗面台が見えた。
「あ、やっぱここだ」
脱衣室に入り、タオル類は勝手に置いていいの迷いつつ、お風呂場を開ける。
「うわ、広い…っていうかカッコいい…」
黒っぽいタイル調の壁で、部屋同様にモダンで大人な雰囲気の風呂場だ。
ジャグジー付きの湯船も大きくて私が思い切り足を伸ばしてもあまりそうだな、と思う。
「あ、シャンプー同じだ」
置いてある物が私が使っているのと同じで思わず手に取った。
確かにワカくんくらいまで伸ばしてると、女性が使うようなものがいいのかもしれない。
特にワカくんは猫っ毛だと話してた気がする。
「っていうかお風呂場も綺麗すぎる…」
きっちり物が並べて置かれてるのを見て、思わず感心してしまった。
水アカ一つなくてピカピカのお風呂場は壮観だ。窓際には小さなサボテンが並べられてるのも可愛い。
ついでにワカくんがお風呂掃除をしてるとこが想像できなくて、軽く吹き出した。
その時、脱衣室の方から「?ここにいんの?」とワカくんの声がした。
「うん。あ、シャンプーとか置いてもいい?」
「ああ、もちろん。適当に置いて。タオルとかはここの棚の半分空けてあるし」
「あ、ありがとう」
それを聞いてシャンプーやトリートメント、ボディソープを同じように綺麗に並べて行く。
「あ、それ俺と同じシャンプーだ」
「ね?これ柔らかい髪に合うよね」
「そうそう。匂いもいいし気に入って、この前これに替えたとこ。の髪も猫っ毛だもんな」
ワカくんがそう言って少し屈むと、私の髪をそっと手に取った。
そうする事で至近距離にワカくんの顔が見えて、思わず見とれてしまう。
ワカくんは肌もツルツルで、こうして間近で見ると女の人みたいに綺麗だと思った。
その頬に思わず手を伸ばして触れると、やっぱりスベスベもっちりだったし羨ましいと思ってしまう。
でもワカくんは触られた事で少し驚いたように身を引いた。
「…何だよ」
「え?あ…ごめん。だってワカくんの肌ってスベスベだし、こうして見ると女の人みたいに綺麗なんだもん。ワカくん、美人過ぎるよ」
「……美人って、俺、男だけど」
「そうだけどワカくん、その辺の女の子より美人だよ?」
「……嬉しくない」
ワカくんは僅かに目を細めると、プイっと顔を反らしてしまった。
「え、でも私羨ましいのに。お肌だってスベスベ―――」
そう言って手を伸ばして頬に触れようとした手を不意に掴まれた。
「俺が女に見えるワケ?」
「…え?そ、そういうワケじゃないけど…」
急に不機嫌そうな顔になったワカくんを見て、私は少し戸惑いながら首を振った。
誉めてるつもりだったけど、何か地雷でも踏んだんだろうか。
焦った私はとりあえず謝ろうと思った。
「ワカくん、ごめ―――」
でも、その言葉は最後まで言えずに、口内で消えていった。
ワカくんが身を屈めて、顔を近づけてそして、私の唇を塞いだからだ。
「―――ッ?」
突然の事で何が起こったのか、分からなかった。
ただ唇に柔らかいものが押し付けられて、驚いた私は大きく目を見開いて、ただワカくんの目が伏せられた事でハッキリと見える長くて綺麗なまつ毛をただ見つめる事しか出来ない。
頭の中で、何で?とか嘘、とか、そんな言葉が浮かんでは消えていく。
「…んん…っ」
重なった唇が熱い。
僅かにワカくんの体を押そうとしてもビクともしない。
心臓に血液が集中して、ドクドクと激しく脈を打つのは分かった。
「……っ」
ほんの数秒だったのかもしれないけど、私には凄く長い時間のように思えた口付けが、ゆっくりと終わりを告げた時、呼吸が少しだけ乱れていた。
唇を離したワカくんは、これまで見せた事のないような表情で、私を射抜くように見つめている。
「ワ…ワカく―――」
「これで…男として見れる?」
ワカくんは何とも綺麗な笑みを浮かべて一言、呟いた―――。