それは紀元前3000…
古代ギリシャとトロイで起こった愛の物語…
アガメムノンはオデッセウスの言葉に驚きを隠せなかった。
だが、その目は真剣で黙ったまま話を聞いている。
「…どうですか?アガメムノン王」
「ふむ…悪くない考えだ…」
「では…すぐにでも着工して宜しいでしょうか?」
オデッセウスは顔を上げ、アガメムノンを見据えた。
それに側近までもがゴクリと唾を飲む。
「よし…。密かに準備にかかれ」
「はっ。では早速…」
オデッセウスは一度、頭を下げると、王の部屋から出て行った。
よし…これで…一気にトロイ城を落とせる…
あの難攻不落とまで言われたトロイ城を…
オデッセウスは流行る気持ちを押えきれなかった。
そのまま早歩きでアキレスの元へと向かう。
「アキレス!」
アキレスのテントに声をかけるが返事がない。
中をチラっと覗くと彼の姿はなく、オデッセウスは首を傾げた。
そのまま砂浜を歩いてアキレスを探せば、前方に海を眺めている彼の姿があった。
「アキレス!そこにいたのかっ!」
オデッセウスが走り寄るとアキレスは酷く冷めた視線を向けた。
「ああ…オデッセウス…。王が…また何か言ってきたのか…」
「アキレス…どうした?顔色が悪いぞ?」
アキレスは眠っていないのか疲れた顔をしていた。
「ふん…。何の用だ?」
オデッセウスの言葉に答えず、アキレスはまた視線を海の方に戻した。
「ああ、いや…。実は…この攻撃をしない間にやる事ができてな?」
「何を…?」
「トロイ城を…落とす」
「何?」
やっと興味を示したかのようにアキレスが振り向いた。
その顔は険しい。
「どうやって…?」
「それは…ある作戦がある。今も王に話し、許しを得てきた。それにアキレス、お前も参加して欲しい」
「ああ、どうせアガメムノンは攻撃を待つ変わりに…次、出陣する時は俺も行けと命令をしてきたからな…」
「お前…本当に戦うんだな?」
「また、その話か?くどいぞ」
「しかし…お前はと約束を…」
「いいんだ…。もう…いいんだ」
「アキレス…?いいって…いったい何があった?」
「もう…俺はに…許してもらえないかもしれない…」
「…へクトルの事か…?あれは…仕方ないだろう?だって解ってくれるさ」
オデッセウスはアキレスの肩にポンと手を置き呟いた。
アキレスは、また海の方を見ると、「今度の攻撃で…を取り戻したい…」と言った。
「え?」
「会って…もう一度だけ…話してみたい。それでダメなら…」
「ダメなら…?」
その問いにアキレスは答えなかった。
だが、その表情は何か辛く悲しい決心をしているかのように、オデッセウスにはアキレスが泣いてるように見えた…。
中庭を散歩している二人をコッソリと見ながら、レイアは一人溜息をついた。
それを見ていたサルベードンが、そっと彼女の肩を抱く。
「サルベードン…」
「お前がそんな暗い顔をしていたら…様だってパリス様だって心配なさるぞ?」
「だって…様、あまり笑わなくなったわ…?今朝だって…あまり食事をなさらなかったし…私、様の体が心配で…」
「今は仕方ない…。へクトル様を亡くされた事が、お心に痛すぎるんだ…。しかも命を奪ったのはアキレス…」
「様…戻ったりしないわよね?ここからいなくなるなんて…」
レイアは心配そうにサルベードンを見上げる。
サルベードンは軽く息を吐くと、「それは…私にも解らない…」と呟いた。
「今…様がいなくなられたら…パリス様だって後を追ってくわ?そこで、あのアキレスと…」
「レイア…起こってもいない事を心配しても仕方がないだろう?お前も少し元気を出せ…」
サルベードンは肩を抱く腕に少しだけ力を入れた。
するとレイアは口を尖らせて彼を見上げる。
「何よ、サルベードンったら!呑気なんだから!」
「の、呑気なわけでは…」
「もう少し二人の未来の事とか考えてくれたって…っ」
「ま、待て!私だって、お二人の事は心配している!だが何より…今、心配なのはレイア、お前が元気がないという事だ…」
「え…?」
サルベードンの言葉に、レイアは顔を赤くして俯いた。
それを見てサルベードンは微笑むと、彼女を優しく抱き寄せる。
「私は…レイア、お前に、いつでも元気に笑っていて欲しい…。お前の笑顔を見ると…元気が出るから…」
「サルベードン…」
レイアは少しだけ瞳に涙が浮かんできた。
それに気付いたサルベードンは、優しく指で涙を拭う。
そして身を屈めると、そっと触れるだけの口付をした。
それにはレイアも目を丸くして驚いている。
「あ、あの…」
「レイア…この戦が終り…パリス様と様も無事に婚儀を挙げた後…お前の気持ちが、まだ私にあったなら…私と…結婚してくれないだろうか…?」
「………っ」
突然の求婚にレイアは更に驚いた。
だが、すぐに頬には涙が伝う。
「え、ええ…私で良ければ…喜んで…」
レイアが涙で濡れた顔を上げてハッキリ、そう言うとサルベードンは嬉しそうに微笑み、そのままレイアを強く抱きしめた。
歓声が沸き起こった。
トロイの民が総出でパリスの王位継承権の昇格を祝っている。
それをパリスは心が痛むまま見つめていた。
「国の王子が亡くなったと言うのに…」
寂しそうにポツリと呟くパリスに隣に座っていたが唇を噛み締めた。
パリスは苦しんでいる。
大切な兄を…大好きだった兄を失くして…
は、その姿を見るたびに胸が引き裂かれそうなほどに痛む。
パリスの…この国の大事な王子を奪ったのは…
私が愛したアキレス…
その事実がには辛く、この場にいる事すら耐えられなくなる。
ギュっと手を握り締め、知らず俯いてしまう。
その様子に気付いたパリスは慌てての手を握った。
「…そんな顔をしないで…。君のせいじゃないと何度も言っただろう…?君が辛そうな顔をしていると…僕も苦しい…」
「パリス…。ごめんなさい…」
「謝る事はない。前のように…笑顔を取り戻して欲しい」
パリスは、そう言って微笑むと、優しくの肩を抱き寄せ、頬に口付けた。
後ろで、それを燃えるような憎しみの目で見ていたブリセウスに…二人は気付かなかった。
祝い事も終り、二人は自室に戻った。
へクトルが亡くなってからというもの、はプリアモス王や王妃と顔を合わせづらいようで、あまり出歩かなくなってしまった。
時折、パリスが庭に連れ出すのだが、他の兵士とかと顔を合わせると、は逃げるように部屋へ戻ってしまう。
この国の誰も、兵士も王でさえ、彼女を責めたりしないのに…
辛そうなを見るたびにパリスの心は痛むのだった。
「、今日は疲れたろ?お風呂に入って、ゆっくり眠るといい」
「ええ…そうね…。そうする」
「…一緒に入ろうか?」
「えっ?!」
パリスの言葉に、は驚き、そして顔を赤らめた。
「な、何言ってるのよ…っ」
「アハハ…っ。顔真っ赤だ。冗談だよ?」
「もう!し、知らないっ」
はプイっと顔を背けて口を尖らせている。
そんなを後ろから抱きしめた。
「パリス…?」
「一人にするのが…心配なんだ…」
「……」
が黙ってしまうと、パリスはそっと彼女を離して、「…なんてね…。さ、入っておいで?」と優しく微笑んだ。
それにも、そっと頷き、部屋を出て行った。
「はぁ…」
軽く息をつき寝台に座ると、パリスは頭を抱えた。
あのへクトルの葬儀の後にアフロディーテに言われた言葉が頭に響く。
"二人で逃げなさい。そうしないと、どちらかが死ぬ事になりますよ"
あれは…どういう事なのだろう…
近くトロイを襲う災いとは…?
…僕は…逃げるわけにはいかない…
兄上と…約束をした。
"俺に何かあれば、お前が…"
そう言われたんだ。
誰も死なせない。
俺が守って見せる…
パリスは、そう決心し、静かに寝台から立ち上がった。
は湯につかりながらボーっと外を眺めていた。
風呂場の奥には大きな窓があり、そこを開け放すと夜空が見える。
星が光り輝き、その中に真っ青な月が浮かぶ。
へクトル…あなたは…天に昇れたの…?
愛する人を残し…辛い思いをしてる…?
あんな戦いは…望んでなかっただろうに…
ポツリと湯に落ちた雫が跳ねてすぐに消えた。
「いけない…」
は指で涙を拭うと軽く顔を洗った。
また私が泣いていたら…パリスに心配をかけてしまう…
今は辛いけど…パリスを守ると決めたんだ。
ここへ残ると…
いつまでもメソメソしていられない。
そう思いながら、湯から出ようとした時、人の気配を感じ振り返ろうとした。
バシャン…
誰かが湯に入った音がしてドキっとする。
は窓の方に後ずさり、体を硬くした。
入り口の方は蝋燭で照らされているが、奥の方には、かすかな明かりしか届かない。
は隠れるように暗い方へと下がって行く。
そこに…
「…?」
「…っ。パリス…?」
その声はパリスのものだった。
ゆっくりと姿を表した影が近づいてくる。
「あ、あの…」
は慌てて近くに下がっていた布で体を隠した。
「やっぱり心配で来ちゃったよ」
「き、来ちゃったって…お、驚くじゃない…」
は顔を赤くしながら今尚、後ろへ下がって行く。
「何で逃げるの?」
「だ、だって…」
はパリスの方から顔を反らし、呟いた。
するとパリスが一気に湯の中を進んできての裸の腰を抱き寄せる。
「キャ…ちょ、ちょっと…」
そのまま抱きしめられ、パリスの裸の胸に顔を埋める形となり、は恥ずかしさで俯いてしまった。
「何で逃げようとするの?まだ恥ずかしい…?」
パリスがクスクス笑いながらを抱く腕に力を入れると、が小さく頷いた。
「そっか。でも離してあげない」
「パ、パリス…っ」
アタフタと暴れ出す、にパリスは苦笑しながらも腕の力を緩めない。
「ダーメ!逃がさないよ?一人にして、また逆上せちゃったら困るしね?」
「も、もう逆上せたりしないもの…っ」
「、最近また眠れてないだろ?疲れてる時は一人にしないよ」
パリスは、そう言うとの顔を覗き込んだ。
は顔が真っ赤で視線を泳がせていて、そんな彼女を見て愛しいと思った。
そっと額に口付け、そのまま頬、唇へと口付を落としていく。
触れるだけの口付けをして、唇をゆっくり下げての首筋へも口付けた。
「ん…パ、パリス…?」
「しぃ…。黙って…」
恥ずかしさのあまり、体を反らそうとするにパリスは、そう囁くと、唇を更に下降させていく。
胸元を薄い布で隠していた手を、そっと掴んで避けると、湯で濡れた胸へも唇をつけた。
「ん…っ」
パリスの唇の感触にの体がビクっとなったのを見て、パリスは更に細い腰を抱き寄せ、胸の膨らみへ顔を埋めた。
優しく胸の頂に口付けを落とせば、の体も跳ね上がる。
そのまま舌で愛撫をくり返しながら腰を抱いてた手はゆっくりと腰をなぞり、軽く持ち上げ彼女の体を湯から出し床へ座らせた。
「あ、あの…パリス…んっ」
がパリスを止めようと手を伸ばすも、パリスは愛撫を止めることなくくり返し、軽く歯を立てた。
そしての体が少しだけ力が抜けてくると、更に唇を下降させ、の臍の周りにも口付け、赤い跡を残していく。
「ん…っ」
「…愛してる…」
パリスはそう囁きながら自分も湯から出ると、彼女の体に覆い被さり、そのまま体を重ねていった。
今から来る不安からか、の体の全てを確めるように、パリスは彼女を抱いた。
離さないと誓ったのに…どこかで不安だけは拭いきれない。
「必ず…君を守る…」
明日は…父上がアキレスと交わした攻撃をしないという期限の切れる日だ。
ふと、それを思い出し、パリスはの細い体を強く抱きしめ、そう呟いた―
朝、目覚めると何か歓声のようなものが聞こえ、パリスは目を覚ました。
「ん…もう朝か…」
朝日に目を細め、顔を隣に向ければ、がスヤスヤと眠っている。
パリスは、その寝顔にちょっと微笑むと、の唇に軽く口付けた。
夕べは部屋に戻った後もを抱いてしまった。
離れていたくなくて…何度も肌を重ねた。
なのに…この不安は消えてくれない…
パリスは軽く息をつき、そっとの肩を抱き寄せた、その時。
ノックの音が聞こえた。
「パリス様。お休みの所、もう仕分け御座いません」
「サルベードン…?」
パリスは、その声に慌てて寝台を出ると夜着を羽織り、すぐに扉を開けた。
「どうした?こんな朝から…」
「ギリシャ軍に異変が…。すぐに来て欲しいと王が…城門前でお待ちです」
「何だって?解った。すぐ行く」
パリスは、そう頷くと部屋へ戻り、すぐに着替え始めた。
その時、が薄っすらと目を開ける。
「ん…パリス…?どこに行くの…?」
「…。ギリシャ軍に何かあったらしい。ちょっと様子を見てくるから…君は、ここにいて?」
「え…?何かって…?」
「まだ解らない。とにかく行って来る」
「ま、待って!私も行く!」
「…それは…」
「お願い!」
そう言われてパリスは迷った。
だがの真剣な瞳を見て気持ちを察し、軽く息を吐くと頷いた。
「解った。じゃ、急いで着替えよう?」
「うんっ」
は寝台を飛び出し奥の部屋へ行くと、すぐに着替えて出てきた。
パリスはを連れて父王の待つ、城門前に向かう。
何だろう…ギリシャ軍が約束の期限が切れて、すぐに襲ってきたと言う事か?!
ならば、こっちもすぐに戦の準備をしなければ…
そんな事を思いながら城門前まで急ぐとプリアモスが馬車に乗っているのが見える。
「父上!」
パリスが走って行くと、プリアもスは黙ったまま、馬車へ乗れと合図した。
「。手を」
パリスはの手を掴んで先に馬車へ乗せると、すぐに自分もを後ろから抱えるようにして乗り込んだ。
サルベードンが黙って馬車を走らせ、前を走る王の後をついて行く。
すると、すぐにそれは見えて来た。
「これは…どういう事だ…?」
パリスは目の前に広がる光景に唖然とし、呟いた。
だが誰もが目を見開き、呆然と辺りを見渡している。
王の側近、兵士、そして王自身までが目の前のガランとした砂浜と、大きな馬を見ていた。
「何だ、これは…?それに…ギリシャ軍はどこに行ったんだ…?」
側近の一人が呟く。
だが誰も答えられない。
昨日まで、ここにあったギリシャ陣営のテントは奇麗サッパリと消え去り、数体のギリシャ兵の遺体が転がっている。
だが一番、目を引いたものは、目の前に聳える大きな大きな木馬だった。
「何ですか…父上…?これは一体…」
「うむ…。解らん…。アガメムノンが素直に撤退したとは思えぬが…」
「いや、王よ。これはギリシャ軍がトロイ城は落とせないと思い知り、逃げ帰ったのではないでしょうか?この木馬は降参という意味かも…」
「そんなバカな!父上、燃やしてしまいましょう!こんなもの!」
パリスは得体の知れない、この木馬に何か不安を覚えた。
だがプリアモスは考え込んでいる。
「父上!こんなギリシャ軍が残していったものは不吉です!燃やしてしまわないと…っ」
必死で訴えるパリスを見ながら、も目の前の大きな木馬を見上げた。
何だろう…何でギリシャ軍は、こんなものを…
私も…嫌な予感がする。
パリスの言う通り燃やした方が…
がそう思っているとプリアモスが顔を上げた。
「よし…。これを戦利品として持って帰ろう…」
「父上!正気ですか?!」
「ギリシャ軍はどこを見たってもういない。きっと国へ引き上げたんだろう。おい!兵士達を集めて、この木馬を城の中へ!」
「…はっ」
プリアモスの一声に側近が慌てて城へ戻って行く。
パリスは言葉もなく、また木馬を見上げた。
(一体…何のつもりだ、アガメムノン…)
「パリス…」
「…震えてるの?」
手をそっと握ってきたをパリスは抱き寄せた。
「私、怖い…。こんなもの本当に持って行くの?」
「ああ…。王の言う事は絶対だ…。だが本当に…この木馬は降参という意味合いで作られたものなのか…?」
パリスは大きな木馬を食い入るように見つめていた。
「そぉーれぇ!!」
大きな掛け声が響き渡り、力に自信のある男達が一気に縄を引っ張る。
砂浜に置いてあった木馬を台に乗せ、それを縄でくくり引っ張って城門の中へと運び入れている。
それを城の入り口で見ながらパリスは溜息をついた。
木馬は城壁から城前に運ばれ、広場の真ん中へと置かれた。
全く…何で、こんなもの…
ギリシャ軍が何かを企んでいたら、どうするんだ…
そう思いながら城の中へと戻って行こうとした、その時。
「パリス…」
「ん?あ、ブリセウス」
従兄弟のブリセウスが笑顔で寄ってきた。
「凄い木馬ね?どうするのかしら」
「ああ…こんなもの、すぐに燃やしてしまえばいいのに…っ」
「パリスは…何か不安なの…?」
「不安は…前からあるさ…」
パリスは少し笑うと、ブリセウスの頭を撫でた。
それには彼女も嬉しそうにパリスを見上げる。
「ブリセウス」
「なぁに?」
「僕は…これから兄上の分まで戦わねばならない。今までサボってきた剣術も続けていかないと…」
「そんなパリス…!あなたまで、そんな事をする必要は…ギリシャ軍だって逃げ帰ってしまったのよ?!」
ブリセウスは必死にパリスにしがみついた。
「いや…まだ…終ってない気がする…。何か引っかかるんだ。このまま…終わるはずは…」
「パリス!それは、あなたの思い過ごしよ!戦は終ったの!あなたは王になるための勉強さえすれば…」
「聞いてくれ。ブリセウス…。前までの僕は…王になる事もないと平和に遊んで暮らしてきた。
だが兄上亡き後…僕が父上の後を継ぐことになる。それに…」
「それに…?」
そう問いかけブリセウスはパリスを見上げる。
だがこの後のパリスの言葉に、一気にブリセウスの心は凍りついた。
「僕には…守りたい人が出来た…」
「………っ」
「僕は…を、この手で守ってあげたい…。それには今までの僕と同じじゃいけないんだ」
「パリス…」
「そこで…君にお願いがある」
「え…?」
パリスがブリセイスの肩を掴み、顔を覗き込んだ。
「僕が…戦いに出た時…他にも予期せぬ事があった、その時は君がについててあげてくれないか?」
「な、何ですって…?」
「頼む…。一人にしておくのは不安なんだ…。ブリセウスがついててくれるなら僕も安心だから…」
そう必死に言ってくるパリスの瞳を見つめながら、ブリセイスは胸が引き裂かれる思いだった。
いや…もしかしたら引き裂かれ悲鳴をあげていたのかもしれない。
「ブリセウス…?」
パリスは、そんな彼女の心の中は知らず、尚も哀願するように見つめてくる。
そんなパリスを見ながら、ブリセウスは無表情のまま、顔を上げた。
そして、
「解ったわ?私がついててあげる。安心して?」
と、ニッコリと微笑み、そう言ったブリセウスにパリスは何の疑いもなく抱きついた。
「ありがとう!」
「いいのよ。パリスの頼みですもの…」
そう言って微笑むも、パリスの温もりを感じながら、ブリセウスはへの嫉妬と憎しみの痛みで顔を顰めていた…。
その夜、パリスはテラスへと出て夜空を眺めていた。
すると隣にが来てパリスの腕をそっと掴む。
「…寝ないの?」
「ん…。何だか…寝つけなくて…」
少し不安げな顔で、そう呟いたをパリスは優しく抱きしめた。
「が不安がる事はないよ?僕が守るから…」
「パリス…私が心配なのは…あなたと…この国の事よ?自分の事は心配してないもの…」
は少し脹れて、そう言いながらパリスを見上げた。
その顔にはパリスも、ちょっと顔が綻んでしまう。
「ありがとう…。でも…僕はの事が一番、心配だよ?」
「パリス…」
「さ、もう寝よう?明日は…一緒に海にでも行かないか?約束通り、馬に乗せてあげるよ?」
「ほんと?」
が少しだけ笑顔を見せてパリスを見上げると、パリスは優しく微笑んで、
「ああ、だから今夜は早く寝よう」
と言っての額に口付けた。
は安心したように微笑んで頷くと、パリスはを抱き上げて寝台へと運んだ。
そっと寝かせて自分も隣に横になるとの体を抱き寄せる。
するとは少しだけ顔を上げた。
「ほんとに…これで終わりなのかな…」
「え?」
「あの王が…大人しく引き下がるとは思えないの…」
「ああ。僕もだよ?そのうち…また軍を率いて奇襲をかけてきそうだ…。こっちも、それなりに準備をしておかないと」
「また…戦いに出るの…?」
は心配そうにパリスに身を寄せ呟いた。
「もし…向かってきたら…そうなると思う…」
「もう…パリスに戦って欲しくない…。あんな怖い思いはしたくないわ…」
「…」
パリスは少しだけ体を起こすと心配そうに瞳を揺らす、を見つめ優しく唇を重ねた。
この時の二人には…今夜、起こるであろう悲劇は、まだ想像も付いていなかった。
暗闇に蝋燭の明かりが揺れ、見張りの兵士は欠伸をした。
はぁ…何だかギリシャ軍も帰ってしまって緊張感がなくなったな…
それに…この置いてあった大きな木馬…
これには一体、何の意味があるんだろう…
見張りの兵士は目の前に聳える木馬を眺めながら、ふと隣の仲間の方へ視線を向けた。
あ~あ…あいつも寝ちゃってるよ…
そうだよなぁ…
こんなノンビリした夜は久し振りだ。
眠くもなるってもんだ。
「ふぁ~…」
自分も思い切り欠伸をしながら手で目を擦った。
ダメだ…眠い…
そう思って、その場に座り込んだ兵士は、役3分後には夢の中に旅立って行った。
その時、静かな広場の中にカリカリカリっと何かを引っかく音が聞こえてきた。
すると木馬の腰の辺りの板が、ガタ…っと外れて中から兵士らしき男が顔を出す。
そして後ろを振り向き手を上げた。
それが合図だったのだろう。
中から長い縄がするすると下りてきて、それに掴まり一人、また一人と木馬の中から下へ下りていく。
その中にオデッセウス、そしてアキレスの姿があった。
数人の兵士が降りたところでオデッセウスは上の兵士に早く下りろと手で示すと、アキレスの方に視線を戻した。
「おい、アキレス…っ。どこに行くんだ?」
小声で声をかけると、アキレスは何も言わず振り向き、黙ってオデッセウスを見つめた。
「お前…彼女を…?」
「俺は…あいつを取り戻す…。あの王子の腕の中からな…。お前はアガメムノンを見張ってろ。何をするか解らんぞ?」
「そんな無理…あ、おい…!」
オデッセウスが呼び止めようとした時、トロイの見張りの兵士が、かすかに動き目を開けた。
「あ.…っ。お、お前はギリシャ軍…ぐぁ…っ」
顔を上げた瞬間、オデッセウスの剣がトロイ兵の胸に突き刺さり、グッタリとした。
死んだのを確認すると、次々に下りてくるギリシャ軍の兵士が、見張りに立っているトロイの兵士を切って倒していく。
「よし!一気に城を落とすぞ!!半分は俺についてこい!残りは、あの城門を開け、外にいる兵士達を中へ入れろ!」
全員が下りたのを確認すると、オデッセウスが兵士に向かって剣を翳した。
それを合図にギリシャ兵が雄たけびを上げながら、城に向かって走って行く。
「うぉぉおお!!殺せーーー!!」
「キャーーーーーっ!!」
「うああぁあっ」
近くの民家にも押し入り、家に火を放っていく。
それに堪らず逃げ出す、女性や子供、そして男達…
それを次々に切っていくギリシャ兵…
トロイの町に悲鳴が響き渡った――
その悲鳴にビクっとなりパリスは起き上がった。
「何だ…?今の声は…」
「女性の悲鳴に聞こえたけど…」
一緒に眠っていたまでが体を起こした。
二人で顔を見合わせ、パリスは急いでテラスへと出る、そして目を見開いた。
「こ、これは…!」
目の前のトロイの町に広がる真っ赤な炎にパリスは少しの間、体が動かなかった。
だがが、
「奇襲よ!パリス…!きっとギリシャ軍が…」
と叫んだ声でハッと我に返り、すぐさま着替えると自分の弓を持った。
そしての手を強く握り締め、部屋を飛び出す。
廊下を急いで走っていると、サルベードンが走って来た。
「パリス様!ギリシャ兵が城の中に!」
「何?!どこから中に…っ!!」
「生き残った兵士の話だと、あの木馬の中から突然、姿を表したと…!!」
「何だって?!」
サルベードンの話にパリスは息を呑んだ。
そしての方を見る。
は真っ青なままパリスを見つめていた。
(クソ…ッ!やはり燃やすべきだったんだ!あんなもの!)
「よし、サルベードン、お前は私と一緒に来い!」
「はっ」
「。君はここの廊下を真っ直ぐに向かい、姉上の元へ…!それとブリセウスに君の事を頼んである。二人が何とか脱出させてくれるから!」
「で、でもパリスは?!私、離れたくない!」
「ダメだ!僕といたら君まで危ない目に合う…っ。必ず後で会えるから…!!」
パリスは、そう言うとをぐいっと引き寄せ、唇に口付けた。
そして短剣をの手に握らせる。
「護身用だ、持ってて…、さあ、言って!後ろを振り向かず走るんだ!」
パリスに、そう言われては必死に頷き、そしてアンドロマケの部屋へと走って行った。
それを見届けると、パリスはサルベードンに、
「さあ、行くぞ!城の入り口でギリシャ兵を迎え撃ってやるっ」
と言って走り出した。
それにサルベードンも続く。
サルベードンは今の今までレイアと一緒にいた。
悲鳴が聞こえ炎の波が見えた時、サルベードンはレイアをすぐに部屋から連れ出し、他の女官を非難させるようにと頼んできた。
(無事に逃げきってくれ…)
サルベードンもまた、そう祈りながらパリスの後を追っていった―
「ー!」
アキレスは城の中へと忍び込んでいた。
の名を呼びながら必死に彼女を探す。
そこへ間者として忍ばせておいた男が現れた。
「アキレス様!」
「ああ、お前か!は…はどこにいる?!」
「今、パリスの部屋を見てきましたが、すでに姿はなく…パリスと一緒かと思われます…っ」
「チ…ッ。そうか…じゃあ、お前もを探してくれ。もし見つけたら無理やりにでも俺の元へ連れてこいっ」
「畏まりました!」
その男は、そう答えると、また姿を消した。
アキレスは、辺りを見渡しながら、もう一度奥へと進んでいく。
「ー!!どこだ?!」
そう叫びながら廊下を曲った時、目の前に女性が立っていた。
「お前…」
「あなた…アキレス…っ」
ブリセウスはアキレスを見て驚いたように後ずさった。
(すでに敵が、こんな内部まで忍んで来てるとは…)
ブリセウスは少しづつ後ろに下がり逃げる隙を伺った。
だがアキレスは襲ってくることもなく、どちらかと言うとホっとした顔でブリセウスを見ている。
「お前に聞きたい事がある」
「な、何…?」
「は、どこだ?」
「え?」
「お前なら知ってるんだろう?」
「そ、それは…」
「俺はさえ戻ればいい。他の奴にも何もしない。頼む、教えてくれ!はどこだ?」
必死のアキレスを見てブリセウスは驚いたが、他の人には何もしないとのアキレスの言葉に、
「パリスにも?」
と聞いていた。
「え?」
「パリスにも手を出さないと約束して」
ブリセウスは真剣な顔でアキレスを見据える。
それにはアキレスも苦笑した。
「お前…そんなに、あの男が好きか?あいつは…他の女を愛していると言うのに…」
「うるさいわね!どうなの?パリスには手を出さないって約束できる?!」
ブリセウスの迫力にアキレスは溜息をついて肩を竦めた。
「解った。あいつには…手を出さない…。ほんとなら…を奪った男だ。殺したって構わないと思っていた」
「や、やめて…!」
「手は出さないと言っただろう?さあ、教えろ。はどこだ?」
アキレスはブリセウスに詰め寄った。
「今…皆で非難する場所へ来ると思うわ…」
「どこだ?そこは…」
「教えられない。あなたが、その場に現れたら…皆だってパニックに陥る」
「じゃあ、どうするんだ」
「私が…おびき寄せる。あなたも、そこに向かって」
「どこだ?」
「城の上に…小さな神殿があるわ?そこにを向かわせる」
「絶対だな…?もし嘘をついたら…お前の愛しい男は死ぬと思え」
アキレスの冷たい言葉にブリセウスは、ゾっとした。
「わ、解ってるわ…。必ず彼女を、そこにやるから」
ブリセウスは、それだけ言うと、すぐに皆が非難に向かった場所へと急いだ。
一気に城内を走り抜け、裏庭に出る。
すると前方に非難していく女子供が見えた。
ブリセウスは、その中にを見つけた。
都合のいい事にが最後尾を歩いて、子供の手を引いている。
それを確認してブリセウスは走って行った。
「…!」
「ブリセウス!あなたも非難しないと…!」
「それどころじゃないの!パリスが!」
「え?パリス?パリスが何?どうしたの?!」
青い顔でブリセウスの肩を揺さぶった。
内心、ニヤリとしながらも神妙な表情のままブリセウスは顔を上げた。
「今、アキレスと戦ってるの!でもパリスは怪我しちゃって…あのままじゃ殺されちゃうわ?!、お願い、アキレスを止めて!」
「アキレスと…パリスが…?!」
その事を聞いたは一瞬、目の前にへクトルが殺された光景が浮かんだ。
(まさか…パリスまで…っ!)
そう思ったは繋いでいた子供の手を離し、近くにいたレイアに引きわたす。
「レイア、この子、お願い!」
「様?!ちょ…どこに行かれるんですか?!」
「お願い、行かせて! ―ブリセウス…場所は?場所はどこ?!」
「城の上にある神殿よ?!早く行って止めて!」
はブリセウスに場所を聞くと走り出していた。
(アキレス…お願い…!パリスまで殺さないで…っ!)
城内へ戻り必死に走った。
廊下も階段も走り、途中数人の兵士に出会う。
「様?!どこに行かれるんですか?!」
その声も届かないくらいに、は必死だった。
もう…誰にも死んで欲しくない…
アキレスにも…人殺しなんてして欲しくない…っ!
そう哀願するようには神殿の中へと飛び込んだ――
アガメムノンは城内へと兵士を連れて入ってきた。
外は全て焼き払い、残るは城内だけだ。
「おい!宝は全て運び出せ!彫刻は壊して構わん!」
アガメムノンは、そう叫びながら辺りを見渡した。
逃げ送れたトロイの神官らしい男達が逃げ惑っている。
それは兵士に任せて、アガメムノンは神殿の方へと歩いて行った。
すると目の前にフラっと出てきた人物を見てアガメムノンは目を疑った。
(プリアモス!まだ逃げてなかったか…)
アガメムノンはニヤリと笑い、そっとプリアモスに近づいて行く。
プリアモスは唖然とした顔で目の前で倒されていく彫刻を見ている。
そんな彼の心臓を剣で貫くのは容易な事だった。
「………っっ!」
アガメムノンは手ごたえを感じ、そっと剣を抜く。
プリアモスは驚いたように目を見開き、ゆっくりと後ろを振り向こうとしたが、その前に体の力が抜け、バタリとその場に倒れた。
「さらばだ、プリアモス王…」
そう呟くとアガメムノンは静かに歩き出した。
そして、もうすぐ神殿…という所までくると目の前を女が一人走って行くのが見える。
(あれは…確か…そう…という娘…。弟が夢中になったという娘だ)
「王…あの娘…」
「うむ…」
側近もに気付き、アガメムノンを見る。
「一緒に来い…」
「…はっ」
アガメムノンは側近を従え、ゆっくりとした足取りで神殿のある庭へと歩いて行った―
「パリス!アキレス?!」
は城の一番上にある庭に走りこんで叫んだ。
一気に走ったからか、肩が上下に激しく動いている。
「これは…どういうこと…?」
は神殿のある庭に出て、そう呟いた。
この場でパリスとアキレスが戦っていると聞いたのに…誰もいない…
は唖然として周りを見渡した。
そして、すぐ近くで誰かの悲鳴が聞こえてドキっとする。
もう城内にギリシャ軍が…!
逃げなければ…
でも…パリスは…?どうして誰もいないの…?
は訳がわからなくて途方にくれて夜空を見上げた。
そして両手を組むと、「どうか…無事でいて…」と祈るように呟く。
「今さら祈っても無駄だよ…?」
「………っっ?!」
その声に驚き振り向いた瞬間、ガっと首を掴まれた。
「う…っ」
「やあ。。メネラオスに紹介されて以来だな…?いつからトロイの民になったのだ?」
「く…っ離…して…っ」
アガメムノンは凄い力での首を締め上げ、体を上に持ち上げる。
「おやおや…。まだ、そんな元気があるのか…。全く…お前のせいで大事な弟を失う羽目になったよ…。この罪は自分の命で償うんだな…」
「………ッ」
は目の前に振りかざされた大きな剣を信じられない思いで見ていた。
アガメムノンがニヤリと笑っている。
「さて…お前が死んだと解れば、あの美しい王子はどんな顔をするかな?捕らえて捕虜にし、一生、奴隷にしてやろうか?」
「……や、やめて…ッ」
はアガメムノンの言葉に目を見開き、必死に叫んだ。
そして苦しいながらも、そっと腰につけておいた短剣に手をやり、そっと握りしめる。
「ふん…敵国の王子に心を奪われるとは…。愚かな女だ…。ここで死んでもらう」
アガメムノンが振り上げた剣をの胸に突き立てようとした、その時、素早くが短剣をアガメムノンの首めがけて振り下ろした。
「ぐああっっっ!」
凄い悲鳴が上がり、は地面に叩きつけられた。
その痛みを堪え顔を上げると、アガメムノンが首から大量の血を噴出して倒れるのが見え、は急いで立ち上がろうとした。
その時、腕を捕まえられる。
「この女…!!」
それはアガメムノンの側近達だった。
「離して…!」
は必死に暴れようとしたが短剣はアガメムノンの遺体の傍に落ちている。
は側近の手に握られた剣が自分の方に振り下ろされるのを見て、思い切り叫んだ。
「パリスーーーー!!!助けて―」
「…!!!」
「…?!」
自分の名を呼ぶ声が聞こえたと思った瞬間、はまた地面に倒れていた。
「うわぁぁっ」
その悲鳴と共に目の前に側近の血まみれの顔が倒れてくる。
「キャ…っ」
は驚いて顔を上げた。
そこには、もう一人の側近を切り倒しているアキレスの姿があった―
「パリス様!ギリシャ兵がすでに城の中に…!」
「何だって?!」
走って来た兵士の言葉に、パリスは振り向いた。
だが、すぐに入り口からギリシャ兵が飛び込んで来て、すぐさま弓を構え矢を射る。
「ギャァァっ」
「うあぁあっ」
敵の心臓を貫き、次々に倒れる中、パリスは、もう一度後ろにいる兵士の方を向いた。
「父上は?!非難されたか?!」
「そ、それが姿が見当たりません!側近の者たちが守っている筈ですが…あと様が…」
「?がどうした!」
の名を聞き、パリスは怖い顔で兵士に詰め寄った。
「い、いえ…それが先ほど凄い勢いで神殿の方に走って行かれて…」
「何だって?!そんなバカな!!は姉上やブリセウスと避難したはずだ!」
「で、でも…私が今、ここへ来る途中に会いましたので…」
その兵士は真剣な顔で嘘を言ってる様子はない。
パリスは嫌な予感がした。
「お前、ここでギリシャ兵を止めるんだ!俺はを探しに行く!」
「は、はい!畏まりました!」
張り切って頷く兵士を見て、すぐに行こうとしたが、ついてこようとしたサルベードンの方を振り返った。
「おい、サルベードン!」
「はっ」
「お前も、ここでギリシャ兵を足止めしろ!」
「し、しかしパリス様を一人にするわけには…っ」
「僕なら大丈夫だ!いいから、お前は、ここにいろ!」
「は、はいっ」
それを聞いてパリスは一気に走り出した。
心臓が早鐘を打ち、言い知れぬ不安が襲ってくる。
(…どうして…どうして逃げなかった…!)
パリスはの身を案じ、急いで城の一番上にある神殿へと走って行った―
「アキレス?!」
「…!無事か?!」
アキレスは、もう一人の側近を倒すとの方に走り寄ってきた。
「ど、どうして…」
はアキレスが一人で姿を表した事に驚いた。
だが、すぐに強い腕の中に抱きしめられる。
「良かった…無事で…!」
「ア、アキレス…。パリスは…?」
思い切って聞いてみるとアキレスは、そっと体を離し、首を振った。
「知らない。パリスには会ってない。それより…一緒にここを出よう。もうすぐ、この城は炎に包まれる」
「……っ」
アキレスの言葉には目を見開き、首を振った。
「アキレス…私は…一緒には行けない…」
「何でだ?!もう…俺を愛してないと…?」
「いいえ…!違う!あなたを愛してるわ?アキレス…。だけど…」
は、そう言って俯いた。
「へクトルの事か…?あれは仕方なかった!パトロクロスの敵を討ったまでだ!」
「もう嫌なの!敵を討つとか戦とか…そんな事をしたって堂堂巡りじゃない!いつ戦が終るの?!もう人が死ぬのは嫌!」
「…!お前が戻って来てくれたら…俺はもう…っ」
「嘘!あなたは戦う事を止められない!他の国と戦が起きれば…あなたはまた戦いに出るわ?そんなの耐えられない…」
「…そんな事は…」
「それに…私は…パリスを…」
が呟いた言葉にアキレスの胸が痛んだ。
「あいつを…愛してるのか…?」
「ええ…」
「俺よりも…?」
「…アキレス…それは…」
が口を開きかけた、その時―
「から離れろ!!」
「……?!」
「パリス…!」
が顔を向けると、パリスが弓を構えて立っていた。
「から離れろ!アキレス!!」
「パリス…」
アキレスが、ゆっくりと立ち上がった。
その時、パリスが矢を射ようと弓を高く構えた。
「やめて、パリス…っ!!」
が、そう叫んだ瞬間、パリスの放った矢がアキレスの右足首に刺さった。
「ぐぁ…っ」
顔を歪めて膝をついたアキレスに、が手を伸ばした。
「…!こっちへ…!一緒に逃げよう…っ」
パリスの声が聞こえるも、はアキレスの顔を覗き込んで肩を抱いた。
「アキレス…しっかりして…!」
「…まだ…俺を心配してくれるのか…?」
アキレスは顔を歪めながらも苦笑を浮かべを見つめた。
の瞳には涙が浮かんでいる。
「あ…当たり前でしょ…?大切な人に…変わりはないわ…?」
「そうか…それを聞いて…安心した…。も…ういいから…お前はパリスと行け…」
「アキレスを置いて行けない…っ」
「いいから…っ!」
アキレスがを押しやろうと体を起こした、その時、二本目の矢がアキレスの胸に刺さった。
「キャァァ…!アキレス…!」
は驚いてアキレスを支えようとしたがパリスが、もう一度弓を構えたのが見えて、咄嗟にアキレスの前へ出た。
「やめてぇーーーーっ!!」
パリスは目の前にが飛び出したのが見えて目を見開いた。
だが、その瞬間にも矢が指を離れて飛んでいくのが、まるでスローモーションのように見える。
「ーーーーーっ!!」
パリスが叫んで走り出した時、放たれた矢がの体を射抜くのが見えた…
「…!!しっかりしろ…!」
パリスは倒れているの体を抱き起こし、必死に叫んだ。
目の前のアキレスも呆然との顔を見ている。
「!目を開けてくれ…!!!!」
パリスはの頬に触れながら彼女の名を呼ぶが、はグッタリしたまま目を開けようとしない。
そんな…こんな…こんな事が…
守ろうと思っていたを…自らの手で…っ
パリスは血まみれの自分の手を見て心臓が壊れそうなほど早くなっていくのを感じた。
その時、遠くでドーンという大きな音が聞こえた。
城の入り口を破る音だった。
「…おい、パリス…っ」
アキレスが胸に刺さった矢を抜いて顔を顰めながら、自由に動かぬ体を少しだけパリスに向けた。
パリスは涙で濡れた顔をアキレスに向ける。
「を…を連れて早く逃げろ…。まだ…助かるかもしれない…」
「アキレス…」
「早く行け!じゃないと…今に…も城内は…ギリシャ兵…でいっぱいなるぞ…っ」
苦しそうに、そう訴えるアキレスの言葉に、パリスは我に返った。
「…解った…」
そう呟くと、パリスはの体を抱き上げた。
「…早く…行け…!」
アキレスは地面に倒れたまま、そう叫ぶ。
パリスは、黙ったまま頷き、を抱いて、その場を後にした。
それを見届けるとアキレスは苦しそうに喘ぎ、その場に寝転がる。
矢が内臓を傷つけたのは間違いなく、ドクドクと血が流れ出るのが解った。
「…助かっ…てくれ…」
アキレスはそう呟くと空を見上げた。
最後にの…気持ちを聞けて…良かった…
憎まれてしまったかと思っていたから…
…俺は…最後まで、お前に幸せをやれなかった…
思えば…泣かせてばかりだったな…
こんなにも…お前を愛していたのに…
遠くで聞こえる怒号の中…アキレスは眠るように瞳を閉じた――
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