TROY

第六章:哀情(前編))









それは紀元前3000年…
古代ギリシャとトロイで起こった愛の物語・…






















側近の一人がメネラオスに耳打ちをした。


「何?あの小僧が?!」
「はい…先ほどトロイ側から、そう申してきました」


メネラオスはベッドから降りると、目の前にあった器を床へ投げ落とした。
バリーン!と凄い音が響いて砕け散る。


「生意気な…っ!この私と戦うだと?!この私を殺してを名実ともに妃にする気か?!」


そう怒鳴り散らし部屋の中をウロウロと歩きまわった。
そしてピタっととまると、手を顎に持っていき髭を撫でながらニヤリと笑う。


「ふん…っそっちがそう出るなら…やろうじゃないか!の目の前で、あの小僧を殺して、その後はもこの手で殺してくれるわ!」
「は?も…で御座いますか?」


メネラオスの言葉に、側近も驚いた。


「確かに殺すのは惜しいが・…そうだな。殺す前に体を頂いておくのもいいだろう。まずは、あのパリスからだ」


ニヤリと笑いながら、メネラオスは部屋を出て、そのまま兄、アガメムノンのいる大きなテントへと向かう。





「兄上!」
「何だ?朝から騒々しい…」


アガメムノンは朝食を食べながら、顔をしかめた。


「聞いたか?トロイ側からの申し出を」
「ああ、聞いたぞ。あのパリスがお前と一対一で戦いたいと言っているんだろう?」
「生意気な小僧だ!兄上、あいつを俺に殺させてくれ!」


メネラオスの鼻息の荒さに、アガメムノンは苦笑して食事の手を止めた。


「メネラオス…この戦はもうお前の問題だけではないぞ?フィアンセを取られたくらいで、いちいちお前が出ていっては格好がつかん」
「どうしてだ?向こうから申し出てきてるんだぞ?」
「お前のフィアンセなど、どうでもいい。私は、このトロイを我が領土としたいのだ。そんな若造と戦っている場合じゃない」
「兄上!ここで断れば足元を見られるぞ?それに、これは俺のメンツがかかっている!この手で、あの若き王子を!」


あまりに熱くなりすぎているメネラオスを見て、アガメムノンは溜息をつくと、


「わかった…。なら好きにしろ」
「兄上…!」


メネラオスは嬉しそうに、ニヤリと笑うと、すぐに自分の鎧を用意させた。


「どこで戦うんだ?」
「トロイ城壁の前だ。もちろん兵士も連れて行く。どうせヘクトルの兵もいるだろうしな。
俺が小僧を殺したら…一気にヘクトルも殺してくれるわ!」


顔を赤くして張り切る弟を、アガメムノンは少々不安げな面持ちで見つめていた。


こいつ…頭に血が上ると、どうも冷静さが欠ける…
あの若き王子に足元を掬われなければいいが…


アガメムノンは、鎧をつけながら剣を振り回しているメネラオスを見て小さく溜息をついた。




















は少しづつ意識が戻る中、誰かに優しく頭を撫でられている感触で完全に目を覚ました。


「…ん…」


薄っすらと目を明けると、目の前に誰かの顔がある。
窓を締め切っているからか薄暗い部屋の中で、は目の前の人物の顔を見分けようとパチっと目を開いた。


「おはよ、
「キャ…っ」


目の前で微笑むパリスの顔が見えて、は驚いて布団を被った。


「どうしたの?」


は、そこでそっと顔を出すと、パリスは優しく微笑んでいる。


「あ、あの…ちょっと驚いた…だけ…起きてたの…?」
「うん、少し前に目が覚めて…」


――夕べ、遅かったのに?


と聞きそうになるのを、ぐっと堪えた。


「そ、そう…もう…朝…?」
「そうだよ?あと少しで日も登る。まだ少し時間があるから寝てていいよ?」
「え?パリスは…?」
「僕は、の寝顔見てるし」
「……っ!」


(そ、そう言えば…今…寝顔を見られてたんだわ…っ)


そう思うと何だか妙に恥ずかしくなる。


(やだ…私、口とか開けてなかったかしら…)


?どうした?まだ眠いんだろ?」
「え?い、いえ…眠くは…」
「そう?僕は少し眠いかなぁ…」


パリスはそう言うと,ついてた肘を外し、の隣にゴロンと横になった。


「じゃ、じゃあ…寝れば?」


はチラっとパリスの方を見て、そう言うもパリスはちょっと笑いながらの方に顔を向ける。


「ダメだよ。今日だけは寝坊できない。もうすぐ戦いに行かないといけないからね?」


パリスの言葉に、の胸がズキンと痛んだ。


「あ、あの…本当に…行くの?」


もパリスの方へ顔を向けると、パリスは体ごと向けて横になった。


「行くよ…?」


それだけ言うと、パリスはの額に優しく唇をつけて、の頭を抱き寄せた。


「あ、あの…っ」
「あ、何もしないから…怖がらないでいいよ?」


の顔を覗き込んで、そう言うも、は目の前にパリスの顔が来て顔が熱くなるのが分かった。
パリスはの頭に何度も唇をつけながら時折、頬を摺り寄せている。
何も言わず、ただ、愛しいというように、の温もりを確めているようだ。
は、パリスの体温を感じて、また眠くなってくるのを何とか堪えると、思い切って顔を上げた。


「パリス…あの…きょ・…」
…」
「…え?」


の言葉を遮るように、パリスが静かに口を開いた。





「もし…僕が今日、メネラオスに殺されても…」





その言葉には心臓の鼓動が早くなるのを感じた。



(やだ…っ聞きたくない!)





「やめて…!」


思わず大きな声を出してしまった。


?」


パリスは驚いて、少し体を離すと、の顔を覗き込んだ。


「やめて…そんな話、聞きたくない…っ」
…大事な話なんだ・…」
「いや!」


はパリスの胸元に顔を埋めると溢れ出てくる涙を必死に堪えようとするも嗚咽が洩れて肩が震えてくる。


…?泣いてるの?」
「ぇ…ひっく…な、泣いて…なんか…ない…も…」


パリスは少し体を起こすと、手で顔を覆ったの頬が涙で濡れているのを見て驚いた。


「何で…が泣くの?」
「だ…って…」
「泣かないでよ…」
「…かない…で?」
「え?」
「いか…ない…で…っ」
「…?」


パリスはの言葉に驚いた。


「私…なんか…の為に…なんて…格好つけないで…っ人が死ぬの…は嫌…」
…」


パリスは、の言葉に胸が痛くなる。
それでも…行かなくちゃならない。


「…聞いて?」


パリスは、顔を覆っているの手を掴んで静かに下ろすと、涙で揺れている奇麗な蒼色の瞳を見つめた。


「…もし…僕が殺されても…」
「い…や…っ」


は顔を背けてパリスに掴まれた腕を離そうともがくも、パリスはそれを阻止して、


「頼むから聞いて!」 

と怒鳴った。
大きな声に、はビクっとなってパリスの顔を見た。
パリスは悲しそうな瞳でを見つめると、そっと濡れた瞼に唇を押し付ける。


「怒鳴ってごめん…。でも大事な事なんだ。聞いてくれる?」 


は、コクンと小さく頷くと、パリスは優しく微笑んだ。
そして小さく息を吐き出すと、パリスは口を開いた。



…僕がいなくなったら…君はアキレスの元へ行くんだ」
「…っ?」
「アキレスなら…君を守ってくれるだろう?」
「パリ…ス?」


パリスは少し悲しげな顔で目を伏せると、「情けないけど…僕は絶対に勝てるという自信はないんだ」 と呟いた。


「じゃ、じゃあ…どうし…ていく…の?」


の言葉に、パリスはちょっと微笑むと、「を愛してるから…」 と言った。


「だ、だって…そんな事だけで・…」
「そんな事じゃないって……。僕は君が自由になれれば、それでいいんだ。もう僕じゃなくても誰でもいい。
君を、あの男から救ってくれるなら…。兄上に頼みたいけど…
やっぱり一晩考えて…が想いを寄せてるアキレスの元へ返すのが一番いいって思ったんだよ。大丈夫。
アキレスだってのこと、きっと好きだよ。必ず守ってくれる」


「…パリ…ス…」


はパリスの言葉に胸が痛くなった。
パリスは、そこまで言うと少し息を吐き出し、もう一度を真っ直ぐに見つめた。



「だから…今、ここで会うのが最後だ」
「…え?」
「もう…君は好きな所へ行っていいよ?」


はパリスの言葉に胸が引き裂かれそうなほどの痛みを覚えて息が出来なくなりそうだった。


「じゃ…じゃあ…もし…あな…たが…勝った…ら?あなたが…メネラオスを…倒したら?」


何とか震える声で、そう問い掛けた。
パリスは少し俯いて、「それでも…君を帰そうと思ってる…」 と言った。


「そう…分かった…」


は呆然とした顔でガバっと体を起こすと、いきなりパリスの方へ振り返り怒鳴った。



「勝手…なこと…ばっかり…っ!自分で連れ…てきて…おいて今度は…帰れですって?!いいかげんに…してよ…っ」 


パリスの胸元を小さな手で何度も殴った。
パリスは一瞬、驚くも起き上がると、の手をそっと握って、思い切り抱きしめた。


「離し…て…っ」
「だって…!君は僕を愛してない…!アキレスが好きなんだろ?!ほんとは返したくなんかないよっ
でも…だけど…が好きな人の元へ帰りたいと望むなら…そうした方がいいって思ったんだよ…っ」


パリスは、そう言いながらを抱く腕を強くした。
その声を聞きながら、何でこんなに胸が痛いのかも分からず、はただ、泣きじゃくっていた。




暫くすると、の鳴き声が聞こえなくなり、パリスは小さく震える肩をそっと離した。
は涙で濡れた顔でパリスを見上げると寂しそうな彼の瞳と目が合う。
パリスは少し視線を外し、またの瞳を見ると、優しく額に口付けた。
彼女の腰を思い切り抱き寄せて、もう一度強く抱きしめる。
そして最後に頬にキスをすると、の体を解放した。


「…僕…もう行くよ…」
「―――っ」


パリスが寝台から降りようとするのを、ふいにが止めた。


?」
「どうしても…行くの?」
「うん…」
「そう…。なら…私…待ってるから…」
「え?」
「ここで…あなたが生きて帰って来るのを待ってる」
…?」


パリスは、の言葉に驚いて、顔を覗き込んだ。
は、強い視線でパリスを見ると、「あなたが生きて帰って来たのを見届けたら・…私、ギリシャに帰るわ?」 と言った。


「……っ?」
「でも…もし殺されたら…とか思わないで…っ」
…」
「私も、もう逃げない。メネラオスなんかと結婚もしない。親を人質にとられて泣き寝入りなんて嫌だもの…」


強く言い切るにパリスは笑顔になると、「は…強い子だね…?」 と呟いて頬に手を添える。


「…君を愛してる…。 ――さよなら…」 


と言って素早く頬にキスをした。
そして、そのまま部屋を出ていった。
は、その場に取り残された気分で、また涙が溢れてきた。


どうして、こんなに胸が痛いの?
自分が勝っても負けても私を返すだなんて…そんな優しいこと言うから…
私…どうしたらいいの?


このまま、あなただけを戦わせて一人、アキレスの元へなんて行ける訳ないじゃない…っ!



は涙を拭いて、急いで部屋から飛び出した。






















「パリス、準備は出来たか?」
「うん。いつでもいいよ」


パリスは自分の鎧をつけて、馬へとまたがった。
ヘクトルも自分の馬にヒラリと乗ると、大きな城壁の門が開かれる。
城壁の外に沢山の兵士が配置についていた。
その兵士達も門が開くと同時に左右へと分かれ、真ん中に道ができる。
その道を,へクトルとパリスは馬に乗り通っていった。


一番前まで来ると遠くからギリシャの兵士達が凄い数で歩いてくる足音が聞こえる。
それを黙って聞いているパリスを,ヘクトルは、そっと見つめた。
今までに見た事もない強い視線の先には何が映ってるのだろう…とヘクトルは思った。


この戦い…どう考えてもパリスが不利だ。
一対一の戦いに慣れているわけじゃない。
だが…メネラオスは王とはいえ,相当戦い慣れているだろう。
あの巨体と、このパリスが対等に戦えるのか…?
弓なら、まだパリスの方に武があるのだが…。一対一ともなると、やはり剣での勝負になるだろう。


ヘクトルはパリスの意思の固さを呪っていた。


いつものように、戦うなんてバカらしい…と言って欲しいとさえ思う。
でも…今のパリスは、ついこの前までのパリスではない。
本当に愛する者を見つけ、その人の為だけに戦おうとしている。
何の…見返りも期待せずに―――


ヘクトルはパリスを勝たせてやりたいと心から思った。
そうなれば…今は頑なに心を許さないでも、ひょっとしたらパリスを愛してくれるようになるんじゃないか…と、そう思った。
いや…思いたかった。
愛する人と…一緒にさせてやりたい…。


ヘクトルは隣でメネラオスを待つパリスの顔を誇らしいとさえ思っていた。


その時、足音がどんどんと近づいてギリシャの兵と、馬車に乗ってやってくるメネラオスとアガメムノンの姿が見えてきた。
その時、一瞬パリスがヘクトルを見る。
ヘクトルは黙って頷いた。
そして馬を少し前にやり、メネラオスとアガメムノンが馬車を止めて下りたのを見ると、二人で一気に馬を下りる。


そのまま4人はお互いに歩み寄っていった。





「やあ、へクトル。久し振りだな…」
「ふん…わざわざ弟に援護を頼まれ出てくるとは…よっぽど暇なのか?アガメムノン」
「相変わらず口は達者だ…。まあ、いいだろう。今日はお前の弟がしでかした無礼を、その命で償って貰いにきたぞ?」
「さあ…それはどうかな」
「それとだ。まあ、ものは相談だが…どうだ?この一件を抜きにして私の配下にならんか?
そうすれば、この兵士達を撤退させるが…」
「トロイの民は誰にも降参などしない。誰の支配下にもならない。くだらん申し出はするな」


ヘクトルの言葉に、アガメムノンは眉を片方上げると忌々しげに呟いた。


「なら力で奪うまで…。その前に…お前の弟を俺の弟が殺したがっている。思う存分やらせてもらうよ?」


アガメムノンは、そう言いながらニヤリと笑ってメネラオスの方へと下がった。
代わりにメネラオスがヘクトルとパリスの前まで歩いてくる。
そしてパリスを、ジロリと睨んだ。


を可愛がってくれてるようだな?」
「…彼女をお前から解放させてやる」
「はっ。何を偉そうに!人のフィアンセを攫っただけでなく、その女と婚約するなど!俺を侮辱した罪は重いぞ?絶対に結婚はさせん!」
はお前との婚儀を望んではいなかった!家族を人質にとるなんて卑怯な真似を…っ!」
「ふん、うるさいわ!の目の前で、お前を殺してやる。ほら、あそこで見ているぞ?」


パリスは、その言葉に驚いて後ろを見た。
すると高い城壁の上の方で父や母と心配そうに、こっちを見ているが目に映った。


…何で…」


は父や母のように椅子に座る事もなく、塀のところまで来て心配そうな顔で見ている。
パリスは胸が熱くなった。
もう…顔は見れないと思っていたから―


「カラスも王子の味は初めてだろうな?」
「なに?」
「ほら、お前の死肉を食らいたくて、うずうずしてるようだぞ?」


メネラオスの言葉に空を見上げると沢山のカラスが寄って来ている。
カラスは人の死を嗅ぎ分けると言う。
今日は…誰の死を嗅ぎつけて来たのだろうか。


「僕が勝ったら…を自由にしろ」


パリスは最後にメネラオスに、そう言った。


「ふん、自由だと?あの女を手放すものか!お前を殺した後に、ゆっくり体を頂いて飽きたら殺してくれるわ!」


メネラオスの言葉にパリスはカっとなった。


「そんな事はさせないっ!」
「おい、パリス…!挑発に乗るな!」


ヘクトルがパリスの肩を掴んで止めた。
パリスは何とか怒りを抑えると、息を吐き出しへクトルに頷いて見せた。


「ふん、じゃ、始めるか…」


メネラオスは一旦、馬車の方へと戻って行った。
ヘクトルとパリスも兵の方へと戻り、へクトルはパリスに兜と盾を渡す。
パリスは、それを受け取るとへクトルを見た。


「…兄上…もし…もし僕が殺されたらを頼みます…必ずアキレスの元へ…」
「ああ、分かってる」
「必ずを…」
「パリス!今は戦いに集中しろ。それ以外考えるな。いいな?」
「分かった…」
「お前は剣の腕も上がっている。だがメネラオスの方が力は強い。いいか?大ぶりさせて疲れさせろ」
「ああ…」


パリスは少し緊張した顔で兜をつけると盾を持ち、もう一度メネラオスの方へと歩いて行きかけた。
その時、へクトルがパリスの弓矢を持ち、パリスの馬の前へと置く。


「おい、パリス…もし剣でダメだと思ったら、奴と距離をつくって、この弓で攻撃しろ。分かったな?」
「え?ああ…分かった」


パリスは頷くと、真っ直ぐにメネラオスに向かって歩いて行った。
メネラオスは、すでに兜をつけ、剣を振り回し、「うぉぉぉ!」 と雄たけびを上げている。


パリスはメネラオスに近づき、盾を構えた。









「若造が…っその腕も足も切り落としてカラスの餌にしてくれるわ!お前ごとき兜なんぞいらないな?!」


メネラオスは、そう叫ぶと、ニヤリと笑って兜を脱いでパリスの方へ大ぶりで剣を振り上げてきた。
それを盾で止め、攻撃をしようとするも、メネラオスは思った以上のパワーで、その盾ごと押されて行く。



ガンッ!ガンッ!



剣を振りかざしてくるのを何とか盾で止めると凄い音が鳴り響く。
隙を見てメネラオスの横に抜けるとパリスは剣でメネラオスの胸元を切りつけたが鎧が邪魔をして少し傷をつけただけだ。
メネラオスは相変わらず、「死ねーっ」 と叫んで剣を振りかざし襲ってくる。
その剣を、もう一度盾で受けたとき、思った以上に力があって思わず後ろへよろけそうになった。











「ああ…危ない…っ」


は上から二人の戦いを見て胸が締め付けられながら目は離せないでいた。
先ほどサルベードンに二人の戦いが見たいから外へ出して欲しいと頼みに行くと、彼は王の下へを連れて行ってくれた。
ここで一緒に見守ろうと王に手をとられ、は涙が出るのを堪えて頷いた。


自分の事をパリスのフィアンセと信じて疑わない王に、は思わず本当に事を告げたのだった。
私は結婚を承諾していない…それでもパリスはメネラオスと戦うと言ってくれたと―


だが、その事を聞いても、王は優しく肩を抱いて、


「それでも…今は本気でパリスを心配してくれているのだろう?その気持ちだけあれば充分だ」 


と、プリアモスは言ってくれた。
は両手を組みながら、メネラオスが押し気味の二人の戦いを見守っていると、プリアモスに呼ばれ振り向いた。


…こちらへ来なさい…」
「い、いえ…私は…ここにいます…。ここで…見ていたいんです…」
「そうか…」


後ろの方で王座に座りながら息子の戦いを見守る王と后は、すでに諦めたような顔で戦いを見ている。
は、また下の戦場へと視線を戻した、その時―



よろけたパリスにメネラオスが剣を振り上げているのを見て息を呑んだ。


















「メネラオスの勝ちだな…」


アキレスは遠くの丘の上で二人の戦いを見ていた。
エウドロスがアキレスの後ろから歩いてくると、「行かなくて…本当に宜しいんですか?」 と言った。


「あの戦いにか?俺が行くまでもないだろう?どうせ、アガメムノンを喜ばせるだけだ」
「そうですね。あ、たった今、間者から報告がありました」
「何?」
「協力する者が見付かったと…」
「協力だと?」
「はい。様を、あの城壁の外へ連れ出せる者です」
「誰だ?」


アキレスは、そこで振り向くとエウドロスを見た。


「はい、どうやらミノアの王子の従兄弟のようで…」
「女か?」
「はい。それが…その女、どうやらパリスに惚れているようでフィアンセの様が邪魔のようです」
「ふん…女の嫉妬か…。それで?その女はに危害を加えることは?」
「その女は、ただパリスから様を遠ざけたいだけのようです」
「そうか…分かった。じゃあ、を外に出せたら…誰にも見付からないように俺のところへ連れてこい」
「分かりました」
「ああ…そろそろ時間の問題だな…」


アキレスはメネラオスとパリスの戦いへと視線を戻すと、そう呟いた…。



















「く…ッ」


盾に思い切り衝撃が加わり、パリスは後ろへ倒れそうになるのを何とか持ちこたえると、いきなり首元を掴まれた。


「ぐぁ…ッ」


メネラオスが凄い力でパリスの首を締め上げていく。
パリスは右手を何とか持ち上げ、隙の出来たメネラオスの左頬を思い切り殴った。
バキッっという大きな音がしてメネラオスがよろけた拍子に首を掴んでいた腕が放れた。


「グ…ッゴホッゴホ…ッ」


首をさすりながら何とか体を支えると、バランスを崩しているメネラオスに向かって剣を振り上げた。
剣はメネラオスの盾に辺り、メネラオスは、またも後ろへよろける。
だが体を持ち直すと、そのままパリスの盾を掴み、剣が上がるのを見てパリスは慌てて体を翻し直撃を避けた。
またメネラオスに切りかかろうとした、その時、凄い力で顔を殴られ兜が脱げる。


「……っ!」


口の中から、ドクドクと血が溢れてきて切れたんだと分かる。


(クソ…ッ何てバカ力だ、このジジィ!)


パリスはクラクラする頭を軽く振ると、手の甲で口を拭った。
兜が脱げたせいで少しスッキリすると、剣を持ち直す。
そこにメネラオスが走りながら剣を振り回してくるのが見え、盾を構えて剣を受けた。
何度も何度も剣が当たるのが分かる。
盾を持ってる手がしびれるほどの衝撃だった。
何度目かの剣を受けたとき、さすがに後ろへよろけた。
その時、メネラオスの剣がパリスの足を切り裂き、持っていた盾が吹っ飛んだ。


「うあぁっ…!」


足に激痛が走り、パリスは後ろへと後ずさりながら剣を握りなおした。
その時、また顔を殴られ、後ろへと吹っ飛ばされる。


「どうした?!もう終わりか?!」


メネラオスも口から血を流しているものの、それほどのダメージは受けていないようだ。
パリスは倒れたままジリジリと追いつめられ、転んだ拍子に飛ばされた剣の方まで這って行く。
その後ろを余裕の顔で、ゆっくりとメネラオスが歩いて来た。


「ほら、カラスが早くお前を食いたいって待っているぞ?!アッハッハ!」


(クソ…っ!やっぱりダメか…?)


パリスは痛む足を何とか動かし立ち上がると、また蹴られて転ぶ。


「ぐぁ…っ」
「ほらほら、どうした!攻撃して来いよ!」


(完全に遊んでいる…いつ殺されてもおかしくないのに…っ)


パリスは悔しさで体が震えた。


このまま…ただで殺されて堪るか…っ
に手出し出来ないように、僕と道連れにしてやる…!


パリスはメネラオスが後ろを向いた隙に痛みを堪えて何とか立ち上がると、よろけながらも剣の方へと走って行った。
足を引きずっているので早くは走れない。


「ん?まだ、そんな元気があるのか?無駄なことはやめろ、若造!」


メネラオスが気付いて追ってくるのが分かり、パリスは向かう先を変えた。


剣のある場所まで行くより…さっきへクトルが、いざという時に、と置いてくれた弓矢の方が近い。
そこまで行ければ…


そう思った瞬間、凄まじい痛みが後ろ肩を襲った。


「うぁっ…!!」


その場に倒れて後ろを振り返ると、メネラオスが、ニヤニヤした顔で、ゆっくり歩いてくるのが見える。
パリスはヘクトルの方まで這って行きながら後ろの肩に刺さった槍を自分で抜いた。


く…っ肩が熱い…
でも左肩で良かった…
これなら何とか弓が引ける…っ


目の前に自分の弓矢が見え、それに手を伸ばした。
その時、


「何だ?剣じゃ敵わないから今度は弓矢か?」


すぐ後ろでメネラオスの声が聞こえた。
パリスが振り向くと、ニヤリと笑ったメネラオスの顔と大きく振り上げられた剣が視界に入る。
そこから先はスローでしか見えなかった。
自分に向けられ振り下ろされた剣が、ゆっくりと近づいてくる。








――――殺される…っ










そう思った瞬間、パリスは弓を引いていた。












「ぐあぁぁぁっ!」




「――――っ?!」








パリスは、その叫び声でハっと我に返った。


(僕は…生きてる…っ?!)


自分が生きてる事に驚きながら体を起こし、その叫び声の方を見てみると目の前でメネラオスが顔を抑えて暴れてるのが見える。
パリスの放った矢が、メネラオスの目に突き刺さっていた。


「パリス!」


ヘクトルが叫びながら走って来た。


「兄…上…」


急に体の力が抜けるのを感じ、それでも何とか立ち上がろうとした、その時――


「パリス…!危ない…っ!」


その声に思わず振り向いた。





目の前にはメネラオスの巨体があり、目から血を流しつつも、剣を振り上げているのが見えた。






パリスは、そこで目を瞑った―――

























「いやぁぁっ!逃げてえぇっ」


は信じられない光景に思わず叫んでいた。


パリスが殺されそうになったかと思えば、彼の放った矢でメネラオスが倒れるのが見えて勝ったと思った。
なのに…パリスが背中を向けた時、メネラオスが、ゆっくりと立ち上がるのが見えて思わず叫んでいた。
そして、は手で顔を覆った。



(やだ…っ死なないで…!)




その時、凄い怒号と歓声が聞こえて来て、は手を放し、目下に見える戦場が兵士の声で揺れているのが見えた。


(…え?何が…)


は身を乗り出して下を見た。
すると…


パリスを殺そうと剣を振り上げたまま、メネラオスは止まっていた。
パリスはその場に倒れていて目の前のメネラオスを驚いたように見上げている。




そして…メネラオスの胸に剣を突き立てていたのは…なんとへクトルだった。




「ヘクトル…!」




は驚いて手で口を覆った。






















「トロイが約束を破ったぞ!戦闘開始だーーー!!」


弟、メネラオスがヘクトルの手にかかり、倒れたのと同時にアガメムノンが叫んだ。
ヘクトルは剣を抜くと、足を負傷しているパリスを抱えて、馬の方へと走る。


「ああ、兄上…待ってっ」
「おい、パリス!」


ヘクトルが呼ぶのを無視し、パリスは慌てて、さっき飛んでしまった剣を拾うと、
足を引きずりながら、馬の方へと走って来た。


「パリス、お前は城の中へ戻れ!」
「で、でも…っ」
「いいから!怪我してるだろう?!」


ヘクトルはパリスが馬に乗ったのを確認すると自分も馬へとまたがり、今まさに襲いかかろうとしているギリシャ軍に向かって射手隊を前へと配置させた。
その時、パリスが門の中へと入って門が閉まるのが見えた。


「よし…!ギリシャ兵を近づかせるな!」


ヘクトルがトロイの兵士達へそう叫ぶと、「うおぉぉ!」 という声が上がる。


城壁の上からも、沢山の射手隊が姿を表し、射程圏内へ入って来た兵士を次々に撃って行く。
ヘクトルも馬に乗りながら射手隊を潜り抜けてきたギリシャ兵を次々に切っていった。
その時、凄い力で馬から落とされた。


「うあっ!」


太い腕がへクトルの体を持ち上げる。
目の前にはかなりの大男がニヤリとしながらへクトルの首を掴んで体を持ち上げていった。


「く…っ」


あまりの苦しさに顔を歪めながらも、ヘクトルは渾身の力で、その男の顔面に頭突きを食らわした。


「ぐあっ」


いくら巨体でも鍛えられない顔面に思わぬ頭突きを食らい、大男はへクトルを放した。
ヘクトルは首を擦りながらも、足元に倒れている兵士の剣を取ろうとして、今度は大男に蹴られた。
転んだ時、目の前に大きな石のついた武器を振りかざしている大男が見えて慌てて自分の横にあった大きな板を盾の代わりにする。


ドゴーンッ!


凄い音とともに、ヘクトルの目の前に石が半分板を突き破ったのが見えて一瞬冷やりとした。
だがすぐに体を起こすと、近くにあった槍でその大男の胸元を刺した。


「ぐぁあっ」


大男の顔が歪み体がふらつくも、そいつは自らの手で槍を引き抜いてへクトルは驚いた。


(こいつ…何て力だ…っ)


その姿にへクトルは、もう一度槍を胸元に突き刺した。
それもまた抜かれ、三度目に刺したとき、その男がゆっくりと膝から崩れ落ちるのを見て、ヘクトルは息を吐き出した。
そして急いで馬へと乗ると、トロイ兵、優勢のまま戦っている方へと走らせ、
ギリシャ軍を、どんどん追い払って行った。
ある程度まで追い払うと、今度はトロイの兵を城の方へと引かせる。


「おい、戻れ!深追いするな!敵の射程距離に入るぞ!」


ギリシャ兵が引いた方で射手隊が構えるのが見えて、へクトルは自分の兵へ呼びかける。


「引けー!皆、城へ戻れ!」


その声に歓声を上げながら、トロイの兵が城へ引いて行く。




それを見届けると、へクトルも馬を城方向へと返し、そのまま走らせて門の方まで戻って行った―
























「ああ…ありゃダメだな…負ける…」


アキレスはトロイ兵に襲い掛かるギリシャの兵の群れを見て、そう呟いた。


「完全にトロイの射手隊の射程距離に入っちまってる。あれじゃあ近づきすぎだ。やっぱりアガメムノンは使えない」


そこでアキレスは陣営の方まで戻って行った。
テントの中に入ると、捕虜にと連れてきたブリセイスが顔を上げた。


「パリス…パリスは?!どうなったの?!」
「あ?パリス?ああ…予想外れで…パリスが勝った」


アキレスの言葉で、ブリセイスは思い切り息を吐き出した。


「何だ…お前…パリスの知り合いか?」
「従兄弟よ…っ」
「ふ~ん。そうか…ま、良かったな?思ったよりは根性があったようだ。あれだけ攻撃されてボロボロなのに、
最後の最後まで諦めなかった。あれは自分も死ぬ覚悟だったようだな?道連れにとでも考えてた目だった。
だが…トドメをさしたのはパリスじゃない」
「え?どういうこと…?」
「まあ、決着はついてたようだが、メネラオスが最後に起き上がりパリスを殺そうとしたのを…
目の前にいたへクトルが、メネラオスにトドメを刺した。
あれならアガメムノンも約束を破ったと名目が出来ていいんだろうけどな?」
「そう…へクトルが…良かった…」
「良かった…か。そうでもないな…結局、戦は収まらないで酷くなった」
「それは…あなたの幼なじみのせいでしょう?戦士、アキレス」
「何だと?お前…を知ってるのか?」
「ええ…城で会ったわ?パリスのフィアンセだって招介もされた。でも…あのパリスが突然、フィアンセなんて
連れてくるから、おかしいと思って調べたの。そしたら…彼女はメネラオス王のフィアンセで、あなたの幼なじみだと分かった」


ブリセイスは苦々しい顔で、そう言った。
アキレスは水を飲みながら、ブリセイスを横目で見ると、「お前…パリスに惚れてるのか?」 と聞いた。


「え?」
「そう見えるが?」


アキレスの言葉に、ブリセイスは顔を赤らめてそっぽを向いた。


「ふん…図星か…。ほんと色男だもんな?まあ、さっきは、その奇麗な顔も血まみれだったけど」


そう言うとブリセイスは、アキレスを睨んだ。


「パリスは戦を嫌っていたのに…!あなたの…あのって子がパリスを戦場へ追いやったのよ!」
「おいおい…それは違うだろう?は婚約を承諾していない。勝手にパリスが戦うのを選んだんだ。を恨むのは筋違いだ」
「それでも…!許せないのよ…っ」


ブリセイスは、そう言い捨てると涙を浮かべた。


「チッ…お前も女の嫉妬ってやつか?勘弁してくれ…」
「う、うるさいわね!」
「どうせ、は、もうすぐ城を出る。それでいいんだろう?」
「え?」
「ほんとに婚約したわけじゃないんだ…。だってメネラオスが死んで、自由の身になった。
もうギリシャへ戻っても大丈夫なんだから、トロイにいる意味がない」


ブリセイスは、その言葉に涙が止まったようだ。
アキレスは、それを見ながら苦笑した。


「ま、お前の従兄弟に感謝だな…。邪魔なジジィを一人やってくれたんだから…」


アキレスは、そう言うと寝台へと寝転がって目を瞑った。


「今夜…が戻るはずだ…」




アキレスが呟いた言葉を、ブリセイスは黙って聞いていた――



















>>哀情・後編


 

 

 

 

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