「あれ、ふたりして埃まみれでどうしたんです?」
事務室に戻るとバイトスタッフの男の子が目を丸くして驚いている。
「オマエがテキトーに荷物積んでたからこうなったんだろ?ちゃんと中身確認して倉庫ん中整理して来て」
「あっ!そうだった。すみません」
男の子はワカくんに怖い顔で睨まれ、ペコリと頭を下げてから慌てたように走って行く。
今の子があれをやったのか、と内心苦笑してると、ワカくんは私の服についた埃を払ってくれた。
「あ…いいよ。もうこれだけ汚れてるしクリーニングに出しちゃうから」
「ごめんな。せっかく可愛いワンピースなのに」
「う、ううん…」
申し訳なさそうに眉を下げるワカくんが可愛くて、また胸の奥で音が鳴る。
さっきのことがまるで夢みたいだなんて思うのに、これはやっぱり現実なんだ。
キスをされて、つい私からもキスを返したら、ワカくんは嬉しそうに微笑んでくれて。
軽く触れるようなキスとも言えないものなのに「…からされるとめちゃくちゃ照れんな」なんて本当に照れ臭そうに笑うから、私も急に恥ずかしくなった。
「夕べ俺に言ってくれたこと忘れてるのかと思って朝は少し焦ったけど」
ワカくんにそう言われた時、ドキっとした顔をしてしまったせいで実際に忘れていたことはバレてしまったけど、苦笑いしながらもワカくんは私が彼に伝えたことを教えてくれた。
「バカって言った後に、はもっと早く言って欲しかったって泣きだしちゃってさ。で、宥めながら家に連れて帰ったらが泣きながら抱き着いてきて、私もワカくんがずっと好きだったって言ってくれた」
もう途中から聞いてるのは恥ずかしかったけど、最後ので一気に顔が赤くなってしまった。
思ってたより醜悪なことはしてなかったにせよ、私はハッキリ自分の気持ちを伝えられてたみたいだ。その後は私が泣き疲れて眠そうだったから部屋に連れてこうとしたら、まだ一緒にいたいと駄々をこねたようで、困ったワカくんは一緒に寝る?と提案したそうだ。
「せっかく我慢してたのに、は簡単に俺の理性崩そうとするし参ったわ」
と苦笑交じりで言われた時は一番恥ずかしかった。昨日の私、何してるのって呆れたけど、でもやっぱり、幸せだった。
ワカくんに言われたことを思い出し、ついニヤケそうになった口元を慌てて隠すと、目ざとい彼はニヤリとしながら私の顔を覗き込んだ。
「なーにニヤけてんの?やらしーな」
「ニ、ニヤケてない…」
頭をぐりぐりされ慌てて首をふれば、ワカくんは「ま、今夜はゆっくりシラフで話そーか」と意味深な笑みを浮かべた。
その意地悪そうな顔に少しだけ焦っていると、そこへベンケイさんが顔を出した。
「おーい、事務室でイチャつくなー。新規の客、来てんぞ」
「今行くよ」
ニヤニヤ顔のベンケイさんにワカくんは苦笑いを浮かべて手を上げた。
今は仕事中なんだと私も気持ちを切り替えて自分のデスクへ戻ろうとした時、ワカくんが振り向き「気になるなら家で着替えて来てもいいからな」と言ってくれる。
改めて自分の姿を確認すると、転んだ時にどこかへ擦ったのかワンピースの肩がほつれて黒く汚れてしまっていた。
確かに一日中この恰好で仕事をするのも躊躇われる。
「あ…じゃあお言葉に甘えて着替えてこようかな」
「ああ。それにもうすぐ昼休憩だろ。一緒に何か食いに行こ」
「え…う、うん」
思いがけない誘いについ笑顔になると、ワカくんは私の頭をくしゃりと撫でてジムの方へ戻って行った。
たったそれだけなのに、私は一気にテンションが上がり、急いでマンションへと戻る。
ふたりでランチに行くなら、やっぱり埃まみれのままじゃ恥ずかしい。
「どうせワカくん、ジムで軽くシャワー浴びてくよね」
なら私も軽くシャワーに入って埃のついた髪を洗おうと、急いでバスルームへ飛び込む。
ただランチに誘われただけなのに、気分はまるでデートにでも誘われたみたいに浮かれていた。
なのに――何でこうなるの?
急いでシャワーを浴びてジムに戻ったら、何故かレミさんが父親と一緒に来ていて。
あげくワカくんに「悪い、…。ちょっと会長に食事誘われて」と謝ってくるから、つい「いいよ」と言ってしまった。
ここで子供みたいにゴネるなんて出来ないし、会長直々に来てるのだからワカくんだって無下には出来ないのも分かってる。
ただ、少しだけ寂しいと思ってしまった。そんな思いが顔に出てたのかもしれない。
ワカくんは申し訳なさそうに私の顔を覗き込むと、優しく頭を撫でてくれた。
「悪いな…。あ、今夜埋め合わせするよ。やっぱ外に飯食いに行こ」
「…え、いいよ。埋め合わせなんて…」
「俺がと行きたいんだよ。引っ越してからがいつも美味しいご飯作ってくれるから、まだふたりで外に食いに行ったことないだろ」
「う…うん」
そんなことを言われたら、単純な私はすぐに嬉しくなってしまうから困る。
会長との食事に何でレミさんまで一緒にいるんだとは思うけど、夜ワカくんとデート出来るなら少しくらいは我慢できる。
「分かった…じゃあ夜ね」
素直に頷くと、ワカくんも嬉しそうに私の頭を軽く撫でて待たせている会長の元へ歩いて行った。レミさんは傍から見てても分かるくらいにワカくんにベッタリで、父親をダシに使ってるんじゃないのと思ってしまう。
それを見送りながら溜息をついてると「なーに落ち込んでんだよ」とベンケイさんが歩いて来た。
「お、落ち込んでるわけじゃ…」
「嘘つけ。思いっきりヘコんでんじゃねーか」
ベンケイさんに笑われて、そんなに顔に出てたんだろうかと恥ずかしくなる。
でもお互いの気持ちが分かってから、まだゆっくりふたりで話せてもいないし、やっとランチでと思ってた矢先なのだから多少は落ち込んでしまう。
「あんなのワカには仕事の一環だろ?気にすることねぇよ」
「…うん」
「それにワカと付き合うってことは大なり小なり他の女が付きまとう。ちゃんも分かってたんじゃねえの」
「それは…嫌ってほど知ってる…」
昔も今も、ワカくはいつも綺麗な女性に囲まれてて、私はいつも遠巻きにそれを見てるだけだった。もしかしたら当時のワカくんの彼女も、今の私のような想いを抱えていたのかもしれないな、とふと思う。
「まあ、ワカにしたら好きでもない女がいくら寄って来ようと面倒なだけだ。気にすんなって」
「…うん。ありがとう、ベンケイさん」
少しだけ元気が出て来てベンケイさんにお礼を言うと、私も自分の仕事へと戻る。
ワカくんとのランチに浮かれて、ちょっとだけお洒落をしてきた自分がバカみたいに思えたけど、夜の為にしてきたんだと思えばいい。
でも二時間後、ワカくんからジムのスタッフ宛に『今日はジムに戻れないから直帰する』という連絡が入ったと聞いた時、少しだけ嫌な予感はしてた。



「…早く来すぎちゃったかなぁ」
ケータイで時間を確認しながら辺りを見渡す。
もしかしたら今夜もダメかも、なんて心配していたのに、夕方ワカくんから電話が入り、会長に何やらコミッショナーの人が集まるパーティとやらに無理やり連れて行かれたとは聞かされたものの。
『会長もレミさんもだいぶ酔ってきてるから、もう少ししたらコッソリ帰れそう』なんて言ってくれてホっとした。
そこで家で待つのではなく、待ち合わせをしたいと提案したら、ワカくんもいいよと言ってくれたので、こうして先に店の前まで来ている。
やっぱり付き合ってから初めての食事デートは、恋人同士のように待ち合わせをしたい。
そんな子供みたいな私の我がままを、ワカくんは笑いながら受け入れてくれたのは素直に嬉しかった。
(でも大丈夫かなぁ…。あのふたりから上手く逃げ出せるのか心配…)
さっきジムのスタッフに聞いたのは、レミさんの会長もワカくんのことを気に入っていて、将来は娘と結婚して欲しいと思ってるとのことだった。
だから今のうちから他の地区の会長さんとも顔合わせする為にパーティに連れて行ったんだろう、なんて恐ろしいことまで言い出し、私は内心ヒヤリとした。
何でも会長さんも昔は相当悪かったらしく、元暴走族のワカくんに親近感を抱いてるらしい。
最近レミさんのことで会長が口だししてくるのも、単に娘が気に入ってるからというワケでもなさそうだ。
(でもワカくんにその気はないんだし大丈夫だよね…)
あんな話を聞いたくらいでいちいち落ち込んでたら、ワカくんとは付き合えない。
そう自分に言い聞かせるようにしながら、ワカくんが来るのを待っていた。
その時、手にしていたケータイが震えだし、表示にはワカくんの名前。
ドキっとしたけどすぐに「もしもし」と出ると、通話口からガヤガヤとした音が聞こえて来る。
『あ、?悪い…もう少しかかりそう』
「…え、そうなの?」
『抜け出そうとしたら会長に見つかって、何か色んな人紹介されるんだよ…。これが落ち着いたらハッキリ帰るって言うから――』
「だ、大丈夫だよ?大変なら無理しなくていいし…」
こうして話している間にも、後ろから若狭くん!なんて会長らしき人が呼んでる声が聞こえて来る。ワカくんの言う通り、この様子じゃ簡単に抜け出せないだろうな、という空気は理解出来た。なのにワカくんは急に『何言ってんだよ…』と不機嫌そうな声を出した。
『無理なんかしてねーし、デートしたいのに帰れなくてスネてんの俺だけかよ…』
「…そ…そんなことないよ?私だってしたいけどワカくん大変なのも分かるし…」
ワカくんがそんな風に思ってくれてることが嬉しくて泣きそうになった。
でもこんな時に我がまま言いたくないのも本心だ。
『俺は大丈夫だしちゃんと帰るから。あ、でも今日は待ち合わせなしってことで家で待ってて。もう暗くなって来てるし外で待たせてんの心配だから』
「…う、うん。分かった」
『次は絶対待ち合わせしような』
「…うんっ」
やっぱりワカくんは優しい。そうやって気を遣ってくれる辺り、大人だなぁと思う。
単純な私はやっぱり嬉しくなってすぐに返事をすると、ワカくんも安心したように電話を切った。
(ヤバイ…ニヤケちゃいそう…)
"デートしたいのに帰れなくてスネてんの俺だけかよ"
ワカくんにあんなこと言われたら顔の筋肉も緩んでしまうのは仕方ないと思う。
っていうかワカくんって恋愛モード入るとあんな感じになるんだ、なんて変な発見をしてはドキドキしてくる。
昔はもっと彼女とかにもクールなんだろうなって思ってたし、今もそんな感じに見えるのに、実際は突然キスしてきたり、抱きしめて来たりする肉食系だった。
昔の野性味のあるクールなワカくんも好きだけど、今みたいに優しいのに少し強引なワカくんも好きだ。結局、私は昔も今も今牛若狭が好きなのだ。
昔とは好きの種類が違うかもしれないけど、あの頃から私はきっとずっとワカくんに恋してる。
ワカくんに再会するまでしてきた恋愛が、今は形だけの中身のないものだったんだって、ハッキリ分かってしまった。
この二年、よくもまあ、ワカくんを兄代わりに出来てたものだって今なら笑ってしまえるけど、あの頃から絶対ワカくんは私のことを恋愛対象には見てくれないと思い込んでた。
(だから…ほんとに夢みたい…)
切れた電話すら寂しくて、でも心の奥にポっと火が灯るように、ワカくんのことを考えると胸が暖かくなるんだ。
「早く会いたい…」
毎日会ってるのに、ふとそんな思いがこみ上げて来た。



一体いつになったら帰してくれるんだとイライラしながら時計を見た。
との約束の時間は夕方5時だったのに、今はもう6時をとっくに過ぎてる。
用があると言ってるのに、会長は「もう少し。あと彼だけだから」などと言って、しつこく色んな人間を俺に紹介して来る。
同じ業界の人だから、と我慢してるけど、そろそろ限界に近かった。
「若狭くん、飲んでる?」
そこへレミさんが薄っすら頬を染めながら歩いて来た。
手にはワイングラスを持っている。
「やっぱり若狭くんも飲んだら?」
「いえ、この後に人と会う約束をしてるんで酒はいいですよ」
やんわり酒を断ると、レミさんはスネた顔で俺のことを睨んで来る。
この人には今までもそれとなく何度も断ってるのに、本当にしつこい。
いや、親子してウンザリさせてくるから嫌になる。
昔よりはだいぶ気も長くなった方だし、仕事関係の人間だから我慢はしてるけど、大事な子との約束を守れないほど俺のプライベートに入って来られたらいい加減キレそうだ。
「レミさん、俺、そろそろ行きます。約束の時間も一時間以上過ぎちゃってるし」
「えぇ~?いいじゃない。もう時間過ぎてるんでしょ?相手だって待ってないわよ」
「いえ、待っててくれてるんで俺、行きますね」
そろそろ七時になるところで俺は我慢の限界に来た。
会長もちょうど知り合いと楽しく話してるようで俺のことは忘れてるようだ。
そもそも泥酔に近いくらい飲んでるから途中で帰っても大丈夫だろう。
問題は娘の方だ。
「待ってよ、若狭くん!」
サッサと宴会場を出てホテルのロビーに歩き出した俺の後から、レミさんが追いかけて来る。
俺の態度を見ていれば分かりそうなものなのに、彼女はかなり自分に自信があるようだ。
まあ派手な美人でスタイルもいいから、それなりにモテてきたんだろう。
「ほんとに帰っちゃうの…?」
「すみません。俺から誘ったんで約束破るのはちょっと…。会長にも宜しく言っておいて下さい」
昼から付き合ってんだからもういいだろ、と思いながらエントランスまで歩いて行こうとした時、いきなり腕を掴まれた。
「約束って…誰?女の子とか?」
「…まあ」
ここまでしつこいとギネスもんだなと呆れながらも、素直に認める。
ついでに言えば、もう今までのように断る理由を探さなくてもいいんだということに気づいた。
「…何よ、それ。まさかデートじゃないでしょうね」
「デートですよ。約束の相手、俺の彼女なんで」
「……は?」
まるで理解出来ない言語を言われたかのような顔をしたレミさんを見て、思わず笑ってしまいそうになったが何とか堪える。
これまで俺は特定の恋人がいなかったし、レミさんにも最初に聞かれた時にそう言ってしまっていた。だから誘われても断る理由をたくさん考える必要があったけど、今の俺にはがいる。嘘をつく必要もなくなった。
「だ、だって特定の恋人は作る気ないって…言ってたじゃない。あれ、嘘だったわけ?」
「いえ。あの時はそう思ってましたよ?好きな子に彼氏がいたんで」
「…好きな…子って…若狭くん、そんな子いたの…?」
「まあ、最初はホントに妹みたいに思ってたんですけどね」
「…え、妹ってまさか…」
「でも…しょーもない彼氏の暴言に傷ついて頑張ってダイエットなんて始めちゃう可愛い子にうっかり惚れちゃって」
苦笑交じりで言った俺の言葉に、レミさんはその相手が誰なのかを察したようだった。
以前、と親しげに話してると「あの子、誰よ」と聞いて来たレミさんに「昔馴染みで妹みたいに可愛がってた子なんですよ」なんて話したことがあるから。
「…彼女ってあの子なの…?」
「ええ、まあ。やっと今の俺を見てくれて…鈍感な子だけど…俺にはそういうとこも全部可愛く見えるんですよね」
堂々と惚気る俺を見て、レミさんは唖然とした顔をしている。
でもこれで諦めてくれるだろう、と思った。
彼女の顏が、次第に呆れるような表情になっていったからだ。
「…はあ。バカみたい。若狭くん、ああいう感じの…っていうか年下趣味なのね」
「別に年齢とか関係ないですよ。俺は彼女だから好きになっただけで」
「…あーもう。聞きたくないわ、そんな惚気。ったく…久しぶりにときめいたのに最悪…」
「すみません」
「…謝らないでよ。ま、でもジムはやめさせてもらうわね。私、恋人がいる男に興味ないの」
プイっと顔を反らすレミさんに、つい苦笑いを零した。
さすがは会長の娘。人のものにちょっかいをかけるというのは彼女のプライドが許さないようだ。
「今日までありがとう御座いました。会長にも宜しくお伝え下さい」
「…父には私が振ったことにしておくわ。あの様子じゃまだ私の婿に、なんて言いかねないし」
「お願いします」
苦笑しながら頭を下げると、レミさんは手を振りながら宴会会場に戻っていく。
それを見送ってから、俺はホテルを後にした。
問題もひとつ解決して、久しぶりにスッキリした気分だ。
(…もう待ちくたびれてるかな…)
時計を見れば午後の七時半。家に着くのは八時頃になりそうだ。
ホテル前に止まっていたタクシーに乗り込むと、すぐに行き先を告げる。
そしてケータイを出すと、に電話をかけた。早く、に会いたくなった。



"あと30分で帰る"
ワカくんから電話が来て、そう言われた時は、その場で飛び上がりたくなったくらいに嬉しかった。何だかんだ想いを告げ合ってからまともな時間を持つのは、今日が初めてなのだ。
今からドキドキしてきて、私は何度もベランダへ出てはマンション前に止まるタクシーがないか確認してしまった。
「メイクも服装も大丈夫よね…」
これで何回目か分からない全身のチェックをするのに、鏡の前に立ってひとつひとつ見て行く。
髪型も綺麗にブローされてサラサラだし、普段より少し大人っぽい肩を出した黒のロングワンピース、メイクも薄目ながらきっちりグロスを塗って唇はぷるぷるにしておく。
気合い入れ過ぎかなと心配になったけど、いつもスッピンを見られちゃってるわけだし、デートの時くらいいいよね、なんて自己完結してしまった。
ふと時計を見れば、ワカくんが電話をしてきてから20分は経っている。
そろそろ帰って来てもいい頃だ。
「あ、下で待ってようかな」
どうせ出かけるんだからワカくんが乗って来たタクシーを乗って行っちゃえばいいんだと思いつき、私はバッグを掴むとすぐに部屋を出てエントランスまで急いだ。
でもまだワカくんはついてなくて渋滞にでもハマったんだろうかと心配になる。
幅の広い歩道まで出て通りを眺めても、それらしいタクシーは走って来ない。
「遅いなあ…」
会いたい気持ちが大きくなりすぎて、一瞬電話してみようか、なんて考えが頭を過ぎる。
でもワカくんは確実に帰って来る途中だろうし、何かあればケータイに連絡をくれるはずだ。
何もないならこっちからかけるべきじゃない。
「早く…会いたいな…」
車道を走る車の流れをぼんやり眺めながら、ふとそんな言葉が零れ落ちる。
その時「あれぇ?じゃん」という聞き覚えのある声が聞こえて来て、ドキっとした。
見れば向かい側の道路から渡って歩いて来る人影が見える。
それは去年のクリスマスに別れた元カレの正樹だった。
「…正樹?」
「何だよ、今来たの?オマエに会いにジムまで行ったのにいねーから帰るとこだったわ」
正樹はそんな事を言いながら私の方まで歩いて来ると「久しぶり」と嘘くさい笑顔を見せる。
「何してるの?こんな場所で…」
「だからジムに行ってみたんだって。オマエ、大学傍のジムに通ってるって言ってたじゃん」
「…何で?」
「何でって…会いたくなったからさ。でも何かジムでオマエのこと聞いたら、すっげー体の大きなオッサンに怖い顔で睨まれていねえ!の一言で追い出されたわ。何なの、アイツ」
それを聞いてベンケイさんだと思った。
きっと元カレの愚痴を言ったことがあるから正樹だって気づいたのかもしれない。
(それにしてもオッサンって。ベンケイさんはまだ若いのに失礼な男…いやベンケイさんは確かにフケてるけど)(!)
「何それ。正樹、彼女いたじゃない。クリスマスにデートしてたでしょ?」
相変らずチャラい正樹を睨む。
高校の時は普通だったのに大学に入った途端、サークルとか入ってチャラくなっていった元カレは、今や完全に軽薄を絵に描いたような男に仕上がっていた。
黒かった髪もアッシュに染めて、片耳にピアスを沢山つけている。
ハッキリ言って似合わない。高校の時はもっと爽やかなイケメンだったのに今じゃ昔の爽やかさは見る影もない。
「ああ、アイツとは先週別れたんだ。勝手に俺のケータイ見るようになってさ。最悪だろ?そんな女」
「………(元カノにそんなことを言いに来るアンタだって最悪じゃない)」
と内心思ったが、こんなところで長々と話したくもなかった。
スルーしていると、正樹はジロジロと私を見て「ってか、綺麗になったんじゃね?すげースタイル良くなってるし」とニヤニヤしている。
その顔が不快で、私はジロリと正樹を睨みつけた。
「アンタのおかげでジムに通うことになったから、そこだけは感謝してる。でも話すこと何もないから帰ってよ。私、人を待ってるの」
「何だよ。冷たいじゃん。ってか待ってるヤツって誰?男?」
「…そうだけど正樹に何か関係あるの?ないでしょ」
「へぇ…新しい彼氏?」
「何よ…早く帰ってよ…」
ジリジリと近づいて来る正樹が怖くて、私はマンションの中へ逃げ込もうかと思った。
けど、そんなことをすれば、ここに住んでるのがバレてしまう。
私はエントランスじゃなく、駐車場の方へゆっくりと後ずさった。
今、一台マンションの住人の車が入って行くのが見えたのだ。
いざという時はその人に助けを求めようと思った。
「なあ、久しぶりに会ったんだし、そんな男ほっといて俺と飲みにでもいかねぇ?」
「…行くわけないでしょ」
「いいじゃん。俺、やっぱじゃなきゃダメだって気づいたんだって」
「…何言ってんの?そっちが浮気したんじゃない」
「それはが俺を大事にしなかったからだろ?」
「…どの口が言ってんの?私、正樹に大事にされた記憶なんかないから」
人のことを否定ばかりしてきたクセに、どういう神経があればノコノコ顔なんか出せるんだと思った。なのに正樹はムっとした顔で一気に距離を詰めて来た。
「いたっ…放してよ…!」
いきなり手首を掴まれ、思わず声を上げる。
正樹は口はちょっと悪かったけど、私に触れる時は優しい人だった記憶があるのに、いつの間にこんなに乱暴になったんだろうと驚いた。
「へえ、随分痩せたな、。前はもう少し肉付き良かったのに」
「放してってば!もしかして酔ってるの…っ?人呼ぶわよ?」
かすかにアルコールの匂いをさせている正樹は随分と変わったように見えた。
少し怖くなった私は掴まれている手を振り払うと、駐車場の方へ走る。
さっきの人がまだいるなら助けてもらおうと思ったのだ。
しかし駐車場に人気はなく、すでにマンション内へ入ってしまったようだった。
「なーに逃げてんの?ダメだろ。勝手にこんなとこ入っちゃ」
「こ…来ないでよ…帰ってっ」
「やだね。俺がどんなけ勇気出してオマエに会いに来たと思ってんの」
「知らない…。私は今、好きな人がいるの。正樹とどうこうなるつもりもないから」
マンションへ続く扉のある方へゆっくりと下がって行く。
危なくなったらバレてもいいから中へ逃げるしかない。
正樹は自分から離れる私が気に入らないのか、それとも逃げるから追いたくなるのか、一向に帰る素振りを見せず、ジリジリと私の方へ近づいて来た。
「なあ…もう一回だけチャンスくんねぇ?俺やっぱりが好き――」
「だからやだってば…あっち行ってよっ」
「…あ?何だよ、その言い方…」
正樹はムっとしたような顔で詰め寄って来ると、力任せに私の肩を掴んでマンションロビーへと続くドアに思い切り押し付けた。ガンっと音が響いてびくりと首を窄める。
付き合ってた時でもこんな乱暴にされたことはない。
不意に過去の怖い記憶が蘇った。車に乗せられそうになった、あの夜のことを。
「や…放して…っ」
「悪かったよ…謝るからまた俺と――」
正樹がそう言って顔を近づけて来たのが見えて、私は鳥肌が立った。
慌てて顔を背けながら、正樹を押しやろうとした、その時。
正樹が勢いよく私から引きはがされたと思った次の瞬間には、思い切り吹っ飛んでいて。
目の前には怖い顔をしたワカくんが肩で息をしながら立っていた。
「…ワ…ワカ…くん…?」
「…っ」
ワカくんは慌てたように私の方へ走って来ると思い切り抱きしめてくれた。
「悪い…遅くなって…大丈夫か?何もされてねーかよ?!」
ワカくんは青い顔をしながら私の両頬を掴んで、ケガをしてないか確認している。
「だ、大丈夫…ワカくん来てくれたから…」
「あ、おい…!」
ワカくんの顔を見て安心いたせいか、足の力が抜けてしゃがみこんだ。
分かってはいたけど、力では男の人に敵わない。
だからこそ、あんな風にちょっと乱暴されただけでも、心の底から怖くなってしまう。
殴られたわけじゃなくても、恐怖は感じるのだ。
嫌な記憶まで蘇って、目の奥が熱くなった。
「こ、怖かった…」
ワカくんに抱き着くと、ぎゅっと強く抱きしめてくれた。
「ごめん…俺が遅くなったせいで…途中事故があったらしくてちょっとだけ渋滞にハマっちゃって…」
「…で、でも何でここだって…分かったの…?」
ワカくんが優しく背中をさすってくれたおかげで、少しだけ気分も落ち着いて来た。
そこで気になったことを尋ねると、ワカくんは溜息交じりで顔を上げた。
「家に帰ってもいねーし、ジムかと思って顔出したらベンケイにの元カレが尋ねて来たって聞いて嫌な予感してさ。電話しても出ねーしマンション戻って来てロビー入ったら駐車場のドアから何かすげー音がしたから、もしかしてと思って」
「電話…ごめん…気づかなかった…」
「いや…そんなことより…コイツ、どーする?」
ワカくんはそう言って後ろを振り返る。
見れば正樹が完全に伸びていて気を失ってるようだ。
「思いっきり殴ったから暫く起きねーかも……」
ワカくんは口元を引きつらせながら頭をかいている。
確かに最強2トップを張ってたワカくんに本気のパンチを喰らったなら、ケンカすらしたことのない正樹は明日まで夢の中かもしれない。
「いいよ…放置で。結構酔ってたっぽいから、マンションの人も酔っ払いが倒れてるって通報してくれるかもしれないし」
「そうだな…。ま、目が覚めたら勝手に帰んだろ」
ワカくんはそう言って私の手を引いて立たせてくれた。
「ほんとケガしてねぇの?」
「うん…大丈夫…。正樹はバカだけど、殴ってくるような人じゃないし…」
「ならいいけど…他に何もされなかった?」
「…うん」
「…良かった」
ワカくんは今度こそホっとしたように微笑むと「で、どうしよっか」と聞いて来た。
「出かける元気、ある?」
「え、もちろん…」
「そ?じゃあ…ちょっと予定変更していい?」
「…え?」
ワカくんはそう言って私の手を引くと、車がある場所ではなく、何故か自転車やバイクが止められているスペースへと歩いて行く。
そしてその中の一台のバイクの前で足を止めた。
この赤いボディのバイクは見覚えがある。
「こ…これワカくんの…ザリ」
「一応、メンテもしてるし実は時々乗ってんだ」
「…え」
「たまに思い出すと無性に乗りたくなっちゃって」
ワカくんは笑いながらメットを取ると私にそれを渡した。
「ワカくん…?」
「久しぶりに俺のバイクでドライヴしねぇ?」
「…え、乗って…いいの?」
「当たり前だろ。あ、でも今は騒音とかうるせーから外に出すまでエンジンかけられねーけど」
ワカくんはそう言ってバイクを外へ出すと、昔のように慣れた手つきでエンジンをかけた。
その音が懐かしくて、胸に色んなものがこみ上げて来たのと同時に、一瞬であの夜を思い出す。
私が初めてワカくんのバイクに乗った、あの夜を。
恐怖しかなかった夜を、ワカくんの赤いバイクがキラキラした景色に塗り替えてくれたあの日、私はワカくんに恋をした。
「もう…乗れないと思ってた…ワカくんのバイク」
「何で?」
「だって…あの頃はワカくんのバイクに乗せて欲しい女の子は山ほどいて、でもあの後に聞いたの。ワカくんは…バイクに女の子を乗せない主義だって…」
そう、あの夜私はバイクに乗せてもらったけど、あの後にそんな話を聞いて凄く驚いた。
だから余計に嬉しくて、ワカくんの優しさが伝わって来て、私はますますワカくんに夢中になって。だから、ずっと、聞きたかった。
あの時、何でバイクに乗せてくれたんですかって――。
「あの夜…どうして乗せてくれたの?女の子は乗せない主義の特攻隊長さんが」
思い切って尋ねると、ワカくんの視線が一瞬だけ彷徨って、ふと私に戻って来た。
「…何で…だろうな…。確かにあの頃はそんなどうでもいいことに拘ってた。でも…そうだな」
ワカくんの手が、そっと頬に触れてドキっとした。
「きっとのことを…こんな風に好きになる予感があったのかもな…」
「…ま…まさか…あの頃のワカくんは――」
と言いかけた時、ワカくんの唇が私のと重なる。
でもそれはすぐに離れて、ワカくんは私をそっと抱きしめた。
「よく…分かんねえけど…今はあの時の自分の行動を褒めてやりたいって思ってる」
「…ワカくん…」
「それに今の俺は間違いなく、のことが好きだから」
その一言で、胸の奥がざわめいた。
ワカくんからその言葉を言われるなんて、思ってもみなくて。
ワカくんのことでは何ひとつ自信なんか持てなかった心が、一度のキスから始まったペシミスティックな感情が、今では綺麗に消え去っていく。
「私は……ずーっとずーっと前からワカくんのこと、好きだった」
「…それって憧れってだけじゃないの?」
ワカくんは苦笑しながら私の額を指でつついてくる。
確かに最初はそうだったかもしれない。
勝手に理想を作り上げていたのかもしれない。
けれど、私の心に根付いたワカくんへの想いは、憧れなんて言葉では表せないものだった、と今ならハッキリ言える。
「私は出会った時から、ワカくんを愛してる」
心の奥に隠れていた本心をハッキリ告げると、ワカくんは少しだけ驚いた顔をして、そして――。
ワカくんはふわりと私を抱き上げて、愛機の後ろに乗せてくれた。
それが答えのような気がして泣きそうになった私に、ワカくんは優しく微笑んだ。
「―――今の俺は好きな子しか後ろに乗せない」
そう言ってワカくんは、今までで一番甘いキスを、私の唇に落とした――。
だって愛だからさ
最後の恋にするなら君とがいい
"同居はじめました"の一部をパロってみようと始めた連載でしたが、それとワカたちの年齢が違うので結構撃沈しました笑
拙い作品ですが最後まで読んで頂いた方がいるならば、本当にありがとう御座いました🥰