護衛-後編




スタンドのライトを頼りにケータイでメールを打っていると、かすかにドアの開く気配がして顔を上げる。僅かに開いた隙間からひょっこり顔を出したのは寮まで着替えを取りに行っていた悟だった。

「…彼女は?寝ちゃった?」
「ああ」

悟は静かにドアを閉めると足音を立てないようこっちへ歩いて来た。その手にはコーヒーカップが二つ。

「これ友恵から」
「……普通に榊さんて呼べよ」
「何で?ああ、着替えはゲストルームに置いた。一階のエントランスから、すぐ右の廊下真っすぐ行って更に左に曲がった先の手前の部屋でバスルーム付き♪」
「……遠いな」

私がそう言うと悟はかすかに笑ったようだった。

「誰にメールしてんの?」

隣に腰を掛けた悟は相変わらず角砂糖をたっぷりコーヒーに落としながら、ケータイを覗き込んできた。悟のこういう行動に慣れている私は特にメールを打つ手を止める事もなく、

「硝子だ。悟、のこと話したろ」
「あ~。さっき荷物取りに行ったら硝子と会って、あいつのファンだから自慢してきた」
「おかげで、さっきから"ずるい"だの"私もその任務参加する"ってメールが連続で届くから困ってる」

いつものトーンで言えば、悟は小さく吹き出しながらも「悪い」と言って舌を出した。そのいたずらっ子のような顔を見てると、自然に溜息が漏れる。

「何?」
「いや…そう言うお前も彼女のファンなのに何故それを彼女に隠してたんだ?」
「…別に意識して隠したわけじゃねぇよ」

悟はそう言って苦笑すると、サングラスを外してソファの背もたれに頭を乗せた。

「ただ…みたいな仕事してる子はイベントとかで知り会ったっていうならともかく、今回みたいな状況で関わった相手が自分のファンなんて知ったら気分的に嫌かなって思っただけ。 誰だって自分のファンにプライベート晒したくないだろ。自分が呪われてる、なんて状況なら特に」
「………」
「…何だよ?その顔」

メールを打つ手を止め、唖然とした顔で自分を見ている私に気づいた悟は思い切り不満げに目を細めた。

「いや…悟でもそんな気遣い出来るんだなと素直に驚いてる」
「あ?俺の気遣い舐めんな…って何笑ってんだよ…ッ」

声を殺して笑う私の腕を軽く殴って来た悟の顔はかすかに赤い。

「だからって何も彼女にキツい言い方しなくて良かったんじゃないか?あれじゃ傷つく」
「うるせーな…。傑が余計なことペラペラ話すからだろが」
「ああ…焦ってつい口から思ってもない言葉が出てしまったと。…悟も案外ウブなんだな」
「…あ?何だそれ。俺は本当に素直で優しい子が好きなんだよ。周りにはヒステリーしかいないからな」

悟は顔をしかめながら思い切り舌を出している。そういう態度だから相手を怒らせる=ヒステリーになる、という事を気づいているのか、いないのか。

だって素直で優しい子だろ」

私がそう言うと、悟は軽く吹き出したようだった。

「それは傑にだけだろ」
「そう感じるなら、それは彼女に対してお前がいちいち怒らせるような物言いをするからだ」
「……チッ。俺はお前みたいにフェミニストじゃねーからな。――もう寝る」

悟は不意に立ち上がると、ドアの方へ歩いて行く。そのイラついた様子の背中を見ながら、「そもそも…のどこが気に入ってファンになったんだ?」と声をかければ、悟が仏頂面で私を見た。

「…脚」
「…脚?またそれは俗っぽい理由――」
「変な意味じゃなくて!綺麗なんだよ、の脚のシルエットが。動きに悪いクセみたいなもんがないっつーか…足の運び方とか…ヒール履いてる時の歩き方も凄く自然で」
「……へえ。そりゃ"雑誌"では見られないな」
「…っ硝子がショーに出た時の動画を見つけて俺に送って来たんだよ」
「悟は脚フェチ、と…送信」
「って、いちいち送んな!」

硝子に返信メールを送ると、悟はこっちへ歩いて来て私の手からケータイを奪う。

「げ…マジで送ってるし!つか俺は脚フェチとかじゃねーから。それは限定的なもんで、どっちかっつーと、こう…」
「手つきがいやらしいぞ、悟」
「…そういう傑はどうなわけ?何フェチ?」
「…寝るんじゃなかったのか?」

再び隣に座ってニヤニヤしている悟に、軽く溜息をつく。今夜は珍しく、悟も楽しそうだ。

「それ聞いたら寝るよ。で、何フェチ?」
「フェチというのか分からないが…髪の綺麗な人はいいなって思うな」
「ああ、それは分かる。サラサラな子はいいよなあ。触りたくなる」
「まあ、滅多にいないけどな、触りたくなるような綺麗な髪の子は」

そう言いながら、ふとベッドの方へ視線が向いた。彼女の長い黒髪はその"触れてみたくなる髪"だったな、と今更ながらに思う。そんな事を考えていると、不意に悟が私の顔を覗き込んできた。

「なーに見てんの?」
「…別に。あまり騒いで起こすのは可哀そうだなと思っただけだよ。明日はリハーサルだろ」

意味深な笑みを浮かべている悟の額を軽く指で小突いて、私は苦笑した。

「っていうか、それ俺たちもだろ。傑は寝ないで平気かよ」
「一日くらいは大丈夫さ。さっき移動中に寝たしな」
「あ、そういや一人で爆睡かましてたな。マジ暇だったし」

悟はそう言いながら立ち上がると、「んじゃ俺は寝るわ。お肌に悪いし♪」と今度こそドアの方へ歩いて行く。その言葉に笑いをかみ殺していると、悟は「お休みー」と小声で言って出て行った。

「ったく…何しに来たんだか」

軽く息をついてから、ゆっくりと立ち上がった。
そのまま静かにベッドのある方へ歩いて行くと、囲むように閉められているカーテンを少しだけ開けた。悟があれだけ騒いでいたのに――それでも声は潜めていたが――彼女は起きる気配もなく、ぐっすりと眠っていてホっと息をつく。

「よっぽど疲れてたのかな」

得体のしれない化け物に遭遇し、あげく殺されかかったのだから、それも当然だろう。呪霊の気配に気づいて駆けつけた時、彼女は顔面蒼白といった様子で、心の方が心配になったくらいだ。それでも飼い猫が無事で安心した事と、そっちに意識が向いたおかげで元気になってくれて良かったと思う。

「問題はこれからだな…」

誰が彼女を呪ったのか、というより、その規模が気になる。モデルという仕事柄、妬みや嫉みが多い世界だろうし、もしかしたら複数という可能性の方が高い。さっきのように直接彼女を襲うタイプの呪いなら祓うのも簡単だが、本体が隠れてる場合は長期戦になる事も覚悟しておいた方がいいかもしれない。

(藁人形、か…。人を呪った時点で己に返ってくることを考えられないバカが。呪った当人も何等かの影響を受けてるかもしれないな)

明日は事務所に所属しているモデルを調査してみようと思った。

「…モデルをやらされるのは気が重いが…仕方ないか」

穏やかな顔で寝ていると、彼女の腕の中で気持ちよさそうに寝ている猫を見ていたら、ふと笑みがこぼれた。
そこへメールの着信が入り、ケータイがぶるぶると震える音がした。
そっとカーテンを閉め、ソファに放ったままのケータイを手に取る。

「…また硝子か」

送り主の名を見て軽く溜息をつくと、今度はどんな文句だ?と思いながらメールを開いた。

"私もショーに出たい!!!!!!(・´з`・)"

「…………(悟のやつ余計な事を)」

すでに返信する気力も失せて、私はそっとケータイを閉じた。






「ん……」

何かが頬に触れた感触で私は唐突に目が覚めた。と言っても、まだふわふわとした睡魔があり、目を開けるとこまではいかない。まだ寝ていたい、と思うくらいの余韻があった。

「んう…?」

ゆっくりと眠りの中に落ちそうになった時、またしても頬に何かが触れ、意識が引き戻された。

(…何?マリンかな…?)

目を瞑ったまま眠たい頭で考える。もしマリンならご飯が欲しいと言う事だから起きなくてはならない。これを無視していると、マリンは私が起きるまでお腹の上で駆け回り、ガン鳴き状態になるからだ。そんな事を遠い意識の中で考えていると、またしても頬にふわふわとした感触があり、そこでやっと意識がハッキリしてきた。

「…ん…マリン…?」

目を瞑ったまま、いつものようにマリンを撫でようと手を動かした。でもマリンのふわふわした身体には触れず、どこだろう?と手を少しだけ伸ばした。

「……ん?」

指先に何かが触れた。でもそれはマリンのふわふわした身体じゃない。しっとりとして、どちらかというとスベスベした人の肌のような感触だった。

「……え?」

そこでハッキリと覚醒した私が目を開けると、そこには宝石みたいな碧い眼をした――。

「人の顏、撫でまわすなよ」

言葉にならないとはこの事だった。目の前には苦笑いを浮かべ、私を見下ろす五条悟が、いた。

「き、きゃぁぁぁああぁぁっ!!!!」

「――――ッ!!」

寝起きから出せるだけの大声を出して私は叫んだ。

「―――?!どうした!」

私の悲鳴を聞いて、夏油くんがバスルームから飛び出してきたが、状況をすぐに理解したらしい。大股で歩いて来ると、ベッドの上で四つん這いになっていた五条くんの首根っこを思い切り引っ張った。

「何してんだ、悟!!」
「いってぇな!殺す気か…げほっ」

後ろに引っ張られた事で首がしまったのか、五条くんは軽く咳き込みながら夏油くんを睨んでいる。というか怒りたいのはこっちの方だ。

「俺はただ起こそうとしただけだって。それをが大声出すから鼓膜やられたっつーの」
「お、起こすなら普通に起こして…!びっくりするでしょ?って…何それ」

見れば五条くんが手に何か持っている。良く見れば、それはマリンのオモチャだった。

「ああ、これでマリンと遊んでたら、お腹空いたみたいでの顏の周りウロウロしてたから、俺がこれで起こしてやろうと思って」
「………(さっき頬に感じたふわふわはそれね?)

猫じゃらしを振りながら笑う五条くんに、私は思い切り目を細めてしまった。

「ったく…。女の子のベッドに上がるなんて失礼だろ、悟」
「最初は声かけたって。でもマリンのご飯どこにあるかわかんねーし、は声かけても全然起きないから、ちょっとイタズラしようかと…」
「するな!はぁ…お前のせいで顔拭くの忘れた。シャツがびしょ濡れだ」

夏油くんは顔を洗っている途中だったらしい。なのに私の悲鳴を聞いて顔も拭かず駆けつけてくれたんだ、と思うと、どこか嬉しくて思わず笑みがこぼれた。

「あ、タオル、これ使って」

ベッド脇のチェストから予備のフェイスタオルを出して夏油くんに渡すと、彼は笑顔で「ありがとう」と言って顔を拭いている。

「はあ、悟のせいで朝から疲れた」
「へーへー悪う御座いました!つーかも大げさなんだよ。あんな叫ばなくたっていーだろ」
「だ、だってビックリするじゃない…っ。目を開けたら五条くんの顔が目の前にあるんだから…っ」

そう言いながら、同時に至近距離で寝顔を見られたという恥ずかしさがこみ上げて来た。

(ほんっとデリカシーないんだから…普通、彼女でもない女の子のベッドまで上がって来る?!信じられない…)

今では呑気にマリンとジャレてる五条くんを横目に見ながら溜息をつく。とりあえず私も顔を洗ってすっきりしようと振り向いたその時、夏油くんが徐にシャツを脱ぎだし「きゃっ」と声を上げてしまった。いきなり上半身裸の夏油くんが目に飛び込んできて一気に顔が赤くなる。

「え…?」
「な、何して――」
「ああ…今のでシャツが濡れたから着替えようと――。あ、悪い!あっちで着替えて来るよ」

私が慌てて目をそらした事で気づいたのか、夏油くんは苦笑しながらバスルームへ入って行った。ドアが閉まったのを見てホっと胸を撫でおろしていると、意味深な笑みを浮かべる五条くんと目が合った。

「な、何よ、その顔…」
「いや。さっきも思ったけどってさ~男に免疫ない?」
「は?」
「あんな事くらいで赤くなっちゃってか~わいい」
「バ、バカにしてるの?」

ムッとして言い返すと、五条くんはキョトンとした顔で「何で?」と逆に聞き返してきた。

「な、何でって…だって――」
「ほんとに可愛いって思ったけど?俺らの周りの女達は目の前で着替えようが、例えば全裸になってもみたいな反応なんて絶対しないから」
「………」
「あ…また赤くなった」
「こ~ら、悟。からかうな」

そこにきちんと制服を着た夏油くんが戻って来た。

「ごめんね。悟の言うようにウチの学校の女性陣は目の前で着替えようと全く気にしない人ばかりだから、私もいつもの調子でやっちゃって」
「あ…ううん…私こそ…ごめんなさい。五条くんが言うように私、こういうの慣れてなくて…」

そう言いながらも、あまりに過剰に反応してしまった自分が恥ずかしくなった。来年には17になるのに、こんな事くらいで大騒ぎしてる方が変なのかもしれない。

「でもって今どきにしては珍しいよなぁ」
「え?」

五条くんはソファに座りながら私を見上げると訝し気な顔で首を傾げた。

「モデルとかやってるわりにスレてないっていうか。俺らくらいの歳だったらそれなりに経験あっても良さそうなもんだけど」
「それは…ずっとエスカレーター式の女子高だったし、中等部に上がってモデル始めてからは忙しかったから…」
「でもモデルやってたらそれこそイケメンアイドルからスポーツ選手まで寄って来るヤツがわんさか――」
「私はそんないい加減な気持ちで仕事してないからっ!それに…そんな理由で寄って来るなんてろくな人いない――」

と、そこまで言って言葉を切った。二人が少し驚いた顔で私を見ていたからだ。

「…ごめん。二人には関係ないのに。でも…私チャラチャラした人って好きじゃないの。――着替えるね」

そう言ってウォークインクローゼットに入ると背中越しにドアを閉めた。

「はあ…やっちゃった…」

その場にしゃがみこんで私は思いきり息を吐きだした。つい感情的になってしまった事で後悔が押しよせる。会ったばかりの人に対して言う事なんかじゃないのに…。

「バカだな…あんなこと思い出すなんて…忘れようって決めたのに」

なのに――未だに誰かを好きになるのが怖い。

父の意向で小学校からエスカレーター式の女学院に入り、モデルを始めてからは本当に忙しくて普通に誰かと出会って恋をするなんて事はなかった。でも今年の一月、雑誌の仕事で知り合ったカメラマンの高居さんは私が初めて好きになった人だった。慣れない雑誌の仕事で悩んでいた私をいつも励ましてくれて、応援してるって言ってくれた人。

子供の私なんか相手にしてくれるはずないって思ってたから告白なんて出来るはずもなく、ずっと片思いしてた。でもまた仕事のロケで一緒になった時、予想以上に撮影が押して帰るのが夜中近くになったあの日。家が同じ方向だと言う高居さんが私を送ってくれる事になって二人きりというのもあり、私は有頂天になってた。
だから――気づかなかった。高居さんの思惑に。

東京まで戻って来た辺りで、少しドライヴしよう、と言われ、高居さんとまだ一緒にいたかった私は当然OKした。でも彼は高速を降りた途端、すぐそばにあった怪しげなホテルの駐車場に車を入れると、豹変した。

「いいよね?俺のこと好きなんだろ?」

それまで見せた事のない顔で、私に覆いかぶさり、無理やりキスをしてきた高居さんに、私は一瞬何が起こったのか分からなかった。驚いて抵抗すると、彼はムキになって私を力で押さえつけてきた。強引にスカートをたくし上げられ、胸を弄る彼は私の知っている優しい高居さんではなく、ただの男という生き物だった。恐怖で涙が溢れて、それでも普段なら出せないくらいの力で抵抗した時、不意に彼は行為をやめると、

「…もしかして処女?めんどくさ」

その一言で、心の奥の何かが壊れたような痛みに襲われて、私はそのまま彼の車から飛び出した。
後日、高居さんから連絡が入り、「ごめんね。俺に気があると思って誘ったんだけど勘違いしたみたいで」と言い訳がましい事を言われた。

きっと私が母に告げ口すると思って慌てて保険を掛けに来たんだろう。そう言っておけば自分のした事が明るみになっても、半分は私のせいに出来ると思ったのかもしれない。それに未成年に手を出そうとしたとなれば、それこそカメラマンとしての信用もなくなり、最悪逮捕される事になる。

でも私はそのことを母には言えなかった。
もし母に言えば大ごとになって、私がされた事も皆にバレる。そう思ったら怖かった。ただ一人で抱えているのはツラくて親友の夕海にだけは話した時、そこで高居さんの本当の顔を知る事になった。彼女が言うには私が気づいてなかっただけで、彼は色んなモデルの子に手を出してはカメラマン仲間に誰と誰を食った、などと自慢してたらしい。 その話を聞いた時は本気で吐き気がして。私は彼の何を見てたんだろう、と自分に呆れた。

夕海は「仕方ないよ。あいつは大人だし口も上手くて結構、他にも騙されてる子いるから。中身ロリコンの変態には見えないしね」と言っていたけど、彼の事を大人で紳士的だと思っていた私にはやっぱりショックだった。
それ以来、人を好きになるのが怖くて、男の子から誘いがあっても断ってしまう自分がいる。

は真面目すぎるよ。皆中学とかで経験してる子ばかりだし、もっと適当に誰かと付き合えばいいのに。あまり免疫なさ過ぎてもこんな業界じゃ仕事してくの難しいよ」

以前、夕海にそう言われた事もあるけど、私はどうしてもそんな風に割り切れなくて。それでも好きなものを諦めたくなくて未だにモデルを続けてしまってる。

「はあ…着替えよ」

ウジウジ考えていると疲れて来て、私は着ていく服を選ぶとすぐに着替えた。急いで髪をブラッシングしながら、他に靴やコートを選び終えると、それを手にドアノブへ手をかける。
――が、なかなか開けられない。

(二人と顔を合わせるのが気まずい…)

五条くんだって悪気があって言ったわけじゃないのに、あんな言い方して申し訳なかったな、と反省する。とにかく、ここにずっと籠ってるわけには行かないのだ。

(ここを出て、ちゃんと謝ろう)

そう決めて深呼吸をすると、私はドアを一気に開けた。

「さっきはごめ――ッ?」

ドアを開けて固まった。
目の前には五条くんが土下座をしながら、何故か深く頭を下げていたからだ。

「な…何?」
「さっきは…悪かった」
「…え?」
「何か…分かんねえけどの地雷、踏んだんだろうし…悪かったよ」

そう言って顔を上げた五条くんは真っすぐに私を見上げた。

「ごめん」
「え…っと…その…私も…ごめんなさい、怒鳴ったりして…」

思ってもいなかった展開に戸惑いつつ、さっきの事を謝ると、五条くんは徐に目を細めて後ろを振り返った。

「これでいいんだろ?傑…」
「まあまあかな」

そう言いながら苦笑している夏油くんの姿にピンときて、私は呆れたように五条くんを見た。

「もしかして…。夏油くんに言われたから土下座なんてしてたの?」
「当たり前だろ。誰が好き好んで土下座なんてするか」
「悟…謝った意味。――こいつも悪いとは思ったみたいだし、それを分かりやすいように土下座しろって言っただけだから」

夏油くんは私を見てそう言うと、五条くんはブツブツ言いながら立ち上がった。

「どの辺が地雷か未だにわかんね~けどな」
「ご、ごめん。ちょっと嫌なこと思い出しただけだから…」
「嫌なことって?」
「べ、別にいいでしょ、そんなこと。それより…早くご飯食べないと小滝さんが迎えに来ちゃう」

そう言って部屋を出ようとした時、「!」と呼ばれ、ドキっとした。

「俺、別にオマエがいい加減な気持ちでモデルやってるとか思ってねぇから。そういうつもりで言ったわけでもないしな」
「え…?」
「言いたい事は以上!っつー事で行くぞ」

そう言って五条くんは私を押しのけ、サッサと廊下を歩いて行く。
その後ろ姿を見ながら唖然としていると、夏油くんも笑いながらその後に続いた。

「まあ…ああいう奴だから」
「…はあ。何か…変な人よね、五条くんて。意地悪なのか優しいのかわかんない」
「悟は良くも悪くも正直過ぎるんだよ。思った事をすぐ口にする。ま、言葉は悪いけどが思うほど根は悪い奴じゃない」
「そうかなぁ…。私ちょっと苦手かも」
「ははは。それは本人に言わないであげて。余計に意地悪くなるから」
「…確かに」

私がそう言うと、夏油くんは楽し気に笑った。彼がこんな風に自然に笑うのは初めて見た気がする。

「夏油くんと五条くんって仲がいいんだね。タイプ全然違うのに」
「う~ん。違うからいいのかもしれない」
「そうなの?」
「互いに補えるからね。私が公私ともに信頼できるのは…悟だけかな」

ハッキリそう言い切る夏油くんを見て、私は羨ましい、と思った。そんな風に誰かを信頼できる、と思った事、私にはないのかもしれない。

「ん?どうしたの?急に元気がなくなった」
「え?そんな事は…ただ…二人が羨ましいなぁって思っただけ。私にはそんな風に言える人って殆どいないから」
「そうなの?」
「こんな仕事してるとね。あ、でも夕海って親友が一人いるの。初等部から一緒でね、夕海には何でも話せるっていうか…」

そう言った瞬間、頭にポンと夏油くんの手が乗せられた。

「大事な人は一人いればそれでいいと思うよ」
「え…」
「どうでもいい奴と広く浅い交友関係を続けたって時間の無駄だし、私はが本当に信頼できると思える人を大事にすればいいと思う」

ね?と言って笑う夏油くんの目が優しくて、かすかに鼓動が跳ねる。昨日も思ったけど、彼の周りの空気は何となく優しくてあったかい。

「ありがとう…夏油くん」
「礼なんかいいって」

夏油くんはそう言って笑うと、「あ~眠い」と腕を伸ばしながら階段を下りていく。夕べは一睡もしないで私の護衛をしてくれたからか、大きな欠伸をしている。

「あの…夕べは寝ないで守ってくれてありがとう」
「いや、こんなのいつもの事だしね。悟が元気だから私は移動中に少し寝かせてもらうかな」
「そう、だね。どうせ東京までかなりあるし」

そう言いながらエントランスへ降りた時だった。不意にチャイムが鳴り、私と夏油くんは顔を見合わせた。午前八時。こんな朝から来る人なんて限られている。

「まさか…小滝さんかな。でも迎えは九時だったはずだけど…」

と、そこへ榊さんが出て来た。

「あ、夏油さん。何か高専の人間だって言う子が来てるんですけど」
「えっ?」

榊さんの言葉に夏油くんが驚いたような声を上げた、その時ドアの向こうから、

「すみませーん。開けて下さ~い」

「げっ硝子…!!」
「え?硝子って…」

夏油くんが口にした名前を聞いて驚いていると、榊さんがカギを外してドアを開けてしまった。

「あ、どうもー。私、高専の家入…って、あー--!!」

ドアを開けた瞬間、勢いよく入って来た見知らぬ女の子は、私を見た瞬間、大きな声を上げた。




過去編の夏油くんは優しくていいですよね。
沖縄で黒井さんと話してる時の夏油くん好きです。