Run away
Run away
Run away
恐ろしき闇の牢獄
逃げ出せば"吸魂鬼"が来るぞ――
シリウスがアズカバンを脱獄した――
そう聞いた時、私は会えるかもしれない、という嬉しさよりも、シリウスが"何"に追われる事になるか、という現実を知らされ、心の底から心配になった。
「…吸魂鬼?」
「そうだ。アズカバンの看守を務めている…」
「それが…そんなに危険な奴なの?」
私の質問に、リーマスは深い息を吐きながら眉を顰めた。
「生物の中で一番忌まわしきものの一つだよ。ディメンターは人の心から発せられる幸福や喜びなどの感情を感知して、それを吸い取り自身の糧とする」
「…幸せや…喜び…?」
「そうだ…。だからあいつらが看守を務めているアズカバンの囚人達は生きる喜びや幸福を吸い取られ、次第に食べる気力さえ失うようになり…殆どがそこで死ぬ」
リーマスの話を聞いてゾっとした。シリウスはそんなところに長い間、閉じ込められていたのだ。
「それで…シリウスは――」
「…しっ!これ以上、彼の話をここでするのはマズイ…」
小声で言ってから、リーマスは辺りを見渡した。――ここは"漏れ鍋"で、私とリーマスは店の奥の柱の陰、という何とも陰気な場所にあるテーブルで話をしていた。
リーマスが今学期からホグワーツの教師になる為、生徒の一人と個人的に知り合いだとバレると、色々と問題があるらしく、こうしてコソコソと会っているのだ。
これが私的には少々…いや、かなり不満だった。
夏休みも久しぶりにリーマスとノンビリ出来るかと思っていたが、あの手紙が来た事でリーマスは慌ててどこかへ出かけて行き、長い間戻っては来なかった。
あげく、ふくろう便を使って、"外へは出るな"という短い手紙だけを送ってよこし、結局、私の夏休みは殆どホテルに軟禁状態で終わってしまったのだ。
しかも戻ってきたのは夏休みが終わる当日で、何の説明もないまま今朝、漏れ鍋へと連れてこられた。これで不満がなければおかしいというものだ。
「じゃあ、いつ話してくれるのよ。お養父さんのこと」
名前がマズイという事でそう言えば、リーマスの強張った顔が一瞬だけ緩んだ気がした。
「…何度聞いてもおかしな気分だな。彼がそう呼ばれるのは」
そう呟きながら、柱に貼ってある手配書の中のシリウスを眺めた。
そこには、私が持っている写真よりも、少しだけ歳を重ねたシリウスが写っている。
指名手配犯として載っているのは不本意だけど、それでも私の知らない今のシリウスが写っていて、思わず先ほど見かけた時には手配書を一枚盗んでしまった。
「この写真はどう見ても"極悪人"にしか見えないもんね。父親ってイメージじゃないかな」
私も苦笑交じりで肩を竦めると、リーマスも苦笑いを浮かべ、温くなったコーヒーを口に運んだ。
「いいか?…。ここら辺の魔法使い達はシリ…君のお養父さんの事を、"例のあの人"の部下だと信じている」
「嘘よ、そんなの」
「ああ、もちろんだ。だがそう信じている者が殆どだ。皆、真実を知らないんだから仕方ない…。だからこそ、こうして指名手配されているんだ」
リーマスは周りを伺うように視線を走らせ、再び私を見つめた。
「だからホグワーツへ戻れば、への風当たりも今まで以上にキツいものになるだろう…。それでも耐えられるか?」
「…耐えられるわ。下らないイジメをしてくる奴らになんか負けない」
「…さすがだな。負けん気の強さも、彼にソックリだ」
リーマスはそう言って笑うと、「それで、ここからが大事なんだが…」と、更に声を潜めた。
「彼が脱獄した理由はまだハッキリしていないが…もし…いや万が一、彼が君に接触してきたら…すぐにわたしかダンブルドアへ知らせてくれ」
「…でも…ダンブルドアに見つかれば、お養父さんはまたアズカバンへ連れ戻されるかも――」
「悪いようにはしない。ダンブルドアは彼を信じている仲間だ…。だからもし連絡があればディメンターに見つかる前にダンブルドアに知らせた方が安全だ」
「…うん…」
「それと…ディメンターはの事も監視しようとするかもしれない。ダンブルドアがホグワーツの敷地内には入れないと思うが…充分に気をつけるんだ。何かあればすぐにわたしに言いなさい。分かったね?」
「…分かったわ」
そう頷いたものの、その恐ろしい化け物がすぐ近くにいると思うと、やっぱり少しだけ怖いという気持ちが込み上げてくる。
でもシリウスが必死の思いで、あのアズカバンから脱獄したのに私だけ逃げ出すわけにはいかない。
それに、さっきリーマスも言っていたが、もしかしたらシリウスが私に会いに来るかもしれないのだ。
子供の頃から、ずっと会いたいと思っていた。出来れば…会いに来てほしい、とそう思った。
その時、リーマスが慌てたように顔を隠した。
「どうしたの?」
「…ホグワーツの生徒達だ」
「…え?ああ…」
入り口の方に視線を向けると、確かに見覚えのある顔が揃っている。
ホグワーツでも有名なハリー・ポッターと、その友人のハーマイオニー・グレンジャー、そしてロン・ウィーズリーだ。
「一緒にいるところを見られるとマズイ。私は先に行ってるとしよう」
「え…もう?」
少し不安になって、ついそんな言い方をしてしまった。リーマスもそれに気づいたのか、優しい笑みを浮かべると、いつものように私の頭を撫でた。
「ここにはディメンターも来ないさ。それに…彼らも同じグリフィンドール生なんだ。話しかけてくればいいじゃないか。お互い顔は知ってるんだろ?」
「…知ってるけど…。2〜3回、挨拶した程度だし」
「どうしてだ?彼らはの事をイジメては来ないんだろう?前にそう言ってたじゃないか」
「そうだけど……ハリーは色々と有名人だから周りに人が大勢いるし、何となく近寄りにくいわ。ハーマイオニーは優等生だし、ロンは…」
と、そこで言葉を切って考えたが、特に何もなかった(!)
その時、リーマスは再びハリー達の方へ視線を向けると、「ハリーと友達になればいいのに…」と、不意に呟いた。
何となく今の親しげな言い方が気になり、顔を上げると、リーマスは、まだハリー達を見つめている。その横顔が、何故だか嬉しそうに見えた。
(そう言えば…リーマスは何故見ただけで、彼らが前に話した事のあるハリー・ポッターだと分かったの?)
ふと先ほどのリーマスの言葉を思い出し疑問に思った。
「…リーマス…?もしかしてハリーのこと…知ってるの?」
「…え?いや…知らないよ、もちろん。ただ…と同じ境遇だというのは知っているさ。有名だしね」
「でも彼らが前に私が話した生徒だって知ってたじゃない。リーマスは皆の顔なんか知らないでしょ?」
私が疑問をぶつけると、リーマスは少し驚いた顔をして、すぐに苦笑いを零した。
「ああ…いや知らないよ。ただウィーズリーの事は知ってる。一緒にいるのは彼の息子だろう?よく似ている。が前にハリー・ポッターはウィーズリーと仲がいいと言ってたじゃないか」
「そうだったっけ…」
考えてみたが、自分がどう話したのかまでは思い出せない。でもリーマスが言うならそうだったんだろう、と気にしない事にした。
「でも…彼…ハリーと私の境遇は同じでも、立場が違うわ」
「立場?」
「彼は英雄だけど…私は殺人鬼の娘。友達になれるわけないでしょ」
そう言って肩を竦めると、リーマスは少しだけ寂しそうな顔をしてから、私を最後に抱きしめた。
「…じゃあ、わたしは先に行ってる。も少しだけ時間をおいて汽車に乗りなさい」
「うん…」
「あと、さっきも言ったが――」
「"学校では教師と生徒。呼び捨てするのは禁止。緊急時を除き、連絡を取りたい時は手紙で"!」
「…その通りだ」
一言一句、言われた通りの事を言うと、リーマスは苦笑いを浮かべた。
「でも本当に緊急の時はわたしの部屋に直接来なさい。もちろん――」
「生徒として、でしょ?分かってるわよ」
「よろしい」
リーマスが澄ました顔で頷いた。
「それじゃ…学校で」
「うん。後でね、お養父さん!」
「……か、からかうな」
歩いていく背中に、そう呼びかけると、リーマスは顔を赤くして振り向き、そのまま慌てたように奥へと走り去る。
育ての親でもあるリーマスに、時々ふざけて"お養父さん"と呼ぶ時の反応が面白くて、こうしてたまにからかってしまうのだ。
(まあ、リーマスも若いし、おとうさんって感じはしないけど…。あ、でも教師になったんだから、娘としてもう少しお洒落な格好をさせるべきだったわ)
そんな酷い事を考えながら、私はすっかり冷めてしまったスープを口に運び、顔を顰めた。
「――ハリー!会えて嬉しいわ!」
その大きな声にドキっとして柱の陰から覗いてみると、ウィーズリー家の人たちが顔を揃えていた。
今、大きな声を出していたのはロンの母親で、ハリー・ポッターと親しげに話している。ロンの兄である双子もやってきて相変わらず賑やかな家族だ。
そこへロンの父親もやって来た。彼の父親は確か魔法省で働いていると、誰かが話してるのを聞いた事がある。
魔法省は今、必死でシリウスを探しているだろうし、出来ればあまり近づきたくはない。
そう思っていると、何故かロンの父親と、ハリーが私の方へ歩いて来た。つい条件反射で背中を向けて、なるべく目立たないようにする。
二人は柱の陰まで歩いてくると、私の存在に気づかず、話し出した。
「…ハリー。魔法省の中には、この話を君にするなと言う者もいる。だが…事実は知っておくべきだ」
そんな話が聞こえてきて、私は興味をそそられた。魔法省に務めているロンの父親が、あのハリー・ポッターに何を言うつもりなのか。
私はピクリとも動かず、息を殺して二人の会話に聞き耳を立てた。
「…君に危険が迫っている…。とても大きな危険がね」
「シリウス・ブラックと関係があるんですか?」
その名がハリーの口から出た時、思わず声を出しそうになった。何とか堪えていると、ロンの父親が更に声を潜めて話し出す。
「…何か知ってるのか?」
「…アズカバンから脱獄したって」
「その理由は?」
「………いえ」
その会話を聞いているだけでもドキドキしてきた。何故シリウスの話をハリーにしているのかも気になる。
そう思っていると、ロンの父親は小さく息を吐き出した。
「…13年前…君が倒した…」
「ヴォルデモート?」
「その名前を言うな!」
「…すみません」
ロンの父親に怒られ、ハリーも素直に謝っている。でもヴォルデモートの話まで出てきた事で、私は少しだけ嫌な予感がした。
「"例のあの人"が…君に追い払われて――ブラックは全てを失った。だが今も、あの人の忠実な僕だ。そしてブラックは君さえいなければ"例のあの人"が再び、力を取り戻せると信じている…。だからこそ、奴はアズカバンを脱獄した。君を捜して――」
「殺すために?」
「…ハリー、約束してくれ。何を聞かされても、ブラックを捜さないと…」
「僕を狙ってるやつを、何故僕が捜すんです?」
ハリー・ポッターの一言に、ロンの父親は「そうだな、うん、そうだ」と頷きながら、再びハリーを連れて歩いて行く。
二人が離れて行った事で、私は大きく息を吐き出すと、怒りで握り締められた拳を、テーブルに叩きつけてしまわないよう、かなりの我慢をするハメになった。
(許せない…何なの?あのおじさん!)
リーマスからも聞いて分かってはいたが、シリウスの事を"ヴォルデモートの忠実な僕"と信じ込んでいる様子に、聞いていて腹が立ったのだ。
(しかもハリー・ポッターを狙ってる?ありえないわ!)
勝手なことばかり言っていたロンの父親に対し、怒りが溢れてくるのを何とか抑え、私はすぐに店を出た。
これ以上、ここにいたら彼らの前に行って怒鳴ってしまいそうだ。
巨大な煉瓦の壁を抜け、ダイアゴン横丁へ向かうと、あてもなく、ただ歩いていく。
出発時刻の11時には、まだあと一時間もあるから時間を潰しがてら怒りの熱を冷まそうと思った。
(何でシリウスがあいつの僕で、ハリーを狙わないといけないわけ?間違ってる情報を、あそこまで信じきってるなんてホント腹が立つったら!)
プリプリしながら歩いている私を、皆が避けるようにしていく。いつもは混みあって歩きにくい道も、今日はスムーズに通れた。
「あ…いけない。お金おろしておかないと…」
グリンゴッツ魔法銀行が見えてきて、ふと思い出す。
シリウスが自分の資産を私に使えと言っていたようで、鍵はホグワーツに入学する時、リーマスから預かっているのだ。
最初にあの金庫内へ入った時は、その大金の山にかなり驚かされた。
でも元々リーマスとの貧乏生活に慣れている(!)私は、そんな大金は必要ないし、ホグワーツに行く時も一年を通して足りる程度のお金しかおろさない。
いつものように銀行へ行き、ゴブリンに金庫まで案内してもらうと、私は必要な分だけのお金をバッグに入れた。
(…あ、でもそう言えば今年からホグズミード村に行けるようになるんだっけ…)
ホグワーツの生徒は3年生になると、保護者から許可証にサインを貰うことでホグズミード村へ遊びに行く事が可能になるのだ。
その事を思い出し、いつもよりは少し多めにお金を持つ。それと大事な事をもう一つ思い出した。
(そうだ…。もしシリウスが私に会いに来たとしたら…お金が必要だわ)
万が一シリウスが会いに来た時の事も考えて、逃亡に必要だと思うだけのお金もバッグの奥へ仕舞いこむ。
もともとシリウスのお金なのだから、その中の分を返したってリーマスも怒りはしないだろう。
というよりも、私はシリウスが私の前に姿を見せた場合、ダンブルドアに知らせず逃がすつもりでいた。
いくらダンブルドアが偉大なる魔法使いであり、信用できるからといって、シリウスをアズカバンから助け出せないのでは仕方がない。
アズカバンが恐ろしいところだとは聞いていたけど、先ほどリーマスからディメンターの話を聞いて、どれほどひどい場所かが分かった。
そんなところへシリウスをみすみす連れ戻させはしない。例えそれが重い罪になったとしても、今度は私がシリウスを守りたかった。
「――どうも」
愛想のないゴブリンに見送られ、銀行を出る。その時、入り口のところに、あの手配書が貼り付けてあり、私は足を止めた。
"HAVE YOU SEEN THIS WIZARD?"
そう書かれてある手配書には、シリウスが苦痛の表情で何かを訴えている姿が映し出されていて、それを見るたびにツラい気持ちになった。
(――何で…こんな事になっちゃったんだろう…)
本当なら、今頃シリウスは、私の父親として、この場に見送りに来てくれてるはずだったのに。
自分の母校でもあるホグワーツに、娘が入学した事を一緒に喜び、新学期が始まる今時期には必ず見送りに来る。
そんな幸せな時を過ごしてたかもしれないのに…。
他の生徒達が、両親の付き添いで駅へ来るのを見るたび、そんな気持ちが溢れてきて、悲しくなる。
さっきも、ロンが両親や兄達に囲まれているのを見て、凄く羨ましいと思った。
ハリー・ポッターだって、両親はいなくても彼らに暖かく迎えられている。受け入れられている。
私と同じ境遇かもしれないが、そこがハリーとは違うのだ。学校へ行っても、彼の周りにはいつも友達がいる。でも私には誰もいない。
それが彼との立場の違いを思い知らされる瞬間で、だからこそ友達になんてなれないと思ってしまうのだ。
リーマスは友達になればいいと言っていたけど、今の私にはハリーと素直に向き合える自信などなかった。
それでもシリウスが"殺人鬼"として捕まってさえいなければ、あるいは出来た事かもしれないけれど。
(…何故、何の罪も犯していないシリウスが殺人罪で捕まらなくちゃいけなかったの…?)
子供の頃から疑問に思っていた気持ちが、再び押し寄せてくる。
リーマスは詳しい事を話してくれず、シリウスが親友を裏切るはずがないとしか言わない。必ず無罪だと。誰かの陰謀だと。
私は今日までその言葉を信じてきた。
だからこそ、どれだけイジメられようと耐える事が出来たのだ。でも今は―――確かな証拠が欲しい。
"シリウス・ブラックは完全に無罪"だと、言える確実な証拠が。
そう強く思いながら、目の前の手配書を破り捨てた――
「――?」
銀行を離れ、時間は早いが駅へ向かおうかと考えていた時。不意に呼び止められ、足を止めた。
振り向くと、一瞬で鼓動が早くなる。変わらない笑顔で私の方へ歩いてきたのは、夏休み前、あんな別れ方をしたオリバー・ウッドだった。
「やっぱりだ。久しぶり」
オリバーはそう言って、いつもの優しい笑顔を見せた。
夏休み前より少し髪が短くなっていて日焼けもしているせいか、少し大人っぽくなっている。
何となく照れ臭くなり、ふと彼が今出てきた店を見上げれば、そこはクディッチ用品店で、彼の手には大きな袋が抱えられていた。
「久しぶり…。オリバーは買い物?」
「あ〜うん。今年で卒業だし最後のクディッチ杯は必ず優勝するって目標があるんだ。だから少しでもいい道具で戦いたいと思って」
「あ…そっか。卒業…」
そう聞いて、ふと胸が痛む。気づいたばかりの淡い想いが心の奥でずっと燻っているから。
「そういうは?買い物?何かボーっと歩いてたけど…」
「そういうわけじゃ…。ただ早く着きすぎちゃったから汽車の時間まで暇つぶしに来ただけなの」
「何だ、じゃあ今、もしかして暇?」
そう尋ねて来るオリバーに小さく頷くと、彼は嬉しそうな顔で微笑んだ。
「それじゃ汽車の時間まで付き合ってくれるかな」
「え…?」
「ほら、まだあと40分もある。だから僕もどうしようか困ってたんだ。良かったら一緒にどう?」
そう言ってオリバーは"フローリアン・フォーテスキュー・アイスクリームパーラー"を指差した。この辺で美味しいと有名なアイスクリーム屋だ。
「え、でも…」
その誘いは凄く嬉しい。でも私としては周りの目が気になった。
"殺人犯"で、しかも今では"脱獄犯"の娘となった私と彼が一緒にいては、迷惑がかかると思ったのだ。
それでもオリバーは全てを察していたのか、私の手をそっと掴んだ。
「…前から言ってるだろ。親は関係ないって」
「…オリバー」
「ほら早くしないと汽車の時間になる。おいでよ」
オリバーは苦笑しながら、渋る私の手を引っ張り、店の中へと入っていく。それには思わず顔が赤くなった。
男の子とこんな風に手を繋いだ事すら初めてで、しかも相手は好きだと最近気づいた人なのだから、妙に照れ臭い。
「は何にする?」
「え?あ…じゃあチョコレートアイス…」
「普通だよそれ」
オリバーはそう言って笑った。この店には変わった味のアイスが色々あって、オーソドックスな味よりも、そっちの方が人気があるのだ。
でも私の事を笑ったオリバーも、普通にバニラアイスを頼んでいて、思わず噴出した。
「オリバーこそ普通じゃない」
「僕はこれが一番好きなんだ」
澄ました顔で言うと、オリバーはアイスの支払いをしようと財布を出した。
私も慌ててお金を出そうとすると、彼は「いいよ、そんなの」と苦笑している。
「え、でも…」
「こういう時は男に任せるもんだろ?」
「…そう、なの?私、こういう店に誰かと来た事がないからよく分からなくて…」
「そうなんだ。あ、じゃあ僕に任せては空いてる席、取っておいてよ」
オリバーにそう言われ、仕方なくお金をしまうと、すぐに空いてる席を探しに行く。
一つ窓際の席が空いていて、そこへ座ろうかと思ったその時、すぐ後ろにこっちを見てヒソヒソと話し出した女の子がいて、私は慌てて目を反らした。
(あの子達、確かスリザリンの…マルフォイの取り巻きの子達だ)
彼女達がいつもドラコ・マルフォイの後ろを腰ぎんちゃくのようについて歩いている事を思い出し、内心溜息をついた。
マルフォイは私の顔を見るたび、「犯罪者の娘がのうのうとホグワーツにいる」と、ひどい言葉をぶつけてくる嫌な奴だった。
"純血"だけが価値のある存在だと言いたげに、いつもグリフィンドールの生徒達を小ばかにしている。
元々グリフィンドールとスリザリンは仲が良くない上に、彼らのせいで最近は更に悪化しているように感じた。
寮対抗のクディッチ杯ですら、スリザリン相手だと、皆も熱くなっている。
(そう言えばオリバーも前に、スリザリンにだけは負けたくないと熱く語ってた気がする…)
そんな事を思い出しながらも、見たことのある顔に会い、少し嫌な気分になった。この状況で彼女達の近くには座りたくない。
見れば奥の方にも席が空いている事に気づき、私はそっちへ座る事にした。そこへオリバーがアイスを持って歩いてくる。
「あれ、何でこんな奥まった席にしたの?あっちの窓際が空いてたのに」
「えっと…ちょっと近くに同じ学年の子がいたから…」
そう説明すると、オリバーも彼女達の方へ視線を向ける。そして小さく息を吐いて私を見た。
「ああ…彼女達か。確かドラコ・マルフォイの取り巻きだろ」
「オリバーも知ってるの?」
「そりゃ色んな意味で目立つからね、アイツは。前に…廊下で見かけた時もにひどい事を言ってた」
その時の事を思い出したのか、オリバーはおもむろに顔をしかめた。
そう言われて私もその時の事を思い出し、マルフォイの嫌な目つきが脳裏を掠める。
先学期の後半、確かマルフォイと一緒の授業の後、廊下で「犯罪者の娘なら父親と一緒にアズカバンに入ってろ」とバカにされたのだ。
ちょうどそこへオリバーが友達と通りかかった。でも私は彼と仲がいい事を内緒にしていたくて、わざと顔を背けた。
なのに、オリバーは周りの目も気にせず、マルフォイを怒鳴りつけてくれたのだ。
「女の子をイジメるような奴こそアズカバン送りになるべきじゃないか?」
正面切って上級生から怒鳴られたマルフィイの、あの時の顔といったら。今、思い出しても笑ってしまう。
その後、マルフォイは「父さんに言いつけてやる」とブツブツ言っていたけど、オリバーは全然相手にしていなかった。
でも私はそこで彼に何かされたら嫌だと思って、しつこく文句を言っていたマルフォイを殴ってしまったんだけど――
「そう言えば…あの時ののパンチ、凄かったよな」
ふと思い出したようにオリバーが言った。その顔は意味ありげにニヤついている。
「…そ、そんな事まで覚えてるの?」
「そりゃあね。女の子が男に向かってグーで殴る姿はなかなか見られないし」
笑いながらおどけて肩を竦めるオリバーに、顔が真っ赤になった。あの時はマルフォイの注意をオリバーからそらそうと必死だったのだ。
案の定、マグゴナガル先生に告げ口されて反省文を書かされたけど、マルフォイもひどい事を言った罰として同じように反省文を書かされてたからおあいこだ。
「あれは…前からマルフォイに頭にきてたから、つい――」
「…あの時は…僕のためにあいつを殴ってくれたんだろ?」
「…え?」
その言葉に驚いて顔を上げると、オリバーは優しい瞳で私を見つめていた。
「マルフォイが父親に言いつけて…僕に何か処分を与えるかもしれない、とそう思ったから、はあいつの怒りを自分に向かせようとして殴った。そうだろ」
「ち、違…」
「いいんだ、分かってるから。――ありがとう」
優しい笑顔でお礼を言ってくれる彼に、違うよって言ったはずの声が口の中で小さくなって消えた。オリバーには全て見抜かれている。
彼はそういう表情をしていたし、私もそれ以上、言い訳が見つからなくて、小さく首を振るのが精一杯だった。
「…そう言えば…、夏休みに入る前日、ピッチに来ただろ」
融けかかったアイスを口に運びながら、オリバーが言った。突然あの時の光景を思い出し、ドキリと鼓動が跳ねる。
誤魔化す為に私もアイスをせわしなく口に運びながら、「そうだった?」と笑った。
「そうだよ。僕が休み前の最後の練習してたらが見えて――」
「ああ、思い出した。でも…アリシアもいたから遠慮したの」
なるべく普通に笑顔を作ってそう言った。オリバーは一瞬、目を伏せたけど、すぐにまた笑顔で私を見た。
「…気にしないで声、かけてくれれば良かったのに」
「だって二人で練習してたみたいだし邪魔したくなかったの…。それにアリシアに私と知り合いだなんてバレたら困ると思う――」
「困らないよ」
「え…?」
キッパリと言い切った彼に驚いて顔を上げると、オリバーは小さく息を吐いた。
「困らないよ。彼女には話してあったんだ、のこと」
「…え、そう…なの?」
「…まあでも…彼女とはケンカ別れっていうか…」
オリバーはそう言うと、苦笑いを浮かべて椅子に寄りかかった。
「夏休みの間に終わったんだ、彼女とは」
「え…終わったって…」
いきなりの話に、私は唖然とした。夏休み前はあんなに仲が良さそうに二人で練習してたのだ。
それが、もう終わったと言われれば誰だって驚く。
「どうしてケンカなんか…」
「下らないことだよ。僕にとってはね。でも彼女にはそうじゃなかったみたいだけど…」
オリバーはそう言って苦笑すると、腕時計を見て立ち上がった。
「そろそろ時間だし駅に行こう」
「え、あ…うん」
時間を確かめ、慌てて立ち上がると、荷物を持とうと手を伸ばした。でも先にオリバーが私の荷物をひょいっと持って歩いていく。
「ちょ、ちょっとオリバー、待ってっ」
「急がないと乗り遅れちゃうよ」
追いついた私を見て、彼が笑いながら言った。
「で、でも荷物…」
「が持ってたら歩くの大変だろ。これ結構重たいし…っていうか、こんなに何を持って来たんだ?」
オリバーが苦笑いしながら私のトランクを持ち上げる。でも彼にも自分の荷物があるし、買い物した袋も抱えてるから申し訳なくなった。
「い、いいよ自分で持つから…。オリバーだって重たいでしょ?」
「うーん。あ、じゃあ、これ持って」
「あ、う、うん…」
彼はそう言ってクディッチの店で買ったものを私に預けた。
彼のノリに流され、何となくそれを持ってしまったが、ふと、このまま駅に行けば大変な事になると思い出し、慌てて彼の腕を引っ張った。
「何だよ、ホントに急がないと――」
「そ、そうなんだけど!このまま私と一緒に行ったらまずいわ」
「どうして?」
「どうしてって…ホグワーツの生徒がいっぱいいるのに私と一緒に現れたら皆が驚くだろうし――」
そこまで言って言葉を切った。オリバーが目を細め、不満そうな顔で私を見ているからだ。
「気にするなって僕は何度も言ったはずだけど?」
「で、でも…今まで以上に皆は敏感になってるわ。だってシリウスが――」
「脱獄したから?」
「――――」
オリバーは溜息をつくと、私の方へ向き直った。
「今朝の新聞を読んだから知ってるよ。でもには関係ない。そうだろ?」
「…オリバー」
「その件での事を責める奴がいたら僕がそう言ってやる。誰にもを責める権利なんかないんだから」
真剣な顔でそう言ってくれるオリバーに、泣きそうになる。彼なら本当にそうするだろうと思った。
それは私にとって凄く嬉しい事で、幸せな事だ。また一つ、彼の優しい所を見て、もっと好きになる。
でも…だからこそ、オリバーには陰険な人たちと関わって欲しくないと思った。
「…気持ちは嬉しい。でも…」
そう言ってオリバーの手から自分のトランクを奪うと、預かっていた荷物を彼の胸に押し付ける。オリバーは驚いたように私を見つめた。
「…そんな事してくれなくていいの。私なら大丈夫だから」
「――」
そう言って彼に背を向けると、一気に駅までの道のりを走る。
途中まで私を呼ぶ声が聞こえていたけど、角を曲がったところでそれも聞こえなくなった。
(…ごめんね…オリバーには嫌な思いして欲しくないの…)
そう思いながら振り返る。私の名前を呼ぶ彼の声がいつまでも耳に残っていて、振り切るように駅まで走った。
「はあ…間に合った…」
何とか息を整えながらキングズ・クロスまで来ると、ホームにはすでにホグワーツ特急が停車していた。
私はすぐに乗り込むと、空いてるコンパーメントを探して一人で座る。
本当なら先に乗り込んでるはずのリーマスを探したかったけど、どうせ話しかければ怒られる。仕方なく探すのを諦め、窓の外を眺めた。
ホームには沢山の生徒や保護者らしき人たちが集まっていて、それぞれ楽しそうに話している。その光景を眺めていると、少しだけ寂しくなった。
(シリウス…今どこにいるの?大丈夫なの?出来る事なら…私に会いに来てほしい…)
仲良く抱き合う親子を眺めながら、ふと心配になる。恐ろしい化け物が狙っている事は忘れていない。
もしシリウスがそれに見つかれば……そう思うと胸の奥がざわついて、今すぐリーマスを探しに行きたくなった。
そこへ警笛が鳴り響き、ゆっくりと汽車が動き出した――
「――で、おばさんを膨らますつもりはなかったけど、ついキレちゃって…」
「あはは!すっげー!」
「笑い事じゃないわ。退学だったかもしれないのよ?」
「僕は逮捕されるかと思ったよ――」
静かに動いていく景色を眺めていると、聞いた事のある明るい声が聞こえてきた。
その声につられ、通路へ視線を向けると、向こうも一瞬だけ私を見て、慌てたように視線を反らす。
「どうしたの?ハリー」
「…何でもないよ」
「そう?――ああ、もうここしか空いてないわ」
少しづつ声が遠ざかっていって、彼らは二つ向こうのコンパーメントへと入ったようだった。
「…分かりやすく避けてくれちゃって」
たった今、顔を合わせたハリー・ポッターの表情を思い出し、溜息をつく。
さっき一瞬だけ目が合ったが、ハリーは私の顔を見て、驚いたように目を見開くと、慌てて視線を反らしたのだ。
でもそれも仕方のない事なのかもしれない。
ハリー・ポッターもシリウスの事は殺人犯だと思ってるだろうし、その殺人犯が脱獄までして自分を狙ってるかもしれないと思ってるんだから…
「その娘とも関わりあいたくないよね…」
そう呟きながらも、改めてシリウスの事を考えた。
――彼は何故、今更アズカバンを脱獄したのか。たまたま脱獄できる機会があったから?それとも別に目的があるから――?
まさか本気でハリー・ポッターを狙うわけじゃないだろう。シリウスはヴォルデモートの僕じゃないんだから。
「はあ…リーマスをもっと追求しとけば良かったな…」
リーマスはやっぱり何か知ってるように思う。シリウスの過去も、全て話してくれたわけじゃない。何となくだけどそう思うのだ。
(いいわ。今度リーマスと二人きりで話す機会があれば、絶対に聞き出してやるんだから…)
そう決心して、窓の外を見る。空は次第にどんよりとしてきて、そのうち激しい雨が打ち付けてきた。
「雨、かあ…。何だか新学期から気分が沈む…」
そうぼやきながらトランクを手元に引き寄せ、中から読みかけの本を出す。その時ふと、オリバーの顔が浮かんだ。
(オリバーもちゃんと汽車に間に合ったわよね…)
どこに座ってるんだろう、と気にはなったが探しにいくわけにもいかず、溜息をつく。
本当なら、あのままオリバーと一緒に、この汽車に乗りたかった。
いつも学校へ行く時は一人だったし、彼と一緒に行けるならきっと凄く楽しかったと思う。
でも…私と一緒に学校へ行けば、きっと彼も私と同じように皆から冷たい目で見られてしまう。それだけは避けたかった。
(オリバーは今学期で卒業だし…最後に嫌な思いなんかさせたくない…)
雨で曇っている窓ガラスを手で拭いて、真っ暗な外を眺める。
今学期でオリバーとさよならしなくちゃならないのかと思うと、不意に涙が込み上げてきた。
卒業してしまえば、オリバーも自分の事に精一杯で、ホグワーツの後輩でしかない私の事なんて、すぐに忘れてしまうだろうという事も分かっていた。
ただ会えるだけでも良かったのに。アリシアでも、他の誰と付き合っていてもいいから、彼と会えるだけで私は幸せだったのに。
不意に目の奥が熱くなって、溢れ出た涙が頬を伝っていった。その時――ガクン、と汽車が大きく揺れて、急ブレーキの甲高い音が外から響いてきた。
「な、何…?」
到着する時間には早すぎる。何かあったのかと、私は窓の外を覗いてみた。でも暗すぎて何が起きているのかハッキリと分からない。
今度は通路の方へ顔を出してみたけど、他の生徒達も何が起きてるのか分からず、皆コンパーメントから顔を出して騒いでいるだけだった。
「――きゃっ」
またしても汽車が揺れて、私は慌てて扉を閉めると椅子へ座り込んだ。こういう時、一人だと凄く心細い。
「どうしよう…。リーマスってば、どこにいるんだろ…」
何とか探し出し、他の生徒達の目を盗んでリーマスと話せないか考えてみた。
その時、突然、車内の明かりが一斉に消えて、通路も全て真っ暗になった。
「きゃ、な、何で?!故障?」
ただでさえ心細いのに、停電なんて冗談じゃない、と私は椅子の上に縮こまった。窓の外は相変わらずの大雨で、水滴が激しく当たっている。
でもすぐに明かりがついて、私はホっと息を吐きながら、曇った窓をもう一度拭った。
「あれ…?今、何か動いた…?」
汽車の外で何か黒いものがヒラヒラと飛んでいるような影が見えて、私は首を傾げた。
でも何だろうと顔を窓に近づけた時、汽車が完全に停車し、再び車内は暗闇に包まれた。
同時に汽車が激しく左右に揺れ始め、小さな悲鳴を上げる。次の瞬間――窓に置いていた手が、一瞬で冷えていくのに気づき、目を疑った。
「…な…何これ…冷た…」
窓が一気に凍り始め、ピキピキと音を立てている。
また明かりが消えた事よりも、汽車が激しく揺れた事よりも、急激に冷えていく、この空気に、私は言葉を失った。
(息が…白い…)
自分の吐息が白い水蒸気となって天井に上がっていくのを見て、異様な恐怖を感じた。また汽車が全体的に揺れる。
でも、もう悲鳴をあげる事すら出来なくて、私はその場で固まっていた。その時――
静まり返っていた通路に、何かの気配を感じ、私はゆっくりと目だけを動かした。
本能が見てはいけない、と言っているのに、何故か引き寄せられるように視線が動く。そして私は短く息を呑んだ。
「―――――ッ」
ヒラヒラと揺れる黒い影…干からびた細い指…そこにいたのは、まるで闇から現れた死神のような生き物だった――
「……あ…」
激しい冷気で身体中が総毛立ち、全身が震えていた。ゆっくりと扉が開き、ソレが入ってくる。
顔すら覆う真っ黒なローブから、細く、干からびたミイラのような手が私の方へと伸びて来るのを、信じられない思いで見ていた。
その瞬間、何かの強い力で魂を全て吸い取られるような、そんな感覚になり、視界が次第に揺らいで、意識も遠のいていく。
「―――!!」
その時、まぶしい光を感じ、同時に私の名前を呼ぶ声が、聞こえた気がした――