おまえの運命は、まだ決まってもいなければ、用意されてもいない。
何かに出会い、何に屈するか。それを決めるのは、おまえ自身でしかない――――。
辰ノ刻
甲斐の国、
躑躅ヶ崎館はこの日、久方ぶりに賑やかな雰囲気だった。
城主、武田信玄の孫の名が決まった事を受け、城中の家臣や女中たちまでが浮き足立っている。
「可愛らしいお名だこと」
「何でも真田の幸隆様がつけたらしい」
「歌絵に登場する
美姫の名だとか」
「名の通り、
裳着の頃には美しい姫になっておろう」
「いやいや、今から裳着などと気がお早い」
あちらこちらで、こんな声が聞こえてくるが、しかし、やはり。
母である松姫が出て行った事で、これからのを思えば不憫に思う者も多かった。
そんな中、信濃の上田から真田幸隆の息子である真田昌幸が、ここ躑躅ヶ崎館へと到着した。
「よう来たな、昌幸!まさかお主直々に見えるとは思わなんだぞ」
「はっ。親方様の孫姫ご誕生と聞き、祝いを述べたく馳せ参じてまいりました所存」
「堅苦しい挨拶はいらん。は奥向きの間におるわ。顔を見たいか?」
問うているクセに、見せたくて仕方がないといった信玄の様子に、昌幸はグッと笑いを堪えながらも徐に頭を下げた。
「無論、親方様さえ宜しければ、姫のお顔を拝見させて頂きたく」
「ええい、堅苦しい言はいいから着いて来い。――――という事でワシは暫し奥向きに入っておる」
「お、親方様、今朝から三度目ですぞ。そろそろ
知行をして頂かないと!」
「そんな物は後で良いであろう」
「またそのような事を・・・」
被官の一人が大げさに嘆く
様に高笑いしながら、信玄は昌幸を奥向きへと連れ立っていく。
すると奥からは赤ん坊が元気に泣く声が聞こえて来た。
「どうしたのだ?千寿は何をしておる!」
激しい泣き声を聞き、慌てたように駆けていく信玄に、昌幸も急いでついて行く。
「千寿、が泣いておるでは・・・」
と、そこで言葉が途切れる。襖を思いきり開け放てば、そこにいたのは
乳母の千寿ではなく。
おろおろしながら赤ん坊をあやしている真田幸隆の姿があった。
昌幸が「父上!」と驚けば、幸隆も一瞬だけ笑顔を見せる。
「おお、昌幸、よう来たな!あ、いや、それより親方様!様が泣き止みませぬぞ・・・!」
「何ゆえ、そなたが抱いておる。千寿はどうしたのじゃ」
呆気にとられつつも幸隆からを託され、信玄は徐に顔を顰めた。
「様が泣き出したのを見て、千寿が
御湿を取りに行くと・・・」
「御湿?そうか。なら良いが。よしよし、今すぐ御湿を変えてやろう」
幸隆は安堵したように額の汗を拭っているが、信玄は目じりを下げ、腕の中で泣くを一生懸命あやしている。
昌幸は父、幸隆の情けない姿に軽く笑いを咬み殺しつつ、信玄の腕に収まった赤ん坊を覗き見て、思わず笑顔になった。
「親方様ご自慢の通り、何と可愛らしい!これは大きくなった頃が楽しみで御座いますな!」
「そうであろう?目元などはワシによう似ておる」
ほっほと笑いながら言う信玄に、幸隆と昌幸はこっそり顔を見合わせ笑いを堪えていた。
どう贔屓目に見ても、赤ん坊は母である松姫の可憐さと、そして織田信忠の凛々しさを継いでいるように見える。
だがそんな事は口が裂けても言えず、父と息子は「真、親方様に似ておりまするな」と相槌を打った。
「しかし幸隆。そなたにも二人目の孫が出来たのであろう?あのようなあやし方では一向に泣き止まぬぞ。のう?昌幸」
「父上が先日、上田へ戻られた際、弁丸を抱こうとして泣かれ、あたふたとしておりました」
「また耳の痛い事を・・・余計な事を言うでない、昌幸。源三郎は私に懐いておるではないか」
――――今年一歳になる源三郎は昌幸の長男で、弁丸は先日生まれた次男である。
信玄と息子にからかわれ、幸隆は恥ずかしそうに額を掻いた。
「そなたの所の弁丸とは同じ頃に生まれたのじゃな。同じ年頃の子が傍におるなら良い遊び相手となろう」
「親方様さえ宜しければ様のお相手を弁丸に任せましょうぞ」
「うむ。そなたらの血を受け継ぐ子じゃ。必ずや才溢れる武将となろうな」
「親方様の教えを頂ければ、と思うておりますれば」
昌幸は深々と頭を下げ、幸隆も同じように頷いた。
「ところで・・・昌幸、様の護衛となる者はどうした。むろん連れて来たのであろう?」
「はい、父上。表向きに待たせておりますぞ」
「良いからここへ呼べ」
信玄がをあやしながら言えば、昌幸は「ここへ、で御座いますか?」と問うた。
「これからはの護衛となる者。常に傍にいてもらわねば困る」
「では、そのように」
昌幸はすぐに襖を開け、「六郎!」と名を呼んだ、その瞬間、音もなく一人の男が庭先に姿を見せる。
どうやら昌幸の後をついて近くにいたらしい。
「
海野六郎、参りまして御座います」
「こちらへ来て親方様に顔見せするのだ」
「はっ」
六郎と名乗った忍は黒装束を全身に纏い、口元も布で隠している。
しかし信玄の前へ行くと、すぐさま口布を取り、深く頭を下げた。
「お主が昌幸からの護衛として呼ばれた者か」
「真田忍隊、海野六郎に御座います、親方様」
僅かに顔を上げ、信玄へ真っ直ぐな眼を向ける六郎は、信玄が想像していたよりも、かなり若い。
さらりとした黒髪を前にたらし、合間に見える涼し気な目元は、見栄えがいいと言えよう。
「親方様。この六郎、若くして里では三本の指に入るほどの実力。必ずや様を守り抜いて見せましょう」
「うむ。これからはを頼むぞ。の害となるものは、いかなるものも全て排除するように」
「御意」
「まあ時には遊び相手にもなってくれると助かるんじゃがのう」
「・・・は?」
「まずはの御湿を変えられるようになってもらおうか」
「お、御湿、で御座いますか・・・」
がはは、と笑う信玄に、六郎も呆気にとられたように眼を瞬かせた。
主である昌幸から話は聞いていたものの、想像していたよりもずっと気さくな国主に、拍子抜けした感が否めない。
「時に・・・千寿はまだか?が泣き止まぬ」
遂に信玄が
匙を投げ、困っているところへ、慌てたように千寿が戻って来た。
「まあまあ!殿方が四人も揃って、赤ん坊の面倒も見れないのですか?」
「ぬ、そ、そう言うでない。これでも必死にあやしておったのじゃ」
千寿にを託しながら、信玄は情けない表情で眉を下げた。
後ろでは幸隆、昌幸。そして来たばかりの六郎までが視線を泳がせている。
この千寿は母の代から武田家に仕える侍女で、母同様、相手が主であっても手厳しい事では有名だ。
千寿が
乳母に選ばれたのも、母である
千枝が、松姫の乳母だったからだ。
千寿はが大きくなったのち、教育係としても任されている。
「殿方はあちらを向いていて下さいまし」
「う、うぬ。そうであったな。そなたらも向こうを向け」
「・・・はっ」
千寿が御湿を変えだし、慌てて庭先へと顔を向ける男が四人。
それを尻目に、千寿は手際よくの御湿を変えていく。
「ほーら、綺麗になりましたよ、様。気持ちよいでしょう?」
御湿を変え終わり、千寿が高く抱きかかえれば、は「きゃっきゃ」と笑い声を上げる。
先ほどまで烈火のごとく泣き叫んでいた赤子とは思えぬほど、爽やかな笑顔だ。
「な、泣き止んで良かったわい・・・。やはりあやすのは女子の方が上手よのう」
「母に色々と教わりましたゆえ。それより・・・そちらの殿方は?」
千寿がふと六郎を見て首を傾げた。
「おお、こやつは真田忍隊の者でな。海野六郎という。付きの護衛となった忍じゃ」
「まあ、忍の方。通りで黒づくめだと思いましたわ。私は様の教育係を任せられた千寿と申します」
「俺は海野六郎と申す・・・」
忍が乳母に挨拶をするなどおかしな光景だ、と内心思いながらも、なかなか手厳しそうな千寿に、六郎は怖々と頭を下げた。
「おお、そうだ。千寿、この六郎にを抱かせてやってくれんか」
「え、この方に、ですか?」
「お、親方様?」
信玄の突然の発言に、六郎も慌てて顔を上げた。
ただの忍に大切な孫を抱かせる主など、聞いたこともない。
「良いのですか?まだお若いし赤子の抱き方など知らないのでは・・・」
「良い。六郎はこれからを守る者。あやし方も抱き方も知らぬのでは万が一の時に困るであろう」
「万が一と申しますと?」
「お主が先ほどみたく、場を外したりした時よ。覚えておけば、この幸隆のように慌てふためく事もあるまい」
「お、親方様、もうその話は・・・」
またしても信玄にからかわれ、幸隆は僅かに頬を赤くしたが、昌幸は「なるほど。確かにその通りですな」と大きく頷いた。
「六郎、親方様の仰せのとおりに」
「は、はあ・・・」
「ほれ、気に病むでない。はお主を取って食ったりはせん」
高笑いを上げながらを抱き、六郎の方へと差し出す信玄に、多少の戸惑いはあるものの、主の命なのだ、と決心し、怖々と手を出した。
初めて触れる赤ん坊の小さな体、ずしりとその重みを腕に感じた六郎は、何とも言えない思いが胸を過ぎった。
「こう、抱えるのです。赤子は首がまだすわっておりませぬゆえ、それでは様の首が疲れてしまいますよ」
「こ、こうか?」
千寿に教わりながら、腕をいい
按排に変えていく。
「そう、それでいいですわ。親方様よりも上手ですわね、六郎さんは」
「そ、そのような事は・・・」
千寿の言葉に、む、と目を細める信玄にハラハラしながらも、そっと腕の中の赤子を見ると、ニコニコと可愛らしい笑顔を浮かべている。
怖がらせはしまいか、と不安だったが、その笑顔に六郎もホッと息をついた。
「どうじゃ、赤子を抱いた気分は」
「は。とても・・・可愛らしく思います。小さすぎて怖いというのも多少ありますが・・・」
「そうであろう。かように小さな子など、強い者なら一ひねりで壊してしまうであろうな」
「・・・は、」
「だからこそ、守ってやらねばならんのだ、六郎」
信玄のその一言に、六郎はハッと顔を上げた。胸を貫くように、信玄の言は心へすんなりと入って来る。
忍に感情などいらぬと教えられてきた六郎だったが、今この胸に滾る熱い思いは何なのだろう、と腕の中の赤子を見つめた。
「・・・・っ?」
その時だった。小さな手が六郎の胸元をぎゅっと握りしめて来た。
きゃっきゃと笑い声を上げながら、己を抱く忍に無邪気な笑顔を惜しみなく見せてくるに、六郎は心までもを強く握りしめられたような気がした。
「ほう、はお主の事が気に入ったようじゃな」
「・・・もったいないお言葉で御座います」
「赤子に好かれるは良い男よ。――――は、そなたに任せたぞ、六郎」
「は・・・っ。この命に代えましても」
心の奥がざわざわと音を立て、六郎は肌が立つのを感じていた。
(名将、武田信玄。ただの道具である忍の俺を人として扱ってくれた上に、大切な孫まで抱かせて下さるとは・・・)
「風林火山」を旗印に、優れた騎馬軍団を持ち、最強と恐れられている武田軍団。
その武田軍団を率いている名将、武田信玄に仕える真田家に迎えられた事を誇りに思っていた六郎は、
この時、必ずや姫をお守りしようと心に誓った――――。
申ノ刻
その頃、奥州・米沢城では
伊達輝宗の
嫡男、三歳になる
梵天丸が病で床に臥せっていた。
「これは・・・
疱瘡ですな」
「痘瘡だと?」
侍医の言葉を受け、この城の主でもある輝宗は愕然とした面持ちで、苦しんでいる我が子を見下ろした。
「高熱が七日の間続いております。何よりお顔を中心に
丘疹が生じております故、恐らく間違いないかと・・・」
言いにくそうに告げると、侍医は頭を項垂れた。
その姿に最悪の結末が脳裏を掠めた輝宗は、指で目頭を強く抑えた。
「この病に効く薬はないに等しく――――」
「・・・分かっておる!分かっておる!だが何とか手はないものかっ!」
動揺を隠そうともせず、輝宗は我が子の小さな手を握りしめた。
痘瘡はここ最近、猛威を振るっている病であり、この奥州でも大勢の犠牲者が出ていた。
不治の病とされ、かかった者はただ苦しみ、耐えるしか手立てはない。
しかし例外もあり、助かる者も多くはないがいるのだ。
輝宗は我が子がその少数に入ってくれれば、と祈るばかりだった。
「あまりお気を落とされぬよう」
重臣、
遠藤基信に言葉をかけられ、輝宗は小さく頷いた。
敵が強き武将ならば刀も振るえようが、相手が病となれば時が過ぎるのを待つばかり。
家臣達も主の心痛を案じ、若君が無事に治るように、と陰ながら見守り続けていた。
そんな折、基信がとある男を輝宗の元へと連れて来た。
「輝宗さま。このような時に何ではありますが・・・
片倉景綱が若君を見舞いたいと申して見えておりますれば」
「おお、景綱か。ここへ呼べ」
「ではそのように。――――景綱、入れ」
すでに廊下にて待機をしていたのだろう。
基信の声と共に、「失礼
仕ります」と丁寧に頭を下げ、一人の男が輝宗の私室へと顔を見せる。
「片倉景綱、若君を見舞いたく参じてまいりました」
「堅苦しい挨拶はいらん。お主はこれから梵天丸の守役となるやも知れぬ身。傍におるのは当然の事よ」
輝宗は僅かばかり優しい笑みを見せ、景綱を中へと呼び入れた。
この景綱は早くに両親を亡くし、梵天丸の乳母でもある喜多が異父姉として母のように面倒を見ていた。
喜多は女子だてらに文武両道に通じており、景綱もそんな姉の教化を強く受けている。
昨年、城下の米沢で大火があった際は、機転を利かし大勢の民を救って見せた。
そんな景綱の功績が認められ、輝宗の徒小姓として仕えていたが、先日この基信が「若君の守役として景綱はどうか」と提案した事で、近々梵天丸に顔見せする予定だったのだ。
「若君の容体は如何ほどに」
「うむ、あまりおもわしくない。侍医は最悪の事態を考えておけと言いよった・・・」
「情けないがどうすれば良いのか・・・。ただ若君の熱が下がるのを待つばかり・・・」
「幼い梵天丸の体力も持つかどうか・・・」
輝宗と基信は溜息を吐きながら、悲壮感にくれていたが、今まで黙していた景綱は、膝の上で握りしめていた拳を震わせ、強く唇を噛みしめた。
「・・・若君は次期の国主となられる身!病などには決して・・・決して屈しませぬ!!」
嘆く二人を見かね、頭をがばりと上げた景綱が放った言葉は、輝宗と基信の不安を吹き飛ばす、一陣の風のようだった。
驚いた輝宗は目の前で真っ直ぐに己を見据える景綱を見つめたが、その景綱の眼に、強い強い光を見て取った。
それは決して諦めぬ、という意志。己の主を信じぬく強い慈愛に溢れているように見えた。
「・・・よう言った、景綱。お主の忠義、梵天丸の耳にも届いたであろう」
侍医ですら
匙を投げたものを、
一寸の迷いも見せず言ってのけた景綱は、輝宗を悲しみから解放してくれた。
この男になら我が息子を預けられるやもしれん――――。
輝宗はこの時、この景綱が、必ずや梵天丸の重臣となってくれるだろう、と、強く感じていた――――。