私が好きだった その笑顔で、愛しさを感じた その優しい手で…
あなたは私を殺しに来るのね――。

「会いたかったよ、…。随分と待たせてしまったね」

躊躇いもなく私の首に手をかける男は、遠い昔、確かに想いを寄せた人。

「今度こそ…終わらせよう」

優しく唇をなぞっていた綺麗な指が、そっと私の顎を持ち上げる。
昔と同じように唇を寄せるあなたは、何一つ変わっていない気さえするのに。

「愛してるよ…―――」

唇が触れ合う瞬間、彼はとうの昔に亡くした愛を囁く。

でも、それは、私も同じなの。
だって私は―――。

「私は…あなたを愛してない……」

触れ合う唇が、かすかに震えた。
あなたの全てを否定する。

あの暑い暑い夏の夜、あなたを想う、心を捨てたの。

あなたへの想いは―――未完成で終わった。





二人の呪術師-前編




あの日は冬至で、最も日が短い一日だった。

2005年、12月22日―――。

ある事件がキッカケで、しばらく東京郊外にある別荘で過ごす事になった私は、愛猫のマリンを連れて来た。
二年前、東京の家の庭先で小さな鳴き声を上げていた白猫を見つけたのは偶然で。
雨が降ってきたことで庭に面した窓を閉めようとしたその時、小さな鳴き声に気づいたのだ。
雨の降る音に交じって聞こえたその小さな声は、庭の植木の中から聞こえてきて、声の主を探す為、私は急いで庭へと出た。

声が聞こえる辺りの植木を手でよけると、その鳴き声の主はそこにいた。母猫とはぐれたのか、不安げに小さな身体を震わせながら、それでも私を怖がる事もなく、ただ何かを訴えるように鳴き続けていて。降りしきる雨が当たるたび、目が開いたばかりらしいその大きな目がしょぼしょぼと細められる。怖がらせないようそっと抱き上げると、仔猫は甘えるようにしがみついてきて。そのあまりの可愛さと綺麗な空色の瞳に惹かれ、母に無理を言って家で飼う事を許してもらったのだ。
それ以来、宝石のような瞳をした仔猫は私の大切な家族になった。


「さ、マリン。着いたよ~」

別荘に着き、子供の頃に使っていた部屋に入ると、まずはキャリーバッグからマリンを開放する。長い時間、狭い場所にいたせいか、マリンは飛び出すように出て来ると、すぐに好奇心旺盛なところを見せ始めた。初めての場所が苦手だと聞く猫でも、私が傍にいる事でマリンは安心したように部屋の隅々まで匂いを嗅いで回り、探索をしている。この様子だとそれほどかからずこの別荘にも慣れてくれるだろう、とホっとしながら、テラスに続く窓のカーテンを開け放った。ここの管理人がこまめに掃除をしてくれているらしく、室内はもちろん、テラスもかなり綺麗に手入れされているようだ。

「眩し…」

冬の夕暮れ、強い日差しが部屋を照らし、私は目を細めながら窓を開ける。途端に冷たい風が吹き込み、長い髪が軽く靡いた。
幼い頃、父に連れられ何度か来たことのある別荘もこの時期に来るのは初めてだ。やはり郊外だけあって東京よりは何倍も寒く感じる。

「ニット系の服、たくさん持ってきて正解だったな」

ふと運転手が運び込んでくれたトランクたちに目をやり、笑みを浮かべる。いつまで滞在するのか分からないだけに、4つのトランクにそれこそ入るだけ冬物を詰め込んできた甲斐があったというものだ。

そこへ私が乗って来た車よりだいぶ遅れていた母の乗った車が、エントランス前に入ってくるのが見えてテラスへ出た。母は相変わらずその手にケータイを持ち、誰かと電話をしている。忙しいのだからわざわざ別荘までついて来る事ないのに、と思いながら車を降りて来た母へ手を振った。

「…ええ、そうしてくれる?あ、あと私は明日の昼までに一度戻るから準備は進めておいてね」

母は忙しない口調でそう言いながらも、私に気づくと笑顔を見せて軽く手を上げた。

「じゃあ、そういう事で。宜しくね、玲子」

と母は電話を切った。
双葉玲子ふたばれいこはファッションデザイナーをしている母の元アシスタントで現在も仕事のパートナーであり、その傍らで始めた小さなモデル事務所の社長だ。元々デザイナー志望だった玲子さんは時々母の秘書のような仕事もしていてスケジュール管理はもちろん、母が不在の時は母の事務所のスタッフたちへの支持なども任されることがある。

母がたった一日休むだけで、彼女への負担は相当なものになってるだろう。だから来なくていいのに、と思いながら母にもそう言ってみた。

「お母さん、忙しいのにわざわざ来なくて良かったんじゃない?明日からショーの準備に入るんでしょ?」
「そうだけど…やっぱり心配でしょ?―――あ、小滝くん!例の件はどうなってるの?」

母は私に言いながらも、荷物を運び入れている私のマネージャーでもある小滝こたきさんに声をかけた。

「それが連絡は入れてるのですが、まだ人選にまで至ってないようでして…」
「えぇ?もう着いたっていうのに大丈夫なの?そんな事で…。全く相変わらず呑気な学長ね」
「とにかく今から先方へ出向いて、もう一度せっついてみますよ」
「そう、じゃあ私も行くわ。直接私が行けば向こうも対応せざるを得ないだろうし」
「分かりました。では先に連絡を入れておきます」
「お願いね」

母はそう言いながら再びケータイを手に、どこかへ電話をかけている。その様子を見て溜息をつくと、私は部屋の中へと戻った。あの分じゃ一晩中どこかに電話してそうだ。

「マリン、今ご飯とお水出してあげるね」

未だ部屋中かけまわっているマリンに声をかけて、持ってきた器にご飯を入れる。猫用のミネラルウォーターも水用の器に入れ、部屋の隅へ設置してると、ちょうどそこへ小滝さんが顔を出した。

さん、マリンちゃんのトイレどこへ置きますか?」
「あ、小滝さん、ありがとう。えっと…トイレはバスルームでいいわ」
「分かりました」

小滝さんはマリンのトイレをバスルームの空いたスペースに置くと、持ってきた猫砂も入れてくれた。

「ごめんね、小滝さん…雑用までさせちゃって…。母に頼まれた仕事もあるのに…」
「いえ、大丈夫ですよ。さんの為ですから」

小滝さんは爽やかな笑顔を見せながらそう言ってくれた。28歳にしては少々童顔の小滝さんだが、良く機転が利いて仕事が出来ると母が気に入り、玲子さんに頼んだことで私のマネージャーを任されてしまった人だ。名前は確か…そうそう、有起哉ゆきやだった。

「それにしても…本当に大丈夫なんですかね?その…じゅ…じゅじゅ?」
「呪術師?」
「あ、そうそう。その呪術師って…。何か胡散臭そうですけど…本当にさんの事を守ってくれるんですか?」
「その辺はよく分からないけど…お父さんが昔からそこの学長と懇意にしてるみたい。まあ政府容認のとこらしいから大丈夫よ、きっと」
「まあ会長が関わってるなら大丈夫でしょうけど…。でも僕はいまいちピンと来ないんですよねぇ…。幽霊とか悪霊なんて信じてない方なので」

小滝さんがそう思うのも無理はない。私だって今回その存在を聞いた時は驚いたし、普段なら信じなかった類の話だ。だけど実際、呪術師を育てる学校まであると言うのだから想像以上に本格的だ。

「でも…早く解決させて今回だけは出たいのよね…。お母さんのショーだしオーディションもせっかく受かったんだから」
「そうですね!あんなに頑張って勝ち取ったんだし出られないなんて事になったら…。本当その呪術師という方に解決して貰えるといいですね」

小滝さんは笑顔で言いながら「あっでは、その高専に連絡してきますね」と頭を下げて忙しそうに部屋を出て行った。

「高専…ねえ…」

溜息をつきながら窓の方へ視線を向ければ、裏手にある高台に高い塀で囲まれた建物がいくつも広がっているのが僅かに見える。一見、お寺のような建築物だが、あそこが日本で二校しかないという東京都立呪術高等専門学校らしい。父とそこの学長は古くからの友人らしく、今回私に起きている件で、その友人に相談をしたようだ。というのも、ここ最近、私は誰かに狙われている、いや"何か"に狙われている。それはモデルの仕事が増えてきたここ最近の事だ。

六年前、母がファッションデザイナーの一葉いちはとして成功したのをきっかけに、私も中学の頃からモデルとして手伝うようになった。168センチとモデルとしては小さい方だが、最初は母と他のデザイナーとの合同で開催された十代の子向けのティーンコレクションに出演予定だった私と同じ歳のモデルがケガをした際、急遽母から助っ人を頼まれたのがキッカケだ。母の影響で当然ファッションに興味があり、お洒落も大好きだった私は、その時に出たコレクションでモデルの楽しさを知った。洋服に合わせて髪型やメイクを変え、全くの別人になり、着ている服をいかに美しく見せるかは動きの一つ一つで変わって来る。それまではただ漠然と着ていた洋服たちも、自分がどう見せるかによって違った顔になるんだと知って更にお洒落が大好きになった。

その時の成功をキッカケに、去年本格的に大きなコレクションに出てからは雑誌などの仕事も入るようになった。今では玲子さんの事務所に所属するモデルとして学校に行く傍らで、モデルの仕事を続けている。ただ、そんな仕事をしていると色んな人間と関わる事も多い上に、中には変わったファンもつく。
何度かストーカーをされた事もあり、学校帰りにつけられ襲われかけた事もあった。それ以外にも私の仕事が増えた事で他のモデルたちからは陰湿なイジメまがいの事をされる。

でも、それでも―――。
今回のような気持ちの悪い嫌がらせは今までされた事がなかった。
それは今回、母が十周年の記念として初のオートクチュールのファッションショーを開催する事になり、私がそのオーディションを受けると決めた後から起こり始めた。
最初はマネージャーである小滝さんが見つけた一つの藁人形。
私が仕事で使っているワゴン車の席に、ソレはあった。

いつも私が座る席の背もたれに、藁人形が釘で打ち付けてあったのだ。人形には私と同じ黒くて長い髪の毛が絡みついていて、とても冗談で置かれたという感じがしなかった。でも結局、誰が置いたのかも分からないまま悪質な悪戯として処理され、私も無事にオーディションに受かった事で忙しくなり、その不気味な人形の事は忘れていた。でも、少ししてから不気味な現象が私の周りで起き始めた。

誰もいないはずなのに何かの気配を感じたり、動くはずのない小物が大きく移動してたり、何も挟まっていないのに部屋のドアが閉められなくなったり。どれも些細な事なのかもしれないが、それも重なれば怖くなってくる。あげくマリンが何もない空間に向かって牙を向いた時は心底怖くなり、精神的にも参って来た頃。私のケータイに気持ちの悪い電話が来るようになった。知り合いや友達からの着信で、私が安心して出ると、相手は話す事もなく、ただ不気味な音だけが聞こえて来る。それは衣擦れのような何かを引きずる音で、最初は単に電波が悪いだけなのかと思い、一度切って友人にかけ直すと、必ず相手は口をそろえて同じことを言う。

「かけてない」

ここまで来ると流石に気のせいというには無理がある。あまりの恐怖に、私は母に相談をした。あんな心理状態では、ショーに向けて集中する事も出来なかったからだ。すると母は何か思い当たったように妙な事を言いだした。

「私が娘のあなたを贔屓して合格させたと思い込んでショーに出すのを快く思ってない子たちが多いの。もしかしたら負のエネルギーが溜まりすぎて呪われてるのかもしれないわ」

呪われてる、なんて最初は何を言ってるんだろうと思ったが、この世には呪いというものがいて、それは人間の負のエネルギーから作り出されるものだという。母も父からそう教えられたそうで、そこで初めて私は自分の父親が呪術師を育てる学校の関係者だと知った。私が子供の頃から、父は海外を飛び回っていて家にいる事なんか殆どなかった。年に一度顔を見ればいい方で、そんな多忙を極める父の詳しい仕事の内容など知らないに等しかった。今も一応、母の会社に籍を置き、名ばかりの会長という任に就いている父の事を、実質ヒモなのでは…と疑った時期もあったくらいだ(!)

呪術師専門の学校は一般的にはあまり知られていない事もあり、父も母も私に詳しい説明は省いていたらしい。今回の事がなければ一生、知らなかったかもしれない。しかも母までがその学校に少なからず関係してた事にも驚いた。

「私がまだデザイナーとして新人だった時に高専の制服に携わった事があってね。生徒の意向を聞いて最終的なデザインを決めるんだけど、その過程でいつきくんと知り合ったのよ」

なるほど、と納得はしたが、よくそんな胡散臭い学校で働いてる父の事を好きになったな、とは思う。でも母は未だに名前で呼ぶほど父が大好きらしく、娘の私としては両親がいつまでも仲が良いのはありがたいと思う反面、少し気恥ずかしい気持ちもある。

そんなこんなで、呪いに詳しい父からの助言を受けて、母は私の事を高専の関係者に任せようと決めたようだ。最初こそ、あまりにバカバカしい話だと思ったが、実際に怖い思いをしているのは事実で、半信半疑ながらも最後は母の言う通りにするしかなかった。父の高専の友人である学長が今回私が本当に狙われているのか調べてくれるという話になったが、もし本当に呪われているなら、解決するまでは今回のショーに出る事は保留にすると言われ、あげく高専に近いという理由で子供の頃に何度か来ただけの別荘にまで来る事になってしまった。 ヨーロッパの別荘地をイメージした総煉瓦積みの外壁、外構にも同じレンガを用いた格調高い雰囲気の建物は、どう見ても父の趣味だが、森林しかない周りの景色から明らかに浮いている。

(もしかしたら、この別荘も父の仕事の関係でここに建てられたのかな…)

ふとそんな事を思いながらウォークインクローゼットへ入り、トランクを開けて洋服を取り出す。それを一着一着ハンガーにかけていると、下から私を呼ぶ声が聞こえて来た。

!ちょっと降りてこれる?」
「はーい」

母にそう返事をして、残りの服をハンガーに引っ掛けると、私はすぐに一階のリビングへと向かった。持ってきた荷物も殆ど運び入れたのか、エントランスには母のトランクがいくつか置かれている。どうせ仕事で殆どいないんだからこんなに持ってこなくてもいいのに、と内心苦笑しつつリビングに顔を出すと、母はちょうど電話を切るところだった。

「あ、。部屋は片付いた?」
「まあ、服だけ出した。あとは夜にでもボチボチやるわ」
「そうしなさい。それで私これから小滝くんと高専の学長に会いに行ってくるからは先に夕飯食べてていいわよ?榊さんが用意してくれるから」

榊さんとはこの別荘に連れて来た我が家のお手伝いさんで母より10歳年上の現47歳、私が子供の頃から住み込みで働いている。両親ともに家を空ける事が多かった為、榊さんが母親代わりをしてくれた時期もあるから私にとっては家族同然の人だ。

「うん、分かった」
「あとケータイの電源は切ったままにしておいてね。またその変な電話が来てもいけないし」
「気持ち悪くてずっと切ったままだよ…。何か音がだんだん近くなってきてる気がしたし…」
「…そう。あまり良くない兆候ね」

母は眉間を寄せると、「急がなきゃ」と呟いて、後ろに控えてる小滝さんに車を回すよう頼んだ。

「じゃあは外に出ないで大人しく待ってて。運が良ければ呪術師の方を連れて戻って来るわ」
「え、運が良ければって何?もう決まってるんじゃないの?」

呪われてるかもしれない私の為に、高専の学長は原因を探り、呪いを祓う為に呪術師を紹介してくれるという事だったはずだ。そう思っていると、母は困ったように溜息をついた。

「それが…いまは呪術師の方も忙しいらしくて地方に出張で出払ってるのが殆どみたいなの。で、結局誰を寄越すか決めかねて今日に至るって感じみたいで」
「…そうなんだ。っていうか呪術師にも出張とかあるのね」
「まあ呪いの被害は都会だけじゃないから」

母も苦笑しながら肩をすくめると、腕時計を見て、

「じゃあ行って来るわ」
「うん。気を付けてね」

相変わらず忙しない様子でリビングを飛び出して行く母を見送り、私はソファに寝転んだ。庭に面した大きな窓へ目を向ければ、赤い夕陽が沈みはじめ、辺りは少し薄暗くなってきている。都会と違って雑多な音も聞こえず、小滝さんがかけたエンジン音がやけに大きく聞こえた。

「今日からここで暫く過ごすのかぁ…。周りに何もないし退屈しそう…」

母曰く、都会にいれば人が多い分、負のエネルギーが増幅する危険があるというのと、何かあった時の為に高専から近いここの方が安心なんだという。それにこの呪い騒動の他にも、おかしなファンには東京の家がバレていて、ストーカー行為が未だ続いてるという問題もある。そっちはそっちで地味に大変で、その不安からも逃れられるなら、例え退屈な場所でも我慢するしかない。

「…よく知りもしない私に何であんなに幻想が抱けるのか謎だわ」

沈んでいく夕日を眺めながら、ふとストーカー行為をしている男たちを思い出し溜息が漏れる。テレビに出ているタレントたちとは違い、モデルという仕事柄、普通に話している姿などをショーや雑誌を見てる側に知られる機会は少ない。そのせいか外見だけで勝手に人物像を想像し、自分の理想的な女性を作り上げてしまう人たちも多かった。

は黙っていたら大人しそうに見えるもんね。まあ話してもシッカリしてるなあとは思う事もあるけど年相応なとこも沢山あるのに」

初等部からの親友で同じモデルの夕海ゆうみにそう言われた事もあるが、ハッキリ言ってそれが普通だ。モデルは言わば動くマネキンだと思っているし、服のイメージに合わせて外見を作っていくような仕事なのだから中身と外見がイコールになるはずもない。でも見ている側にとってみれば、モデルがバラエティ番組などに出演し、口を開いた時から自分が作り上げた理想と少しでも違えば一気にアンチへと変わる。そしてネット上での誹謗中傷だったり、勝手な言葉を並べたてた手紙を送り付けたり、最終的には後を付け回し酷ければ暴力行為に及ぶ。表に出る仕事だから仕方ない、と言う先輩達も多かったけど、理不尽な暴力に対して「仕方がない」という言葉で終わらせるのは絶対に違うと思った。

私の場合はバラエティ番組に出たわけではなく、母のショーの舞台裏を見せるというドキュメンタリー番組があり、
たまたま楽屋で談笑しているのが映っていた事が原因なんだけど―――。

が大声で笑うとこ見たくなかったしイメージ崩れた」
「笑わない方が良かった。笑顔なんて見たくない」

ドキュメンタリー放送直後から番組や事務所のホームページに、そんな書き込みが一気に増えたと聞かされた時は少し驚いた。ショーモデルだけに雑誌とは違い、笑顔を振りまく事が少ないせいで私は笑わないイメージがついてるらしい。私だってモデルである前に普通の高校生なのに、勝手に理想像を押し付けてくる、いや押し付けられる人達の神経が理解できなかった。

「思い出したらイライラしてきた」

今回の呪い騒動といい、私からすれば理不尽な事ばかりされてる気もするが、人の悪意について一人考えたところで、答えなんか出やしない。体を起こし、ソファから立ち上がると、私は残りの荷物を片付けようと二階の部屋へと向かう。キッチンからはいい匂いが漂ってきて、榊さんが夕飯の支度をしてくれてるようだ。片付けたら夕飯にしよう、と思いながら部屋のドアを開ける。

「……あれ?マリン…?」

部屋に入って無意識に室内を見渡した時、小さな違和感を覚えた。さっきまで部屋中駆け回ってたマリンの姿が見えない。

「マリン?どこ?おいで」

二十畳ほどある室内にはコーナーソファやテーブル、奥には天蓋付きベッド―—お父さんの趣味——化粧台、六畳ほどのウォークインクローゼット、その他にも小物を入れたガラス製のアンティークボックス等が置いてあるが、猫が隠れられる場所と言えば限られている。とりあえずベッドの下やバスルームも確認したが、マリンの姿はどこにもない。念の為、クローゼットに入りバッグや靴などを置ける棚の上等を確認したがいなかった。多少広いとはいえマリンが隠れる場所は殆どないし閉める時にマリンがいれば気が付くはずだ。

「嘘…どこいったの?もう隠れる場所なんて…」

そう呟きながら部屋をぐるりと見渡した。
だが、ふと窓の方を見て、一瞬で血の気が引く。

「え、まさか…」

開けたままの窓からテラスへ出ると下に見える庭を覗き込む。可能性があるとすれば、マリンはテラスへ出て庭に飛び下りたかもしれない、という事だ。猫にしてみれば二階のテラスから庭先へ飛び下りる事はそれほど難しい事ではない。現に庭に植えてある木の枝がテラス近くまで伸びているものもある。

「嘘でしょ…?マリン!いるの?おいで!」

そう呼んでみても、鳴き声一つ聞こえてこない。まさか敷地内から出てしまったんだろうか。そう思うとゾっとした。
この別荘の前には国道がある。都会ほどの交通量はないが、全く車が通らないわけでもない。

「まさかコレ伝って…」

右側に伸びている木の枝を見て、すぐに一階へと駆け下りた。

「あら、さん。どうしたんです?そんなに慌てて…」

あまりに騒々しい音を立てたからか、ダイニングの方から榊さんが顔を出した。

「あ、榊さん!マリンがいなくなったの!テラスから庭に降りたか、木の枝を伝って塀の向こう側に出ちゃったかも…」
「えぇっ?」
「私、ちょっと探してくる!」
「え、大丈夫ですか?もう暗くなってきてるのに…」
「大丈夫!それに今ならまだ近くにいるかもしれないし…。お母さんから連絡入るかもしれないから榊さんは家で待ってて」
「わ、分かりました。でもこの辺は暗いので気を付けて下さいね!」

コートを羽織り、慌てて外へ飛び出せば、背後から榊さんのそんな声が聞こえて来た。確かに辺りはすっかり夜の気配に包まれて、数メートルおきに置かれた外灯がぼんやり付近を照らしているだけだ。これ以上、暗くなってしまえばマリンを見つける事も難しくなるだろう。

「ああ、もう…スニーカーだけでも出しておけば良かった…ってそれより着替えが先か」

ここへ来る時に履いて来た少し高めのヒールを見て、私は溜息をついた。あげく着いた時のままの恰好で着替えるのを忘れていたから上はタートルネックとはいえ、下はミニのタイトなスカート。やはり少し肌寒い。私は羽織って来たコートのボタンを留めながら、周りの景色を見渡した。この辺りは山を削って作られた土地で坂道も多く、コンクリート整備のされてない土が剥き出しの地面も多いからヒールではかなり歩きづらい。それでも気が急いていた私は、そのままマリンが出たかもしれない塀の外側へとやって来た。この辺りにはウチの別荘しかなく、周りはただの林になっている。

「マリン!どこ?おいで!」

大きな木々が並んでいるその場所は薄暗く、奥の方は良く見えない。今時期は葉も枯れているとは言え、都会とは違い大木の数が多すぎるのだ。ただ名前を呼べば少なからず返事はしてくれるはずだから、この辺にはもういないのかもしれない。

「どうしよう…。どこ行っちゃったの…?」

窓を開けたまま部屋を出た事を後悔しつつ、私は足を速めながら国道を横切り別荘とは反対側の林へと向かう。

「マリン!どこ?!マリン!!」

少し坂になっている場所を上がり、大きな声で名前を呼びながら辺りの木々を見上げる。猫なら木の上にも登れるだろうし、こうなると探す場所が一気に増える。

「懐中電灯持ってくれば良かったかな…」

と言って今更別荘まで戻るのも躊躇われ、私はそのまま辺りを見渡しながら先へと進んだ。

「あ~やっぱり歩きづらい」

高いヒールが土にめり込むのを感じながら、それでもマリンが心配で足を止める事が出来ない。その時――前方に白っぽいものが横切ったように見えて、私はハッと立ち止まった。

「マリン?!そこにいるの?!」

月明りしかなく、その光さえ大きな木々に邪魔をされているせいで良く見えない。

「マリン…どこ?」

今度は小さめの声で名前を呼んでみた。拾ってからはずっと室内飼いで一度も外へ出したことがない。そのマリンがいきなり外の世界へ出てしまったなら怯えて、いくら私の声がしてもすぐには近寄ってこないんじゃないかと心配になった。

再び前方に何かが動く気配がして、私はゆっくりと怖がらせないよう静かに足を進めて行った。もしマリンなら近くまで行った時に、すぐに抱き上げればいい。いくら何でも私に気づけば傍まで来てくれるはずだ。そう思いながら影が見えた付近の木へそっと近づいた、その瞬間―――ぼんやりとしていたものが木の陰から顔を出した。

「――――っ」

現れたその影は、マリンではなかった。大きな体に白く不気味な目玉がいくつもある、君の悪い生き物。その異形の目がぎょろりと動き、私を見た。

「な…なに…これ……」

おぞましい姿の化け物は、ぐにゅぐにゅと動き、それに連動するように目玉も動く。あまりの気持ち悪さに、私はこみあげて来る吐き気を我慢しながら、震える足でゆっくりと後ずさった。異形の化け物が動くたび、不気味な音を立てるさまに汗が背中をつたって全身が総毛立つ。目の前の生き物を見た事はないが、ハッキリ分かっているのは今、逃げなければ私は死ぬ―――本能でそれを感じた。

(今だ――!)

不気味に動く物体の目玉は全て違う動きをしていて、目の前の私をハッキリとは認識していないように感じた。その隙を見て、私は一気に駆け出した。
だが数歩も行かないところで、ヒールが地面に深く突き刺さり、あっと思った時には転んでいた。

「…っつぅ」

ヒールが根元から折れて前のめりに転んだけど、それでも素早くもう片方の靴を掴んで脱ぎ捨てると、急いで立ち上がろうとした。その時だった。突然、足首に何かが巻き付いた。

「…ひっ」

立とうとした足を引っ張られ、再び派手に転ぶ。ゆっくり振り向けば、あの異形の化け物が私の足に不気味な触手を巻き付け、凄い力で自分の方へと引き寄せてきた。

「いやぁっぁぁ!!」

ギョロギョロとした目玉の間から、赤く大きな空洞が見える。それが口なのだと理解した時、私は改めて自分の"死"が、目の前まで来ている事を悟った。

(私、死ぬの?こんな場所でたった一人で―――)

自分の命を奪おうとしている存在が何なのかさえ分からないというのに。脳裏にそんな思いだけが過ぎり、成す術もないまま、化け物の方へとただ引き寄せられていく。

(死にたくない―――!)

心の底からそう思った、次の瞬間だった。軽い衝撃音と共に足を引っ張る力が突如消えて、私はハッと目を開けた。

「―――君…大丈夫?」
「………ッ?」

夢、かと思った。