Windy City――風の街、とも呼ばれるシカゴはミシガン湖から季節風が吹き付ける。
冬の寒さは厳しいが、さほど降雪は多くないから、まあ住みやすいと言えば住みやすい街だった。
大学に進み、そこで一人の男性と知り合った。
マイケル・スコフィールド。
彼との出逢いが、私の人生を大きく変える事になるなんて、その時は思ってもみなかった。
scene.1
ある寒い冬の日。私とマイケルは講義をサボって、ハードロックカフェに来ていた。
店内は昼間からガンガンとロックが鳴り響いている。
そんな中で、私とマイケルは、互いの顔を寄せ合うようにしながら、話をした。
「サボって大丈夫かな」
「たまにはいいんじゃない?息抜きしないと」
私の言葉に、マイケルは「そうだね」と小さく笑った。
彼は勉強が好きみたいで、暇さえあれば、難しい本を読んでいる。
私は彼ほど、頭脳明晰でもなかったし、どっちかと言えば成績も並以下。
なのにマイケルと私は、何となく最初からウマが合った。
彼に勉強を教えてもらい、彼の知らない、流行の歌は私が教える。
そんな他愛もない友人関係を、一年続けてきた。
マイケルはビールを飲みながら、時々バックに流れる曲に耳を傾け、「これ君がこの前貸してくれた曲だ」と言っては、その曲を口ずさむ。
そんな彼を見て、私もまた一緒になって曲を口ずさみ、ランチ代わりのバーガーにかぶりついては、マイケルに笑われた。
「、ここついてる」
「え?」
「ここ」
綺麗な指がそっと私の唇に触れ、そこから電気が流れるような痺れを感じた。
「ケチャップついてた」
「あ…」
そう言って微笑むマイケルに、鼓動が勝手に早くなってしまう。
顔を寄せ合っているから、至近距離で目が合うと、やっぱりドキっとする。
友達としてじゃなく、異性として意識してしまうには、この状況は十分過ぎた。
「あ…ありがと…」
「いや」
柔らかい笑みを浮かべ、マイケルは手にしたビールの瓶をゆっくりと口に運び、優しい眼差しで私を見つめた。
彼の瞳はとても綺麗で、私はいつも羨ましいとさえ思っていた。
マイケルは時々、こんな眼差しで私を見ることがある。
そのたび、胸の、もっと奥の方が熱くなるから、いつも私の方から目を反らしてしまう。
ここ数ヶ月、自分でも知らないうちに、彼の事を目で追ってしまう、その理由に気づくのが怖い。
だから、あまり、そんな優しい目で見ないで欲しいのに。
「あ…このポテト食べる?結構美味しいよ?」
不自然なほどに目を反らしてしまった事を誤魔化すのに、テーブルの端にあったポテトの乗った皿を手に取る。
だけどマイケルは気にした様子もなく、普段どおりの物腰の柔らかさで、小さく首を振った。
「いや、僕はいいよ。が食べろよ」
「そ、そう?じゃあ…」
大して食べたかったわけじゃないけれど、そう言われて私はポテトを一つ摘み、口にと運んだ。
その間も、マイケルは黙って私を見つめている。
物を食べている時に見られていると、恥ずかしいと感じる事を、初めて知った。
どうしたんだろう、マイケルが、いつもと、少し違う気がする。
「マイケル…?あの、」
「この後…どこ行こうか」
「え…?」
照れ臭い空気を変えようと口を開きかけた時、マイケルがふと時計を見た。
いつもなら大学の帰りに、こんな風に寄り道をした後は、真っ直ぐ帰る事が多い。
珍しい事もあるものだ、と思いながら、どこか楽しげに音楽に聞き入るマイケルを見た。
「どこって…帰らないの?」
「まだ帰るには早い。今日は課題もないし」
「…そうだけど」
「あ、もしかして用事がある?」
「え?あ、ううん。帰ってもテレビ見ながらチップスかじるだけ」
わざと、おどけてそう言えば、マイケルは楽しそうに笑った。
「OK。なら決まり。これから二人で映画でも見よう」
「映画…?」
「うん。ほら、この前が見たいって言ってただろ?眠くなりそうな恋愛映画」
「あ…」
そう言われて思い出した。
先週、その映画が公開した時、「見たいなぁ」と何気ない会話の中で、その話をした。
どんな映画?とマイケルが訊くから、持っていた映画雑誌を広げ、教えたのだ。
「眠くなりそうだな、これ」
その映画のストーリーを見た時、マイケルはそう言って笑った。
だから私は、その後に言おうと思っていた言葉を言えなかった。
"一緒に観に行かない?"
ホントはそう言いたかった。
言えずに飲み込んだ言葉を誤魔化すのに、その後は違う話をふって、話題は次の授業の事へと移ったけど。
でも、まさか覚えててくれたなんて。
「?どうした?ああ、もう見ちゃったか?」
「え?あ…ううん…見てない…けど」
「そう。なら良かった。じゃあ、これ飲んだら行こう」
「う、うん…」
何とか笑顔を作ってみたけれど、この時、マイケルが、普段とは違う事をハッキリと確信した。
一年、彼を見てきたんだから分かる。
これまで、"友人"というラインを踏み越えようとはしなかったのは、マイケルの方だ。
だからなのか、最近は彼の事を、ううん…この言葉に出せない二人の間の変化を、少しだけ怖いと…感じていた。
「僕も好きだよ。のこと…友達としてじゃなく」
パーティの帰り道。酔いに任せて「大好き」と言った私に、真剣な顔でそう応えてくれた彼は、私の驚いた顔を見ながら微笑んだ。
私と一緒にいる時間が、ホントに楽しくて、勉強をしてても、食事をしてても、他愛もない話をしていても、何をしていても楽しいって。
そう言葉を続けるマイケルに、泣きそうになった。
だってそれは私の方なの。
でも"友人"というラインを超えてしまうのが、この関係が壊れてしまうのが、怖かったから。
友達のままならば、この先、卒業して就職をしても、関係を続けていけるけど、一度、恋人になってしまえば、いつか別れが来てしまうかもしれない。
それが怖かった。
なのにマイケルは、アッサリとそのラインを、今、越えようとしている。
「急にこんな事を言われても…困るか」
何も言わない私に、マイケルは苦笑気味に肩を竦めた。
でもマイケルはきっと、私の気持ちなんて気づいてる。
どうしようもないくらい、臆病な私の気持ちに。
「でも僕は…自分の気持ちに嘘はつけなかった。―――じゃ、お休み」
ポンと頭に手を置かれ、ハッと顔を上げる。
マイケルはいつもの優しい笑みを浮かべながら、そのまま帰って行った。
私は今の彼の言葉を何度も頭の中で繰り返しながら、もう一度、自問自答する。
本当にこのままでいいの?素直に打ち明けてくれたマイケルの気持ちを、傷つけていいの?と――
"嘘はつけなかった"
私は――それ以前に自分の気持ちに向き合おうとしていなかったんだ。
「マイケル…!待って!!」
私は、気づけば彼の後を追って、走り出していた――。
あれから数年の月日が経ち、今、私はマイケルと待ち合わせをした場所へと向かっている。
今の私には、あの時の恐怖など微塵もない。
頭にあるのは、マイケルに会いたい。彼を救いたい。彼の家族を守りたい。
ただ、それだけだった。
大学を卒業して、互いに就職し、それでも学生の頃と同じように、彼と変わらぬ関係を築いていたのに。
突然の不幸は、まるで嵐のように襲ってくる。
以前から、それほど仲のいい兄弟ではなかった。
マイケルの兄、リンカーンは、悪い仲間と付き合って、仕事も長続きはしない人だから、時々マイケルに金を貸して欲しいと連絡してくる事がある。
そのたびにマイケルは不機嫌になって、最後には決まって悲しそうな顔をする。
そんな顔を見るのが嫌で、マイケルにそんな顔をさせるリンカーンの事を、あまり良くは思っていなかった。
そのリンカーンが人を殺して捕まった、という一報が入った時、とうとうこんな日が来たか、と私は諦めにも似た気持ちになった事を覚えている。
しかもその被害者というのが副大統領の兄…
これは救いようもない罪だと思ったし、またマイケルの気持ちを考えて、心配にもなった。
なのに…まさか、あんな事実が隠されてたなんて、思いもしなかった。
リンカーンの元恋人で弁護士のベロニカから、マイケルに渡された母親の生命保険は、実はリンカーンが借金をして作ったという事実を聞かされ、
そこで、リンカーンの、マイケルへの愛情が嫌でも伝わってきた。
嘘をついてまでお金を作り、マイケルを大学にまで行かせたリンカーンの愛情……
マイケルもまた、その話を聞いて、今まで誤解してた分、償いをしたい、と…そう思ったのかもしれない。
だからこそ、あんな無謀な作戦を立てた―――。
「このあたりかな…」
スピードを緩め、車を止めると、私は外へ出てみた。
地元民も近寄らない廃墟が、明るい日差しの中、異様なたたずまいを見せている。
でも私は怖いとは思わなかった。一度は別れ、それでも彼を諦められなくて…ついにここまで来たのだ。今更、怖いものなど何もない。
『本当に…いいのか?』
数日前、刑務所から電話をしてきたマイケルが、私に最終確認するよう、そんな事を言った。
「もちろん。私は、マイケルについて行くって決めたの。何があってもついて行くって決めたのよ…どんな事でもするわ」
私の言葉に、マイケルは小さな声で、「…ありがとう」と言ってくれた。
――「ごめん」じゃなくて、良かった。
私の言葉に彼はちょっとだけ笑って、「には、ありがとう、としか言いたくないんだ」と、優しい声で、また笑った。
マイケルと最初からウマが合ったのは、互いの家庭環境が似ていたからだと思う。
父親は行方不明、母親は幼い頃に死去。
私の家も同じようなものだった。
天涯孤独。
そんな言葉が常にまとわりついていた。
マイケルもリンカーンとの関係が上手く行ってなかったのだから、きっと同じように感じていたんだと思う。
だからこそ、私達は惹かれあった。
私にも、マイケルにも、失う物はなかった。
彼の兄、リンカーン以外に。
ゆっくりと廃墟に進む。
追っ手がここまで来ている事はないと思うが、それでも周りをキョロキョロ見ずにはいられない。
扉の壊れた入り口に立ち、中の様子を伺う。
当然の事ながら、人の気配はしてこなかった。
「…マイケル?いる…?」
そう口に出した自分の声が、思ったよりも小さくて苦笑してしまった。
私もやっぱり緊張しているらしい。それも当然だ。
何と行っても、これから脱獄班の逃亡を手伝うんだから。
カタン…
「―――」
かすかに物音がしてハッとして足を止める。
「…誰?」
声が震える。
覚悟を決めたはずなのに、情けない、と軽く失笑が零れる。
その時、今度はハッキリと人の気配を感じ、私はゆっくりと振り向いた――
「……」
瞳に映る人物は、懐かしい笑みを浮かべていた。
「マイケル……」
あの悲しい別れの朝…あの日からどんなに会いたいと願ったんだろう。
あんなにも会いたいと焦がれていた彼が今、目の前にいる。
「…会いたかった」
駆け寄った瞬間、息が止まるほど強く抱きしめられた。私も、と答えたいのに涙が溢れて声にならない。
懐かしいとさえ思う、彼の腕に抱きしめられながら、私はゆっくりと顔を上げた。
「思ってたより…元気…そう」
「…は…少し痩せたね」
愛おしそうに私の頬を撫でながら、ちょっとだけ悲しそうな顔をする。まるで自分のせいだと言いたげな彼を心配させないように、私は笑顔で首を振った。
「マイケルに会うからダイエットしただけ」
なるべく明るくそう言うと、彼はちょっとだけ苦笑しながらも、優しく唇を重ねた。
「…これからもっと苦しくて…辛いことがあるかもしれない…」
「それでも行く…もう決めたの」
「……」
「こうしてまた会えたのよ…?ダメって言っても行くんだから」
未だに躊躇している彼に、はっきりとそう告げる。もう待ってるだけの、心配するだけの生活は嫌なの。
どんなに辛くても、苦しくても、あなたと一緒ならどんな事でも耐えられる。
そう言った私に、彼はもう何も言わなかった。ただ、嬉しそうに優しく微笑む。
「…お兄さんは?」
「ある場所で待ってる」
「そう…無事なのね…良かった」
「ああ…」
「…本当に…助けたんだね」
死刑囚の兄を、本当に救い出した彼を、心の底から凄いと思った。
「まだ…これからさ」
私の額に口付けながら、マイケルは小さな声で言った。その言葉に心を引き締める。――そう、これからが本番だ。
刑務所の外に出られたとしても、次々に追っ手は来る。再び捕まれば今度こそ、彼のお兄さんは死刑に処され、脱獄、逃亡を企てたマイケルでさえ極刑になってしまう。
この国で追われ、怯えて暮らすよりも、国外に出て名前を変え、静かに暮らす。マイケルはそう思ってるみたいだった。
「準備はしてある…兄貴の事も、の事も…僕が守るよ」
「何でも一人で背負わないで…もう一人じゃない」
一人で戦い続けてきた彼に、ずっとそう言ってあげたかった。
全てをその身で引き受け、孤独に戦いながら兄を救った彼を、誇りに思っているから。
あなたは犯罪者なんかじゃない―――
Salvador
天より人に授けられた救世主