朝、ゆっくり音を立てないようにドアを開けて、私はそっと廊下の様子を伺った。
特にリビングからは物音もしないし、向かいの部屋からもワカくんが起きているような気配はしてこない。

(よし…今のうちに…)

足音を忍ばせながら、まずはバスルームに向かい、洗面台で顔を洗い歯を磨く。
その後に再び足音を忍ばせリビングに行った私は、廊下と繋がるドアを閉じてホっと息を吐いた。
何で朝からこんなに緊張しなければいけないんだと思ったけど、まずは約束の一つである朝ご飯の用意をしなくては。
キッチンへ向かい簡単に手を洗った後で冷蔵庫から卵やベーコン、サラダ用の野菜を出していく。昨日の今日でご飯は炊いてないから今朝はパンでいい、という夕べのワカくんの言葉を思い出した。

"明日は軽めのパン食でいいからね"

寝る前、ワカくんはそう言いながら「お休みー」と部屋に入って行った。
まるで私にキスした事すら忘れたみたいに。

"これで…男として見れる?"

私にキスをした後、ワカくんはそう言った。
どういう意味なのか聞こうとしたけど、文字通りパニくった私の思考回路は上手く状況が整理できずに、ただ唖然とした顔でワカくんを見つめる事しか出来なくて。
そうこうしていたら買い物を終えたベンケイさんが戻って来た。

「ワカー寿司頼んだ?」
「ああ、30分くらいで届くって」

ワカくんは何事もなかったかのように応えると、リビングの方へ歩いて行った。
私はというと暫くその場から動けなくて、ベンケイさんが「ちゃん、何してんだ?」と呼びに来るまでの間、フリーズしていたらしい。
その後に始まった飲み会でも、ワカくんはずっと普段通りに振舞っていた。
ベンケイさんと昔話に花を咲かせて、チーム内で腕相撲は誰が一番強かった、とかバイクの扱いは誰が一番だとか、そんな男特有の話で盛り上がっていて。
たまに私にも話を振って来たりもしたけど、それも至って普通だった。
とてもあんなキスを仕掛けて来た人と同じ人には見えなかった。
結局、飲み食いして酔ったベンケイさんが帰るまで、ワカくんはいつも通りの態度だったのだ。

ベンケイさんが帰った後で、二人きりになってもそれは変わらず。
淡々と片づけをして、その間も「、明日は起きれそう?」なんて普通に話しかけて来た。
私はどう接していいのか困っていたのに、ワカくんがあまりに普通だから、さっきのキスは白昼夢だったのかと思ったくらいだ。
二人で片付け終わった後も、さっきの台詞を言ってワカくんは自分の部屋へと入って行った。

「どういう…つもりだったんだろ」

サラダを作り終え、次に薄い卵焼き、ベーコンを焼きながらふと呟く。
女の子より美人、と形容したのが気に入らなかったのかな。
私的には誉め言葉のつもりでも、ワカくんは男なんだし気分は良くなかったのかも。
でもだからって何でキス―――?
今まで友達という関係を壊しかねないようなことなんて一度もしてこなかったのに。
それ以前にワカくんは私のことを女として扱ってくれたこともなかったはずなのに。

頭の中で謎解きをしながらも、パンにマヨネーズとマスタードを塗り、薄い卵焼きとベーコン、ツナを乗せたらもう一枚のパンで挟む。
熱したフラインパンでそれを焼けば、お手軽ホットサンドの出来上がりだ。
はみ出さないよう切り取った卵焼きを一つ食べながら、後はコーヒーを淹れるだけだと思っていると、廊下の方からドアの開く音がしてその後はバスルームから水を使う音が聞こえて来た。
ワカくんが起きて来たと思うと、また心臓がうるさく鳴り始める。
ここで私が変に意識したら、これから始まる同居に支障が出るかもしれない。
平常心を保たなければ、と心に決めた。
昨日、一瞬だけ一緒に住まない方がいいのかも、と思ったけど、現実問題で言えば引っ越したばかりで今更家には戻れない。

「んーコーヒーのいい匂い」
「…お、おはよう。ワカくん」

ワカくんも顔を洗い歯を磨いたのか、寝起きとは思えないほどスッキリした顔でリビングにやって来た。
白いロンTとパンツのセットアップは少し大きめで、寝間着代わりにしているようだ。
完全なプライベート姿のワカくんを見るのは私も初めてだから、やけに鼓動がうるさくなる。

「おはよ、。よく眠れた?」
「え、あ…うん、まあ」
「あ、ホットサンドうまそー♡」
「…ひゃ」

不意にワカくんの手が私の方に伸びて来て、変な声が出た。
でも彼の長くて綺麗な指が、目の前の切り取った卵焼きをつまんでいるのを見て、激しく勘違いした自分に顔が熱くなる。

「…何?」
「な、何でもない」

慌てて身を引いた私を見て、ワカくんが不思議そうな顔で見下ろしてくる。
その顔を見ていたら私だけ意識してるみたいで、だんだん悔しくなって来た。

(こうなったら私だって普通に接してやるんだから…!)

心の中で誓った私は、出来上がったコーヒーをカップに注いで、ホットサンドと一緒にカウンターテーブルへと運んだ。
スツールに腰をかけたワカくんが嬉しそうに「ありがとう」と微笑む。
あまりに優しい笑顔を見せるから、また心臓におかしな音が生まれたけど、私は平気なふりをして「ドレッシングどれがいい?」と尋ねた。

「ドレッシング…?んなもんウチにあったっけ…」
「目の前に並んでる瓶がドレッシングなの。右がレモンハーブと青じそで、真ん中がキャンティドレッシング、左が中華ドレッシング」
「え…あ、この香水みたいな瓶?こんな可愛いドレッシング売ってんの?」
「あ、ドレッシングは私が作ったの。色々な味を使いたいけど買うとかさばるでしょ?だから―――」
「えっ!、ドレッシング作れんの?すっげーじゃん」

ワカくんは驚いた様子で目の前に並んでいる小瓶を持ち上げて見ている。

「意外と簡単なんだよ?好きに作れるから便利で今は買わずに作っちゃうの」
「へぇ…、いい奥さんなるよ、絶対」
「……え、奥…さん?」

ワカくんは何気なく言った言葉だろうけど、今の私にしてみれば意識してしまう一言だった。
でも意識しないで普通に接すると誓ったばかりなのだ。
ここでときめいてはいけない。

「美味い…」

ワカくんは悩みながらも最初は慣れ親しんだ中華ドレッシングをかけたようだ。
一口食べて感激したように私を見た。

「すっげー美味い、これ」
「ほんと?なら良かった。私はキャンティにしよ」
「…さっき思ったけど、キャンティって何?」
「ああ、これはキャンティってイタリアンレストランのドレッシングを再現したやつなの。美味しいから今度食べてみて」

私の説明を聞いたワカくんは感心したように頷いた。

「へぇ…、マジで料理好きなんだな」
「好きっていうか、ウチは母ひとり子ひとりで、お母さんが仕事でいないことも多かったし必然的に私が家事をやるようになっただけなの」
「そっか…。はほんと凄いと思うよ、俺は」

ワカくんはふと笑みを浮かべて、私の頭へその綺麗な手をポンと置いた。
たったそれだけのことなのに、さっき決意したものが簡単に崩れてしまいそうになる。

「す…凄くなんかないよ。料理なんて誰でもやろうと思えばやれることだから」
「いや、そのやろうと思えるが凄いんだよ。俺なんか全然できねーし、やろうとか思わねぇもん」
「ワカくん…器用だから料理だって覚えたらすぐ出来そうなのにね」

ふと、頭から離れていくワカくんの手を見て、少し寂しく感じた自分の気持ちを打ち消しながらもそう言えば、ワカくんは驚いたように目を丸くした。

「え、俺、器用そうに見える?」
「手が…」
「え?」
「ワカくん、手が綺麗だから。指も長いし」
「…指?」
「ほ、ほら。指が長い人は器用って言うでしょ?ピアノが上手い人とか」

ついまた"綺麗"という言葉を口にしてしまったことで、慌てて説明する。
昨日の今日ではそのワードを言ってはいけない気がしたから。
でもワカくんは気にする様子でもなく「俺、ピアノは弾けねーけど」と笑ってくれた。

「大好きなバイクすらいじれねーから真ちゃんに任せっきりだったし」
「あ…ワカくんのザリ…」
「お、何で知ってんの?俺のバイクの愛称」
「えっ?あ、えっと…前に…先輩に聞いたから」

つい口にしてしまったことが恥ずかしくて笑って誤魔化した。
ワカくんがいつも乗ってた愛機"GSX400E"の事を皆がザリと呼んでいて、当時、先輩に教えてもらったことがある。
真っ赤なガソリンタンクやフォルムが、まさかのザリガニを彷彿とさせたことが由来らしい。

「そっか。最近乗ってなかったけど、思い出すと乗りたくなんだよなぁ」

ワカくんは懐かしそうに笑っていて。
あの赤いバイクに乗ってるワカくんを、私ももう一度、見たいと思ってしまった。
風を切って、特攻服をなびかせて、バイクを飛ばしていた黒龍の特攻隊長は、記憶の奥に、今も大切にしまったまま。





  




「ひゃー遅くなっちゃった…!祐奈ってば話が終わらないんだもん…」

大学からの帰りに祐奈に捕まり、引っ越し初日はどうだった?と訊かれて話してる内に時間が経ってしまった。
バイト初日から遅くなっては申し訳ないと、私は必死に走っていた。
大学からワカくんのジムが近くて助かったと思いつつ、腕時計を確認する。
午後四時。本当ならバイト初日ということも考えると三時には着いていたかったのだ。

(ワカくんは時間は決めずに大学が終わった後でいい、なんて言ってくれてたけど、やっぱり働く以上はルーズなことは出来ないもんね)

立ち話じゃなく、祐奈には後で電話すると言えば良かったかな、とふと思う。
でも祐奈は興味津々でワカくんとのことを訊いてきた。
一瞬、キスされたことを相談しようかとも思ったけど、そうなればまたアレコレ言われそうなのでやめておいた。
ただでさえ「家賃タダなんて、家事の中にエッチも含まれてるんじゃない?」なんて邪推してた祐奈のことだ。
ワカくんにキスされたなんて話したら、絶対に大騒ぎするに違いない。
それに私だって何でワカくんがあんなことをしてきたのか未だに分からないのだから、話そうにも気持ちが整理出来ていなかった。

(今朝も普通だったしな…。あの後も大学行くのに家を出る時、行ってらっしゃい、なんて笑顔で見送ってくれたし…)

だから余計聞くに聞けないという困った状況だったが、このまま前のように接することが出来るなら、それはそれで助かると思った。

(でも…ワカくんにとったらキスなんて何でもないことだったのかな…。私はあんなに動揺したっていうのに…)

意識しないように、と誓ったところで、どうしてもモヤモヤは残る。
理性と感情から生みだされている矛盾に、私は戸惑っていた。
意識せず前のような関係でいたい、と思っている反面、ワカくんの本心を知りたい、なんて欲が少しずつ大きくなってきている気がした。
ダメなんだ。ワカくんだけは。一番、踏み込んではいけない人なんだ。
ただ純粋に憧れて、恋しさを募らせていた昔と今とでは、歳も状況も全く違うから。
今の状態で本気になってしまえば、私は絶対に後悔する。ツラい思いをするだけだ。
夜空に見える数年前に光っていた星のように、今もその残像のような想いが燻ってしまっただけのこと。
今あるものと錯覚してはいけない想いだ。

「――ごめんなさい。遅くなりました」

慌ててジムのドアを開けると、そこにはいつもいる受付の田口さんがいた。

「あれ、ちゃん。早かったね」
「え…?」
「今日からバイトだよな。いや、が来るのは五時過ぎくらいじゃないかって若狭さん言ってたから」

田口さんの言葉に、私は思い切り息を吐き出した。
ワカくんの中ではそれくらいの時間を予想してくれてたのか、と安堵する。

「えっと、ワカくんは…」
「ああ、若狭さんなら奥のストレッチスペースにいる。例の彼女が来てんだ」
「例の…って…あ、ワカくんの熱狂的なファンのOLさん?」
「そうそう。今日もバッチリメイクで露出したウエア着て若狭さんにベタベタ」

田口さんは苦笑気味に肩を竦めた。
その女性、確か小野田レミとかいうOLは、鍛えるためにジムに通ってるわけではなく、思い切りワカくん狙いの女性だ。
彼女の父親が日本ボクシングコミッション・東日本地区の会長だとかで、ワカくんのジムもそれに登録している関係もあり、何かのパーティに出席した時に知りあったらしい。
スタイルがいいのに、わざわざワカくんのジムに高い年会費を払って通いだしたのは半年くらい前のことだった。

「そっかぁ…困ったな。初日だしワカくんにここの経理のやり方、説明してもらわないといけないのに…」
「声かけていいんじゃない?別にずっと若狭さんがついてなきゃいけないってワケでもないんだし」
「でもレミさん、邪魔すると凄い顔で睨んで来るんだもん…。前も二人でいる時にワカくんに声かけたら、思い切り顔をしかめられたし…」
「あー…。確かにね…。俺でもそうだから女の子、それも若狭さんと昔から知り合いのちゃんじゃレミさんも嫉妬丸出しになるか」
「もう、笑いごとじゃないですってば…」

ケラケラ笑っている田口さんを睨みつつ、溜息をついた。
でもこのまま待っていても仕方ない。
レミさんは一度来たらジムが終わる頃まで居座るからだ。
普通は二時間ほどでトレーニングは終わるのに、彼女は父親の特権なのか、ジムの迷惑なんておかまいなしだった。

「はあ…仕方ない。ちょっと行ってきます」
「ああ。頑張って!」

田口さんに見送られ、私は足取りも重くジムの奥にあるストレッチスペースへと向かう。
そこはちょっとしたマシンや腹筋用器具、エアロバイクなどが置いてある。
別エリアにあるサンドバッグやリングなどで本格的なトレーニングをする前にそこで軽く体を解したりする場所だ。
人がずっといるわけではないので比較的ワカくんと二人きりになりたい場合、そこはレミさんにとって格好の場所なんだろう。
案の定、そのスペースを覗くと、男性が二人ほどエアロバイクをこいでいるだけで、後はレミさんとワカくんの姿しかなかった。
田口さんが話してた通り、レミさんは胸元が大きく開いたTシャツを着ていて、下には黒のスポーツブラ。
下はトレーニング用の短パンで、その白い太ももを惜しみなく披露している。
彼女の見え見えの誘惑に、私は思い切り半目になってしまった。
その姿でワカくんにボディタッチしまくってる光景は、ハッキリ言って場所をお間違えじゃないですか?と言いたくなる。

(っていうか肩出し過ぎだから!いくらスポーツブラでも見せすぎだし!)

ワカくんにベタベタしているレミさんを見ながら、内心そんな悪態をついてしまう。
私の悪意のこもった視線を感じたのか、ジトっとした目で二人を見ていると、不意にレミさんが私に気づいた。
彼女のその視線でワカくんもこっちへ振り返ると、すぐに笑顔を見せてくれる。

。早かったじゃん」
「うん…」

私の前まで歩いて来たワカくんは「じゃあ早速、教えるから事務所に行こうか」と私の頭に手を乗せた。
そのままレミさんの方へ「俺は他の仕事があるんで、今別のトレーナー呼びます」と声をかける。
レミさんは明らかにムっとした顔で私を睨みつけた。

「他のトレーナーなんかいいわよ。私は若狭くんがいいの。その仕事、早く終わらせて戻って来てくれる?」
「いや…ちょっと時間がかかるし、すみません」

ワカくんがアッサリ断ると、レミさんは目に見えて不機嫌そうな顔をした。

「…何よ。何の仕事?」
「ああ、今日から彼女がバイトで入るんで仕事内容を教えないといけなくて。俺しか分からない内容なんで」
「彼女が…バイト?」

レミさんの鋭い視線が私に向けられる。
元々ワカくんの昔馴染みの私が気に入らない彼女としては、余計に苛立っているようだ。

「…分かったわよ。今日のところは帰るわ」

レミさんはプイっと顔を反らすと、タオルを肩に引っ掛けてロッカーの方へ歩いて行く。
それを見送りながらワカくんも苦笑いを零した。

が来てくれて助かったわ」
「…え?」
「レミさんに散々この後で食事にって誘われて困ってたとこ」

ワカくんはそう言いながら舌をペロっと出して笑っている。

「…モテる男はつらいね」
「冗談言ってないで仕事するよ?」

ワカくんは無造作に私の頭をぐりぐりすると、事務所のある通路へ歩いて行く。
その後をついて行きながら、私は胸の奥に残るモヤモヤしたものを吹き飛ばすかのように仕事モードへ頭を切り替えた。



  




午後9時。仕事もある程度覚えて来た頃、ワカくんに「そろそろ上がっていいよ」と言われて先に帰宅した。

「俺は後片付けやら細かいこと片付けてから帰るから。も疲れてるなら待たないで先に寝てていいから」

帰り際、ワカくんはコッソリそう言ってくれた。
ジムの皆に一緒に住むことまでは話してないらしい。
とりあえず帰宅した私がまずやることは夕飯の用意だ。
まだきちんと買い物に行ってないこともあり、朝同様簡単なものでいいというワカくんの言葉に甘えて、今ある食材でグラタンとスープを作っておく。
牛乳、バター、コンソメ、片栗粉でホワイトソースを作り、ベンケイさんが中華で使った冷凍エビやコーン、鶏肉などが余っていたのもあって、エビグラタンが完成。
とろけるチーズはワカくんが好きらしく元々あったのも助かった。

「明日は大学も休みだし買い物に行かないとなあ」

必要な食材などをメモに書いて財布へ入れておく。
後はワカくんに必要なものや欲しいものを訊けばいい。

「よーし、終わったあ…」

まずは家のことをやり終えて、私はバスルームへ向かった。
メイクを落として一日の汗を流すと、サッパリする。
ジャグジー風呂も入ってみたいけど、ワカくんが真夏は湯船に入る気がしないらしい。
今はお湯もためていないみたいだから今日は諦めてシャワーだけにした。

「はぁ~スッキリした」

パジャマ代わりのタンクトップとショートパンツに着替えると、軽く髪を乾かす。
長い髪は好きだけど夏だけは毎回切りたくなるくらいに暑い。

「あー何か疲れちゃったな…」

夕飯を食べるのにリビングに戻るとソファに座って思い切り伸びをする。
いくら知り合いが多い場所でのバイトでも、経理ともなればミスは出来ないから真剣に取り組んだ結果、頭が疲れた。
久しぶりに脳をフル回転させた気分だ。

(でもワカくん、今までアレを一人でこなしてたのは大変だっただろうな…)

最初は小規模から始めたけど、だんだん会員が多くなって来たことで、さすがにワカくんもキツくなったと話していた。
少しでも役に立てたらいいなと思いながら、体はだんだんと傾き、ソファに吸い込まれて行く。
ずるずると横になってしまったら体が物凄く楽で、私は手足を思い切り伸ばした。

「あぁ…このまま寝れそう…」

夕べはあまり眠れなかったこともあり、私はソファに横になりながらウトウトし始めた。
夕飯を食べなくちゃと思うのに、体が重たく感じて動けない。
元々限界だったようで、こんなとこで寝てたらダメだ、と思った次の瞬間には意識を手放していた。

どれくらいそうしていたのか。数分だったのか数十分だったのかは分からない。
だけど突然、オデコに衝撃が走り、私はふと目を覚ました。

「…いたぃ…」

寝ぼけた頭で軽く目を擦り、今の衝撃が何だったのかと考えながら室内が明るいことを確認する。
天井に見える照明で、今いる場所がリビングだというのは分かった。
そして僅かに体を起こすと、ソファの前にはワカくんが立っている。

「え…ワカ…くん…?お帰…り…」

今、オデコを叩いたのはワカくんだったのか、と理解はしたが、私を見下ろしている彼の顏はどう見ても怒っているようにしか見えない。

「…起きろ、
「…え?」
「こんなとこで、そんな格好で寝んな」

何故ワカくんが怒ってるのか分からなかったが、明らかにさっきまでとは様子が違う。
薄着で寝てたことを咎めてるんだろうか。

「大丈夫だよ…暑いし…風邪なんか引かないってば」
「……はあ…」

ワカくんは額に手を当て、深い溜息を吐いた。
何でこんなに不機嫌なのか、本当に分からない。
さっき事務所で会ってた時は機嫌が良かったのに。

「全然、分かってねーんだな…」
「え、何…?」

もしかして経理の仕事でミスでもあったんだろうか、とそこまで考えていると、ワカくんは僅かに目を細めて怖い顔で私を見下ろした。

「オマエさ、昨日俺に何されたか覚えてる?」
「…え?」

ドクンと鼓動が跳ねて言葉を失う。
何も応えられずにいると、ワカくんは不意に私の肩を掴んでソファに押し倒して来た。

「ちょ、な、何?」
さ…俺のこと、どう思ってんの?」
「……っ?ど、どうって…」

突然そんなことを訊いて来るワカくんに、本気で戸惑った。
何で急にこんなことをするのかも分からない。

「昔馴染み?友達?それとも…兄貴みたい?」
「…そ、それは…お、お兄さんみたいって…思ってる…けど、」
「兄貴ね…。ま…それで終わるつもりでいたんだけど…」
「…ちょ、」

ワカくんは顔を近づけて来ると、私の首筋に軽く唇で触れて来た。
そのくすぐったい感触に思わず首を窄める。

「ちょ、ちょっとワカ…くんっ…ひゃっ」

お腹の辺りから手が滑り込んで来たのを感じて、私は慌てて身を捩った。
それでも力では敵わない。
同時にキスをされた首筋を、今度はペロリと舐められ「…ぁっ」と声が跳ねる。

が鈍すぎてムカつくから……手加減すんのはやめる」
「…っ…?」

ゆっくりと体を起こしたワカくんが、徐に着ていたパーカーを脱ぎだし、ギョっとする。

「な、なな、何で脱ぐの―――?」

と言った瞬間、顏にパーカーが被せられた。

「え…?」
「それ着てろ」

ワカくんはそれだけ言うとバスルームの方へ歩いて行く。
訳が分からない私は慌てて体を起こすと「ワカくん…?」と声をかけた。
ふと足を止めたワカくんは呆れたような視線を私に向けると、

「今度こんなことがあったら次はマジで襲うから」

とだけ言い残し、バスルームへと消えて行った。
その場に取り残された私は、ただ唖然とするしかない。

「……な…何で…?」

今の言葉も、さっきのワカくんの行動も、私の心を揺さぶるには十分すぎたらしい。
顏中から火を噴いてるみたいに頬が火照っている。きっと今の私の顏は真っ赤だと思う。

「…ワカくんの…パーカー」

先ほど投げられたそれを言われた通りに羽織ると、ふんわりワカくんの匂いがした。

「大きい…」

袖が余るほどで全然手が出ないパーカーに苦笑してしまう。
いくら顔がその辺の女性より綺麗でも、やっぱり男の人なんだなと思ってしまった。

(何だろう…私、変だ…。ワカくんのこと考えるとドキドキして…胸が…痛い)

膝に顔をつけて軽く深呼吸をする。
ワカくんと再会してから、自分なりに気を付けて距離を取って、もう平気だと思っていたのに。
お兄さんみたいな存在だと、思えるようになってきていたはずなのに。
まさかワカくんの方から距離を縮めて来るなんて思わなかった。

"手加減すんのはやめる"

あれはどういう意味なの―――?



境界線を引いたのはどっちだ


自信なんてなかった 貴方の気持ちに





"同棲始めます"パロでした笑
若様に迫られたら鼻血出ますよ🤔👈w


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