祝福しなさい、その運命を。信じなさい、その意味を――――。
子ノ刻
ここ甲斐の国、
躑躅ヶ崎館。
卯月を少し過ぎたこの日、城の中に赤ん坊の産声が響き渡った。
子を産んだのは、国主である武田信玄の五女、松姫だ。
「おお、赤子は可愛らしいおなごじゃ、松姫よ!」
松姫の父でもある信玄は孫の誕生を心から喜んだのだが、しかし母となった松姫は喜ぶどころか我が子をその腕に抱こうともしない。
あげく、「その子はいりませぬ。どこぞへ養子に出して下さいませ」と、冷たく言い放った。
松姫の言葉に信玄、そしてその場にいた者全員が驚き、叱咤しても、松姫の頑なな心が変わる事はなかった。
「何故、松はあのように無情な母となってしもうたのか」
いったん赤ん坊を松姫から引き離し、
乳母になった
千寿に預けた信玄は、
己の重臣が一人、
小畠虎盛へ漏らした。
「夫の
信忠に手ひどく罵られ追い出されたせいで、自尊心が激しく傷ついたのやもしれませぬな」
「ワシが三河へ進撃したせいであろう」
「いいえ、此度の三河攻めは上洛の為の布石。仕方のない事でありまする」
「うむ・・・」
「それ以前に我が武田との同盟を破棄し、織田が三河についたのは明らかなる裏切りですぞ」
虎盛は憤慨したように言い放ち、拳を握りしめた。
甲斐・武田信玄の五女である松姫は、武田、織田同盟の補強として、信長の
嫡男である織田信忠との婚約が成立。
婚儀をあげたのは今から五年ほど前の事だった。
しかし信玄が三河や遠江方面への大規模な侵攻である西上作戦を開始すると、三河国の徳川家康との間で戦いが起こり、
三河とも密かに同盟関係を結んでいた信長が徳川方に援軍を送った事から、武田と織田両家は手切れとなった。
当然、同盟の為に嫁いだ信玄の娘、松姫も離縁され、昨年にはこの甲斐へと戻って来たのだ。
夫、信忠や養父である信長に手ひどい扱いをされ、戻ってすぐの頃は松姫も酷く塞ぎこみ、信玄や家臣達を心配させたが、そこまではまだ良かった。
松姫が戻って
三か月を過ぎようとしていた頃、事もあろうことか赤ん坊を宿している事が分かったのだ。
「離縁されてまで、あの男の子など産みたくありませぬ・・・」
松姫は心に受けた傷を癒す事が出来ず、何度も子を流したいと漏らしていたが、娘の身体を案じ、また孫が出来た喜びから、信玄は何とか松姫を説得し産ませたのだった。
子が無事に生まれてさえくれば、母となった喜びを感じ、松姫も立ち直ってくれるだろう、という信玄の思惑もあった。
しかし我が子を見ても、松姫は頑なに心を開こうともせず、「抱かぬ、いらぬ」の一点張り。
これにはさすがの信玄も参ってしまった。
「時が経てば心の傷も癒えよう。今すぐは受け入れられずとも、傍におれば愛しく思うやもしれん」
「ではお子を松姫のお傍へ?」
「うむ。千寿に連れて行かせよ」
「ではそのように」
虎盛は深々と頭を下げ、その場を後にした。
しかし乳母である千寿が、赤子の身体に
摂関の痕跡を見つけたのは、それから数日後の事だった。
「そなたは何という非道な事をするのじゃ!」
千寿から報告を受けた信玄は、松姫を激しく叱咤したが、松姫は冷めた表情のまま、父である信玄を見上げ、しれっとした顔でこう言った。
「あの子はわが娘にあらず。織田の血を引く卑しい子ですわ、父上」
母とも思えぬその一言に、さすがの信玄も言葉を失った。
「我が子ながら何という冷酷無情な娘よ。あの赤子はワシが育てる!そなたは一歩たりとも傍へ近づくでないぞ!」
信玄のこの発言が発端となり、父と娘の仲は更に悪化していった。
そして遂に松姫は、兄の
仁科盛信の庇護の元、信濃国伊那郡、高遠城下の館へと移って行った。
同じ頃、信玄の元へ一通の書状が届けられた。
それは手切れとなっていた尾張の織田信長からのもので、その書状には『我が孫を引き受けたく候』と書かれており、信玄を酷く驚かせた。
「何と・・・!松が子を産んだ事、何故に洩れたのだ」
「まだ
一月と経ってはおらぬというのに」
「織田は手切れ以降、この甲斐に間者を忍ばせていたのやもしれませぬぞ、親方様」
この場に顔を揃えた信玄の家臣、小畠虎盛、
山本勘助、
真田幸隆の三人は憮然とした顔で言った。
「うむ・・・間者かもしれぬな。しかし・・・何とも
弁えぬ無礼な物言いよ」
「"子を渡せば再び同盟とならん"など、盗人猛々しいにもほどがありまする!」
「織田の
子倅め。いつまた裏切るとも限りませぬ!」
「このような男に大切な孫姫さまを渡すわけにはゆきませぬぞ、親方様!」
「無論じゃ。この書状ごと使者を叩き斬って尾張の大うつけへ送り返してやれい!」
「はっ!では私にお任せ下され、親方様」
そこで名乗り出たのは武田家に仕える信濃在地領主、真田幸隆だ。
幸隆は武田家の軍師でもある勘助の推挙により信玄の家臣の一人に選ばれ、これまでに幾多の智略と功績を上げているほどの武将だった。
幸隆はすぐに己の子飼いの忍を呼び、織田の書状共々使者を
屠り、尾張へ運ぶよう命を下した。
「しかしながら何故、織田は今頃になって孫を欲したのでしょう。あの冷酷無比な男に孫への親愛の情があるとは思えませぬが・・・」
「あやつの事じゃ。手駒にでもするつもりなのだろう。この戦乱の世で、子は貴重な宝ぞ」
「なるほど・・・。孫を利用し、己の同盟を増やしていくつもりやもしれませぬな」
「ワシの孫をあやつの手駒になどするわけにはいかぬ!あの子だけはワシの傍におく」
信玄は拳を握りしめ、新たな決意をしたかのように言い放つ。
そんな信玄の心情を三人の家臣は誰よりも察していた。
ここ数年の間で、信玄は嫡男と長女を亡くしている。
嫡男である
義信は信玄への誤解から謀反を起こし、甲府の東光寺に幽閉されていたがその後に自害した。
長女は今川、武田、北条の甲相駿三国同盟の為、12歳で
北条氏康の嫡男、
氏政の元へ嫁ぎ、五男一女に恵まれるほど夫婦仲は良かったが、突然の病で亡くなっている。
生まれた子たちは当然、北条家の子として育てられている為、信玄が孫と顔を合わせる事は殆どなかった。
我が子を次々に失い、その心痛は計り知れないだろう。
顔には出さずとも、家臣達は信玄の悲しみを、痛いほどに理解していた。
だからこそ、松姫が子を宿していると分かった時、あれほどまでに喜んだのだろう、という事も。
「親方様はお寂しかったのだろう」
孫を抱いて喜びを露わにする信玄を見て勘助が呟くと、その場にいた誰もが頷いた。
(親方様が二度と悲しみにくれぬよう、孫姫さまをしっかりお守りせねば)
真田幸隆はそう決意し、虎盛や勘助と話し合ったのち、杯を煽っている信玄の前へ進み出た。
「親方様」
「何だ?幸隆」
「織田がこれで諦めたとは言い切れませぬ。孫姫さまを我らにお守りさせてはくれませぬか」
「・・・ふむ。ワシも同じことを思うておった。しかし、そなたらは武田軍の要となる者達ぞ。我が孫と言えど四六時中、ついてもらうわけにもゆかぬ」
武田軍には武田二十四将がいるが、その中でもこの三人は特に名臣と呼び声の高い武将たちだ。
故にそれぞれの役割も多く、幼子の護衛につけるには無理がある。そこで、と幸隆が提案した。
「孫姫さまには我が真田忍隊の忍を一人、護衛としてつける所存にて」
「ほう。そなたの所の忍なら優秀にて安心であろうが・・・しかし任に支障は出ないのか?」
「はっ。先日、新しい者を数名迎えておりますれば。この者らも厳しい修行を積んだ、かなりの手練れ。必ずやお役に立てるかと」
幸隆の提案に信玄は暫し思案していたが、不意にパンっと己の膝を叩き、大きく頷いた。
「よし!では孫の事、そなたに任せよう」
「はっ!ありがたきお言葉にて」
信玄の許しを得て、幸隆は深々と頭を下げ、虎盛と勘助もホッとしたように頷いている。
「して、その者はすぐに甲斐へ来れるのか?」
「すでに上田にいる息子、昌幸へ使いを出しております。親方様の許しを得ればすぐにでも発てるよう昌幸が計らう手筈にて」
「なるほど。相変わらず仕事が早い。そなたの三男である昌幸も父に似て優秀だったな。では一任して良いか?」
「無論に御座います」
「うむ、では任せたぞ」
「御意に」
幸隆が頷くと、信玄は安堵の表情を浮かべ、再び酒を煽った。
すぐに虎盛が徳利を手に、空になった猪口へと酒を注いでいると、信玄はふと顔を上げ、三人の顔を見渡した。
「時に・・・助言をしてはくれぬか」
「・・・は?助言、で御座いますか」
いつもの豪快な信玄らしかぬ、少々気恥ずかしそうな顔で言われた三人は、互いに顔を見合わせ首を傾げた。
「いや、何。あれの・・・孫の名を長らく考えておったのだが・・・とんと良い名が浮かばぬ」
ううむ、と難しい顔で腕を組む信玄に、三人も納得したように苦笑いを零した。
「おのこであれば適当につけるのじゃが(!)おなごではそうもいかん。何か良い名を思いついたなら聞かせてみてくれぬか?」
「はあ。しかし我らが親方様に代わって名づけるなど――――」
「堅苦しく考えるな。何でも良いから名を言うてみい」
はようはようと急かす信玄に、このままでは一晩中、考えろと言われかねない、と三人は慌てて思いつくまま名を口にしていく。
「で、では
僭越ながら・・・」
と、まずは勘助が軽く咳払いをした。
「とよ・・・は如何でしょう?」
「むう、どこか地味じゃ」
「で、では次はこの虎盛が・・・」
と、次に虎盛が前に出た。
「こほん・・・。えー、玉のように丸々としておりますれば、玉はいかがかと――――」
「ワシの孫が将来、玉のように超えたらどうするのだっ」
「は、はあ・・・」
「で、では次は私、幸隆が・・・。最近では漢字を並べた名が流行りと聞き及んでおりますれば・・・ですので・・・喜代」
「ふん、ありふれすぎておるわ」
呆れ顔で酒を煽りながら、信玄は肘立に肘をついたまま盛大な溜息を吐いた。
それには家臣三人衆もムキになり、ええい、とばかりに次々と名前を上げていく。
「キミ!」
「つまらん」
「ハナ!」
「いまいち」
「ふく!」
「心に響かん」
「いち!」
「大うつけの妹と同じ名などつけんっ」
「さよ!」
「全くもって響かん」
「たま!」
「さっきも聞いたわ、たわけ」
「・・・ハル!」
「ありきたりじゃ」
信玄に悉く難癖をつけられ、三人も次第に息切れをしてきた。
このままでは本当に一晩中、名を考えるハメになってしまう。
それは最悪、避けたかったが、酔いのまわった信玄を丸め込む術などないも等しい。
しかしそこで、最後の最後に幸隆は、ふと先日目にした歌絵の中に、綺麗な響きの名があった事を思い出した。
「で、では親方様・・・。、というのは如何でしょう?」
「ん?じゃと?」
「先だって読んだ歌絵の中に登場する人物の名でありまする。聞いた事のない綺麗な響き故、覚えておりました」
「ふむ・・・」
それまで反応が
梨の礫だったが、初めて考え込むような素振りを見せた信玄に、虎盛、勘助、幸隆はごくり、と生唾を飲み込んだ。
信玄は目を瞑り腕組をしたまま動かない。
しばしの沈黙の中、息を呑みながら待っている時間が、相当に長く感じられた。
が、しかし。不意に信玄は眼を開き、目の前の酒を一気に飲み干した。
「うむ!良い名ぞ!か・・・。ワシの孫は今日からとする!」
「「「はぁぁぁ・・・」」」
満足げに大声を張り上げる主君に、三人衆は深い深い息を吐きだし、安堵の表情を浮かべたのだった――――。