TROY

第十章:亡骸





それは紀元前3000年…
古代ギリシャとトロイで起こった愛の物語…
















夜が白々と明ける頃、へクトルは一人先に目を覚まし、起き上がると息を吐き出した。
そして隣で静かに眠るアンドロマケを起こさないように、そっと寝台から抜け出すとテラスへと出てみる。
東の空から真っ赤な太陽がゆっくりと昇りつつあるのを眺めながら、へクトルは、ある覚悟を決めていた。
そして部屋の中へと戻ると、自分の鎧を身に着けていく。
へクトルには解っていた。
アキレスは朝日が上がりきる前に、ここへやって来る…と。


そっと寝台の方へ視線を向けるとアンドロマケがスヤスヤと眠っている。
その寝顔を見ていると、へクトルは胸が張り裂けそうなほどの痛みを感じた。


出来れば…戦いたくない…。


このまま逃げ出したい衝動にかられる。
だが、そうも行かない。
自分が逃げればアキレスはきっと、このトロイを焼き尽くすだろう。
父王プリアモス、そして弟のパリス…この城の者を皆殺しにするだろう…
この愛しいアンドロマケまでも―

へクトルは苦い思いを胸に、これから起こる戦いの事を考えて身震いするのを感じていた――


















は眩しさを感じ目を覚ました。
そして薄っすらと目を開けると隣に眠るパリスの寝顔を見てホっとする。
彼の温もりを感じ、そっと身を寄せると、パリスは無意識なのかの体を抱き寄せてきた。


愛しい…


は、その腕の力強さに心の底から、そう思った。
この腕から離れたくない…と。


まさか敵国の王子を愛してしまうとは思っていなかった。
アキレスへの想いは不動のものだと思っていた。
なのに―


私は…どうしたらいいんだろう…
パリスの傷はすっかり癒え、私がここにいる意味がなくなった。
アキレスは、きっと待ってる。
私が無事に戻ったら…戦う事をやめると言ってくれた彼の言葉に嘘偽りなどない。
なのに私はアキレスの想いを裏切り、パリスを愛してしまった…


正直、はアキレスの事を今でも愛していた。
その気持ちは理屈ではないのだ。
だからこそ、こうして胸が痛み、身動きの取れないほど心が迷う。


パリスを置いて…アキレスの元へ戻ったなら…
きっとパリスは追いかけてくるだろう…
そうなれば二人は戦う事になってしまう。
それだけは避けたい…


「私は…どうしたら…」


はパリスの温もりに顔を埋めながら呟いた。


「ん…」


ふいにパリスの顔が動き、はドキっとした。
そっと顔を上げると、パリスの瞳がゆっくりと開かれていく。


「ん……」
「…私は…ここにいるわ?」


寝ぼけたように視線を彷徨わせるパリスに、はそっと声をかけた。
するとパリスはニッコリと微笑み、の額に口付けると、


「良かった…。一瞬がいなくなってしまったんじゃないかと錯覚した…」


と呟いた。
その言葉にの胸がズキンと痛む。


「私は…いるわ?ちゃんと…ここに」
「ん…。どこにも行かないで…」


パリスはギュっとを抱きしめると、そっと頬にも口付けて、少しだけ顔を上げると、


「お腹…空いた…」


と呟いた。
それにはも噴出してしまう。


「やだ…。寝起きから、お腹が空くなんて…」
「だって…昨日はそんな食べなかったし…それに…」
「それに…?」
「夕べは君を抱いて、そのまま眠ってしまったからさ…?」
「…………っ」


パリスに、そう言われては顔が熱くなった。
夕べの事を思い出すと顔から火が出そうなほど赤くなってしまい、慌ててパリスの胸元へと顔を埋めた。


…?どうしたの?」
「……だって…パリスが変なこと言うから…」
「変なことって…僕には幸せな事だよ?」


ケロっとした顔で、そんなことを言われて、はますます顔を上げられなくなってしまう。
そんなを見てパリスが少しだけ体を起こし、の額に優しく口付け、そのまま頬…そして唇の真横へもチュっと口付ける。
が、その感触にドキっとして顔を上げた途端に唇も塞がれた。


「ん…」


最初から舌を入れられ、優しく口内を愛撫されると、すぐに胸がドキドキして体の力が抜けてしまうのを感じ、はパリスの腕をギュっと掴んだ。
パリスはゆっくりと唇を離し、そのままの首筋へと口付けると、時折チクリとかすかな痛みが走る。


「ぁ…」


が小さく甘い声を出し体を捩るも、パリスはそのまま唇を下降させていく。
胸の谷間に舌を這わせ、そこにも赤い跡を残しながら愛撫を繰り返すと、の体もビクっと反応して跳ね上がった。
パリスは、ゆっくりに覆い被さると彼女の体を愛しむように愛撫しながら、


「愛してる…」


と囁いて昨夜よりも激しく求めていく。
その言葉に、の胸がツキンと痛む。


パリスの、愛の言葉は、"どこにも行かないで…"と哀願するような囁きだった―














…?眠っちゃった?」


パリスはを抱いた後、彼女を抱きしめながら優しく額に口付け声をかけた。
するとがゆっくり目を開けて微笑む。


「ううん…起きてる…」
「眠いなら眠っても構わないよ?僕がこうして抱いててあげるから…」
「眠りたくない…。こうしてパリスの温もりを感じていたいから…」


はそう呟くとパリスの胸に、そっと口付けた。
パリスは、そんなをギュっと抱きしめ、彼女の頭に頬を寄せると、


「僕も…こうしての温もりを感じていたいよ…。出来れば永遠に…」


と呟く。
その言葉には顔を上げ、「永遠なんて…あるのかな…」と小さな声で問い掛けた。


「あるよ…きっと。僕はそれを手に入れる…必ず」


パリスは、そう言ってを見つめると、そっと唇を塞いで啄ばむように口付ける。
そして、ゆっくり離すとの瞳を優しく見つめ、


「僕の永遠は…なしでは考えられない…。がいなければ…この先の"生"になど興味はないよ…」


と言って最後に額に口付けた。
その言葉には胸が締め付けられる。


私がいなくなれば…パリスは生きる事の意味を失う…
それは私にとっても同じ事なんだ…


はパリスに抱きつくと、「私も…パリスが傍にいないと…生きてはいけない…」と呟いた。


「ほんと…?」


ふいにパリスが問いかけて、は顔をあげた。


「ほんとに…僕の傍にいてくれる?アキレスの元へ帰ったりは…」
「パリス…」
「答えて欲しいんだ…。僕は…今、不安で仕方がない…。朝、目覚めて…がいなかったら…と思うと怖くて…」


パリスは辛そうな表情で、そう呟くと、をギュっと抱きしめた。
パリスの思いが痛いほどに伝わり、は今の本当の気持ちを伝えようと口を開いた。


「パリス、私は―」


その瞬間…窓の外から怒号のような声が聞こえてきた。





「へクトール!!ヘクトーーーール!!」






それにはパリスも体を起こし驚いている。


「何だ…?この声は…」


だがは、その声が誰のものか、すぐに解った。
知らず体が震えてきて、それに気付いたパリスが慌ててを抱きしめる。


「どうしたの?何で、こんなに震えて…」
「こ、この声…」
「え?」
「ア、アキレス…アキレスの声…」
「な、何だって?!」


それを聞いてパリスはを離すとテラスへと飛び出した。


「ヘクトーーーーール!!ヘクトーーールッ!!」


その怒号は、まだ城壁の外から響いて聞こえてくる。
パリスは、その声の迫力に身震いした。


(これが…アキレスの声…何故、兄上の名を・…?)


そう思った時、昨日のへクトルの言葉を思い出した。


"アキレスの従兄弟を殺した…。アキレスが俺を殺しに来るかもしれない…"


兄上は、そう言っていた…
まさか…


パリスは部屋へ戻ると急いで着替え、寝台の上で今なお震えているをギュっと抱きしめた。


…彼が、ここに来た理由は…復讐だ」
「え…復讐って…?」


は驚いたようにパリスを見上げた。
パリスは小さく息を吐き出すと、の瞳を見つめ、


「昨日…兄上がギリシャ軍へ奇襲をかけた際に…アキレスの軍が来たそうだ」
「え?アキレスの…?で、でもアキレスは戦わないって私と約束を…っ」
「いや…それが…アキレスの軍を率いていたのは…アキレス本人じゃなかったんだ…」
「アキレスじゃないって…じゃあ…いったい誰が…」


そう言ってが困惑したような表情を見せると、パリスはから視線を反らし、そして一言呟いた。


「アキレスの格好で軍を率いていたのは…彼の従兄弟だったそうだ…」
「従兄弟……。そ、それって…パトロクロス…?!」
「僕は名前までは知らない…。だけど、その従兄弟という男を兄上はアキレスと思い込み、そして…」


パリスは、そこで言葉を切った。
は、その沈黙で全てを察し、声を震わせる。


「こ…殺した…の…?」


の言葉にパリスは何も答えなかった。
ただ、と視線を合わすことを恐れているように見えた。
そのパリスの表情に、は涙が零れてくるのを止められなかった。


「へクトルは…パトロクロスを…殺したのね…?だから・…アキレスが…」
「…兄上は…アキレスと思ったんだ…。向かってこられたら剣を抜くしかない…っ」
「解ってる…っ!そんなの…痛いほど…解ってるわ…?でも…パトロクロスは…私の幼なじみでもあるのよ…っ」


の言葉に、パリスは胸がズキンと痛んだ。
は静かに涙を零している。
だが抱きしめようとパリスが腕を伸ばした時、はパっと寝台から抜け出し、すぐに衣装を纏った。


…?!」
「止めなきゃ…」
「え?」
「アキレスを…止めないと…っ。こんな殺し合いなんて、もうたくさんよ!」
、待って…!」


部屋を飛び出そうとしたをパリスは慌てて抱き寄せた。


「離して…っ!私、アキレスとへクトルには戦って欲しくないの…っ!」
…落ち着いて!どこに行く気だ?!」
「へクトルのとこよ!戦わないでって頼むのっ」
、それは無理だ…!兄上はトロイの総指揮官だっ。その兄上が敵に戦いを挑まれて逃げるわけにはいかないっ!」


パリスは力を込めてを抱きしめながら、必死にそう訴えた。
だがは腕の中で暴れるのをやめない。


「そんなの無意味よっ!アキレスに復讐なんてして欲しくない!へクトルだって本当は戦いたくなんてないはずよ!」
…僕だって兄上にアキレスと戦って欲しくないよ…!でも兄上はきっと戦う…っ。そう言う人なんだ…っ」


パリスはの顔を覗き込むようにして、そう言うとが一瞬、暴れるのをやめた。
パリスは、そこで少し力を緩めると、が一言呟いた。


「でも…止めないと…。こんな戦い…私は見たくない…っ」


そう言ってパリスの腕の中から抜け出すと部屋を飛び出して行った。


!!」


パリスは慌てての後を追っていく。


その時も、外からはアキレスのへクトルの名を呼ぶ声が響いていた―




















「ヘクトーーール!!ヘクトーーーールっ!!」




「来たか…」


へクトルは鎧を着け終えると、その声に顔を上げた。
そっと盾と剣を身につけると、寝台で眠るアンドロマケの方へ視線を向けた。


「すまない…」


そう呟くと、へクトルは静かに部屋を出て行った。
扉が閉まる音がして部屋の中に静寂が戻ると、アンドロマケは、ゆっくりと目を開け体を起こす。
その顔は全てを諦めたかのように力のないものだった…。


へクトルは部屋を出て静かな通路を歩いて行く。
そこへ足音が聞こえ、へクトルはゆっくり足を止めた。


「待って!へクトル!」
?!」


へクトルは通路を走って来るに驚いた。
は息を切らしながらへクトルの前まで走ってくると、思い切り息を吐き出している。


「ど、どうしたんだ?こんな朝から…」
「い、行かないで…」
「え?」
「お願い…っ。行かないで…アキレスと…戦わないで…っ」


は、そう言ってへクトルの腕を掴んだ。


…」
「こんな戦いは無意味でしょう?私は…あなたとアキレスに戦って欲しくない…っ」


涙を大きな瞳に溜めながら必死に、そう訴えてくるにへクトルは胸が痛くなった。
そっとの両肩を掴むと、


…私とて戦いたくはない…。だが逃げるわけにはいかないんだ。私が逃げれば…アキレスはトロイを攻め込んでくるだろう」
「そんな…それは私が止めます…っ」
「無理だよ…。アキレスの従兄弟を、この手にかけてしまった…。アキレスは君の言葉も聞かないだろう…」
「そんな…っ」


へクトルの言葉に、の頬に涙が零れ落ちた。
そこへパリスが走って来る。


!兄上!」
「パリス…」


パリスはへクトルの腕で泣いているを見て慌てて駆け寄った。


?大丈夫?」
「パリス…」


は力なくパリスの腕にしがみ付き、パリスはをギュっと抱きしめた。
へクトルは、それを見て、


「今から父上に報告をしてくる。お前は…戦いの時、父上と母上についててやってくれ…」


と告げると、パリスの腕の中で泣いているの頭を優しく撫でて、一言、


「すまない…」


と呟き、また通路を歩いて王座の間へと向かった。
は顔をあげて涙を拭くと、そのへクトルの後姿を見て、また不安になる。


あの嫌な予感は、この事だったの?
どうしてアキレスとへクトルが戦わないといけないの…?
もし、この二人が戦えば…どちらかが命を落とす事になる…


はパリスの腕をギュっと掴むと、ある決心をしていた。






















「ヘクトーーール!!」


アキレスの声が響く中、へクトルは父王を抱きしめた。


「では父上…行ってまいります」
「へクトル…」


へクトルは父王の隣にいるパリスを見ると、パリスを抱きしめ、


「父上を頼む…」


と一言呟き、パリスの後ろで俯いているにちょっと微笑むと彼女の頭を軽く撫でて城の外へと向かおうと階段を下りていった。
そこにアンドロマケが現れ、へクトルは彼女を黙って抱きしめると、そっと額に口付ける。


「へクトル…どうしても…?」
「ああ…。すまない…」
「へクトル…」
「アンドロマケ…この前、教えた道順を…覚えているな?」
「……ええ」
「もしもの時…お前は皆を連れて、あそこから逃げるんだ。解ったな?」


へクトルの言葉に、アンドロマケは悲しそうな顔をしたが小さく頷いた。
それを確認するとへクトルは、もう一度アンドロマケの額へ口付け、そのままギュっと抱きしめ、すぐに体を離した。
そして無言のまま、城の外へと出て行く。


「ヘクトーーール!!!」


その間もアキレスの怒りの声は響き、へクトルの胸に突き刺さる。
へクトルは気持ちを引き締め、真っ直ぐ前を見据えると城壁の門まで、ゆっくりと歩いて行った―



「父上…」


パリスは城壁の上で戦いを見守ろうとしている父王、プリアモスを、そっと抱きしめた。
プリアモスは、パリスを抱きしめかえすと、静かに王座へと座り、パリスにも座れと促す。
パリスがを隣に呼ぼうと視線を移すとは少し前へ出て壁まで歩いて門上から下を見下ろした。


「ヘクトーーーーール!!」


そう叫んでいるアキレスを見て、は胸が締め付けられた。


「アキレス…戦わないって言ったのに…」


そう呟いたと同時に強い風が吹き、の長い髪を攫っていく。
パリスは、その後姿を見て胸が痛むのを感じた。
ここからだとアキレスの顔は、よく見えない。


あの男が…が愛した唯一の男…戦士アキレス…
は今、何を思って彼を見ているんだろう…


そう思えば思うほどの後姿が遠く感じてくる。
堪らず、パリスは立ち上がりの元へと歩いていくと彼女の手を引っ張った。


「パリス…?」
「僕の…傍に居て欲しい…」


パリスはそう言うとを自分の隣の椅子へを座らせた。
は大人しく、その少し下がった椅子へと腰をかけ不安げな表情でパリスを見上げてくる。
パリスは、そっとの手を握るとギュっと力を込めた。
それには少しだけ笑顔を見せてくれる。
その時、アキレスのへクトルを呼ぶ声が止まり、その場にいた全員が息を呑んだ。


大きな門がゆっくりと開くのを、アキレスは黙って見ていた。
もし、そこにへクトルではなく、何千というトロイの兵士がいたとしてもアキレスは戦うつもりだった。
だが、門が開き姿を表したのは自分が今の今まで名を呼びつづけた、トロイの総指揮官、へクトル、ただ一人だけだ。
アキレスはへクトルの姿を捉えると、ゆっくりと馬車から降りた。
へクトルは一歩一歩踏みしめるように、アキレスの元へ歩いて来る。


「やっと出てきたな…」
「待たせたか?」
「いや…。逃げないだけ見直したよ」
「本当は…逃げたかったさ…」


へクトルの言葉に、アキレスは眉を上げた。


「ふん…。そうすればトロイを攻め落としたまでだ」
「ああ、解ってる。だから、こうして出てきたんだ」
「俺の従兄弟の命を奪った罪は重いぞ…」
「アキレス…私は知らなかったんだ。あれは、お前だと思った」
「そんな言い訳はいい…。こい…っ!」


アキレスは兜もつけないまま剣と盾を構えた。
それにはへクトルも兜を脱ぎ捨て、ジリジリと近づきながら剣を構える。
一瞬の隙を見せれば命取りなのは、アキレスの目を見れば解った。


彼は本気で俺を殺しに来たようだな…。


へクトルはそう思いながらも盾を構え、攻撃に備える。
アキレスの様子を見ながら一瞬の動きで剣を振り上げた。
だが、それはアキレスの盾に塞がれ、ガンっ!という大きな音を響かせただけだ。
その次にアキレスが素早く体を回転させ、剣を振りまわした。
それを寸でのところで交わすとへクトルも剣を振りかざし、アキレスの剣とぶつかり合う。


ヵキーンッ!と甲高い金属の擦れる音が何度も響く。
周りには誰もいない。
二人の息遣いだけが聞こえる。
へクトルは様子を伺いながら剣をを引いては押し、押しては引いた。
それに気付いたアキレスがへクトルの剣を弾き返すと、


「本気でかかってこい!」


と怒鳴った。
その言葉にへクトルも、「うぉぉぉおお!」 っと叫びながらアキレスに突っ込んでいく。
するとアキレスは身を翻し、振り上げたへクトルの剣を自分の剣で弾き飛ばした。
その勢いでへクトルは少しだけ体のバランスを崩し後ろへとよろけた、と同時に拳ほどの石に踵を引っ掛け後ろへ転んでしまう。
それを見て、アキレスは剣を振り上げたが、不敵な笑みを浮かべ、へクトルの周りを歩き出した。


その様子を上から見ていた王プリアモス、そして妻のアンドロマケは目を瞑った。
だが一向にアキレスは攻撃をしようとしない。
堪らずアンドロマケは門上の壁まで行くと下を覗き込んだ。
その姿にパリスは胸が痛む。
へクトルが敵にやられそうなのに助ける事も出来ない状況に無償に腹が立つ。
その時、アキレスがへクトルに向かって叫んだ。


「石に手柄をやるわけにはいかない。立つんだ。そして、かかってこい!」


その言葉にへクトルは立ち上がろうとした。
だが足首に激痛が走り顔を顰める。


(クソ…今ので挫いたか…)


何とか引きずりながらも立ち上がったが剣が弾き飛ばされ、手には盾しか持っていない。
そこに容赦なくアキレスが飛び掛ってきた。
大きく地面を蹴り、高く舞い上がったアキレスがへクトルの頭上に剣を上げ、そのまま凄い勢いで振り下ろしてくる。
ガンっっ!っと今まで以上に大きく音が響き、その力の強さにへクトルの盾も吹っ飛んだ。
そして体はバランスを保てずに、また地面へと叩きつけられる。


「立て!」


アキレスは、そう叫びながらへクトルの横腹を蹴り上げた。


「う…っ!」


その痛みにへクトルは顔を顰めつつ、這うようにしてアキレスから離れようとする。
その後を追うようにアキレスはついてきて、また太股の辺りを蹴り上げた。
へクトルは、その痛みに地面に突っ伏してしまうが何とか力を振り絞り立ち上がると今度は槍を取り、
それでアキレスへと切りかかった。
だがアキレスの豪腕に弾き返されていく。


その様子を見ていたアンドロマケは顔を両手で多い、壁の前にしゃがみ込んでしまった。
それを見てパリスは慌ててかけより、優しく肩を抱く。


「やめて…もう…」
「姉上…しっかり…」


泣きじゃくるアンドロマケを抱きしめ、パリスは何とか宥めようとする。
そして、ふと視線をの座っている方へと向けた時、の姿がなく愕然とした。


?!」


パリスは驚き、辺りを見渡すが、この城壁の上には、どこにも姿が見えない。
側近の一人が、それに気付き、


「あ…様は先ほど立ち上がられて、階段を下りていきましたが…」
「何だと?!どうして止めなかった!!」


パリスの凄い怒りように側近はビクっとした。
パリスは、そのまま母にアンドロマケを任せると、急いで下へと下りて行く。
それを不安そうにプリアモスは見送っている。
その時、下では金属音の響く音が聞こえて来て視線はまた二人の戦いへと移された。


「そんな突きで俺が倒せると思うのか?もっと本気でこい!」


アキレスはへクトルの槍をも軽く交わし、剣を振りあげて来る。
へクトルは痛む足を引きずりながら何とか、その剣を交わすが、そのたびに体のバランスが崩れ足がふらついた。
そしてアキレスが、もう一度剣を振り上げた時、へクトルは自分の槍でそれを弾こうとしたが、
弾き飛ばす前に槍はアキレスの剣によって真っ二つへと裂かれてしまった。


バキッっという音がして槍の先だけ残し、真ん中から半分が遠くへと弾き飛ばされる。
へクトルは、それでも臆することなくアキレスへ向かって槍を振りかざした。
だがアキレスは、それさえも交わし、剣を横に振った、その瞬間へクトルが腕を抑えて膝をついた。


「う…」


腕からは赤い血が流れ落ちてくる。
顔を顰めて、それを確認するとへクトルはふらつく足取りで、もう一度立ち上がった。
そして最後の力を振り絞り、槍をアキレスに向かって振り上げた時、


「やめてぇーーーーーっ!!!」


という声が聞こえ、それと、ほぼ同時にへクトルの心臓はアキレスの剣に貫かれていた。


門上から、どよめきが起こり、その場にいた誰もが顔を反らした。
王プリアモスも一瞬立ち上がったが、すぐに力なく椅子へと座る。
側近達もうつむき、そしてその場から去る者が出た。
アンドロマケは耳を覆い、涙を零しながら振るえる体を后に支えられ、その場を後にする。
そこへの声が聞こえてきた。



「やめて、アキレス…!!」
?!」


アキレスはへクトルの遺体の足に縄をくくり、自分の馬車へと結んでいたが、その声を聞き顔を上げた。
すると門が少しだけ開き、そこからが走って来るのが見え、アキレスは、ゆっくりと立ち上がる。


「やめて、アキレス…っ!」
「お前…」
「へクトルは?!彼はどうしたの?!」


動かないへクトルを見ては涙を溜めた瞳でアキレスを見た。
その視線から目を反らすとアキレスは小さく息を吐き出し、


「死んだ…。俺が…殺した…」


と呟いた。
その言葉に、の足がよろけた。


「嘘…」
「ほんとだ…。今、俺が殺した…。こいつは…パトロクロスを殺したんだ…。その報いを受けた」
「どうして?!彼を殺したってパトロクロスは戻らない…っ!それに、もう戦わないって言ったじゃない…っ!!」


泣き叫ぶようなの言葉に、アキレスは悲しそうな顔をした。


「…こっちへこい。一緒に…帰ろう?」


だがは震える足取りで後ろへと下がって行く。


!俺の元へ戻ってくると約束しただろう!」


その言葉にはビクっとしたが思い切り首を振った。


「いや…そんな…血で汚れた…アキレスなんて見たくない…っ。へクトルを返して!」
「…それは無理な相談だ…。こいつはパトロクロスの仇だ。このまま連れて行く」


そう言うとアキレスは馬車に飛び乗った。
そして手を差し出すと、「さあ、…。帰るぞ?もう、ここに用はないだろう?」と言った。
は涙で濡れた瞳を揺らしながら、また首を振る。


「行けない…。へクトルを…殺したアキレスの元へは…行けない…っ」
「…!」


がゆっくりと後ずさると、アキレスは馬車を動かし、の方へと走りだした。
それにはも驚いて門の方へと走り逃げていく。
アキレスは馬の足を速め、片手で手綱を握ると、もう一方の腕をへと伸ばした。
その時、


「やめろ…!!」


という声と共に門の中からパリスが現れ、を抱きか抱えると、そのままアキレスの馬車を避けるのに後ろへと転がった。
二人のすぐ横をアキレスの馬車が走り去り、馬車に繋がれたへクトルの遺体が引きずられてゆく。
それを見た瞬間、は体を起こして叫んだ。


「アキレス…!へクトルを連れて行かないで…っ!!」


だがアキレスは悲しげな顔のまま、を見つめながら馬車で走り去っていく。


「待って…っ!アキレス!」


はアキレスを追いかけようと走ろうとしたが、それをパリスが止めた。


…!無駄だよ…っ」
「で、でも…へクトルが…」


は涙をポロポロ零しながら、パリスへしがみ付く。
の体は震え、力が抜けていくのに気付いたパリスは彼女を抱き上げた。
はパリスの胸に顔を埋め声を上げずに泣いている。


…泣かないで…」


パリスは、そう呟くとの頭に、そっと口付け、アキレスの去った方角へ視線を向けた。
だが、そこには、すでに彼の姿はなく、ただ土煙だけが舞い上がっているだけだ。


「兄上…」


パリスは、そう呟くと喉の奥が痛くなるのを感じ、そのまま門の中へと入った。
を抱く腕に力を込め、真っ直ぐ前を見据えて歩いて行く。
門番がパリスに一礼し、また門を閉めている音を聞きながら、パリスは体が崩れ落ちそうなのを必死に堪えていた。
を抱きながら城の方まで歩いて行くと、側近達が暗い顔で出迎えている。


「部屋に戻る…」


パリスは、それだけ言うと足早に城内へと入って自室へと向かった。
腕の中で震えるを抱きしめながら気丈にも顔を上げて歩いて行く姿に城内の兵士達も次々に一礼していく。
パリスはギュっと唇を噛み締め、涙を堪えていたが、一粒、涙が頬をつたっていった。
だが、それも一瞬の事で、パリスは軽く首を振った。


が腕の中に居てくれて良かった…。
もし一人なら…気が緩んだ瞬間に泣き崩れてしまうに違いない…


そう思いながらパリスは、前方へと視線を戻し、背筋を伸ばして王子らしく兵士達の前を歩いて行った―






















ギリシャ陣営―





「何?!アキレスがへクトルを?!」
「先ほど倒したようです」


側近の言葉にアガメムノンは一瞬驚いたが、その表情はすぐに邪悪な笑みへと変わる。


「そうか…。これでトロイ軍の最大の邪魔者がいなくなったというわけだ…。どんどん思惑通りに事が運んでいくわ…」
「これで一気に攻め込めますが…」
「ふむ…。だがトロイ軍は、きっと城の中に立てこもるだろう…?あの城壁を突破しない限りは…なかなかトロイは落とせん…」
「まずは、その辺を考えないといけませんな…」


側近の言葉にアガメムノンは大きな地図を広げ、何かいい策はないものかと考えをめぐらしていた。


























アキレスはギリシャ陣営の自分のテント近くで馬車を止めた。
ポンっと飛び降りると、後ろに繋いできたへクトルの遺体の縄を解き、テント横まで運んでいき、上から大きな布をかける。
それを見ていたギリシャ兵、誰もが声をかけられず、黙って、その光景を見つめていた。
だがアキレスは気にもしないように自分のテント内へと入り、すぐに鎧を脱ぎ、体についたへクトルの血を水で落としていく。
全ての血を落とすとアキレスは体を拭きながら寝台へと座り大きく溜息をついた。
先ほどのの顔と叫び声を思い出し、胸が酷く痛む。


…どうして…」


アキレスは、そう呟き、寝台へ横になる。
そして自分が帰ろうと…と行った時のの言葉を思い出した。


"へクトルを殺した…アキレスの元へは…行けない…"


その言葉が、アキレスの胸に突き刺さる。
確かにとの約束を破ってしまった。
だが…パトロクロスを失った痛みが大きすぎたのだ。


怒りの方が勝ってしまうなんて…俺は、やはり戦いをやめられないのだろうか…
愛する者よりも…戦う事を選んでしまうのだろうか…


アキレスは、を助けに出てきたパリスを見た瞬間に気付いた。
彼もまた…命がけで彼女を愛しているんだという事を…


…本当に…もう戻って来ないつもりなのか…?」


アキレスは目を瞑り、への想いに潰されそうになっていた―


そのまま気付けば眠っていたらしい。
人の気配で目を覚ました。


「お前…誰だ?」


目を開けると、そこにはマントで顔を覆った一人の老人が立っている。
だが殺気は感じられず、アキレスは、ゆっくりと体を起こした。
すると、その老人はアキレスの方へ近寄ってきてしゃがみこむと、アキレスの手を取りそっと口付けた。


「お前は…誰だ…?」


アキレスが問い掛けると、その老人は顔をゆっくり上げてアキレスを見つめた。


「これほどの屈辱があるだろうか…」


アキレスが、その言葉に首を傾げると、その老人は更に言葉を続ける。


「愛する息子を殺した男の手に口付けるなど…これほどの屈辱はない…」


その言葉にアキレスは目を見開き、マジマジと目の前の老人を見つめた。


「お前…プリアモス…トロイのプリアモス王か…?」
「いかにも…。だが、ここへは王としてではなく…一人の父親としてやってきた…。そして息子の仇の手に口付けもした。
これほどの屈辱はないだろう…?だが私は、貴方に忠誠を誓おう…」
「何だって?」
「貴方に忠誠を誓う…。だから…だから…我が息子…へクトルを返して欲しい…。
この老いぼれの頼みを聞いてやってはくれないだろうか…?」
「それは…無理な相談だな…あいつは俺の従兄弟を殺した…。俺にとっても奴は仇だったんだ…」


アキレスが、そう言って断るとプリアモスは膝をつき頭を下げた。


「頼む…。目の前で…息子が殺されるのを見て、そして遺体を引きずられて行くのを見て…これ以上の痛みは他にはない…
せめて体を奇麗にして…送り出してやりたいのだ…」


プリアモスの言葉にアキレスは迷った。
目の前の老人は一国の王ではなく、ただ愛する息子を失った事を悲しむ一人の父親の姿だった。


「頼む…息子を…へクトルを返して欲しい…」


今なお、そう哀願するプリアモスにアキレスの胸が痛んだ。


そうだ…へクトルはが危なかったところを助けてくれたと言う…
もまた…今頃はこうして、へクトルの死を悲しんでいるのだろうか…


アキレスは静かに立ち上がると、「解った…。返そう…」 と呟き、テントを出て行った。
そしてテント横にあるへクトルの遺体にかけてあった布を取り、すでに冷たくなっているへクトルの頬をそっと撫でる。


「すまない…。俺も…後でお前のところへ行くから…もう少し…待っていろ…」


そう呟くと同時に一粒、涙が頬を伝っていった。
そのままへクトルを抱きしめるとアキレスは立ち上がり、プリアモスの乗って来た馬車へと遺体を運んだ。


「よく見付からず、ここまで来れたものだな…?」


アキレスが馬車へ乗り込んだプリアモスへ声をかける。


「私は…小さな頃から、ここに住んでいる…。抜け道くらい、いっぱい知っているよ…」
「ふ…っ。たいした、じいさんだ…。アガメムノンよりも…立派な王だよ…」


アキレスは、そう言って苦笑すると、


「死者を送るまでの12日間…俺達は一切、攻撃をしない事を約束しよう…」


と言った。
その言葉にプリアモスは少しだけ微笑むと、「感謝する…」とだけ呟き、手綱を握った。


「さっさと行け…。うちの兵士に見付かったら、やっかいだ」


アキレスが、そう言うとプリアモスは頷いて馬車を出した。
暗闇の中、馬車は静かにトロイへと戻って行く。
アキレスは、その後姿を見つめ、小さく息を吐き出した。


…お前も…へクトルを送ってやるといい…


そっと夜空を見上げると青白い月が雲で滲んでいた―


























ギリシャ陣営・王の間―






「何?!攻撃しないだと?!」
「は…っ。アキレスが、そう決めたそうで…」
「何をバカな事を…!敵と密通しおって…!!」


アガメムノンは忌々しいと呟くと部屋の中をウロウロと歩き回った。


「アキレスの奴…老いぼれの涙でほだされおって…!バカな奴だ…っ!」


吐き棄てるように、そう言うと、


「よし…。攻撃しない代わりに…次は必ずアキレスも参戦するように伝えろ!もう放棄はさせん!」
「畏まりました…っ!」


側近は頭を下げると、すぐにテントを出て行った。
アガメムノンは王座へ座ると顎鬚を撫でながら、


「アキレス…この戦いが終ったら…殺してやるぞ…。必ず…」


そう呟き、酒をぐいっと呷ると、杯を床へ投げ捨てた。





















ギリシャ陣営・オデッセウス軍―








「何?アキレスが?」
「はい。この数日は攻撃するなと…」
「そうか…。まあ、何か考えがあるんだろう。了解したと伝えてくれ」


オデッセウスが、そう言うとエウドロスは頷いて、その場を立ち去った。


「アキレス…。とうとうへクトルを倒し…攻撃に参加せざるを得なくなったか…」


目の前の炎を見ながら、オデッセウスは呟いた。
焚き火の周りには自分の部下の兵士達が、それぞれ武器の点検をしたり談笑したりしている。
その中に一人、木彫りをしている男に目がいった。


「ん?それは?」
「あ、これは…国の息子へと思って…馬の木彫りです」


その兵士は嬉しそうに、そう説明すると器用に木を掘っていく。


「へぇ…上手いものだな…。ちょっと見せてくれないか?」
「はい、どうぞ」


その兵士はオデッセウスに彫っていた木彫りを渡した。
オデッセウスは、その馬の形をした木彫りを見て、感心していた。
が、ふと何かを思いついたように眉間を寄せる。


そのまま木彫りを兵士に返すと、その場に座り、黙ったまま目の前の炎を眺めていた―























トロイ城内―







鎮魂の為の炎が燃え盛り、大広間の真ん中に高く積み上げられた木材の上に大量の藁が敷かれ、その上にへクトルは横たわっていた。
それを見つめる王プリアモス、そして第二王子のパリス、へクトルの妻、アンドロマケ、その隣に、そしてトロイの巫女ブリセイスが黙って座っている。
兵士達が下を取り囲み、皆が目を瞑り黙祷を捧げていた。
そして、それが終ると静かにプリアモスとパリスが立ち上がり、松明を持ってへクトルの眠る場所まで上がっていく。
プリアモスがへクトルの頬を撫でながら瞼に鎮魂の金貨を二つ置くと後ろへ下がった。
次にパリスが前へと出てへクトルの頬を撫でる。


「兄上…」


そう呟くと同時に涙が頬を伝っていく。


小さな頃から…僕を助けてくれた…
何をしても僕をかばってくれた…
僕を…心の底から愛してくれた―


どうして…こんな事に…


そう思えば思うほど涙が溢れてくる。
だが…送らねばならない…


パリスは、ぐっと唇を噛み締め、涙を拭くと持っていた松明の火をへクトルの体の下にある藁へとつけた。
一瞬で炎が燃え移り、へクトルの亡骸を包んでいく。


「兄上…さよなら…」


パリスが、そう呟くと後ろで見ていたプリアモスがパリスの肩をそっと抱いた。
パリスは、そのまま後ろへ下がると、大きくなった炎を見ながら、ゆっくりと下へ下りていく。
そして、また王家の皆が座っている場所まで戻ると泣いているアンドロマケを抱きしめているの顔をチラっと見た。
は涙を拭く事もしないで、体を震わせ泣き崩れるアンドロマケを守るように抱きしめている。
その姿を見て、パリスは胸が痛くなった。


はアキレスがへクトルを殺した、あの日…城に戻ってからパリスやプリアモス、そしてアンドロマケに泣きながら、


「ごめんなさい…ごめんなさい…」


と謝るばかりだった。
どんなに、お前のせいじゃないと言ったところで、アキレスがへクトルを手にかけたことへの罪悪感が消えないのか、
小さな体を震わせ、「ごめんなさい…」 と言い続ける姿にパリスは胸が引き裂かれそうだった。






鎮魂の儀式が終り、はアンドロマケに付き添い、部屋へと戻って行った。
パリスはプリアモスを見送ると、誰もいなくなった大広間に一人佇み、兄へクトルを思い、静かに祈りを捧げる。
そこへ人の気配がして振向いた。


「お久しぶりです。パリス様」
「お前は…アフロディーテ…っ!」


パリスの後ろには、パリスが幼い頃、「この世で最も美しい女を…」 と約束を交わした女神、アフロディーテが立っていた。


「パリス様…私からの贈物は…届いたようですわね?」
「それは…の事か?」
「約束どおり…上手く呼び出し、あなたと出会うように致しましたわ?もちろん…パリス様が、あの娘に心を奪われる事は解っておりました」
「しかし…はもう…ここを出て行くかもしれない…」
「どうしてですの?二人は…通じ合ったんでしょう?身も心も…」


アフロディーテの静かな声はパリスの胸に突き刺さる。


「だとしても…。こんな事になってしまったから…は僕の元からも去って行ってしまいそうで…」
「ならば、そうしないように仕向ければいいだけ事です」
「どうやって?の心は…彼女だけのものだ…。僕は彼女を愛して、それがよく解ったんだ…。
今までの僕は…近寄ってくる女性の心は全て自分のものだと思っていた。だけどを愛してそれが違うと気付いた。
僕がどれほど彼女を愛しても…彼女の心が僕にあっても…それをどうするか…僕の元へ残るか…
それともアキレスの元へ帰るか…。 ――決めるのは彼女なんだ…」
「何を弱気な事を…。という娘は、パリス様を愛してらっしゃいますわ?何を恐れる必要がありますの?」
「例えそうでも…は僕や…このトロイの民へ罪悪感を持っている…。その気持ちがある限り…いつか彼女は、ここから出て行く気がして…」


パリスが、そう言うとアフロディーテは少し目を瞑り、何かを考えている様だった。
だが、ふいに目を開けると、


「パリス様…近く…災いが、このトロイを襲うでしょう…。けれども、それをパリス様は上手く退避できます。
その時…貴方の目の前に現れた敵を全て殺しなさい。そして…を連れて逃げるのです。二人だけで…その後は幸せに暮らせる事でしょう」
「何だって?僕に、このトロイを捨てろと言うのか?!そんな事は出来ない…!僕は…兄上と約束したんだ…
このトロイを…守ると…。僕だけと逃げるわけにはいかない…!」
「しかし…そうしないと…どちらかが死ぬ事になりますよ?」
「な…何だって…?!」


パリスは、アフロディーテの言葉に愕然とした。


「そうなりたくなければ…お逃げなさい。あの娘を連れて…」


アフロディーテは、それだけ言うと静かに大広間を出て行った。


パリスは、その場に呆然と立ち尽くし、今のアフロディーテの言葉を何度も頭の中でくり返していた―
























はアンドロマケが眠ったのを見届けると静かに部屋を出た。
ゆっくり通路を歩きながら、へクトルと初めて会った日の事を思う。


へクトルは…最初から凄く優しくしてくれた。
どこの誰とも解らない私を部屋まで運んでくれて…手当てまでしてくれた。
彼がいなければ…私は今頃、奴隷扱いだったかもしれない…
その優しいへクトルを…アキレスが殺した―


そう思うだけで胸が張り裂けそうに痛む。
涙が溢れ胸の奥から言葉にならない感情が込みあげて来る。


アキレスを愛していたのに…パリスにも心を奪われてしまった報いだろうか…
どうして、こんな事になってしまったのだろう…
もう…アキレスの元へも…戻れない。
このトロイにさえ…いるのが辛い。


その時後ろで人の気配がしては振り返った。


「こんばんわ」
「ブリセイス…」


そこにはへクトル、パリスの従兄弟、ブリセイスが立っていた。


「あなた…いつまで、ここにいる気なの?」
「え…?」
「あの人殺しの元へ…早く戻ればいいでしょう?!」
「………っ」
「あなたのせいよ…。あなたが早くアキレスの元へ帰らないから!約束してたじゃない!必ず戻るって…!
その言葉を裏切ってパリスと婚儀を挙げるつもりなの?!そんなの許さない!」
「ブリセイス…私は…」


が言葉をかけようとした時、ブリセイスは走って行ってしまった。
ブリセイスの言葉がの胸に刺さり、涙がポロポロと零れては落ちていく。


「私は…裏切り者…」


そう呟いて涙を拭いた。
そこへ、


?」


と声が聞こえドキっとして振向いた。
すると反対側からパリスが歩いてくる。


「パリス…」
「どうしたんだ?こんな場所で…。姉上は…」
「さ、さっき眠った…」
「そうか…。ついててくれて、ありがとう…」


パリスは、そう言うとを優しく抱きしめた。
その温もりには崩れ落ちそうになる。


…?大丈夫?」
「ご、ごめんなさい…。ちょっと力が抜けちゃって…」
「疲れてるんだよ…。、殆ど眠ってないじゃないか…。部屋へ戻ろう…?」


パリスはそう言うとを抱きかかえ、部屋へと急いだ。










部屋へ戻るとをそっと寝台へ寝かせ、自分も寝台の端へと座る。


「顔色が良くない…。少し眠った方がいい」
「パリス…私…」


が口を開きかけると、パリスはの唇に指をあて首を振った。


「何も…言わないで…」
「パリス…」
「どこにも…行かないで欲しい…。ずっと…僕の傍に居て欲しいんだ…」
「でも…」


の瞳に涙が溢れてくる。
パリスは、それを優しく唇で掬うと、そのまま頬に口付けた。


「僕は…君を離さないと言っただろう…?兄上だって…それを望んでくれてたんだよ…?」
「へクトルが…?」
「ああ…。を僕の妃に…と…誰よりも応援してくれてた…」


パリスは、そう言うとの頬をそっと手で包み、「僕の傍に…」と呟いた。
そして優しくの唇を塞ぐと、啄ばむように口付けていく。
はパリスの口付けを受けながら、この温もりを失いたくないと思った。
彼を守りたいと…


もう…誰の死も見たくはない…
パリスには…戦って欲しくない…
彼を…守りたい。


例え…自分の命を失う事になっても――




その気持ちを伝えるかのように、はパリスを、そっと抱きしめた…。







 







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久々です、トロイ夢!(笑)
ちょっとマナー違反な方がいまして、酷い催促ありましたので、執筆を中止しておりました。
「続き書いて下さい」等などの発言は受け付けておりませんのでね。
小説書くには、ある意味凄く労力使うし時間もかかります。
一日かかって必死に書いたりしてるんです。
なのに簡単に名乗りもしない人から、「早く続き書いて下さい」と、
おざなりな感想だけ書かれて催促されたら誰でも書きたくなくなります。
「続き楽しみにしてます」とかなら、まだいいですけど「早く続きを書いて」と言われて、
喜んで書く人なんていないと思いますしね。
言葉づかいとか、もう少し考えて下さい。

そういう理由で、このトロイは更新をストップしておりました。
もちろん感想を頂けるのは凄く嬉しいんです。
励みにもなるし、嬉しい感想なんて頂けると単純な私は「この人の為にも書こう!」という気にもなります。
でも反対に酷い言葉遣いで催促なのか命令なのか分からないコメントを貰うと絶対書かないぞ、と思ってしまいます。
そんな、こんなでストップしていたトロイ夢ですが、
マナーを守って頂いてる方の中で、このお話を待ってくれていた方々、本当に申し訳ありませんでした。
やっと十章、アップとなりました。楽しんで頂けると幸いです。
そろそろ終わりに近づいてきておりますね。
あと1~3話くらいかもしれません。