2016年、冬――。


ガタガタ、バタン…という不快な音が耳に響いて、ふと意識が戻った。でも頭はまだ少し睡魔が残ってるように重たい。
夕べ、そんなに飲み過ぎたっけ?と考えながら寝返りを打ち、ゆっくりと瞼を押し上げれば、ぼやけた視界に見慣れない天井が飛び込んできた。

「…は?」

額に置いていた腕をどけて何度か瞬きをする。普通の白い天井からは大きなシャンデリアのような照明がぶら下がっていた。でも自分の家のでも、の家のものでもない。こんな安物のシャンデリアは絶対彼女は選ばないからだ。

「…ホテル?」

視線を彷徨わせて、今寝ている部屋を確認した結果、ここがホテルの一室だということが分かる。でもオレはホテルに入った記憶がない。
そこで一気に覚醒して勢いよく起き上がった。

「…っつ…」

起き上がった衝撃で、何故か首の後ろに痛みを感じ、手で抑えながらもう一度、しっかり室内を見てみた。やっぱり何度見ても来たこともない部屋だ。しかも安いラブホテルのようだった。

「は…」

ラブホ、ということは当然一人で入る場所じゃない。オレは嫌な予感がして、隣へ視線を向けた。

「げ…」

そこには案の定、全裸の女がいた。顔は何となく見覚えがある。夕べ、オレがバーで飲んでいた時、隣に座って話しかけてきた女だ。
どこか妖艶な雰囲気の女で、明らかにオレを誘ってるのは分かったものの、その場で一杯奢っただけに留まったはずだった。
なのに何故――?
夕べはわざと見せつけて来た胸の谷間。今は全裸のおかげで、その全容が露わになっている。けれど、彼女の色香も今ではすっかり失われていた。
目を見開き、苦悶の表情で天井を睨みつけている顔は、どう見ても男がそそる表情じゃない。

「…マジか…」

ぶっちゃければ…女は死んでいた。首を絞められたのか、バスローブの腰ひもが女の首に食い込んでいる。ご丁寧にオレが着ているバスローブのものだろう。

「ってぇ…何だ、この痛み…」

置かれた現状に混乱しながらも、項当たりの痛みが気になり、何度か擦る。いや、呑気にしてる場合じゃないか、と思いながら、再び女へ視線を向けて溜息を吐く。

「だりぃ…」

自分の恰好を見下ろし、苦笑が漏れる。このホテルに入り、バスローブに着替えた記憶はない。ご丁寧に人の服を脱がし、それっぽく見せたい誰かの仕業だろう。
ふと床を見ればオレのスーツや女の衣類が散乱していた。

「…チッ。この女も仕込みか…」

夕べ話しかけて誘うふりをしたのも、オレがどこの誰か知っててのことだろう。オレが誘惑に乗らなかったことで実力行使に出たってところか。項に残る痛みは多分スタンガン。バーを出たところまでは覚えている。この女が「待って」と追いかけてきたことも。その時に背後から襲われたのかもしれない。

「クソ…この女か…」

忌々しいと思いつつ、殺そうにも女はすでに死んでいる。この女も誰かの駒でしかなかったようだ。
オレがあのバーに行く時、店内まで部下を連れて行かないことも調べていたに違いない。
すぐにベッドを下りてジャケットのポケットを漁る。スマホはそのまま入ってたようでホッとした。中を確認したが、いじられた形跡はない。万が一の時を考え、指紋認証にしなかったのが幸いした。それにこれは多分、東卍の情報目的じゃない。
となると、オレ自身をハメる為だけに、この状況を作り出したということか。
時間は午前2時。バーを出てから一時間ほど経っていた。とにかく、このままではマズい。これを用意した奴らはオレを殺人犯として現行犯逮捕させるつもりらしい。
さっき聞こえた騒音は、仕込んだ奴らがこの部屋を出て行く音だったようだ。
オレはすぐにバスローブを脱いで服を身につけると、スマホのパスワードを解除し、稀咲へ連絡を取った。稀咲から数回にわたって着信が入ってたからだ。

『半間か?今、どこだ』

開口一番、訊いてきた稀咲はオレと連絡が取れなかったことで何かあったんだと察してたようだった。仕方なく今の状態を説明すると、稀咲は余計な質問は一切せず、オレに全て任せろと言った。

『今そっちに処理をする人間を向かわせた。オマエはそこで待ってろ。あと警察の動きは繋がってる刑事から聞きだしておく。ヤバそうならすぐ連絡を入れるから、オマエは処理班を待たずに逃げろ。現行犯逮捕だけは避けたいからな』
「悪いな」
『…これに懲りたなら一人で飲み歩くのはやめろ』

稀咲はそれだけ言って電話を切った。耳が痛い台詞だ。

「っつーか、のこと笑えねえじゃん、これ」

先々月、これと似たようなことがあったなと思いながら苦笑が漏れる。どうせこれを仕掛けたのも神力会だろう。傘下の神保組を潰したことへの報復ってとこだろうな。

「…だりぃ真似しやがって…」

ジャケットを羽織り、眼鏡をかけて、ポケットから煙草を取り出す。火をつけたところで部屋のチャイムが鳴った。

「…随分とはえーな…」

稀咲に電話して、まだ数分。そんなに早く到着するはずはない。まさか警察?
一瞬、警戒しながら足音を忍ばせ、ドアの方へ歩いて行く。稀咲が警察の動きをすぐに調べたとしても、これを仕込んだ奴らが先に通報してるなら近くの交番のお巡りが確認に来るくらいはするかもしれない。もしそうだとしたら少々面倒なことになる。

(クソ…ドアスコープもねえのか…)

安ホテルなだけあるな、と苦笑が漏れる。でもドアの外にいたのは警官じゃなかった。

「…修二。開けて」
「……っ?」

思ってもいない人物の声が聞こえて、オレはすぐに鍵を外してドアを開けた。

「…、オマエ…」
「どいて。急ぐから」
「…は?」

は呆気にとられたオレを押しのけると、すぐにベッドの方へ歩いて行った。そして女の死体を見下ろすと、ジトっとした目で振り返る。

「…誰、この女」
「いや…知らねえ」
「フーン。修二は知らない女とラブホに入っちゃうんだー」
「いや、違うって。オレはハメられただけ…つーか、オマエこそ何でここに…」

稀咲が手配したにしては早すぎる。疑問に思っていると、は不意に悪い笑みを浮かべながら、自分のスマホ画面をオレに突きつけた。

「あ…」

その画面にはオレの位置情報がバッチリ表示されている。

「まさか…」
「何よ。修二もわたしに仕込んだんだからおあいこでしょ」
「…いや別にそれはいいけど…」
「いいのかい」

オレが普通のテンションで応えると、は芸人みたいな返しをしてきた。オレとしてはに居場所がバレようが後ろめたいことは何一つない。だから何を仕込まれようと気にしないが、それにしてもが来るタイミングは良すぎる。

「もしかして…今夜オレのことつけてたー?」
「ちょ…」

彼女の腕を引き寄せ、腰を抱くとは慌てたようにオレの胸を手で突っぱねてくる。でも視線は忙しなく左右に動き、どこか焦っているように見えた。

「こ、こんなことしてる場合じゃないでしょっ!この死体どうにかしないと!」
「それはそうだけどさぁ。稀咲から連絡受けた時、どこにいたんだよ」
「……っ」
「やっぱオマエ、あのバーの近くにいたんじゃねえの?」
「…そ、それは…その…」

更に視線を泳がせる彼女を見て確信した。多分はオレが飲みに行くのを知って、GPSを使い、バーのあるビルに来たんだろう。でもオレがビル内で拉致られたことは知らなかった。

「ひ、暇だったから修二を驚かせようと思って来ただけだし…そしたら鉄ちゃんから電話が来て、修二がここにいるから迎えに行けって…」
「フーン。で…オマエはオレが女とここに望んできたとでも?」
「……それは…」
「ああ、で。稀咲に女の死体の処理を頼まれて、てっきりオレが殺したとでも思ったか」
「う…」

はサっと視線を反らし、言葉を詰まらせた。どうせ稀咲は端的な説明しかしてないはずだ。アイツはいつも余計なことは言わず、要点だけを言うところがある。きっと「半間がハメられた。ホテルに行って女の死体を処理しろ」ということだけ聞いて、オレがどこぞの女とホテルでモメて殺してしまったくらいにしか考えてなかったのかもしれない。
ったく、コイツは未だにオレのことを分かってないようだ。

「オレがオマエ以外の女とラブホ、しかもこんな安ホテルに来ると思ってんのがムカつく」
「な…だ、だって…いきなり電話でここに修二がいる。女の死体を始末させるから、オマエは修二を迎えに行けって言われたら誰でもそう思うでしょっ」

オレが思ってたよりも稀咲は説明不足だったらしい。確かにそれじゃ勘違いしても不思議じゃない。ただ、オレのことを信用してくれてたなら、それは絶対にないと思うはずだ。

「あのなぁ…オレはオマエ以外の女なんて興味ねえって何回言やあ気が済むわけ?」
「そ…そんなの分からないじゃない。そもそも別に束縛するような関係じゃないし」

はプイっとそっぽを向いて口を尖らせる。ほんとに素直じゃねえのは相変わらずだ。

「オレはいつでも束縛し合うような関係になりたいって思ってっけど?」
「…修二…」

更に腰を抱き寄せて、オレを見上げるの唇を塞ぐ。たったそれだけでオレの身体が疼くんだから重症かもしれない。
でもその時、甘い空気を邪魔するような咳払いが背後から聞こえた。

「お取込み中のとこ申し訳ないのですが、別の部屋を取りましたので、遺体を移したいと思います」
「……太栄…来てたのかよ」

後ろには相変わらず能面のような眼鏡面が立っている。の側近中の側近であるこの男は、に命を救われた時から彼女に忠誠を誓っている。の為ならオレでさえ迷わず殺そうとするだろう。

さんをお一人にするわけにはいかないので」
「あー…オレ探しの遊びに付き合わされてたってわけね。オマエも大変だな」
「いえ。どちらかと言えば死体処理の方が大変です」
「……そりゃそうだ…」

思い切り嫌味を言われて口元を引きつらせると、は呑気に笑ってる。何とも歪なチームだと、こっちまで苦笑が漏れた。

「じゃあ死体を別の部屋に運んで、そこからこれに詰めちゃお」

はいいながら、廊下に置いてあったトランクを指さした。何でそんなもんが都合よくあるんだと言えば、それはの私物らしい。いつでも泊りがけで出かけられるよう、車に置いてあったようだ。はよく仕事絡みで海外に行くことも多いから、それを聞いて納得した。

「これ高いんだから。今度別の買ってよね」
「はいはい…んなもん10個でも20個でも買ってやるよ…」
「そんなにいらないってば」

はいいながら女の服や下着を拾い、太栄は軽々とシーツに来るんだ女の死体を担いだ。

「では行きましょう」

この部屋に痕跡を残さず、できるだけ綺麗にしてから部屋を出る。安ホテルだけにカメラなどはなく、意外と簡単に移動することが出来た。そして太栄が用意した部屋へ入った頃、パトカーのサイレンが近づいてくる。

「やっぱ通報してやがったか…」
「でも肝心の死体がなければ警察は悪戯だと思うだろうねー」
「…ハァ。マジ、助かったわ」
「これで貸し借りなしね」

ニヤリと笑うに、こっちも思わず吹き出した。この前、がオッサンに薬を盛られてヤられそうになった時、散々からかったことを根に持ってるらしい。

「別にオレは貸しとか思ってねえけどなー」
「散々バカにしてたじゃない。でも修二も同じ状況になって分かったでしょ?」
「はいはい…。つーかオレは薬じゃなくスタンガンな?さすがのオレも不意打ちでスタンガン喰らったら意識も飛ぶわ…マジ、首の後ろ痛いし…」
「げ…そうなの?見せて」

はギョっとしたようにオレの首の後ろを確認している。

「あー…赤くなってる…」
「…マジか。このクソ女…」

シーツに包まれた女を見下ろしながら舌打ちが出る。その間も太栄は淡々と作業を進めていた。そのうち稀咲が手配した処理班が到着すると、あっという間に女の遺体はホテルの外へと運び出された。

「では帰りましょうか」

処理班が別の車で女の遺体を運び、太栄はの車の運転席へと乗り込む。の個人的な遊びで出かけてきたからか、他の部下は置いてきたようだ。

「ふぁ…眠い…」

後部座席に並んで乗り込むと、は小さく欠伸を噛み殺して、オレに寄り掛かった。時間を見れば午前3時を軽く過ぎている。

「悪かったな。オレの問題に巻き込んで」

肩を抱きよせて髪に口付けると、はしかめっ面でオレを見上げてきた。

「それってやっぱあの女と関係あるってこと?」
「あ?何でそーなんだよ。あんな女に手ぇ出すはずねえだろ」
「ほんとかなぁ。結構な勝負下着だったけど、あれ脱がしたの修二じゃないの」
「ひゃは♡ それってヤキモチー?」
「…ウザい」

むっとしてオレの腹にパンチを入れるが可愛くて、そのままギュっと抱きしめる。こうして腕の中に収めてしまえば、はオレだけのものだ。

「ねえ、修二をハメようとしたのって…神力会かな」
「…オマエ…この状況でそんなこと考えてたのかよ」

思わず苦笑が漏れて突っ込むと、は「だって…」と途端に元気のない声を出す。でもまあ、オレも黙ってやられっぱなしってのは性に合わねえし、本格的に奴らを追い込むにはいいキッカケになったかもしれない。

「許せないじゃない…。修二をあんな下らない罠にはめようとするなんて」
「ま、奴らからすればナンバー2のオレは邪魔なんだろ。戦力的に」
「そうだろうけど…」
「そういうも気をつけろよ?オレとオマエ、そして九井や乾。稀咲に近い人間は全て奴らの標的になるからな」
「分かってる…」
「今後は絶対――」
「一人になるな。でしょ?」
「…そういうこと」

見上げてくるの額に口付けて言えば、彼女はくすぐったそうに身を捩った。

「神力会を潰しちまえば…東卍がこの日本を牛耳ることになる」
「鉄ちゃんと修二の夢が叶うね」
「あ?オレの夢は…もっと別のもんだよ」
「えー?だって出会った頃は鉄ちゃんの夢を叶えるのが夢だって言ってなかった?面白そうだからって」
「まあ、それもそうだけど…」

ここまで組織がデカくなれば、そっちの夢はほぼ叶ってるようなもんだった。でもオレにはもう一つ、個人的に夢ができた。こんなオレでもそんなもんが持てる日が来るなんて、あの頃は思いもしなかったけど。

「じゃあ…修二の別の夢って何?」
「んー?」

が再びオレを仰ぎ見る。無防備にさらされた艶のある唇は、いつだってオレを誘惑してくるから困りものだ。

「ん…修二…?」

触れるだけのキスをして、彼女の左手薬指にもキスを落とす。

「ここにオレだけの首輪をはめることー」
「……え…」

予想以上に驚くに苦笑が漏れた。
がオレとのそういった関係を望んでいないのは知ってる。その理由も、分かってる。でもオレは不確かな未来を語るつもりはない。

「東卍が日本最大の組織にのし上がったら、オレと結婚して」
「…本気…?」

彼女の瞳は僅かに揺れて、口よりも雄弁に彼女の本心を語っている。

「オレはいつでも本気でオマエを口説いてるけど?」

普段以上に真剣に言えば、彼女は慌てて俯いた後「バカ…」とひとこと呟いた。確かにバカかもしれねえな、と自分でもおかしくなる。一人の女をずっと想い続けてるなんて、彼女と出会う前のオレなら考えられない。
だけど、ひたすら報われない想いを抱えて生きてきた自分は嫌いじゃなかった。
は呆れたように顔を上げると、小さく溜息を吐いた。

「そういうことは…こんな車の中じゃなくて、もっとムードのある場所で言ってよ…」
「ばはっ。確かに」

敵対してる相手にハメられて、死体を処理した帰りに言うべきことじゃないか、と笑えば、も一緒に笑い出した。
この笑顔をオレだけに向けてくれれば、最高なんだけど。