それは紀元前3000年…
古代ギリシャとトロイで起こった愛の物語…
城内を彷徨い、は途方に暮れていた。
昼のうちに帰っていれば、私がいなくなった事を知られずに済んだのに…
あのエロ王子(!)に掴まって全然、離してくれなかった。
何度、怒っても全く懲りてないように抱きしめて求婚してくるし、どうしようかと思ったわ…
でもやっと今しがた殴られ疲れたのか(!)ぐっすりと眠ってしまった。
そこをコッソリ抜け出してきたのはいいが…
ヘクトルに逃がしてもらうよう頼みに行きたいのに城の通路で迷ってしまった。
さっきはパリスに抱きかかえられて周りを見る余裕すらなかったし…
ヘクトルの部屋に行くには、どう行けばいいのか…
もし兵士に見付かったら・・と思うと夕べの事を思い出し足がすくむが今はそんな事を言っていられない…
早く戻らないと私が逃げたと思って家族が殺されてしまうかもしれない…!
そう…よく考えれば私がギリシャ陣営に来た事なんて誰も知るわけがないのだから、
トロイの王子に攫われたなどと分るはずもない。
となると…やはり逃げたとしか思われないだろう。
それでも早く戻れば…まだ許して貰えるかもしれない…
パリスに攫われたと言う気はなかった。
そんな事を言えば、メネラオスは、それを理由に自分の兄、アガメムノンに兵を出せと頼むかもしれないからだ。
優しくして貰ったヘクトルとアンドロマケにだけは迷惑をかけたくなかった。
気付けば外へと出ていた。
城の中庭のような場所をウロウロとしながら、このまま自分で外へ出てしまおうと思った。
だがトロイは、いかなる軍も破る事の出来ない城塞都市…
それは外と同様、中からでも門以外に出る道はないように思えた。
どうしよう…こんな高い塀など登れるはずもない…
やはりヘクトルに頼むしか…
そう思いつつも足が止まらず、どんどん奥の方へと歩いて行った。
高い塀の上にある、かがり火だけが頼りだ。
奥へと進むと行き止まりになっていた。
仕方なく今来た道を戻ろうと振り向こうとした、その時、後ろから口を塞がれ息を呑む。
「ん~~~っ!!」
「シィ・…!兵士に見付かれば面倒だよ?」
はジタバタ暴れるも、その声に後ろを振り向いた。
すると、そこには少し困ったような顔で微笑むパリスの顔があって、またも驚く。
パリスはの口を塞いでいた手をそのままに上手く抱き上げると、「さ、僕の部屋へ戻ろう」 と言って歩き出した。
「んんーーーっ」
口を塞がれながらも何とか講義をするも、パリスは余裕の笑みだ。
「シィ…静かに。他の兵に見付かれば、また、あれこれ聞かれるからさ…
明日の朝になったら父上にも君を会わせるから…それまでは大人しくしててくれないと」
パリスの言葉に私は耳を疑った。
父上に会わせる…?!
父上と言えば…トロイ国の王、プリアモス・…!
トロイの王に会わせるですって?メネラオスのフィアンセの私を?!
何を考えてるのよ、この人…っ
私が睨んでいても、どこ吹く風で微笑んできさえする。
パリスは、そのまま、また自室へと私を連れて行くと寝台へと座らせ、やっと手を放してくれた。
「ぷはぁ…っ! ―ちょっと!!苦しいでしょ?!」
そう私が怒鳴るも、パリスは私の隣へと座ると軽く抱き寄せてきた。
「やめ―」
「良かった…」
「…え?」
「君が…兵士に見付からなくて・…」
パリスは体を少し離すと心配そうな顔で私の瞳を見つめてくる。
私はパリスのアップを、まともに見て顔が赤くなってしまった。
「あ、あの・…!ちっとも良くないわ?」
「どうして?兵士に見付かれば、また乱暴されるかもしれないんだよ?僕が君を妃にするなんて、まだ誰も知らないんだから…」
「……でも私、あなたの妃になんてなりませんから」
キッパリ言うと、パリスは少し俯いてしまった。
(分かってくれたかしら・…?)
私は、そう思い、もう一度頼んでみた。
「あの…私を城の外へ出して?今日中に帰らないと逃げたと思われてしまう…」
私がそう言うとパリスはやっと顔を上げた。
だが、さっきと違って余裕の笑みはなく、少し悲しげな顔だった。
「君の言ってる事は分かるよ・…」
「だ、だったら・…っ」
「でも・…君を返せば、君はメネラオスと婚儀をあげる事になる」
「・…そ、それ…は・…そうだけど…」
「それだけは嫌だ」
パリスは真剣な顔で私を見て言った。
「それは、さっきも話したでしょう?仕方がないのよ・…っ」
「ダメなものはダメだ!」
パリスは、いきなり怒鳴ると私の腕を掴んだ。
「何するの?放して!」
彼は私の腕を引っ張り隣の部屋へと入れると急にドアを閉めてしまった。
「やだ!開けてよ!ちょっと!」
「明日の朝まで、そこで大人しくしてて」
パリスは、そう言うとドアに鍵をかけたようだった。
「ウソでしょ?出して!!私、帰らないと…っ!」
ドンドンドン!
何度もドアを叩くも開く様子もない。
私は、その場に蹲ると涙が溢れてきた。
「私が…帰らないと…皆が…」
ポロポロと涙が頬をつたっていった。
どうして…?私が何をしたの…?
(アキレス…あなたに会いたい…)
私は、その場に蹲ったまま思い切り泣いて、アキレスの名を心の中で呼んでいた―
「はどこだ!婚儀の日にどこに行ったんだ!」
メネラオスは、そう叫びながら側近たちを次々に殴っていった。
「お前たちが、ちゃんと見張っておかないからだぞ!」
「は・…っ。申しわけも…」
「いいから早く探し出せ!!女の足だ、そう遠くへは行っていまい。明日の朝までに戻らなければ…家族を一人づつ殺せっ」
「・…は?」
「殺せと申しておる!そうすれば自ら戻ってくるやもしれん…っ」
メネラオスは、そう言い捨てると王の間へと入って行った。
それに側近たちも慌ててついていく。
「全く…花嫁に逃げられたなど、いい笑いものだ!やはり城に残り婚儀の日まで閉じ込めておけば良かったのだ…
の奴…結婚を承諾して油断させおって…っ」
メネラオスは怒りが収まらない様子で、椅子へと腰をかけると、ぶつぶつと文句を言っている。
「ただでさえトロイ軍に我が軍を奇襲され痛手を負わされムカムカしていたと言うに・…!
そもそもアキレスが下らん事を言いに来て陣営を離れてるからだ…っ」
メネラオスは、そこで、ふと思い出したように、
「おい!アキレスはどうした?まさか国に帰ったのか?」 と側近に声をかけた。
「アキレスですか?いえ…そのような報告は入ってきてはおりませんが…まだトロイ城の近くに陣営を組んでるものかと…」
「ふむ・…あいつ・…撤退させると言っておったのに…」
メネラオスは、そこでおかしいと思った。
あいつは…アキレスは自分で言った事を曲げない男だ。
自分の軍を撤退させると、あんなにはっきり言ったのに、未だそれをしないでトロイ城の近くにいる・・・
どうもアキレスらしくないような気がした。
(今後も目を離せないな・…)
メネラオスは、そう思いながら酒をぐいっと呷った―
その頃アキレスは自分のテントの中で、ジっとの首飾りを見ていた。
そして手のひらの中で、キラキラと光る首飾りを、ギュっと握りしめる。
どうして…こんな危険な場所へと来た…?
戦場まで連れてきたメネラオスにも腹が立つが・・・まだ船にいればと安心していたのに…
何故、俺に会いに来たんだ…
あの予言が…あいつを苦しめたのだろうか・…
ここへ来る前に預言者であり、俺の母親であるティティスの予言を・…
戦場へと赴いて名誉ある死を選び、歴史に名を刻むか、それとも普通に結婚をして父親となり一生を過ごすか…
どちらかを選びなさい…と母は言った。
俺は・…当然の如く前者を選んだ――
(そのせいで・・・を苦しめていたと言うのか…?)
「くそ…っ」
知らず口から出ていた。
その時、テントの中に、オデッセウスが顔を出した。
「アキレス・…!」
「何だ?」
「王に…がいなくなった事がばれた」
「・……そうか」
「凄い剣幕で探している。どうする?トロイ軍に…攫われたかもしれないという事は…」
「まだ言うな…。あのジジィ、そう聞けば、すぐに兄アガメムノンへと泣きつくに決まっている。
そうなると大規模な遠征軍が来て、ますますを助け出しにくくなるからな…」
「それも…そうだが…。 ―彼女は・…生きていると思うか?」
オデッセウスの問いにアキレスは初めて顔を上げた。
「ああ・…生きてる。俺には分かる」
アキレスの揺るぎない強い言葉に、オデッセウスもホっとした。
「そうか・…」
「ああ・…」
「ところで…間者から何か連絡は?」
「いや…まだ何も…。何をぐずぐずしているんだ・…っ」
「だが…忍び込むにも、あの城塞都市には、それなりに時間もかかるだろう…」
オデッセウスが、そう言うとアキレスは、少し息をついた。
「お前…夕べから一睡もしてないだろう?今のうちに寝ておけ・…。いざって時に動けないぞ?」
「ああ・…」
アキレスは溜息をつくと、そう呟き、静かに立ち上がると寝台の方へと歩いて行く。
それを見届けるとオデッセウスは、そっとテントから出ていった。
アキレスは、そのまま横になると、また手の中にある首飾りを見た。
…必ず助けてやる。トロイ軍からも・…王からも…
この命に代えてでも――
そう心の中で誓うとアキレスは静かに目を閉じた…。
――トロイ城内
パリスは静かに扉を開いた。
朝日が差し込む窓を少しだけ開けてあるので、隣の薄暗い部屋へも日の光が、かすかに入る。
は扉の前で蹲るようにして眠っていた。
頬には涙の跡が残っている。
(泣きつかれて・…眠ってしまったか…)
パリスはを静かに抱きかかえると、そっと自分の寝台へと寝かせ、布団をかけてやった。
そして端に腰をかけると、の涙の跡が残る頬へと手で触れる。
女性を・…こんなにも愛しいと感じた事はない…
なのに…どうしても優しくしてやることが出来ない自分に腹が立つ。
本当なら…彼女の言う事を聞いてあげるのが一番良い方法なのかもしれない。
そうすれば戦争も大きくならないし、彼女の家族も助かるのだ。
分かっている…
分かっているのに…
あの王の下へと帰し、彼女が、あの親よりも年上のメネラオスと結婚する事は、どうしても我慢できなかった。
「どうして・…君はトロイの人間ではないんだろう…」
そう呟くと、の頬に優しく口付ける。
「ん…」
すると、かすかにが動き、静かに瞼が開かれた。
「あれ・…私・…」
寝ぼけた様子で視線を彷徨わせる彼女が可愛くてパリスは、また彼女の頬に口付ける。
「・・…ひゃっ」
「おはよう…」
「あ、あなた・・…っ」
は目が覚めた途端、目の前にパリスの奇麗な顔があるのに驚き、尚且つ頬にキスをされた事で、またパリスを睨んだ。
「そう睨まないで・…。ごめん、閉じ込めたりなんかして・…また、どこかに行ってしまいそうで…」
「ふざけないで・…っ」
は、そう言うと体を起こして窓から入る日の光に驚いた。
「え・…?もう・…朝…なの?」
「え?あ、ああ・…いい天気だよ?」
「いけない・…っ。私を今すぐ帰して!」
は突然パリスの腕を掴み哀願した。
「それは断っただろ?」
ぶっきらぼうに答えるパリスに、は、もう一度、「お願い・…!私の家族が・…」 と言いかけた。
すると―
「君の両親を…この城へ連れてくれば文句はない?」
「…え?」
は信じられないといった顔でパリスを見た。
パリスはを真剣に見つめると、「そうしたら・…僕の傍にいてくれる?」 と言った。
「そ、それは…」
「両親だってメネラオスの支配する国で暮らしたくはないだろう?自分の娘を脅して結婚しようとする王のいる国なんかでさ」
は何も答えなかった。
パリスは言葉を続けた。
「今日…父上に君を会わせて妃にすると宣言する。そして君の両親をギリシャから呼び寄せる事を許してもらうよ」
パリスの言葉には驚くも、ゆっくり首を振った。
「そんなこと・…出来ない・…。私は…あなたを愛してないもの・…」
「分かってる…。 ――それでも・…いいんだ…」
パリスは、そう言うと優しくを抱きしめた。
「別に愛してもらえなくても…君に傍にいて欲しい…」
はパリスの言葉に驚いた。
(愛がなくてもいいなんて・…どうして?)
「あ、あの・…王子…」
「パリスでいいよ?」
「……パ、パリス・…あなたに、そこまで甘えられないわ・…?」
私がそう言うと、パリスは少し体を離して私の顔を見た。
「どうして…?」
「そんな…あなたの行為に甘えて、メネラオスから逃げ出しても・・・戦争が大きくなる事は避けられないし・・・
それに…」
「それに?」
「私には…」
「好きな人がいるから?」
「………」
パリスに言われて私はドキっとした。
そう…王から逃げ出せたとしても、アキレスから離れ、トロイで愛のない生活を送る事は嫌だった。
ギリシャにいて王と結婚をすれば…少なくともアキレスと離れる事はない…
私が黙っていると、パリスは少し視線を反らして、「それでもいいんだよ…」 と呟いた。
「え?」
「好きな奴がいようと・…君は僕には逆らえない。僕はトロイの王子なんだ。僕の望む者は全て手に入る」
「な・…!私は、あなたの所有物じゃないわ!」
私は、カっときて怒鳴るもパリスは怖い顔で私を見た。
「僕が、これだけ言っても分かって貰えないんなら…力ずくで君を僕のものにする」
「勝手なこと言わないでよ…!!」
私は体を離し、逃げようとするとパリスは私の腕を掴み、また隣の部屋へと閉じ込めた。
「ちょっと出してってば!」
「今から・…君の両親のとこへ使者を送る。両親の顔を見れば君だって気持ちが変わるかもしれないだろ?」
「え?そ、そんな・…ちょっと待ってよ!」
私がドアを叩きながら叫ぶも、パリスは部屋を出ていってしまったようだ。
バタン!と扉の閉まる音が隣から聞こえ、私は思い切り溜息をついた。
両親をトロイへ呼ぶ・・・?
その方が・…確かにメネラオスに殺されずに済むし願ってもないことだ。
でも…どうせ愛のない生活を送るならギリシャにいたかった…。
「アキレス・…助けて・・…」
私はそう呟くと硬く閉ざされた扉を見つめて途方に暮れてしまった。
「サルペードン!サルペードンはいるか?!」
「は・…っ。お呼びでしょうか、パリス様」
僕の側近のサルペードンが、すぐに走って来た。
「ちょっとお前に頼みがある」
「何でございましょう?」
「今すぐギリシャに使者を出し、スパルタの王メネラオスの妃となる娘の両親を探して、ここへ連れて来て欲しいのだ」
「は…?メネラオスの妃の・・・両親・・・でございますか?」
「そうだ。娘の名は…」
そうだ…まだ教えて貰っていなかった。
そこへ兄、へクトルがアイネイアスと歩いてくるのが見えた。
「兄上!」
「パリス・…今、お前に会いに行くとこだったんだ。お前…」
「それは後で聞きます。それより、あの娘の名は何と言うのですか?」
「何?」
「僕が捕虜として攫ってきた娘です」
「あ、ああ・…彼女の名は・…と名乗っていたが?」
「・…そうなんだ・…」
僕はやっと分かった愛しい人の名に少し胸が高鳴るも、すぐにサルペードンへ、「娘の名はだ。すぐに使者を」 と命令した。
「は…では今すぐにでも・…」
サルペードンは僕に傅き、そして兄上にも頭を下げると素早く、その場から立ち去った。
それを見送り僕は少しホっと息をつく。
サルペードンは優秀な奴だ。
上手くやってくれるだろう。
「おい…パリス…使者とは何のことだ?に…何かしたのか?」
ヘクトルは怖い顔で僕の腕を掴んだ。
「別に何も…。彼女の望む両親を、ここへ連れてくるように頼んだだけです」
「何だと?!では…彼女は…お前の求婚を承諾したと言う事か?」
「・・……ええ」
「で、でも・…彼女にはフィアンセがいると聞いたが・…」
「そんな愛のない結婚よりも僕と一緒にいる事を望んだんです、それでいいじゃないですか」
「しかし…好きな人もいると言っていたのに、何故急にお前と?」
「さあ?女性の心は変わりやすいのですよ?兄上。では僕は父上に報告をしてきますので・…。失礼」
僕はそう言うと、父上のいる部屋へと向かった。
ヘクトルはポカンとした顔をして僕の方を見ている。
少々強引かな?とも思ったが今まで、こうして生きてきたのだから仕方がない。
今更、望む者を諦めるなどと言う事は出来なかった。
「父上!」
僕は王の間へとズカズカ入って行った。
「おう。パリスよ、本日も機嫌が良さそうだな?」
父王、プリアモスは王座に座ったまま僕に優しく手を伸ばした。
僕も、その手を握ると軽く口付け、すぐに隣に座る母、へカベにも同じように手に口付ける。
「おはようございます。父上も母上もご機嫌麗しゅう」
「ああ、堅苦しい挨拶はよい。何か話があるのだろう?」
プリアモスは、そう言うとニヤリと笑った。
「さすが父上。分かりますか?」
「お前の顔を見ればな?」
そう言われて僕は何て単純なんだろうと少し恥ずかしくなったが、父上の前へと傅き、口を開いた。
「・・…実は父上にお願いがございます」
「お願い?何だ?申してみろ」
「はい・…。実は…結婚をしたい女性がいるのです」
「な、何?!」
普段は冷静なプリアモス王も、これには驚き、王座から立ち上がった。
后のへカベも目を丸くしている。
「け、結婚とは…どうしたんだ?こんな急に・…今、お前には決まった娘はいなかったハズだが・…?」
「それが…出逢ってしまったんです。運命の女性と・…」
「な、な・…何だと?運命?」
プリアモスは、ますます顔を赤くして驚いている。
「はい。どうか結婚するお許しを・…」
「ま、待て・…そう先を急ぐな・…。と、とにかく言いたい事は分かった。だがな?どこの娘かという事くらいは話してくれ。
第二王子と言えど、妃をとると言う事は大事な事なのだからな…?」
「分かっております。その娘は・…ギリシャの娘です、父上」
僕の言葉に、更に驚いて口を開けている父上を見て、僕は少しおかしくなった。
「ギリシャ・…の娘だと?」
「はい」
「ど、どのような娘だ?どこで知り合ったのだ」
「ギリシャ陣営に奇襲をかけた夜・…僕が彼女を捕まえて城へと連れてきたのです」
「何だと?!そ、それじゃ、その娘は捕虜として連れてきたと言うことか?」
「まあ、最初は・…。でも…僕は彼女を一目見て・…運命を感じたのです」
僕は真剣な顔で父上に訴えた。
プリアモスは暫く考え込んでいる様だったが、王座に座りなおすと、
「パリス…王子のお前の妃になる娘が・…捕虜として捕らえた娘だなんて…許せると思うのか?」
「父上・…僕は・…!」
「まあ、待て…。私とて可愛いお前が心から望む娘と婚儀をあげさせてやりたいが…そのような者との結婚は…」
「ま、待って下さい、父上!彼女は・…王族のものです」
「なにぃ?!」
僕は慌てて、そう言うと、父上は卒倒しそうな勢いで、また王座から立ち上がった。
「お、王族とは、どういう事だ?ギリシャの・・と言う事か?それとも他の国の・…」
「いえ・…ギリシャのです。彼女は・…メネラオス王の・・…フィアンセなのです…父上」
僕は仕方なく、そう言うと、父上は今まで以上に目をむき、そして一瞬眩暈を覚えたのかこめかみを指で抑えると、
ポスンと王座へ腰を下ろした。
母上もまた手で口を抑え、目を丸くして僕を見ている。
僕は黙って父上の言葉を待っていた。
すると父上は静かに僕の方を見た。
「お前は・…何という事を・・…」
「……仕方がないのです。出会うのが…遅かっただけのこと」
僕はそう言うと父上は片方の眉を上げて、また僕をじっと見つめてきた。
「お前・…本気なのか?」
「はい」
「今までと同じように、軽い気持ちではないのか?」
「いいえ。僕は…彼女をすでに愛しています」
「その娘も、お前と同じ気持ちなのか?」
そう聞かれて僕は一瞬、言葉が出てこなかった。
は…僕と同じ気持ちじゃない。
彼女は帰りたがっている…
それが僕を苛立たせてるのだ。
「はい。彼女も…僕と同じ気持ちです」
―僕は父上に嘘をついた―
王、プリアモスは、息子パリスの真剣な言葉に胸を打たれた。
こいつ…本当に逞しくなってきた。
今まではヘクトルにばかり頼っていたのに…今では自分の意見も、こうして父である私に臆することなく言ってくる。
この結婚・…許すべきなのだろうか?
そうなれば…メネラオスは烈火の如く怒り、何万と言う兵を我がトロイへと差し向けてくるだろう。
それは…今まで以上に戦争が拡大するという事を意味していた―
プリアモスは、もう一度パリスの顔を見た。
真剣で熱い眼差しが王をとらえる。
(パリスは…その娘への愛で・…強くなっていくのかもしれんな・…)
プリアモスは、そう思うと、ふっと頬を緩ませた。
「分かった・…。その娘との・…結婚を許そう…」
「本当ですか?父上!」
パリスは嬉しそうな顔でプリアモスの前へと進んできた。
「ああ・…。だが…そうなればギリシャ軍との戦いは避けられぬぞ?分かっておるな?」
「もちろんです!僕も彼女を守る為に・…戦います。今まで戦いを避けてきましたが・…もう逃げません」
キッパリと強い意志を言う息子に、プリアモスは目頭が熱くなった。
后は、すでに涙を指でそっと拭っている。
「そうか。では今まで以上に剣の特訓をしろ。へクトルとは、もちろん他の側近ともやって、
どんな相手との戦いにも、体が動くようにしておけ」
「はい!」
パリスは嬉しそうに、そう返事をすると、すくっと立ち上がった。
「ああ、時に…その娘は、どこにいる?お前の寝所か?」
「え?あ・・…はあ・…まあ・…」
「そうか。では一度、私にも会わせなさい」
「分かりました。 ―あ、それと父上・…もう一つお願いが・…」
「何だ?もう何を聞いても驚かんぞ?」
プリアモスが苦笑しながら言った。
「いえ・…今の願いより簡単な事です。実は…彼女はメネラオスに結婚をしなければ家族を殺すと脅され、
結婚を渋々承諾したのです」
「何だと?何て卑劣な…!」
プリアモスは、そう言う権力で物を言わすメネラオスとは犬猿の仲なので顔を赤くして怒った。
「それで・…彼女が逃げ出したとなれば・…家族のものが危険なのです」
「ああ、そうか・…。分かった、では娘の家族を、このトロイへと連れて来たらよい。娘も家族と一緒なら安心だろう」
「ありがとう御座います、父上・…!」
「うむ。まあ、そのくらいは・…では早速使者をギリシャに・…」
「いえ、それはもうサルペードンへと任せました」
「何?」
プリアモスは、パリスの、その素早い行動に少し驚いた。
そして少し苦笑すると、
「全く・…お前と言う奴は・…。もし私が結婚を認めなければ、どうする気だったのだ?」
「いえ…何が何でも説得する気でいました」
「それでも許さなかったら?」
その最後の問いに、パリスは少し息を吐き出すと真っ直ぐにプリアモスの方を見た。
「彼女を連れて・・…僕は、このトロイを捨てる気でした、父上」
「………!」
息子パリスの言葉に、プリアモスは固まった。
なんと・…娘一人のために国を捨てるだと?!
この父も母も・…兄も…そして王子という立場を捨てる気でいただと?
それほどまでに、このパリスが心惹かれた娘とは・…
ヘクトルと違い、パリスは甘やかし育ててきたからか、何でも自分の思い通りになるという我侭な息子に育ってしまった。
その為、へクトルに任せたきり自分は戦うのは嫌いだと遊びほうけてばかりいた。
すぐに奇麗な娘を見ると自分の物にし、飽きると捨てる。
そんな事をして浮名ばかり流していたパリスが…
娘のために、その今までの地位を捨てると言いおった。
やはり・・…運命なのか?
パリスを一晩で、ここまで変えてしまうとは・…
「お前の気持ちは・…分かった。後で、その娘を私と后に会わせなさい」
「はい」
「では、これで…。 ―私はミノアの使者と会議がある」
プリアモスは、そう言うと王座から静かに立ち上がり側近を連れ立って王の間から出ていった。
それを見届けるとパリスは思い切り息を吐き出す。
すると后へカベが、クスクスと笑い出した。
「パリス・…よっぽど緊張していたようですね?」
「母上・…それはもう…心臓が壊れるんじゃないかと思いました」
パリスも苦笑しながら、そう言うと、
「では僕もの元へと戻ります。心配ですので…」
「あらあら・…本当に、その娘に心を奪われてしまったのね・…?」
優しく微笑む母に、パリスは顔を赤らめた。
「では母上、これで失礼します」
「ええ、後ほどね」
僕は母上の言葉に軽く頭を下げると、すぐに自室へと戻った。
早く・…に会いたかった・…
「アキレス様!間者として忍び込ませた者から連絡が・…!」
エウドロスが慌てて走って来た。
「何?それで?どうだった?!」
エウドロスはアキレスの前まで走ってくると、一気に地面に膝をつけ、大きく肩で息をした。
「そ、それが…昨夜、間者が忍び城の裏庭から城内へと入ろうとした時、目の前に様がやってきたと・…!」
「何だと?!それは確かか?!」
「はい!その者は何度も様に、お会いしていますし・…間違いないかと」
「ならば・…どうして、その時、をすぐに助けなかった!」
「そ、それが・…声をかけようとした時、いきなり城内からトロイの王子が出てきたと・・・・・」
「何?王子・・…パリスか?」
「そのようです。パリスは様を抱きかかえて城の中へと戻って行ったと…」
「やっぱり…はパリスに攫われたんだ・・…。 ―くそっ!」
アキレスは、その場にあった盾を思い切り蹴り倒した。
「どうしますか?王に・…報告を?」
「いや、待て!それは、しなくていい」
「分かりました。では・…我々だけで・…」
「ああ・…俺の軍だけで充分だ」
そこへ、「アキレス!」 と、従兄弟のパトロクロスが走って来た。
「パトロクロス?!お前・…何しに来た!」
「の事を聞いて心配になったんだ…。僕だって戦える…!」
「ダメだ!今すぐ船に戻れ!」
アキレスは怖い顔でパトロクロスを睨みつけた。
「アキレス・…!が心配なんだ・…!一緒に戦わせてよ!」
「お前なんか足手まといになるだけだ。 ―帰れ」
冷たく、そう言うとアキレスはオデッセウスのテントの方へと歩いて行った。
するとオデッセウスもアキレスの方へと走って来る。
「どうした?慌てて・…」
「アキレス・…!!の・…の家族が・…!」
「何?どうした?!」
「まず・…父親が・…メネラオスの命令で・…さっき殺された・…っ」
オデッセウスの辛そうな声は、アキレスの耳に届くも、暫く理解出来ないでいた。
(の父親が・…殺された・・…殺されただと?!)
アキレスは静かに息を吐き出すと、怖い顔でオデッセウスを見た。
「何故だ?」
「え?」
「何故、父親が…?」
「いや、それが・…王はが…自分との結婚を嫌がって逃げたと思っているらしい…。
それで今朝までに戻らなければ家族を一人一人殺せと命令したそうだ・…」
それを聞いてアキレスの瞳に怒りが燃え立つのがオデッセウスには分かった。
「は・・…逃げたんじゃない・・…」
「え?」
「は・…トロイの王子パリスに攫われたんだ・・…王に、そう伝えろ!!」
「な・…っ。ちょっと待て!アキレス!」
アキレスが歩いて行ってしまうのを、オデッセウスが慌てて後を追った。
「が・…攫われたって・…確認できたのか?」
ずんずんと歩いて行くアキレスの横を一緒に歩きながら、オデッセウスが問い掛けた。
アキレスはオデッセウスを見ないまま、
「ああ…忍び込ませた間者が、昨夜を確認した。
――本当なら・…王には知らせず、俺だけで助けに行こうと思ったが…。
あのジジィ・・…っ!最低な真似を・…っ
―これ以上、ジジィにバカな真似をさせないように、真実を伝えろ!いいな?!」
アキレスはオデッセウスでさえ、震え上がるほどの冷たい目で、そう怒鳴ると自分のテントの中へと姿を消した――
パリスは自室へと戻ると、すぐに隣の部屋の鍵を開けて中へと入ろうとした。
「…?」
その時―
ガン・・…っ!!!
「ぃだっ!!!」
パリスは額の辺りを何か固い物で殴られ一瞬、クラっとしたが、目の前をが走って逃げようしたので慌てて腕を掴んだ。
「は、放してってば・…!」
「おい・…!人を殴っておいて逃げるとは…いつつ・…っ」
パリスは額のあまりの痛さに顔をしかめながらも、必死での腕を掴んでいる。
「放せ!バカ王子!エロ王子!変態王子ぃ~~!!」
その間も、は悪態をつきながらジタバタ暴れてパリスは困ってしまった。
「ほんと・…じゃじゃ馬だな!」
そう言うとの腕を思い切り引っ張り寝台へと押し倒した。
「ぃたぃ…っ!」
勢いよく倒れて、は背中の痛みで顔をしかめる。
するとパリスが圧し掛かってきて、は思い切り手足を動かし暴れた。
「やだぁーー!!!放してよ!!私を帰して・…っ」
「う…っいた!……痛いって・…!!!」
あまりに暴れるので腕が、パリスの顔や頭にポカポカとあたり、仕方なくパリスはの両手を掴んで組み敷いた。
「何するの?やだ!!」
「・…!何もしないから!?落ち着いて!」
「放して!やだったら!」
パリスが必死に訴えるも、は両手を組み敷かれた恐怖からか興奮状態で聞こえていない様子だ。
まだ足をジタバタ動かしパリスの体を蹴ろうとする。
「やだ!放してよ!!」
「ほんと…じゃじゃ馬で手に負えない・…」
パリスは、そう呟くと、を落ち着かせるのに、その叫んでいるの唇を自分の唇で少し強引に塞いだ。
「んんーーーーっ!!!」
パリスは口付けをしながら、もう少し色っぽい声を出せないものか?と苦笑しつつ、そっと唇を解放すると、
今度は頬に軽く唇をつける。
「や・…っやだ…!」
は涙を浮かべて抵抗するも、パリスは、その涙を唇で掬って、また口付けをしようと唇を近づけた、その時…
「アキレス―――!助けて・…っ」
その言葉を聞いて、パリスの動きが止まった。
(何だって・…?アキレス…?)
パリスは、そっと体を離すと、はすぐに飛び起きて寝台の隅へと逃げていく。
「こ、来ないで・…!!これ以上、私に触れたら舌をかんで死んでやるから!!」
は涙をポロポロ零しながらパリスを睨んだ。
だが、パリスは呆然と寝台へ腰をかけると、「何も…しないって言ったろ?」 と呟いた。
「……ウソ・…!したじゃない・…っ」
は体が離れたせいか少し落ち着きを取り戻し、何かを呟いたパリスの方を見た。
「さっきキスしたのは・…が暴れて叫ぶからだよ・…」
「な、何で、私の名前・・…」
教えてもいないのに自分の名を呼ばれ、は一瞬驚くも、ヘクトルにだけは名乗ったのを思い出した。
「あなた・…ヘクトルに会ったのね?お願い、私を彼に・…っ」
「の好きな奴って・…。 ――アキレス?」
「・・…え?!」
いきなり、そう切り出されは涙も引っ込んでしまった。
パリスは表情のない瞳でを見ている。
は一瞬怖くなるも、キっと睨みつけて、
「そうよ…!私はアキレスのこと・…子供の頃から好きだったの!だから私を彼の元へ帰して!」
「ふ~ん。でも君はアキレスとは結婚できない。そうだろ?」
「そ、それは・・…」
パリスにはっきりと言われては胸が痛んだ。
そうよ…どうせ・…私は好きな人とは・…アキレスとは結ばれない運命なのよ・…
そんなの・…メネラオスに結婚を承諾した時から分かってる・…!
は、また涙が出そうになりギュっと目を瞑った。
「・…」
「な、何よ・・…」
「さっき父上に、と結婚する事を承諾してもらったよ?」
「何ですって?!」
パリスに、そう言われては驚いた。
「全部…話した。君がメネラオス王のフィアンセって言う事もね?」
「そ、それで・…王は、それでも許したって言うの?!」
「ああ」
「そんな・…おかしいわ?戦争が大きくなってもいいって言うの?!息子の我侭の為に自分の国や民を
危険にさらしてもいいって?!」
「父上は…どんな事があっても国と民を守るよ。そういう人だ」
「そんな…だって・…メネラオスが兄のアガメムノンに援軍を頼んだら何千という兵が・・・」
「そんなもの・…トロイの国の民は恐れたりしない」
パリスは、へと近付くと優しく頬へ手を添えた。
「やめて…っ!」
「何もしないってば・…」
そう言うとパリスはをそっと抱き寄せた。
「し、してるじゃないの!放して・・…」
「抱きしめるくらいいいだろ?僕だって我慢してるんだ」
「が、我慢って…」
「…ほんとは…にキスしたいし、その肌にも触れてみたい・…。でも君を怖がらせるから我慢してるんだよっ」
そのパリスの少しスネたような言葉に、は顔が一瞬で真っ赤になった。
な、何言ってるの?!この人…!
よく恥ずかしげもなく、そんなこと…!
アキレスだったら、こんなこと死んでも言わないわ・…って比べる事じゃないけど…っ
パリスは、の背中に優しく腕を回し、自分の方へと引き寄せるとの頭に頬を摺り寄せた。
「あ、あの…」
「こうして・…君を腕に抱いてると、本当に心が安らぐんだ・…。
たった一晩で、こんな感情があるんだということを初めて僕は知ったよ・…」
そう言われて、は、またも顔が熱くなる。
ど、どうして、こんな臭いセリフを平気で言えるの?!
やっぱり王子様だから?!
私だって、あなたみたいな人は初めてだわ…?
は暫くパリスの体温を感じながら、大人しくしていた。
その時、ノックの音が聞こえ、パリスはを慌てて放した。
「あ・…ごめん・…」
そう呟くと、パリスは少し照れくさそうな顔でドアの方へと歩いて行く。
は唖然として、その後姿を見ていた。
今・…何て言った?!
ご、ごめんって・…ごめんって聞こえたんだけど・…
あのパリスが・…我侭で暴君で思い込みの激しい ―酷い言いようだ― パリスが…ごめんって誤ったわ!
しかも少し頬を赤らめて照れていたように見えた・・…っ
はパリスの変わりように少しの間、驚いていた。
パリスはドアを開けると、誰かと話している様子だ。
は、もしかしてへクトルかと思い、静かに寝台から立ち上がるとドアの方へと近付いていった。
「何だって?!それは本当か・…!!」
大きくはないが、パリスの驚きの声が聞こえ、は足を止めた。
「は・…使いに出した者から聞いた所によると、ギリシャに行く途中、出会った兵士が、そう話しているのが聞こえたと…。
…と名前が出たもので近くに潜んで会話を聞いたようです・…
メネラオス王が花嫁に逃げられ、怒った王は彼女の家族を拉致し、まずは見せしめで父親を殺したと・…」
サルベードンが小声でパリスに言った。
ダン!!
「くそ・・…っ!遅かったか・・…!」
パリスは怒りを見せて、壁を拳で殴り、そう吐き棄てるも、その時後ろで、ガシャン!と音がして慌てて振り向いた。
すると、が呆然とした顔で、その場に座り込んでいる。
の体に当たったのかテーブルの上から花を飾っていた器が落ちて割れていた。
「……!!」
パリスは慌てての元へ駆け寄った。
「怪我は?怪我はないか?」
パリスはの両手をとり、傷がないかと見た。すると―
「ほ…んと?」
「え?」
「ほんとに・・…お父様が……?」
「・・…」
パリスはが静かに、ポロっと涙を零したのを見て胸が締め付けられた。
「ごめん……僕がもっと早くに使者を出していれば……」
パリスはの手を強く握り俯くと、は首を静かに振った。
「別に・…あなたのせいじゃ・…ないわ?・…全部・…私のせい……」
「な・…何でだ?お前は何も・・…」
パリスはの肩を掴んで、そう言うも、または首を振った。
「私が・・…っ。あの夜…船を抜け出しさえしなければ・…!こんな事にはならなかった・…!!」
そう言うとはパリスにしがみついて子供のように泣き出した。
パリスは思い切りを抱きしめると、ドアのところで立っているサルベードンへ手で"行け"と合図を出す。
サルベードンも悲痛な表情で頭を下げると静かにドアを閉めて立ち去った・…。
「うぁ…ひっ…く…あ・…お…父様・・…ごめ…んなさ……」
自分に、しがみつき声をしゃくりあげて泣いて謝るの姿に、パリスは息苦しいほどの痛みを感じていた。
僕が彼女を引きとめたから・…彼女の父親は殺されてしまった・…
僕のせいだ・…!
激しい罪悪感にかられ、パリスはの為に、残りの家族を助ける決心をした。
彼女をメネラオスの元へ返すという選択肢はなかった。
必ず…の家族を救出する…
それが…今、自分に出来るへの唯一の償いのように思えたのだ。
それにしても・…は逃げた事になってるのか?
トロイの捕虜になったとバレていなかったとは・…
そうか・…!それだ・…!
それを知らせれば、の家族はもう殺されずに済むんだ・…っ
パリスは、そう思いついた。
が逃げたのではなく・…トロイの兵に捕虜にされたと分かれば・…メネラオスだって家族を殺す理由だなくなるはずだ。
父上だって、との結婚を認めた時点でギリシャ軍との戦が大きくなる事は覚悟している筈だ。
どっちにしろ同じ事・…
すぐにギリシャ軍に、を捕虜にしていると知らせなければ・…
残りの家族を助ける為にも・…。
「・・…?」
いつの間にか泣き声が聞こえなくなっていてパリスはを呼んだ。
しかし、さっきまで肩を震わせていた体もピクリともしない。
「…?」
パリスは慌てて、の体を離し、顔を覗き込んだ。
するとは涙で濡れた顔のまま瞳を閉じ、眠っているかのように見えた。
(ショックのあまり…気を失ったか・…)
パリスはをそっと抱き上げると静かに寝台の上に寝かせ布団をかけてやった。
そして寝台の端へと座り、涙で濡れた頬を手で拭いてあげると、そこに優しく唇をつける。
濡れた頬に張り付いた奇麗な黄金の髪を払ってやり、優しくの頭を撫で、うっすらとあいている唇に軽く口付けた。
「・…すまない・…」
パリスは、そう呟くと静かに部屋を出て、急いで兄、へクトルの元へと走った――ー
ヘクトルは剣の練習の後、父王とミノアの使者と謁見し、今まさに自室へと戻るところだった。
すると前方から、「兄上!!」 と物凄い勢いでパリスが走ってくるのが見え、驚いた。
「な、何だ…?どうした、そんな慌てて・・…」
「今すぐギリシャ軍に、メネラオスのフィアンセを捕虜にしたと通告して下さい!」
「は?!」
「でないと彼女の家族が殺されてしまう!」
パリスの勢いにヘクトルは少し後ずさりながら、「な、何を言ってる?メネラオスのフィアンセとは誰のことだ?!」 と問いかけた。
「です!」
「な・・…何だと?!」
ヘクトルは、がメネラオス王のフィアンセだと聞き、耳を疑った。
「そ、それは・…本当か?!確かに彼女は婚儀をあげると言っていたし事情もあるようだったが・・・・」
「本当です!夕べ僕が彼女から聞いたんですから」
「では・…さっき父上が後で、お前の結婚の事で話があると言っていたが・…その事か?」
「え?父上が? ああ、なら、きっとそうでしょう・…。今朝、父上にも、がメネラオスのフィアンセだと言う事を伝えたから…」
パリスの説明に、へクトルは言葉も出なかったが、大きく溜息をつくと、
「お前は・…大変な女性を攫ってきたな・…」
と言ってパリスの肩をポンと叩いた。
パリスは少し俯き、「ごめん…本当に・…」 と呟いた。
「今更、言っても仕方がないだろう?を返せば済むなら、そうした方がいいと思うが…」
ヘクトルの言葉にパリスは顔を上げると、
「それは・…出来ない…。例え許されない愛でも・…僕はをメネラオスの元へは返さない・…」
「あいつは・…の家族を殺すと脅し、無理やり婚儀をあげようとしたんだ…」
「何だって?そうか・・…それで・…好きな相手がいるのに、他の男と婚儀をあげると聞いて変だとは思っていたが・・・」
パリスは、好きな相手…と聞いて胸がズキンと痛んだ。
「その…好きな相手って言うのが・・…アキレスだよ、兄上…」
「何?!」
「は・…アキレスの事を子供の頃から好きだったと言っていた」
「・・…そうか。ではアキレスも?」
「いや…それは・…知らないけどね」
パリスは少し悲しげに呟いた。
それを見てヘクトルは優しく微笑んで、「お前・…彼女がお前との結婚を承諾したと嘘を言っただろう?」 と言った。
途端にパリスの顔が赤くなる。
「そ、それは・・…」
「隠したって分かるんだよ…。お前はすぐ顔や態度に出る」
パリスは、ますます赤くなりへクトルから顔をそらすと、
「じゃ、じゃあ・…兄上は…を返せと…言いますか?」
「え?」
「が…僕との結婚を望んでないのなら・…無駄な争いを避けるためにも・…彼女をメネラオスの元へ返せと・…言いますか?」
「パリス・・…」
ヘクトルはパリスの肩が少し震えているのを見て驚いた。
「お前…そんなに彼女のことを?」
「もう…よく分からない…」
「え?どういう…意味だ?」
「愛してるとか、結婚したいとか…そう思う前に…を・…あの男の元へと返したくないと思うんだ…
おかしいかな?会ったばかりなのに・…こんな風に思うなんてさ…」
ヘクトルは、そう言うパリスをそっと抱きしめた。
「いや・…おかしくなんかないさ・…。 だってとお前が出会ったのは・…運命なんだろ?」
「兄上・・…」
「だったら・…それを信じて思うように生きろ。彼女の気持ちが、まだお前にないのなら振り向かせてみろよ。
そして彼女を全力で守ってやればいい・…」
「自分の国や民を危険にさらしても?」
パリスの問いに、ヘクトルは少し体を離すと、「それを守るのが・…総指揮官の俺の役目だろう?」 と言ってニヤリと笑った。
「兄上・…」
パリスはヘクトルの言葉に涙が出そうになった。
僕も変わらなくては…愛する者を守る為に…
って片思いなんだけど…
と思いつつ、思い出したように、
「あ、そ、それで・…の家族の事なんだけど・…メネラオスはが逃げたと勘違いして彼女の家族を殺そうとしてるんだ」
「何だって?! ・…何て奴だ…!」
「それで・…父親が……最初に見せしめに・…」
パリスは、そこまでしか言えなくて言葉を切った。
ヘクトルも一瞬、怒りの表情を見せたが黙って頷くと、
「分かった・…。を捕虜にしたとギリシャ軍に通告したらいいんだな?」
「ああ…そうすれば…が裏切ったとは思わないから家族を殺す理由もなくなるだろ?」
「よし・…。じゃ、早速行動に移そう・…。この事を通告したら・…すぐにでも戦が大きくなると覚えておけ」
「分かってる。僕も戦うよ」
力強いパリスの言葉に、ヘクトルは優しく微笑むと、パリスの頭に手をおき髪をくしゃっとした。
「パリス・…お前は弓が一番上手い。それの練習も怠るなよ?」
「分かってるよ」
パリスは、そう言うと、ちょっと笑って見せた――
ギリシャ軍・要塞・王の間――
「な、何だと?!トロイの王子に攫われてただと?!」
「は・…っ使者を使って確認いたしました・…!」
「パリス・…あの若造か・…!私の花嫁を攫うとは・・…何て奴だ!」
メネラオスは怒り浸透といった感じで部屋の中をウロウロと歩きまわった。
「それで・…メネラオス王・…」
「何だ、オデッセウス」
「の・…家族のことですが・…捕らえて監禁してあると聞きましたが、解放しても?」
「何?ああ・…そうか・…まあ、逃げたわけではないのなら解放してもよかろう・…
だが、まだ城の中へ閉じ込めておけ。何かの時に役に立つかもしれん」
「は・…。 ――ところで…の父親なんですが・・…」
「ん?父親?」
「はい。 ・…見せしめに処刑した…と聞きましたが、本当の事なんでしょうか?」
オデッセウスが、そう問い掛けると、メネラオスは豪快に笑い出した。
「アッ八ッ八ッハ!!あれか?あれはな……真実ではない!」
「え?! ―と言いますと?!」
「大事な人質にもなる家族を、そんな簡単に殺すわけがなかろう?父親を処刑したと嘘の話を流したのだ。
そうすれば残りの家族を助けるために、が戻ってくるかと思ってな?
なかなかの名案だったであろう?」
「は…」
愉快そうに笑うメネラオスに、オデッセウスは静かな殺意を覚えた。
何て・…何て奴だ・…
その嘘のせいで・…もしが傷ついていたらと思うと胸が張り裂けそうになる・…
自分は捕虜になったばかりか、王の勘違いで父親が殺されたなどと耳に入ったら・…
自分の運命を呪うのではないだろうかと心配になる。
それでも…まだ父親は生きている・…
それだけが救いだった。
「おい!オデッセウス!」
「は…っ」
「を取り戻すぞ!あれは私のものだ。トロイの王子になんぞ、くれてやるものか!」
「はっ。では軍をトロイの兵に向けましょう・…」
「いや、待て!兄上に・…援軍を頼もう・…」
「え?!」
「兄上はトロイの領地を欲している。ふん・…パリスめ・…いい口実を作ってくれたわ…」
「それでは…」
「私は、まずが戻ればいい。兄上には戦の方を任せよう。だが私も今回は行くぞ」
「そ、それは、また何故・…」
「あの忌々しい若造を、この手で殺してやる為だ!人のフィアンセに手を出したら、どうなるかっていう事を教えてやるのだ」
メネラオスは、そう言うとニヤリと笑った。
オデッセウスは軍の陣営に戻りながら、イライラしていた。
あんな王に仕えなければならないなんて・…
私に、もっと力があれば―
アキレスの言ってる意味は理解出来る。
いくら自分の国の王でも、あれでは・…
…今、君はどこかに監禁されているのだろうか…
それとも・…王子の側室にされてはいないか・…
アキレスではないが、このままトロイ城へ一気に攻め込んで彼女を救い出したいと思った。
「オデッセウス!」
そこにアキレスが歩いて来た。
「ジジィは何て言ってた?家族を解放すると言ったか?」
「あ、ああ・…それは・…大丈夫だ。あ・…それと!」
「何だ?」
「の父親は殺されてなかった!」
「何だと?」
「あれは嘘の噂を流したんだ。を連れ戻す為に・…っ」
オデッセウスが、そう言うとアキレスは見た目にも分かるほどに安堵の表情を浮かべ思い切り息を吐き出した。
「・…そうか…。良かった…」
「でもな、アキレス・…それをが耳にしたら・・…」
「ああ…分かってる。もう一度間者を忍び込ませよう。そして何としてでもに近付かせ、噂のデマと、
あとは必ず助けると伝えなければ・…
それと中からも城の見取り図を送らせる。攻め込む時、使えるだろう」
アキレスの瞬時の策に、オデッセウスは苦笑しながらも、ほんとに頼りになる奴だ…と思っていた。
「なあ、アキレス」
「何だ?」
「もし…が無事に戻って来ても・…彼女にとったら、こっちも地獄なんじゃないのか?」
「……・…」
「こっちに戻っても…メネラオス王との婚儀が待っている…それもまたにとったら捕虜になってるのと同じなのではないだろうか?」
オデッセウスの言葉に、アキレスは黙って振り向いた。
「その事なら・…もう考えてある」
「え?それは…どういう事だ?」
「まあ・…そのうち話すよ・…」
アキレスは、そう言うと自分の軍の方へと歩いて行った。
オデッセウスは軽く息を吐き出し、「ほんと・…頼りになるよ・…」 と苦笑しながら、その後をゆっくりついて行った――
――トロイ城内
僕は静かに部屋へと入って行った。
すでに夜になり、部屋の中は月明かりだけで照らされている。
は、まだ寝台の上で眠っていた。
僕は少し、ホっとして、すぐに寝台の端へと座ると、の顔を覗き込んだ。
「・…」
僕は彼女の青白い頬をそっと撫でて温もりを手に感じると胸が熱くなった。
頬を手で包み、優しく撫でていき指で艶やかに光る唇をなぞった。
奇麗だ・…と思った。
死んだように眠る彼女の顔は、月明かりに照らされ、この世のものとは思えないほど美しいと…
その時、かすかに長い奇麗な睫毛が動き、瞼がぴくっと動いたのが見えて僕は慌てて手を離した。
「ん・・…」
「・・…・…?」
僕は小さな声で囁くように彼女の名前を呼んだ。
すると、静かに瞳が開き、藍の瞳が、これまた月明かりで揺れ、とても奇麗だった。
「パ…リス・…?」
彼女の瞳がゆっくりと僕をとらえ、名前を呼ばれてドキっとした。
「目が覚めたかい?」
「私・・…どう…して…」
自分がどこに寝ているのかも分からないといった顔で僕から視線を外すと、窓の方を見た。
「…少し疲れたんだ。ぐっすり眠ってたよ?」
その言葉に反応するように、また視線を僕へと向けると、少し瞳が揺れて、その瞬間、奇麗な涙が一粒零れた。
「そう…だ・・…お父・…様が・・…」
「・…」
僕はそっとの涙を指で拭うと、頬に手をおいて、「泣かないで・…」 と囁いた。
は、さっきのように泣きじゃくるでもなく、ただ静かに涙を零すだけ・…
僕は、の顔の横に手を置くと、顔を屈ませ、その涙を唇で掬ってあげた。
は驚いたように瞳を大きくしたが、僕は何も言わず、次々に零れてくる涙を唇で掬っていく。
そして片方の手での頬を優しく撫でた。
は、いつもの様に抵抗するでもなく、黙って僕を見ていた。
僕は、その瞳と目が合い、また胸が熱くなる。
「…」
僕が小さく名前を呼ぶと、は答えず変わりにそっと目を瞑る。
ドキっとして、僕は、そのまま頬を撫でていた手を、さっきと同じように唇へと滑らすと、はピクっと顔を動かした。
「・・…愛してる…」
そう耳元で囁き、そっと顔を近づけると、の唇に触れるだけの口付けをした。
は少し体を硬くしてキュっと口をつぐむ。
僕は静かに唇を離し、のその顔が可愛くて、ちょっと微笑むも、それでも、また優しく唇を触れ合わせた。
彼女の頬に手を添えて優しく撫でれば、は少し力を緩ませ、僕の胸元をギュっと掴んでくる。
僕は何度も触れるだけの口付けをの唇へとおとす。
遠くでかすかに波の音が聞こえて、僕は少し気が遠くなるのを感じながら…
愛しいの温もりを唇に残すように何度も何度も唇を触れ合わせた―
彼女の悲しみを取り去りたくて…僕の想いを伝えたくて…彼女の体温を感じていたくて…触れるだけの口付けを――
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