触れあっていた熱がゆっくりと離れていく。
一瞬、至近距離で見つめ合い、またくちびるが重なる。
刹那的に胸を走る切なさは、彼に恋をしているんだと、わたしに自覚させた。
東京卍會、総長。"無敵のマイキー"こと、佐野万次郎に――。

マイキーと知り合ったのは二年前、わたしがココや青宗と東卍に入った時だった。当時のマイキーの印象と言えば、"ケンカが恐ろしく強い"とか、"甘党""我がまま""理不尽"と、あまりいいものでもなく。マイキーもまた、わたしのことを"生意気""金にうるさい""男たらし"なんて最悪な印象を持っていたらしい。何だ、男たらしって。
だけど、マイキーは心の中に闇を飼っていた。時折見せる凶悪な一面は、普段の彼とはまるで別人。それに気づいた時、少しの興味を持った。それまでは"鉄ちゃんのお気に入り"という目でしか見ていなかったけど、何故鉄ちゃんが彼に固執しているのかも、好奇心を煽られた。
その頃、わたしとマイキーは、チームの仲間というだけの稀薄な関係だったけど、マイキーと親しくなったのは当時、東卍を潰そうと目論む神力会と抗争になった時だ。鉄ちゃんが参謀として作戦を立て、神力会を潰すため、わたしに情報を盗めと言ってきた時から、すでにマイキーを操る計画は始まっていたんだろう。
わたしは知らずに、その片棒を担がされたわけだ。
でもその時は、わたしも何も知らなかった。
まさか、その計画の中に、マイキーの妹の命を奪うことまで含まれていたなんて、わたしは知らなかった。




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「え…これって…」

電気工事の作業員を装い、神力会の事務所に忍び込んだ青宗が、奴らのパソコンに仕込みを施してくれたおかげで、簡単にデータを入手することに成功した。この時はまだまだ情報漏洩に対する意識も薄く、セキュリティが甘かったのはラッキーだった。
中身は神力会が関わった取り引きや、殺人、詐欺など、悪事の情報が詰まっていた。これを警察にリークすれば、神力会も終わり。そう思っていた。でもその中に、東卍を調べたような情報があるのを見つけた。

「佐野…エマって…マイキーの妹じゃない?」
「え、ああ…確かこの顔…そうだな」

データをココに見せると「間違いない」と頷いた。
そこには東卍総長である佐野万次郎、そして家族構成までが載っていて、顔写真までついている。

「でも妹さん、先週事故で亡くなったんだよね」
「…ああ。ひき逃げだったらしい。まだ犯人は…」

と、そこまで言ってココは言葉を切った。

「まさかあの事故…」
「…神力会の仕業…?」

互いに顔を見合わせる。考えてることは同じらしい。

「マイキーは…?最近、姿が見えないけど」
「…お葬式の後から集会にも顔を出さねえからな。まあ皆も察して今はそっとしとこうって話になってる」
「そう…でもこれは伝えないと…」
「いや、でもまだハッキリ神力会が関わったかどうか分かんねえだろ」

ココは慎重に調べないと、と言って帰って行った。でもわたしはどうしてもマイキーの妹の死が、コイツラと無関係とは思えなくて、すぐに鉄ちゃんに相談した。

「…確かに怪しいな」
「でしょ?」
「でもまだマイキーに言うには情報が足りねえ」
「どうする?」

鉄ちゃんはしばらく思案してから、また後で連絡すると言って、どこかへ出かけて行った。でもその夜、わたしはアジトへ呼び出され、鉄ちゃんにとあるホテルへ連れて来られた。

「ここのラウンジに神力会の幹部が来てる」

鉄ちゃんは、どうやって調べたのか、そう言ってわたしに荷物とこのホテルのルームキーを渡してきた。

、オマエ、ソイツを誘ってここの部屋へ入れ」
「…は?それって…」
「その男は若い女に目がねえ。ソイツを誘惑して部屋に誘い込め」

最初、何を言われてるのか分からなかった。手渡された荷物の中身は、大人っぽいセクシーな雰囲気のワンピースドレスで、きちんとヒールまで用意されている。

「わたしに…ソイツと寝ろと?」
「まさか。部屋に誘い込むだけだ。勘違いするな」
「……何だ。ビックリした」

誘い込むだけと訊いてホっとした。よく見れば、服や靴の他に小さなポーチが入っている。中身は怪しげな錠剤だった。

「上手く誘い込んで部屋でそれを飲ませろ。相手は酩酊状態になるはずだ。そこでオレが行って尋問する」
「…どこでこんな物…」
「天獄組だ。海外で出回ってるセックスドラッグの一種だそうだ」
「ふーん…」

鉄ちゃんはマイキーにも内緒で、神力会と以前から敵対している、天獄組という反社組織と深い繋がりを作っているのは知ってた。こんな物を入手できるくらい親密なのか、と少し驚く。でも東卍を日本最大の組織にしたいという彼の夢の為なら、それくらいはしないといけないんだろう。
それが怖いと思う反面、わたしもどこか、鉄ちゃんがどこまで駆け上がるのかワクワクした気持ちになっていた。

「出来るか?」
「…うん。でも万が一危なくなったら…」
「心配するな。必ず助けてやる。ただし、ハッキリするまで情報は洩らしたくねえ。ココや乾には何も言うな」
「…分かった」

いつも危ない橋を渡る時、ココと青宗がそばにいてくれた。だから不安がないかと言えば嘘になる。でも真相がハッキリすれば、神力会はマイキーの敵にもなるということで、鉄ちゃんが彼をこちら側に引き込むいいキッカケになる。そう思ったからこそ、引き受けた。
ただ一つ問題だったのは――誘惑する相手が悪すぎたことだ。




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ビリビリとドレスが破かれる音が、まるで悪夢のようだと思った。

――若い女に目がねえ。

鉄ちゃんはそう言ってたけど――。

(コイツの趣味、それだけじゃないよね?!)

寸でのところで男の手を交わし、身を翻すと、掴まれたドレスの裾が引き裂かれ、プラダなのにもったいない、と呑気な事を考える。男はいい感じに酒に酔い、簡単にわたしの誘いに乗ってきた。言われた通り、用意されていた部屋に男を連れ込んだまでは、計画通り。でもまさか部屋に入っていきなり襲い掛かってくるとは思わない。
予定では部屋に入り、まずは軽く酒でも飲んでから、という流れを想定していた。その際、酒に鉄ちゃんからもらった薬を飲ませるはずだったのに、これじゃあ飲ませる前に、わたしの操が奪われそうだ。いや、処女ではないけど、これは気分の問題だ。

「ちょ、ちょっと落ちついて」
「へへ…落ち着けるかよ…いい女と鬼ごっこってのも乙なもんだな。コーフンするぜ…」

男は汚いひげ面を心底楽しそうに歪めながら、よだれを垂らす勢いだ。こんな男にヤラれるなんて冗談じゃない。と言って、危なくなった場合はケータイを鳴らせって言われてるけど、そのケータイの入ったハンドバッグは、さっき男に抱き着かれた時、殴るのに使ったら部屋の隅まで飛んで行ってしまった。そこまで取りに行くには、この男の横を通り過ぎなければならず、今、テーブルを挟んで睨み合っているこの状態では、かなり厳しい。

(鉄ちゃんが広い部屋を用意してくれてて助かったけど…どうする?)

視線を動かし、何か武器になるものはないかと探していく。
男は神力会の幹部というのも頷けるほどに体格がいい。大柄で身長は修二くらいありそうだ。でも横にも大きいから、まるでプロレスラー。いくらわたしでも、こんな大男の腕力には敵わない。出来れば掴まれないよう、遠距離で戦える何かが欲しい。
ジリジリと近づいてこようとする男から距離を取りつつ、考える。

「あんま焦らすなよ…誘ってきたのはオマエだろ」
「だ、だから、まずは落ち着いてお酒でも…」
「酒ならたらふく飲んでんじゃねーか。お互いに」

そう。ラウンジで近づき、男と何倍かお酒を飲んだ。その際飲んだカクテルで、地味にわたしも酔っている。あまり長期戦になるのはよろしくない。

「ま、まだ飲み足りないの、わたし…」
「へえ…じゃあ…しゃぶってくれたらオレのたらふく飲ませてやるよ」
「……おえぇ」
「あ?」

ゾッとするようなえげつないセクハラを受けた気持ち悪さで、つい素が出てしまった。そんな汚いもの死んでもごめんだ。

「おい、これ以上、焦らす気なら無理やり犯すぞ、コラ。散々オレを誘惑しておいて、今更嫌だなんて言わねえよなァ?」
「……む、無理やりはちょっと…」
「へへ…照れんなよ、可愛いな」
「……(照れてないっ)」

途端にニヤケ始めた男の顔が、あまりに気持ち悪かったせいで、全身に鳥肌が立つ。しかも男は今ので更にコーフンしたのか、下半身がおかしなくらい盛り上がっていた。

(…ぎゃ!何でもう勃ってるわけ?!キモすぎる!)

股間の辺りが巨大なテントのようになっているのを見て、本気で吐き気をもよおしてきた。
男は今にもテーブルを乗り越えて襲い掛かってきそうな勢いだ。このままじゃ捕まって裸にひん剥かれて犯される。そう思ったわたしは、イチかバチかバッグを取りにいくことにした。

「おっと…逃がさねえよ」
「……チッ」

素早く左に動こうとしたら行く手を阻まれ、思わず舌打ちが出る。男はどこか楽しんでる様子だった。女を追い詰め、怖がるのを楽しむ変態野郎かもしれない。

(こうなったら椅子をぶん投げて、アイツが怯んだ隙に走るしか…)

ドアまで逃げるよりはバッグの方が近い。わたしは目の前の椅子を掴むと、意外とずっしりくるソレを、男の方へぶん投げようとした。でも男はその瞬間、テーブルを乗り越え、自分の体重ごとわたしにぶつかって来た。

「…きゃっ」

椅子を弾き飛ばされ、わたしは後ろに倒れ込んだ。ついでに後ろにあったソファの角に、後頭部を打ち付けたようだ。一瞬、意識が飛びかけクラっとした。

「つーかまーえた」
「……く…っ」

視界が回り、動かない身体の上に男が圧し掛かってくる。ドレスの胸元を両手で引き裂く音だけが、耳に響いてきた。

「へへ…いい体してやがる…若くてスベスベだなぁ、おい」
「…ゃっ!…」

下着の上から胸を揉まれ、出来る限りの抵抗をする。でも男はまるで岩のように動かず、唯一動かせる両手すら拘束され、床に縫い付けられてしまった。

(もう…ダメかも…)

その時、一瞬だけ修二の顔が脳裏を過ぎった。

――オレもついてこうか?

ここへ来る前、鉄ちゃんのアジトで顔を合わせた修二が、心配そうに言ってくれたのだ。でも鉄ちゃんが「今日はダメだ」と、何故か修二をついて来させなかった。

(まさか…こうなること分かってた…?いや、でもわたしを陥れても鉄ちゃんには何のメリットもない…)

男はコーフンしたようにドレスを引き裂き、最後に下着に手をかけてきた。もうダメだ。そう諦めかけた時だった。
――バン!
ドアの開く大きな音が聞こえた気がして、視線を向ける。すると中に誰かが駆け込んで来るのが見えた。最初は鉄ちゃんかと思ったけど、その人物が勢いよく走ってくる姿がハッキリ見えた時、わたしは小さく息を飲んだ。

「マイキー…?」

彼は途中で床を蹴り上げ、空中に飛んだと思った瞬間、わたしに圧し掛かってる男の顔面を、思い切り蹴り飛ばした――。




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「…な、何で…」

あっという間に男を気絶させたマイキーは、裸同然のわたしに自分の着ていたTシャツを脱いで着せると、いきなり抱き上げてきた。驚いて声を上げた時、マイキーの視線がドアの方へと向き、そこから鉄ちゃんが入ってくる。

「良かった…間に合ったようだな」
「…鉄ちゃん?何で…」

確定するまでマイキーには言わないと言ってたのに、どうして?と不思議に思っていると、鉄ちゃんは溜息交じりで「他の筋から証拠が出たんだ」と言った。

「やはりマイキーの妹を事故に見せかけて殺したのは、神力会。だからマイキーに話した。そこでに引き上げてもらうために電話したが一向に出ねえし、嫌な予感がしたから一緒に駆けつけたというわけだ」

どうやらわたしのやろうとしてたことは無駄骨だったらしい。ちょっと唖然としてしまったけど、今頃になって震えが襲ってきた。もう少しで、あんな下衆野郎に襲われるところだったんだと思うと、心底ゾっとする。ぶつけた後頭部も痛いし散々だ。そう思っていると、マイキーがふと、わたしを見下ろした。

「悪かったな…オレの妹のために」
「え…?あ…ううん…結局、何も役に立てなかったし…」
「……ありがとう」
「………」

真剣な顔でお礼を言うマイキーに、何故か心臓が反応してしまった。妹をそんな形で失ってツラいのは彼のはずなのに。

「えっと…自分で歩けるよ」
「いいから。このまま稀咲の車までオレが運ぶ」

マイキーはかすかに微笑むと、わたしを抱えたまま平然とホテルの廊下を歩いて行く。
この時、確かにマイキーとの間に、以前とは違う空気を感じていた。
そしてこの日を境に、マイキーは変わっていく。どういう心境の変化があったのかは分からない。妹を殺めた神力会の下っ端、命令した幹部を殺し、そして、そのことを止めようと苦言を呈した仲間の粛清を始めた――。