2006年某日。この日はあいにくの雨だった。東卍の集会は早々に解散となり、それぞれがバイクで帰って行く。
"無敵のマイキー"こと、佐野万次郎率いる東京卍會の傘下に入って数か月。古参メンバーは意外といい人達ばかりで、それなりに上手く付き合っているものの、中には敵意丸だしの人もいる。その理由は分からないけど、わたしが黒龍だからというわけでもない気もする。ココや青宗はそれなりに馴染んでいるからだ。

――オマエ、稀咲の女か。

さっきもそんな意味不明な言葉を投げかけられ、本気で驚いてしまった。そう絡んで来たのは壱番隊の副隊長、松野千冬という男だった。その男は最初からわたしを見る目つきがキツかった気がする。でもその質問をされた時、何となく彼がわたしに敵意を向ける理由が分かった気がした。いや実際の理由は分からないけど、わたしが鉄ちゃんの紹介で東卍に入ったことも含め、普段よく一緒にいるからなんじゃないかと感じた。松野千冬が鉄ちゃんや修二にも似たような態度をとっていたのを思い出す。

(珍しい…鉄ちゃんは普段、人当たりよく接する人だから、あまり敵は作らないタイプなのに。まあ…修二は真逆だけど――)

その時「おい、!帰るぞ」とココの声がした。マイキーとちょっと話があるというので神社の建物がある場所で雨宿りしながら待っていたのだ。青宗もバイク組だから先に帰ったけど、わたしとココはここからタクシーを拾って帰るのがいつものパターンだった。

「げ、本降りじゃねーか」

ココが大雨の中、慌てた様子で走って来る。

「あ~あ~。特攻服、濡れちゃったね」

すぐにポケットからミニタオルを出して濡れた場所を拭いてあげた。黒龍の白い特攻服は凄く似合ってたココは、東卍のいかにも暴走族といった感じの特攻服はあまり似合わない。見慣れないせいかもしれないけど、何か違和感がある。まあ、それはわたしにも言えることだけど。さすがに女で上下はアレだと思ったのか、特攻服を作っているという弐番隊の隊長さんが上着だけにしてくれたから、下は私服のスカートやパンツを合わせている。
刺繍の入った胸元も水滴を払うように拭いていると「さんきゅ」とココが苦笑した。

「もう少し小降りになるまで待つか」
「そうだね。電話でタクシー呼んじゃってもいいけど」

そう言いながら、ココと二人で雨宿りも悪くないなと思う。

、寒くねえ?」
「うん、平気。足元ちょっと冷えるくらい」
「つーかスカート短すぎだろ。いくら6月だっつっても、まだ気温も寒い日があるのに」
「だって朝は蒸し暑かったんだもん…」

そうは言いつつも確かに失敗だったかな、とは思った。ココは渋い顔をして「男だらけの中でそーいうの着てくんじゃねえよ」とブツブツ言っている。少しは心配してくれてるのかなと、それだけで嬉しくなってしまうんだからわたしも単純だ。

「何ニヤニヤしてんだよ」
「別に!あーお腹空いたぁ…」
「…オレも」

時計を見れば午後9時になるところだった。何も食べずに来てしまったから余計に寒さが身に沁みるし、お腹が情けない音を出すからココに笑われてしまった。

「雨じゃなかったらどっかで食ってくんだけどな」
「だね~。あ、じゃあウチ寄ってく?何かデリバリー取ろうよ」
「そうだなー…。あーでもやめとく。それだとあんまり時間ねえし」

ココはそう言いながらケータイを開いている。何となく空気的に分かって「誰かと約束あるの?」と聞いてしまった。

「ああ、まぁ…ちょっと稀咲や半間とな」
「…鉄ちゃんと修二?あ、じゃあわたしも――」
「それはダメ」

パっと顔を上げて言ったわたしの言葉を遮るようにココが笑った。その含みのある言い方が気になって「何で?」と尋ねる。

「…まあ女呼んで飲むらしいから、そこは察しろ」
「…は?何それ」
「何って合コンだよ。半間に誘われたの。人数足りねえから来てくれって」
「…な…合コン?ココ、前は誘われてもそんなの行かなかったじゃない」
「別に数合わせで行くだけだよ。イヌピーも一緒だしサッサと帰ってくんだろ、多分」
「……フーン。二人で行くんだ」
「オマエは行ったって仕方ねーだろが」

分かってる。別にわたしが怒る筋合いでもない。わたしはココの彼女でも何でもないんだから、それを止める権利は何一つないってこと。そこで気づいた。青宗もそれに参加するなら、さっきココをバイクに乗せて二人で帰っても良かったのだ。でもきっとココはわたしがこんな時間に一人で帰ることになると心配して家まで送ってくれようとしている。

(何だ…そういうことか…)

いつもなら嬉しかったその行動が、今はちょっとだけ腹が立った。わたしのことなんか好きじゃないくせに、そこまで気にしてくれなくていい。

「じゃあ、もう行けば?」
「あ?」
「わたし、一人で帰れるし」
「いや、でも遅いし――」
「タクシー乗っちゃえば平気!じゃね!」
「は?あ、おい!」

早口でまくし立てるとわたしは雨の中を駆けだした。ココが何か叫んでいたけど、それを振り切るように神社の長い階段を下りていく。だけど夏用のミュールが脱げそうになって一度足を緩めると、ふと振り返ってみた。でもココは追いかけてはくれなかったようだ。

「…ココのバカ」

雨粒を顔に受けながら、くちびるを噛みしめると、今度はゆっくりと階段を下っていく。最後の一段を下りると、そこには当然誰もいない。いつもは沢山のバイクが止まっているけど、皆帰ってしまった。

「修二のヤツ…何で合コンにココ誘うの…?ったく腹の立つ…」

ブツブツ文句を言いつつ、車の拾えそうな大通りまで歩き出そうとした、その時。ミーという小さな猫の声が聞こえた気がして、ふと足を止めた。

「え…猫…?」

それも小さな仔猫のような声だった気がして辺りを見渡す。雨の音がうるさくて今はよく分からない。でも気のせい?と思った時、またしてもミーと今度はハッキリと声が聞こえて驚いた。階段の両脇にある植え込みから聞こえてきた気がする。

「嘘…こんな場所に仔猫…」

と思ったものの、この神社には時々猫が数匹たむろしてるのを見かけたことがある。もしかしたらその猫のどれかが仔猫を産んだのかもしれない。

「え、どこ?」
「ミーミー」
「ここ?」

暗くてよく分からないけど、またハッキリと鳴き声が聞こえて、わたしは植え込みをケータイで照らしながら覗き込んでみた。するとすぐそばの草むらに小さな黒猫が丸くなって震えているのが見える。急な雨に驚いてこんな場所まで来てしまったのかもしれない。

「オマエ、お母さんは…?」
「ミー…」
「どうしよう…オマエ、ひとりぼっちなの?」

小さな体で震えてる姿を見ると、どうしても置いて帰ることが出来なくなってしまった。まるで今の自分を見ている気がしたから。

「おいで…怖くないよ…」

わたしが近づいても逃げる様子はない。時々神社の神主さんが猫にご飯をあげてるからこの子も人馴れしているのかもしれないけど、もしかしたらお腹が空いて弱っているのかも、と思うと心配になる。

(保護したいけど母猫と引き離すことになったら…)

と一人でアレコレ迷っていた時、突然遠くからバイクの排気音が聞こえて来てハッとした。見れば雨の中、ライトが白く光って見える。それがだんだんとこっちに向かってくる。誰?と思っている内に、バイクはあっという間に近くへ来て、ブオォンという一際大きな音をさせた後で停車した。

「…え」

ライトの眩しさで目を細めながらも降りて来た人物を見て驚いた。それは壱番隊の副隊長、松野千冬だったからだ。彼はわたしの存在に気づくとギョっとしたように足を止めた。

「オマエ…んなとこで何してんだよ…」
「そっちこそ。花垣隊長と帰ったんじゃないの」
「オ、オレは…その…」

珍しく口ごもる松野千冬を訝しく思いながらも、バイクのライトを見て良いことを思いついた。

「あ、ねえ。バイクのライトでこの茂みを照らしてみて」
「あ…?何で」
「ここに仔猫がいるんだけど、黒猫だから暗くてよく見えないの。お願い」
「…猫…って…オマエ、見つけたのかよ」

松野千冬は驚いたように歩いて来ると、わたしの隣にしゃがみこんだ。そんなに食いつくとは思わず、ちょっと驚きながらも「帰ろうとしたら鳴き声が聞こえて」と事情を説明した。

「マジか…オレもさっき帰りがけに声が聞こえた気がしたんだけど、その後は何も聞こえなくなったし気のせいかと思って帰ったんだ。でもやっぱちょっと気になって」
「え…キミ、その為にこの雨の中、戻ってきたわけ?」
「……わりーかよっ。ウチでも猫飼ってんだよ」
「へえ…意外。猫好きなんだ」
「オマエこそ」
「わたしは…動物なら何でも好きだよ」
「へえ、意外だな」
「…む」

さっきのお返しとばかりに煽られ、つい目を細めたものの。懐っこい笑顔を浮かべている彼にちょっとだけ驚いた。彼がわたしにこういう顔を見せるのは初めてだ。

「じゃあちょっと待ってて。照らすから」
「あ…うん」

松野千冬はバイクまで戻ると、向きを変えて茂みの辺りを照らしてくれた。するとさっきの仔猫がまだ同じ体勢で丸くなってるのが見える。

「ほら、この子」

戻ってきた彼に指で示すと「お、ペケJの小さいときに似てる」と顔を綻ばせた。

「…何よ、そのペケJって」
「ウチの猫。ソイツも雨の日に拾った黒猫で元々は違う名前つけてたんだけどさ。前の…ウチの隊長が付けてくれた名前」
「へえ…変な名前」
「あぁ?!テメェ、ケンカ売ってんのかっ」
「別に売ってないしタダの感想でしょ?ちなみに前の名前って?」
「……チッ。エクスカリバー」
「ぶはっもっと変な名前!ペケJで正解」
「あ?!いちいちムカつく女だな、オマエ!」

どうやら松野千冬は短気らしい。今じゃ立ち上がって上から怒鳴ってくる。キャンキャンうるさい小型犬みたいだと思った。

「っていうか、そっちこそ。わたし二歳年上なんだからね。いい加減、敬語使いなさいよ」
「は?オレが敬語使うのは場地さんだけだ」
「…ばじ?ああ…前の隊長さんって人?」
「……ああ」

何故か急にトーンダウンした彼はプイっとそっぽを向いた。前の隊長という人は去年、あのハロウィン抗争の時に亡くなったということだけは鉄ちゃんから話に聞いてる。千冬の横顔を見ていたら、何となく気持ちが伝わって来た。

「そっか…千冬はそのばじって隊長さんのこと大好きだったんだね…」
「…は?呼び捨てすんな!つーか大好きとか恥ずいこと言ってんじゃねえっ。オレは場地さんを心から尊敬してんだよっ」
「いいじゃん。年下なんだから呼び捨てで。そもそも尊敬も大好きも同じだと思うけど」
「あ?同じじゃねえだろっ」
「同じだよ。っていうか千冬がキャンキャン吠えるからこの子が怖がってんじゃない」
「…キャンキャンってオレは犬じゃ――っあ、わりい…」

文句を言いかけたものの、千冬は震えている仔猫に気づき、声を小さくしながら頭を掻いてる。雨に濡れて彼の金髪がキラキラとライトに反射してるのが綺麗だ。雨も今は霧雨に変わっていた。

「つーか…オマエ、そいつどうする気だよ」
「ホントは保護したいんだけど、母猫がいるなら引き離すのも可哀そうだし迷ってたと……ックシュ!」

雨に打たれ続けて寒さも限界にきたらしい。急に鼻がムズムズして盛大にクシャミをすると、さすがに仔猫もビックリしたのか、今までジっと動かなかった子が飛び上がるようにして神社の方へと走って行く。あ、と思って立ち上がった時、仔猫の走って行った上の方に少し大きめの猫がこっちを見ていることに気が付いた。いつも神社をうろついている猫だ。

「あ、あの子、母猫かも!黒白だし」
「あー…ほんとだ。多分そうだな、あれ」

どうやら母猫も仔猫を探してたらしい。ミャァと鳴くとさっきの黒猫が草むらから顔を出して母猫の方へ走って行く。それを見て心底ホっとした。

「良かったぁ…ふぁ…ックシュ!」

ホッとしたと同時にまたクシャミが出て、千冬が「大丈夫かよ…」と呆れ顔で笑っている。自分だって濡れネズミのクセに。

「オマエ、オレが来る前からここにいたのかよ。この雨ん中」
「…うんまあ…震えてるあの子置いて帰るに帰れなくなって…」
「…バカじゃねえの、オマエ」
「バカって…っていうか、さっきからオマエ、オマエって。わたしにはっていう名前があるの」
「……知ってるっつーの」
「ああ、それと。わたし別に鉄ちゃんの女でも何でもないから――」

と言いかけた時、突然大きな物が飛んで来て思わず条件反射でキャッチする。見ればそれはバイクのヘルメットだった。

「え?」
「…仕方ねーから送ってってやる」
「え、でも…」
「まあバイクだし寒いかもしんねーけど、ここから歩いてタクシー探すよりは早い。オマエ…の家はどこだよ」

千冬は素っ気ないながらも今度はちゃんと名前を呼んでくれた。最初は生意気だと思ったけど、案外いいヤツかもしれない。

「港区…」
「じゃあ送ってくから乗れ」
「え…でもいいの…?」
「いいから言ってんの。サッサと乗れよ。風邪引くぞ、マジで」
「う、うん…ありがと…」
「おう」

確かに見つかるか分からない車を雨の中探すより、バイクで送ってもらった方が早そうだ。ここは千冬に甘えることにした。バイクは青宗によく乗せてもらってるから慣れている。ヘルメットをかぶって、先に乗った千冬の手を借りながら後ろの席へと乗った。

「んじゃーしっかり掴まってろよ」
「うん」

青宗よりも少し細めの腰に腕を回すと、千冬はエンジンを吹かしながらバイクを発車させた。この後、千冬はきちんと家まで送ってくれて、その頃にはお互い雨でびしょ濡れ。次の日にはやっぱり風邪でダウンしたけど――これが、松野千冬と親しくなったキッカケだった。


△▼△


(…雨、か。あの日は大変だったなあ…)

千冬とホテルで会った帰り、ポツポツと降って来た雨が車の窓ガラスを濡らし始めたのを見て、ふと懐かしい気持ちになった。長いこと雨に濡れたせいで結局ひどい風邪を引いて、後から聞けば千冬も風邪でダウンしたって言ってたんだっけ。でもあの夜がキッカケで千冬は少しずつ打ち解けてくれた。何故鉄ちゃんを憎んでたのかはそれから後に知ったけど、あれほど尊敬してると言っていた人を失ったのだから気持ちは痛いほど理解できる。きっと今も千冬は鉄ちゃんのことを許してないだろう。

――場地圭介を殺したのはオレだ。マイキーの信頼をオレに向ける為に色々と仕込みが必要だったんだ。

前に鉄ちゃんはそう話してた。表向きは抗争中、仲間を殺人犯にしないため、場地圭介が自殺をしたという話みたいだけど、そもそも、そういう流れを仕込んだのは鉄ちゃんだ。千冬もきっと鉄ちゃんが何をしたかは薄々気づいてるんだろう。今もきっと復讐する為だけに東卍に居続けている。本当は、こんな犯罪組織になり果てた東卍は見たくないはずなのに。
その時、不意にコンコンと窓ガラスを叩く音がしてハッと我に返った。顔を上げると、傘をさした修二が窓を覗き込んでいる。気づけば車は自宅に到着してたようだ。

「来てたの?修二」

すぐに車を降りると、修二がわたしの方へ傘をさしてくれる。今夜は仕事相手と飲みに行くと話してたのに、来てたのは意外だった。

「やっぱ気になって早めに切り上げたんだよ」

修二は言いながらごく自然にわたしの手を繋いで家の方まで歩き出した。きっとわたしの様子を探りに来たんだろうなと内心苦笑しつつ、修二の手を少しだけ強く握り返した。

「で…?千冬は何だって?」
「…協力するの承諾してくれた」
「だろうなぁ?で……その後は?」

修二は苦笑いを浮かべていたけど、ふと真顔になってわたしの顔を覗き込んだ。伊達メガネの奥の瞳はちっとも笑っていない。

「何もしてないってば。すぐ帰って来たし」
「……へえ?」
「あ、疑ってるんだ」
「…………」

ジトっとした目で見上げてやると、修二はふいっと視線を反らす。この男は昔から嫉妬深くて、他の男と会うだけでもすぐスネる。

「ま…それは今からベッドへ行けばすぐ分かる」
「…な…何するつもりよ」
「ひゃは♡ それオレの口から言わせてーの?」
「………」

いや、言われなくても何をされるのかは分かっている。わたしが千冬と寝てないか確認するんだろう。前にされた時は散々で、朝までベッドから出してはもらえなかった。
でも――わたし達は恋人じゃない。裏社会に生きてるわたし達は、そんな甘ったるい関係以上に深く繋がっている。
東卍が巨大になっていくたび、大きな物を手にする代わりに、小さなものは手のひらから零れ落ちていくけど、この手だけは離したくないと思う。

「なあ、そろそろ一緒に住まねえ?」
「今更?隣だし住んでるようなものじゃない」
「全然ちげーわ。この壁邪魔じゃね?いっそぶっ壊して庭繋げて二世帯住宅みたいにする?」
「この地域でそんな工事すんの何気に大変なんだからね。まあ近所はウチの幹部だけしかいないからいいけど、若からの苦情が凄そう…」
「アイツ、裏じゃん。聞こえねーよ。反対隣の稀咲さんは普段その家にいねーし」
「でもなあ…庭繋げたら修二、普通に入り浸るでしょ、ウチに」
「ばはっバレた?」

修二は楽しそうに笑いながら、繋いでいる手に指を絡めてきた。

「よし、決めた。あの壁ぶっ壊そう」
「ちょっと!勝手に決めないでよ」

相変わらず勝手で嫉妬深くて、独占欲の強い男だ。
だけど、知っている。今、繋がれている騒動なタトゥーの入った大きな手が、わたしにだけは誰よりも慈しみを持つ、優しい手だということを。