それは意識が戻って来たと認識した辺りから始まっていた。
気だるい、そして何といっても頭が痛い。ついでに言えば喉が渇く。
ああ、二日酔いだ――。
お酒を飲む人間なら一度くらいは経験があるだろう起きた時の不快感。

(昨日の飲み会、そんな飲んだっけ…)

一瞬そんなことを考えたがすぐにそれは違うことを思い出した。
そうだ、夕べは大学の仲間との飲み会を抜けて私は早々に帰ったんだ。
けど、すぐに嫌な光景を目にして――。

そこで思考が停止した。
私のお腹の辺りでかすかに何かが動いたからだ。意識がハッキリしてからはまだ目を開けていない。動かなければまだマシな二日酔いも、目を開けた瞬間から頭がぐわんぐわんするのは分かっているからだ。
でも一度気になってしまったものは私の現実逃避的な思考とは裏腹に、その部分にだけ意識が集中してしまう。恐る恐る目を開けると、薄暗い部屋の天井が見える。
視界に映るのは私の部屋と同じ照明。けど雰囲気、いや匂いで分かる。
ここは、私の部屋じゃないと――。

「……※〇★◇※▼□…ッ?」

自分でも何を言っているのか分からない変な音が口から洩れた。
何故、こんな状況になっているのかサッパリ分からないし覚えていない。
けれど、目の前に見える長いまつ毛や、通った鼻筋、薄っすら開いた色っぽく見える唇は幻じゃないはずだ。

(……綺麗、だなぁ…。――って言ってる場合か、私!)

ワカくんは私の方へ体を向けて綺麗な寝顔を無防備にさらしていた。
首元のラインが大胆に出てるだけで色気が凄いから思わず見とれてしまったけど、何でこんな状況になっているのか訊きたい。
夕べは嫌なものを目撃した後、途中でベンケイさんと会って、泣いてた私を心配したのか飲みに誘ってくれた。
ワカくんが見つけたという隠家的で素敵な小料理屋さんに連れて行ってもらって、優しい女将さんの作る美味しい和食も思う存分味わって珍しい日本酒も沢山飲んだ。
ベンケイさんに色々愚痴を聞いてもらったとこまでは覚えてるし、何なら最後ワカくんが迎えに来てくれたことも薄っすらだけど覚えてる。
帰り道には酔った勢いで勇気を出して何故これまで妹扱いしかしてこなかった私にキスをしたのかも聞いた。これもぼんやり覚えてる。そこでワカくんはハッキリ言ってくれた。
"が好きだからキスした"って――。

(きゃーっっっ)

あの場面が脳内でリピートされ、私はそう声を出して叫びたくなった。
自分でもかなり酔っているのは分かってたけど、あの一瞬だけは本気で酔いが覚めたように頭の中がスッキリしたのだけは覚えてる。
なのにその後、ワカくんと何を話し、どう家まで帰って、何故ワカくんのベッドへ潜り込むまでに至ったのかが全く覚えていない。

(…服は…お互いに着てる…)

一応そこはしっかり確認してホっとした。
ワカくんと両想いだと分かって初めての行為で記憶がないなんてもったいないことはしたくない。(!)
っていうか、そんなことを思う前に多分恥ずかしくて、そんな行為すら無理かもしれない。
だって、目の前で安心したように眠っている眉目秀麗な彼が、あの今牛若狭が、今日から私の恋人になるなんて考えただけで嬉しいと言うより物凄く恥ずかしい…と言うか、照れる。

(ど…どどどうしよう…。このまま寝てるわけにもいかない。だって今日から大学は休みだけどその分バイトを朝からキッチリやるって約束で昨日は休ませてもらったんだから仕事に行く準備をしなくちゃいけないし、ああ!朝ご飯も作らないと…!)

この時点で脳内パニックだった私は、自分が二日酔いだということも忘れ去っていた。
とにかく、ここから抜け出さないことには何も出来ない。
と言って、ワカくんの右腕が私のお腹に乗っかっている。さっき動いたのはワカくんの腕だったんだとこの時点で気づいた。
首を動かさず視線だけで今の状態を確認すれば、ワカくんは私の方に体を向けて寝ている。
だから右腕が私のお腹に乗っているんだろうけど、そこで気づいたのは私が頭を乗せているのはフカフカの枕じゃないということだ。 かなり筋肉質な硬いものを首の後ろに感じる。

(…うそ!私ってばズーズーしくワカくんの腕枕で寝てるの?)

思わず上半身を起こしそうになった。
でもいきなり動いたらワカくんも起きてしまうかもしれないと思って必死に堪えると、ゆっくり左足を動かしタオルケットの脇から出して床の上に置く。
そのまま体も横へ滑らし、ベッドから抜け出そうとした瞬間、強い力で腰を引き寄せられ、気づけばワカくんと向かい合っていた。

「…どこ行く気?」
「……ッ?」

いつから起きてたのか、ワカくんが苦笑交じりで私の鼻をむぎゅっと摘む。

「…ど、どこって…仕事の用意を…」
「まだ朝方の5半時だけど?」
「え、うそ…」

ワカくんがベッドのサイドボードに置いてあるスマホで時計を見せてくれた。
確かにいつもなら寝てる時間だ。カーテンが閉め切られた部屋じゃ時間の感覚も分からなかった。ただまだ早い時間とはいえ、このままワカくんと一緒に寝てるのは私の心臓によろしくない。それに私は夕べの恰好のまま寝ていたからワンピースの皺も気になるし、部屋が薄暗くて助かったけどメイクをしたまま寝てたんだろうから顔の酷さも気になる。
と言うか今すぐシャワーに入りたいくらい、私はお酒臭い気がしてきた。

「え、えっと……って、な、何…っ?」

脳内であれやこれやとこの場から逃げることばかり考えていたら、気づけばワカくんの顏が目の前まで迫っていてギョっとした。
あまり近づかれるとメイクもはげてるであろう酷い顔を見られてしまう。

「何って…おはようのキスしよーかと」
「…し、しないで…っ」

ストレートに言って来たワカくんは甘ったるい笑みを浮かべて唇を近づけて来るから、私はますます慌てて顔を反らした。
こういう時、相手が自分より綺麗だと本当に恥ずかしい。私なんか絶対髪だってグチャグチャのはずだ。なのにワカくんはスネたように目を細めて不満げな顔で見下ろしてくる。

「何で顔そむけんの…」
「だ…だって…」

メイクがはげてるからです、とは言えず、ゴニョゴニョと口の中で言い訳をする。
好きな人にこんな酷い顔を見せたくない女心も分かって欲しい。
っていうか、何で普通にキスしようとするんだと、そこも聞きたいけど、私の記憶がない間にどんな話をしたのかも気になって来た。

…?」
「と、とりあえず…シャワー入って来ていい?二日酔いだしスッキリしたくて…」

恥ずかしさが我慢も限界で思い切って頼んでみると、ワカくんは「ああ…やっぱ二日酔いか」と苦笑して、すんなり解放してくれた。

「いいよ。入って来たら?」
「う…うん…」

ワカくんは再びベッドに寝転がると、ベッドから抜け出した私を見て笑いを噛み殺している。
笑うほどに酷い姿なのかと一瞬ドキっとしたけど、ワカくんは「照れてるも可愛い」と赤面するようなことを言って微笑んだ。

「な…何それ…」

二日酔いでボロボロの上に寝起きでメイクもはげてる女のどこが可愛いんだと内心突っ込んだものの、ストレートに言われて顔が熱くなった。
ワカくんって目が悪かったっけ?とまで考えてしまう。でも彼は苦笑交じりで私を見上げた。

「どーせメイクが~とか髪がグチャグチャ~とか思ってんだろ?」
「……う…」

何故にバレてる?と驚いた。
そんな私の表情を見たワカくんは「やっぱり」と言って楽しげに笑いだした。

「そんなに気にしなくてもいーのに」
「…そ、そんな笑わないでよ…。恥ずかしいんだから」
「何で?俺はそういう無防備なが見れて嬉しいのに」
「……シャ、シャワー入って来るっ」

朝からとことん甘いワカくんに心のHPを削られ、心臓が激ローになりそうだと思った私は慌てて部屋を飛び出した。
これまで曖昧な関係が不安だったクセに、ワカくんがハッキリ伝えてくれるようになったらなったで、今度はどんな顔をして向き合えばいいのか分からない。
もう自分では大人になったと思ってたのに、ワカくん相手だとまるで恋愛初心者の中学生に戻ったみたいに心臓がドキドキしてる。

「ダメだ…。今のワカくんは大人だし色気もプラスされてるから私の乏しい恋愛経験じゃ太刀打ちできない…」

自分の部屋に戻り溜息交じりで鏡を覗き、自分の今の姿をチェックする。
夕べ泣いてしまったからアイシャドウなんかはすっかり落ちていたけど、思ってたよりマスカラはグチャグチャじゃなくてホっとした。

「良かったぁ…パンダになってなくて」

ホっとしたところでシャワーを浴びようとすぐにバスルームへ向かう。
いくらメイクが落ちていたとはいえ、クレンジングしないと肌荒れが心配だ。
シャワーに入ってスッキリして、少し早いけど朝食の準備をして心を落ち着かせよう。
夕べのことをワカくんに聞くのは、それからでいい。

(どうか酔っ払って醜態さらしてませんよーに!)

心の中で祈りつつ、私はバスルームへと飛び込んだ。






「ん~お味噌汁のいい匂い。今朝は和食なんだ」

私の後でシャワーを浴びたワカくんが、バスルームから出て来ると驚いた様子でリビングに来た。

「あ…えと…お酒飲んだ次の日はお味噌汁飲みたくなるから…」
「あー俺も。ってか二日酔いは大丈夫?」
「うん…まあ」

寝起きから心身共に酷使したせいで、二日酔いもどっかへ行ってしまったらしい。
今は頭痛もなくなり逆に頭が冴えている状態だ。
風呂上りのワカくんはやっぱり直視できなくて、私は視線を反らすと卵焼きを焼くのにボールの中へ卵を割って入れようとした。
すると突然後ろから抱きしめられ、驚いて卵をボールの中へ落とす。
当然卵は綺麗に割れて、私は「ごめん」と慌てて殻を拾おうとした。
でもワカくんは笑いながら「割る手間がはぶけたじゃん」と後ろから私の頬にちゅっとキスをする。柔らかい感触を頬に感じ、私は完全に固まってしまった。
ワカくんからは凄くいい匂いがするから、勝手に心臓が早鐘を打ってしまう。

「俺、の卵焼き好きなんだよね」
「……あ、ありがと…」

ヤバい。身体が固まって上手く殻が拾えない。
ワカくんは私のお腹に腕を回し、肩に顎を乗せてくるから心臓がさっきから体内で大暴れしている。アメリカのアニメ風に言うなら、ハート形の心臓が胸から飛び出している、そんな状態だ。

「あ…あの…ワカ…くん…」
「ん?」
「腕…放して…もらっても…いい?卵焼いちゃうから…」
「んーやだ」
「…っ?」

予想外の返事に驚いて思わず振り向くと、ワカくんの綺麗な瞳が半分に細められていた。
至近距離で目が合ったことにドキっとしている私に、ワカくんはニヤリと笑みを浮かべて「うそ」と呟く。

「でもからキスしてくれたら放してやってもいいかな」
「…えっ?」

とんでもない無茶ぶりをされ、ギョっとした。
さっき以上に体が固まって言葉が出てこない。

「ほら、早く」

ワカくんは目を瞑って待っている。
そんなことをされたらキスするしかないような空気になってしまった。

「早くしないと遅刻しちゃうじゃん」
「…う…」

時計を見れば仕事の時間まで一時間もない。
これから朝ご飯を食べて後片付けやら何やらしてたらギリギリの時間だ。
ワカくんはまだ目を瞑って待ってる。
これは本当にしなきゃ延々とご飯の用意が出来ないやつだ。
私は意を決してゆっくり振り向くと、目を瞑ってワカくんの唇に自分の唇を近づけていった。
その時――突然インターフォンが鳴り響き、その音に驚いた私はパチリと目を開けた。
ワカくんも同様、驚いたように目を開けて、至近距離で目が合う。

「わ…私、出るね!」

一気に顔が熱くなり、ワカくんの腕が緩んだのをいいことに、そこからするりと抜けだした。
ワカくんは呆気に取られた顔をしてたけど、この際見なかったことにしよう。
「はい」と元気よくインターフォンに出ると、モニターには夕べ迷惑をかけたベンケイさんが『おはよう』と笑顔で立っていた。
朝からどうしたんだろうと思ったら『まあ、仕事前に様子を見に来た』とニヤニヤしている。
そう言えば昨夜は酔っ払ってベンケイさんにそれまでの鬱憤を晴らすかのように愚痴ってしまった気がする。

「誰?」
「え?あ…べ、ベンケイさん」
「ったく…朝っぱらから何しに来たんだ」

ワカくんはブツブツ言いながらもオートロックを解除している。
数分でベンケイさんは部屋まで来ると、必要書類をワカくんにて手渡していた。
ジムで雇う為の書類らしい。

「こんなの後で良かったのに」
「まーそうなんだけど、ちゃん大丈夫だったか気になってな」
「え、あ…大丈夫です…。あの…夕べはありがとう御座いました」

昨日は酔っ払って帰ってしまったから、きちんとお礼も言えてなかったことを思い出し、慌てて頭を下げた。
ベンケイさんは「いや俺は楽しかったから気にしてねぇよ」と笑いながらも、チラリとワカくんに視線を向ける。

「んで?きちんとふたりで話せたのかよ」
「まあね。ベンケイが来なきゃ今頃がキスしてくれてたよ」
「ちょ、ワカくん…っ」

不満げに肩を竦めながらそんなことを言いだしたワカくんに、顏が一気に熱くなる。
いくら事情を知っているベンケイさんでも、私としては赤くなるには十分だった。
ベンケイさんは一瞬、固まったけどすぐ豪快に笑い出した。

「そりゃー悪かったな」
「…悪いと思うなら来るなよ、朝っぱらから」
「まあ、そう怒るなよ。今しかないってわけじゃねーだろ。一緒に住んでんだから」
「…あーまあそうだ――」
「あ!ベンケイさんも一緒に朝ご飯どうですか?!今すぐ作るんでっ」

これ以上この話題をされるのは耐えられないと思った私は、無理やり話を終わらようとキッチンへ歩いて行く。
私のそんな様子を見て、ふたりは苦笑していたけど、気づかないふりをしながら手だけを動かす。
夕べワカくんに好きだと言われて、でもその後に自分がどう応えたのか覚えていないだけに、まだ心がついていけてない。
喜びに浸る間もなく、ドキドキが襲ってきて何も考えられなくなってしまう。

(はあ…今日から大学も休みだし、ワカくんとの時間が必然的に増えるんだよね…私の心臓持つかな…)

朝から変な心配をしつつ、フライパンに解いた卵を流し込んだ。



  



「――、これも頼むわ」
「あ、はい」

ワカくんから書類を渡され、それを受けとる。
いつもの光景なのに、今日は全てにドキドキしてしまう。
仕事中も時々ワカくんをこっそり見てはカッコいいなぁ、なんて見惚れてて、これじゃ昔と何も変わらない。それに昔はただの片思いだったけど、今は違う。
あのワカくんが、何故か私のことを好きだって言ってくれた。
本当に夢みたいでふわふわしてしてしまうのは仕方のないことだと思う。

(そうだ…何であのモテモテのワカくんが私のことなんか好きになってくれたんだろう。それも聞いてない。いや覚えてないのかな…)

夕べ話したことも気になったけど、ワカくんが何故、言い寄って来る美人のお姉さま方を選ばず、私みたいな年下を選んでくれたんだろう。
ここに通いだした頃は明らかに妹扱いだった気がするし、ワカくんからしてみれば私は昔、自分に憧れてた大勢の女の子のうちのひとりだったはずだ。
なのに、いつそんな気持ちを持ってくれたのか、サッパリ分からない。

(あぁ…元カレのせいですっかり自分に自信が持てない女になってしまった気がする…)

どんなにお洒落をしたって「そういうのってもっと細い子が着るから似合うんじゃん」とか、どんなに彼の好きなご飯を作ってあげたって「この前行った店で食ったやつのが美味かった」なんて言われて少しずつ心が削れていった気がする。
ワカくんにはそんな愚痴をたまに聞いてもらったりしてたし、情けないところしか見せてない気もする。なのに何で―――。

「…!」
「え?あ!ご、ごめんなさい」

ボーっとしてたのか、気づけば目の前にワカくんが立っていた。
ハッと我にかえると、心配そうに見て来る綺麗な双眸と視線がぶつかる。

「大丈夫か?やっぱ二日酔い?」
「え?あ、違うの。ちょっと考えごとしちゃってて…。あ、この書類は出来てるから」
「ああ、さんきゅ。あと悪いんだけど、それ終わったならちょっとコッチ手伝ってもらっていいかな」
「う、うん。いいけど…」

そうって私が席を立つと、ワカくんは一枚の書類を差し出し「倉庫に行ってこのグローブの在庫がいくつあるか確認してくれるかな」と頼んで来た。

「そろそろ新しいのに買い替えしたいんだけど、新品がいくつ残ってるか知りたい。今、他のスタッフ皆、手が離せなくて」

書類を受けとり、ザっと目を通すと私は「分かった。見て来るね」と頷いて、すぐに倉庫へ向かった。スタッフやお客さんが使うグローブは消耗品なので定期的に買い替えが必要になるらしい。

「うわ…何か箱がたくさん…」

初めて入った倉庫の中には所せましと色んな用具が置かれている。
その中でもグローブをしまっている箱の番号を書類で確認しながら探していくと、棚の奥にあった。

「あ、これだ…」

番号をチェックして同じ番号が書かれている箱を見つけると、私はそれをどうやって出そうか考えた。目当ての箱は他の箱が乗った一番下に置かれているのだ。
これを出すには、まず上に乗った箱を避けなければならない。
と言って一番上は脚立がないと届かない高さにあり、私は倉庫の中を見渡した。
すると端っこの壁に立てかけられた脚立が見えて、そこまで他の用具を押しのけながら歩いて行く。

「ここも今度片付けないとなぁ…」

普段はあまり出入りしないのか、スタッフもすぐ必要のないものを適当に置いているようで歩く場所がない感じだ。

「時間ある時にやろうかな」

他のスタッフはお客さんの相手だけで大変そうだし、自分の仕事が早く終わった時に私がやればいいかと思った。
少しでもワカくんの力になりたい、なんて私も案外可愛いとこあるんだ、と自分で笑ってしまう。元カレの前ではあんなに可愛くない女だったのに、相手が違うとこうも気持ちが変わるものなんだ、と不思議に思った。
あれだけ否定ばかりされたら、当然素直にもなれないし甘えることさえ出来ない。

「よいしょっと…」

脚立を箱の乗っている場所まで運ぶと、倒れないか足元を確認して一段一段上がって行く。
少し不安定ではあるものの、上に乗っている箱は少し小さめだから、そこまで重たくないだろう。

「うわ、埃っぽい…」

さすがに上の方まで来ると埃が溜まっているのか、鼻がムズムズしてきた。
マスクを持ってきたら良かったと思いながらも、一番上の箱を隣の開いてるスペースへよけていく。ひとつずつ動かすのは大変だけど、地道にやっていけば一番下の箱を開けられる。

「もぉー何で一番使うグローブが一番下にあるの…」

ワカくんはきっちりした人なので、こんな置き方はしないだろう。
きっとバイトの子とかが中身も確認しないで、どんどん積み上げて行ったんだろうなと苦笑が漏れた。

「ふぅ…上の三つをどけるだけで大変だ…」

額に浮かぶ汗を手で拭い、4つ目の箱に手をかけた時だった。
先ほどからムズムズしていた鼻が耐え切れなくなり「…くしゅっ」と思い切りクシャミが出た。
その拍子にバランスを崩し、体がぐらぐら揺れ出して同時に乗っている脚立も傾き始めた。
私は慌てて目の前の棚を掴もうとしたが、それを掴んでもし自分の方へ倒れて来たら、という一瞬の躊躇で、私の体は更にバランスを失い、ゆっくりと後ろへ倒れていく。

「…きゃぁぁっ」

後ろにも棚はあるけど、そこには鉄アレイなど金属の用具が置いてある。
そこへ激突したら、と考える間もなく、私の体は脚立ごと無常にも後ろへ倒れて行った。
その時「…?!」という声が耳に飛び込んできて、強い腕に体を包まれたかと思った瞬間、ガンっという音と共に脚立が倒れて来た。

「…ってぇ…」
「…っワカくん?!」

床に倒れ込み、私もお尻を打ったが、私の体に覆いかぶさるように守ってくれてたのはワカくんだった。
しかも倒れて来た脚立はワカくんの背中を直撃したようで、床に倒れた私の上にワカくんが倒れ込んでいる。

「やだ…ワカくん、大丈夫?」
「んー大丈夫だけど…ちょっと痛い…」
「ちょ、ちょっとって…思い切り当たったんじゃ…」

肩越しに顔を埋めているワカくんの背中へ手を伸ばすと「あーそこ痛い…」と耳元で苦笑する声が聞こえる。
あまりに近いからドキっとしたけど、今は恥ずかしがってる場合じゃない。

「ワカくん、動ける…っ?病院に――」
「いや、大げさ。骨も折れてねぇし、ただの打撲って感じだから平気だって」
「で、でも…」
「少しジっとしてれば大丈夫。心配すんなよ」

ワカくんは少しだけ顔を上げると、私の額に自分の額をくっつけてくる。
ドキっとして視線を上げると「…がケガしなくて良かった」とホっとしたような笑みを浮かべた。そんな顔でそんなことを言われたら胸がぎゅっとされたように苦しくなる。

「ごめんね…私のドジでワカくんにケガさせるとこだった…」
「いや…そもそも倉庫がこんなになってんの把握してなかった俺も悪い。用具とかスタッフに任せきりで、がグローブ取りに行ったって聞いた奴が慌てて俺に報告しに来たんだよ。女の子じゃ無理だって」
「え…そうだったんだ…」

苦笑交じりで言うワカくんに、私はふと棚の上を見上げた。
確かにキツかったけど、出来ると思って無理に動かした私も悪い。

「ワカくん…痛みは?」
「…ん。少しおさまってきた。もう大丈夫」
「…良かったあ…」

大丈夫と聞いて私も心の底からホっとすると、ワカくんが「それ、こっちの台詞だから」と苦笑する。

「心配させんなよ…」
「ご…ごめん…」

その一言にドキっとして顔を上げると、真剣な顔で見つめて来るワカくんと目が合う。
一瞬で頬が熱くなって、ついでに言えば今の体勢にも恥ずかしくなってきた。
床へ後ろから倒れ込んだ私は当然、横になっていて、私をかばったワカくんが上から覆いかぶさっている。よくよく考えればちょっとエッチな体勢だ。

「あ、あの…ワカくん、動ける?」
「んーどうかな」
「…え、まだ痛い?」

やっぱり私に気を遣って大丈夫と言ったんだろうか。
心配になって尋ねると、ワカくんは何故か意味深な笑みを浮かべた。

「…がさっきの続きしてくれたら動ける、かな」
「…は…っ?」
「今朝の続きってことで」

ニヤリとするワカくんに、また心臓が跳ねてしまった。

「こ、こんな時に何言って…」
「今朝はベンケイに邪魔されたし、はこれ幸いと逃げるし、少しは傷ついたんだけど」
「う…ご、ごめ…」
「謝罪なら、コッチでな?」

ワカくんは笑いながら私の唇に指で触れた。
その感触に顔が更に熱くなる。
それにワカくんの綺麗な顔をこんな間近で見続けてることも、ハッキリ言って余計に心臓へ負担がかかってしまう。

「キス、してくんねーの?」
「…だ、だって…こんなとこで――」

もし誰か様子を見に入って来たら、と思うと、余計に緊張して来る。
するとワカくんは痺れを切らしたのか、不意に私の顎へ指をかけると、

「もういい。勝手にもらうわ」
「…え?ん…っ」

躊躇している間に唇を塞がれ、何度も優しく啄まれると、私の中で抑制されていた色んな物が溶けて行くような気がした。触れられている唇が、僅かに震える。

「…ワ、ワカくん…」
「…やっとキス出来た」

好きなだけ私の唇を味わったワカくんは、熱の孕んだ瞳で微笑む。
それは私の知ってるワカくんではなく、私の知らない男の顔を見せる彼に、どうしようもなく胸が高鳴って。今度は私からそっと、口付けた――。


好い唇にご褒美を

愛されたらどうすればいい?





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