01.ある雨の日の君と



しとしと しとしと 雨が降る。待ち人はまだ、来ない。

近所の公園内に鎮座している"ゾウさん"の口の中に居座って、静かに落ちる雨にそっと手を伸ばせば。小さな雨粒が手のひらで少しずつ水たまりになり、指の間から零れ落ちていく。
その手には可愛らしい絆創膏が貼られていたが、防水なのか剥がれる事もなく。
何度かそんな事を繰り返していると、パシャリと水たまりを踏む音がした。
反射的に音のする方へ目を向ければ、待ちわびていた相手が公園に入って来るところだった。
昨日とは違い、今日の彼女は赤い傘をさしている。
少し息が乱れてるのは走ってきたせいなのか。
その頬と唇が傘と同じく赤に染まり、モノクロの雨の世界でとても鮮やかに色づいて見えた。

「…遅くなってごめんなさい」

申し訳なさそうな顔をしながら目の前にしゃがむ彼女を見た途端、万次郎の顏に柔らかい笑みが浮かんだ。
座る?と促すように、自分の隣を一人分空ければ、彼女は傘を閉じて中へ入ってきた。
決して広いとは言えない"ゾウさん"の口の中で、二人は仲良く並んで座る。
子供用に作られたであろう"ゾウさんのトンネル"も小柄な者同士だとそう窮屈でもない。

「今日は傘、持ってきたんだ」
「うん。佐野くんは?」
「俺は…忘れた」

言いながら舌を出すと、彼女は少し驚いた顔をした。
昨日とは違い、今日は朝から雨が降っていた。
なのに傘を持ってこなかったのは、出会った時と同じくこうして彼女と雨宿りがしたかったからだ。

「あー佐野くん、濡れてる」

彼女はそう言いながら万次郎の濡れた髪を見て、すぐに自分のハンカチを出した。

「いいよ、汚れるって」

濡れた髪や学ランを拭いてくれる彼女を見て、万次郎は慌てて体を引く。
彼女はくすくす笑いながら「汚れないよ」と言って、もう一度万次郎の髪を丁寧に拭いてくれた。
綺麗にアイロンをかけられたハンカチからは、彼女と同じくとてもいい匂いがする。
万次郎は照れ臭そうに俯くと、所在なさげに指で鼻の頭をかいた。

二人が出会ったのは、昨日の夕方―――。
一日中どんよりとしていた空から急に雨が降り出し、それがすぐに土砂降りへと変わった。
もう少しで家だと言うのについてない。
万次郎は慌てて近くの公園にある"ゾウさん"の形をしたトンネルの中へ飛び込む。
雨宿りをするくらいには、ちょうどいい場所だ。
―――が、そこには先客がいた。

「あ…」

長い黒髪を後ろで一つに縛り、眼鏡をかけた少女は、万次郎が飛び込んで来た事で酷く驚いた顔をしていた。

「えっと…アンタも雨宿り…?」
「あ…うん。傘を忘れて…」
「同じく…ってか、俺も雨宿りさせてもらってい?」
「あ…もちろん」

その少女はすぐに一人分入れるくらいのスペースを空けて、万次郎を招き入れた。
見た事のある制服に身を包んだその少女は、とても真面目そうで万次郎の住む世界とは無縁の存在に見えた。
綺麗な黒髪も一つに束ねられ、少し度の強そうな眼鏡。
きっちりと制服のネクタイをしめていて、きっと優等生なんだろうな、と万次郎は思う。
とにかく派手な自分の仲間たちと比べれば、少女はとても地味に見えた。でも―――。

「雨…止まないね」
「え?」

ボケっと少女の横顔を眺めていた万次郎は、不意に話しかけられた事で我に返った。
少女は大粒の雨が落ちて来る空を、静かに見上げていて。
その横顔と眼鏡の合間から覗く空を見つめる瞳がとても凛としていて、つい見惚れてしまっていた自分に気づく。
見るからに優等生タイプの彼女は、万次郎にしてみれば苦手な種類の人間に入る。
なのに、こうして隣に座っていると何故か彼女の持つ空気はとても落ち着く気がした。
会って数分なのに、黙って二人で座っていると、前から知り合いだったような気さえしてくる。

「えっと…オマエ、名前は?」

一時の雨宿り仲間で、別に名前などはどうでも良かったが、沈黙も気まずい気がして、当たり障りない質問をしてみる。
少女はふと万次郎を見ると、

「あ、私は。あなたは?」
「俺は…佐野…佐野万次郎」

一瞬名乗るのをためらったが、どうせ住む世界の違う住人だ。
名乗ったところで自分の正体は分からないだろう、と思った。
案の定、少女は「佐野…万次郎くん?いい名前」と言うだけで特に驚いた様子もない。

「佐野くんは近所に住んでるの?」
「ああ、まあ…オマエ…は?」
「私は隣町なの。今日は祖母の家に寄った帰りで」
「ばあちゃん?」
「うん。転んでケガしたから心配で様子を見に」
「そっか…。で、大丈夫だったのかよ」
「意外と元気そうだったけど、食事の用意とか出来ないから代わりに私が作って来たの」
「へえ…大変だな…」
「そうでもないよ?大事な人の為に何か出来る事があるのは嬉しいから」
「……大事な、人…」

と名乗った少女は、何とも優しい笑顔でそんな事を当然のように言った。
万次郎にも大事だと言える家族や仲間たちがいるから、その言葉の意味は理解できる。
その時、ゴロゴロと嫌な音がしてきたと思った瞬間、ドオォンっという大きな雷鳴が響き、一瞬辺りが真っ白に光った。

「きゃぁぁっ」
「うおっ」

あまりに近い場所で鳴った雷に驚いたのか、が隣にいる万次郎に抱きついて来た。
雷よりもそれに驚いた万次郎も、思わず大きな声を上げる。

「ちょ…大丈夫だって…ここにいれば雷なんか落ちねーし」

とはいえ、そう言っている最中にも次の雷鳴がゴロゴロと音を立てだした。
は万次郎の首に腕を回してしがみついているが、その体は少しだけ震えているようだ。

「おい…」

さっき会ったばかりの少女に抱きつかれ、万次郎は戸惑いながらも声をかけた。
ただ彼女の体の震えが伝わって来る事で、無理に引きはがすのは可哀そうな気もしてくる。
万次郎の妹も幼い頃はこんな風に雷を怖がり、抱き着いて来た事があったからだ。

(…何で女ってやつはたかが雷でこんな怖がるんだ…)

溜息交じりで両手を後ろにつき、ふと幼い頃の妹を思い出す。
今ではすっかり生意気に育っているが、小さな頃はこんな風に雷を怖がっては泣きついて来たっけ、と苦笑が漏れる。
彼女が落ち着くまではこのままでいいか、と暫く雨を眺めていると、次第に雷の音も遠ざかっていき、再び公園に梅雨らしい静けさが戻って来た。
雨も本降りから小雨に変わりつつあるが、この時間になると少し気温が低い。
ただしがみつかれている為、互いの体温で少しずつ身体は温まってくる。
ついでに彼女からはかすかにいい匂いがしていた。

「あ…ご、ごめんなさいっ」
「いや…」
「雷、凄く苦手で…」

雷の音がしなくなった事で我に返ったのか、が慌てて万次郎から離れる。
が、その拍子にかけていた眼鏡を引っかけ、そのまま外れてカシャンと音を立てた。

「あ…」
「え?」

その音に気づいた万次郎が後ろへ着いてた手を動かした時、何かを踏んづけ今度はパリンっという嫌な音が響く。
ついでに掌に痛みを感じ、万次郎は恐る恐る視線を下に向ければ、眼鏡が無残な事になっていた。

「ありゃ…」

万次郎が眼鏡の上から手を着いた事で、見事にレンズが割れ、フレームがひしゃげていた。

「あーわりぃ…壊しちゃった―――」

と、壊れた眼鏡を指でつまんだ瞬間、が慌てて万次郎の手を取った。

「そんな事より…ここ切れてるっ」
「え?ああ、こんなの大した事ねーし…」
「で、でも…」
「舐めときゃ治るって―――」

怪我など万次郎にとったらいつもの事。
レンズで切ったところをペロリと舐めながら、ふとの方を見る。
そして万次郎は一瞬固まった。

「でも血が出てるから…」

は万次郎の傷を見て、あたふたしながら鞄の中を漁っているのだが、そんな彼女を見て万次郎は少しばかり驚いていた。
地味だと思っていた少女は、最初の印象とは程遠い、とても綺麗な顔立ちをしていたからだ。
一瞬、眼鏡しない方がいいんじゃね?と言いそうになったが、

「こ、これ!貼って」

彼女が万次郎に差し出したのは、可愛い絵柄の絆創膏。

「え、いいよ。大げさ」
「ダメだよ…小さな傷でもばい菌が入ったりしたら危ないんだよ?」

はそう言いながら絆創膏を包んでいる紙を破ると、それを万次郎の手のひらへ丁寧に貼りつけた。
自分の手のひらに可愛らしい絆創膏が貼られているのを、万次郎はマジマジと眺めて、少々気恥ずかしい気持ちになったが、同時に胸のどこかで音が鳴った。

「…さんきゅ」
「ううん、これくらい。あ、じゃ小降りになってきたから私は帰るね」
「え?あ、でも眼鏡…」

壊れた眼鏡を万次郎の手から受け取ると、鞄の中へしまうに、万次郎は慌てた様子で「それ弁償すっから」と言った。
不可抗力とは言え、自分が壊した事には違いなく、このままでは何となく後味が悪い。
そうガラにもなく思ったが、は驚いた顔で首を振った。

「え、いいよ、弁償なんて…落とした私が悪いんだし」
「いーや、弁償する。眼鏡ないと困るんじゃねーの?」
「そ、それは…そうだけど…」
「つっても今、財布ねーから…明日!」
「え?」
「明日、またばあちゃんちって行く?」
「う、うん…怪我が治るまでは…」
「じゃあ明日、またここで待ってっから」

勝手にどんどん話を進めて行く万次郎に、は呆気に取られていたが、その勢いに釣られてつい頷いてしまった。
そして―――今日もまた、祖母の家に寄った帰り、こうして雨の中この公園までやって来たというわけだ。

「風邪ひかないでね」

万次郎の濡れた髪を拭き終わると、は心配そうな顔をした。
その顔には昨日とはまた別の眼鏡をしている。

「あーさんきゅ…。ってかその眼鏡…」
「あ、これは前に使ってたやつなの。度は合ってないんだけど付けないよりはマシだから」
「そっか…。あ、えっとコレ!」

そこで思い出した万次郎はポケットからお金の入った封筒を取り出し、へ差し出した。

「ネットであの眼鏡の金額調べたんだ。多分、足りると思うから」
「え…でも本当にいいの…?佐野くんが悪いわけじゃ―――」
「いや、俺が壊したのは間違いないっしょ。いーから受け取って」

一度出したものは引っ込められないと言うように、封筒をの手に押し付ける。
は困ったようにその封筒を見ていたが、万次郎の態度を見て断れないと気づいたのか、「分かった…」と言ってお金を受け取った。

「ありがとう、佐野くん」
「いや、お礼言うのも変じゃね?俺が壊したんだから」
「でも元々は私が佐野くんに抱き着いちゃったせいだし…」
「…いや、俺が確認しないで手を置いたから―――」

と、言いかけた時、互いに顔を見合わせ、同時に吹き出した。

「これじゃいつまで経っても終わんねーよ」
「そうだね」

は封筒を鞄にしまうと、「じゃあ有難く頂いておきます」と万次郎に微笑んだ。
その笑顔に万次郎の頬がかすかに赤くなる。
今までこんなに綺麗に微笑む女の子を、万次郎は見た事がなかった。
いつも野蛮な男ばかりに囲まれ、寄って来る女子と言えば自分と同じような不良崩れのやつばかり。
こんな風に静かな時間の中、女の子と二人きりで過ごした事はなかったな、と万次郎は思った。
そして今日お金を渡した事で、との繋がりは消えてしまった。
消えてしまったなら、また作ればいい。ふと、そんな事が頭に浮かんだ。
だがそのキッカケを考えていると、不意に彼女が「佐野くんの家はどこ?」と訊いて来た。

「ここから近いって言ってたけど」
「え?あーウチはここから10分くらい先行ったとこ…だけど…」
「そう。じゃあウチまで送る」
「えっ?」

突然の申し出に、万次郎はギョっとした。
だが当の本人は不思議そうな顔で「だって佐野くん傘、忘れたんでしょ?」と空を見上げる。

「まだ本降りだし、また濡れたら風邪引いちゃうよ。今日は昨日より寒いし」
「い、いや、大丈夫!走って行けばすぐだし」
「ダメだよ。私、傘持ってるから送る」

はそう言いながら外へ出ると、持っていた赤い傘を開いて万次郎の方へ振り向いた。
こうなると出ていくしかなくなり、万次郎も身を屈めて外へ出ると、すぐにが傘をさしてくれる。

「……さんきゅ」

手を少しだけ上げ、万次郎の頭の上に傘をさしてくるを見て、改めてちっけえな、と思う。
小柄なのは何となく分かってはいたが、こうして向かい合っていると、決して大きくはない万次郎よりもは頭一つ分、身長が低い。
相合傘にはちょうどいい身長差だった。

「ああ、それ俺が持つよ」
「え?あ…」

の手から傘を奪って万次郎が持つと、彼女は照れ臭そうに「ありがとう」と小さな声でお礼を言った。
その横顔に少なからずドキリとさせられる。

「いや…俺こそ送ってもらっちゃって」
「ううん…傘、持ってもらっちゃってるし…」
「………(そう言えば…)」

こんな風に相合傘で女の子と歩くのも初めてだと万次郎は気づいた。
何故か右腕が落ち着かない。
彼女が濡れないように、少しだけ傘を右側へ寄せている自分も、何からしくなくて気持ち悪い。
なのに、彼女と一緒にいるこの空気は、やっぱり落ち着く、と思う。
そんな事を考えつつ、雨粒が跳ねる足元をただ見ながら歩ていたら、アッという間に家についてしまった。

「あ…ウチ、ここ」
「え?あ…ほんと、あの公園から近いんだね」

はハッとしたように顔を上げる。
そして万次郎が持っている傘へ手を伸ばすと、「じゃあ…私はこれで…」と万次郎を見上げた。
手にある傘を渡せば、本当にこれで終わり。学校も違うとは会う事もないかもしれない。

「佐野…くん?」

一向に傘を放そうとしない万次郎に、が首を傾げた。
が、何かを思いついたかのように顔を上げると、万次郎は「ちょっとここで待ってて」と持っていた傘をの手に握らせ、急いで家の中へと入る。
そして玄関に置いてある自分の傘を掴むと、それを持って再びの所へ戻った。
そうした一連の動きを驚いた顔で見ているに、万次郎は笑顔で言った。

「今度は俺が送る」
「…え?」
「もう暗いし危ないからさ」

すでに午後六時を過ぎ、雨雲に覆われているせいで、辺りはこの時期にしては暗い。
これから隣町まで帰るにしても、ここから更に駅までは距離があり、一人で帰すのは心配になったのだ。

「で、でも、そこまでしてもらうのは―――」
「いいじゃん。俺がそうしたいんだから。あ、それとも迷惑…?」

いつものクセで少し強引すぎたか?と万次郎は一瞬心配になったが、は首を左右に振る。
その頬はほんのり赤くなっていた。

「良かった。じゃあ、行こっか」

傘を開き、万次郎が笑顔で歩き出すと、も慌てて追いかけ、隣を歩く。
もう少し、もう少しだけ、彼女と一緒にいたい。
なんて、思う自分に首を傾げながら、たまにはこんな夜もいいか、と万次郎は思った。







初の東リベマイキーなんぞ。タケミッチと出会う前のお話から最終巻辺りまで飛び飛びで進みます。

By.Nelo Angello:HANAZO. 2022.6/19