2005年、秋――。



"アンタなんか産まなければ良かった"

あれは赤音さんが家事にあって少しした頃のことだ。男と別れて酷く落ち込み、お酒を飲んで酔っ払ったママにそんな言葉をぶつけられたことがある。どれだけ言いつけを守っても、どれだけ優秀でいようと頑張ってても、意味はないんだって思った時、わたしはいい子であることをやめた。ココに協力するのに悪事に手を染めることさえ躊躇わなかった。

何で大人は、自分が子供だった頃のことを忘れてしまうんだろう。
どんな言葉で子供が心に穴を開けるのか、忘れてしまうんだろう。

子供は親の所有物ではなく、自分とは別の、心も感情もあるひとりの人間なんだと、何故分からなくなってしまうんだろう。

孤独を感じた夜はベッドで身体を丸くして眠る。そうすることで少し寂しさが埋まる気がするのは、母親のお腹の中で長い時間、こうしていたからだろうか。誰も自分の運命を選べないように、親は子を、子は親を選べない。わたしはここにいていいのかと、ママを見てると迷うことがある。
与えられた命は、必要とされなくなったら…どこへ捨てればいいんだろう――。




朝、一応学校に顔を出して、昼になったら稀咲鉄太との約束の場所にいくのに早退した。いつものことだから担任も何も言わない。きっともう、見放されてる。今のわたしには、それが楽だとさえ感じていた。
約束の時間に指定されたカフェへ行くと、稀咲くんは先に来ていて笑顔でわたしを出迎えた。ただ例の半間修二の姿はなく。こういう交渉は稀咲くんの役割なのかもしれないなと思った。

(何だ…助けてくれたお礼したかったのに…)

と手に持った物を見る。でもまあ、いないなら仕方ない。わたしも笑顔で手を振りつつ、テーブルまで歩いて行く。

「待った?」
「いや、オレも少し前に来たとこ」

稀咲くんはニコっと笑顔を浮かべてそう言った。さて。彼はわたしの答えを聞いてどんな反応をするんだろうか。そんなことを考えながら向かいのソファに座った。

「考えてくれた?」

彼は開口一番そう訊いて来た。昨日の時点でわたしが彼の話に興味を示したせいか、すでにOKを貰えるような顔をしている。でもわたしはある考えを持って自分の今の状況と、黒龍を抜けるのは無理だと言う理由を話した。

「…そうか。残念だな」

最終的に断った形になると、見る見るうちに愛想の良かった笑みが消えて、稀咲くんの顔から表情が欠落する。こっちが多分、本当の彼だ。自分の欲しいものに貪欲で、手に入れるまでは絶対に諦めない。稀咲鉄太はそう言う種類の人間だと確信した。

「あのクソボスさえいなくなってくれればねー」

わざとらしいくらい溜息を吐いて、注文したホットココアのクリームをスプーンですくう。極度の甘党だからアッと言う間にクリームはなくなった。わたしが食べてる間、何やら思案していた様子の稀咲くんは、ふと顔を上げて「ボスって…柴太寿だったな」と思い出したように尋ねてくる。

「うん。黒龍再建の為に仕方なくココが太寿をボスに仕立て上げたんだけど、ちょー我がままのワンマンで気に入らないことがあると女でも容赦なく殴って来るクソ野郎」
「…も殴られるの?」
「わたしは反抗的だからしょっちゅう殴られてる。だからわたしは抜けたいけど…幼馴染の二人は黒龍に思い入れがあるからきっと誘ってもムリ。わたしもその二人がいなきゃ嫌だし」

そこまで話してチラっと稀咲くんを見れば、彼はまた考えを巡らせ始めた。彼はきっと頭がいい。視野も広そうだ。きっと全体的に見て物事を組み立てていく能力が長けている。ジグソーパズルのようにピースを一つ一つ、自分の都合のいい場所から埋めていくことができる人間のように見えた。腕力じゃきっとボスはおろか、青宗やココにすら敵わなそうだけど、別のことでは他人よりも突出している人。そんな印象を受けた。

「…そういうことだから、ごめんね」

残りのココアを飲み干してから席を立つ。ついでに伝票を持つと「お詫びにここはわたしだすね」と言えば、稀咲くんはハッとしたように顔を上げて、わたしの手から伝票を奪った。

「オレが呼びだしたんだからいいよ。悪かったな。こんなところまで」
「そう?じゃあ…ご馳走様。また縁があればどこかでね」

そう言い残してわたしはカフェを出た。さあ、後は稀咲くんがどう動くのか、ちょっと楽しみだ。あの様子だとわたしを東卍に引き込むのを諦めた感じでもない。きっと策を練って、もしかしたらボスを排除してくれるかもしれない。まあ、これで諦めて何もしなかったとしても、それならそれで良かった。要は小さな種をまいたようなもので、ダメ元で言っただけだ。でも何となく確信はあったのかもしれない。稀咲くんはわたしが思っている以上にわたしやココの作る大金を欲していると。

(しばらくは様子見かなぁ…今夜ココにも話してみよう。ココは青宗が動けば動くと分かってるし…)

あれこれ考えながら繁華街を駅前通りに向かって歩く。でもまだ夜の約束までには時間もある。途中でファッションビルなどに寄り道して服やらアクセサリーを物色して時間を潰した。そして少しずつ日も暮れてきた頃、そろそろ移動しようかと一階に下りて外へ出ると、見覚えのあるツンツン頭の男が飲み屋のボーイ風の男と話してるのに気づいた。

「スーツってことは今日、デートっスか」
「まーなー」
「羨ましいっす!」

そんな会話が聞こえてきた。そう言えば今日稀咲くんの指定したあのカフェに、彼の姿はなかったけど、デートだったから?そう思ったらちょっとだけ悪戯心が芽生えた。わたしを引き抜く話より、死神と呼ばれている男が優先させたデート相手はどんな人だろうという興味も湧いた。それにちょうど彼に渡したい物もある。

今日ここへ来る前に半間修二の付けていた香水を買った。それは夕べのお礼のつもりだった。助けられたのは不本意だったけど借りを作ったままにしておきたくない。ココや青宗以外の男にプレゼントを買うのは初めてだ。それを手に、彼の後をつけていく。これは単なる個人的な興味だ。尾行なんてストーカーみたいだなと自分で苦笑しながらも、何となく楽しんでるわたしがいて、見つからないよう彼の後を追いかけた。
その時、わたしのケータイが鳴った。開いて見ればココという名前が表示されている。

「もしもし」
『…あ、か?』

ココは寝起きのような声で、少し元気がない。こりゃ二日酔いだな、と内心苦笑しながら「どうしたの?」と尋ねた。今日の飲み会は来れないっては話だろうか、と思っていると、ココは『は…学校?』と訊いて来る。

「それは午前中で終わり」
『じゃあ、もう帰ってんのかよ?』
「ううん。今は…」

と話しながら辺りを見渡すと、だいぶ色の変わってきた繁華街だった。

「新宿歌舞伎町」
『…は?誰と』
「ひとりだよ」
『…何でひとりで新宿なんか…昨日の今日じゃ危ねぇだろ…』
「大丈夫だよ。用済ませたらすぐ帰るし…。でもココ、具合悪そうだから今夜はやめとく?」
『いや…行くよ。まあ、でもちょっと二日酔いだから迎えに行くの遅くなりそうなんだ。だから電話した』
「あ…そっか。うん、いいよ」

一瞬ダメになったのかと思ったから来てくれると聞いてホっとした。時計を見れば夕方の5時を過ぎたとこだ。

「わたしもすぐ帰れないからちょうど良かった」
『ってか…マジ何で新宿なんかにいんだよ』
「ちょっと面白い人達と知り合って」
『面白い人達…?誰だよ』
「それは会ってから話すよ」

きっと今話したらココは変に心配して帰って来いと怒りだすだろう。それに込み入った話だから会った時に話すのが一番いい。

『分かった。じゃあ…ほんと気をつけろよ?』
「うん…ありがと」

ココに心配してもらえるのは嬉しい。わたしは素直に頷くと電話を切った。半間修二がどこへ行ったのか辺りを見渡すと、一つ分、頭が出ているのが見えて苦笑した。身長が高い相手だと、こういう時に便利だ。バレないよう追いかけて行くと、彼はあるカフェの前で止まり、店内にいる誰かに手を振っている。こっそり近づき、中へ視線をむけると、そこには飲み屋風の髪の長い女が座っていた。

「ふぅん…新宿の死神もああいうお色気系のお姉さまがタイプなんだ」

普通過ぎて逆に驚いた。半間修二ならもっとぶっ飛んだ相手を選ぶのかと思ったりもしてたけど、意外に女のタイプは普通だ。彼は優しい笑顔を相手の女に見せている。何となく釈然としない気持ちでそれを眺めていたが、ふとここにわたしが乱入したらどんな顔をするだろう、と考えてしまった。一度そう思ったら実行したくなってくる。
相手の女とはどういう関係か知らないが、わたしが乱入することで壊れるようなら大した仲ではないということだ。そう考えていたら自然と足が店内へと向いた。平日の夕方ということで、中は待ち合わせをするカップルで溢れている。わたしも待ち合わせのふりをして中へ入ると、二人の座っている席へ近づいた。途端に女特有の媚びってるような声がわたしの耳にも届く。

「半間くんとデートだから気合い入れちゃった。変?」

――半間くん、ね。やっぱそこまで深い仲じゃないんだ。半間修二はわたしに背を向けて座っていたから、隣に座るのはそう難しいことじゃなかった。
おかげでふたりの驚く顔は見れたけど――結果、カフェラテは飲めなかったし半間修二に怒られたしで散々だった。まさか女が帰るとまでは思ってなかったのだ。デートを邪魔してしまったのだから一発くらいは殴られる覚悟で責任を取ると言えば、意外にも彼はわたしを殴らなかった。怒ってるのに殴って来ない不良は見たことがない。"女を殴る趣味はない"そうだ。ウチのクソボスとえらい違いだと、本気で感心してしまった。クソボス相手だったなら今頃わたしは血を吐いて倒れてるだろうなとすら思う。

ヤバい噂しか聞かなかった男が、まさかのフェミニストだったとは意外過ぎて今度はわたしが驚かされた。同時に迷惑をかけたことに罪悪感を覚えて、素直にその場から消えようと思ったら、もう会わない、なんてつい言ってしまった。
でも歩きだした時、買ったものを渡すのを忘れてることに気づき、すぐに引き返す。

「は?」

案の定、彼はポカンとした顔でわたしを見下ろした。夕べのお礼のつもりだったけど、結果的にデートをぶち壊したお詫びになってしまったかもしれない。

「じゃあ…バイバイ。半間修二くん」

素直じゃないわたしは初めて素の笑顔を向けながら彼に背を向けた。自分の居場所に帰ろう――。
そう思ってタクシーを拾うのにメインの通りへ歩いて行く。

「この時間だと駅前まで行かないと車ないかな…」

ケータイで時間を確認しながら足を速める。すると誰かが背後で叫んだ声が聞こえて来た。何気なく後ろを振り向いた瞬間、頬に傷のある男と目が合う。

「……は?」

幻であって欲しいという願い叶わず、男は何かを叫びながら走って来る。その瞬間、わたしはまたか、とウンザリして一気に走り出した。今度は最初からヒールを脱いで疾走する。昨日の傷の痛みも残ってるってのについてない。やはり昨日の今日で新宿に来たのはまずかったか、と後悔が頭を過ぎった。再び人混みの中を駆け抜けながら、どこへ逃げるか頭を働かせる。男達はざっと見た感じ5人ほどいたように見えた。

(5人か…。昨日のことがあるからアイツらそう簡単にはバラけないだろうな…)

さすがに2千万円かかってると、相手も必死なんだろう。確かにあの重役は必ず殺してやるとまで言っていた。アイツらにそんな命令を出していてもおかしくはない。
捕まったら殺される――。
いや、すぐ殺されるならまだいい方かもしれない。お金の在り処や仲間達の情報を聞き出すために何をしてくるか分からなかった。何といっても本物のヤクザなのだから手加減はしてくれないだろう。

あまり詳しくない新宿の街中を右へ左へと走り回り、気づけば人気のない道へと来てしまっていた。今はココも青宗もいない。ここはひとりで乗り切らないと。
そう思った時だった。脇道から自転車が飛び出して来て、もろにぶつかる。自転車の男もひっくり返ったが、自転車を体で受け、コンクリートの上に倒れ込んだわたしは痛みで暫く動けなかった。横っ腹が抉られたように痛い。でもモタモタしていれば追いつかれる。そう思った時、腕をぐいと掴まれ、ハッと息を飲めば、頬に傷のある男がわたしを見下ろしながら笑った。

「やっと捕まえたぞ…このクソがっ」