2016年、初冬――。


渋谷駅から徒歩10分。高級住宅街、松濤しょうとうにある邸宅に着くと、頭上より遥かに高い門が開く。そこを車で進むとエントランスには相変わらず葬式みたいな黒スーツを着た部下達が、愛想の欠片もないゴツイ顔で出迎えてくれた。

「お疲れ様です!」
「ほんと疲れた…」
「オマエ、薬盛られて寝てたじゃん」

開けられたドアから先に修二が降りると、わたしの手を引いてくれる。車から降りて未だに頭を下げたままの直属の部下、太栄たえいに「井本たちは?」と声をかければ、彼はかけている眼鏡をくいっと指で直しながら満面の笑みを浮かべた。

「とっくに処分デリート済みです」
「……あっそう」
「何か問題でも?」
「…別にないけど。ただ早いなあと感心しただけ」
さんの護衛で一緒に行ったにも関わらず、素人に薬を盛られる阿呆どもに一秒でも息をさせておく理由はないので」
「………(グサッ)」

素人に薬を盛られたのはわたしも同じなんだけど…と思いつつ。優秀な部下を持てて有難い。ただこの太栄という男はわたし以外に本当に容赦がない。まあ今回、もし彼が一緒に来ていれば絶対あんなことになっていなかったとは思う。

「…ひゃはっ♡ 相変わらずおもれ~ヤツ」
「光栄です」

太栄の言動は修二のツボらしく、突然吹き出して楽しげに笑っている。それに真顔でお礼を言う部下に苦笑しつつ、家の中へと入った。すぐにヒール、ジャケット、ノースリーブブラウス、スカートを順番に脱いでいけば、後ろから追いかけてきた修二が何故かそれを一つずつ拾っていく。そんなのハウスキーパーの由々ゆゆちゃんが拾っておいてくれるのに。キャミソールとペチコート姿で一階のバスルームに向かうと「おい…」と修二がついて来た。そのままバスルームの中まで入って来ると手に持っていた服をクリーニング用のバスケットへ放り込み、呆れ顔でわたしの手を引き寄せる。

「…どうしたの?」
「家ん中でもそんな恰好でウロつくなよ…。リビングにアイツら来てんだろーが」

"アイツら"とは他の幹部のことだろう。さっきエントランス前に止まっていたベンツはココか青宗のどちらかが来ていることを示していた。大方わたしが薬を盛られて攫われたと聞いて駆けつけたんだろう。

「別にわたしのこんな格好見たって今更誰も気にしないってば。別に下着を脱いで歩いたわけじゃあるまいし――」
「…オレが嫌なの」

修二は僅かに目を細めて見下ろしてくる。責めるような眼差しから目を反らしてしまうのは、修二のその顏に弱いからだ。

「そもそも…オレがGPS仕込んでなかったらオマエ、あのオッサンにヤられてたろ。分かってんのかよ」
「…その前に殺してたもん」

プイっと顔を反らせば、修二はまたしても溜息を吐いた。

「そういやさっきオレをヒールでブッ刺そうとしてたっけなァ?」
「…あれはだって…声もかけないで入って来る修二が悪い」
「中にもオッサンの仲間が隠れてっかもしんねーのに呑気に声かけするかよ」

苦笑気味に言いながら修二はわたしの腰を抱き寄せてきた。

「ちょ、ちょっと…もう…わたし、シャワー浴びるんだから修二は自分の家に戻りなよ…鉄っちゃん待ってるんでしょ?」

修二の家はわたしの家の隣にある。この一帯、ほぼ東卍の幹部の家で、数年前この高級住宅地の土地を東卍で買い占めたのだ。本当はココがこの辺りにタワーマンションを建てたかったらしいけど、この土地柄、"第一種低層住居専用地域"という建物の高さや建蔽率が最も厳しく設定されたエリアに指定されている。なので背の高い建物は基本禁止というルールがあるようで、タワーマンションは諦め、広大な土地にいくつもの豪邸を建てたというわけだ。おかげでご近所は全て仲間なのだから嫌になってしまう。

「オマエが無事だって連絡したら仕事に戻るってよ」
「…え、鉄っちゃんにまで連絡したの?やめてよ、大げさなことするの…」

普通に油断しての失態を上司である鉄っちゃんに知られたくはなかったのに、余計なことを言いやがってと修二を睨む。それでも引き下がらないのがこの男だ。

「あ?オマエ、オレがどんだけ焦ったか分かってんのかぁ?」
「だからそれは…悪かったってば…。感謝もしてるよ。助けに来てくれて…」

ますます不機嫌になる修二を見上げながら謝ると、いくらかは表情も和らいだように見えた。少しだけ身を屈めた修二は、わたしのくちびるに自分のくちびるを黙って重ねてくる。いつもなら突き飛ばすところだけど、今日は迷惑をかけたから甘んじてそれを受け入れると、腰を更に抱き寄せられて触れあっているくちびるが深く交わった。角度を変えながら何度か啄むと満足したのか、修二のくちびるが離れて、彼の左耳に下がっている長いピアスがわたしの頬をくすぐっていく。

「そろそろ…オレのもんになれよ」

ポンとわたしの頭に手を置いて軽く撫でると、修二はかすかに笑みを浮かべながら静かにバスルームを出ていく。キスだけで満足するなんて珍しいこともあるもんだと思いながらその背中を見送っていたら、ふと前にも危ないところを修二に助けてもらったことを思い出した。

――、オレの女にならねえ?

いきなりそんなことを言って来た若かりし頃の修二が脳裏をよぎって懐かしい気持ちになった。会ったばかりだっていうのに、修二は最初から自分の本能に素直だった。
あの日から、何度となく修二には助けられて今日まで生きてきた気がする。気づけば幼馴染の二人よりも、修二と過ごしてきた時間の方が長くなっていた。




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2005年、秋――。


家に帰るタクシーの中からキラキラと光るネオンを眺めていたら、無性に人恋しくなった。光は次第に小さくなっていく。街の喧騒から離れてしまえば、いつもの私に戻る。
――高校生の、わたしに。

「遅かったのね」

家に入ると玄関口に顔を出したママは不機嫌そうな顔を隠そうともせず、わたしを一瞥してリビングへと戻って行った。早く帰ると言ったのに遅くなったせいでイラついているようだ。小さく溜息をつき、あの男に借りたダサいサンダルを脱ぐと、きちんと揃えてからリビングへ向かった。
無駄に広い廊下の冷たい床は、傷ついた足に沁みる。リビングに顔を出すと、ママはシルクのガウンを羽織ってキッチンにいた。その手にはロックグラス。また酒を飲んでるようだ。歩いて行くと、ママはチラリとわたしを見て、上から下まで眺めると大げさな溜息をついた。

「そんな恰好でこんな時間までどこにいたの」
「…新宿」
「全く…またハジメくんや青宗くんと遊んでたの?」

ママはイライラしたようにソファの方へ歩いて行くと、座りながら「こっちに来なさい」とわたしを促した。仕方ない、とばかりにママの隣へ腰を下ろすと、すぐに肩を抱き寄せられる。

「アナタはあの子達と遊んでていい女の子じゃないでしょ」
「またそれ…?わたしは誰と一緒にいようとわたしだよ」
「何言ってるの。アナタは優秀なの。パパの子なんだから」

別れた男のことを自慢げに話しながら、ママはわたしの頭を撫でる。世界一の大国、アメリカで成功しているパパは確かに優秀なのかもしれない。色んな大物とのコネクションを持ち、そういう一癖も二癖もあるような人間たちとビジネスをして成功させるには、それなりの頭が必要だ。
実際、パパは今も海外の長者番付に名を連ね、大金を稼いでいるのは間違いない。そういうのを"優秀"というならそうなんだろう。けれど、父親としては決して優秀ではなかった。

「あんなの父親とか思ってないし。ママやわたしより他の女を取った男だよ。今だって金だけ振り込んで来るけどわたしに何の連絡も寄こさない」
「優秀な男はそういうものよ。、アナタは恵まれてるの。それを自覚して今はとにかく色んなことを学びなさい」
「それでいい大学いっていい会社に就職しろ?そんな安っぽいドラマみたいな台詞は聞き飽きた」

そう吐き捨てると、わたしの頭を撫でていたママの手がピタリと止まる。

「…!」

ウンザリして立ち上がったわたしの背中に、ママの甲高い声が突き刺さる。

「そんな話をするために、わざわざ早く帰って来たの?なら、もういいでしょ」
「まだ話は終わってない…って、、その足どうしたの!」
「え?ああ…これはちょっと…擦り傷が出来たから」
「何をどうすれば踵なんて擦り傷が出来るのよ。裸足で歩くわけじゃなし」

まさか裸足で新宿の街を疾走してきました、とは言えず、どう誤魔化そうかと考えている時、ママのケータイが鳴った。表示された名前を見てママは微笑んだから、きっと新しい恋人からだろう。ママの興味が完全にわたしから離れる瞬間だ。

「――もしもし。ええ、大丈夫よ。いいの。仕事なんだから仕方ないわ」

そんな会話を聞きながらリビングを後にした。ママは振り返りもしないで恋人との会話に夢中。今の様子だとデートをすっぽかされたから早く帰って来ただけだと分かった。どこの男だか知らないけど、ママのお眼鏡に適うくらいだからパパまでとはいかなくとも、金は持ってるんだろう。そういう男はだいたいが仕事を理由に約束をすっぽかすと相場は決まってる。母親のラブトークなんか聞きたくもないから、そのまま自分の部屋へ向かった。

「…はあっ」

ドっと疲れが出てベッドへ倒れ込む。こんなことならココ達と打ち上げに行けば良かった。そしたらあんな雑魚に追いかけられることも、足に擦り傷作りながら走ることも、お気に入りのヒールをなくすこともなかった。ついでに言えば、新宿の死神とか呼ばれてる男に助けられることもなく、楽しい夜になったに違いない。
足に貼られた絆創膏を眺めながら、ふとあの、人を煽るような強気な視線を思い出す。噂に聞いてた通り、危なそうな男ではあったけど、そこまでヤバそうなヤツには見えなかった。一瞬だけ見せた無防備な笑顔を思い出す。

「まあ、笑顔は悪くないか…。稀咲とかいう奴の方が胡散臭かったなー」

ケータイを開くと、先ほど登録したばかりの番号が二つ表示される。一つは半間修二、もう一つが稀咲鉄太と名乗った年下の男。一応、情報を仕入れるのに役に立つかと思って、言われるがまま連絡先を交換したのだ。

――君の力が欲しい。

稀咲という男はわたしにそう言って来た。あの男があの場に現れたのはたまたまでも何でもなく。わたしのことを知ってて助けたと聞いた時は心底驚いた。新宿の死神と遭遇したのは偶然だったけど、顏を合わせた時にはわたしのことを稀咲から聞いていたらしい。

――黒龍に優秀な情報屋がいると聞いたんだ。

稀咲はそう話してた。チームとしては消えかけていた黒龍を再構築し、今の形に変えたのはココとわたしだ。その噂を稀咲はどこからか聞いてきたらしい。

――オレと手を組まないか。君に損はさせない。

稀咲はそう持ち掛けてきた。稀咲と半間はあの東京卍會という渋谷のチームに在籍しているようで、その東卍を乗っ取りたいと騒動な話をし始めた。

――君と君の幼馴染の九井一。君たちがいれば東卍は更にデカくなる。

それを聞いた時、面白いとは思った。稀咲が絵図を描き、あの東卍を好きなように操る。好奇心がそそられた。退屈な日常を面白くしてくれるなら、手を貸してもいい。そう思うくらいに。
ただ会ったばかりの稀咲鉄太という男がどこまで信用に値するかが分からない。ついでに言えば今の黒龍をわたしとココが抜けるのは現実的じゃない気がした。

(あのクソボスからは逃げたいけど…青宗の為には黒龍にいなくちゃならない…)

わたしが黒龍にいるのはココと青宗の為でしかない。あの二人の突飛な計画には興味あるけど、やっぱりチームを離れることは出来ないと思った。

――明日、またここに来て欲しい。返事はその時にでも。

稀咲から渡されたのは新宿歌舞伎町にある出来たばかりのカフェだった。

――ここなら安心して来れるだろ?

稀咲は人懐っこい笑顔を浮かべながらそう言った。こっちの心情を理解し、女のわたしが安心して出向ける場所を用意する。年下ながら随分と頭が回る男だと感心してしまった。そして話の後はちゃんとタクシーを呼んで、それに乗せてくれた。何かの罠という可能性は捨てきれないにしても、稀咲と仕事をするのは楽しそうだ。

(アイツ…どこかパパと似てる…。自分の目的の為なら他人を平気で自分の"駒"にしようとする、あのスキのない目つき…)

父親のことは親としても男としても嫌いだ。だけど、金を生み出す才能だけは尊敬している。

「う~ん…惜しいな…黒龍がなくなれば、あの二人と遊んであげてもいいけどな」

駒になるふりをして、こっちも稀咲を駒にする。退屈しのぎにはなりそうだ。

(それにしても…新宿の死神とか言われてる男があんなに緩いタイプとは思わなかった…)

話は殆ど稀咲がしていた。半間修二はそれをワクワクしたような顔で聞いていただけ。きっと彼もわたしと同じで退屈な日常に飽き飽きしている類なんだろう。

――、今度オレとデートして。

帰りがけ、そんなふざけた口説き文句を言って来たけど、どこまで本心なんだかと疑うほどにノリが軽かった。こっちもそのノリで「いいよ」とは言っておいたけど、明日、稀咲に会って誘いを断ってしまえば、デートの件も忘れるだろう。

その時――眺めていたケータイが鳴り、表示名を見た瞬間、飛び起きた。

「もしもし、ココ?」
『おう。わりぃ…さっき電話くれた?着信、今気づいたんだ』
「…そっか」
『あれからすぐ店を変えて新宿から離れたし、ケータイ見る暇なくて』

だろうと思った、と笑って気持ちを誤魔化すのは何度目だろう。でも何だ。例えココに繋がっても新宿にはいなかったんだと少しだけ寂しくなった。
ベッドから抜け出し、ミュールサンダルを履いてバルコニーへ出ると、星も見えない空にポツンとぼやけた月が浮かんでいる。

『どうした?何かあったのか?』
「ううん…何でもない。ただ…電話したくなっただけ」
『何だよ、それ。今は?家着いたんだろ?』
「うん」
『おばさんの用ってやっぱ彼氏のことか?』

ココはわたしの家の事情も知ってるし、ママがどんな人かも理解してる。わたしがママともっと母娘らしい時間を作りたいと思っていることも。

「ううん…ただデートすっぽかされただけだったみたい。帰って早々説教されたよ」
『そっか…。そんなんならも来れば良かったのに』
「わたしもそう思ってたとこ。皆は?盛り上がってる?」

手すりのない笠木に両肘を乗せて身を乗り出すと、夜の闇に堕ちて行きそうだと思った。

『ああ。イヌピーなんかベロベロ。何で帰ったんだよって絡まれたし』
「あはは。青宗お酒弱いのに飲み過ぎたの?」

後ろからは楽しそうな笑い声が聞こえて来る。だいぶ出来上がってそうだな、と思いながら、明日の飲み会は大丈夫かと心配になった。

「明日もあるんだから飲み過ぎないでよね」
『ああ、分かってる。――今、行くって!』

後ろからココを呼ぶ声が聞こえて来た。

『あ、じゃあ切るわ』
「うん…じゃあね」
『また明日な。夕方の家、行くから』

ココはそう言って電話を切った。途端に静寂が戻り、あたしの口から小さな溜息が洩れる。チンピラに追いかけられたことを話すのは明日でいいだろう。アイツらはまだ諦めてないようだったから、注意を促すためにもココには話さないといけない。まだ黒龍が絡んでるとはバレてないはずだ。
再びバルコニーから身を乗り出すと、1Fからママの楽しそうな笑い声が聞こえて来る。すっかりわたしのことなど忘れて、電話デートに夢中のようだ。

パパは他の女の為にわたしを引き取るのを拒否して、ただ養育費を払うだけの他人になった。ママはいつも仕事と恋人に夢中で、わたしのことなんか飾り程度にしか思っていない。そしてココは未だに赤音さんに夢中で、本当のわたしを見てくれようとはしないのだ。

「……じゃあ…わたしはいらないじゃない」

欲しいと自ら望んだものは、この手からぽろぽろと零れ落ちて行く。
何かひとつだけでいい。確かなものが欲しかった。
ささやかな幸せなんかいらない。そんな小さな愛では――。