⚠暴力的な描写が含まれます。苦手な方はご注意下さい。



「放してよ…ッ…」

そう叫んだ瞬間、頬を殴られた。平手だったけど耳鳴りがするほどの強さだ。唇が歯に当たり切れたのか、かすかに血の味が口内に広がった。
頬がジンジンと熱を持ち、痛みだす。じわりと額に汗が浮かんだ。薄暗い廃墟に連れ込まれ、二人の男に両腕を抑えつけられている。さすがのわたしもここから逃げ切る案が思い浮かばない。
視線で辺りを確認したけど、今にも崩れ落ちそうな廃ビルは周りを囲むコンクリートの壁しかない。随分と繁華街から外れたせいか、廃ビル近くの細い脇道は地味なラブホテルに行くような人間しか通らない。さっき見かけたカップルがワンチャン通報してくれてたら、という甘い願いも早々に打ち消した。

(それにしても…ここまで見通しがいいと逃げ切るのは不可能…)

走って逃げたところで隠れる場所もなければ視線を切る遮蔽物がないのだから、またすぐに捕まってしまうのは目に見えていた。あげく男二人は見張りをする為、ビル前の道を見張りに行っている。

「気の強ぇ女だ。泣きもしなければ、この状況でまーだ逃げる手を考えてやがる…」

頬に傷のある男は坂口と呼ばれていた。もし生きて帰れたら必ずこの男を徹底的に調べ上げて地獄のどん底に落としてやる。そんなことを考えながら坂口を睨むと、今度は反対側の頬を手の甲で殴られた。手のひらで叩かれるよりも強い衝撃で、痛みよりも頭がクラクラしてきた。

「オマエ、16なんだって?」
「……だったら何よ。未成年誘拐と暴行で訴えてあげようか?」
「そんな軽口叩いてられんのも今のうちだぞ」
「へへ…オレ、まだ女子高生とヤったことねぇんだよな…」

坂口が嫌な笑みを浮かべ、他の男達も乾いた笑い声をあげる。男5人がかりで女ひとりを拘束した途端、ニヤニヤしだした単細胞達には心底呆れた。
坂口の細く吊り上がった目は、さっきまでの怒りの色ではなく、今は男特有の情欲が滲んでいるように見えた。だいたい、こういう下っ端どもの考えることなんて判を押したようにみんな同じだから、まるで猿以下だと思う。案の定、顔を近づけて来た坂口を見て、わたしは思い切り横を向いてやった。

「タバコ臭い口、近づけないでくれる?オッサン、歯が黄色いんだよ。歯のクリーニング行けば?」
「あぁっ?テメェ、まだ自分の今の立場、分かってねぇらしいな…」
「…っ…」

思い切り胸倉を掴まれ、フリンジがぶちぶちと切れる音がした。昨日のヒール同様、お気に入りの服なのに、とこんな状況でも頭の隅でそんなことを思う。拘束されていた腕が自由になったと思った途端、瓦礫だらけの地面に押し倒され、両腕を抑えていた男達が、今度はわたしの脚を抑えつける。皮ジャンをはぎ取られ、ワンピースを破られ、悲鳴を上げれば容赦なく顔を殴られる。
ああ――わたしはここで、こんな下衆野郎どもに輪姦されて殺されるんだ、と意識が遠のきそうになりながら自分に失笑した。

(ココ、最後にもう一度、会いたかったな…ちゃんと好きだって言えば良かった。でも絶対に皆のことは話さないから――)

「なに笑ってんだ、このガキッ!」

ぼやけた視界の中、わたしに圧し掛かっている坂口がまた平手打ちをしてくる。だけど、その時だった――自由になっていた手の指先に硬いものが触れて、視線だけ向けてみると、それは瓦礫の一部だった。

(まだ…諦めるには早いか…)

逃げられないまでも、一人くらい道連れにしてやるのも一興だ。何とか指先を動かし瓦礫を掴むと、勢いをつけてわたしの胸元へ顔を埋めようとしている坂口のこめかみを思い切り殴りつけた。

「…ぎゃぁぁあっぁぅ!」

もろにヒットしたせいで坂口は絶叫するような悲鳴を上げて横へ転がった。こめかみからは血が沢山吹き出して、見るからに慌てている。

「…うああっああ…血っ?血が止まんねえ!」
「お、おい、坂口大丈夫か?!――このクソアマ…!」

血まみれで地面を転がり回っている坂口を見て、怒りを露わにした男がわたしの脚から手を離した瞬間、その顔面を蹴り飛ばす。裸足ではあったけど、見事に鼻の折れた音がした。

「ぎゃぁぁっ!!…ぁあ…は…鼻…っ」

鼻血をダラダラと垂らし始めた仲間を見て、もう片方の足を押さえていた男はギョっとしたようにわたしから距離を取ると、怒りのこもった顔でナイフを取り出した。

「舐めた真似しやがって…金と仲間の在り処を聞き出そうと思ってたが、もういい。テメェは殺す…!」

よろよろと立ち上がったわたしめがけて男がナイフを振りかざして向かって来る。こういう相手は楽だ。護身術で一番練習させられた状況だから。
突っ込んで来たらナイフを持った腕を流すように掴んで、その後に思いっきり投げ飛ばす――!
一連の動作を頭でシミュレーションしていた時だった。ナイフの男が勢いよく真横に吹っ飛び、コンクリートの壁に激突した。悲鳴もないまま地面に転がった男は、白目を向いて気絶している。
何が起こったのか分からず、唖然としたまま正面を見れば、そこには肩で息をしながら立っている半間修二がいた。

「こんなに…走ったの…いつ以来だ?クソ…っ」
「な…なんで…?」

さっきサヨナラしたはずだ。もう会わないって、そう言ったのに、何でここにいるの――?

「何で…?オレが知りてーわ…。はぁ~疲れた!」
「え…見張り…いたでしょ?」
「あ?あー…あの雑魚ね…。道の脇で伸びてる」
「……え」

何故、彼がこんな場所にいて助けてくれたのか、そんなことを考えるほど頭が回らなかった。ホっとしたら全身の力が一気に抜けて、その場に崩れ落ちる。

「おいおい…!大丈夫か?つか、大丈夫じゃねぇな、こりゃ…殴られたのかよ…?」
「痛…」

顎を持ち上げられ、唇から流れている血を拭ってくれた修二は、一瞬恐ろしいくらいの殺気を放ったように見えた。

「へ、平気、これくらい…慣れてる」
「慣れてる?他に誰に殴られんだよ、こんなに」
「…ウチの…ボス。ちょっとでも反抗したらすぐ手が飛んでくるクソ野郎だし…」
「はあ?オマエ、そんなクズの下についてんの…」

修二は呆れたように目を細めたけど、いきなりスーツのジャケットを脱いでわたしの肩にかけてくれた。驚いて顔を上げると「んな恰好じゃマズいだろ」と苦笑いを浮かべている。改めて自分の恰好を見てみれば、ワンピースは引き裂かれて下着が見えてしまっていた。

「…ありがとう…」
「お。初めて素直にお礼言ったな、オマエ」
「…わ、わたしは素直だもん、最初から…」
「はあ?どの口が言ってんだよ」

笑いながら、修二はふと辺りを見渡し、地面に転がっている血まみれのふたりを見て呆気に取られている。

「つーか気になったんだけど…あの二人やったの…か?」
「ああ…うん、まあ…」
「マジ…?」
「道連れにしてやろうと思って…たまたまアレ掴めたから助かった…」

そう言って転がっている血の付いた瓦礫を指さすと、修二は唖然とした顔をした後、思い切り吹き出した。クシャリと頭を撫でられゆっくり顔を上げると、わたしには見せたこともない優しい双眸がこっちを見下ろしている。

「…大した奴だな、オマエ」
「…え」
「とことんだり~女だけど…見直したわ」
「だ、だるいは余計…」
「減らず口は相変わらずだけどなー」

修二は笑いながら自分の肩にわたしの顔を押し付けて、頭をポンポンとしている。最初に会った夜に嗅いだ彼の香水の香りがして、何故か心が落ち着いた。
その時――頭から血を流した坂口がふらりと立ち上がったのが見えてハッと息を飲む。手には黒光りのする銃が握られていたからだ。

「チッ…テメェら…やっぱデキてたのかよ…」
「あ?何だ、まだ生きてたんか」

坂口に気づいた修二はわたしを庇うように前へ立つと、ビビった坂口が銃口を彼に向ける。しかしその手は震えていて狙いが定まってない。しかも坂口が持っているのは性能の悪い改造銃だ。あれなら当たらないだろうとは思ったけど、それでも銃に絶対はない。なのに修二は銃を向けられても顔色ひとつ変えず、逆に鼻で笑っている。

「へえ…浅間組がそんな物騒なもん持ってるなんて知らなかったなァ。こりゃお仕置きが必要だ」
「う、うるせぇ!こうなったら…オマエが死神でも関係ねぇ!その女と一緒にぶっ殺してやる…!」
「おーおー。飛び道具持った途端にイキがってんなぁ。に頭カチ割られて冷静さ失っちゃったぁ?」

挑発するように笑いながら坂口へ近づいて行く修二にギョっとした。坂口は出血している上に興奮状態で、彼の言うように冷静な判断が出来ていないように見える。至近距離であのまま発砲されたら、いくら何でも当たってしまう。

「ちょ…修二、危ないってば――」

そう言った刹那――彼は坂口の背後へ視線を向けると「お、稀咲、間に合った?」と一言、口にした。それが引き金となり、坂口は慌てたように振り向き、そこにいるはずの人物へ銃口を向ける。修二が軽く飛んで体を捻ったのは、まさにその瞬間だった。素早い回転で修二の長い足が坂口の側頭部を真横へ蹴り飛ばし、坂口は声もなく吹っ飛んで瓦礫の中へ崩れ落ちるのが見えた。

「バーカ。稀咲なんか来てねぇっての」

足元に倒れて気絶した坂口の背中を踏みつけながら修二が舌を出す。それを見たわたしは呆気に取られつつも、撃たれずに済んだことにホっと息を吐き出した。

「噂通り…えげつな」
「あ?バカか、テメェ。銃持ったヤツ相手に正面からぶん殴りに行けるわきゃねぇだろー?」
「…た、確かに…」
「は?おい、…!」

彼の声は聞こえてた。でも色々と限界を超えたわたしは、助かったと思った瞬間、意識が遠のいていく。冷たいコンクリートの上に倒れると思った時、ふわりとエゴイストの香りがして。力強い腕を背中に感じたと同時に、わたしは意識を失った。







「…稀咲!」

部屋のドアを開けた時、リビングから洩れてる明かりを見て稀咲が来てると気づき、その名を呼んだ。

「半間…?今夜デートじゃ……っは?」

慌てたようにすぐに顔を出した稀咲はオレが抱えてるを見て、ギョっとしたように固まった。

「な…どうした…?何があった」
「詳しいことは後で話すから救急箱、持ってきて。コイツ、あちこちケガしてんだよ」
「…分かった」

オレはを抱えたままリビングに向かい、そこのソファに寝かせようと思った。けど見れば格好も恰好なだけにそれもマズいかと、寝室のベッドへ寝かせる。そこへ稀咲が救急箱を手に入ってきた。

、どうしたんだ?まさか…」
「あ?オレじゃねぇ」
「んなこと分かってる。あれか…?浅間組」
「…ああ。話せば長くなるが…さっきデート相手との待ち合わせ場所にがいきなり乱入してきて――」

とりあえず稀咲にも分かりやすいよう、さっきあったことを簡単に話すと、さすがの稀咲も「情報量多すぎて混乱してる。ちょっと待て…」と言い出した。まあ、オレも同じようなもんだが、今はまずの傷の手当てをしなくちゃならない。殆どが殴られて出来た打撲や擦り傷だったが、さっきよりも肌が青くなってきて痛々しかった。綺麗な髪も引っ張られたのかボサボサになっている。

「ひとまず稀咲は出てて」
「あ?何でだよ」
の傷の手当てすんだよ。ジャケット脱がすから」
「……半間はいいのか?勝手に見て」
「別に素っ裸じゃねぇし、もうさっき見てる」
「…はいはい」

稀咲は溜息交じりで肩を竦めると、大人しく部屋を出て行った。それを確認すると先ほどかけてやったジャケットを脱がした。まあオレも文句を言われるかもしれないが、今はそれくらい元気があるならいいかとも思う。それでも意識のない女の下着姿を見るのもバツが悪くて脱がせたジャケットをかけてやった。

「…バカだな…オマエ」

顔にかかった髪を避けると、顔を殴られたのか頬は青く腫れて口元には出血した痕。手首や足首にも掴まれた跡が残っている。捕まった時に相当抵抗したのか、腕にも打撲痕があった。昨日、手当てした足の裏も同じような傷が増えているところを見れば、また裸足で走って逃げたんだろう。ヒールは廃ビルに転がっていたから、また「気に入ってたのに」とが嘆かないよう拾っておいた。

「何でこんな危ないことやってんだよ…」

切れたところを消毒しながら溜息をつく。こんな若さで何故、彼女が情報屋になったのか気になった。聞けば女も平気で殴るボスの下についているらしいし、暴力で支配でもされてるのかと思ってしまう。
その時、どこからかケータイの着信音が聞こえて、オレはふと顔を上げた。無造作に置いたのバッグから中身が少し出てしまったらしい。飛び出しているケータイが鳴っていた。二つ折りの背面にあるミニディスプレイには"ココ"の文字。友達か?それとも彼氏?と思いつつ、彼女の切れた唇にも消毒液を滲みこませたコットンを当てる。ケータイはしばらく鳴っていたが、そのうち切れた。

「…つ…っ」

消毒液の沁みた痛みで気づいたのか、が顔をしかめてゆっくりと目を開けた。その瞬間、目が合い、がギョっとしたように飛び起きる。当然、体を起こしたことでかけていたジャケットがするりと落ちて、は「ぎゃっ」と声を上げて慌てた様子でジャケットを拾い胸元に当てた。

「ななな何で修二が…?ってか…ここ…どこ?」
「オマエが急に意識失うし、仕方ねえから近所だったってこともあってオレんちに運んだんだよ…」
「え…意識…失ってたの…わたし…」
「気が緩んだんじゃねーの」

そう言った途端、は何があったのか思いだしたようだ。ハッとしたように目を見開き、すぐにシュンとした顔で俯いた。

「…そっか…ごめん、また迷惑かけたね…」
「…きも」

急に素直になられて顔をしかめると、はムっとしたように目を細めている。でもオレがちょっと驚くくらい、がこんな風に弱い顔を見せるとは思わなかった。

「っていうか…ここ…ホントに修二の家?」
「仕方ねぇだろ。オマエの恰好が恰好だけになるべく人目につかない場所つったら家しか思いつかなかったんだよっ」

ポカンとした顔のを見て、オレは溜息ついた。オレだって危ない女を自分の家に連れて来たくはないが、あのまま放っておくことも出来なかったんだから仕方ない。はまたしても目を伏せて「ごめん…」と言った。

「…明日は台風でも来そうだな。オマエが2度もオレに謝るなんて」
「……だって…あの状況で現れたってことは助けに来てくれたんでしょ?頼んでないけど」
「オマエは一言、多いんだよ、いつも」

呆れて額を小突くと、は軽く唇を咬んだ。よく見れば細い肩が震えている。

「どうした…?寒いか?ああ、オレの服で良きゃ着ろよ。いつまでもそんな恰好じゃ嫌だろ。オマエも」
「……丈夫…」
「…あ?」
「大丈夫……」

よく見れば、唇もかすかに震えていてドキっとした。は寒いから震えてるんじゃないと気づいたからだ。オレはクローゼットを開けると、中からの着れそうな長袖のシャツとニットを出して彼女に渡した。

「……泣きたい時は泣けよ。我慢すんな」

今頃恐怖が襲って来たのか、は自分の体を抱えるように座ると、顔を膝に付けて首を左右に振った。何かに耐えるようにしているその姿を見て、何故そこまでして強くあろうとする必要があるんだと思う。

「…大丈夫」
「…嘘つけ」
「ほんとに……大丈夫だから」

あんなことで負けないとでも言うように、は自分の体を抱きしめている。その姿がどこか儚げでいて、少しでも触れたら消えてしまうんじゃないかと思うほどの、脆さを感じた。