この世で最もかわいい子-01

ああ、激しく間違えたな、と、乙骨のキスを受け入れながら、彼女は頭の隅で考えていた。まさか彼みたいな純粋な男が、自分のような女を本気で好きになってくれるなんて思いもしてなかったからだ。
最初の頃はぎこちなく触れてきた乙骨のくちびるが、今や完全に主導権を握っているなんて、以前の彼を思えば、いったい誰が想像できただろうか。
戯れるように啄んだり、舌先で唇をなぞったり、くちびるの輪郭を無視して縫うように口づけてきたり。乙骨の好きなようにキス…いや、これはもう愛撫と言っていいかもしれない。彼のくちびるに触れられるだけで、そこから甘い快感がじんわりと全身へ広がっていく。まさか純情まっしぐらだった乙骨憂太にキスの才能があったなんて、いったい誰が――以下省略。
そんなわけで静かな室内、ふたりだけの時間は、ほぼ乙骨とのキスで終わる。
散々吸われたくちびるはすっかり敏感になってしまったようだ。そんなエッチなキスを仕掛けてくる乙骨の手が、時折彼女の背中や腰のラインを軽く撫でてくるので、そのかすかな刺激で中心部からジワジワと熱が這い上がってくる体たらくぶり。いくら彼にその気がないと分かっていても、彼女の方がすっかり「その気」という熱に侵されている。あげくには触れあうだけのキスから深いキスへと変わろうという時、その先を期待するかのように子宮の辺りが疼いてしまうのだから、わたしはこんなに厭らしい女だったか?と彼女は首を捻りたくなった。
「…さん、くち、あけて」
吐息交じりの声がして、瞑っていた目をゆっくり開ければ、やけに扇情的な乙骨の顔が視界に飛び込んできた。普段の、どちらかと言えば可愛い雰囲気の彼が、今は男の欲を孕んだ瞳で見つめてくるのだから、その顏を見ただけで素直に開けてしまいそうになる。だけどギリギリのところで小粒くらいの理性が残っていたらしい。乙骨が差し込もうとしていた舌の侵入を阻止するべく、彼女はそっとくちびるを閉じた。
「さん…?」
途端に悲しそうな潤んだ目で見下ろされ、心臓を何かで撃ち抜かれる。落ち着け、と派手に飛び跳ねた心臓の辺りを押さえたけど、危なかった。もう少しで理性を剥ぎ取られるところだった。先週特級に返り咲いたばかりの乙骨は、性欲という名の術式でわたしをいの一番に殺す気だな?とアホなことを考える。それくらい本能的な部分を無意識に掻き立ててくるのだから、この乙骨憂太という後輩はほんとにタチが悪い。まあ、彼女も別の意味でタチが悪いので、ある意味似た者同士とも言えよう。
「そ、そろそろ戻らないと…綺羅羅ちゃんとご飯行く約束してるから…」
催促するように、くちびるをちゅっという可愛い音と共に啄まれたのを合図に、弱々しいながらもどうにか遠回しに拒否の意思を伝える。これ以上、乙骨の好きなようにくちびるを蹂躙され続けたら、このはしたない欲望をとても耐えられそうにない。逆に押し倒して彼の初めてを奪ってしまいかねないし、そんなことになれば、自分が初めてじゃないことがバレてしまう。いや、それ以前にそんなことをしたらドン引きされてしまうからダメだ。そもそも自分から男の子を襲った経験すらないのに。
それに、せっかく乙骨が処女だと勘違いしているのだから、ここはグっと我慢の子だ。
「約束してるなら…仕方ないですね…」
さっきまでの大人びた男の顔は一瞬で消えて、今はシュンとした顔で残念がる乙骨は本当に可愛い。この二面性がたまらない。どうしよう。自分の方がハマってるのでは。最近は特にそんな気がしてならない。
とりあえず過剰に反応する己の心臓を落ち着かせるべく、胸の辺りを手で押さえておいた。密着しているので、万が一バレたら恥ずかしい。
「あ、じゃあ連絡くれたら僕、帰りは迎えに行きます」
抱きしめていた体を解放すると、乙骨は笑顔のまま彼女の顔を覗きこむ。ちょうど解放されたことでホっと息を吐き出していた彼女は、至近距離に乙骨の顏が見えたことで、再び心臓を押さえるはめになった。
「えっ?い、いいよ、そんなの悪いし…乙骨くん青森出張から帰ったばかりで疲れてるでしょ?」
並んで座っていたベッドから彼女が立ち上がると、乙骨も追うように「疲れてません」と慌てて立ち上がる。確かに言った通り、疲れてるようには見えない。彼の呪力量なら、一級呪霊の討伐くらいは朝飯前ってやつだろう。
「でもほんと大丈夫だよ。綺羅羅ちゃんもいるし…その…また弄られるから」
「…僕は別に気にしませんけど…さんが嫌なら…」
最後には消え入りそうな声で言う乙骨は、むぎゅっと抱きしめてあげたくなるほど可愛い。でも我慢だ。ここでくっついたら元の木阿弥。彼女は理性をフル回転させながら、乙骨を安心させるよう柔らかい笑みを浮かべた。
「ごめんね。嫌じゃないんだけど、ちょっと恥ずかしいし…」
この言葉に嘘はなく。同級である秤金次や、星綺羅羅にだけは、乙骨といる今の自分を見られたくない。ぶっちゃけるとするなら、そのふたりに全裸を見られた方がマシなくらいに。
乙骨はそもそも物わかりのいい性格だ。悲しそうではあるけれど、素直に「分かりました」と頷いて、彼女を自分の部屋から送り出してくれた。その際、オデコへちゅっとするのを忘れない。可愛すぎだろ、とこっそり身悶えたのは内緒だ。そして乙骨から中学生のようなキスをされたくらいで顏が緩んでしまう自分を心配になった。
「まだ付き合ってたのかよ、乙骨と」
出かける準備を済ませたのち綺羅羅の部屋へ行くと、案の定と言うべきか、やはり…と言うべきか。高専一のクズ男、秤金次がいた。人の部屋でも関係なく、デカい態度でベッドへ寝そべって漫画を読んでいる。足で片方の脛を掻いてる姿はどう見たってオッサンだ。まあ中学でダブってるらしいので、より年上なのは間違いない。顔も老け顔だ。
今日は綺羅羅とふたりで約束してたはずなのに、何故、金次がいる。どうせ呼んだの綺羅羅ちゃんでしょ、と責めるように睨めば、綺羅羅は澄ました顔で「ほら、男の数も足りないっていうから」と呑気に笑った。金次と綺羅羅は未だ停学中の身だが、時々こうして寮に帰ってきては、彼女を悪い遊びへ誘いにくるのだ。
「金ちゃんが行ったら他の男達が可哀そうだって。ぜーんぶ持ち帰ろうとするんだから」
綺羅羅は「確かに」と頷きながらも「それで?乙骨くんにはなんて言ったの」と、彼女の探られたくないところを聞いてきた。彼とのことは、あまり触れられたくない気もするが、言わないと変にしつこいから困る。
「…綺羅羅ちゃんとご飯行くって」
「へえ、それで納得した?」
「まあ…迎えに行くとは言われたけど、さすがに断ったよ」
溜息交じりで説明するを見て、綺羅羅も、そして金次も飽きれたように笑った。でもそれも仕方ない。乙骨という彼氏がいるのに、今夜は合コンの類へ行こうとしてるのだから。人数合わせでお願いされたのもあるが、まあ…わたしは元々こんな人間だ、とは自虐的なことを思う。
生まれたくもないのに、呪術師の両親を持つ名家に生まれ、幼い頃からガチガチに支配されて育った彼女は、高専入学を機に晴れて自由の身となった。実家を出て寮に入ったことで、厳しい親からの脱却にも成功。恥ずかしながら高校デビューってやつを果たした。それまで押さえつけられてたのが原因で、一年の頃はまるで水を得た魚のように、ずっとやりたかったことを存分にやった。最初は年頃の女の子らしくメイク関連に加えて、ネイルやピアス、露出の高いお洒落な服に、一度は憧れるハイブランドのハイヒール。バッグや財布も全て同じブランドで揃えたりと、任務をする傍ら、大いに青春を謳歌して過ごした。同級生には男だけど女装趣味の綺羅羅というお洒落好きな子がいたため、殆どがその綺羅羅仕込みだ。そのせいか立派なクズ子に育てあげられたのが今の彼女だった。
幸い、容姿に恵まれた彼女は「黙っていれば大和撫子」と形容されるくらいには美しい。真っすぐ艶やかな濡れ羽色の髪を腰まで伸ばし、色白な肌と自然な赤みのあるぽってりとした唇。お洒落をして街に出れば、鼻の下を伸ばした男が次々に寄ってくるほど、彼女はよくモテた。しかし中身はお嬢様気質が抜けない世間知らずの女の子。声をかけてきた好みの男にコロっと落ちてしまうほど無防備な一面があった。その無防備さゆえ、経験値のある口の上手い男に言いくるめられ、あっさり処女を捧げた過去がある。しかし術師という秘密を抱えて非術師と付き合っていくのは想像以上に大変で、会える時間を作れず破局。その後も誰と付き合っても似たような理由ですぐに破局してしまうので、彼女は自分が本当の恋をするなんて夢のまた夢なんだと思っていた。
身近にいる男と言えば、クズ街道まっしぐらの金次と、その金次にどっぷり遣ってる綺羅羅くらいだ。高専に入学した際は担任となった五条悟の麗しい素顔を見て一瞬は惚れかけたものの、顏と反比例する彼の性格のせいで、そんな対象からも除外してしまった。一度それを冗談交じりに本人へ言ったら「何で除外なわけ?」とスネられたのはウケたが、彼女はこれでも落ち着いた大人の男が好きなのだ。出来れば年上の男性と恋をしたかった。まあ、年上に憧れる年頃だったのもある。五条は「僕も年上だけど?!」としつこくアピールしてたが、彼は教師とはいえ大きな子供のようなところがあるので、絶対に無理だと言っておいた。
…それ以降、アイマスクの奥からジト目で見ているであろう視線を、日々感じながら過ごしている。そもそも彼は可愛い生徒に自分が対象外にされたことへの悔しさでムキになっていただけだ。そこにそれ以上の感情がないのは彼女も知っている。
でも――そんな彼女がどういうわけか、今現在、後輩の乙骨と付き合っている。最初は周りにドン引きされるくらい驚かれた。そりゃそうだ。散々、付き合うなら年上だの大人の男だのと言ってた女が、何を血迷ったのか後輩の、どちらかと言えば可愛い部類に入る乙骨とそうなってしまったのだから。
そもそも、何故彼と付き合うことになったのかと言えば、乙骨から猛烈アプローチをされたからだ。そして、何故乙骨がに対し、そんな感情を持ったのかといえば、それはもう、本当に些細なことがキッカケだった。
