賑やかな居酒屋は、今の私の気分だとちょうどいい。
誰も他人のことなんて気にしないで、目の前のお酒と料理、そして友達との会話に夢中だからだ。

「うっそ!マジで?!何でそんなことになってんのよ?」

二杯目のビールを飲んでいた祐奈は、心底驚いたような顔で口を大きく開けて私を見ているから少し恥ずかしくなった。
ワカくんとのことをひとりじゃ抱えきれなくなり、祐奈につい話してしまったけど、すぐに後悔という二文字が頭に浮かぶ。
けど、自分の気持ちを認めてしまったら、もう何ひとつ誤魔化せなくなって誰かに聞いて欲しくなったのだ。
ワカくんのマンションに引っ越してから昨日までのことを一頻り話したら、少しはスッキリしたけど、今度は祐奈の質問攻めが待っていた。

「あんなに妹としか見られてないって言い張ってたけど、向こうはのこと好きだったってこと?」
「そ…それは分かんないけど…」
「は?だって…キス、したんでしょ?!昨日だってエッチしたんじゃ――」
「声が大きいってば!」
「誰も聞いちゃいないって、このうるささじゃ」

祐奈は周りを見渡し、肩を竦めた。
今は大学の友人たちと夏休み前の飲み会に来ている。
場所が居酒屋だけに皆も酔っ払って大きな声で騒いでるので、祐奈の声は聞こえていなかったみたいだ。

「それにエッチなんてしてないってば!」
「え、そうなの?でもそんな空気になったんじゃないの?ふたりきりで飲んでたんなら」
「だ、だから気づいたら自分の部屋で寝てて…」
「…は?」

そう、確かに夕べはベンケイさんとイヌピーが帰った後、私はワカくんとふたりで飲み直してた。
途中、何となく甘い空気になって、これまた甘いキスをワカくんにされて、私の心は限界を迎えたらしい。これまで押しとどめてた想いが溢れ出て、ハッキリとワカくんのことが好きだと気づいてしまった。ずっと違うと否定し続けていたはずなのに、絶対に好きになったら後悔する人なのに、ワカくんが急に距離を詰めて来るから、あんな風に触れて来るから認めざるを得ないくらいに想いが大きくなっていたみたいだ。
でも、夕べはそこから記憶がない。本当に今朝起きたら自分のベッドで寝てたのだ。
きっとキスの途中で眠りこけてしまった私を、ワカくんが部屋まで運んでくれたに違いない。

「うそ…、アンタもしかして…いい雰囲気なのに寝ちゃったの?!」
「う…そ…そうみたい…。だってバーボンソーダなんて飲み慣れてないお酒飲んでたし…最近そんなことばかりであまり眠れてなかったから」

俯きながらボソボソ話す私を、祐奈は呆れた顔で見ている。
でも仕方ないじゃない。ワカくんのキスは甘くて優しくて、あんなキスされたら気持ち良くて睡魔が襲ってきても仕方ないと思う。

「で…今朝は?」
「え?」
「今朝、顔合わせた時はどうだったわけ?」

祐奈は気を取り直して再びビールを呷りながらジトっとした目で睨んで来る。
やっぱり話さない方が良かったかも、と内心後悔しつつ、私はゆっくりと首を振った。

「そ…れが……ワカくん起きる前に家を出て来ちゃったって言うか…」
「ぇえ?もしかして…何も話してないの?」
「今朝は会ってないけど、さっき一応電話はしたよ…。飲み会の約束忘れてたから仕事休ませてって」
「あーそっか。で、その人はなんて?」
「…"あんま遅くなるなよ。帰りは迎えに行くから電話しろ"…って……」

今朝、顔を会わせるのが恥ずかしくて一時間も早く家を出て来てしまった。
でも大学へ行ったら祐奈から前に約束してた友人たちとの飲み会の話をされ、すっかり忘れていた私は慌ててワカくんに連絡したのだ。
急なことだし休めないかとも思ったけど、意外にもワカくんはアッサリ許可してくれた。
最後にあんなことまで言われて、ハッキリ言って心臓が破裂するかと思ったくらいだ。(!)

「…きゃーなにそれ!ラブラブじゃんっ もう付き合ってるようなもんなんじゃない?」
「つ、付き合ってないよ…。何も言われてないし…」

意味深なことは言うクセに肝心なことは言ってくれない。
だから好きだって気づきたくなんかなかった。

「じゃあから言ってみれば?今日帰ってから」
「…えっ?」
「だって好きなんでしょ?何だかんだ言ってたけどさぁ。ずっと好きだった人がその気になってんだから、これはチャンスよ」
「チャ…チャンスって…」

確かにこのまま有耶無耶状態で同居してるのは気まずい。
と言って私からワカくんに告白する勇気は…ない。
もしあのキスもからかっただけだったら、とか、遊びだなんて言われたら、私は一生立ち直れない。いや、ワカくんがそんな酷い男だとは思ってないし、あんなにモテる人がそもそも何故私なんかをからかったり遊び相手にする必要があるんだ、とも思えて来る。

(そうよ…ワカくんがその気になれば女の子なんて選び放題なんだから、私みたいな昔馴染みの女をわざわざ遊び相手に選ぶはずない…)

自分でも思考がネガティブすぎるとは思ったけど、ポジティブありきのものだしこの際何でもいい。少しだけ勇気が出て来た気がする。
次、甘い空気になったらワカくんにハッキリ聞くのもありだ。
私のこと、どう思ってるのって一言、たったそれだけ聞けばいい。

「昔からを知ってるし、その人も今更どう始めればいいのか分かんないのかもよ?だから態度で示してるとかさ」
「…そう…なのかな」
「自信もちなよ!、その人の話してる時、めちゃめちゃ可愛いから」
「…え」
「なーんか青春時代に戻ってるって感じ」

祐奈の一言にドキっとした。もちろんあの頃のワカくんと今のワカくんは違う。
でも今は少し近くなった分、ワカくんのことを考えるとあの頃よりもっと胸が痛い。
遠くから見つめてただけの初恋だったのが、今はこんなにも近くにいて、よりリアルな想いを連れて来る。

"俺はの中の理想の俺とは違う、普通の男なんだよ"

今なら、あの時ワカくんが言いたかったことが、何となく分かる気がした。
私はいつだって、ワカくんを憧れの存在として気づかないうちに境界線を引いていた気がする。
昔は見ているだけだったから、自分の中で勝手なワカくんを作り上げていて、知らないうちに自分の理想像の中に閉じ込めていたんだ。
でも、今は違う。あの頃のワカくんも大好きだけど、今はもっと近いところにいる。
触れられるところにいて、いつも優しい笑顔を向けてくれる。落ち込んでたら励ましてくれる。
私はそんな現実の世界にいるワカくんを、また好きになったんだ。

「…ごめん、祐奈。私、先に帰るね」
「お?もしかして…」
「ワカくんと…ちゃんと話してみる」
「そっか。やーっと素直になったか」
「色々ありがとう。少しポジティブに考えられるようになってきた」

そう言った私を、祐奈は笑顔で送りだしてくれた。
他のメンバーはすでに酔っ払いだったから上手く誤魔化しておくねと笑う祐奈に感謝しつつ、私はお店を飛び出した。
駅前の居酒屋にしたから、ここからマンションまでは徒歩で10分もしないくらいだ。
ワカくんは迎えに来ると言ってくれたけど、まだ時間もそんなに遅くない。
私は時間を確認して歩いて帰ることにした。
駅前通りから少し歩くと、すぐに人通りも少なくなってくる。
でもちょっとしたショップやバーもあるから怖いほどでもない。
少し歩いて行くと、すぐにワカくんのジムも見えて来て、私はホっとしながらビルの方へ歩いて行った。まだこの時間ならワカくんもジムにいるはずだ。
その時、マンションの駐車場からワカくんの車が出て来るのが見えた。

「あれ…どこ行くんだろ」

こんな時間に珍しいこともあるものだと、私は交差点の信号が赤になったので足を止めた。

(早めに仕事を切り上げたのかな。まさか私を迎えに行こうとしてるわけじゃないよね…)

駅前の店で飲むことは話してある。なので一瞬そう思った。
でもワカくんの車はUターンをしてジムのあるビルへと横付けしている。

「…ベンケイさんでも送ってくのかな」

そう思いながら見ているとビルから誰かが出て来た。
ワカくんは車を降りると、その人物に声をかけ、助手席のドアを開けてあげている。

「あれは…レミさん…?」

例の日本ボクシングコミッション・東日本地区の会長の娘だ。
彼女がジムの休み明けには必ず来ることを忘れていた。
でも何でワカくんが車を?と思っていると、レミさんがワカくんの助手席へ乗り込むのが見えた。

「え…何で…?」

これまでどんなに言われてもレミさんを送って行ったことなんかなかったのに。
ワカくんは助手席のドアを閉めると、運転席に戻り、彼女と何やら楽しげに話している。
レミさんはワカくん狙いでジムに通っているから、あれも仕事の内なのかもしれないけど、私はそこまでしなくてもと思ってしまう。

(しつこく送ってって言われたのかな…)

彼女はいつもタクシーで帰るんだから断ればいいのに、と思っていた時だった。
レミさんがワカくんの方へ体を寄せたように見えてドキっとした瞬間、彼女がワカくんにキスをしたのが見えて、私はその場で固まってしまった。

「な…何してるの?あの人…っ」

いくら何でもやりすぎだと思ったが、ワカくんはそれでもやんわりと彼女の体を押しやり苦笑いを浮かべている。その光景を見た時、胸の奥が嫌な音を立てた。
踵を翻し、気づけば私は元来た道を駅に向かって走っていた。
あんな光景は見たくなかった。あれだって立派なセクハラだと思う。
いくら客だからって、会長の娘だからって、笑って済ませていいわけないじゃない。

「ワカくんの…バカ」

お酒を飲んだ後で思い切り走ったせいか、アルコールが一気に回って来た気がして足を止める。
同時にじわりと涙が浮かび、すぐに手で拭った。
ワカくんがレミさんのことを何とも思ってないのは知ってる。
さっきのだって完全に不可抗力だってことも分かってる。
だけど、もっとちゃんと突き放して欲しかった。
あんな優しい笑顔を、彼女に向けて欲しくなんかなかった。

「…って別に私、彼女でもなんでもないのに…勝手に傷ついちゃってバカみたい…」

拭っても拭ってもポロポロと零れ落ちてくる涙は、止まりそうにない。
その時、背後から「ちゃん?」と声をかけられ、ビクリと肩が跳ねた。

「…ベンケイさん…」

慌てて振り向くと驚いた様子のベンケイさんが、私のところまで走って来た。

「何してんだ?こんなとこで。今夜は飲み会なんだろ…って、泣いてんのかっ?」

目の前まで来た時、泣き顔を見られてしまい、ベンケイさんは更に驚いたような声を上げた。
ついでに何か誤解をしたのか「どっかのバカに何かされたのか?どこの男だ」と怖い顔で詰めよって来る。飲み会で大学の男に何かされたと勘違いしているらしい。
あげくに「その店に連れてけ!俺がぶん殴ってやる!」と言い出し、私は慌てて違うと弁解した。ウチの大学のチャラいだけの男の子じゃ、ベンケイさんに殴られたら重症どころの話ではない。何といっても日本一最強と謳われた2トップのひとりなのだ。
いや、もしかしたら今でも最強かもしれない、とベンケイさんのマッチョの体を見上げる。
私が必死に違うと言い張ったからか、ベンケイさんも勘違いと気づいたようで一気にトーンダウンした。

「違う?じゃあ…何でこんな場所でひとりで泣いてんだよ…」
「………」

その問いに答えられずにいると、ベンケイさんは軽く息を吐いて、私の頭を軽く撫でた。

「ちょっと…飲みに行くか」
「……え?」
「その様子じゃ飲み会抜けて来たんだろ?でも家には帰りたくない。そんな顔してる」
「……それは…」
「ま、ワカは今ちょっと野暮用で出かけてるからしばらく戻らねえし、飲んだ後は俺が送ってやるから」

ワカくんの話をされ、ドキっとした。野暮用ってレミさんとだろうか。
その話も気になった私はベンケイさんと飲みに行くことにした。
この近所にベンケイさんがワカくんとよく一緒に行く小料理屋があるらしい。

「で、でもいいの?ベンケイさん…今日初日で疲れてるんじゃ…」
「まさか。身体動かすのはいつものことだ。でも教えるとなると、物足りねえくらいだったな」

さすがベンケイさん、鍛え方が違うらしい。
昔と変わらず体力があり余っているみたいだ。

「ああ、その店こっちだから」

ベンケイさんは私を案内しながら駅通りから脇へそれた路地へと入って行った。
こんな人が通らなそうな路地にそんな店があるなんて知らなかった。

「その店、ワカに教えてもらったんだ。アイツ、あのマンション引っ越してから駅近辺はかなり開拓したらしくて」
「え…そうなんだ…」
「まあ、アイツが好んで行く店は小洒落た店ばっかだけど、今行くとこは俺と飲む用に見つけたらしい。だから狭くて気の利いた酒なんかねーけど、ちゃん大丈夫か?」
「大丈夫です。私だって毎回カラフルなお酒ばかり飲んでるわけじゃないんで」

ベンケイさんの気遣いについ笑うと「そーかー?女子大生つったら何か洒落たバーとか好きそうだろ」と苦笑いしている。

「そんな子ばかりじゃないですよ。今日だって普通に居酒屋で飲み会だったし」
「そういうもんか。――ああ、ここだよ」

ベンケイさんが案内してくれたワカくんの見つけた店というのは、確かに小さな小料理屋だった。小さな灯りのともる昭和の雰囲気を残した趣のある隠家みたいな店で、木製の壁には小さな文字で"あなぐら"と書かれている。
その名の通りしゃがまないと入れないほどの低い入口で、体の大きなベンケイさんは入るのに一苦労だ。
店内に入ると通常の高さでホっとしたが、確かに狭いと言うだけあり、カウンター席しかない。

「あれ、ベンケイちゃん、いらっしゃ…って、あれ、珍しい。べっぴんさん連れて来たよ」

カウンター内にいた年配の女性が驚いたような声を上げて、ベンケイさんが「俺だっていつもいつもワカと飲んでるわけじゃねぇよ」と苦笑いを零している。
この様子だとふたりはかなりの常連みたいだ。

「こんばんは…」
「どーも、こんばんは。"あなぐら"へようこそ」

この女性は店の女将さんで、店をひとりで切り盛りしてるんだとベンケイさんが教えてくれた。
料理の腕も相当らしく、ベンケイさんは時々ひとりで来たり、彼女さんと来たりもしてるらしい。

「はい、どうぞー」
「ありがとう御座います」

まずはビールを頼み、女将さんはグラスとお通しを出してくれた。
ベンケイさんがビールを注いでくれて、とりあえずと言いながらカンパイをする。
冷たいビールが美味しくて、私はホっと息を吐き出した。

「女将さん、何か適当に見繕って」
「はいはい。お嬢さんは?何か嫌いなものはあるかしら」
「い、いえ。何でも食べられます」
「そう。じゃあベンケイちゃんやワカくんが普段頼むものを作るわね」

女将さんはそう言いながら奥へと引っ込んだ。
ビールを飲みながら、店内をキョロキョロと見渡すと、黒で統一された壁には色紙がずらりと並んでいる。見れば有名な俳優さんや歌手のサイン色紙で、少し驚いた。

「色んな人が来てるんだ…」
「ああ、ここ宣伝もしてねーのに芸能人もお忍びで来るらしい。そもそもこの辺り結構住んでるらしいぞ?芸能人」
「あ…確かに…そんな話、大学の子達もしてたなあ…」

しかし今は私とベンケイさんしかいない。聞けばこの店は深夜から混みあって来るらしい。

「んー!このつぶ貝の煮つけ凄く美味しい…」

お通しを口にして思わず声を上げると、ベンケイさんも「だろ?」と嬉しそうな顔をする。

「ま、この店見つけたのはワカだけどなー」

そう言ってベンケイさんはビールを美味しそうに飲んでいる。
でもワカくんの名を聞いてふと俯いた私を見たベンケイさんは「それで?」と優しい笑みを浮かべた。

「何があったんだよ」
「……べ、別に何がってわけじゃ…」
「そんな風には見えなかったけど?」
「……えっと…」

改まって聞かれると、どう応えていいのか迷ってしまう。
さっきのことを話せば、ワカくんへの気持ちもバレてしまう。
まだワカのことが好きなのか、なんて呆れられそうだ。

「もしかして…ワカのことか?」
「え…っ」
「図星か」

思い切り顔に出ていたらしい。ベンケイさんは「分かりやすいな、ちゃんは」と笑っている。大人の女ならここでは顔色ひとつ変えないんだろうけど、私はそんな器用なことは出来ないようだ。

「ケンカしたってわけじゃねぇよな。ああ、もしかして例の女のことか?」
「…え、お、女って…」

ベンケイさん、鋭すぎると内心ドキドキしながらとぼけたが、あまり効果はなかったらしい。
「隠すなよ」とベンケイさんは苦笑交じりで私の頭をぐりぐりと回した。
その太い腕で何人の不良達を沈めて来たんだろう、なんて思うくらいに私の首が心配だった。

「レミって今日来てた女だよ」
「あの人は……ジムの常連さんで」
「まあ、今日の様子じゃ何となく分かるけどな。さっきもしつこくワカに送ってなんて甘えてたしな」
「………」
「もしや…見かけたのか?ちゃん」

本当に鋭すぎる。千里眼でも持ってそうだと内心思いながら黙っていると、「やっぱりな」と勝手に納得されてしまった。

「ああ、ちゃん、飲み会からひとりで帰って来てワカとレミって女が一緒のとこ見たのか」
「…まあ」

ここまでバレたなら隠しても仕方がない。
素直に頷けば、ベンケイさんは豪快に笑った。

「心配すんなって。ワカだって渋々送ってっただけだ。あの女、自分の父親に頼んだらしくて、ボクシングコミッションの会長から直々に頼まれたから嫌とは言えなかっただけだから」
「し…心配なんて…してないけど…」
「本当に?」
「…う…」

ニヤリと笑うベンケイさんに、私は全てを見透かされてるような気がしてきた。
こっちが必死に隠してるつもりでも、傍から見ればバレバレなのかもしれない。

「俺が気づいてないとでも思ってたのか」
「…え?」

意味深なことを言ったベンケイさんはビールをグラスに注ぐと、それを豪快に飲み干した。

「この前からワカの様子が変だし、家に行ったらちゃんまで何かおかしい。こりゃ何かあったな、とは思ってる」
「べ…別に私とワカくんは何も――」
「昨日、キスしてたろ」
「―――ッ?」

思わず息を飲む。まさか見られてたんだろうか、と思うと顔が火照って来た。
でもベンケイさんは「別に見たわけじゃねーよ」と苦笑した。

「でも何となく分かるだろ。そういう空気って。ま、チビイヌは気づいてなかったけどな」
「…う…そ、それは…」

ベンケイさんは本当に千里眼を持ってるのかもしれない。
あまり繊細な感じはしないのに――失礼すぎる――意外と周りをよく見ている。
洞察力が半端じゃない。さすが大勢の兵隊を率いていた総長なだけはあるなと何気に感心していた。いや感心してる場合ではないんだけど。

「ワカはちゃんのこと好きなんじゃねぇかって思ってたけど…やっぱ当たったな」
「……えっ?そ…そんなバカな…」
「何でだよ。ちゃんが彼氏と別れたって聞いた時、アイツ嬉しそうに話してたし間違いねえって」
「……え…ま、まさか」

急にぶっこんで来たベンケイさんにギョっとしていると、そこに女将さんが料理を運んで来た。
鶏のから揚げや、焼き鳥が上品に盛り付けられ、カウンターテーブルに置かれる。
それはベンケイさんの好物みたいで、女将さんは私の前に刺身の盛り合わせも出してくれた。

「はい、どうぞー」
「わぁ、美味しそう」
「あの時間じゃあんま食べずに帰って来たんだろ?しっかり食ってから帰れ」
「…はあ」
「何だよ。まだ帰りたくねーの?」

さっそく焼き鳥を食べだしたベンケイさんは呆れたように私を見た。

「付き合いだして早々、アイツが浮気するわけねーから心配すんなって――」
「え、つ、付き合ってないです…」
「……はあ?」

やはり勘違いしていたベンケイさんに即座に首を振ると、心底驚いた顔で見られた。
そりゃそうだ。キスをしていたのがバレていたのだからベンケイさんだって普通に付き合ってると思うだろう。

「…なーんかワケありっぽいな。ちゃんと話せよ。聞いてやっから」

私が俯いていると、ベンケイさんは意外にも優しい顔で、そんなことを言ってくれた。
ベンケイさんがどこまで気づいているのかは知らないけど、私は全て話してしまいたくなった。
ワカくんに断りもなく話していいものか迷ったけれど、私ひとりじゃこの想いは持て余してしまいそうだ。
腹をくくって、私はこれまであったことをベンケイさんに話してみることにした。



  




「ねー聞いてるぅ?べんけーさんっ」
「………」

俺がベンケイに呼ばれて店に迎えに行った時には、はすっかり出来上がっていた。
とろんとした顔で、ベンケイの背中をバシバシと叩いている光景は、ちょっとだけ笑える。
テーブルの上には日本酒の入ったお猪口が置いてあり、それで全て納得は出来た。

「おう、やっと若様のご登場か…」

少しばかり虚ろな表情で振り向いたベンケイは、相当の愚痴を聞かされたのか、俺の顔を見るなりホっと息を吐き出している。
あの"赤壁レッドクリフ"と呼ばれたほどの男をここまで弱らせたも、ある意味最強に違いない。

「言いたいことは山ほどあるが…今はを連れて帰れ」
「…ああ。悪かったな、ベンケイ。――女将さんも、ありがとね」
「いい子じゃない。大事にしなよ」

ベンケイに代わっての話を聞いていた女将は、ふと俺の方に微笑んでそんな事を言って来る。がどんな愚痴を言ったのか気になったが、彼女本人はとろんとした顔を今度は俺に向けて「あー!ワカくんら!」と呂律の回らない口で何やら文句を言いだした。

「なーんれ、ここにいるのおー?」
「何でって…迎えに来たんだよ。大学のヤツと飲み会って言ってたくせに何でベンケイと飲んで、こんなに酔っぱらってんの」
「そんなのわらしの勝手れしょー?ねー?べんけーさーん」
「はいはい。いいからワカと一緒に帰りな」
「もー…邪魔もの扱いしてー」

こりゃ相当飲んだな、と苦笑しながら、ふらふらしているを立たせると、俺はふたりにもう一度お礼を言ってから店を出た。
ベンケイも今夜はこれで帰るだろうなと思いつつ、隣で未だに機嫌の悪そうなの肩を支えた。

「はなしれよ…」
「何言ってるか分かんねーし却下」
「……なによ…でれでれしちゃっれー」
「してねーから」

さっきベンケイから電話で「を迎えに来い」と言われた時、少しだけ事情を聞かされた。
まさか飲み会に行ってるがあんな早い時間に戻って来るなんて思わなかったし、レミさんとのキスを見られたことにも気づかなかった。
そしてがそのことで落ち込んで泣いてたとベンケイに聞いた時は、彼女を泣かしてしまったという罪悪感よりも、嬉しいという気持ちの方が大きかった。
いつまで経っても昔の俺しか見ていなかったが、少しでも気づいてくれたらと思っていたけど、かなりの効果があったようだ。

「…ワカくんのばか…」
「…うん。ごめん」
「……だいきらい…」
「え、それはダメ。大嫌いは困る」

ふらつく彼女の肩を抱き寄せると、は子供のように暴れ出した。

「はなしれよー!ワカくんなんかレミさんとちゅーでもなんでもしてればいーれしょーっ」
「…だからアレは不可抗力だって……それに口にはされてねーし」
「…………は?」

はとろんとした目で俺を見上げると「うーそつきー」と唇を尖らせた。
それには苦笑するしかない。
がどの角度で見てたのかは知らないが、レミさんが顔を近づけて来た時、俺は咄嗟に身を引いた。
だからキスをされたのは唇ではなく頬だったのに、は大きな勘違いをしたらしい。

「嘘じゃねーって。レミさんがキスしてきたのはここ!」

そう言って頬を指さすと、はマジマジと俺の顔を見つめて来る。
まあ大きな瞳も今は半分ほどになってるけど、酔っ払いのも俺には可愛いとしか思わない。

「ほんとに…?」
「ほんとだよ。俺が好きでもない女に黙ってキスされる男に見える?」
「……しららい…」

プイと顔を反らして未だに口を尖らせている彼女は、綺麗な女子大生というより小学生の女の子みたいだ。でも少しは機嫌も良くなって来たのか、俺が手を繋いでも怒ることはなかった。

「…なんで…来たの…?」
「迎えに行くって言ったろ。まあ、一緒に飲んでるのがベンケイだとは思わなかったけど」
「……じゃあ…何で……わたしにキス…したの…」

小さな問いかけは、静かな夜に紛れて消えそうなほどの声量で俺の耳に届く。
きっと彼女の中でずっとその理由を聞きたかったんだろう。
でも俺は敢えて今まで何も言わなかった。
にただ想いを告げるだけだったなら、きっとそこで終わってたと思うから。
昔の俺を今の俺に重ねてる彼女に、気づいて欲しかった。
あの頃の俺じゃなく、今の俺のことで頭をいっぱいにして欲しかったから。

のことが好きだからキスした」

初めてその言葉を口にすると、は驚いたように俺を見上げた。
潤んだ瞳が、戸惑いで揺れている。
少しだけ屈んで、その艶やかな唇にそっと口付けると、彼女の肩がかすかに震えて。
彼女の頬に涙が一粒零れ落ち、「バカ…」と小さな呟きが、俺の耳を掠めて行った。


甘美なるいいわけを







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