目の前の俺を―――。

って、どういう意味だったんだろう。
買い物から戻ってからずっと考えてるけど全然分かんない。
私の中の理想と違うって?
そんなことを言われても私の中でワカくんは永遠にワカくんだよ。
元黒龍の特攻隊長で、誰より強くてカッコ良くて。
私の憧れで、今牛若狭は私の初恋の人―――。

ただ五年も経って、あの頃の想いも思い出になって今はもっと身近に感じてはいるし、本当にお兄さんみたいに思ってた…。
なのにワカくんが突然前とは違う顔を見せるから、その辺もよく分かんなくなってる。
いきなりキスしたり、さっきだってあんな…

「あー思い出すな、私…!」

一瞬アイスを食べていた時のことが頭に浮かび、再び心臓に負担がかかった。
あんなに至近距離でワカくんの顔を見たことなんてなくて、未だワカくんの接近には免疫がない私には目の毒だ。

「ダメだ…。ひとりで考えてても悶々とする…」

ベッドから起き上がり、風呂にでも入ってスッキリしようと新しいバスタオルを手に部屋を出る。
リビングからはテレビの音が漏れ聞こえてるから、ワカくんはまだリビングにいるようだ。
今夜はベンケイさんと飲む約束をしてると話してたから時間まで暇つぶしに何か見てるのかもしれない。

(結局、あの後もいつもと変わらずだったなあ…)

意味深な事を言って来たのに私が何も言えないで固まっていたら「暑いし帰るか」なんて言って、その後は相変わらず雑談しかふって来なかった。
結局、どういう意味か訊き損ねて、というより訊くのが怖かったのもあるけど、またいつもの二人に戻ったような感じだ。
ほんとはちゃんとワカくんに確かめた方がいいのは分かってる。
キスされたのに曖昧なままで一緒に住んでるなんて、やっぱり何かおかしい気がする―――

「あれ、も風呂?」
「…ぎゃっ」

バスルームのドアを開けた途端、目の前に上半身裸のワカくんがいて、私は変な声が出てしまった。ワカくんが僅かながら眉間を寄せて目を細めているのは、きっとそのせいだ。

「失礼なヤツ。ぎゃって何だよ」
「ごご、ごめんなさい。え、でもお風呂入る時はお互い声かけるって―――」
も今そのまま入ってきたじゃん」
「……(そ、そうだった)」

なるべくワカくんから視線を外していると、呆れたような溜息が聞こえて来た。

「別に俺は男だし見られて困るような恰好もしてねーけど」
「そ…そうだけど…」

そう、別にワカくんは素っ裸なわけじゃない。ちゃんと下は履いてる。
それに昔は裸の上から特攻服を着てたわけだから、ワカくんの裸を見るのは初めてじゃない。
だけど…と思いつつ、顔を上げたらワカくんの意外にも鍛えられた上半身が視界に飛び込んできて、やっぱり無理!と顔を反らした。

(見れない…全体的に何かエッチな雰囲気で…)

私はワカくんに背中を向けると「終わったら…教えて、次入るから」とバスルームを出て行こうとした。
けどドアノブに手をかけた時、後ろからワカくんの手が伸びて来て目の前のドアを抑えた。

「それ…少しは俺のこと男だって意識してくれてるってことでいい?」
「……っ」

すぐ後ろに立ったワカくんはもう片方の手もドアへ置いて、私を腕の間に閉じ込めるようにしている。背中にハッキリとワカくんの体温を感じ、私の顏が一気に熱くなった。

(そう、なのかな…。再会してからは過去の思い出として封印したはずのに…)

ワカくんは私の事なんて妹くらいにしか思ってない。
そう思ってたし、これからもそうだと思ってた。
だから意識しないように距離を保って来たし、もう平気だと思ったのに。
何でワカくんは急に近づいて来ようとするの?私も、何でこんなにドキドキするの?
私の心をこじ開けないで―――。

「い、意識なんか―――」

してない、そう言おう思って振り向いた時、不意に唇が重なり、言葉は口内へ飲み込まれた。
でもすぐに唇が離れ、至近距離でワカくんと目が合う。

「してない、なんて言うなよ?俺、かなり頑張ってんだから」
「…ワカく……んっ」

―――驚く間もなく。
ワカくんの手が私の頭の後ろへ回されたと思えば、また唇を塞がれ鼓動が大きく鳴った。

「ん…」

自然と後退してしまう身体を止めるように、背中にもう片方の手が回される。
顏から体中の熱が全て放出されてるんじゃないかと思うほどに火照りだし、ワカくんの唇さえ熱くてクラクラしてきた。
お風呂上りのワカくんからはオーガニックハーブシャンプーのいい匂いがしていて、その匂いだけで酔わされてしまいそうだ。
角度を変えて何度も触れ合う唇が恥ずかしくて、今すぐここから走り去ってしまいたいのに、金縛りにあったみたいに身体が動かなくて。
なのに心臓だけはどんどん加速するように早鐘を打ち出し、私はされるがまま、ワカくんの優しいキスを受け止めていた。

その時―――連続してチャイムが鳴り響き、別の意味で肩が跳ねた。
ワカくんはチャイム音に動じる事なく、ゆっくりと唇を離した後で「はあ…ベンケイのヤツ…」と呟き、ガックリと項垂れている。
私は未だ心臓がドキドキしてその場に固まっていたが、再びチャイムが2連続で鳴らされた時、ハッと我に返ってワカくんの濡れた髪にバスタオルをかけた。

「わ、私が出るからワカくんは早く髪乾かして!風邪引いちゃうから」
「え?…ちょ、―――」

ワカくんが何かを言いかけてたけど、私はそのまま脱衣所を飛び出すと、すぐにインターフォンを手に取った。

「は、はい」
『あれ、ちゃん?ワカは?』

モニターにベンケイさんの顏が映り、私はホっと息を吐き出すと「今、髪乾かしてます。オートロック開けるんで上がって下さい」と言いながらロックを解錠した。
すると二分後に今度はドアの前のチャイム音が響き、私はすぐに玄関のドアを開けに行く。
脱衣所からはドライヤーの音がしていた。

「よぉ、ちゃん」
「こ…こんばんは」

いつもの笑顔を見せてくれるベンケイさんにホっとしていると、彼の後ろからひょこっと誰かが顔を出した。

「お久しぶりです」
「…あ!イ…乾くん?」

ベンケイさんと一緒に来たのは、以前ワカくんと一緒に住んでいた乾くんだった。
十代目黒龍にいたけど今は別のチームに入ったと前にワカくんが話していたっけ。

「あ、ワカくん、もうすぐ用意も終わると思うので入って待ってて下さい」
「じゃあ、そうするか。チビイヌ」
「…ベンケイくん、もうガキじゃねーんだからそのあだ名やめてくれる…?」

ベンケイさんの後から入って来た乾くんはムっと口を尖らせつつ、不満を口にしている。
確かに彼はもう"チビイヌ"という年齢ではなかった。
初めて会った頃よりも身長は伸びて、十代目黒龍では幹部を務めていたというんだから驚いてしまう。

「あ、二人とも何か飲みます?アイスコーヒーとアイスティーどっちもありますけど。あ、コーラも買って来たし―――」
「これから酒飲むんだから、何も出さなくていいよ」

そこへ髪を乾かしたワカくんが戻って来て、私はドキっとしつつ「わ、分かった…」と冷蔵庫を閉じた。
さっきまでキスを仕掛けて来たとは思えないほど、ワカくんは普段と変わらない顔で、飛び入り参加をしたらしい乾くんに「イヌピーも来たのかよ」と苦笑している。

「いや、俺は近くまで来てジム休みだったし、じゃあ家にいるかなと思って下まで来たらエントランス前でベンケイくんとバッタリ会って」
「あーそうなんだ。じゃあ飲みに出ようかと思ったけどイヌピーいるならウチで飲む?」
「俺はそれでいいぜ?でも腹減ってるから…ワカ、何かデリバリー頼めよ」
「あ~じゃあ何に―――」
「あ、なら私、何か作りましょうか?」
「…え、いいの?」

ワカくんが驚いたように振り返る。

「うん、どうせ私もご飯これからだったし簡単なもので良ければ何品かおつまみ作るよ。ほら買い物してきたばかりだから色々作れるし」
「あ、そっか。じゃあ頼むよ」
「うん」

ワカくんは優しい笑みを浮かべてくれて僅かに鼓動が跳ねたのを悟られないよう、私はすぐにキッチンに行った。
すると乾くんが不思議そうな顔をしながらカウンターキッチンまで歩いて来る。

「え、さっきベンケイくんから今はさんがここ住んでるって事の成り行きは簡単に聞いたんだけど…ワカくんとさんて付き合ってんの?」
「……えっ?ま、まさか!つつ付き合ってないよっ」
「おい、チビイヌ。余計な話してんじゃねえ。そーいうんじゃないって言ったろ」

ベンケイさんがたしなめてくれたけど、まさかの不意打ちな質問に顔が熱くなっていく。
それを悟られないように冷蔵庫を開けて食材を出す事に専念していると、乾くんはカウンター越しに身を乗り出してきた。

「ホントに?」
「うん…。た、ただの友達って言うか…ワカくんはお兄さん的な人だし…」
「ああ、なら俺にもチャンスあり?」
「…え?」
「いでででっ」

驚いて振り向くと、ワカくんが乾くんの耳を引っ張りながら「オマエ、より三つも年下のクセに口説くとか生意気」とソファの方へ連行していく。
ついでにベンケイさんからも「ホントだぞ、チビイヌのクセに」とゲンコツを落とされている。
相変らず黒龍の先輩方は後輩をいたぶるのが好きらしい。

「歳とか関係ないじゃん。俺、前からさんいいなあって思ってたし…」
「え…」
「てめ、まだ言うかっ」
「痛っ。ベンケイくんのデコピン、マジ痛いからやめて」

乾くんはまたしてもベンケイさんから小突かれている。
少し会わない間に随分と大人びたなあと思いながらも、ジャレあう二人は前とあまり変わらない。一つ変わった事と言えば真一郎くんに憧れていた少年も、今は大先輩の二人を前にしても堂々たるものだ。そんな乾くんを二人は何だかんだ可愛がっているのは知っている。

「イヌピー年上好きかよ」

その時、ワカくんが苦笑交じりで乾くんの頭を小突いた。

「いや年上ってよりさんが…あ、それに今、年下彼氏って流行ってるし。さん、マジでどうですか、俺」
「え、え?」
「ワカくんと同居してるってことは今、彼氏いないんすよね」
「えっと…」

乾くんに再びアピールされ返事に困っていると、ワカくんが「生意気」と言いながら拳で乾くんの眉間をぐりぐりしている。

「いだだだっ!何なんすか、二人して…ってか、さん年下って嫌ですか?」
「嫌だな」
「ワカくんには聞いてねえし!」

私が応えるより先にワカくんが応えた事で乾くんが間髪入れずに突っ込んでいる。
それを見て思わず吹き出した私を、ワカくんはジトっとした目で見て来た。

「何笑ってんだよ」
「………(珍しい)」

目を細めて少しスネたような顔をするワカくんは見た事がなくて、意外だから驚いた。
でもちょっと可愛いなんて思ってしまった私は誤魔化すように「ごめん」とだけ言って出した食材を袋から出していく。
するとワカくんが「、ビール取って」とキッチンに入って来た。

「あ…う、うん」

今日の買い物でお酒は買い込んで来たのでかなりある。
冷蔵庫を開けてビールを出すと、三人分ワカくんに渡した。

「さんきゅ。も飲めば?」

私はご飯を作る前に簡単に枝豆でも茹でようと、冷凍庫の前にしゃがみつつ、

「うん。でも今、先に枝豆茹でるからちょっと待ってて―――」

と振り返った時、何故かワカくんも隣にしゃがんで来たのを見て、ドキっとする。

「な、何?」
さー年下の男とか好きなわけ?」
「…え?」

ワカくんは急に声を潜めてそんな事を訊いて来た。
私を見る目はやはり少しスネてるように見える。

「イヌピーみたいな年下とかタイプ?」
「な…何言って…乾くんは弟みたいなノリだし、そんな風に見たことない…」
「ふーん…で、俺は相変わらずいい兄貴的な?」
「それ、は…」

と言いかけたその言葉は、ワカくんの唇に飲み込まれた。

「…ん…」

驚いて尻もちをついた瞬間、開けていた冷凍庫の扉に背中が当たり、ガタンっと閉じる。

「ちょ―――」

カッと顔が熱くなり、思わず抗議の声をあげようとした私の口をワカくんは手でそっと塞ぎ、人差し指を自分の口元に当てた。

「しー。二人に気づかれる」
「……っ」

そこでドクンと心臓が大きな音を立てた。
リビングではベンケイさんと乾くんが楽しげに談笑してるのが聞こえて来る。
しゃがんでいる限り彼らのいる場所からキッチンの中にいる私達は見えないけど、近くに二人がいるのにキスをされた事実に頬が紅潮した。
なのに逃げる事も声を上げる事も出来ないまま、再びワカくんが唇を重ねてくるのを黙って受け入れてしまった。
冷蔵庫に預けたままの背中は冷えてくるのに、全身が心臓になったみたいにドクンドクンと自分の鼓動の音がやけにリアルに聞こえてくる気がする。

「…こんな事しておいて、ただの友達?」
「…っ」

唇を解放されたと思ったら今度は耳元でそんな事を言われて顔が更に熱を持つ。
その台詞はさっき乾くんに私が言った言葉だ。

(もしかして…珍しくワカくんがスネてるのって…それが原因…?)

でもそれだと彼が私の事を好きだという事になってしまう。
まさか、と思いながらも「や、やめてよ…ホントに見られたらどうするの…?」と弱々しい言葉しか出てこない。
しかも私の言葉にワカくんはプイっと顔を反らした後、頭に手を置いてグリグリっと撫でて来た。

「二人がいるからって安心だなんて思うなよ?」
「…え」

ワカくんはジトっとした目で私を睥睨へいげいすると、ビールを手に二人の方へ戻って行く。
キッチンに残された私は、心臓が働き過ぎて何もしてないのに凄く疲れた気がする。
さっきから体中が火照ってエアコンが効いていないんじゃないかと思うほどに変な汗をかいてしまった。

「いけない…枝豆…」

しばしボーっとしていた私はふと我に返る。
心臓は未だにドキドキと音を立てたままで少し息苦しい。
けど今は料理に集中しなくては、と何度か深呼吸をした後、準備を再開した。




  




「いや、マジで美味い、さんの料理」

お風呂から上がり、明日の準備などを済ませた後で飲み会に参加した時には、すでに乾くんはほろ酔いで美味しそうに私が作ったものを食べてくれている。

「りょ、料理ってほどじゃ…殆どおつまみだし」
「え、でもこの鶏肉の入った梅とチーズの春巻きとか、めちゃくちゃ美味いよ。こんなのチャチャっと作れるのすげえ」
「あ…ありがとう…」
「俺もソレ好き。また今度作ってよ。コイツラいない時に」
「え?あ…う、うん。こんなので良ければ」

ワカくんにまで褒められてドキっとしつつ笑顔で頷くと、ワカくんの向こう隣にいる乾くんが「ってかワカくん挟んでるから会話しづらい」と文句を言っている。
さっき飲み会に参加した時、乾くんが私の隣りに座ろうとしたのを、ワカくんが阻止するように乾くんと私の間に座ったのだ。
これはこれで何となく気まずい。

「イヌピー酔ってるからそこでいいんだよ。オマエ、酒クセ悪いから」
「そーんな事ないし、ベンケイくんからも何とか言って」
「あ?あー俺はコレ、好きだな。ビールに合う!」

ベンケイさんは乾くんの話など殆ど聞いてなかったようで、油淋鶏ゆーりんちーをバクバク食べている。
これは簡単なタレだけを作っておけば、後は冷凍のから揚げにかけるだけでも、めちゃくちゃ美味しくなるので便利なのだ。
ニンニクやショウガ、ごま油などが入っているので確かにビールに合うし、いいつまみになる。
洋酒は飲まないというベンケイさん用にそれを作ったけど、意外とワカくんも乾くんも気に入ってくれたようだ。

「いや、それもマジで美味いけど、ベンケイくん人の話聞いてねえ」
「あ?他に何か言ってたか?」
「もういいよ…」

乾くんは諦めたのか、今ではワカくんのバーボンをストレートで飲みながら不満げに口を尖らせている。
その時、ベンケイさんのケータイが鳴り「あ、やべ」と言いながら電話に出た。

「おう、そろそろ帰るから。ああ。じゃあな」
「彼女?」

ベンケイさんが電話を切るのを見たワカくんが尋ねる。
時計を見ればすでに0時を回っていて、きっと心配した彼女が電話してきたんだろうなと思った。

「あーまあ。って事で俺はそろそろ帰るよ。ああ、俺って明日は何時に出勤すりゃいーんだっけ?」
「10時だよ。起きれるだろ?」
「任せとけ」

ワカくんとベンケイさんがそんな会話をしているのを見て、明日から彼がジムで働く事を思い出した。
ジムが人手不足なので、ちょうど今の仕事を辞めて職探しをすると言っていたベンケイさんに、ワカくんがトレーナーとして来てくれと頼んだようだ。
なので明日から一緒に働く事になった。

「おら、チビイヌ。そろそろ帰るぞ!」
「えぇ~?俺も?」
「当たり前だろ。何時だと思ってんだ。ワカも明日は仕事だし、ちゃんは大学あるんだよ」
「わーかったよ」

乾くんは渋々といった様子で立ち上がる。
しかし飲み過ぎたのか、足元がおぼつかず、ベンケイさんが肩を支えるようにして玄関へと歩いて行く。
私とワカくんも二人を見送るのについて行くと、乾くんが「さん、今度デートして下さい。マジで」と言って来た。
返事に困っていると、ベンケイさんが「まーだそんな事ほざいてんのか」と呆れたように笑っている。

「そりゃ言うよ…俺、マジだから。前は彼氏いるって聞いたし誘えなかったけどー今はいないんでしょ?」
「え…?あ…ま、まあ…」
「なら一回くらいデート…ダメっすか?」
「おい、青洲!ちゃん、困ってんだろーが。ったくチビイヌが盛りやがって」
「あぁ?俺は盛ってねーから」

支えてないとフラフラしてるわりに乾くんはベンケイさんに絡んでいる。

「はいはい…じゃあワカ、ちゃん明日な」
「ああ。気を付けて帰れよ」
「お休みなさい。ベンケイさん、乾くん」
さん、お休みなさーい」

乾君は笑顔で手を振っていたが、ベンケイさんに引きずられながら帰って行った。
二人が帰っただけで急に部屋が静かになった気がする。
さっきの今じゃ二人きりは何となく気まずい。

「はあ…ったくイヌピーのヤツ、まーだ諦めてなかったんだな」
「…え?」

リビングに戻り、飲み食いしたグラスやお皿を片付けていると、ワカくんが溜息交じりで呟いた。
ふと洗い物の手を止めて顔をあげれば、ワカくんはさっきと同じように少し不機嫌そうにこっちを見ている。

「何を…?」
「何をって…に決まってるだろ」
「…私?」
「ったく…は鈍感だよな、ほんと」
「…む」
「イヌピー前からにはアピールしてたぞ?めちゃくちゃ遠回しに、だけど。俺が彼氏いるって教えたらへこんでたしな」
「そ…そんなの気づかないよ」
「だから鈍感だっつってんの」

再び深い溜息をつきながら呆れたような視線を向けられ、私は再び洗い物に専念することにした。
そもそも人を鈍感と呼ぶなら、もっとハッキリした何かをくれたらいいのに、と思う。
乾くんが私のことを気に入ってくれてたというのも言われるまで全然気づかなかったし、それにワカくんだって意味深なこと言って来るクセに肝心なことは何も言ってくれない。
そんなんで何かを察しろと言われても無理ってもんだ。
そうは思うのに、じゃあ私はいったい何を欲しがってるんだろうと思った。

「…ワカくん」
「んー?」

ワカくんはソファに座りながら、まだバーボンを飲んでいる。
私はアイスペールに新しい氷を入れて、それを持って行った。

「お、さんきゅ」

そのままワカくんの隣りに座ると「も飲む?」と訊いて来る。
実は、と飲むつもりで持ってきたグラスに氷を入れると「飲む気満々じゃん」とワカくんは笑った。私のグラスにバーボンを入れると、炭酸と合わせてレモンを絞る。
軽めに飲む時はコレが一番とワカくんが言っていたけど、バーボンソーダを飲むのは初めてだ。

「はい、カンパーイ」

カチンとグラスを当てて来たワカくんはさっきより少し酔っているように見えた。
自分よりお酒が弱い人がいると気を張ると前に話してたから、今はやっと気を張らずに飲める時間なのかもしれない。
でも私もワカくんよりは確実にお酒は弱いんだけど、今日は少し酔いたい気分だ。

「ん、…からっ」
「え、甘いだろ。ソーダ割りだし」
「あ…甘くないよ…サッパリはしてるけど…」
「まあ…初めて飲むならそう感じるか…。ああ、ならチョコと合わせるといいかも」

ちょっと待って、とワカくんはキッチンへ行くと冷蔵庫から今日買って来たチョコレートを手に戻って来た。
カレ・ド・ショコラのベネズエラビターというチョコで、ワカくんのお気に入りみたいだ。

「あ、ほんとチョコと合う…」

勧められるままにチョコをかじりつつバーボンソーダを飲むと、先ほどよりも甘さが口に広がって何とも言えない味わいが残る。
バーボン特有の香ばしさと相性がいい。

「このチョコも美味しいね。今までビターって名のつくものは避けてたけどカカオの風味が強くて大人な味…」
「だろ?それに糖質少ない分、太りにくいしダイエット中にもいい」
「……今度から私もこれにしようかな」

ダイエットにいいと聞いて、ふとそんな事を口にする。
元カレに太った何だと言われて来たトラウマが、こんな所にまで現れてしまうらしい。

はもう厳しいダイエットなんかしなくていーじゃん。俺が鍛えてんだし」
「だけど、いつまた太り出すか分からないから怖くてやめられないっていうおかしなループに陥ってる」
「別に俺はもう少し太ったっていいと思うけど」
「…そんなこと言って…実際太ったら絶対ワカくんもデブったとか言って来るんだよ、きっと」
「俺が?言うわけねーじゃん。がウチのジムに初めて来た時だって実際、そんな太ってねーだろって思ってたし」
「…え、嘘だ」
「何でそんな事で嘘つくんだよ」

ワカくんは思い切り吹き出して笑いだした。
今のワカくんがこんな風に笑ってる姿はあまり見たことがないから、懐かしくて何となくドキドキしてしまう。
黒龍にいた頃は仲間とよくこんな風に楽しそうに笑ってたのに。

の元カレの目がおかしかったんだよ」
「…そ…そうかなぁ」
「何、洗脳されてんだよ、そんな男に」
「せ、洗脳って…。でもずっと言われ続けてたら本当にそうなのかなって思うものでしょ、人間なんて」
「へぇ…じゃあ俺が毎日に可愛いって言い続けたら、も一キロ体重増えただ何だと騒がなくなるんじゃないの」
「…ワ、ワカくんに褒められたら、そりゃ女の子なら誰でも自信もっちゃうよ…」

そう、過去の私がそうだった。

"オマエ、笑ってた方が可愛いんじゃねーの?"

乱暴されそうになった私を助けてくれた後、暫く怯えてた私を元気づけようとバイクに乗せてくれた時に、ワカくんがくれた言葉。
あのたった一言と、あの時くれた笑顔で、私は彼に恋をした。
今思えば、何て単純だったんだろう、と笑ってしまうくらいに可愛い、それはきっと初恋だった。あの頃の私がこの状況を知ったら卒倒するに違いない。
憧れを突き抜けてワカくんに夢中だった頃の私が、一番素直で可愛かった気がする。

「他の子は別にどうでもいいけど…がそれで自信持てるなら言ってやろうか」
「…え?」

ふと顔をあげれば、ワカくんの唇が優しい弧を描いていて。
その艶のある唇が「は可愛いよ」という私の耳に甘く響く言葉をくれた。
初めて飲むバーボンのせいで、少しふわふわしてきたから、これが夢じゃなければいい、なんて思ったりもしたけど。一番はまってはいけない人にどんどん終わりのない甘美な沼に落とし込まれているような怖さも感じる。

「……ワカ…くん」

ゆっくりとワカくんの手が伸びて、私の頭に添えられたと思った瞬間、唇を塞がれていた。
ワカくんの唇は少し冷たく濡れていて、かすかにバーボンの香りが鼻腔を刺激する。
気づけばもう片方の手が私の頬を包んでいて、逃げ場すら失った唇は何度も角度を変えて啄まれ、赤く染まって行く。
最初にされたキスよりも甘い、優しい口付けに酔わされて、すでに抵抗する気持ちすら失せていた。私の中では一番好きになってはいけない人だったはずなのに。
いつの間にか、誰よりも好きな人だったんだ、と気づかされてしまった。
されるがままに、熱を秘めた唇を受け止めていると、体が自然と後退して二人でソファに倒れ込む。その時、グラスの中の氷が、カラン…と音を立てた。
一度のキスから始まったこの想いは―――。



氷と一緒にぐちゃぐちゃ溶ける


これが不義なら何を恋と呼ぶんだろう



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