知らない男
「…どういうつもり?これ」
ヒソカの私室。そこへ連れ込まれた時、本気で襲われると思って戦々恐々としたはずなのに。何で?と首を傾げながら、目の前に出されたコーヒーカップを見つめる。暖かそうな湯気がふわふわしてる様は、殺人狂とふたりきりというヤバい状況の中、どこか呑気な光景だ。
「あれ、飲まないのかい?ああ、紅茶の方が良かった?」
「じゃなくて…」
向かい側のソファで優雅にコーヒーを飲むヒソカを見ていると、警戒してるのがバカらしくなるくらい平穏な空気だ。とりあえず喉が渇いてたのもあり、溜息一つ落として出されたカップへ手を伸ばす。でも前かがみになった時、ある程度までしか動けず、そこは苦情を言うようにヒソカを睨んだ。
「…ちょっと。バンジーガム、もう少し緩めてよ」
「ああ、ごめんごめん」
人を拘束してる人間とは思えないほど柔らかい表情で笑ったヒソカは、わたしの腰に巻き付いているバンジーガムを少しだけ緩めてくれた。おかげでカップに手が届く。
最初にここへ連れ込まれた時、襲われはしなかったけど、わたしの体は手足が動く程度に、ソファへ固定されてしまっている。文句を言っても「だって外したら君、念使ってすぐ逃げるだろ」とあっさり見抜かれ、内心舌打ちの嵐だった。わたしを拘束するのに成功したヒソカは大層楽しそうで、鼻歌なんか口ずさみながらコーヒーを出してきたというこの状況。こいつはいったい何がしたいんだ。そんな思いがもろ顔に出てたらしい。ヒソカは「怒ってるも可愛いよ」と、悪寒が走るような台詞を吐いた。
「…可愛いの意味、分かってる?」
コーヒーを飲みながら軽く突っ込むと、ヒソカは心外という表情を浮かべた。
「もちろん。"いじらしさ、愛らしさ"。あと"愛すべき愛嬌がある"…だって。まんまだと思わないかい?」
「いちいちケータイで調べないで!っていうか、調べるってことは知らなかったよね?知らないで言ってたよね?どう?ほんとのこと言ってごらん?」
つい頭に血が上って、まだ幼い弟達を叱るような口調になってしまった。ああ…アルカもカルトも元気かな。
「クックック…そういうとこも、ほんと可愛いなァ」
「……(ダメだ、これ)」
一瞬、弟達のことを考えてたら、ヒソカが頬を緩めたのを見て溜息を吐く。不機嫌丸出しでムキになる女を見て「可愛い」と喜べる変態男のいなし方なんて、ゾルディック家では教えてもらえなかった。つくづく変な男だと思う。この男の何を刺激したのかは未だ謎だけど、勝手に獲物判定されてつきまとわれたあげく、セクハラまで仕掛けてくるんだから迷惑極まりない。でも、まだそっちの方がマシだったかも、と思う。こんな風にただお茶に付き合わされて「可愛い」だのとほざかれるくらいなら、セクハラでもされた方が、抵抗できるチャンスはある。怒鳴って怒りのまま、今度こそ股間を使い物に出来なくなるくらい蹴ってやればいいだけのことだ。今みたいに優しさの滲む眼差しで見つめられて、何ともむず痒い思いをする方が耐えられない。そもそもヒソカってこんな顔できるんだな。自分以外の存在を愛でる感情なんて皆無だと思ってたから、意外すぎる。
いや、それより何より。このバンジーガムの強度ってどうなってるんだ?ヒソカと同じで粘着力が強すぎ。
「何モジモジしてるんだい?ああ、トイレ?」
「ちが…これ外して欲しいの!面接始まる前にシャワー入りたいんだってば。っていうか、ヒソカだって面接が――」
「ああ、ボクは一番に呼ばれたからもう終わったんだ」
「…あっそ」
これでヒソカから逃げるチャンスが一つ減ったとげんなりしてると、彼は「シャワーならこの部屋の使っていいよ」と言い出した。その瞬間、腰の辺りが一瞬緩んで、ソファまで巻き込んでいたバンジーガムが、今度はわたしの腰にだけ巻き付く。これじゃワンコ用のハーネスと変わらないじゃない。
「これ付けて入れって?」
「大丈夫だよ。洗っても外れないから」
「そういう問題じゃないっ」
ニッコリと笑みを浮かべる余裕の態度を見て、つい怒鳴ってしまう。こんな話の通じない男に怒っても効果がないのは十分に分かってる。無駄、無駄、無駄。元気の無駄遣いとはこのことだ。
「そんなに怒るなよ。ボクは少しの時間、とお茶して話したいだけなんだ」
「…何をバカな…」
「本当だよ。でも…そうだなあ。今はそんなに時間もないし…」
ヒソカは逡巡したように顎へ指をかけると、何かを思いついたように視線をわたしに向けた。
「それ外すから面接が終わった後、一緒に食事でもどう?この飛行船、ルームサービスも出来るみたいだし、それならイルミに見つかることもないだろ」
「食事…?」
「いいだろ?それくらい」
「…まあ……」
ここで延々と拘束されるくらいなら、食事する方がマシ。と思わされた時点でわたしの負けだったかもしれない。つい、「食事だけなら」とOKしてしまった。それにヒソカにはゴンくんとの間に起きたことを聞いてみたくもある。このヒソカからゴンくんはどうやってプレートを盗んだのかは、大いに興味があった。
素直に誘いを受けたことで気を良くしたのか、腰に巻き付いていたバンジーガムはすぐに解除された。ホっと安堵の息が漏れる。
「じゃあ面接が終わったら戻ってきて。約束破るのなしだから」
「…分かった」
ちょうど頷いたその時、船内放送が流れ、わたしの番号が呼ばれた。会長の部屋で面接があるとの案内だ。
「お呼びがかかったね。行っといでよ」
「うん…じゃあ…後で」
「楽しみにしてるよ」
わたしがソファから立ち上がると、ヒソカは笑顔でそんなことを言いのけた。あまりに聞き分けがいいから一瞬、ほんとに食事だけか?と心配になったものの、OKしてしまった手前、今更嫌ですとも言いにくい。
(まあ…部屋で一緒に食事するだけだしね…)
とドアの方に歩きかけながらも、ふと気になって足を止める。
「どうしたんだい?」
カップを口に運びかけたヒソカが不思議そうな顔でわたしを見上げた。
「…食事はするけど、一つだけお願いがある」
「お願いって、何かいいいね、その響き。ドキドキするなぁ」
「ニヤニヤしないで」
「ああ、ごめん。それで…お願いって?」
ギロリと睨みつけても、ヒソカはニコニコ顔でわたしを見上げてくる。何がそんなに嬉しいんだか。謎過ぎるぞ、ヒソカ。
「食事の最中、バンジーガム禁止。拘束されて食事したくない」
きっぱりこっちの要望を伝えると、彼はキョトンとした顔を見せた。その後に「ぷ」と吹き出すと「ああ、そんなこと」と肩を揺らして笑っている。
「うん、いいよ。そもそも初めからそんなことしようなんて考えてなかったしね」
「そ……れならいいんだけど…」
「それより、会長が待ってるだろうから早く行った方がいい」
「…う、うん」
らしくもない常識人みたいなことを言うから、拍子抜けしてしまった。でも彼の言う通り、ネテロ会長を待たせるわけにもいかない。すぐに踵を翻して、ドアを開けようとノブを掴む。でも次の瞬間、背後で空気の動く気配にドキリとした。咄嗟に振り向くと、目の前にはヒソカがいて、彼の両手が開きかけたドアを押さえている。ドアに背を押し付け、腕の間に立たされた状態のわたしは、ただ驚いてヒソカを見上げることしか出来ない。
「な…何して――」
と訳も分からぬまま文句を言いかけた時、上体を屈めたヒソカの顏がゆっくりと近づいてくる。燃えるような赤い虹彩に見つめられると、固まったように体が動かない。まずい。またキスされる――!と思った瞬間、ちゅっと軽く唇を啄まれ、呆気にとられた。てっきり、また濃厚なキス攻撃をされると思ったからこそ、全身が力むほど身構えたのに。ふたを開けてみれば、唇を軽く啄む程度の可愛らしいキスをされて、パチパチと瞬きを繰り返す。そんなわたしを見下ろすヒソカの顔は、さっきと同じような笑みを浮かべていた。
「行ってらっしゃいのキス」
恥ずかしげもなく、そんな台詞を吐いたヒソカは、固まったわたしの額にも口付けて、今度こそわたしを部屋から送り出した。まるで恋人に見せるような言動に、わたしの脳内が混乱する。誰だ、あれ。わたしの知ってる男じゃない。
そう思うのに、じわじわと熱を持つ頬だけが心の動揺を主張してるようで、わたしはその場から逃げるように走り去った。
