TROY

第八章:接吻







それは紀元前3000年…
古代ギリシャとトロイで起こった愛の物語…
























「なぁに?」
「やっぱり一緒に入ろうよ」
「………っ?!」
「ねぇ…」
「ダ、ダメ…っ」
「……何で?」


ちょっと悲しげにパリスが呟くが、は顔を真っ赤にしたまま、その問いには答えず、手だけ動かした。
やっと医師からの許可が出て、今は風呂場で、パリスの頭を洗っているところ。
もちろん彼は裸で、は衣装を着ているものの目の前に男性の裸の背中があれば、顔も赤くなると言うものだ。


だ、だいたい何で私がパリスの湯浴みを手伝ってるのよ…っ
レイアったら、「昨日言ったとおり、様にはパリス様の湯浴みを手伝って頂きます」 とか何とか言っちゃってっ!
純潔の私に何てことさせるのよ…っ


は口を尖らせながら、片手が動かせないパリスの変わりに、彼の髪を一生懸命に洗っていた。
今朝も色々パリスの世話をしていたのだが、昼も近くなった頃、レイアがやってきて、いきなり、さっきのセリフを言われた。
かなり抵抗したものの、レイアは聞く耳を持ってくれず、結局、諦めてパリスと二人で風呂場へ来たのだが…
そこは、やはり照れくさいのもあり、今、パリスは裸ではあるが腰にタオルを巻いて貰っている。
本来なら侍女がやる仕事で、パリスも普段は素っ裸で入れてもらうらしい…!
(さすが王子よね…って、恥じらいも何もないのかっ)
でもパリスも何だか照れくさそうで、そこは素直に言う事を聞いてくれたから、も少し安心した。
が…さっきのように甘えてこられると、やっぱり場所が場所で格好が格好なだけに、も抵抗がある。
何度かキスをされてはいても、それは、その場の雰囲気が、そうさせるのであって、だからこそ素直に受けられるのだ。


―因みには風呂で着る侍女用の衣装を纏っていた―



やだ…パリスったら子供みたい…
泡が目に入るのが嫌なのかな?ギュっと目を瞑っちゃって…。 ――でも…ちょっと可愛い。
くりくりっとした柔らかい髪に余すことなく指を通し、洗っていくと、はお湯の入った器を持ってパリスの頭から湯をかけた。


「う…っ」


頭からザバザバと湯をかけられ、パリスが変な声をあげる。
はちょっと笑いながら、「パリス?…目に入った?」 と声をかけた。
パリスはぷるぷると頭を振ると目を瞑ったまま、「大…丈夫…」 と途切れがちに呟く。
は苦笑しながら、何度か湯をかけて泡を全て洗い落とすとタオルで髪を拭いていった。


「はい、終り。次は背中を洗うね?」


パリスの背中にタオルを当てて、そう言うと、パリスは顔を拭きながら、そのまま大人しくしている。
は泡で溢れてるタオルを手にとり、そっとパリスの背中を擦っていった。
首から肩、そして背骨にかけて傷を避けながら丁寧に洗っていくと、パリスも気持ちが良いのか黙ったまま。
それでも少し腕が疲れて、が手を止めると、「、疲れたなら、もういいよ?」 と声をかけてくれた。


「ううん。大丈夫!それに背中は無理でしょ?」


が笑いながら、また手を動かした。
湯気で少し息が苦しくなってくる。
それを我慢して、そのまま背中から腰に巻いてあるタオル、ギリギリの方まで洗って行くと、パリスがピクっと体を動かした。


「あ、あの…もう…いいから自分でやるよ…っ」
「え?!でも…」


は戸惑うも、パリスがいきなり振り向いての手からタオルを奪った。
風呂場という事もあるが、それにしては何だか顔が赤い。


「パリス?あの…痛かった?」


傷口に当たってしまったのかと不安になった。
それにはパリスも慌てて首を振る。


「う、ううん。大丈夫だよ」
「じゃあ…どうしたの?急に…」


の問いにパリスは、ちょっと振り向くも視線を泳がせた。


「そ、それは…だからさ…」
「ん…?」
に…その辺、洗ってもらうと…その…ちょっと…まずいかなぁ?って…」
「…? ――何が…?」


瞳をくりくりさせて不思議そうな顔で聞かれれば、パリスもぐっと言葉が詰まる。
それでも必死に視線を反らし、


「だ、だから…っ。お、俺も男なわけで…。その…体が反応しちゃいそうなんだよ…っ」


と言うや否や、また、いきなり前の方を向いてしまった。
はパリスの言葉を少し考えていたが、その意味が分ると熱くて赤かった頬が別の意味で、今度は真っ赤になる。


「な、何てこと言うのよ…っ!」


そう言って近くにあった別のタオルでパリスの背中をバシっと殴った。


「ぃた…っ!な、何するんだよっ」


急に背中を殴られ、しかもそれが傷口に近かった事で、かなりの痛みを伴い、パリスも顔をしかめる。
それでも、は真っ赤な顔のまま、


「だ、だってパリスが変なこと言うから…っ。そ、それに、いつもは侍女の方達に入れてもらってるんでしょ?!
その時は平気なんじゃないの?!それとも、いっつも変なこと考えてるわけ?!」


と早口でまくし立てた。
それにはパリスも心外な!という顔での方に振り向き、更に叩こうとした手首を掴む。


「失礼だなっ。僕は普段は、普通に入れてもらってるよ!変な事だって考えてないっ」
「嘘よっ。絶対に考えてるわ?違うなら何で、あんなこと言ったのよっ。スケベ!」


「む…だから…普段は平気でも好きな子に洗ってもらったら誰だって意識しちゃうだろ?そんな事も分からないのか?!」


そう怒鳴って、思わず掴んでいたの手首を引き寄せると自分の腕の中へ押さえ込んだ。


「………っ?!」


パリスの言葉に思わずも赤面する。
しかも今は裸の胸の中に顔を埋めている状態で、更には恥ずかしくなった。


「は、離してよ…っ」
「嫌だね」
「な…っ何でよっ」
が鈍感だから」
「は?何言って…」
「せっかく…僕だって色々と我慢してるのに分ってもいないだろ?鈍感っ!」
「な…っ何よ!何の話してるのよ…っ」


が顔を上げて パリスから離れようと、強く胸元を押すとバランスを崩したパリスが湯に落ちそうになった。


「うわ…っ」
「…パリス…っ」


それを慌てて手を伸ばし掴むも、そのままも一緒に湯の中へと落ちてしまった。




ザバー―ンッ




「…ぅわ…ぷっ」
「キャァ…っ」


一瞬、湯の中に沈み、慌てて顔を出すが、いきなりの事で体勢が整わないのもあり、何度か沈んでしまう。
それをパリスが慌てて湯の中で彼女の手を掴んで自分の腕でを支えた。


!大丈夫?!」
「…ん…っゲホ…っ」


は思い切り気管に湯が入り、咽てしまった。


「ゲホ…っゲホッ…」
…?!」


パリスは心配そうに必死にの背中を擦っている。


「大丈夫?…?」
「ん…ゲホ…っ。だ、大…丈夫…コホ…」


やっと咳が止まるも、湯気の熱気と急に湯の中でもがいたからか、体が一気にだるくなる。
パリスは力が抜けていくの体を片手で支えると、「全く…急に押すから…」 と苦笑交じりで、の額にキスをした。


「ご、ごめんなさい…」


そこはも素直に謝り、パリスにしがみ付く。


「き、傷は大丈夫?」
「ああ、もう、そんな酷くは痛まないよ。塞がってるしね?」
「そう…良かった…」
「それより…。あ~あ…、服のまま入浴だよ?どうせだから、このまま一緒に入っちゃう?」


笑いながら言うパリスに、は顔が赤くなり慌てて体を離そうとしたが、パリスがそれを止める。


「ちょ…と…っ」
、フラフラしてるよ?危ないってば。湯気で逆上せちゃったんじゃない?」
「う、うん…少し頭がクラクラするけど…」


確かに…長い間、風呂場にいて、その熱気と今溺れかけたので一気に頭が朦朧としてきた。
頭の奥がツキーンとする。
でも、その前に…
パリスに抱きしめられてるという事実の方がの顔を熱くさせた。


どうしよう…パリス、裸だから顔を上げられない…
と言って、こうして胸元に顔を埋めていても同じなわけで…


ますます顔が熱くなって来て湯から上がろうと思った、その時、頬に手を添えられ、はドキっとした。
パリスの優しい瞳と目が合い、どんどん鼓動が早くなる。
思わず視線を反らすのに、パっと俯いた時、自分の胸元を見て、ギョっとした。
薄手の衣が濡れて半分透けている。


「キャ…っ」


慌てて両手で隠そうとした時、ふいに手を掴まれた。


「な、何する……ん…っ」


顔を上げた瞬間、唇を塞がれ、思考回路が止まってしまった。
パリスの熱い吐息を感じ、頬が上気する。
腰を強く抱き寄せられても抵抗する力もないまま、深く深く口付けられ、はパリスの事以外、考えられなくなった。


「ん……っ」


舌で口内を愛撫され、そのまま吸い上げられると完全に立っていられなくなる。
それに気づいたパリスはの体を少し持ち上げ、湯の縁に座らせた。
パリスはそっと唇を離すと、そのままの首筋に唇を這わせ鎖骨の辺りをペロっと舐めていく。


「ン…っ。…パ…リス…」


は、その甘い刺激で体が震えてパリスの腕を掴もうとした。
だがパリスは突然、支えてたの腰から腕を離すと、最後に唇にチュっと軽く口付けて、
「ごめん…風邪引いちゃうね?」 と言って湯から一気に上がり素早く衣装を纏った。
そしてタオルをの肩からかけて体を隠すようにすると静かに風呂場から出て行った。
は驚いたように、その場に座り込んでいたが確かに体が冷えてきて、クシュンと小さなクシャミをして軽く溜息をつく。


「はぁ…」


まだドキドキが納まらない…それに…何だか頭がクラクラする…。
私…。一瞬、あのまま抱かれてもいいって思った…?
何も考えられなくなって…アキレスの事さえ思い出さなかった…


やだ…私…


そう思った時、の大きな瞳から一粒涙が零れた。
パリスに何もされなかった事が逆に悲しくなってくる。


どうして…急に行っちゃったの? そう思ってる。
それに・…パリスってば前と少し様子が違う…
それが胸を痛くさせる。


(私…パリスのことが…)


は次々に涙が溢れてきて両手で顔を覆った。



「…好き…?」


小さく呟く自分の声すら聞こえないくらいに頭の奥がキーンとする。
さっきよりも頭が朦朧としてきて意識が遠のいてきた。


「パリス…」


は、そう呟いた瞬間、その場に蹲ってしまった。




















―その数分前




「ああ…っ湯気でよく見えない…っ」
「おい…レイア…」
「何?サルベードン」
「お前、ほんと覗きはやめておけよ…」


風呂場の前の廊下に立ちながら、呆れ顔で呟くサルベードンの方に、レイアが鬼のような形相で振り向いた。


「何言ってるんですか!お二人が愛し合うかどうかの瀬戸際なんですよ?これを見届けなくてどうするんですか!」
「お、おい、見届けるってお前…」
「最近はいい雰囲気だし私はきっと様もパリス様にお心を開いてると思うの。だったら今のうちに畳みかけないと!」


力強く、そう言ってレイアは握りこぶしを振り上げた。
そして、またすぐドアの隙間から風呂場の様子を伺う。


「たたみかけるって、そんな…。 ―はぁ…」


サルベードンは張り切るレイアの後姿を見ながら苦笑した。
レイアは、そんなサルベードンを気にもしないで、何か聞こえないかと耳を済ませている。
その時、いきなりパリスが中から歩いて来て、レイアは慌てた。


「わ…っパ、パリス様…っ」
「うわぁ…っ!な、な、何してるんだ!」


パリスがレイアに気づき、顔を真っ赤にした。
レイアは慌てて頭を下げると、


「すみませんっ。あ、あの…私…」


そう言いながら、待てよ…?と、ある事に気づいた。
そしてすぐに顔を上げて、パリスをマジマジと見つめる。


「な、何だよ…レイア。その人を観察するような目は…」


少し後ずさりながら、パリスがそう言うと、レイアは目を細めて、


「パリス様…」
「な、何だよ…」
「もしかして…様を抱いてらっしゃらないとか?」
「…っ?! な、何を急に…っ!!」


パリスは顔を真っ赤にしてレイアから視線を反らした。
それに構うことなくレイアはパリスの前に、ズンズン歩いて行くと、


「やっぱり!もぉ何をしてるんです?折角様と一緒に風呂へ入ってもらったのに!思い切って押し倒して下さいませ!」
「バ、バカな事を言うな…っ」


レイアの爆弾発言に、パリスは耳まで赤くなり、ますます後ろへ下がって行く。


「あら…どうしてバカなんですか?だってパリス様は、様の事を愛してらっしゃるんでしょう?
私はパリス様に、本当に愛した方と結婚して幸せになって欲しいんです。だから…」
「ちょ、ちょっと待ってくれ…レイア…っ」


必死に訴えてくるレイアを止めると、パリスは大きく溜息をついた。


「お前の…その気持ちは嬉しいよ…。でも…その期待に答えられないかもしれない。すまない」
「え?そ、それは、どういう事ですか?!」


レイアが悲しそうな顔で問い詰める。
それにはパリスも少し苦笑すると、風呂場の方へチラっと視線をやり、レイアを促すように廊下へと出た。
そこで、サルベードンが、すぐに傅く。
パリスは、ちょっと息を吐き出すと、レイアの方を見た。


は…僕の怪我が治れば…きっとギリシャへと帰ると思うんだ」
「え?そんな事は…っ」


そう言いかけるレイアを、パリスは手を前に翳し、静止すると、


「確かに…戻っては来てくれたけどそれは僕の事を好きだからとかじゃない。きっと変に恩を感じてるのかもしれない…」
「パリス様…」
「僕は…に帰っては欲しくないけど…。は帰りたいと思ってるんじゃないかって…それに彼女には好きな男もいる」
「そんな…っ」
「だから…いつか会えなくなるという覚悟を今からしておかないといけない…。なのに彼女を抱いてしまったら…
僕はきっと彼女を…を、その男の元へは返せなくなってしまう。 ―だから、さっきも…抱けなかった…。
それに、やっぱり拒否されるかもしれないと思うと怖いしね?」


パリスは少しおどけたように笑うと、レイアの頭に、ポンと手を置いて、


「だから…せっかくチャンスをくれたのに悪かったね?」 


と言って微笑んだ。


「パリス様…そんな…」
「もう何も言うな。あ、に新しい着替えを持って行ってあげてくれ。ちょっと濡れてしまってね?」


パリスはレイアにそう言うとサルベードンを連れて歩いて行く。
レイアは、それを見送りながら思い切り溜息をつくと風呂場の中へと入って行った。


様…?あの…着替え持って着ましたけど…」


レイアは予め用意してあった衣を手に中へと歩いて行く。
何も返事がないのが心配になり、急いで風呂場へと入って行った。
すると香油を塗る時に使用する絨毯の上で、が蹲ってるのが見え、レイアは驚いて衣を落としてしまった。



様?!」


慌てて駆け寄り抱き起こすと、は赤い顔で息が荒い。
レイアは、そっとを寝かせると、また再び廊下へと走って行った。









「おい、サルベードン…何故、そんな珍しい動物を見るような目つきで僕の顔を見る?」
「え?あ…申しわけ御座いません…っ」


サルベードンは慌てて視線を反らすと、パリスは苦笑しながら、「何だ?何か言いたい事でも?」 と足を止める。
サルベードンは少し驚くも、そのまま自分も足を止め、軽く息を吐き出した。


「いえ…ただ私がパリス様に仕えてから、今日の今日まで目をつけた女性に手を出さなかった事がなかったものですから、
先ほどの発言に驚いたのと…。でも同時に感動いたしました」
「えっ?!」


いきなりサルベードンに、そう言われパリスは顔を赤くした。


「本当に様を…愛してらっしゃるんだな、と…。この前までは、ご病気かと思い心配で医師をと思って…あ、いえ…っ」


サルベードンが慌てて手で口を抑えると、パリスは赤い顔のまま、チロリと睨み、


「サルベードン…お前はそんなに僕の弓矢で射抜かれたいのかい?」 


と低い声で呟いた。
それにはサルベードンの顔から、サーっと血の気が引いていき、


「は…い、いえ…それだけは…ご勘弁を…っ」 


とパリスの足元に傅いた。
それを見て、パリスは、ぷっと吹き出すとサルベードンの肩をポンポンと軽く叩いた。


「嘘、嘘。冗談だよ?全く君は相変わらず真面目だなあ…」
「は…っ。申しわけ御座いません…っ」
「やだな、別に謝らなくても…」


と言いかけた時、後ろから、「パリス様!」 とレイアが凄い勢いで走って来た。


「レイア…?何だ?どうした、そんな怖い顔して…」
様が!」
「えっ?」
様がお風呂場で倒れてらして…っ。ど、どうしましょう?!」


そのレイアの言葉が言い終わらないうちにパリスは元来た道を走り出していた。
それにはサルベードン、レイアも続く。


?!」


すぐ風呂場に飛び込んで、倒れているを見つけると、パリスの心臓がドクンっと大きく揺れるように鳴った。
急いでの元へ駆け寄り、抱き起こせば、息を荒くして苦しそうなの顔に、パリスの胸が更に痛み出す。


「パリス様…っ!すぐに医師を呼んで参りますっ」
「ああ、頼む!僕は部屋にを運ぶっ」


パリスはレイアに、そう告げると左肩の傷が痛むのも無視して素早くを抱き上げた。
そして、まだ濡れた衣装のままだと気づくと慌てて肩からかけてあったタオルで胸元を隠す。


「パリス様!傷に障ります!私がお運びしますから…っ」


サルベードンがパリスを気遣い、そう言うもパリスは首を振った。


「いい。僕が運ぶ…。例えお前でも…に触れさせる事はできないんだ。 ―すまない…」
「はっ。いいえ…出すぎた事を言いました」


サルベードンは少し微笑むと、先に風呂場を出てドアを支えた。


「さ、早く…。多分、逆上せたんだと思います。体を冷やさないと…」
「うん」


パリスは頷くと、すぐに廊下に出て自室へと向かった。
知らずを抱える腕に力が入る。
傷の痛みは、もう感じなかった。


…ごめん…
俺が君を置いて出て行ってしまったから…
足元がフラフラしてたのを気づいていたのに…っ


パリスはが心配で鼓動がドキドキと早くなるのを感じた。


ただ逆上せただけだと思っても、苦しそうなの顔を見ると胸が引き裂かれそうなほど痛んだ――













その頃、へクトルはギリシャ軍に奇襲をかける準備に追われていた。
この前の奇襲でギリシャ軍も見張りを厳しくしたので、安易に近づけない。
それなら…と兵士に大量の藁を集めさせ、それを大きな玉にしていく作業を命令した。
その玉を何個も作って、それで襲うというものだ。
近づけないのならば遠くからダメージを与えてやればいい。


「へクトル様!」
「ああ、アイネイアス…そろそろ揃ったか?」
「はい。後は夜を待つだけです」
「そうか…」


へクトルは少し溜息をついて薄暗くなりかけた空を見上げた。
それを見ていたアイネイアスが、へクトルの足元に傅くと、


「へクトル様…。この奇襲…あまり乗り気じゃないのでは?」 


と問いかけた。
へクトルは、ふっと微笑むと、アイネイアスの方に振り返る。


「ああ…。何だか…嫌な予感というのか…。胸騒ぎがするんだ…上手くいえないんだが…」
「いえ、分ります。私も同じ事を思っておりました」
「何も…わざわざ、こちらから戦いを仕向ける事もないと思うのだが…」
「そう思います」
「まあ…側近たちが決めた事だ。従うしかあるまい…」


へクトルは、そう呟くと、「さ、戻ろうか」 と言ってトロイ兵が作業してる方へと歩いて行った。








すっかり日も暮れてへクトルは先ほど兵士達に作らせていた藁の玉を全て丘の上に配置させ、その前に射手隊を並ばせた。
射手隊の前には火が焚かれている。


「よし…じゃ射手隊、矢に火をかけ、なるべく色々な方向へと飛ばすんだ。 ――あとの事は分ってるな?」


へクトルが後ろで待機してる兵士達に声をかける。
兵士達は黙って頷くのを確認すると、へクトルは後ろへと下がった。


「やれ」


その声を合図に一斉に火矢が夜空へ向かい、そのまま弓なりに撓ると遥か下に見えるギリシャ陣営の周りに落ちて行く。
暗闇で光を放つ火矢がどんどん増えていき、それにやっと気づいたギリシャ兵達がぞろぞろテントから出て来るのが見えた。


「トロイ軍だぁー!」起きろ~!」


遠くで、そんな声が聞こえた。
かなりの量の火矢が飛んだのを見て、へクトルは右手を翳した。
すると後ろで待機していた藁の玉を抑えてる兵が前へと出る。
そして一斉に大きな藁の玉を目の前の坂へと転がした。
その大きな玉は勢いよく坂を転がっていくと、先に落としていた火矢の上を転がっていく。
すると一気に火が藁の玉へと燃え移り、ただの藁の玉は巨大な火の玉と化してギリシャ陣営を襲った。
一つ…二つ…三つ…四つ…
玉を次々と転がして火の玉を増やしていき、それが、またギリシャ兵のテントを遅い、なぎ倒し一気に燃え移る。
真っ暗だった浜辺が今では昼間のように明るくなって、へクトルは黙って、燃え盛る陣営を見つめていた。




















一方…ギリシャ軍では…




「おい!何とかしろ!このままだと全滅するぞ!」
「は…っ。そ、それが怪我人が多くて、反撃するには人数不足で…」


ギリシャ兵の一人がアガメムノンに傅いた。


「アキレスは何をしている?!あいつの兵も出すように言え!」
「そ、それが…どこにも姿が見当たりません…っ」
「何だとぅ?!くそう…っ。オデッセウスは何をしているんだっ!」


アガメムノンは腹立たしげに近くの椅子を蹴り上げる。
と、そこへ一人の若い兵士が頭から血を流しながら、飛び込んで来た。


「王!トロイ兵が…っ」
「なんだっ?!」
「ほぼ、この辺のテントを焼き尽くした後に一斉に兵を引きましたっ」
「チッ…。一気に攻めてこないとは…へクトルらしいな…っ。で?無事な兵士達は?」
「かなりの負傷者が出ましたが、オデッセウス様の軍は何とか無事のようです!あとは…」
「アキレスの軍か?」
「は、はぁ…それが…」
「ふん…どうせ戦いに来なかった…と言うのだろう?」
「はい…」
「くそっ。忌々しい男だ…!あの男が出張りさえすれば…何とか…戦に引っ張り出す方法はないものか…」


アガメムノンはイライラと部屋の中を歩き回る。
すると側近の一人が呟いた。


「ひょっとしたら…」
「ん?何だ?」
「いえ…実は、この戦にアキレスの従兄弟が来ていまして…」
「従兄弟だと?」
「はい。何でもパトロクロスとかいう若者で…アキレスが剣の稽古をつけたりと、かなり可愛がってるようです」
「ふん、あの男でも人に剣の稽古なんぞするのか?珍しい事もあるもんだ。それで?その若造が何だと言うんだ」
「ですから…」


その側近はアガメムノンの近くまで行くと何やら小声で耳打ちをした。
すると…


「八ハッハ…!そうか…。それはいい!」
「どうでございましょう?」
「よし…それでやってみろ。上手く行けば…邪魔な男が一人消える…それだけで…この戦に勝ったようなものだ」
「はっ。では早速…」


ニヤリと笑って側近はテントから足早に出て行った。
残ったアガメムノンは、まだ愉快そうに肩をゆすって笑いながら王座へと座り、ぶどう酒の入った杯を、ぐいっと呷る。


(ふん…今に見てろ…呑気に構えてられるのも…今のうちだぞ?)


アガメムノンはニヤリと怪しい笑みを称えつつ、残りの酒を一気に飲み干した―
















アキレスは真っ赤に燃え盛っているギリシャ軍のテントを少し離れた場所で見ていた。


「ふん…へクトルも、なかなかやるな?」


ちょっと苦笑しながら呟くと、


「本当に行かなくていいので?」


アキレスの部下、エウドロスが隣で聞いてくる。


「いいんだ。俺はもう…あの王の為には戦わない…。そう決めたんだ」


アキレスがトロイ城の方を見ながら、そう言うと、エウドロスも察したように黙って自分のテントの方へ戻って行った。


夜風が強くなってきて勢いよくアキレスの夜着が風に靡いた。
髪をかきあげ、ゆっくりと丘を下りていく。


…今、お前は、あそこで何をしているんだ?
無事で…いるんだろうか。
何故か無性に胸騒ぎがする…
何か…良くない事が起きそうな…


そんな事を考え、ふと苦笑した。


何を、こんなに弱気になっているんだ?
俺らしくもない。
と一緒に帰ると決めた途端…弱い心に支配されたとでも…?
前なら…死ぬ事さえ怖くはなかったのに…


アキレスは軽く頭を振ると、もう一度トロイ城の方を見た。


…早く…戻って来い…」



小さく呟いた言葉が海風に消えて行った―























トロイ城内―




は意識が戻った途端に酷い喉の渇きに襲われた。


「う…ん」


(水…水が飲みたい…喉が渇いて死にそう…)


苦しくて頭もだるいし体もだるさのあまり動かない。
は何とか目を開けようと顔を少しだけ動かした、
その時、冷たいものが額を包み、その後に頬に何か暖かいものが触れた。


…」


優しく自分の名を呼ぶ声が聞こえ、は意識がはっきりとしていく。


「ん…水…」


カラカラに乾いた喉の奥から、これまた乾いた声を何とか押し出した。
そして重たい瞼を何とか少しだけ開けてみるとボヤーっとした影が視界に入る。
少しづつ開いていけば、それがパリスだと分った。


?!僕が分る?」


心配そうな顔で覗き込んでいるパリスに、コクンと小さく頷くと、彼の顔が一気に安堵の表情に変わる。


「あ…水って言ったよね?ちょっと待ってね?」


パリスはそう言うと水を杯に注ぐと、の手を握った。


「持てないかな…?」


そう呟くと、パリスはの肩を少し抱き起こして自分は寝台の端へと腰をかけた。
そのまま寝台の上に上がりを自分の足の間に入れて腕の中へ納め、寄りかからせる。
水の入った杯を持ち、パリスは、それを少しだけ口に含んだ。
そのままの顎を持つと、口移しで彼女の口に水を流し込む。


コクン…


が上手に飲み込んだのが分ると、「…まだ飲むかい?」 と聞いてみる。
が小さく頷くと、パリスはまた口移しで水を飲ませてあげた。


「ん…っ」


全て飲み込めなかった水がの顎を伝って流れていく。
パリスは、それをタオルで拭いてあげると潤いを取り戻した、の唇に優しく唇を重ねた。
そしてすぐ離すと、の頭をそっと撫でてあげる。


「ん…パリス…私…どうしたの…?」


喉の渇きを満たされ、は完全に意識を取り戻したようだ。
パリスは、ホっとした途端、軽く息を吐き出した。


、さっき風呂場で倒れてたんだ…。きっと長い間、熱い場所にいたから逆上せちゃったんだね?」
「そう…なの?…そう言えば…頭が朦朧としたわ…息も苦しくて…それから…覚えてない…」


は、まだ少しだけ赤い頬を自分の手で抑え、そう呟いた。


そして…そうだ。
パリスの態度が悲しくて…胸が苦しくなったんだった…


は先ほどの胸の痛みを思い出していた。
すると―


「ごめん……」
「え…? ―どうして…パリスが謝るの…?」
「だって…は僕の世話をしてくれたし疲れてたんだよね?そこに風呂場で長い時間、頭とか洗ってもらってたし…
体が弱ってる時に、あんな熱い場所にいれば…逆上せて当たり前だよ…
なのに僕は気づいてあげられなくて、を置いて先に出ちゃって…ほんと、ごめん…」


パリスは、そう言うとの頬に軽く唇を押し付けた。


「そんなの…気にしないで…?パリスだって…私の為に戦ってくれて…そんな怪我までしたのに…」
…あれは…僕が勝手にやった事で…」


そう言いかけたパリスの唇に、はそっと指を当てた。


「何も言わないで…?」
…」


はちょっと微笑むと、体を起こそうとした。


「あ、ダメだよ、動いちゃ…。医師が今晩はゆっくり寝かせた方がいいって言ってたし」
「そんな…大げさよ?ただ逆上せたくらいで…」
「ダメ!逆上せたと言っても怖いんだよ?やっと体が冷えたんだから…さっきまで凄く熱かったんだ、の体…。
ほんと…心配だった…」
「でも、もう、さっきまでのダルさがとれたし…それにパリスを看病するはずが私がパリスに看病されてるなんて変よ?」


ちょっと笑いながらが言うも、パリスは少し怖い顔で、


「僕はもう動けるし…も、そこまで気にしなくていいよ…」 


と言っての額にそっと口付ける。
そして優しく彼女の髪を撫でながら、時折、頬を摺り寄せ唇で触れた。
は気持ち良さように瞳を閉じてパリスの体に凭れかかり安心したような表情を見せる。


凄く…心地がいい…
パリスの体温がかすかに伝わってくるのが分る…
さっきの悲しい思いが全て流されていってしまう…
そう…私はパリスが好きなんだ…
どうして?とか、アキレスが好きなのに…とか、そういう事を考えないで、今の自分の気持ちだけを素直に見つめると…
意外と簡単に出てきた答えだった…。
あんなに…腹立たしいと思ってた人を好きになるなんて思わなかった。でも―


きっと私の為に戦うと言ってくれた時から…勝っても負けても私をアキレスの元へ帰すと言われた時から…
私はパリスに心を許してたんだと思う…。


腹が立ちながらも、どこかで安心感を与えてくれた彼の温もりが…私の心を奪った…。
私は、いつも、どこかで不安を感じ、大好きなアキレスの事を心配していたから・…
こんなにも人の温もりが…安心感を与えてくれるなんて知らなかった。
これから、どうしようとか今は考えたくない…


今は…こうしてパリスの温もりに包まれていたいと思っていた。





…?寝ちゃったの…?」


パリスは黙ったまま瞳を閉じてるの顔を覗き込む。
するとは目を瞑ったまま、軽く首を振った。


「ううん…。起きてるよ…?」
「何だ、そっか…。眠たいなら言ってね?寝かせてあげるから…」


パリスがの頭を撫でながら優しく呟いた。
するとが、また小さく首を振る。


「こうしていたい…」
「え?」


パリスは、の言葉に驚き、少し体を起こした。
自分の腕の中にスッポリと納まっているの顔を覗き込み、「今…何て…言ったの…?」 と問いかけた。
はまだ目を瞑ったまま、「パリスの腕の中にいると…凄く安心するの…」 と小さな声で告げた。
それにはパリスも一瞬、固まって、それから顔を赤くした。


「え、えっと…あの…?」
「……なぁに?」
「それって…どういう…」


その問いに、は黙ったまま何も答えない。


…?」


もう一度、名を呼ぶと、がそこでゆっくりと目を開いた。
至近距離で目が合い、パリスはドキっとする。
すると、が少しだけ顔を近づけてパリスの頬に唇をつけてきた。ほんの少し触れる程度に…
その思いもかけない感触に、パリスは一瞬で固まってしまった。
はすぐに唇を離して、少し恥ずかしそうに俯いている。
パリスは顔が熱くなるのが分り、の腰にまわしている手までが固まってしまった。


「あ…あの……?」


やっとの思いで言葉を発し、の顔をもう一度覗きこむと、も照れくさいのか頬が赤く染まっている。
パリスは胸が熱くなり、ちょっと体勢を変えて、と向き合うような形にした。


…何度も言うけど…僕は…君が好きだよ?」


パリスのその言葉に、は、ドキッとしたように顔を上げた。
少し瞳が揺れているのが分る。
パリスは、の頬へ手を添えると、


「でも…が、いつかギリシャへ戻るなら…と思うと…怖くて聞けなかった…。は…」


そこまで言いかけると、いきなりはパリスの胸元に顔を埋めてしまった。
その行動にパリスは胸がドキンと鳴るも真意が分らず、もう一度声をかける。


「え…っと…?あの…」



















「…わ、私…も…好き」


















「へ?」






かすかに、本当に小さな声でが呟いた言葉に、パリスは自分の聞き間違いかと思い、変な声を出した。
慌てて、体を離し、の顔を覗き込めば、真っ赤になってギュっと目を瞑っている彼女が瞳に映る。


…今……何て……?」


己の願望から、幻聴が聞こえたのかもしれないと思い(!)確認するべく、パリスが聞いた。
でもは真っ赤な顔で、「も…言わない…っ」 と言って、またパリスの胸に顔を埋めてしまう。
ドキドキする音を聞かれてしまうと、パリスは変な事を心配しながら、それでもの言った言葉が聞き間違いじゃないと
分ると、途端に軽く眩暈を感じるほど、顔が熱くなった。


今…が…俺のこと…好きって…好きって言ってくれた…っ
これって夢じゃないよな?!




パリスは信じられないといった面持ちで軽く頭を振ると、を抱く腕に力が入った。
それにはの体もビクっと動き、少しだけ顔をあげて来る。
さっきと同じように至近距離で目が合い、パリスは少し潤んで揺れているの奇麗な瞳を見つめていた。


そして自然に二人の唇が重なる。
触れる程度の口付けに、パリスは心が震えて、それから、すぐ温かくなるのが分った。


今まで何度も重ねたはずなのに、まるで初めて口付けを交わしたように胸がドキドキと激しく高鳴り始める。
抱きしめるように腰にまわした両手でギュっと抱き寄せれば、がパリスの胸にそっと手を置く。
少し唇で唇をなぞるように触れては離し、軽く啄ばむように優しく口付けていき、少しづつ押し付けるような口付けに変わっていった。
するとの小さな手がパリスの胸元をキュっと掴んでくる。
その仕草でさえ愛しくて、何度も何度も唇を重ねてゆく。
チュ…っと時折、小さな水音をたてながら潤いを帯びたの唇を優しく愛撫する。
そして唇を重ねたまま、ゆっくりとの体を寝台の上に寝かせても、その行為を繰り返した。


相手の温もりを確認するように、二人は互いの唇を求めていく。




言葉はもう、いらなかった―



























ギリシャ陣営―







「俺は行かないぞ?」
「どうしてさ、アキレス!」


パトロクロスがアキレスに食って掛かる。
それでもアキレスは余裕の微笑で、酒を呷った。


「あんな王の為に戦うなんてアホらしいからさ。お前も、だいぶ剣は上達しているが実戦には、まだ早い」
「そんな事ないよ…!僕にだって戦える!その為に、ここまで来たんだ!」


若いからなのか、パトロクロスは戦いたくて仕方ないように見えた。
アキレスはちょっと息を吐き出すと、


「俺はお前を失いたくはない。いいか?絶対にへクトルの軍に報復すると言われても無視しろ。分ったな?」


少しきつく言うと、パトロクロスは唇を噛み締めてテントから飛び出して行った。


「ふぅ…。全く…困った奴だ…。殺し合いだって分ってるのか?お遊びじゃないんだぞ…」


アキレスは、そう呟くと寝台の上に横になった。
さっきの奇襲で、アガメムノンは絶対に報復を考えているだろう。
俺の軍なしでへクトルに戦いを挑めば…ギリシャ軍に勝ち目はない。
へクトルが指揮官を勤めるトロイ兵は、かなり纏まりがある。
あんな適当な戦術しか組めないアガメムノンが敵うものか。
そんな場所に、あいつをやるわけにはいかないからな…


そう思いながらパトロクロスを連れてきたのは間違いだったな…と思っていた。








「くそっ!何でアキレスは急に戦に出ないなんて言い出すんだよ…っ
僕はアキレスの役に立ちたいのに…っ。僕だって充分に戦える…」


そうボヤきながら、パトロクロスは自分のテントの方へ歩いて行った。


だいたいの事だって助けに行く様子もない…どうしてだ?
心配じゃないってのか?
僕なら…すぐに助けに行ってあげるのに…なら大丈夫だの一点張り…
何の根拠があるって言うんだっ


思い切り砂を蹴り上げて、自分のテントに入ろうとした時、後ろから肩を叩かれた。


「パトロクロスだな?」
「わ…っ。 ―は、はい」


振り向くと、王アガメムノンの側近が立っていてドキっとする。


「王がお呼びだ。一緒に来い」
「え?!王が…?!僕を…ですか?」
「そうだ。お前に…何か頼みたい事があるそうだ」


そう言われてパトロクロスは胸が高鳴った。


王自らが僕に頼みごと?!
こりゃ凄いや…
あの王に呼ばれるのは近隣の王達と、戦士の中ではアキレスだけだった。
その王が僕を名さしで呼んでいる…


アキレスは…戦には出るなと言っていたけど…僕だって兵士の一人としてギリシャの勝利に貢献したい。



パトロクロスは、そう決心すると、すぐに頷き、側近に連れられて、アガメムノンが待つテントへと歩いて行った――









「王…パトロクロスを連れて参りました」
「ああ、こっちへ連れて来い」


そう言われてパトロクロスは、堂々と王の前に歩いて行った。


「お前がパトロクロスか?アキレスの従兄弟だと聞いたが…」
「はい。そうです」
「そうか。まあ、堂々とした所は似ているな?」


アガメムノンは笑いながら、そう言うと、「何で呼ばれたか…分るか?」 と聞いた。


「いえ、あの…まだ聞かされては…」
「そうか…。いや実は…お前の従兄弟に少し困っていてな?」


アガメムノンは顎鬚を撫でながら、顔をしかめた。


「え?あの…アキレスの事ですか?」
「ああ、そうだ。この私が戦に出ろと言っても、嫌だの一点張りでな?これには私も、ほとほと困っている…
兵士達の手前、やはり我が国の兵士の間ではカリスマ的な存在だからなぁ…
アキレスが来てくれれば、士気も上がると思うんだが…」


そこまで言うとアガメムノンは、チラっとパトロクロスを見た。
パトロクロスも軽く息を吐き出すと、


「はい、あの…僕も今、一緒に戦おうと言ってきた所なんですが…やはり行かないと言うだけで…」
「そうか…。やはりな…。 ―そこで、だ…。お前に頼みがある」
「え?はい…。何でしょう?」
「まあ、そこじゃなんだから…もう少し近くまで来い」
「はぁ…失礼します」


パトロクロスは言われた通りアガメムノンの前まで近づくと、アガメムノンも王座から立ち上がり、パトロクロスの肩をガシっと掴んだ。
そして何かを耳元で囁くと、パトロクロスは目を見開いて、それでも興奮しているのか頬を紅潮させた。


「お前に…出来るか?いや…これは…お前にだけしか出来ない事なのだ」


王、アガメムノンに、そう言われてパトロクロスは胸が高鳴った。


僕にしか出来ない事…
そうだ…僕にだって、それくらい出来る。
王は、それを認めてくださったんだ…!


「どうだ?やるか?」


もう一度、聞かれて、パトロクロスは迷うことなく、


「はい!やらせて頂きます」 


と張り切って答えた。


その時、アガメムノンが、側近と怪しい視線を送りあってたことなど、今のパトロクロスには気づく余裕もなかった――






















トロイ城内―





暗い部屋の中で蝋燭の炎だけが揺らめいている。
それを黙って見つめながら、パリスは腕の中の愛しい温もりを、そっと抱き寄せた。
先ほどの口付けの余韻が、まだ残っている。
は、いつの間にか眠ってしまったようで、それに気づいた時、パリスは苦笑した。


ほんと…ってばキスすると、すぐに眠くなっちゃうんだなぁ…
そこが、また可愛いし、愛しくて堪らないんだけど。


パリスはスヤスヤと眠るの頬に、そっと口付けて、そのまま唇にも優しく触れる。
の気持ちを聞いたというのに、まだ実感が沸かないのか、が少し動くと、ドキっとして唇を離してしまう。


ほんとに…さっきは僕のことを好きだって言ってくれたんだろうか?
何だか夢のように思えてくるよ…
でも…じゃあ…アキレスのことは?
一番、聞きたいことが聞けなかった。
このまま、ずっと僕の傍にいてくれるの?と聞きたいけど、さっきは、そんな余裕すらなくて…
ただの唇の温もりを感じているだけで幸せだった。


そう言えば…今夜は兄上がギリシャ軍に奇襲をかけているんだった。
兄上は、僕に今は戦の事は今は忘れてと言っていたけど…やはり気にはなる。
アキレスの軍は出てきたのか…
どうなったんだろう…?


アキレス…


その名を心の中で呟くたびに、いつも鈍い痛みが走っていた。
の心を捉えて離さない男の名…


今は…?


今でも、はアキレスの事を好きなんだろうか…
僕の事を好きだとは言ってくれたけど…どの程度というのが分らない。


―そう思った自分に思わず苦笑した。


こんな事を思うことすら贅沢だよな…
やっとが僕の事を見てくれ始めたのに…。
人の欲望は尽きる事がないって本当だ。
この前まではの心が欲しくて、欲しくて仕方なくて…
少しでもいいから、僕を見て欲しいと願ってた。
それで…
やっとの心に僕が入り込んだと思えば、今度は、どのくらいの想いなのかという事が気にかかる…


パリスは、の可愛い寝顔を見ながら、そっと指で彼女の唇をなぞっていく。


「…愛してるよ…」


そう呟くと、優しくの唇を塞いだ。
愛しい感触に、パリスは胸がいっぱいになる。
そして少しだけ離すと、「今だけは…この温もりも全て僕のものだ…」と囁き、もう一度口付けた。


「ん…」


かすかに、の顔が動き、そこでパリスは唇を解放すると、をギュっと抱きしめて、


「君は今…どんな夢を見てるんだろう…」 


と呟き、静かに瞳を閉じた。





―願わくば…僕の夢を見ていて欲しい…と思いながら…












 

 




 

 

 



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ちょっと久々トロイ夢でした(笑)
看病編2って感じのはずが…何だか動いてしまった(苦笑)
とうとうヒロインがぁ~惚れたよ、パリスにっ(笑)
あ、でも問題は何も解決しとらんのぉ…(汗)
さ…そろそろ残り何話かな?ってとこまで来てるかな~
あ、いや…まだ暫くは続くかなぁ。
出したいキャラも、なかなか絡んでこないわ…(苦笑)