始まりの夏

静かな空間に、衣擦れの音と甘く切なげな嬌声が控え目に響いていた。隣室からそれが聞こえるたび、嫌がおうにも顔の熱が上がって、すぐ傍にいる存在を意識してしまう。さっき以上に密着してる部分が熱い。

「なあ…触ってい…?」

薄闇の中、熱を孕んだ男の声が、わたしの鼓膜を揺らした。
彼の手のひらが肌を這うたび、心に淫らな灯をともす。
彼の手を押しやろうとするそんな弱々しい抵抗なんて、もはや何の意味も成さないのに。
結局、はっきり拒めなかったのは、わたし自身、そうなることを心のどこかで望んでいたからかもしれない。


彼――羽宮一虎くんと再会したのは、高校三年の夏休みだった。
友達に誘われて行った家で、彼がいるのを見つけた時は凄く驚いた。

「あれ…じゃね?」
「え…もしかして一虎くん…?」
「おー。覚えててくれたんだ」

そう言って笑う一虎くんは何も変わっていない。相変わらずイケメン過ぎるくらいにカッコ良くて、黒金に染めた髪は良く似合っていた。リン…っと涼しげに鳴る彼のピアスさえ懐かしい。

「久しぶりだねー!一虎くん、ちっとも変わらない」
「そーか?つーか、オマエが家の事情で大阪に引っ越して以来だから…二年ぶりくらいだっけか?」
「そうかも」
「いつこっちに戻って来たんだよ」
「今年の春だよ」
「マジ?なら連絡しろよ」
「え、だって連絡先なんて知らないし…」
「オレじゃなくてもマイキーとかエマとかいんだろ」
「それが番号変わってて繋がらなかったの。だからそのうち会いに行こうと思ってたんだけど…っていうか、みんな元気?」

懐かしい名前が出て思わず笑顔になった。全員、わたしの幼馴染だ。
二年前までは、わたしもこの街に住んでいた。一虎くんと知り合ったのは中一の頃。幼馴染の万次郎や圭介に「新しい仲間」として紹介された。当時の一虎くんは綺麗な顔をしてるのに「この顔じゃ舐められる」なんて言ってパンチパーマにしてたから、ちょっと怖い印象だったけど、仲良くなるにつれ、不器用なだけで、ほんとは優しい人なんだと分かってきたっけ。
そのうち「パンチじゃ女にモテねえ」とか言い出して、髪を伸ばし始めたら、予想以上に学校の女子から受けが良かったらしく、「一気にモテ期がきた」と自慢してたのを思い出す。あの辺りから少しずつチャラくなってた気がするけど、今もその頃とあまり雰囲気は変わっていない。

「マイキーもエマも相変わらずだよ。東卍は解散しても相変わらずつるんでるし」
「そっかー。みんなに会いたいな」
「おーアイツらもが戻って来たって知ったら喜ぶんじゃね?今度みんなで集まろうぜ」
「うん」

そんな話題で盛り上がっていると、今日の集まりの発案者でもある友達のナルミが「そこ、何盛り上がってんのー?」と乱入してきた。
今日はナルミとその友達の男の子とで集まるから「も来ない?」と誘われて、夏休みに何の予定もなかったわたしは二つ返事でOKしたのだ。

「ちょっと昔の知り合いなの」
「へえ、そうなんだ!凄い偶然だね~」

ナルミは意味深に笑いながら、わたしの肘を突いてくる。そして「一虎くんのこと紹介しようと思ってたけど、その必要ないみたいだね」と笑った。それを聞いてギョっとしたものの、何となくこの場の空気を察してしまった。
ただの暇人の集まり、なんて言ってたけど、これは多分…合コンってやつだ。

「じゃあ飲み物持ってくるから二人は思い出話でもしてて」

ナルミはそう言いながら一虎くんの友達の男の子と部屋を出て行く。きっとナルミはあっちの子が本命なんだろう。

「もう…そういう話なら先に言えばいいのに」

そうボヤいたのを聞いていた一虎くんは少し驚いた様子でわたしを見下ろした。

「え、オマエ、今日の趣旨知らんかったの?」
「う…まあ…でもホント暇だったからいいんだけど。こうして一虎くんとも再会できたし」
「だよなー?ってか夏休みに暇なのかよ。は彼氏いねーの?」
「う…」

さらりと聞きにくいことを聞くなあと苦笑が漏れた。
昔から一虎くんは思ったことをズバズバ言う性格だったことを思い出す。

「一応…最近までいたんだけど…別れたの」
「へえ…そーなんだ。同じ学校のヤツ?」
「ううん、大阪に住んでた時に付き合って。でもこっちに戻ることになったらケンカも増えちゃって、それでもう無理かなーなんて」
「…マジか。まー…元気出せ」
「もう平気だよ」

軽く頭を撫でてくる一虎くんに、笑顔でそう応えた。でも実際はちょっと落ち込んでたのだ。
大阪の高校に転校して少しした頃、同じクラスのエイトくんから告白されて付き合うことになった。
エイトくんはイケメンで懐っこくて学校でも人気のある男の子で、当初大阪の学校にあまり馴染めてなかったわたしは随分と彼に助けられたものだった。
最初はいい人だなと思って付き合い始めたけど、そのうちわたしも彼のことを本気で好きになっていって。
だから付き合い始めて一年目の記念日、わたしはエイトくんを初めての相手に選んだ。大阪での生活は何気に幸せいっぱいだったと思う。

(まあ…その後にまさか東京に戻ることになるとは思わなかったけど)

何度も話し合ったし、わたしは別れるつもりもなかったけど、こういう時、男の子の方が意外とアッサリしているんだと思い知らされた。

――もう別れよ。遠距離恋愛なんてオレには無理やし。

夏休みになったら会いに行くから、と何度電話で言っても彼の気持ちは変わらなくて。結果、わたしがフラれた形で終わりを迎えた。
あっけない恋だったと思う。

「っていうわけで、高校最後の夏休みはぼっち決定なんだ。あーだからナルミが今日誘ってくれたのかも」

言いながら自嘲気味に笑う。でも黙って聞いていた一虎くんは「そんな男なんて忘れちまえ」と意外なほど優しい笑顔をくれた。過去に何度もこの目に映したことのある一虎くんだ。
その懐かしい笑顔を見て、ふと思った。
エイトくんに告白された時、一虎くんを思い出したことを。
彼はどことなく一虎くんに似ていたんだ。

「おい、大丈夫か?何か泣きそうな顔してんぞ」
「え?あ…ううん、大丈夫。ありがと」

ボーっと一虎くんを見上げていると、不意に目の前で手を振られ、我に返った。一瞬、昔に戻ったような感覚に襲われたのだ。

「ならいいけど。今日はパーっと飲んで嫌なことなんか忘れろよ」
「…飲む?」

何を――?と聞こうとしたその時、ナルミが数本の缶ビールを手に戻ってきて、それを当然のように一虎くんへ渡している。

「ほら、もこれね」
「え、お酒…?それはちょっと…」

いくら何でも羽目を外しすぎなんじゃ?と驚いたものの、一虎くんはすでに缶ビールを飲みだしている。その飲みっぷりはとても初めてのようには見えなかった。

「いいじゃん。夏休みなんだしも共犯になれよ」
「でも…」

と渋っていると、一虎くんは缶ビールを開けてわたしの手に握らせた。冷んやりとした缶の感触が手から伝わって、水滴が指に触れる。

「まさか飲んだことねえの?」
「え、あ…えっと…まあ…お正月はお父さん達に一杯だけ付き合わされるけど…」
「なら平気だな」
「う…」

ニヤリと口端を上げる一虎くんに何も言い返すことが出来ず、わたしは渋々ながら頷いた。
ただ飲んだことはあれど、強いわけじゃない。当たり前だけど。
酔っ払ったらどうしよう、なんて少しの不安を感じていると、一虎くんはわたしの持つ缶ビールに自分のそれをカツンと当てた。

「再会を祝して乾杯」
「か…乾杯」

どうしてこう流されやすいんだ、と自分を呪いつつ、ビールを口に運ぶ。お正月以外で飲むビールは、ほんの少し大人の味がした。
きっとハッキリ断ったら、みんなも無理強いはしない。それを薄々分かっていながら断らなかったのは、わたしも密かにこの再会を心の中で喜んでいたからだ。
一虎くんは――わたしの初恋の人だから。