2016年、初冬――。



バスルームを出てリビングに顔を出すと、九井が慌てたように立ち上がった。で、オレだと分かると途端に溜息を吐くんだから失礼な男だ。

ならシャワー浴びてる」
「…そっか」

一緒だと分かるとホっとしたのか、少しだけ九井の表情が和らいだ。この男も相変わらずに振り回されてるんだから救えねえ。まあ、それはオレもだけど。

「んで?をヤろうとしたバカはどーした?」

九井はテーブルに出されたブランデーをグラスに注いでオレに渡してきた。それを受けとりソファに座る。

「そりゃ当然、処刑場へご招待したわ。あのオッサン、が東卍の人間だって知らなかったからなー。相当ビビってたし今頃、ションベン洩らして震えてんじゃね?」
「でもソイツは大企業の重役だよな、確か。さすがに消すのはヤバくね?」
「大丈夫だよ。重役つっても大した仕事はしてねえ。いわゆる天下りで名ばかりの重役らしい。ソイツが消えて喜ぶ奴がいても悲しむ人間はいないってよ」
「じゃあ…行方不明ってことで処理できそうな人間ってことか」
「ああ。妻とは別居、離婚裁判中。両親はとっくに他界してるし、あんなごく潰し一人この世から欠けても誰も探そうなんて思わねえ」

この短時間の間であのオッサンは稀咲に丸裸にされた。大人しく取り引きだけしておけば、まだ社内で今の立場を保っていられたかもしれないのに、の色香にやられてスケベ心を出したのが運の尽きだ。を簡単に抱けると思ったアイツが愚かすぎんだろ。

に手を出す人間は全員この世から消すって決めてんだよ、オレは」
「……半間がそれ言うとマジだから怖ぇわ」
「あれ~?ココもまだやましい気持ちあるわけ?」

ブランデーを煽りつつ身を乗り出せば、九井は徐に顔をしかめて「分かってて聞いてんだろ」と苦笑を洩らす。

「オレはとっくにフラれてんだよ。そういう意味では」
「フーン…まあ…独り占めはさせねえけどー」

新しくブランデーを注ぎながら笑うと、九井は更に呆れ顔で項垂れた。

「オレより、柴に言えよ。アイツ、しょっちゅうを口説いてんじゃん」
が受け入れてんなら仕方ねえだろ。嫌がってんならいつでも消す準備はあるけどな」

オレが苦笑すると、九井はまたしても呆れたような顔で溜息を吐いた。まあ言いたいことは分かってる。

「…オマエもたいがい歪んでるよな。のことは特に」
「まーねー。オレの愛は重てえの♡」
「自覚アリか」

九井が軽く吹き出した時、「何が自覚ありー?」とがリビングへ顔を出した。しかもバスローブ姿で。さっきのオレの忠告などまるで聞いていない。あげくその恰好のまま九井の膝の上に座るからオレの口元が僅かに引きつっていく。いや、九井の顔も若干引きつってるけど。

「ココ、心配してきてくれたの?」
「…当たり前だろ。無事でよかったよ」
「ごめん…」
「だからオレも行くつったのに」
「だってココは別の仕事があったじゃない」
「そうだけど…っていうか相手が素人だからって油断すんなっていつも言ってんだろ。以前にもそれで痛い目みてるってのに」

いつもの九井の説教に、もシュンと項垂れているのが可愛い。こういう時は幼馴染という関係に戻るようだ。

(まあ…この二人はそれだけの関係じゃなかったけどな…)

過去にあったことを思い出し、ふと苦笑が洩れる。あれから早いもんで10年以上の月日が流れた。あの頃はまさか、彼女と不毛な関係が続いて行くなんて思ってもいなかったし、まさかここまで溺れるとはオレも想像すらしていなかったはずだ。
新宿の街で出会った頃は、オレもも退屈な日常を吹き飛ばすことに夢中で、特にオレは稀咲の描く世界にひたすらワクワクしてたガキだった。そんな日々の中、突然現れたの存在が刺激的で眩しかった。今思えば、きっとあの時からオレはに惹かれてたのかもしれない。





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2005年、秋――。


「……じゃあ、ほんとにありがとう」

傷の手当てと、服を貸してくれたことにお礼を言って、彼が呼んでくれたタクシーに乗る時にそう言えば。優しい笑みを浮かべながら、修二は片手を上げて見えなくなるまで見送ってくれていた。その姿を振り返りながら、今度こそサヨナラだと思ったけれど、ふと着ているニットの暖かさに気づく。
借りた服は返さなければならない。

「"オレは心配してる"…か…」

さっき手を乗せられた頭に触れてみると、まだ彼の手の温もりが、残っているような気がした――。



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支払いを済ませてタクシーを降りる際、体を少し動かすだけで痛みが走る。それでも何とか降りて自宅までの少しの距離を、足を引きずるように歩いた。一歩、歩くだけで全身に痛みが走る。
修二には病院にと言われたけど、見るからに他人の手によって暴行された痕を見られたら警察に通報されてしまうから、それはかたくなに拒否した。すると今度は知り合いの医者がいると言われたけど、医者に診せるほどの傷じゃないと言って断ったのだ。痛みはあるけど骨は折れていないし、ただの打撲や擦り傷だけだろうから、日が経てば勝手に治る。
男達に乱暴された傷より、自転車に激突された脇腹が一番痛いのは、ちょっとだけ笑ってしまうけど――。

ふと我が家に視線を向ければ、いつも通り真っ暗だった。どうせ母は今夜も帰って来ない。この腫れた顔を見られたら、それこそ大騒ぎされるだろうから、こういう時は助かる。

「痛…っこりゃ明日になったら更に痛み増すやつ…」

脇腹を押さえつつ、どうにか家の門前まで来ると、鍵に着いたスイッチを押して門を開けた。何年か前にリフォームして自動にした時は大げさと思ったこの門も、手動で開けるのが面倒な時は便利だなと思うんだから我ながら文明の力にどっぷりハマっている現代人だと実感させられる。庭先を照らす灯りを頼りにエントランスを目指す。その時、視界に何かが動く気配がしてハッと足を止めた。

「…?」
「……ココ?」

エントランス前の柱に寄り掛かっていた人物がココだと分かった時、ホっとして笑顔になる。何度か電話がかかって来てたのは着信を見て気づいていたけど、修二の前で折り返すことも出来ず、帰ってから約束をすっぽかしたことを謝ろうと思っていた。でもまさか家の前で待っててくれてるなんて思わず、一瞬だけ喉の奥が痛くなる。

「…おま…どうしたんだよ、その恰好…どうした?」
「え…えっと…」

破られた服は泣く泣く諦めて捨てることにしたけど、下着姿で帰れるはずもなく。さすがに修二もスカートは持ってないし――当たり前だ――足の長いアイツのズボンを借りたところで大きすぎて無理だから、借りたシャツの上からニットのセーターを着ている。まあ彼のサイズは大きめだから少し短いワンピースに見えなくもないし、タクシーに乗ればドアツードアみたいなものだ。だからそのまま帰って来たけど、明らかにメンズ物を着ていたからか、ココは訝しげに眉を寄せている。裾を手で引っ張りつつ「ちょ、ちょっと借りたの」と言って歩いて行くと、今度は灯りに照らされたわたしの顔を見たココが、一瞬で青ざめた。

「…な、どうした、その顔っ?」
「…それも…中で話す」

痣になっている顔を見て動揺するココを宥めながら家に入ると、二人ですぐにわたしの部屋へ向かう。さすがに階段を上がる時はキツかったから、ココの手を借りた。

…何があった?!新宿に行ってたことと何か関係あんのかっ」

部屋に入った途端、ココは怖い顔でわたしの肩を掴んだ。こんな風に焦っているココを見たのは、赤音が火事に巻き込まれた時以来、初めて見た気がする。昨日のこともあるし、どこから説明しようかと頭を悩ませていると、不意に抱きしめられて驚いた。

「な、なに――」
「心配させんじゃねーよ…っ!」
「…ココ」

驚いて顔を上げると、怒りを滲ませたココの双眸と視線がぶつかる。それは本気で心配してくれてる証拠のような気がして、ふと胸が熱くなった。

「ごめん……ちゃんと説明するから座って」

ココをソファに促し、わたしも隣にそっと腰を掛けた。そこで順序立てて、昨日の帰りに例のチンピラ達に見つかって追われた際、逃げ込んだ先で遭遇した半間修二と稀咲鉄太のこと、そして今日、稀咲くんに会うのに新宿へ行ったらまた坂本達に見つかったことを全て話した。話している合間に、ココは何度も「は?!」とか「何やってんだよっ」と驚いたり怒ったりしていたけど、最後には深い溜息と共に項垂れた。わたしにとってはその溜息と無言が一番、怖い。

「ご…ごめん、ココ…。呆れた…?」
「ちょっと黙ってろ…。今、頭ん中整理してっから」
「…うん…」

ココが黙っている間、わたしも静かに待っていた。いつもならこういう空気が苦手で、どうでもいい話をペラペラ話したりするけど、今はとてもそんな雰囲気じゃない。昨日坂本達に見つかったのは不可抗力だけど、今日こんなことになったのはわたしが単独で新宿に行ったせいだ。それも個人的に稀咲くんの申し出に興味が沸いたから、なんて理由は、ココにとったらそれも危険のうちに入るだろうし、凄く呆れられてる気がした。

「ココ…?ごめんね」

これ以上の沈黙が耐え切れず、ついまた謝罪を口にした。でもココはふと顔を上げると、さっきよりは落ち着いた表情で「いや…」と首を振った。

「元を辿ればオレが悪い」
「…え、どうして?」
「昨日、が帰るって言いだした時点でオレが送って行くべきだった」
「え、そんなこと…」
「いや、そうだ。あんなヤバイ仕事した後なのにオマエをひとりで帰すなんて…迂闊だった…」

ココはそう言った後、わたしの赤くなった頬へそっと手を添えた。

「ごめん…怖かっただろ…」
「………ッ」

真剣な顔のココを見て、思わず首を振れば「嘘つくなよ」と強く抱きしめてくれた。その腕の強さに再び喉の奥が詰まったように苦しくなる。だけど胸にこみ上げた弱い心を押し戻しながら必死に堪える。
大丈夫――わたしは、大丈夫。そんな言葉を心の中で積み重ねていく。
ココにこんな風に抱きしめられるだけで、ココに必要とされるだけで、わたしは強くいられるから。

「…ココ?」

ココの体温に安心していると、不意にココがわたしの着ているニットを脱がし始めてドキっとした。慌ててその手を止めると、不満そうな双眸と目が合う。

「な、何?」
「これ…半間に借りたんだろ?」
「あ…うん…わたしのはボロボロで悲惨な状態だったから貸してくれて――」
「脱げよ」
「…え?」
「香水の匂いが気になる…」

ココはそう言って顔を背けた。よく分からないけど、機嫌が悪そうだ。でもわたしだっていつも香水は付けてるのに。そんなことで文句を言って来たこともなかったココがどうしたんだろう。やっぱり知らない相手だし、新宿の死神とか呼ばれてる修二のことは、直接敵対したことはなくてもココは嫌なんだろうか。

「じゃ、じゃあ…着替えるね。あ、その前にシャワー入って来る」

ココが機嫌悪いのはわたしも嫌だ。そう言ってソファから立ち上がろうとした時、腕を引き寄せられ、気づけば押し倒されていた。

「コ、ココ…?」
「シャワー入んなきゃなんねぇようなこと、されたの?半間に」
「え…さ、されてないっ!言ったでしょ?彼は何の関係もないのにわたしを助けに来てくれたんだってば」
「…彼?へぇ…随分と親しくなったんだな、半間と。オレが聞いた限りじゃそんな甘い男じゃねぇだろ。助けたのだって何か裏があるに決まってる」
「…ココ」

怖い顔でわたしを見下ろしてくるココに、胸が痛くなった。確かに、彼らは友達でもなければ仲間でもない。けれど、わたしを助けに来てくれた時の修二を見る限り、本気で心配してくれてたように思う。でも…それをココにどう説明したところで、きっと上手く伝えられないだろうと思った。

「もう、会わねえんだろ?」
「え?あ…うん…」

借りた服のことが頭を過ぎったけど、それを言えばココはもっと機嫌が悪くなる気がして素直に頷く。するとココの雰囲気が少しだけ和らいだ。

「…痛いか?」

わたしの頬にそっと触れて訊いて来るココに「少し…」と応えれば「アイツら…っ」と拳を握り締めた。

「あのチンピラどもを追い込むのは簡単だが…あの重役の男も許せねぇ…」
「でもあの重役もアバラ折ったから入院してるかもしれないよ…?」
「なら好都合だ。そもそも最初に裏切ったのはアイツなのに何でがここまでやられる必要がある?」

ココは怒りを露わにすると「このままじゃ済まさねえ」と言って、もう一度わたしの頬に触れた。

「乱暴なことしてごめん…痛かったよな…」

そう言ってソファから下りると、ココはゆっくりと立ち上がった。

「シャワー入って来いよ…髪も汚れてるんじゃ落ち着かないだろ?」
「う、うん…」

廃ビルであれだけ暴れたせいで、砂利やら埃にまみれてバサバサだから確かに落ち着かない。脇腹が痛いからゆっくり体を起こすと、バスルームへ向かう。でもふと足を止めて「ココは…帰っちゃうの?」と訊いた。

「いや、いるよ。がいいならだけど」
「…いいに決まってるじゃない」

わたしがそう言うと、ココはかすかに笑ったようだった。こんな夜はココに傍にいて欲しい。ひとりじゃ、とても眠れそうになかった。

「うわ…改めて見ると酷いな…」

バスルームの鏡に映った自分の顔を見て思わず目を背ける。頬を二度も殴られたから内出血のように赤くなっていて、自分でも酷い顔だと思った。傷に響かないよう、借りたニットとシャツを脱げば、腕や太腿にも痛々しい切り傷や打撲の跡がある。切ったところは修二に消毒はしてもらったから腫れは少し引いていた。

「シャワー入ったら沁みそう…」

というより腕を動かすだけで痛い。しばらくは動けないだろうなと思った。動けるようになったら借りた服はクリーニングに出して、返す時はマンションの宅配ボックスに入れておこう。
修二はわたしが稀咲くんの誘いを断ったと思ってるし、最後は少しは打ち解けられた気がしたけど、ココが嫌がるならもう関わらない方がいいかもしれない。かすかに香水の香りがする服を紙袋に入れてクリーニング用の棚へとしまった。
この夜はココが泊って行ってくれたから、わたしはぐっすりと眠ることが出来た。
泊ったのに何もしないでココと一緒に寝たのは初めてで、少しだけ物足りなく感じたけれど。