酔いどれが集まる都会のざわめきが、薄暗い室内で木霊するように響いていた。時折聞こえる車のクラクションや、怒鳴り声。それだけで今いるのは治安の良くない場所だと分かる。そこに気づいた女は諦めたように深い溜息を吐いた。頭が酷く重たい。動くだけでふわふわする感覚が襲い、気持ち悪くなる。開いている窓から薄暗い部屋に外のギラギラしたネオンが入り込み、チカチカと光っている。女がいる部屋はそれほど広くはない。けれども寝かされていたのは大きなベッドだった。かろうじて服は着ていたものの、持っていたハンドバッグがない。中には財布やスマホ、メイクポーチなどが入っている。あれがなければ外部とも連絡をとることが出来ない。


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(そもそも…わたし、どうしたんだっけ…)

重たい鈍くなっている頭で考える。思い出したのは部下と取り引き相手の指定したホテルへ出向いたこと。交渉もスムーズにいって最後に進められるまま一杯ワインを飲んだ。そして――そこから記憶がない。

「…あのオッサン、薬盛ったな…」

はあ、と項垂れて溜息を吐く。商談成立ってことで油断していた。相手は表向き大手企業の重役だったことも油断に繋がったかもしれない。まんまと騙された自分に自分で腹が立つ。

「ここ…どう見てもラブホよね…」

薄暗い室内のイケてない装飾に「しかもやっすいホテル…」と忌々しげにボヤく。

「冗談じゃない。わたしは高級ホテルのスイートしか受け付けないんだから」

とりあえずベッドから下りて、まずはドアを確認したものの、案の定外側から鍵がかけられている。ならば、と開いてる窓から外を覗く。どう考えても飛び降りれる高さでもなければ、掴まって下りられる造りでもない。となると、相手がこの部屋に戻って来た時、油断させて相手を殺すしか逃げる道はなさそうだ。

「ったく…今回の仕事に"殺しデリート"は含まれてないってのに…。だいたい部下は何してんのよ」

まあ、わたしがこうなってるのだから連れて来た数人の部下も、どこかで眠らされてる可能性が高い。ったく、使えないんだから、と文句を言いつつ。軽く指を解し、少しスッキリしてきた頭を振ると、ピンヒールを脱いで手に持つ。一見、女を飾るアイテムも、使い方次第では武器になるのだからまさに一石二鳥。ただ問題なのはこのピンヒールの値段だ。

「あーあ…気に入ってたんだけどなぁ」

そう呟いた時だった。ドアの方からカチャカチャと鍵を開ける音が聞こえて来て、わたしはこっそりドアの方へ近づいた。幸い内側に開くタイプのドアだったこともあり、相手から死角になるよう端っこへ身を寄せる。

(中に入って来たら気づかれる前に殺す――)

頭の中でシミュレーションしながら、手の中のヒールを握り締めた。カチリと解錠の音がして、ドアが静かに開く。そのドアの後ろに隠れるようにして相手が入って来るのを息を潜めて待った。中へ入れば奥のベッドは丸見えだ。いないことがバレる前に仕留めなければならない。
廊下から差し込む明かりでドアを開けた人物の影が室内へ伸びている。それを見る限り相手は一人らしい。内心ホっとしながらその時を待つ。そして影が動き、一歩足を進めてその人物が中へ入って来た。かすかに良く知っている香水の香りがしたけど、この時のわたしは深く考える余裕などなかった。

(今だ…!)

素早くドアの陰から出ると、真っすぐベッドの方へ歩いて行く人物に向かってヒールを振り上げた。誤算だったのは、わたしの影も廊下の明かりで相手の影と重なってしまったことだ。おかげで目の前の人物が気づき、慌てたように振り返る。そして振り上げたわたしの腕を寸でのところで掴んで来た。ゴトッという音と共にヒールが床に落ちる。

「…っぶね~!」
「……修二?!」

未だに顔は陰になって見えないものの、声で相手が誰なのか分かった。その瞬間、一気に緊張が解れてその場に座り込む。

「おいおい、大丈夫かよ」

呆れたように笑い、高身長の男は背中を丸めるようにしてわたしの前へしゃがんだ。ゆっくり顔を上げればトレードマークの眼鏡と黒金の髪が、廊下から差し込む明かりで今度こそハッキリと見えた。ハイブランドのスーツに、エゴイストのフゼア グリーンの香りを身に纏うこの男は、"東京卍會"最高幹部の半間修二だ。

「…何で修二がいんのよ…」
「助けに来たからに決まってンだろー?」
「…だから何で助けに来ようと――」

と言った瞬間、目の前にヌっとわたしのスマホを出された。どうやらオッサンから取り返してくれたらしい。

「これにGPS仕込んであんの」
「…は…?」
「最初の取り引き場所から移動して予定にない動きすりゃおかしいと思うだろ」
「そ、それは助かったけど…GPSって何よ!聞いてないんだけど?」
「まあ…今、初めて言ったからなあ」

修二は苦笑気味に言いながら指で鼻の頭を掻いている。その表情はどこか楽しんでる顔だ。

「もしかして…わたしが裏切るとか思ってたわけ?あ、まさか鉄っちゃんが――」
「違う違う。これはまあ…オレの独断と偏見で…いてっ」

ふざけたことを言う修二の額にデコピンをかましてやると、「ひでぇなあ…助けてやったのに」と口を尖らせながら赤くなった額を擦っている。まあそれは有難いけど、勝手にGPS仕込まれるのは許せない。でもそれは後で制裁を加えるとして、今はここから脱出することだ。

「ところで…あのオッサンは?」
「ああ。アイツは下のロビーでズタボロにしといた。この安ホテル、オッサンのサブビジネスらしい。スケベ心出してオマエと部下に薬盛ってだけここに連れ込んだんだとよ」
「…あんのクソオヤジ…!一般人のクセに舐めたことしてくれちゃって」
「バックに他の組織がくっついてっからだろ。あ~これ、どっかで聞いたことあんなぁ?」

修二はニヤリと笑みを浮かべて立ち上がった。「ん」と手を出すから、その手を掴んでわたしも立ち上がると、ヒールを穿き直す。

「まあ…今回はこれで走らずに済んだけどねー」
「あれって何年前だっけ」
「……忘れたよ。10年以上前じゃない?」

目の前の男の顔を見上げていると、不意に懐かしい光景を思い出す。あれは――。

「オレとオマエが初めて会った夜、だったな」

そうだ。あの頃のわたしも、コイツも、まだガキだった頃の話だ。