「え?今夜?」
「ああ、出来るか?」
「そ、そんな急に言われても…」
「いいから、やるんだ。今日の勝利でトロイ軍は浮かれている。今夜が一番いい」
男はアイリスに小声でそう言うと地図をよこした。
「様を、門の外に連れ出したら…ここへ連れて行くんだ。そこにアキレス様が待っている。
様にも、そう伝えろ。いいな?」
「わ、分かったわよ…」
アイリスは渋々、その地図を受け取ると男はニヤリと笑って、
「裏切ったら…必ずお前を殺すからな?」
と言って部屋を出ていった。
ドアが閉まるとアイリスは、ホっと息を吐き出した。
「何よ…偉そうに…っ!」
ドアの方へ、そう怒鳴ると手の中にある地図を見た。
今夜…あの女を城から連れ出す。
それは願ったりだわ!
パリス様を、あんな死闘へと追いやった、あの女…!
いつまでも、パリス様の傍に置いてはおけない…。
そう思うだけで、嫉妬で胸が焦付くような痛みが走る。
アイリスは寝台へと腰をかけると、どうやってに近づくか考えていた…。
「…!」
医師の治療が終ったと聞いて、はパリスの元へ行くのに廊下を走っているところを腕をつかまれた。
「ヘクトル…っ」
「パリスのところへ行くのか?」
「え、ええ…」
「それでは…君はここに残ってくれると言う事か?」
「え?」
はドキっとしてへクトルを見た。
ヘクトルは真剣な顔で、の腕を離すと、
「パリスから聞いたんだろう?あいつの…今の気持ちを…メネラオスを倒しても…君をギリシャへ返すと言っていた」
「ええ…今朝…聞いたわ…?」
「メネラオスは死んだ。君は自由だ」
ヘクトルの言葉に、は俯いた。
「…トドメは俺が刺したが…パリスは、あの勝負勝っていた。最後に油断はしたが…あいつは…
メネラオスを道連れに死ぬ気だったんだ。君のために…」
「ヘクトル…」
「こんな言い方をしてはギリシャへ帰りにくいだろうが…俺は…パリスの為にも…君に傍にいてやって欲しいと思っている」
はへクトルの言葉が胸にささった。
「あ、あの…私…」
「まだ…アキレスが忘れられないか?」
アキレスの名を出され、ビクっとした。
「それは…」
「それでも仕方がないのは分かっている。君にも君の気持ちがあるんだ。だけど…少しでもパリスが君の心にあるなら…
せめて怪我が治るまでの間…傍についててやってくれないだろうか?」
そのヘクトルの言葉に、は顔を上げた。
「私は…そのつもりです、へクトル…」
「え?」
「私…まだ帰りません…。パリスの…傍についています」
の、その言葉にヘクトルも、やっと笑顔になった。
「そ、そうか…!ありがとう!」
「キャ…っ」
嬉しさのあまり、へクトルはに抱きついて慌てて離れた。
「ああ、申し訳ない…!つい嬉しくてこんなとこ見付かったら、またパリスに勘違いされるな…」
ヘクトルは頭をかきながら苦笑している。
そんなへクトルを見て、も噴出してしまった。
「あ、あの…じゃ、私、パリスの所へ行きます」
「あ、ああ。頼む」
「はい」
笑顔でそう答えるにへクトルは胸が熱くなった。
パリスの下へと急いで走って行く後姿を見て、今日の戦いは無駄じゃなかったな…と、ふと思う。
(少しはパリスの想いが…通じたと思ってもいいだろうか…)
ヘクトルはそう思いながら、アンドロマケに会いたくなり、自分も急いで自室へと向かったのだった―
「パリス…?」
は息を整えて、そっと部屋のドアを開けた。
窓からは薄っすらと夕日が差し込んでいる。
静かに部屋の中へと入ると、パリスが寝台に横になっているのが目に飛び込んできて、すぐに傍に行った。
「パリス…」
パリスは足と背中にぐるぐると包帯が巻かれていて痛々しい姿で眠っていた。
唇の端が切れて赤くなっている。
は寝台の下に膝をついて、そっとパリスの顔を覗き込んだ。
そして布団から出ていた手を優しく包む。
「ありが…とう…」
そう言うと同時に涙が浮かんできた。
こんな…大怪我をして…あんなに必死に戦ってくれた…
本当に…生きて帰って来てくれて…良かったよ…
ポロポロと涙が零れて顎を伝って雫が落ちて行く。
その一粒が、両手で包んでいたパリスの手に落ちた。
「……ん…」
かすかにパリスの顔が動いて、はドキっとした。
手を握る力が知らず強くなる。
「パリス…?」
「う・…ん………」
「…え?何?」
パリスは目を瞑ったまま、の名を呼び、起きたのかと声をかけてみるも、目を開ける気配がない。
「寝言…」
少し力が抜けて、そう呟いた。
(寝言で呼ぶほど…私のことを――?)
そう思うと、また涙が浮かんでくる。
(いけない…私が泣いてる場合じゃない…)
はそっと指で涙を拭くと、もう一度パリスの手を握った。
するとパリスの瞼が、かすかに動き、ゆっくりと開いた。
「ん……」
「え?」
「…?」
「パリス…?私は…ここにいるわ?」
は薄っすらと開いた目で自分を探しているパリスに、そっと声をかけた。
薬のせいもあるのか、まだ少し頭がはっきりしないようだ。
「ん……どこ…?」
「ここよ?」
は少し強く手を握ると、パリスは静かに顔を向けた。
「パリス?分かる…?」
パリスはゆっくりと目を開いていく。
そして片方の手を伸ばしてきた。
「…夢…?」
「夢じゃないわ?」
「う…っ」
伸ばした腕が痛むのかパリスは顔をしかめた。
さっきメネラオスに槍で刺された左肩が痛むのだろう。
は慌てて、伸ばしている手を下に置いた。
「ダメよ?怪我してるの…動かさないで…?」
「……どう…して?」
今の痛みで完全に意識が戻ったのか、目の前のを見て、パリスは驚いている。
「どうしてって…?」
「だっ…て…。アキレスの元へ帰ったんじゃ…」
「ああ、それは…あなたが生きて帰って来るのを待ってるって言ったでしょう?」
「で、でも…っ つぅ…」
「ああっ体動かしちゃダメだったら…凄い怪我してるのよ?よく馬なんて乗れたわね?」
「え…ああ…さっきは…夢中で…痛みは感じなかった…でも…どうやって城まで戻ったか…覚えてないんだ…」
「そうなの?パリス…城の前まで馬で来たかと思うと、気を失ってたのよ…だから…」
「ああ…そっか…」
「うん…」
そんな話をしながらはパリスの手を握ったまま、そっと自分の頬に寄せた。
パリスが驚いて目を見開いている。
「…?どうし…たの?」
「パリス……ほんと…にありがと…」
「え?」
「私の為に…戦ってくれて…」
「そんな…こと…?約束…しただろ…?君…自由に…してあげる…って…」
「パリス…」
「でも…今日は…僕…の…力じゃない…」
「え?」
「兄上が…助けてくれなかったら…僕は…殺されて…たよ…?僕は…負けたんだ…あいつに…」
悔しそうな顔で、そう言うパリスには驚いた。
「そ、そんなこと…!あなたは…よく戦ったじゃないのっ。最後だって…命懸けてまで…っ」
「でも…最後で油断…した…。戦う時は…最後、相手が息耐えるまで…油断するなと…兄上から教わってたのに…」
「そんなの気にしないで…っ。今は怪我を治すことだけ考えて?」
は必死に、そう言うと、パリスは驚いた顔でを見た。
「…もう…いいから…早く…アキレスの元へ帰って…?兄上に言えば…外に出して貰える…」
そのパリスの言葉が痛かった。
キュっと唇を噛むと、はパリスを見た。
「私…まだ帰らない…」
「え…?」
「あなたの…怪我が治るまで…傍にいるわ?」
「……何言って…あんなに帰りたがって…ただろ?」
「いいの。こんな怪我までして戦ってくれた、あなたを置いていけない…」
「やめて…くれ…っ」
「パリス…」
パリスは悲しそうな顔で、が握っている手を放した。
「そ…んな…同情で…傍になんて…いて欲しく…ない…っ」
「同情って…私は、そんなつもり…」
「じゃ…あ…何?感謝…してると…でも…?」
「し、してるわ?だって…」
「感謝なんて…することないよ…?だって…君を無理に攫って来たのは…僕なんだから…」
パリスは、そう言うと静かに目を瞑った。
「さあ…もう…行って…?このまま…だと…帰したく…なくなる…から…」
「パリス…?」
「早く…っ」
辛そうな顔で、そう言うパリスに、は胸が痛くて涙が浮かんだ。
パリスは、の方は見ないで顔を背けている。
は静かに立ち上がった。
そして、そのままゆっくり後ずさると部屋を出ていく。
パタン…とドアの閉まる音が聞こえたと同時に、パリスの瞳から涙が零れた。
「…さよなら…」
震える声で呟くと、パリスは静かに瞳を閉じた―――
は廊下に出ると溢れてくる涙を手で必死に拭った。
パリスの想いが痛かった。
私…このまま…本当に帰ってもいいの…?
アキレスには会いたい…でも…パリスを置いて行くのは…
その時、人の気配でハっと振り返った。
「今晩わ」
「あの…」
は知らない女性が、立っているのに気付き驚いて涙を拭くと、「誰…ですか?」 と聞いた。
「私…アキレスと言う方の使いです」
「え?!アキレスの?」
「ええ。言付けを頼まれたの」
「言付けって…」
「一緒に…来ていただけません?」
その女性に優しく微笑まれ、は一瞬、躊躇するも、やはりアキレスからと聞くと頷くしかない。
「分かりました…。どこへ…?」
「一度…城壁の外へあなたを出します」
「え?外に?出れるんですか?」
「ええ。私の侍女のふりをすれば…女二人だと怪しまれませんわ?」
「そ、そうね…で、でも…私、今ここを離れるわけには…」
「様…アキレスは凄くあなたの事を心配しています」
「アキレス…が?」
「ええ、会って無事を確めたいと…もうメネラオスもいないから戻って来ても大丈夫だと申しております」
「そ、それは…そうなんだけど…で、アキレスはどこに…?まだ浜辺の陣営に…?」
「ええ。これが地図です。城壁の外に出たら、ここへ行って下さい。アキレスが、そこで待っています」
は差し出された地図を見て、陣営近くの浜辺だと分かった。
どうしよう…アキレスにも無事を知らせたいけど…パリスの怪我も心配だ…
でも私が顔を出さない限り…アキレスは私が自分で出て来れないのだと勘違いするんじゃ…
そうだ…アキレスに会って…事情を話そう…
この戦に参加しないでくれれば…へクトルとも戦わないで済むかも知れない…
今日だって、あの場にアキレスはいなかった。
きっと仲の悪いアガメムノンとの確執も、まだ続いてるに違いない…
とすれば…私が話せばアキレスは自分の軍を撤退するかも…
そうなったら、また一度ここへ戻ってこよう…
はそう決心して、その女に、「分かりました。一緒に行くわ?」 と言った。
女は、ニッコリ微笑むと、
「では…こちらに来て侍女の服に着替えてください。それでは目立ちすぎます」
「は、はい・…」
は、女の言うまま後ろからついて行った。
それを影で見ている一人の女官、レイアの姿があった。
あれは…アイリス…?
何故、あんな嘘を…
そうか…パリス様を取られた腹いせね?
敵の味方につくなんて、何て女!
様をどうしようって言うのかしら…
やっと邪魔者のメネラオスを倒して、これからパリス様とアツアツの夜を過ごすと思って楽しみにしてたのに!
アイリスの奴…邪魔はさせないわよ?
私が怪我で動けないパリス様の代わりに、様を守って見せるんだから…!
そう思いながらキョロキョロとサルベードンを探した。
(もうー!あの大男!肝心な時にいないんだから!使えないなぁ、もう!)
レイアは、ブツブツと文句を言いながらも、二人の後をこっそりとついて行った。
はレイアがついてきてるとも知らず、女の言う通り侍女の服を着て布で顔を覆った。
そして二人はそのまま、あっさりと城壁の門の外へと出られたのだった。
「はぁ…こんな、アッサリと出られたんじゃ拍子抜けしちゃう…」
は苦笑しながら、やっと顔を覆っていた布を取った。
女はチラっとを見ると、「では私は、ここで…」 と頭を下げる。
「え?一緒に行ってくれないの?」
「私は門の外まで、あなたを連れてくるようにと言われただけです。あとは、お一人で、その地図の場所まで行って下さい」
「そ、そうなの…。分かったわ?」
「では、これで…」
その女は、また門の方へと歩いて行った。
何なの?あの人…
アキレスの使いって言うから、てっきりギリシャの間者かと…
ま、でもアキレスの事だから城の内部を調べさせているのかもしれないわね…
って言うか、この前の男の人はどうしたんだろ…
そんな事を考えつつ、久し振りに城壁の外に出たは目の前の海を見ながら思い切り空気を吸った。
「はぁ…凄い久し振りの気がするわ…っと、いけない…早く行って戻って来ないと…」
は地図を見ながらアキレスが待つという場所まで歩いて行った。
地図にはギリシャ陣営から少し離れて、草の茂った方を歩いてくるようにと書いてあった。
これは確かにアキレスの字だ。
えっと…ここを真っ直ぐ行けば…アポロ神殿が見えてくるはず…
あ、あった…
あそこはギリシャの…というかアキレスの軍が落としたのよね…
あそこを待ち合わせにするなんて…アキレスらしいったら…
は背の高い草の間をすり抜けて、神殿へと向かい、裏の方から、そっと中へと入って行った。
中は薄暗く、シーンとしている。
今は誰も使ってないからか、蝋燭の明かりさえ灯っていない。
は、自分の歩く靴の音でさえ、ビクっとなってしまった。
「アキレス…いるの…?」
小声で、そっと呼んでみる。
思ったよりも声が響いてドキっとした。
やだ…これじゃ、あの奇襲を受けた夜を思い出すわ…
あの夜も、暗い中、こうしてアキレスの名を呼んだっけ。
あの後…すぐパリスに掴まったんだった。
やだ…思い出すと変な出会いだったな…。
あんな乱暴で、自分勝手で思い込みが激しい王子に掴まるなんて…って自分を呪ったもの。
ついでにスケベで…手が早くて軽薄で…最低だと思ってた。
なのに…今はその最低男の心配をしているなんて…
ふとパリスの事を思い出して心配になる。
さっき少し手が熱かった。
きっと傷のせいで熱があったに違いない…
は、そう思うと早く戻って看病してあげたいとさえ思っている自分に驚いた。
(私…どうしたんだろう…あんな風に、帰っていいよと言われたのに…)
「はぁ…」
知らず溜息が出た。
その時――
「何を溜息なんてついてるんだ?お前らしくもない」
「―――ッ!」
その懐かしくさえ感じる声に、は静かに振り返った。
「アキレス!」
アキレスは奥の神殿の像の影から姿を表した。
苦笑いしているアキレスに、は胸がいっぱいになった。
「アキレス…!」
そのまま走って思い切り抱きついた。
「…っ無事で良かった…っ」
「会いたかった……っアキレス…」
はアキレスの力強い腕に抱きしめられて、今までの不安が消えていくのを感じた。
アキレスは抱きしめる力を弱め、の顔を覗き込むとホっとした顔を見せた。
「このバカ…っ!心配かけやがって…っ」
「ご、ごめんなさい…」
「何であの夜、俺のテントになんて来た?!」
「そ、それは…使者が来て…アキレスが二人で話があるって言ってると言われて…」
「何だって?俺は、そんな言付けした覚えは…」
「やっぱり…おかしいと思ったのよ…。アキレスが約束やぶるなんてなかったし…」
「そうか、お前、それで…。ま、でも…何でもなくて良かった…トロイの奴らに何か乱暴されなかったか?」
「ええ、それは…皆、凄く優しかった…」
「そうか…お前がパリスと婚約したと聞いた時は少し驚いたけどな?」
「あ、そ、それは…」
「ああ、分かってる…。色々と事情があったんだろ?家族を助けるのにも必要だった」
「ええ…ほんとに…良くして貰ったの…」
「そうか…それに…お前はもう自由だしな?」
「あ…うん…」
アキレスに、そう言われて少し俯いてしまった。
「どうした?嬉しくないのか?メネラオスは、もういないんだぞ?」
「そうだけど…」
「まあ、あいつがやらなくても、俺もお前を自由にするのに色々と考えてはいたんだが…必要なくなったな」
「アキレス…」
はアキレスが、そこまで自分の事を考えてくれていたのだと知って驚いた。
いつも…私が後を追いかけて、でもアキレスはいつだって素っ気なかった。
手を出すのは、いつも色っぽい女性ばかりで私の事なんて、いつも女扱いさえしてくれない…
私がこうして抱きついても、抱き寄せてもくれなかった。
なのに今は…初めて私を抱きしめてくれている。
そんなに心配してくれてたの…?
はアキレスの胸に顔を埋めて、そんな事を考えながらも心の奥が何だか痛かった。
するとアキレスがそっとの顎を持って、優しく額に口付け、は驚いた。
「アキレ…ス?」
アキレスは、そっとを解放すると、目の前に首飾りを出した。
「これ…」
「俺のテントに落ちていた。これを見つけて…お前が俺のテントに来たんだと分かったんだ」
「そう…どこに落としたんだろうって思ってたの…良かった。アキレスが見つけてくれて…」
が、そう言うとアキレスは、その首飾りを、もう一度の首に腕を回しつけてくれた。
「やっぱり、お前は、この色が似合うな?」
「そう?ありがとう…」
が首飾りを手で触れて笑顔でそう言った時、アキレスがもう一度の腰を抱き寄せた。
「キャ…な、何…?どうしたの?」
アキレスらしかぬ行動に、は驚いた。
アキレスは普段よりも優しい瞳で、を見つめると、
「もう…心配かけるな…」
と呟いて、そっとの唇にキスをしてきた。
「んん…っ?」
は驚いて声を出そうにも、アキレスは口付けを深くしてきて声が出せない。
腰も強く抱き寄せられて、首にも腕を回され、はアキレスの腕の中で崩れそうになった。
「ん…っアキ…レス…」
何とか声を出した時、強引に舌を入れられ、更に目を開いた。
「…んぅ…っ」
アキレスの熱い唇と舌で愛撫され、は体の力が抜けそうなのを必死にしがみついて耐えていた。
アキレスは、そのままゆっくりとしゃがむと、その場にを押し倒した。
「…ン…ッ!」
は驚いて、体を動かすも力の強いアキレスには相手にならない。
どんどん口付けは深く激しくなり、は息をするのもやっとの状態でギュっとアキレスの腕を掴んだ。
に口付けをしたまま、アキレスの手がの足を撫でて行く。
「…んーーっ」
驚いて声を出し、体をよじると、アキレスがゆっくりと目を開けた。
口付けをされたまま、目の前でアキレスと目が合い、は顔が赤くなった。
思わずギュっと目を瞑ると、アキレスがやっと唇を解放した。
「あ、あの…アキレス…って、ひゃ…っ」
唇を解放されたものの、今度は首筋に唇を這わしてきて、はビクっとなった。
「や…だ…っアキレス…っ」
「ん……」
「やだ…やめて…っ」
が、そう言うとアキレスはそっと顔を上げてを見た。
は少し震えていて目には涙が浮かんでいる。
それを見たアキレスは瞼にキスをして体を起こし、の腕も引っ張って起こすと今度は優しく抱きしめた。
「ど…したの?…いつものアキレスじゃない…」
「そうか…?」
「だって…いつも私のことなんて…見てくれてなかったクセに…」
「そうだったっけ…俺は…いつでもを見てたけどな?」
「…え?」
アキレスの、その言葉には驚いた。
(アキレスが私を…?嘘だ…そんなはずは…)
「嘘…でしょ?」
が、そう言うと、アキレスはそっと体を離し、の顔を覗き込んだ。
「どうして?」
「だ、だって…アキレスがいつも寝所へ呼ぶのは…私じゃなかった…大人っぽくて、いつも奇麗な女性ばかり―」
「お前ほど奇麗な女なんていたか?」
アキレスが苦笑しながら言った言葉に、は顔が赤くなった。
「な、何言って…っ。だ、だって…私の事なんて…女扱いしてなかったわ?いつも子ども扱いしして…」
「お前の気持ちは…知ってたよ…」
「…え?!」
「でも…俺はいつでも戦場へ出ていく。それをお前はいつも悲しそうな顔で見送ってた…
そんな俺とお前が…幸せになれると思うか?いや…俺には、お前を幸せには出来ないって…思ってたよ」
「アキレス…?」
思いがけない言葉に、は言葉を失った。
アキレスは、ちょっと息をつくと、
「お前が幸せになるんなら・…別に相手は俺じゃなくてもいいと思ってた。
俺には、を幸せには出来ないと思ってたし、俺は…お前が幸せならそれでいいんだ。相手が誰であろうと…。
ただ…メネラオスと婚約させられた時は…絶対に阻止しようと思っていた。
あいつにこの戦に手をかしてくれと言われた時…チャンスだと思ったよ。隙を見て、あいつを殺してやれる、そう思っていた」
「じゃ、じゃあ…あんな予言をされたのに…この戦に来たのは…名前を売るためじゃなかったの…?」
私の言葉にアキレスはちょっと笑うと、「いや…それもあるが…。一番じゃなかっただけだ」 と言った。
「アキレス…そんな…何で今更、そんなこと言うの…?」
「…」
「そ、そんな…私の為に…皆、おかしいわよ…っ!」
「?」
は涙が出てきて慌てて手で拭った。
アキレスはの頭をそっと抱き寄せると、
「本当は…伝える気はなかった…。でも捕虜になったと聞いて…死ぬほど心配して分かったよ…
俺は…お前を、こんなにも愛してるって…」
「アキレス…」
「さっき…無事な顔を見て…心底、ホっとしたら…つい、あんなことしてしまって…悪かった」
はアキレスの言葉に少し顔が赤くなったが、首を振ると、「ううん…ちょっと…驚いただけ…」 と微笑んだ。
アキレスも優しく微笑むと、
「お前が無事に戻ったなら…ここにいる必要はない。一緒に…ギリシャに帰るか?」
「え?ギリシャに…帰るの?アキレス…」
「ああ…もう…戦う理由もない」
「で、でも…アガメムノンは…それを許さないでしょう?」
「あんなジジィ、放っておけばいいさ…」
は驚いた。
あの戦う為だけに生きてきたアキレスが…今自分の為に軍を撤退し、一緒に帰ると言ってくれている。
信じられなかった。
でも…今、このまま帰る訳には行かない…
は意を決し、アキレスに話し始めた。
「あ、あの…アキレス…私…まだ帰るわけには行かないの…」
「何だって?!お前が、ここにいる意味はないだろう?」
「それが…」
はアキレスに、今の自分の気持ちを話した。
自分の為に命を懸けて戦ってくれたパリスの怪我が癒えるまで、傍にいたい事を―
黙って聞いていたアキレスだが話し終えると、「ダメだ!」 と言った。
「お願い!アキレス…あそこに戻っても危害は加えられないわ?パリスの傷が治れば戻ってくる…っ」
「…お前の気持ちも分かるが・…トロイは敵国だぞ?しかもパリスはそこの王子だ。
今日の戦いで、へクトルと二人でメネラオスを倒した。
そんな二人をアガメムノンが放っておくはずないだろう?戦が酷くなる前に、ギリシャに連れて帰る」
「アキレス…!あなたが戦に出なければ…アガメムノンは攻めて来れないわ?そうでしょう?」
に、そう言われてアキレスも言葉が詰まった。
「アキレスの力がないと、ギリシャ軍はトロイを攻め込んでは来れない…。よくメネラオスもそう言ってた」
「…お前…俺に戦場に出るなと言うのか?」
「だって私と帰る気でいたなら同じでしょう?お願い…っ。それに私、あなたとヘクトルに戦って欲しくない」
「ヘクトル…いずれは…と思っていたが…。まあ、お前を助けてくれたんだし…今はその気はない。
だけど…お前を、またパリスの元へ帰すのは…」
「アキレス…私、戻ってこようと思えば、今日みたいにすぐ戻れるわ?大丈夫よ?」
の必死の頼みに、アキレスも溜息をついた。
「本当に…パリスの傷が癒えたら…戻ってくるんだな?」
「ええ、戻ってくるわ?だから…」
「分かった」
「え?」
「分かったよ…」
「ほんと?!」
は嬉しそうに聞くと、アキレスは苦笑しながらの頭にポンと手を置いた。
「…ああ。仕方ないだろう?俺の幼なじみは心が優しすぎる…自分を捕虜にした男のために…」
「アキレス…でも彼は…っ」
「ああ、お前の為に戦った。俺も見ていたよ、今日の戦いを…。逃げ出すかと思ったが…なかなかのもんだった」
「アキレス…」
アキレスはを優しく見つめると頬に手を沿えて、そっと口付けた。
「キャ…あ、あの…」
顔を赤くして体を反らすの腰をもう一度抱き寄せ、今度は強引に口付ける。
「ンン…っ」
の頬を両手で包んで口付けを深くすると、がアキレスの胸元を押して体を離した。
「ん…何だよ…」
「だ、だって…」
アキレスは少しスネた顔でを睨むも、顔が真っ赤なのに気付きちょっと微笑んだ。
「ったく…惚れた女を他の男の元へやるんだ…。キスくらい、ゆっくりさせろよ」
「ア、アキレス…っ」
ますます顔を赤くして俯くを、アキレスは苦笑しながら優しく抱きしめた。
「いいか?何か身の危険を感じたら…すぐに戻って来い。俺の部下を潜り込ませて見晴らせておくから…分かったか?」
「う、うん…分かった…」
「よし…。じゃ、俺はお前が戻るまで何とかアガメムノンを交わして戦には出ない。それでいいんだろう?」
「うん…ありがとう…」
「全く…とんだ、じゃじゃ馬に惚れたもんだな、俺も…」
「ひ、酷い…アキレスまで、じゃじゃ馬だなんて…」
「何だよ…他に誰に言われたんだ?――ああ、パリスか?」
「う、うん…」
「お前…そう言われるようなことを?」
「え?あ、あの…別に…引っぱたいたり…?」
が恥ずかしそうに言うと、アキレスは目を丸くして、その後笑い出した。
「ぷっ…ア八ハハ…!お前…トロイの王子を引っぱたいたのか?そりゃじゃじゃ馬だ…ッ」
「も、もう!笑いすぎ!」
「…だって…パリスと言ったら、この辺の国の女から、かなりモテている美男子だろ?
そいつを引っぱたいたなんて…って…お前、引っぱたくようなことされたのか?」
アキレスは、そこに気付き、少し怖い顔でを見た。
は顔を赤くすると、
「べ、別に…失礼なことばかり言うから・…殴っただけよ?」
「ほんとに?」
「ほ、ほんと!」
「ふ~ん・…なら、いいけど…」
は、あのアキレスが妬きもちを妬いてくれたのに驚いたが、ふと気付いた。
「ア…アキレスだって、いつも他の女性と…その…色々と忙しかったじゃないの!人のこと言えないわ?」
「ああ、あれ?あれは…お前が他の男を見るように…わざと…かな?」
「ええ?!」
は少し苦笑するアキレスに唖然とした。
「仕方ないだろう?俺は、お前を幸せには出来ないと思ってたんだから…」
「じゃ、じゃあ…今は…?」
「今は…そうだな…。お前が無事に戻って来たら…もう…戦うのをやめてもいいかもな…」
そう呟くアキレスに、は驚きながらも、その気持ちは嬉しかった。
「あ…じゃ…私。戻らないと…真っ暗にならないうちに…」
「一人で大丈夫か?俺が一緒…と言っても兵士に見付かるとやっかいか…」
「大丈夫よ?今も一人で来たんだし…」
「あ、そうだ…一人、パリスの従兄弟とか言う女を捕虜にしているんだ。一緒に連れて帰ってやってくれるか?」
「え?あ…もしかして…ブリセイス?」
「ああ、そういう名だった」
「わ、分かったわ…へクトルも心配してたの」
「じゃあ、今連れて来るから、待ってろ」
「うん」
アキレスは、そう言うとに軽く口付けて、神殿から出て行った。
は顔を赤くしながらもドキドキする胸を抑えて軽く息を吐き出した。
「はぁ…嘘みたい…アキレスも…私のこと…」
あまりに急なことで心が、まだ追いついていない…
本当に一緒にギリシャに帰れるんだろうか…?
は少し不安に思いながらも、パリスが心配になってきた。
何だろう…何だか心の奥に何か引っかかってるんだけど…
それが何なのか分からない。
アキレスとせっかく心が通じたのに…
どうして…こんなに、パリスの元へ戻りたいと思うのかも…
は神殿の外に出ると、暗くなってきた空を見上げ、言いようのない不安に胸を抑えた―
「パリス様…?」
アイリスは静かにパリスの部屋へと入って行った。
すっかり日も暮れ、部屋の中では蝋燭の火が揺れている。
寝台を見るとパリスが眠っているのが見えた。
「パリス様…こんなお怪我までして…」
パリスの怪我を間近で見ると、またに怒りが湧いてくる。
あの女…やっと愛しい男の元へ帰してやったわ…
これで、もう二度と…パリス様の前に現れない。
アイリスは、そう思いながら、そっとパリスへと近づいて、寝台のとこへ膝をついた。
「パリス様…」
そっと手で頬に触れて名前を呼んでみる。
するとパリスの顔がかすかに動いた。
「ん…」
「パリス様…」
「ん…?……?」
アイリスの伸ばしかけた手が止まった。
(…ですって?!こんな目に合っても、まだ、あの女の事を…っ!)
アイリスは嫉妬の痛みで顔をしかめた。
するとパリスの目がゆっくりと開いて視線を彷徨わせている。
少し熱もあるのだろう、その目は、どこか虚ろで完全に夢から覚めていないといった感じだ。
アイリスは、もう一度顔を覗き込んで、パリスの名を呼んだ。
「パリス様…?」
「ん…?」
かすかにパリスが返事をして、ゆっくり手を伸ばし、アイリスの頬に触れた。
その手の温もりにドキっとしてアイリスは自分の手でパリスの手を優しく握ると、そのまま口付けた。
「ん……行かな…いで…」
「………っ!」
その名を聞くだけで嫉妬で狂いそうになる…
でも…今だけはパリス様は私だけのもの…っ
アイリスはゆっくりと顔を近づけて、「代わりでもいい…あなたを愛してるわ?」 とパリスの唇に深く口付けをした…。
「じゃあ、気を付けろよ?」
「うん。分かってる」
アキレスがブリセイスを連れて来て、はトロイへ戻るのに神殿の裏へと周り、先ほど通ってきた草のおおい茂った場所まで来た。
「必ず戻って来いよ?」
「うん」
は頷くと、アキレスは彼女をそっと抱きしめた。
「あ、あの…アキレス?」
は目の前に、ブリセイスがいるからか抱きしめられて体を硬くした。
それでもアキレスは構うことなくに口付けると、
「じゃあ、早く行け…あまり遅いとアガメムノンの兵が見回るから見付かるぞ…?」
「う、うん…じゃ…行って来ます」
「ああ…」
はアキレスに、そう言うと、「じゃ、行きましょ?」 とブリセイスに声をかけた。
ブリセイスは前に会った時とは違い冷ややかな目でを見ると、プイっと顔を背けてサッサと先を行ってしまう。
も慌てて走り出し、ちょっと振り返るとアキレスが軽く手を上げているのが見えた。
それにも手を上げると、すぐにブリセイスの後を追った。
は門の前で、もう一度顔を隠すと、ブリセイスの侍女のフリをして中へと入った。
門のとこで番をしている兵士が、ブリセイスが生きて戻った事を驚いている。
「ブリセイス様!ご無事で…!」
「ええ。大丈夫よ?もう用はないって逃がしてくれたの」
ブリセイスはそう言うと、スタスタと城の方へと歩いて行ってしまって慌てても追いかけた。
「あ、あの…ブリセイス…?」
「なぁに?」
「あの…アキレスに…何かひどい事された?」
「別に…彼、とっても紳士だったわ?」
「そ、そう…なら、いいけど…」
は、ホっとしてそう言うとブリセイスが城の入り口の前で、いきなり立ち止まる。
はついていくのに必死で早歩きになっていたので、急には止まれずブリセイスの背中にドンとぶつかってしまい、
「あ、ご、ごめんなさい・…っ」
と謝った。
ブリセイスは、それには気にも止めずの方を振り向くと、
「あなた…どうして戻って来たの?あのアキレスが好きなんでしょう?」
と冷たい口調で言った。
「え?あ、あの…」
「何なの?パリスのフィアンセだと嘘ついて…あげく傷ついたパリスを置いてアキレスと密会だなんて!最低ね?」
「そ、それは…密会とかじゃなくて戦に出て欲しくなかったから…」
「ふ~ん。パリスは戦わせておいて…アキレスには戦をして欲しくないなんて…あんまりじゃない?」
「違う…!私はアキレスにもヘクトルにも戦って欲しくないから…もちろんパリスにも…」
が必死にそう言うもブリセイスは、
「よく言うわ?戦が酷くなったのだって元はといえばあなたが原因でしょう?また戻って来て今度はスパイでもするつもり?」
「そんな…私はただパリスが心配で…」
「心配ならどうして、ずっと傍についててあげないの?あんなに、あなたを愛してるのに…っ
私だったら…ずっとついててあげれるのに…なんでパリスは、あなたのことなんて…!」
ブリセイスの言葉に、の胸が痛んだ。
ブリセイスは、そのまま城の中へと走って行ってしまった。
もは重い足取りで城の中へと入って行く。
そこにレイアが走って来た。
「あ、様!」
「あ…レイア…」
「もう…探したんですよ?途中で見失っちゃって…!」
「え?見失ったって…」
「さっき…アイリス様と門の外へ出られたでしょう?」
「え?!」
レイアに、そう言われてドキっとした。
「し、知ってたの?」
「ええ、二人が廊下で話されてるから、おかしいなと」
「え?でも待って…?アイリスって?あのパリスの…」
「そうです。先ほど、様にアキレスの使いだと嘘を言ってた女がアイリス様ですわ?」
「嘘…っ」
「ほんとです!彼女、身分を偽って、様を、この城から追い出すのに敵と密通したんですよ」
「て、敵って…私の幼なじみよ?」
「あ、そうでしたね…すみません。でもおかしいと思いません?何故アイリス様がその幼なじみの方と連絡を取り合ったのか」
「そ、それもそうね…」
は首をかしげた。
さっきアキレスに聞いておけば良かったと後悔するも、もう遅い。
「あ…っそうだ!」
「な、何よ…驚くじゃないの…」
レイアが、いきなり大きな声を出してはビクっとなった。
「さっき様を見失ったから、アイリス様を見張ってたんです。そしたら先ほどパリス様の部屋へ忍んで入って行かれて…!
様、急いでください!あの人、動けないパリス様に何をするか分かりませんわ?」
レイアは、そう言っての腕を、ぐいぐいと引っ張っていく。
「え?ちょ、ちょっと…レイア?何をするか…って、そんな、まさか怪我させたりとかは…」
「何言ってるんですか!そうじゃないですよ!パリス様の寝こみを襲いかねないって言ってるんです!」
「は、はぁ?!な、何を言ってるのよ…まさか…っ」
「とにかく急ぎましょう?!」
レイアはの腕を引っ張ったまま一気にパリスの部屋まで走って来た。
「ちょ、ちょっと待って…レイア…く、苦しい…」
は大きく息を吐き出すとレイアもぜぇぜぇ言っている。
「だ、大丈夫?レイア…あなた、本当にパリスの心配してるのね?」
「何言ってるんですか!お二人の心配をしてるんです」
「え?」
「私…パリス様が本当に愛する方を見つけられて凄く嬉しかったんです。
それで…何とか様と幸せになって欲しいと思ってるだけですわ?」
「レイア…」
は、レイアの言葉に胸が痛んだ。
レイアは深呼吸をすると、
「それに…様はこうして戻って来てくれた…それが凄く嬉しいんです」
「レイア…」
レイアは真面目な顔で、を見ると、「様・…パリス様を…愛してあげて下さい…」 と言って俯いた。
「そ、それは…」
「他に想う方がいるのですか?」
「だ、だから、それは…」
が答えに困っていると、レイアは軽く息を吐き出し、「すみません。出すぎた事を言いました…」 と頭を下げた。
「そ、そんな…いいのよ…。でも…そんなに思われて…パリスも幸せね?」
が、そう言うとレイアは頬を赤くした。
「だって…我がトロイ国の大事な王子ですから…」
「ふふ…そうね…?」
二人は顔を見合わせて笑っていたが、ハっと思い出し、慌ててパリスの部屋の中へと入って行った―
その数十分前――
「ん…パリス様…」
アイリスは意識がはっきりしないパリスへ口付けて、そっと胸に頬を置いた。
パリスは優しく頭を撫でてくれている。
例え…と勘違いされていてもいい…
今だけは…このままパリス様の温もりの中にいたい。
アイリスは、そう思いながら胸に寄り添っていたが傷が痛んだのか、体がビクっとなった。
「う…っ」
「パリス様?!」
アイリスは慌てて顔を上げると、パリスの顔を覗き込んだ。
するとパリスの目がはっきりとアイリスを捉え、驚きで見開かれた。
「アイリ…ス?」
「パリス様…大丈夫ですか?」
「何故…お前が…ここに…」
「心配だからです…」
アイリスが、そう言うもパリスは痛みで顔をしかめながら、「出て…行って…くれ…」 と呟いた。
「パリス様…」
「頼む…。一人…に…して…くれないか…?」
苦しそうな息で何とか、そう言うパリスにアイリスは胸が軋むように痛んだ。
そのまま黙って立ち上がると、「そんなに…あのという方が…?」 と聞いた。
パリスは、その言葉に、アイリスを見ると軽く頷く。
「君には…すまない…と思ってる…。でも…もう…二人で…会わない方が…いい」
アイリスはその言葉を聞いて、パリスの心がすでに遠いところへいってしまった事を悟った。
(もう…あの頃のパリス様じゃない…。あの人と出逢って…変わってしまわれた…)
アイリスはそっと息を吐き出した。
「分かりました…。もう…こうして会いには来ません…。…さようなら…」
と言って静かに部屋を出ていった。
パリスは熱で朦朧としてたからか、今の温もりをと勘違いしていたのかと胸が痛くなった。
一瞬…が戻って来てくれたのかと思った…
そんなハズは…ないか…。
あんな事を言ってしまったんだ。
心にもないことを…
パリスはほんの数日間いただけのの面影が今は部屋全体にあるのを感じ、怪我とは別の痛みに襲われていた――
とレイアは思い切りよく、パリスの部屋へ飛び込んだはいいが、中にアイリスの姿がなくて唖然とした。
「あ、あら?いない…さっき確かに入って行くのを見たのに…」
レイアは驚いて、そう呟いた。
も、それには気になったが、何より苦しそうに寝ているパリスの方が心配で、すぐに寝台の方へ歩いて行き、
パリスの顔を覗き込んだ。
そして額に手を置いて熱いのを確認すると、
「レイア、冷たい水とタオルを持ってきてくれる?少し熱があるみたいなの」
「は、はい!」
レイアは、そう言われて慌てて部屋を飛び出して、すぐに言われた物を用意して戻って来た。
「ありがとう」
は水の中でタオルを濡らし、それをギュっと絞るとパリスの額へ、そっと乗せた。
かすかにパリスが気持ちいいのか顔を動かすのが分かり、はホっと息をつくと先ほどと同じように手を握る。
「パリス…早く…元気な顔、見せてよ…」
は、そう呟くと、パリスの瞼がピクっと動いて、ゆっくりと目が開いた。
「パリス…?」
パリスは一瞬視線を彷徨わすも、目の前のを見て驚いたように目を見開いた。
「…?また夢か?」
は、その言葉に微笑むと、「だから…夢じゃないってば…」 と言って手をギュっと握った。
「本物…?」
「本物よ?手の温もり…感じない?」
「ど…して?帰ったと…」
パリスの言葉に、は苦笑すると、「帰らないって言ったでしょ?どんなに帰れって言われても、まだいるわ?」 と言った。
「だって…君は…」
「ああ、もういいじゃないっ。私はあなたの事が心配なのっ。だから傍にいさせて」
パリスはの言葉に少し驚いたような顔をしたがちょっと微笑むと、
「僕の…祈りが通じたかな…?」
と呟いた。
「え?祈り…?」
「うん…僕に…を返してくれって…アポロ神に…祈って…たんだ…」
「な、何言って…」
パリスの言葉に、は顔を赤くして俯いた。
それを見てパリスは少し顔を横に向けるとそっとの頬へと手を添える。
「ああ…本物だ…」
そう言って嬉しそうに微笑むパリスに、はドキっとする。
そんな二人を見てレイアは微笑むと静かに部屋を出ていった―
「…もっと…顔をよく見せて?」
「え?あ、あの…こう?」
はベッドの端に肘をついてパリスの顔を覗き込むように顔を近づけた。
パリスは頬を撫でながらニッコリ微笑むと、の首を軽く引き寄せ、唇へチュっとキスをした。
「わ…な、何して…」
は顔を赤くしてパっと離れると、パリスが悲しそうな顔をした。
「そんな…離れなくても…」
「だ、だって…急にキスするから…」
「だって…したかった…から…」
「………っ!」
(も、もう!こんな怪我しても、その辺は、あまり変わってないわ?!)
「…」
「え?」
は心の中でプリプリ怒るも、名前を呼ばれると素直に返事をしてしまっていた。
「傍に…来て…?」
「え?」
「また…。一緒に寝てよ…」
「え?!」
「む…ぅ…何で・…そ…んな驚く…の?今朝…は寝てくれた…のに…」
「だ、だって…そんな怪我してるのに…」
「横に…寝てくれるだけ…で…いいから…」
「そ、そんなこと、言われても…」
「お願…い…」
「う……っ」
そんな可愛く、お願いされても…
でも…半分、寝そうな瞳でそう言うパリスを、もう怖いとか思わなかった。
むしろ何となく愛しい…とさえ思ってしまって、慌てて首を振る。
「……?」
パリスが動く右手だけを伸ばしてきて、はつい、その手を掴んでしまった。
「わ、分かった…。一緒に寝るわよ…」
「ほ…んと?」
「ほんと!」
は、そう言うと、そっと布団を捲り、寝台の上に乗るとパリスの隣に横になった。
怪我をしてるので「腕枕が出来ない…」と悲しげに呟くパリスに、はちょっと微笑むと顔を横に向ける。
するとパリスは嬉しそうに、を見て、優しく額にキスをした。
も今度は逃げないで、そっと目を瞑るとパリスの右手を握り、「おやすみ…」 と言って手に軽くキスをする。
パリスはドキっとしつつ嬉しそうに微笑んで、体を少しの方へ向けると目を瞑ったままのの唇に、そっとキスをした。
「ん…っ?」
は驚いて目を開けると、パリスはチュっ…と音を立てて唇を離し、ニッコリ微笑んだ。
「おやすみ…のキス…しちゃった…いっつっ…」
体を動かした痛みで顔をしかめるも何だか嬉しそうで、は顔を赤くして、
「もう…っ!痛いのに動かないの!」
と言うだけでクスクスと笑った。
パリスはちょっと微笑むと、「愛してるよ…」 と呟き、「おやすみ、…」 と言って静かに目を瞑った。
は、パリスの"愛してる"と言う言葉に胸がドキドキなるのを感じてギュっと目を瞑る。
「おやすみなさい…」
そう呟き、パリスの手を離そうとした時、逆にパリスにギュっと握り返され、またドキっとする。
やだ…私、どうしたんだろう…
夕べから…何だかおかしい。
胸の奥の…この痛みは何なの?
パリスに…胸がドキドキするなんて…
私が好きなのはアキレスなのに…子供の頃からずっと…
その想いが通じたばかりで、パリスにまでときめいてどうするのよ…っ
そう思えば思うほどドキドキしてきて、は戸惑っていた。
それでも安心した顔で眠るパリスの寝顔を見ていると、も何だかホっとして眠くなってくる。
今は…彼が私の存在で安心してくれるだけで…いい…。
こんな私なんかのために命を懸けて戦える人だから…
この夜、は夕べの不安が奇麗になくなり安心感で満たされて深い眠りについた――
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