TROY

第七章:戸惑い







 

それは紀元前3000年…
古代ギリシャとトロイで起こった愛の物語…


























ギリシャ軍・陣営―








静かに炎が落とされ、メネラオスの遺体は荼毘に付された。
それを黙って見ながら、アガメムノンは、少しだけ唇の端を上げる。


あんな小僧にやられおって…
油断するからだ。
ヘクトルが手を出さなくとも勝負は決まっていた。
共倒れになる前にへクトルがトドメを刺し、自分の弟を守ったへクトル…
ふん、おかげで戦の理由が出来て良かったがな…
一応、兵士達にはメネラオスのフィアンセが攫われ、取り返すと言う名目で伝えてある。
それを一対一の戦いでメネラオスが負けたとなると、あのとか言う女の事では戦は出来なくなった。
だが…一対一の戦いにへクトルが手を出した事で、報復という名目が出来たのだ。
これで一気にトロイ軍落としてやれる。
それには…やはりアキレスの軍も必要だろう…


アガメムノンは静かにその場から歩き出し、自分のテントへと戻った。


「おい、アキレスはどうした?」


側近に向かって訊いてみた。


「は…。アキレスは自らの陣営に…。この場には顔を出してはおりません」
「あいつ…今日の戦いにも顔を出さなかった…。あいつの兵があれば、トロイ軍を攻め込めたのに!」


アガメムノンはイライラしたように部屋の中を歩き回った。


「アキレスの元に、オデッセウスをやれ。何とかアキレスを説得させるのだ」
「畏まりました」


側近は、そう言うとすぐに外へ出ていった。


「絶対に、アキレスを戦に借り出してやる…。何か…いい方法はないものか…」




アガメムノンは王座に座り、酒の入った杯を、ぐいっと呷った―




















「おい、アキレス…いるか?」


オデッセウスはアキレスのテントの中を覗いた。
だが中には誰もいない。


(あいつ…どこに行ったんだ…?)


オデッセウスは首を傾げ、砂浜の方へと歩いて行った。
するとアポロ神殿の方から、アキレスが戻って来るのが見える。
黒い夜着をまとい、風に揺れているからか、一瞬、悪魔のようにも見え、オデッセウスはギクっとした。


「オデッセウス?」
「あ、ああ…どこに…行ってたんだ?そんな格好で…神殿の方から来たようだが…」


オデッセウスは苦笑しながらアキレスの方へ歩いて行った。


「ああ、今、に会って来た」
「何だって?!」
「間者を使って上手くトロイの城から連れ出したんだ。まあ、また戻っちまったけどな」
「な…っどうして?!せっかく抜け出せたのに…っ」


オデッセウスはアキレスの方へ歩み寄った。


「どうして行かせた?!い、いや何故、彼女は戻ったんだ?」
「まあ、落ち着けよ…」


アキレスは苦笑しながら後ろにある大きな岩の上に腰をかけた。


「落ち着いていられるか!メネラオスがあんな殺され方をして戦が、ますます酷くなると言うのにトロイへと戻るなんて!」
「あんな男…死んで当然だ。だって解放されたしな。を自由にしてくれたのは…パリスだ。は…パリスの元へ行ったんだ」
「何だと?!た、確かに…彼女の為に戦ったのかもしれない…。俺だって、あの戦いは、すぐ後ろで見ていたから分かる。
だがが何故、パリスの元へ戻るんだ?助けてもらったからか?」


オデッセウスの問いかけに、アキレスは少し息を吐き出すと、


「ああ…まあ…そうなんだろうな?自分の為に戦ってくれたパリスの怪我が癒えるまで…傍についていてやりたいんだとさ。
全く…いくら戦ってくれたとは言え、自分を捕虜にした男の看病をしたいなんて…も情に脆いからな…」
「お前…そんな呑気な…っ。もし、このまま戻って来れなくなったらどうするんだ?」
「それは大丈夫らしい。それに間者にも見張らせるよ。何か危ない事が起きれば、すぐ連れ出せるようにな」
「だからって…アガメムノンはメネラオスの事を理由に、トロイに攻め込む気でいるぞ?がトロイにいたら一緒に…」
「ああ、それは大丈夫だ。俺が戦に出なければ、アガメムノンはトロイの城を攻め込めないだろう?」


アキレスの言葉に、オデッセウスは言葉を詰まらせた。
それに気づいたアキレスはニヤリと笑って、


「お前…今、それを俺に言いに来たんだろ?アガメムノンに言われたか?」


アキレスの言葉に、オデッセウスは息を吐き出した。


「ああ…お前を戦に出るよう説得をしろとな…。だが…が戻ったとなれば…」
「そうだろう?あいつも俺には戦に出るなと言っていた。俺は…が戻るまで、ここに留まるが戦には出ない。
あいつが戻ったら俺は…兵を撤退させ、あいつと国へ帰るよ…」
「何?!それは…どういうことだ?アキレス」


オデッセウスは訝しげにアキレスを見る。
アキレスは苦笑すると、オデッセウスを見て、「俺は…あいつを愛してる…」 と呟いた。
その言葉に、オデッセウスも息を呑む。


「何だって…?だってお前…」
「ああ…確かにお前には違うと言った。それは自分の気持ちをに伝える気もなかったからだ。
あいつの気持ちは知ってたが、俺にはを…幸せには出来ないと思ってたしな…
気付かないフリをして…あいつが他の男を選ぶように…わざと、そっけなくもしたし、他の女と寝てるとこも見せた。
それで…が俺の事を忘れてくれれば…と思ってたよ…」
「それでか…。お前…には凄く優しいのに、時々、つき放す事があった。俺は、どうしてなんだろうと思って見ていたが…」


アキレスはちょっと笑うと、


「どうせなら…お前に惚れてくれたら…と思った事もある。お前になら、を安心して任せてやれるとな…
だがお前はなかなか求婚しないし、そのうちメネラオスにを…。 ―ほんとヒヤヒヤしたよ…」


アキレスの言葉にオデッセウスは顔を赤くした。


「お、俺は…がお前の事を想っているのでは…と察していたし…その…勇気がなかったんだ…。
断られるのが怖くて…歳だって離れてるし…。…ん?だが・…どうして今頃になって、を受け入れようと思ったんだ?」


アキレスは、その問いに静かに空を見上げ息を吐き出した。


「どうしてかな…? さっき…の無事な顔を見たら…止められなかった…
やっぱり…あいつを愛していると…心の底から思ってしまったんだ…。 ――気付いたら…抱きしめて押し倒してたよ…」
「何だと?!お、お前、まさか…!!彼女の純潔を…っ?!」


アキレスに、顔を真っ赤にしながらオデッセウスが掴みかかった。


「お、おいおい…落ち着けって…!何もしてないよっ」
「ほんとか?!いいや!お前は信用できん!女を押し倒して何もしないはずがないだろう!
女にかけちゃお前は過激だからな…っ。時に何人の女と同時に寝てた?!前科があるんだぞ?」


オデッセウスの勢いに、アキレスは苦笑して両手を上げた。


「それは演技だって…。 本当にには手を出してない。誓ってもいい」


その言葉にオデッセウスはやっと手を放し、息を吐き出す。


「はぁぁ…。脅かしやがって… ―でも…本当だな?」
「お前も案外、疑り深いな?何もしてないって…。ああ、まあキスはしたけどな?濃厚なのを」


アキレスはからかうように笑いながらオデッセウスを見ると、ますます顔を真っ赤にして目を剥いている。


「お、お前は…っ!」
「別にいいだろう?俺は…あいつを連れて帰ったら…結婚するつもりだ…。お前には悪いがな…」
「アキレス…」


オデッセウスは少し驚いた顔をしたが、ふぅ…っと息を吐くと、「そうか…。なら真剣なんだな?」 とアキレスを見つめる。
アキレスは、その言葉に、「ああ…あいつの為なら…俺は剣を置くよ」 と言ってオデッセウスを見た。
その言葉にオデッセウスは、ちょっと微笑むと、「そうか…なら…安心だな、俺も…」 と呟く。
アキレスも笑いながら、


「だから俺はアガメムノンに言われたとしても…戦には出ないぞ?」 とオデッセウスの肩をポンと叩くと、


そのままテントの中へと入って行った。
オデッセウスは軽く溜息をつくと、「のためなら…仕方ないか…」 と呟き、自分の陣営の方へと静かに戻って行った―





























4日後…トロイ城内――









はパリスの包帯を変えるのに夜着を、そっと脱がせていった。


「痛くない?」


恐々とパリスの腕を抜きながら問い掛ける。
が、返事がなくは顔を上げた。
すると、ニヤニヤと顔が緩んでいるパリスと目が合う。


「な、何笑ってるの?」
「だってさ、何だか優しいし…。こうして脱がせてもらうと、やましい気持ちになるなぁって思って…」


パリスの言葉に、は頬が少し赤くなった。


「な、何言ってるの?!怪我してるから仕方ないじゃない…って言うか、怪我してるくせに何を考えてるのよ!」
「そんな怒らなくても…」


と、パリスは少し苦笑して、の頬に素早くキスをした。


「キャ…っ。も、もう!すぐ、そうやって…!いいわ、なら医師の方にお願いするから!」


は、そう言って立ち上がろうとしたが、パリスは慌てての腕を掴んだ。


「ま、待って!ごめんってば!大人しくしてるから、がやってよ…ね?」


パリスの哀願に立ち上がったは、ちょっと振り返って仕方ないと言った顔で、また寝台の端に腰をかけた。
途端にパリスも、ニコニコと笑顔になる。


「じゃあ…包帯、取るわね?」
「うん」


嬉しそうに頷くパリスに、も苦笑しながら、静かに、包帯を取っていくと痛々しい傷が見えて思わず目を背けてしまいたくなる。
今までは医師の人がやっていたのだが少し傷が癒えてくると、王、プリアモスが、


「これからはがパリスの面倒を見てやってくれないか?」 


と頼んできた。
それには、も嫌とは言えない。
それに、そのつもりで戻って来たのだからと、すぐに頷いた。
それで今日から、包帯を変えたりするのは、の仕事になり、薬を飲ませたりするのも全てがやる事となった。
だからかパリスは朝から上機嫌なのだ。


は肩の槍の傷や打撲の跡を見て胸が痛くなる。
そっと傷に触れると、パリスの体がビクっとなって慌てて放した。


「ご、ごめんなさい…っ痛かった?」
「いや…平気…に触れられてドキっとしただけだよ?」


気を使ってか、笑いながら、そう言うパリスに、は顔が熱くなり、俯きつつも新しい包帯を出して、
もう一度前から腕を背中にまわして包帯を巻いていった。
目の前にパリスの顔があり、しかも今は上半身が裸の状態で、そうしているとは恥ずかしくなってくる。


「あ、あの…少しきつく巻くわね…?痛かったら言って?」
「うん。大丈夫だよ?」


パリスはに優しく微笑みながら、そう言うも、は恥ずかしさで目を合わせられない。


(ど、どうしよ…手が震えるし、力が入らない…)


はドキドキするのを何とか堪えつつ、包帯を巻いてギュっと絞める。


「…い…つっ…」
「あ、ご、ごめんね?痛い…?」


顔をしかめているパリスが心配になり、は顔を覗き込んだ。
するとパリスもの方を見て、凄い至近距離で、互いの目が合い、は一瞬で顔が赤くなった。
すぐに顔を反らそうとした時、パリスが素早くの背中に右腕だけを回し優しく抱き寄せる。


「ちょっと…っ」
「少しだけ…このままでいて…?」
「で、でも…包帯が…」
「そんなの後でいいから…」


パリスはの頭に口付けながら、そう呟いた。
は途中まで巻いてた包帯がパラパラと取れていくのが気になりながらも、パリスの温もりで胸がドキドキしてくるのを感じ顔が熱くなる。


ど、どうしよう…心臓がうるさくて…聞こえちゃうじゃないの…っ
この前から私、どうかしてる…
私が好きなのは…アキレスで、パリスじゃないのに…。


パリスはの頭に頬を寄せると小さく息を吐き出した。


「…このまま…怪我が治らなければいいのに…」
「え…?な、何で?」
「そうすればが、ずっと僕の傍にいてくれるだろ?」


はパリスの、その言葉に胸がズキンと痛むのを感じた。


「そ、そんな余計なこと考えないで…。早く傷を治さなきゃ…」


のその言葉にパリスは抱きしめた腕を解くと、「…ごめん、変なこと言って…」と、の頬に軽くキスをした。
はドキっとしてパリスを見ると、優しく見つめる瞳と目が合う。
思わず視線を反らし、落ちてしまった包帯を、もう一度パリスの体に巻きつけていった。


「これで大丈夫だと思うんだけど…あまり動かない方がいいかも…」
「ありがと。ま、取れたら、またに巻いて貰うからいいけど?」
「はい、はい。何度でも巻くわよ…」


パリスの言葉には苦笑しながら薬やら包帯を箱にしまっている。
そこへノックの音がして、返事をするとレイアと他の女官が入って来た。


「失礼します。様、湯と、あとは食事の用意が出来ました」
「あ、ありがとう…。そこへ置いてくれる?」
「はい」


レイアは二人を見て思わず笑顔になりつつ、持って来た湯とタオルをの傍に置くと、
もう一人の女官が食事を乗せた台をテーブルの上に置いた。


「他に何か必要なものは御座いませんか?」
「えっと…パリス、何か欲しいものはある?」


がそう聞くとパリスはニッコリ笑って、「以外に何もいらないよ」 と言った。 それにはも一瞬で頬が赤くなる。


「な、何言って…」


そう小声で呟き俯くを、パリスは、ニコニコと見て何だか嬉しそうだ。
レイアもそんな二人を見て思わず微笑んで、「では…様はパリス様のお傍を離れないで下さいね?」 と済ました顔で言っている。


「レ、レイア…っ」
「では、パリス様のお体を拭くのも様がなさるという事で宜しいですか?」


レイアがパリスに向かって、ニッコリ微笑むと、パリスも「ああ…」 と言って苦笑している。
レイアの後ろにいる女官も何だかニヤニヤしているが、だけは顔を赤くしてレイアを睨んだ。


「ちょっとレイア…」
様…パリス様は、お怪我のせいで、今日まで湯浴みが出来ません。ちゃんと拭いてあげて下さいね?」


の助けを求める視線に気付かないフリをして、レイアは、軽く頭を下げると、
「では宜しくお願いします」 と笑顔で言って、さっさと女官を連れて出ていってしまった。


「あ…レイア?!」


無情にもしまったドアを見つめ、は唖然としていた。


そ、そんなぁ…この仕事は侍女がやるはずでしょう?!
わ、私にやれだなんて…絶対、わざとだわ…っ


は、そう思いながら恐る恐る後ろを振り向くと、パリスは、ニコニコした顔でを見ている。
は諦めてタオルを手に取った。


「あ、あの…じゃ…拭く…わね?」
「うん。お願い」


(ぐ…っお願い…って…そんな簡単に言われても私だって男性の体を拭くのなんて初めてなんだからっ!)


そう言いたいのを必死に堪えると、は湯の中にタオルを浸し軽く絞ると、そっとパリスの首元へと手を伸ばした。
なるべく優しく拭いてあげながら、黙って目を瞑ったままのパリスの顔をチラっと見る。
背中を見ると痛々しい打撲の跡が見えて力を緩めながら、そっと拭いていった。
包帯を緩めないように避けながら背中を拭き終わると、もう一度タオルを湯の中に入れ軽く絞る。
次は胸元へと手を伸ばすとパリスと目が合ってドキっとした。
だが以外にも(!)パリスも何だか恥ずかしそうで顔が赤い。


「あ、あの…やっぱり自分でやるよ…」
「え?」


はその言葉に驚くが、パリスはさっとの手からタオルを取ると自分でやり始めた。


(やだ…パリスったら…照れてるのかしら?あのパリスが?!)


は驚いたが、それを顔に出さないで、食事を取りに寝台から立ち上がる。
食事の乗った台を持つと、「パリス、そこで食べる?」 と聞いた。


「うん。ここでいいよ?」 


パリスは体を拭き終わり何だかすっきりした顔で微笑んだ。
は、そのままパリスの前に、その台を置くと「自分で食べられる?まだ無理かな?」 と聞いた。
パリスは、それにちょっと笑うと、「が食べさせてくれるなら、それも嬉しいけど」 と言ってを見上げた。
はニコっと笑うと、「いいわよ?」 と言って寝台の端へ座り、スプーンを手にとる。


「え?ほんとに…?」


パリスは少し驚いた顔でを見た。


「ほんとよ?だって食べさせて欲しいんでしょ?」
「で、でも…」


パリスは何だか恥ずかしそうな顔で視線が泳いでいる。
は心の中で苦笑した。


(やっぱり…パリスは恥ずかしいんだ…)


はわざと、「はい、口開けて?」 とスプーンをパリスの口元に持っていった。
それにはパリスも顔を少し赤くして、「や、やっぱり自分で食べるよ…」 との手からスプーンを取ろうとした。


「ダーメ!ほら、口開けて」
「う…っ」


パリスは子供のような困った表情を見せ、でも諦めたのかそぉっと口を開けてスプーンをぱくっと口に入れてスープを飲んだ。
その時の顔が本当に子供のようで、は思わず笑顔になる。


「何笑ってるの…?」


パリスは恥ずかしそうな顔で、上目遣いでを見上げている。
はクスクス笑いながら、


「だって…パリス、子供みたいなんだもの」
「む…僕に向かって子供とは失礼だな…っ」
「あら、前から我侭で自分勝手なとこは子供と同じじゃない」


は今なお、クスクス笑いながらも、そう言うとパリスは不貞腐れたような顔で、の手からスプーンをパっと奪った。


「もう自分で食べるよ」
「そう?じゃ、どうぞ」


は笑いを堪えつつ食事の乗った台をパリスの前に置いてあげた。
そして自分も食事をとろうとテーブルの方へ行き椅子に腰をかける。
チラっとパリスの方を見ると、黙々と食べながら何だかスネているようだ。


やだ…私、今パリスを可愛いなんて思っちゃった…
そんなこと言ったら、また怒るよね、きっと…


そんな事を思いながらも焼きたてのパンを食べ始めた。
スープにお肉に果物なんかを一気に食べ終え、器を片付け、パリスも、食事を終えると今は食後の薬を飲んでいる。


「うぇ…この薬湯、相変わらず苦いな…」
「そんな味が変わるわけないでしょ?全部飲んだ?じゃ、はい…横になって?」
「え?眠くないよ…。それより外の空気が吸いたい…庭に出ようよ」
「でも…」
「足の怪我は、ただの切り傷で、もう動かしても痛くないからさ?いいだろ?」


はちょっと考えたが、少し外に出て太陽に当たった方が精神的にもいいかも…と思い、軽く頷いた。


「分かった。じゃ、行きましょうか?」
「うん」


パリスは嬉しそうに寝台から起き上がると、少し顔をしかめつつも、服を羽織る。
傷に触れても痛まぬように、柔らかい生地でさらりとした服だからか片手で着るのが大変だ。
それを見てが未だ動かせない左手を通してあげた。


「ありがとう」
「ううん。じゃ行きましょうか?」


がそう言うとパリスは優しく微笑んでの手を取った。
は一瞬、ドキっとしたが、そのままパリスと手を繋ぎ、部屋を出て庭まで、ゆっくりと歩いて行く。
気付けば後ろからサルベードンが見守るようについてきてくれた。











「はぁ~気持ちいい…っ」


庭に出るとパリスは、そう言って草の上に座り空を見上げた。
も隣に座って、


「ほんと…海風だし涼しいけど…寒くない?」
「寒くないよ。それに、もいるしね?」


パリスは、そう言うとの肩をそっと抱き寄せた。
はドキっとしてパリスの顔を見上げると優しく額にキスをされて、また胸がドキンと跳ね上がるように鳴るのが分かる。


ま、また…こんな事くらいで何でドキドキするのよ…っ
ついでに顔まで熱くなってきちゃった…
私、今、顔が赤いんじゃないかしら…


「どうしたの?、俯いて…」
「な、何でもない…」


赤くなった顔を見られまいとは俯いたまま答えた。
それにはパリスも首をかしげて、の顔を覗き込む。


「具合悪い?眠いの?」
「ひゃ…っ」


突然、視界にパリスの奇麗な顔が入り、は驚いたのと不意に体を後ろへ反らした事でそのままコロンとひっくり返ってしまった。


?大丈夫?」


パリスが驚いて上から、の顔を見た。


「あ、あの…だ、大丈夫…」


は恥ずかしさで顔が、ますます赤くなり慌てて体を起こそうとした。
だが、それを阻止するようにパリスがの肩を掴んで、


「そのまま寝てなよ。何だか疲れてるみたいだし…僕に付きっきりで、あまり寝てないんじゃない?」


と心配そうな顔で言った。


「そ、そんなこと…」
「いいから。横になってた方が楽だろ?恥ずかしいなら僕も寝転がるからさ」


パリスは、そう言うとの隣にゴロンと寝転がった。


「はぁ~青空の下で寝転がるのも気持ちがいいね?」


目を瞑って、そう言うパリスを横目で見ながら、も目を閉じた。


はぁ…ほんと…風が頬に当たって気持ちがいい…
このまま寝ちゃいそうだなぁ…


は最近、本当にパリスに付きっきりで看病していたからか、
食後だったのと、あまりに太陽の暖かさで気持ちがいいのとで眠くなってきてしまった。


子供の頃…よく、アキレスと、こうして草原の中、寝転がってたなぁ…
アキレスは、いつも、そのまま本当に寝ちゃって起こすのが大変だったっけ…
あの頃から…私はアキレスの傍にいるのが好きだった。
このまま、ずっと大人になっても一緒にいたいと強く思っていたのよね…
でも現実に大人になって、それは…無理だと諦めていたのに。
アキレスが戦いに出るのをやめるとまで言ってくれた…
まだ信じられないよ…


は、そんな事を考えながら、そっと目を開けてパリスの方を見た。
パリスは目を瞑ったまま動かない。


やだ…寝ちゃったのかな…
いくら暖かいとは言え、海風は体を冷やすし…
何か、かけるものを持ってきた方がいいかしら。


は体を少し起こして、パリスの顔を覗き込んだ。
本当に寝ているのかと寝息が聞こえないか静かに顔を近づける。
その瞬間、パリスの目がパチっと開き、はドキっとしてすぐ離れようとした。
…が、背中に腕をまわされ気付けばパリスの胸に顔を埋めていた。


「あ、あの…」
「ん?なぁに?」
「サルベードンがいるのよ…?」


は確か先ほど彼がついてきていたというのを思い出し恥ずかしくなった。
だがパリスはクスクス笑うと、「彼なら、とっくに気を利かせて姿を消したよ?」 と言った。


「え?嘘…っ」


は驚いて顔を少し上げると、さっきまでサルベードンがいた辺りを見渡した、が本当に彼の姿がない。


「ほらね?だから、そんな恥ずかしがる事ないよ?」
「で、でも…傷…傷が痛むでしょ…?」
が動かなければ平気」
「……っ」


パリスに、そう言われては顔が赤くなりつつも、静かにパリスの胸に顔を戻した。


ど、どうしよう…何で私、いつもみたいに怒れないの…?
いつものように怒って彼の腕を振り払えば済むはずなのに…
確かに、そんな事をしたら彼の傷に障る…
で、でも、こんな状況を城に入り込んでいるアキレスの部下に見られでもしたら…


は、そこに気付くと慌てて顔を上げて、パリスから離れようとした。
パっと顔を上げると目の前にパリスの顔があり至近距離で目が合い、そのまま固まってしまう。
パリスは優しい瞳でを見つめている。
は胸がドキドキして恥ずかしくなるのだが何故か、その瞳から目を離せない。
背中にまわした腕に力が入り、少しだけ体を寄せられたと思った、その時。
パリスの唇がそっとの唇に近づいてきた。
あ…っと思った時には、ほんの、かすかにパリスの唇が触れた感触があり、は顔が熱くなると同時に、
それでも腕を振り払って逃げる事も出来ずに、キュっと目を瞑ってしまった。
すると、もう一度パリスは瞳を伏せて、の唇に触れるか触れないか程度の口付けをする。
それでもが動かないのを知ると、パリスはゆっくりと体制を変えて、今度はを下にした。


「…つっ」
「……っ?!」


傷が痛むのかパリスは少し顔をしかめると、が驚いて目を開けた。
それでもパリスは大丈夫…と言うようにの頬を撫でて優しく微笑む。
その顔を見ては何も言葉が出てこない。
前なら、こんな事をされたら腹立たしいとさえ思って怒っていた筈なのに、今はただ胸がドキドキと鳴るだけ。
黙ったままパリスの優しい瞳に吸い寄せられるかのように、彼を見つめていた。
パリスは、そんなを見て、ゆっくりと顔を近づけると、もう一度、そっと唇を触れてきた。
今度はさっきよりも少し長めに温もりが伝わる程度に…
は瞳を閉じてパリスの胸にそっと手を置いた。
それに気づくとパリスは静かに唇を離し、もう一度軽く触れてくる。
それでもが動かないのを知ると、唇を一度離して、の頬を手で包んだ。
パリスの手の温もりに、はピクっと動いて、かすかに目を開けた時、パリスは、また触れる程度の口付けをする。
そして、またゆっくりと離した…。
それを何度もくり返えされ、は知らずパリスの胸元をギュっと掴んでいた。
それに気づいたパリスは少しづつ唇を触れ合わせている時間を長くしていき、啄ばむようにの唇を愛撫していく。


「…ん…」


頬を撫でられながら、パリスの唇の温もりには本当に体の力が抜けていくのが分かる。
時折、チュっと水音をたてられ恥ずかしい気持ちにもなるのだが体が動かず、そのままパリスの口付けに身を任せていった。


は、この時、パリスに口付けられて心が安らいでる自分に戸惑いながらも胸の奥が熱くなるのを感じていた―












一方、二人が口付けを交わす姿を、こっそりと見ている影が二つ…


「おい…覗きなんて悪趣味だぞ?」
「あら、サルベードンだって見てるじゃないですか」  ―すでに呼び捨てだ― 


レイアはニヤっと笑いながら、そう言うも目はしっかり二人の方へと向けている。


「な…っ仲の良い二人を見て嬉しくなっただけだ!わ、私は決して、やましい気持ちで見てたわけでは…!」


サルベードンは顔を赤くして、慌てて城の中へと引っ込んだ。
レイアは、ちょっと息を吐き出し、


「はぁ~でも良かった!あれなら上手くいきそうだわ?ね、そう思わない?」
「ん?あ、ああ…。様も抵抗してないところを見ると…お気持ちが少しは動いてくれたのかもな」
「キャ!そうなると…後はパリス様の傷が癒えてから、様がパリス様の寵愛を頂くだけね?!
やった!そうなれば二人の婚儀を見られるのも時間の問題だわ!」


レイアはやっと二人から目を離すと城の中に戻り、両手を組みながらクルクル回り、踊り出しそうな勢いだ。
サルベードンは、そんなレイアを見ながら苦笑すると、


「そうなれば良いが…何だか私は胸騒ぎがしてならない…」 


と少し表情を曇らせた。


「あら!何で?あんなに熱~い、二人を見て何を胸騒ぎする事があるの?」
「それは…はっきりとは分からないが…何となく…虫の知らせと言うか…
まだ戦だって終ってはいない…。今はまだ降着状態にあるが、そろそろ、どっちかが動き出すだろう。
そうなれば…この城にもギリシャ軍が攻めてくる…まだ…安心してはいられないよ」
「もう!男性の方は、すぐ戦の事を考えるんだから…!いいわ、お二人の事は私が何とかする。
サルベードンは男らしく戦って、お二人の未来と、このトロイの未来を守って下さいな!」


レイアの、その言葉に、サルベードンは苦笑しながら、


「君の事も守りたいと思ってるんだがね?」 


と呟き、すぐに顔を赤らめた。


「え?何かおっしゃいました?」


すでに気分は二人の初夜に向いていたのか、レイアはサルベードンの言葉を聞いていなかった様で、
サルベードンはがっくりと頭を項垂れた。


「いや…何でもないよ…」


悲しげにそう呟き、そろそろ王の間で会議の時間だというのを思い出し、一人トボトボと廊下を歩いて行った。
そんな後姿を見つつ、「変なサルベードン…」 と首を傾げ、レイアは、また顔を出し、二人の方を覗いてみた。
すると、丁度パリスがの肩を抱いて歩いてくるのが見え、慌てて城の中に引っ込むと何事もなかったかのように微笑んだ。


「お部屋へ戻られますか?」 
「ああ、そうする。が眠たいみたいでね?」


パリスは、そう言うと優しい顔で、を見る。
もまだ、ほんのりと頬を赤く染めて恥ずかしそうにパリスを見上げて微笑んだ。
そんな二人を見て、レイアは心が躍った。


(キャ…!も、もしかして・…これから部屋へ戻って、お二人は初めての――!!)


パリスの怪我のことも忘れ、踊り出したくなる自分を何とか抑えると(!)レイアはニッコリ微笑んで、
「で、では、どうぞ、ごゆっくり休まれてください」 と言ってお邪魔虫は消えようと歩いていこうとした。その時―


「ああ、待ってくれ、レイア!」
「は、はい?」


パリスに呼び止められ、レイアは慌てて振り返った。
パリスはちょっと微笑むと、「この前の件…どうなった?もう出来たかい?」 と聞いてきた。


(はて…?この前の件…?)


レイアは首をかしげて考え込むも思い出せない。
するとパリスが呆れたように苦笑して、


「忘れたのかい?ほら、この前、寝台をの部屋に入れてほしいと頼んだろう?
職人に注文してくれたんじゃないのか?」
「……あっ!」


レイアは思い出し、そして驚いた。


「え?まだ様用の寝台が必要なのですか?!」
「え?そ、そりゃ…いるだろう?何だ、頼んでなかったのか?」
「え…いえ…あの…」


パリスに、そう言われてレイアは、どうしたものかと言葉を詰まらせた。
パリスは、ちょっと溜息をつくと、「レイア…早く頼むよ?」 とレイアの肩にポンと手を置いて微笑んだ。
レイアは思わず顔を上げて、


「い、いえ、あの…お二人は…ずっと一緒に寝られるものだと思っていましたので…申しわけ御座いません」 


と頭を下げた。


「「え?!」」


レイアの言葉に、二人は驚き顔を赤らめた。
レイアは顔を上げると、「あの…違うんですか?」 と敢えて訊いてみる。
すると二人は顔を見合わせるも、すぐに俯いて何だかさっきまで口付けを交わしていた二人とは思えないほどの照れようだ。
レイアは、そんな二人の初々しさに、心の奥がズキューンと何かに撃たれたのを感じた(!)


はぁ…っいいわ!この二人…何だか理想よ、私の!
ああ…私も恋がしたい!
パリス様のように素敵な王子様はいないのかしら?!


レイアは頭の中がトリップしたかのようにハイテンションになってきた。
するとパリスが顔を上げて、


「あ、あの…レイア。実は…は僕の本当のフィアンセではないんだ…その…今までは事情があって…
フィアンセという事にしてたというか、そうなればいいなと思ってたというか…」
「はい?!」


モゴモゴと話すパリスの言葉に、今までのテンションが一気に下降し、レイアは唖然とした。


(ほんとの…フィアンセじゃない?!え?ど、どういう…)


「何を…言ってるんですか?」
「いや…だからね?僕とは…」
「そんなはずはありません!」
「え?」


突然、レイアにきっぱりと、そう言われてパリスも驚いた。


「そんな…例え最初は見せかけの婚約だったとしても…今はお二人の心も通じ合ったのではないですか?」
「………っ?!」
「レ、レイア…っ」


レイアの言葉に、パリスは唖然として、は頬を赤らめた。
それでも構うことなくレイアは言葉を続ける。


「だから、先ほどだって口付けを交わされたんじゃないんですか?」


「「……っ!」」


レイアの言葉に更に顔を赤らめ目を見開くパリスとを見て、


「私は…お二人が婚儀を挙げることを心待ちにしているんです。今更、別々に寝て貰っては困ります!
今までだって何の不都合もなかったんですから、これからも一緒に寝ていただきます。分かりましたか?」


レイアのキッパリと言い切る姿に、王子であるパリスも思わず、「はい…っ」 と返事をしてしまった(!)
はすでに顔を赤くして俯いたまま、でも反論もせずパリスの腕をギュっと掴んでいる。
レイアはの方にも、「様も…いいですね?」 と聞いた。
すると、がやっと顔を上げる。


「あ、あの…私は…その…困る…わ?」
「え?」
「え?!」


の言葉に、パリスも一緒に驚いた。少し顔が悲しそうだ。
は視線を泳がせつつ、


「あ、あの…パリスだって怪我してるし…。一人でゆっくり眠った方がいいと…思うし…それに…」
様…!」
「は、はい…っ」


レイアに名前を呼ばれて、はビクっとした。


様がお傍にいれば、パリス様の怪我なんて、すぐに治ります。別々なんてダメですからね?
お二人には、これからも一緒に寝て貰います」


レイアに、そうキッパリ言われて、も困った顔でパリスを見上げている。
レイアは、最後に、


「あ、あと…明日からのパリス様の湯浴みは、様が入れてあげてくださいませ」 


と言って、さっさと歩いて行ってしまった。
それにはも驚いて、


「ええ?!ちょ、ちょっと待って、レイア…それは無理…!」


その空しい叫びも届かなかったようで、レイアはすぐに見えなくなってしまった。


な、何で私が湯浴みまで?!
それこそ侍女の仕事じゃないの~~~~!!
レイアったら…私をパリスに近づけようとしてるんだわっ


はそう気付くと、今朝のことまでが計られたと分かり、「もう…っ確信犯なんだから!」 と文句を言った。


「え?何が?」


パリスが驚いて、の顔を覗き込むと、はドキっとして俯き、「あ…あの…何でもない…」 と呟いた。
パリスは優しく微笑むと、の肩を抱いて、


「それより…まずは部屋に戻ろう?も眠いんだろ?」 


と言って少し屈むとの頬にチュっと口付けた。
はドキっとしつつも軽く頷く。
そのままはパリスと一緒に部屋へと戻って来た。


私…パリスの事を好きになりかけてる…?
さっきだって…逃げられたのに体が動かなかった…
パリスに口付けられて…胸がドキドキして彼の温もりを愛しい…と感じてしまった。
何で…?私が好きなのはアキレスなのに…
何で、あんな感情が溢れてくるの…?


は部屋に戻って、テラスへと出ると遠くに見える海を眺めた。


やっぱり…私はここに戻るべきじゃなかったのかしら…
このままだと…私は本当に流されてしまう。
さっきのように…


パリスは…私の事を本気で想ってくれてるんだって痛いほどに伝わるから、その愛情に流されていく自分が怖いと思った。
長い口付けの後、私は本当に全身の力が抜けてて何だか体がふわふわしてる感じだった。
パリスは、そんな私を見て眠くなったのかと思ったようで、
ちょっと恥ずかしそうに起き上がると、私を引っ張って抱きしめながら、「眠そうだし…部屋に戻る?」 と聞いてきた。
そう言われると本当に眠いような気がして来て、小さく頷くと、また唇に優しく口付けられて…
それで私もまた安らぎを感じてしまった。



「はぁ…」


ちょっと軽く息を吐き出した時、急に後ろから抱きしめられてドキっとした。


「どうしたの?寝ないの?」
「あ、うん…ちょっと…寝ようかな?」


は少しぎこちなく微笑むと、そのまま寝台へと歩いて行った。


「あ…パリスも寝たら?少し…顔色良くないし…」
「うん…でも…そろそろ会議があるし僕も顔を出そうかと思ってさ」
「ええ?そんな…まだ怪我も癒えてないのに、もう戦に出る事を考えてるの?」


の剣幕にパリスは慌てた。


「あ、そ、そうじゃなくて…いや半分はそうだけど…ただ参加して、今後どう攻めるのか聞くだけだよ?!」
「ほんとに?」

はパリスの胸元に飛び込んできて怖い顔でパリスを見上げている。
その顔が可愛くて、パリスは、ちょっと笑顔になった。


「うん、ほんと」
「でも…半分そうだって言ったけど…それは、まだ戦に出るって事でしょ?怪我が治ったら…」
「それは……兄上に任せっきりではいけないと思ったんだ…。僕だって攻め込んでこられれば国の為に…戦いたいって」
「そんな…」


心配そうな顔をするを見て、パリスは嬉しそうに微笑むと、の額に口付けて、


「…心配しないで…。さ、は眠って?いつも夜中まで僕のこと診ててくれてたんだし眠いだろ?」 


と言っての背中を押した。
それでもはパリスから離れようとせず、胸に抱きついてくる。


「やだ…もう…戦には出ないで?お願い…。もう…あなたに、あんな戦いして欲しくない…っ
殺されるかと思ったのよ?!あんな…怖い思い…したくない…っ!お願い、戦わないで…?」
「…」


パリスは涙を浮かべて哀願するを見て胸が痛くなるも、彼女の肩を抱いて、寝台の上に座った。
そしてギュっと片手で抱き寄せ、


「ごめん…前の僕だったら戦わなかったかもしれない…。でも…今は兄上だけに戦に出てもらうのは嫌なんだ。逃げたくない」
「…じゃあ…へクトルも戦に出なければ…」
、それは無理だよ…。兄上はトロイ軍の総指揮官なんだ。ギリシャが、このトロイを狙い、攻めてくる限り…
兄上だって戦わざるを得ない…。僕はその手助けをしたいんだ」
「そんな…だって…」


はポロっと涙を零して、悲しそうに俯いた。
パリスは、そんなを見て胸が温かくなって、そっと彼女の頬を撫でると、「僕の為に…泣いてくれてるの?」 と聞いた。
はドキっとして俯くと手で涙を拭い、


「あ、当たり前でしょ?心配するわよ…だって…」


再び顔を上げて、そう言いかけた時、唇をふいに塞がれ、は驚いて目を見開く。
目の前にパリスの長い睫毛が見え、かすかに震えているのが分かる。
それに気づき、もそっと目を閉じてパリスの唇を受け止めた。
パリスは、そのままを寝台の上へと、ゆっくり寝かせ、先ほどと同じように唇に触れては何度も離し、また優しく触れる。
そして少しづつ、啄ばむように唇を愛撫しながら口付けを深くしていく。
はさっきと同じように全身の力が抜けそうな感覚に陥り、掴んでいたパリスの腕をそっと離した。


「ん…パリ…ス…」


かすかな隙間から名前を呼ぶの声が聞こえた時、パリスは静かにの唇を解放して最後にチュっと口付けると、


はキスすると眠くなっちゃうみたいだね?」 


とちょっと微笑んだ。
は目がとろんとしてパリスを見上げていたが、目の前で微笑む顔にドキっとして慌てて体を起こそうとした。


「ああ、起きなくていいよ?ちゃんと寝ないと…。僕はいなくなるから安心して寝ていいよ?」


イタズラっ子のように、そう言うとパリスは、もう一度に優しく口付けて、静かに離すとゆっくり体を起こした。
は本当に眠くなってきて、それを朦朧とした意識の中で見ていたが、急にパリスの温もりが離れて寂しいとさえ思った。
そっとパリスの方へ手を伸ばすと、パリスは少し驚いた顔でを見る。
だが、すぐに笑顔になり、その手を優しく握ってそっと口付けると、


「じゃあ…行って来るね?おやすみ・…僕の愛しいお姫様」 


と呟き、もう一度手に唇をつけると静かに部屋を出ていった。
は頭が重くなってくるのを感じ目を閉じる。
だが、パリスの言葉を思い出し胸がツキンと痛んだ。


"僕はいなくなるから安心して寝てていいよ…"


パリスはきっと気を使って、そう言ったんだと思う。
でも私は…
今では私の方が、パリスの温もりがないと…隣にいてくれないと凄く不安なの…
何だか胸騒ぎがするから…
それに…



は気付いていた。
パリスが時々悲しそうな顔で何かを聞きたげにしているのを…
自分の傷が癒えれば…が帰ってしまう事を察しているのかもしれない。


私は…本当に帰れるんだろうか。
アキレスの元へ…


アキレスの元へ帰りたい気持ちはある。
なのに…ここに…パリスの傍にいたいという気持ちも、またあることに気付き、は戸惑いを覚えた。
さっきから口付けられる度に感じる安心感と幸福感…


それは今までに感じた事のない感情だった。
アキレスを想いながら待っていた、あの頃は、いつも不安で怖くて、そんな思いばかりしていた。
だから男性の腕の中で安心するなんて気持ちは、は知らなかったのだ。
アキレスと気持ちが通じ合った、あの夜…初めて彼の腕の中で感じた安心感とは、また違う。
荒々しいアキレスの腕に抱かれると胸の鼓動が激しくなり、熱い想いが溢れて息苦しくなる。
でもパリスの腕の中は…胸はドキドキするのに何故か安心感に満たされ眠くなるような感覚…


そう…今のように…



はそんな事を考えながらも意識を闇の中へ落としていった―





















トロイ城・王の間―






「このまま一気に攻め込みましょう!」


王の側近の一人が叫んだ。
それに他の側近たちも口々に、「そうだ、今こそ攻めるべきだ!」 と声を荒げる。
王は難しい顔で聞いていたが、そこにへクトルが口を開いた。


「いや…こちらからは仕掛けない方がいい。向こうが攻め込んで来くれば、この前の様に迎え撃てばいいだろう?」
「何をそんな弱気なことを!この前の勝利で我々にはアポロ神がついていてくれると、皆が確信している!
今こそ、一気にギリシャ軍を追い立てるべきだ!星が我々の勝利を知らせてくれているのだ」


側近のその言葉にへクトルは片方の眉を少し上げた。


「神ですって?そんな目に見えないものに縋ってどうするのだ。神が何をしてくれた?兵士全員を助けてくれたか?
いや…助けてはくれなかった。そんな神に縋って星占いを信じるよりも今は向こうの出方を見た方がいい。
この前はアキレスがいなかった。だから勝てたんだ。アキレスの軍が来たら…こちらから攻めるのは正しいとは言えない」


ヘクトルの言葉に、王プリアモスは顔を上げた。


「ふむ…。意見が分かれたな?では多数決をとろう。明日の夜…奇襲をかけ、ギリシャ軍を落とすか…
それとも向こうが出向いてくるのを待つか…」


すると側近たちが全て立ち上がり、「明日の夜…ギリシャ陣営に奇襲をかけましょう!」 と口々に叫んだ。
それを見てへクトルが思い切り溜息をつく。
プリアモスは、ゆっくりと皆の顔を見渡すと、軽く頷いた。


「よし…。では・…明日の夜・…この前より兵の数を増やし奇襲をかけろ。いいな?」 と言った。


その時、すでにへクトルは部屋から静かに出て行き、それをパリスが追いかける。





「兄上!」
「パリス…」


ヘクトルは納得いかないと言う表情で振り向く。
パリスはへクトルと並びながら歩き出した。


「兄上…明日の夜…行くのか?」
「ああ…仕方ないだろう?全員一致の意見だ。無視は出来ない…」


パリスは苦々しい顔で、そう呟くヘクトルの横顔を見ていたが、ちょっと視線を反らすと口を開いた。


「アキレスの軍が…もし攻め込んで来たら…この戦はどうなると思う?」


ヘクトルはパリスの質問に軽く溜息をつくと、「負けるかもしれないな…」 と呟いた。
その言葉にパリスは驚き目を見開く。


「な、何故?たった一人の戦士を、何故そんなに…?それに…この城塞を敗れるものか」
「パリス…お前は、あのアキレスの戦いぶりを見てないからだ。 
あの男は…戦う為だけに生まれてきたような男だ。自分の死さえ恐れていない。
そういう奴のほうが戦いにくいんだよ…」


ヘクトルの言葉に、パリスは思い切り息を吐き出すと、


「…そんな…そんな男の元に…僕はを返そうとしてたんですね…」 


と呟いた。
ヘクトルは、少し微笑みながらパリスの頭に手を置き、クシャっと撫でると、


「やはり…手放したくなくなったか?」 


と聞いた。
パリスは真剣な顔でヘクトルを見ると、


「それは…ずっと思ってる。でも…の気持ちを思えば…好きな男の元へ帰してやった方がいいって思ったんだ…。 ―でも…」
「でも…何だ?」


パリスはちょっと苦笑して、


「あの夜…が戻って来てくれた時…凄く嬉しくて…もう帰したくないって思ったよ…。
あれから毎日…は僕の傍についててくれて…優しくしてくれる。僕が勘違いするほどにね…?」
「パリス…」


ヘクトルは寂しげに呟くパリスを見て胸が痛くなる。
パリスは少し俯くと、


「分かってるんだ…。僕の傷が癒えれば…きっとはアキレスの元へ帰ってしまうって事くらい…
だから…あんな風に傍にいてくれると…凄く辛くなったりする事もある…。でも、それでもが優しいから…今日だって、つい…」


そこでパリスは言葉を切って少し顔を赤らめる。
ヘクトルはパリスの方を見て「つい…?」 と聞いた。
するとパリスが照れたようにヘクトルを見た。


「つい…だから…キス…しちゃったり…?」 


何やらモゴモゴと呟くパリスらしかぬ言葉にへクトルは少し驚いた。


「そんなもの…お前なら当然だろう?(!)何を今更…」


呆れた顔で、そう言うヘクトルに、パリスは目を剥いた。


「んな…っ何を失礼な…!僕はそんな…!……男だったかもしれないけど…(!)
でも…っ今は…に触れるのでさえ…怖いんだ、ほんとは…。 優しくして貰うのが辛いと思いながら…
心のどこかで、冷たく拒否されるのが怖い…って思ってる…。矛盾してるだろ?」
「パリス…」


パリスの悲しそうな顔に、思わずヘクトルは立ち止まった。


「お前…彼女を帰したくはないんだろう?」
「そ、それは…」
が優しくしてくれるのは…同情からだと思ってるのか?助けて貰ったから、と感謝の気持ちだけでそうしてるとでも?」


その言葉にパリスは答えない。
ヘクトルは少し溜息をつくと、


「パリス…は本当に、お前の事を心配して戻って来てくれたんだと…俺は思うけどな?」


ヘクトルがそう言うとパリスがやっと顔を上げた。


「兄上…」
「彼女の態度を見ていれば…分かる事もあるんじゃないのか?」
「で、でも…それでもは僕の元から、いつかは…」
「いいから…。暫く二人で過ごせるんだ。そう焦って答えを出そうとするな。お前の悪い癖だぞ?
一緒に過ごせば…だってお前の事を見てくれるかもしれない…
それと…変な事を聞くが…お前が彼女にキスをした時…彼女は怒ったのか?前の様に」


その質問に、パリスは困惑したような顔で視線を彷徨わせると、


「いや…それが…僕も驚いたんだけど…怒らなかった…よ…?
戻って来てくれた時から…前ほど怒らなくなって…。今日は…黙って僕に体を預けてた…ような…」


パリスは少し顔を赤くしながら、そう言った。
ヘクトルは、その言葉に、ニッコリと微笑んだ。


「ならば…凄い進歩じゃないか。の心に…お前が入り込んできたからだと思わないのか?」
「そ…れは…思わなかったけど…。いやっ思いそうにはなったよ?でも…もしかしたら…って…」
「何だ?彼女が同情でお前に唇を許したとでも?」
「い、いや…そういうわけじゃ…」


パリスは困ったような顔で、視線を泳がせている。
そんな弟を見てへクトルは、ちょっと苦笑すると、「お前…かなり遊んできたのに…女心には疎いんだな?」 と言ってパリスの肩をポンと叩いた。


「兄上…そんな遊んできただなんて…人聞きの悪い…っ」
「だって本当の事だろう?お前の手の早さはトロイで一番だったからな?」


ヘクトルは笑いながら顔を赤くしているパリスを見た。


「そ、それは…若かった頃の話で…今は一筋だよ…っ」
「お前…!若かった頃って、ついこの前の事だろう?ったく…と会ってお前は変わったんだ。
に出会って本当の愛情というものが何なのか分かったんだろう?」
「………っ」


ヘクトルにそう言われてパリスは言葉を詰まらせ、ちょっと頭をかくと小さく頷いた。


「確かに…そう思うよ…。人を愛するって…こんなにも心が温かくなるんだって…初めて知った。
の為なら…僕は何だって出来るって思ったよ…」


パリスの言葉に、ヘクトルは優しく微笑むと、


「そうだ。そしてお前は彼女のために死ぬ覚悟をしてまで、メネラオスと戦ったんだ。
その気持ちを…が一番分かってるんだぞ?それを忘れるな…」
「兄上…」


その言葉に、パリスは胸が一杯になり、ヘクトルの胸に顔を埋めた。
ヘクトルは、パリスの頭をそっと撫でながら、


「分かったなら…お前はの傍にいろ。怪我を治す事と…の心を自分に向かせることだけを考えろ。
戦のことは…今は忘れてな?」


ヘクトルの優しい言葉にパリスは顔を上げると、「分かった…」 と一言呟いた。


「なら早く部屋へ戻れ。を一人にしておく気か?」
「あ…うん…。でもきっと、寝てるよ…。夜中も僕に付きっきりで看病してくれてたし…」
「そうか…じゃあ、ゆっくり休ませてやれ。それと…襲うなよ?」


ヘクトルの言葉に、パリスは一瞬で顔を赤らめると、「そんなことしないよ…!」 と焦っている。
ヘクトルは苦笑しながら、


「じゃあ…お前も休め。まだ無理しちゃいけないのに会議に顔を出すなんて無茶だぞ?」 


と言うと、手を上げながら自分の部屋へと戻って行った。


パリスは、その後姿を見送ると、すぐに自室まで急いだ。







の心が…僕に向いている…とは自信がなかった。
確かに今日、キスをしても怒らなかったけど…
あれで僕は精一杯の我慢をしたつもりだった。
の心が僕になくても…今だけ…傍にいてくれる間だけは…触れ合っていたい…そう思ったから…
怒られても仕方ないとさえ思っていたのに、は僕の腕に身を預けてきて本当に驚いた。
でも…凄く嬉しくて…愛しさが溢れて苦しいくらいだった。


それでも、の心に僕が…とは思わなかった。
と言うより、また変に勘違いとかしたくなかっただけなんだけど…


いつかは…ここを出ていくんだ…と言い聞かせるようにして、今日までと接してきた。
だが…アキレスの話を聞けば聞くほど…彼の元へ帰すのが不安になってくる。
僕は…どうしたらいいんだろう…


そう思いながら歩いて来たら、すぐに部屋についた。
パリスは静かにドアを開け、中へと入って、ゆっくり寝台の方へ歩いて行く。
が、スヤスヤと眠っているのが見えて、パリスは思わず微笑んだ。


「やっぱり…疲れてたんだ…」


そう呟きながら、寝台の端へ腰をかけると、の寝顔を覗き込んだ。
すでに暗くなりつつある部屋に夕日が差し込んでいて、を照らしている。
その寝顔にパリスはいつもの如く見惚れてしまう。


「ほんとに…奇麗だ…」


つい言葉に出して呟く。
の頬をそっと撫でて長い金色の髪を指で掬うと、サラサラと流れて落ちていく。
その髪、一本でさえも愛しく感じる。
パリスは、胸が苦しくなり少し息を吐き出すと、「…ずっと…僕の傍に…」と呟き、そっとの頬に口付けた。
するとの睫毛がピクっと動き、ゆっくりと目が開いていく。


「ん…パリ…ス?」


パリスは名前を呼ばれてドキっとした。
起こしてしまった罪悪感と、が目覚めて、すぐに自分の名を呼んでくれた嬉しさで、パリスは慌てるも、


「…?」


と、小さく名前を呼んで、の顔を覗き込む。
すると、まだ寝ぼけているのか視線を彷徨わせていたは、ゆっくりとパリスの方へ顔を向け、そして微笑んだ。


「パ…リス…おはよ…戻ってたの…?」


その笑顔に、また見惚れつつ、パリスはの手を軽く握って、


「うん…今…。ごめんね?起こしちゃって…」 


と言うと、握っている手に優しく口付けた。


「ううん…。あ…もう…夕方…やだ…寝すぎちゃった…」


は窓から入る夕日に気付き、慌てて体を起こした。


「あ…まだ眠いなら寝ててもいいんだよ?」


パリスはの肩を軽く抱き寄せると、そう言って微笑んだ。
はちょっと苦笑して、


「ううん…かなり寝ちゃったもの…。それより…パリスの食事の用意とかしないと…」 


と言って、パリスの腕から離れようとする。
それを慌てて止めると、


「そんな…いいよ…。レイアにやってもらうから…。は休んでてよ」 


と言って頬に口付けた。
は一瞬、ドキっとした顔でパリスを見ると、軽く首を振る。


「ううん…それは私がやりたいの。じゃないと私がここにいる意味がないでしょ?」 


その言葉にパリスは胸がズキンと痛むのを感じた。


(やっぱり…は僕の看病の為だけに、ここへ戻って来たの…?)


そう聞きたいのに聞けない自分が歯痒くて、パリスはちょっと溜息をついた。
それに気づき、はパリスの顔を覗き込み、「大丈夫?会議…疲れたんじゃない?」 と心配そうにしている。


「あ、いや…そんなんじゃ…」
「あ…会議…どうだった?どんな話をしたの?」


に、そう聞かれ、パリスはドキっとした。


まさか明日の夜、ギリシャ軍の陣営に、また奇襲をかけるとは言いにくい…
その中にアキレスだって、いるのかもしれない。


「いや…そんな大した事じゃない…」
「そうなの?パリス…まさか…戦場へはいかないでしょ?」


心配そうなの顔に思わずパリスは顔を緩ませると、


「うん…行かないよ?兄上も今は怪我を治す事だけ考えろって言ってくれてね…。だから今は行かない」
「今は…?」
「………あの…」


パリスは、の不安げな瞳と目が合い、何と言っていいのか困ってしまった。
すると、はそれを察したのか、少し目を伏せると、「ごめんなさい…。私が口を出す事じゃないわね…」 と呟いた。
そのの表情がパリスの胸に軽い痛みを走らせ、思わずギュっと抱きしめてしまった。


…僕は…君が好きだよ? ―は…」
「え…っ?」


驚いたように、は顔を上げてパリスを見た。
パリスは優しく微笑みながら、の額に口付けると「何でもないよ…。ちょっと言いたくなっただけ」 と言って、そっと肩を抱く腕を離した。


「さ、食事にしようか?も、お腹空いたろ?今日は部屋じゃなくて…またテラスで食べよう」


そう言って寝台から立ち上がるパリスに、も慌てて立ち上がると、「怪我…大丈夫?」 と聞いた。


「うん。少しズキズキするだけだし…ジっとしてるより少し動いてた方が気が紛れるんだ」
「そう…じゃ…私、用意してくるから…」


は、そう言うと急いで部屋を出ていった。
パリスが声をかける間もない。


「ふぅ…」


パリスは少し息を吐き出し、テラスへと出ると真っ赤に沈み行く太陽を見つめた。


さっきは思わず…聞いてしまいそうになった。


"は…?僕のこと…どう思ってるの…?"


こんな事を聞いて…もし気まずい顔をされたら立ち直れないかもしれないと言葉を飲み込んでしまったけど…
もし…聞いていたら……君は…それには何て答えてくれたんだろうか…?




パリスはそっと胸を抑え、苦しさを堪えるように、ギュっと目を瞑ったのだった。










「パリス…?薬湯貰ってきたわ?」


は部屋に入ると、パリスはすでに横になっていた。


「あ…ありがとう」


に気付くとすぐに体を起こし、薬湯を受け取る。
それを鼻をつまんで一気飲みすると、「うぇ…っ」 と顔をしかめる。
はクスクス笑いながら、空になった杯を受け取り、テーブルの上に置いた。


「もぉ…すぐ笑う…ほんと苦いんだからね?この薬湯…」
「そ、そりゃ匂いが匂いだから何となく味も分かるわ?」
「はぁ…食後のこの薬湯だけが憂鬱だよ…」
「でも飲まないと…傷で体も弱ってるし熱も出やすくなってるんだから・…」
「は~い」


何だか子供の様に返事をし、すぐ寝台に横になるパリスに、は苦笑しながら、


「先に寝てて?私、湯浴みに行ってくるから…」 


と声をかけた。


「うん。でも起きて待ってるよ」


パリスは笑顔で、そう言って本を手にとった。


「え…で、でも…」
「まだ眠くないんだ。だから気にしないで、ゆっくり入って来て?」


優しく微笑むパリスに、はちょっと笑顔を見せると、「分かった。じゃ…行ってくるね?」 と言って、そのまま部屋を出た。













チャポン…


そっと湯を手で掬うと指の間から、すぐに零れていくのを見て、は少し息を吐き出した。


今の自分は、いったい誰が好きなのか…何度考えてもハッキリした気持ちが見えない。
アキレスの元へ帰ろうとしている自分…
パリスの元へ留まりたいと思っている自分…
どっちが本当の私なの…?前の私なら…絶対にアキレスを選んでただろう。
というか、こんな事すら悩まなかった。


「はぁ…私って、案外いいかげんなのね…自分の気持ちが分からないなんて…」


そう呟くと湯から上がり体を拭いて軽く香油を塗った。
レイアには内緒で湯浴みに来たので自分でやるしかない。
と言うか、人に体を洗われるのが苦手なのだから、自分でやる方が楽だった。
パリスがの為に、と用意してくれた夜着を身に纏い、は風呂場を出ると暗い廊下を歩いて行った。
その時、人の気配がして、ハっと振り返ろうとした時、急に口を手で塞がれ驚く。


「んん…っ」
「シィ…様…。私です」
「………っ?!」


その声でアキレスの部下だと気付いたは、小さく頷いた。
すると、すぐに口を解放される。
静かに振り向くと、トロイ兵の格好をした、あの男が目の前に傅いていた。


「驚かせて申しわけ御座いません…」
「あ、い、いえ…」


そう言いつつも、まだ心臓がドキドキしている。


「あ、あの…何か…あった?」
「いえ…ただ様が、どうしておられるかアキレス様が心配されているので…」
「え…アキレスが…?」


はドキっとして、その男を見た。
その男は少しを見上げると、


「どうして…アキレス様の元へ帰れたのに…ここへ戻ったのですか?」 


と聞いてきた。


「え?そ、それは…」
「パリスに恩を感じるのは分かりますが…でも…」
「あ、あの…恩を感じて…っていうか…」


そこで言葉が詰まった。
パリスが心配で…と言った所で仕方がない。


「あの…私なら元気だからと…アキレスに伝えてくれる?」
「はぁ…。それは…」


その時、はふと思い出し、男に聞いてみた。


「あ、あのね…?この前、私を門の外に連れ出してくれたアイリスって女性に…頼んだのはあなた?」
「え?ああ…あの女ですか…。ええ、そうです。私の正体を見破られたので…代わりに利用しました」
「そ、そうだったの…」
「あの女は…様をパリスから引き離したかったようです」
「え?あ…そう…そうよね…、その気持ちは…分かるわ…?」
「あの…何か…されましたか?」
「いいえ…そうじゃないの。ただ何で彼女が…って少し気になってただけだから…。あ…私、早く戻らないと…」
「では、お気をつけて…。何かあれば、すぐに救出しに行きますので…」


男は、そう言うと、すぐに廊下の向こうに姿を消した。
は知らず緊張していたらしい。
一人になると思い切り息を吐き出した。


「はぁぁ…驚いた…」


胸を抑えつつ、部屋へと急ぐ。


アイリス…やっぱり私が邪魔だったのね…
そりゃ、そうよね…?
好きな男性に、いきなり私みたいな女が現れて、婚約したと聞けば…嫉妬だってする気持ちは分かる…
彼女は…本当にパリスが好きなんだ…


そう思うと胸の奥がキリキリと痛むのを感じた。


部屋の前まで来ると一度深呼吸をして、そっとドアを開けた。





「パリス…?」


薄暗い部屋の中に、蝋燭の明かりが揺らめいていて、の影を大きく映し出している。
は静かに寝台の方へと近づくと、パリスは体を起こしたまま本を胸に、目を瞑っている。


(眠ってしまったのだろうか…?)


は静かに寝台の上に上がると、そっとパリスの方へ這って行った。
おなかの上に倒れている本をよけようと、そっと手を伸ばし本を取る。
その時、ぐいっと手首を掴まれ軽く引っ張られた。


「キャ…っ」


は体のバランスを崩し、パリスの胸元へ倒れ込む。
と同時に、「…い…っつ…」 と怪我の痛みで顔を歪めるパリスが視界に入った。


「あ…パリス…痛い?」


は慌てて体を起こそうとするも、それをパリスが抑えて、「大丈夫…」 と微笑んだ。
は内心、ホっとするも、「もう…っ危ないでしょ?今、あなたは怪我人なのよ?急に引っ張らないで」 と口を尖らせた。
そんなにパリスは優しく微笑むと、「だって…がいない間、寂しかったんだ…」 と呟いた。
は、その言葉に少しドキっとするも、「そんな…少しの時間じゃない…」 と苦笑した。
するとパリスは起こしてた体を横にして、の方へ手を差し出す。


「え?」
「一緒に寝るだろ?」
「あ…う、うん…」


パリスの言葉に、一瞬言葉が詰まるも、は大人しくパリスの隣へと横になった。
パリスは、の方に顔を向けて、そっと額に口付ける。
それにはドキっとしてパリスの方を見ると、パリスは愛しいとでも言うような顔でを見つめていた。


「な、何…?」
「ううん…いい匂いだなぁって…」
「え?あ…香油…?」
「うん。何だか…眠くなる匂い…」


パリスは、そう言うとの頬に手を添えた。
その感触に少しの顔が赤くなる。


「こうして…ずっと起きていられたらいいのに…」
「え?どうして…?」


パリスの言葉に、は首をかしげた。
パリスは優しく微笑むと、


「だって…こうして隣に寝ていても一度眠ってしまえば…僕らは離れ離れになる…。 ―それが怖いんだ…」
「……っ」
と…夢の中でも一緒にいれたら…いいんだけどね…」


そう呟くパリスの瞳は少し揺れていて、はドキンと胸がなったのが分かる。


パリスは、を少しの間、見つめると、そっと額に口付け、頬に口付け、最後に唇へと口付けた。
は体を硬くするも、優しくくり返される口付けの波に、徐々に体の力を抜いていく。
別に、頬に手を添えられているだけだから、逃げようと思えば逃げられる。
でもは、それをする事もなく、黙ってパリスの唇を受けていた。
その温もりを感じていると少しづつ眠りの中に引き込まれてゆく。


パリスは最後に唇をゆっくり離すと、艶やかに潤いを帯びたの唇にチュっと口付けて、


「…おやすみ、…」


と呟いた。
は、その時すでに半分眠りの中にいた。
自分では、"おやすみ、パリス…"と言ったつもりだが声には出なかった。





この安心感のある温もりに包まれて、は、ゆっくりと深い眠りの中へと落ちていった。












 

 



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今回は看病編1?(笑)
ちょっと互いの気持ちの変化に気付かずってとこですかねぇ。
うーん、微妙な心の変化の描写がむずい(笑)
次回は看病編2でも…ホホホ。
レイア、いい感じで小姑なみな仕事してます(笑)
サルちゃんも…んん~?あ~微妙…
すみません、今回何だかのらなくて微妙な話になってしまいました(汗)