2005年、秋――。


あれから一週間、ケガはだいぶ治って来て、顏の痣も消えつつあった。一番重症だった脇腹も内出血が酷かったものの、今は痛みも取れて、赤黒かった痣は黄色味がかってきたから完治に向かっているようだ。
結局ママは帰宅しても娘への関心は薄く、風邪を引いたとマスクをして誤魔化していたら頬の痣のことはバレずに済んだ。

「あー退屈…」

この前まで痛みで動けなかった分、今は思い切り遊びに行きたい気分だ。ココやイヌピーには一週間は大人しくしてろと言われて、今夜の集会もわたしだけお留守番状態だった。
例のチンピラ――修二が浅間組だと教えてくれた――達はあの後どうなったのかは分からないけど、ココが報復するのに組のことを調べているらしい。最初の取り引き相手の重役はやはり入院してたようだけど、一度病院へ様子を見に行ったら正規のボディガードを雇っていて近寄れなかったみたいだ。きっと自分が雇ったチンピラが返り討ちにあって、次は自分が狙われるとビビッてそんなものを雇ったんだろう。最初の取り引きを普通に終わらせていたら向こうも利益を得て円満に済んだというのに、バカでケチな上司を持った重役のオッサンに逆に同情してしまった。

「でも許さないけどね…。そろそろあの会社のこと調べようかな」

裏取り引きに乗って来て、反社の連中とも繋がってるくらいだし色々と後ろ暗いことだらけだ。大会社の裏事情を暴いて警察に垂れ込むのもひとつの手ではあるなと思った。
パソコンを開き、そこの会社のホームページを開く。あの重役のオッサンは自分の会社のことはバレてないと思っているだろうが、取り引きが決まった時点でコッチは相手がどこの誰かは調べてある。

「そう言えば…アレ、次は誰に売ろうか…」

ふとパソコンの横に無造作に置いたままのカラフルなUSBを手に取った。この前、売ろうとしていた貴重な情報だ。あの重役は疑ってたみたいだけど中身は全て本物で、この中には富裕層たちの情報が入っている。情報屋をやるにあたって絶対にインチキはしないと決めていた。こういう裏稼業にも信用が大事なのは世間と変わらないからだ。この情報はあの会社じゃなくても欲しがる会社は多いはずだし、他にも大きな会社の機密情報をいくつか手に入れているから売れば相当な額になる。

「でも売る相手も今度からはきちんと調べて選ばないとなぁ…」

とは言え、その金を吸い上げるだけのクソボスの顏が浮かぶと気持ちが萎えてしまう。ソファに寝転び、溜息をつくとケータイを開いてココに電話してみようかと思った。今頃は集会の最中で皆がクソボスの機嫌を取ってるだろうなと思うと笑えて来る。
ソファから起き上がると、わたしはケータイを手にバルコニーへと出た。今夜は薄っすらと雲が多く、星は隠れて見えない。ぼやけた朧月だけが滲んでいる。

「だいぶ寒くなって来たなぁ…」

かすかに吹いて来る北風の冷んやりとした感触に、中秋を感じる。そう言えばいつの間にか金木犀の香りがしていた。この匂いを嗅ぐと秋だなぁと思う。
その時、手元のケータイが震えてドキっとした。

「…誰だろ」

てっきりココかイヌピーかと思った。わたしが家を抜け出してないかの確認電話――ここ三日ほどかかって来ていた――かもしれない。だから相手も確かめずに通話ボタンを押した。

「もしもし?」
『ああ、か?』
「……ッッ?!」
『お~い。もしもーし。聞こえてっか?』
「は…半間修二…?何で…」
『ひゃは♡ よく分かったな。声だけでオレだって。もしかしてオマエ、オレのこと好きなのかァ?』
「バ…バカ言わないでよ…!」

通話口の向こうから相変わらず人を煽るような笑い声が聞こえて思わず言い返してしまった。そんなの軽く流せばいいだけなのに。

『冗談だよ。んな怒んなって』
「……べ、別に怒ってないし」

深夜に近い時間帯なので声を潜めてすぐに室内へと戻り、窓を閉める。

「…で、何の用?」

そう尋ねた時、背後で何やら殴るような音と悲鳴が聞こえた気がした。ついでにその後ろからかすかに聞こえるこの音は――。

「…海?今、海にいるの?」
『おー』
「…何で…っていうか、後ろ騒がしくない?もしかしてケンカでもしてるの?」
『いや、ケンカじゃねぇよ。一方的な暴力』
「…は?」

どういう状況なんだと思った。いや、それに何でそんな状況下でわたしに電話なんかしてきたんだろうと。色々訳が分からなくて黙っていると、不意に悲鳴の声が大きくなった。この声は聞き覚えがある。

「…この声…坂口…?」
『大正解♡』
「ちょ…な、何してんの…?」
『言ったろ。一方的に制裁を与えてるって』

修二はそう言って笑っている。でも何でそんなこと、と思っていると、彼は不意に真剣な声で『…』と呼んだ。

「な…何?」
『今、ここに浅間組の奴らが全員、正座させられてる』
「…え?」
『オマエを襲った連中、あの場に放置してたら姿消してやがって、やっと今日見つけたんだよ』
「何の…為に?」
『だーから制裁だって。まあ、新宿流のなー』
「意味わかんない…何で…」
『ま、オマエの為とかじゃねぇから安心しろ。これはルール破った組を潰す為にやってる。ってか正確に言えばオレじゃなく、アイツらと同じ世界のヤツらがな』
「…え?」

修二は言った。だからもうオマエを追う奴は二度と現れない、と――。
それがどういう意味なのか、聞かなくても分かった。背後から聞こえて来る命乞いが、まさにその理由だ。修二はルールを破った組を潰すのに、同業者を操ってアイツらを消すと言ってるんだ。

『だからオマエには安心して新宿に来いよって言いたかったのと、あと…オマケのご褒美あとで送ってやっから』
「……ご褒美?」
『ああ、アイツらの組を調べたら繋がってる連中の情報が載ってる書類が色々出て来たんだよ』
「…繋がってる…って、まさか」
『その情報はオマエが好きにしろ。じゃあな』
「え?ちょ、ちょっと待って――」

と言おうとしたが、彼からの電話は一方的に切れてしまった。

「な…何なの、アイツ…」

わたしの為じゃないなら、何でいちいち電話なんかしてきたんだろう。

「アイツら…まさか海に沈められる…とか…?」

ふと先ほどの悲鳴と波の音を思い出した。修二は直接手を下してないようだけど、多分懇意にしている組の人間が敵対してたアイツらの組を潰すのに――。
よく映画のセリフで聞くアレになってしまうんだろうか。

「…東京湾に浮かんじゃったり…するやつ?」

唖然として呟いた時、ケータイのメールを告げる着信音が鳴って「ひゃぁ!」と飛び上がる。見れば本当に情報を送って来たのか、知らないアドレスから何かが添付されているメールが届いていた。恐る恐る開いてみれば、それはあの重役の会社が反社と繋がってると分かる書類で、メッセージには『大会社と反社のラブラブな関係の証拠だから好きに使え』とだけある。

「これ…わたしが調べようとしてたやつ…」

それを修二がアッサリと見つけてくれたようだ。

「何なの…ほんと…。マジで…変な男…」

何でこんなに色々と助けてくれるんだろう。
そう思いながらもケータイに入った短いメッセージを何度も読み返す。
ただ不思議と――あの夜の恐怖が綺麗に消え去っていた。




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「ひぃぃ…!!た、助けて…!!オレは何もしてねえ!」

浅間組の組長が情けない声を上げているのが聞こえて来て、思わず吹き出した。銃を買いあさっておいて何もしてないは笑える。他の組との条約を破り、裏でコソコソ銃の密輸をして、あげく勝手に取り引きをしていたのだからこうなって当然だ。

「半間、この雑魚はもういいのか?」
「気が済むまでボコしたから、もうダイヴさせちゃって」

組の若いもんが引きずって来た坂口という男はに頭カチ割られ、オレに殴られ、ケガを直すのにオレの知り合いの闇医者のとこへ逃げ込んでいた。それをとっ捕まえて浅間組と敵対していた風間組へ引き渡したのは、ついさっきだ。ついでにのことで追加のお仕置きをしておいたから、今は虫の息だった。

「な…な…んで…や、やめろぉぉ!!」

顔中腫らしながらも、まだ暴れる元気があるらしい。風間組の奴らに体をロープでグルグル巻きにされても必死で抵抗している。

「おらぁ、コッチに来いっ」
「い、いやだあ!頼む…!助けてくれ!警察に出頭するからっ」

オレの方に叫んでる坂口の方へゆっくりと歩いて行けば、縛られた状態で膝をつき「助けてくれ」と哀願して来る。目の前にしゃがんでニッコリ微笑んでやると、殴られてパンパンに腫れている坂口のかすかに見える目が僅かな希望を灯す。

「女、平気で輪姦まわそうとするクズの頼みなんか聞けるわけねぇだろ」
「……ッ」
はさぁ、気が強い女だろ?けど…オレの知り合いだって分かってて手を出した罪は重いから」
「あ…あれは頼まれて…ッ」
「おーい、連れてっていーぞー」
「ひぃぃやめろぉぉっ」

立ち上がって風間組のヤツを呼べば、すぐに二人がかりで海の方へ運ばれて行く。この埠頭から沈められれば明日には流されて、どっかの沖へ出るだろう。運が良ければ東京湾に16体の水死体が迷い込んで見つけてもらえるかもしれない。

「せーのぉ!!」
「うわぁぁぁっ」

足にたっぷり重しをつけられた坂口と他の奴らが次々に投げ込まれて行くのを見下ろしながら、オレは笑顔で手を振った。オレの街にこういう奴らは必要ない。男達が沈んでいった辺りの水面に浮かぶ泡を眺めながら、オレは咥えた煙草に火をつけた。そこでケータイが鳴り響き、ポケットから出せば、ディスプレイには稀咲と表示されている。

「もしもーし」
『終わったか…?』
「ああ、ちょうど今、ダイヴさせたとこ」
『そうか。でも…そこまでする必要あったのか、半間』

稀咲が苦笑気味に訊いて来た。まあ今回は前から知り合いの風間組と敵対してた浅間組がオレの知り合いにやらかしたってことでお仕置きしただけだが、稀咲にとってもいい方向へ向かうかもしれないから一石二鳥の仕事だ。

「稀咲さぁ、どうせ黒龍潰す気でいるだろー?と九井ってヤツを手に入れる為に」
『……どうしてそう思う?』
「ひゃははっ。そんくれー分かるし。オマエは一度断られただけで引くような男じゃねえじゃん。だからまあ、にとっての邪魔者を消せば、多少は感謝されるかと思ったんだよ」

オレが応えると稀咲はかすかに笑ったようだった。やっぱりまだ諦めてねえじゃん。

『…とにかく、黒龍のことはまた詳しく調べて計画を考えるぞ』
「…りょーかい。あと一時間ほどで行く」

そこで電話が切れて、オレは吸っていた煙草を指で弾いて海へと捨てた。アイツらへの線香代わりだ。

「これでまだまだ退屈しなさそ~」

稀咲の計画は始まったばかりで、これから描く壮大なシナリオにワクワクしながら埠頭を後にする。まさかこの後、稀咲が手を下すまでもなく、あの花垣武道が黒龍とモメることになるとは、オレも予想すらしていなかった――。



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2016年、初冬――。


薄ら寒いビルの地下深く。暗い廊下にヒールの音と革靴の音だけが響く。の誘拐騒ぎから一夜明けて今日。彼女を連れて東卍の"ごみ処理場"へとやってきた。夕べに薬を盛った重役のオッサンを処理すると話したら、彼女も「行きたい」というので、仕方なく連れて来たのだ。

「なあ…何もが行くことねえって。いつも太栄に任せてんじゃん」
「だって…最後に一発ぶん殴ってやんなきゃ気が済まないもん」

よほど頭にきてるのか、は薄暗い廊下を大股で歩いて行く。こうなると誰も彼女を止めることは出来ない。まあ気持ちは分かるが、彼女にはあまり処理には関わって欲しくないってのがオレの本音だ。なるべく汚いことには手を汚さず、その美しいグリーンアイには綺麗なものだけを映していて欲しい。
――まあ、これはオレの願望だけど。

通路の奥にある大きな両開きの扉を両手で開けたが中へ足を踏み入れた瞬間、「お疲れ様です!」と一斉に部下達が頭を下げる。その前を歩いて行ったは中央で椅子に縛られ、ボロ雑巾のようになっている男を見て「…Oops!」と声を上げた。自分が殴るまでもないほどに腫れてる顔を見て素で驚いたようだ。
――まあ、やったのはオレだけど。

「うっわー…これじゃ誰か分かんない」
「そうかぁ?この辺のハゲ具合で分かんだろ」

と言いながらオッサンの頭のてっぺんを指さすと、は身を屈めてマジマジと見ている。

「あー言われてみれば…って、ちょっと!やめてよ、そーいうの」

思い切り吹き出したは何かに気づいたようにオレを見上げた。

「修二がやったの、これ」
「ズタボロにしたって言ったろ」
「…やりすぎ」

が呆れた目でオレを見てくるから盛大に溜息が洩れた。コイツは自分の存在価値をちっとも分かっちゃいない。

「オマエに手を出そうとした男に手加減する理由が見当たらねえ」

言いながら手を引き寄せて腕に収めると、身を屈めて唇を寄せる。でも彼女の人差し指がオレの唇へ触れた。

「うわ、今日は焦らす感じ?」
「バカ…こんな処刑場で何考えてんのよ」

言いながらはするりとオレの腕から逃げていく。ため息が漏れて頭をガシガシ掻きつつ、広い室内を見渡す。言われてみればこの場所には死臭が漂っててもおかしくはない。火葬用の機械に粉砕機、骨すら溶かす濃厚な硫酸風呂。邪魔者ゴミを消す道具は一通り揃ってる"処刑場"という名のゴミ処理場だ。これを揃えたのは稀咲だ。この場所を知ってるのは最高幹部とその部下だけ。ここで処理されるのは東卍にとって邪魔な人間だが、今日みたいに一般人が連れて来られるのは珍しい。殆ど稀咲とオレの独断みたいなものだ。

「コイツ連れて来たの鉄っちゃんは知ってるわけ?」
「そりゃそうだろ。稀咲さん・・・・が連れてけって言ったんだし」
「え…そうなの?」
「当たり前だろ。東卍の最高幹部のオマエをさらったんだ。東卍だと知らなかったにしろ、タダで済ませられねえ」
「そっか…。あ、それでオッサンの裏にいた組織の方は?」

思い出したようにが振り向いた。大会社と言えど、裏でオレ達みたいな反社と繋がっていたようで、そっちはすでに特定済みだ。

「徹底抗戦の構えになるかもなァ」
「抗争ってこと?」
「東卍を日本最大の組織にするには邪魔な組織だった」

それだけ告げるとはすぐに思い当たったようだ。

神力会じんりきかい…」
「そういうこと」

オレの一言に楽しげな笑みを浮かべたはもう一度、すでに意識のないオッサンへ視線を向けた。

「まさかそことつるんでたとはねー。忌々しい」

過去に因縁のある組織がバックにいたということで、の唇が楽しそうに弧を描く。その悪女ばりの笑みにオレも苦笑を零すしかない。

「オマエ、今すっげーわっるい顔になってンぞ」
「え、そう?ブスい?」
「いや、そそられる」
「何それ」

は軽く吹き出しながらドアの方へ歩いて行きかけたが、ふと足を止めて部下の方へ振り向いた。

Hey!Put your rubbish in the rubbish bin.ねえ、そのゴミ、捨てといて
「…I got it!」

の部下が威勢よく返事をして意識のないオッサンを奥の地獄へと運んでいく。でもはすでにオッサンへの興味は失せたのか、サッサと廊下を歩いて行くんだからゲンキンな女だ。

「ねえ、今、神力会の傘下組織を相手してるのって誰?」
「あー…古参かな、確か」
「あ、タケミっちのとこ?」
「アイツのことだから…のらりくらりやってんだろ、どうせ」
「ふーん…まあ…タケミっち気が弱いからなぁ」

は笑いながら、ふとオレを見上げて微笑んだ。何かだりーことを考えてるって顔だ。

「ってことで仲間に入れてもらおーよ」
「…言うと思った」
「だって抗争するなら手を組んだ方がいいでしょ」

今の東卍は一枚岩じゃない。古参のメンバーと元黒龍のメンバーは特に仲が悪くてバチバチだった。そんな相手と手を組もうと言えるのはくらいしかいない。コイツは何故かどの幹部とも上手く付き合ってる。

「修二も付き合ってくれるでしょ?」

足を止めて腕を絡めてくるは無邪気な天使のように可愛い。なのに考えてることが敵対組織との抗争なんだから嫌になる。で、オレの中の答えは最初から一つしかない。

「仰せのままに」

そう応えて今度こそ唇にキスを落とせば、は花のように色づいた綺麗な微笑みを浮かべた。