【第五話】 慟哭-後編



「これで藁人形の犯人分かりそうだな」
「うん…そうだね」

五条くんは袋から飲み物を出して私に差し出した。

「ありがとう…喉乾いちゃった」
「何か知りたくないって顔だな」
「え?ああ…うん、まあ…多少はそんな気持ちもある…かも」
「犯人は十中八九、が知ってるやつだ。知りたくないって気持ちも分かるけど、このまま知らんぷりは出来ないだろ?」
「わ、分かってるよ…」

相変わらずリアルを突き付けて来る五条くんに、私は溜息をついた。私だってあんな事をしたのが誰なのか知りたい気持ちはもちろんある。でも、藁人形を置いた人が琴音さんと綾香をも呪った相手だと思うと知るのが怖かった。

「…って、大福?五条くんのオヤツって」

徐に大福をかじる五条くんを見て思わず吹き出した。そうだった。五条くんは甘党だった。

「ほんと甘いもの好きだよね」
「あー頭まわすのに甘いもんばっか食ってたら甘党なっただけ」

そう言って五条くんはベッドの方へ歩いて来ると「暖房あちぃ~」と言いながら窓を少し開けて私の方へ振り向いた。

「あ、寒い?」
「え?あ、ううん。大丈夫だよ」

先ほど夏油くんがかけてくれたショールをつまんでそう言えば、彼は窓を開け放って外の空気を吸い込んでいる。本当は病室の暖房が強くて寒くなんてなかったけど、さっきは心の動揺を悟られたくなくて、夏油くんに寒い、と嘘を言っただけだ。気遣ってくれた夏油くんには内心申し訳ないとも思ったが、勘の鋭い彼に高居さんとの事は気づいて欲しくなかった。五条くんは窓の外へ上半身を乗り出し、「俺、病院の匂い嫌い」と笑った。

「あー冬の空気っていいよな。綺麗で」
「あ、わかる。澄んでるからかな。私も好き」
「だよな」

五条くんは相槌を打ちながら残りの大福を口に放り込むと、指に着いたクリームを舐めながら、不意に振り向いた。

も食べる?」
「え?」
「大福。あ、それともモデルって糖分禁止?」
「ああ、食べすぎは良くないけど、私は普通に食べてるよ?五条くんほどじゃないけど」

そう言って笑うと、彼は袋の中からいくつか大福を出した。

「ふつーの大福と、イチゴ大福、生クリーム大福に、フルーツ大福」
「そ、そんなにあるの?えっと、じゃあ…生クリーム」
「えぇ~…」
「……自分が食べたいなら聞かないでよ」

不満げに唇を尖らせている五条くんに、つい笑うと、彼もまた笑いながら生クリーム大福を私の手に乗せた。

「実は全部二個ずつある」
「何よ、それ」

今度こそ本気で笑ってしまった。最初は色々あって苦手だった五条くんとこんな風に一緒に大福を食べる日が来るとは思ってなかった。そう思うと余計におかしくなった。

「硝子ちゃんって五条くんの好み把握してるんだね」
「よく買ってるからな」
「ふ~ん。甘いものは全部好きって言ってたけど、一番は大福なの?」
「そうかな。あ、一番は仙台の喜久水庵きくすいあん喜久福きくふくのずんだ生クリーム大福!めちゃくちゃ美味かったな、あれ。今のとこ俺の中で一番」

五条くんは窓枠に肘を置きながら「思い出したら食べたくなってきた!」と外に向かって叫んでいる。その子供みたいな後ろ姿に笑いながら、ちょっとだけその大福が気になって来た。

「喜久福の大福ってそんなに美味しいの?」
「美味いなんてもんじゃない。中の生クリームが絶品」

私の方へ振り向いて、五条くんは真顔で言った。

「へえ…そんなの聞いたら食べたくなるじゃない」
「んじゃー今度任務で仙台行ったら買ってきてやるよ。には俺おすすめのずんだ生クリーム味を強制的に」

五条くんはそんな事を言いながら笑っている。でも私はお土産を買ってきてくれるという彼のその言葉に、少し驚いていた。

(それって…護衛が終わった後の話…?)

どこまで本気なのか分からないが、そう思うと少しドキっとした。そして同時に気づいた。この護衛もいつかは終わる、という事に。
犯人を見つけたり、呪いを祓ってしまえば、二人が私の護衛をする必要はなくなり、任務完了で契約も終了となる。
そうなったら、もう二人に会う事もなくなる。夏油くんとも、会えなくなる――。

そんな当たり前の事を今さらながらに気づいてしまった。

「どうした?」

急に黙ったからか、五条くんは訝し気な顔で振り向くと、私の顔を覗き込んできた。夕日を背にした五条くんの、サングラス越しに見える綺麗な瞳が戸惑い顔の私を映してる。

「おい、どこか具合でも…」
「え?あ…ううん、何でもない…」
「でも…何か泣きそうな顔してる…」
「……っ」

不意に伸びた五条くんの手が頬に触れる。その時、本当に涙が零れ落ちて自分でも驚いた。

「えっ?何で…?俺、また何か地雷踏んだ?」

五条くんは慌てて手を引っ込めると、これまで見た事がないくらい焦った顔でその場にしゃがんで私を見上げた。心の内を知られたくなくて、彼に変な誤解をさせたくなくて、すぐに涙を拭うと思い切り首を振った。

「違う。五条くんは悪くない。…何でもないから。ちょっと…疲れてるのかな…。情緒不安定?」

そう言って笑うと、五条くんは戸惑った顔のまま私を見つめた。彼の綺麗な瞳に見つめられると心の中全てが見透かされそうで、少し怖い。

「…そ、そんなに見つめても私、呪力なんかないょ――」

笑って誤魔化そうとした時、五条くんが不意に立ち上がった。驚いて、顔を上げた瞬間――。
腕が背中に回って、強引に引き寄せられ、気づけば五条くんに抱きしめられていた。ショールが肩から離れ、ふわりと床へ落ちる。

「…え?」

一瞬、何が起こったのか理解できず、時が止まる。夏油くんとは違う、甘い香りが鼻を衝いて、それが私の記憶に刻まれたような感覚になった。
この前呪霊に襲われた時も私を守るために体を密着させてはいたけど、あの時と今では状況も態勢も全く違う。今は男女がする行為のそれと変わらず、彼の腕に強く抱きしめられている。夏油くんにも抱きしめれた事はあったけど、あれは私を安心させるためにした行為であり、彼の優しさからくるものだった。そして普段から口も態度も悪い五条くんが、そんな優しさを持ってこんな事をするはずがない、と、どこかで思っている私がいる。なら何故?と、数秒の間にそこまで考えた次の瞬間、五条くんが不意に口を開き、良く分からないことを言った。

「そんな顔すんな。何か…ムズムズする」
「……は?」
「違うな……モヤモヤ?つーか、気持ち悪りいんだよ、胸の奥が…何かムズムズする感じで…!」
「……何言って…っていうか何で言いながらキレてるの?」
「よくわかんねーよ、俺だって…。でも…あ~!何だ、コレ、ムズムズ病?」
「……胸の奥は聞いたことないけど」

そう突っ込むと、五条くんは「うるせぇな…」と相変わらずの口調で呟く。でも背中に回ったままの腕の強さと、彼の体温で温まって来た身体に自然と頬が熱くなる。
とにかく普段からやりあっている相手に抱きしめられている、というこの状態が気まずくて、何か声をかけようとしたその時。

「泣くなよ…」
「え……?」

独り言のような、耳元でなければ聞こえないほどの声量で聞こえた一言に、軽く鼓動が跳ねた。

「オマエが泣いてるの見ると…何か胸の奥がモヤモヤすんだよ…気持ち悪くて仕方ねぇ」

今度はハッキリとした口調で言った。

「ご…ごめん…」

彼の言うモヤモヤとしたものが、よく分からなかったけど、何となく謝ってみた。少なくとも、五条くんがらしくない事をしているのは、私がいきなり泣いてしまったせいなんだ、と分かった。

(もしかして心配してくれてる…?)

普段の彼の性格を考えれば少し意外な気もしたが、五条くんがいう所のモヤモヤする、というのも、自分のそういった感情が良く分からなくて気持ち悪いと表現してるようにも思えた。

(夏油くんや硝子ちゃんは五条くんに出来ない事は殆どないと話してたけど……こういう心理的な事に関しては案外、不器用?)

そこに思い当たった時、私の中で五条悟という人が少しだけ解った気がした。

「何で謝んだよ…」

不意に体が離れ、両肩を掴む手にドキっとして顔を上げれば、五条くんは何とも不機嫌そうな表情で私を見ていた。

「だ、だって怒ってるから…」
「あ?怒ってねぇだろ。俺は泣くなって言ってるだけだ」
「だから、ごめんて…」
「…………」

これじゃ堂々巡りだ、と思った、その時――五条くんの肩越しに病室のドアがゆっくり開くのが見えてドキっとした。夏油くんたちが戻って来たのかと思ったのだ。こんなところを見られたら誤解されるかも、と焦った私は、五条くんからパっと離れた。

「あ、夕海…」

ドアから入って来たのは夏油くんたちではなく、夕海だった事でホっと息をついた。ベッドに片膝を乗せるような態勢だった五条くんも、私がその名を口にした事でハッとしたように振り向くとすぐに足を下ろして立ち上がった。

「夕海、お見舞いに来てくれたの?」
「うん」
「明日には退院だからわざわざいいのに」

そう言ってこっちへ歩いて来る夕海に笑顔を見せる。でも夕海はいつもの明るい顔ではなく、どこか暗い顔をしていた。五条くんも気づいたのか、気を利かせるように「俺、廊下にいるから」と言って病室を出ていく。それを確認してから、

「…夕海?何かあった?」

と訊いた。
当然、夕海も綾香の事件は聞いてるだろう。その事でショックを受けているのかもしれない、とそう思った時、不意に夕海が顔を上げて私を見た。

「何かあったって?あったわよ」
「え?」
「小滝さんから連絡が来た。ショーを延期にするって…」
「あ…うん…」

夕海は手にケータイを握っていて、ついさっき聞いたばかりなんだろう、と思った。一度は諦めたショーに出られる事になった、と喜んでいた夕海を思い出し、胸が痛む。ただ、今は出来なくても落ち着いたら必ず開催する、と母も話していたし、これが最後というわけじゃない。

「でも大丈夫だよ。ショーは落ち着いたらまた開催できるし、ちゃんと出られるよ――」
「アンタわね」
「え…?」

冷たく言い放たれたその言葉をすぐには理解できず、私は目の前の夕海を見上げた。でもその憎しみのこもった目を見た時、私は言葉を失った。

「アンタは出られるわよね?オーディションに受かったんだから。でも私は結局琴音さんの代わりでしかない。次に開催する時は新たにオーディションするかもしれないって… そうなったら私は出られない!今度のショーが私にとって最大のチャンスだったのよ!分かるでしょ?!」

興奮したように叫ぶ夕海の姿に、私は何も言えず、ただ黙っていた。今までケンカをした事は何度もある。だけど、こんな風に剥き出しの怒りをぶつけられたのは初めての事だった。

「もし…次ショーをやる時、新しくオーディションをするとしても夕海なら大丈夫だよ。だっていくら琴音さんの代わりといっても実力がなければ声はかからない。 琴音さんの代わりを夕海なら出来ると玲子さんも思ったから――」
「アンタのそういうとこ!」
「…え?」
「だいっ嫌い」
「夕海…?」

その言葉を信じられない思いで聞いていた。いつもはあんなに明るい彼女が、心の底から私に怒りを向けている。

「私がオーディションに落ちた時、電話で話した時のこと覚えてる?」
「え?」
「アンタ、私が落ちたって言ったらこう言ったのよ。"夕海なら次は絶対選ばれるよ"」
「それは…本当にそう思ったから―――」
「バカにしないでよ!昔っからそう!何でも自分と同等に考えないでよ!私より何でも器用にこなせるに私の気持ちなんか解かるわけない!」
「何で?私だってそんな器用じゃないよ…!」
「そう?いつも器用に愛嬌振りまいて気を引いて誘われたら誘われたで気のないフリして男を騙してるじゃない」
「そんな…私はそんなつもり…」

ショックだった。何より、私が人を好きになるのが怖い理由を一番理解しているであろう夕海にそう思われていた事が。

「そんなつもりない?でも今だって五条くんと抱き合ってたじゃない。あんなカッコ良くて優しい彼氏がいるのにその友達に手を出すなんて相当だね、アンタも」
「ち、違うよっ!あれは…」
「あれは、何?私が五条くん狙ってるの知ってるよね。なのに五条くんに気のないフリして色仕掛けってわけだ。アンタも琴音さんと同じだね」
「私はそんなことしてない!誤解してるよ、夕海」
「良く言うよ。そう言えばアンタ言ってたよね、五条くんはダメって。それって私に取られたくなかったからじゃないの?」
「あれはそういう意味じゃなくて――」
「どうせ高居さんにだって似たような事したんでしょ?」
「……っ」
「散々気のあるフリしておいてホテル連れてかれたら拒否るって、そりゃ高居さんも可哀そうだわ」

私にとって一番触れられたくない過去を、そんな風に言われて、思い切り頭を殴られたような気がした。初めて人を好きになって、なのにその想いは男の欲望で打ち砕かれて、それでも私は傷つくことも許されないんだろうか

「それを器用じゃない?どの口が言ってんだか。どうせ高居さんの気を引いて雑誌の仕事増やそうとしたんでしょ?」
「違う!私は…ただ好きになっただけ。でもあんな事されたら怖いに決まってるじゃない…!」
「何ぶったこと言ってんの?好きならやらせてあげれば良かったのに。それとも私はそんな女じゃありませんなんて高嶺の花アピール?」
「私はそんなこと思ってない!急に乱暴されて受け入れられるわけないでしょっ?それに私はただ自分の仕事を頑張りたいだけだよ…夕海だって同じじゃないの?!」
「はあ?」

夕海は汚いものでも見るような目で私を見下ろした。

「恵まれた環境で何を頑張るのよ」
「……夕海」
「私より身長だって低いクセに!なのに今回のショーに選ばれて…それが一番許せなかった…!」

夕海が握り締めたケータイがミシっと嫌な音を立てた。去年、仕事で海外に行った時、夕海の好きなブランドショップでお土産に、と買ってきた、サングラス型の飾りが付いたストラップが空しく揺れている。こんなに私に怒っているのに、まだ付けてくれてたんだ、なんて、ぼんやり頭の隅でそんな事を考えた。

「最初はね…オーディション前にケガでもすればいいと思ったの」
「……え?」
「だからネットで調べて、アンタの髪を手に入れて、それで――」
「な…何言ってるの…?」

シーツを握る自分の手が、震えてくるのが分かった。夕海は僅かに笑みを浮かべると冷たい目で私を見た。それは私の知ってる親友の目ではなく、憎しみと怒りに満ちた、呪いの目だった。

「アンタの席に釘で打ち付けてやったの。アレ、なかなか良かったでしょ?」

「――――ッ」

目の前が真っ白になった。あれを、あの呪いを、私に向けていたのは――。

「なのにアンタ、ケガもしないし、あげく受かっちゃうんだもん」
「ゆ…夕海…何で…」
「何で?邪魔だからに決まってんでしょ。ライバルは少ない方がいいじゃん」
「まさか…琴音さんと綾香にも…?」
「ああ、あの二人も私がオーディションに落ちた事聞いて電話してきてさ。ムカつくこと言って来たから死ねばいいって思ったらホントに死んじゃったね。あれは笑ったわ」

あははは、と楽しげに声をあげて笑う姿は、夕海であって夕海じゃなかった。

「何かさぁ、私がこのケータイで話した相手って死んじゃうみたい。これって凄くない?デスノート的な感じで」
「…ケータイ…?」
「そう、これで電話して相手のこと死んじゃえって思うだけで、ホントにマジで死ぬの」

それを聞いてケータイから現れた呪霊を思い出した。あれは、もしかしてあの呪霊は―――。

「ねえ…アンタにもかけてあげようか?」
「……ッ」
「って、アンタ電源切ったままだから今までダメだったのよね。もしかしてバレてた系?何で?」
「何でって…私のセリフだよ!何で…何で二人を殺したの?!何で呪ったりしたのよ…!!」

涙が溢れた。大好きだった親友が、これほど大きな闇を心に隠してたなんて思わなかった。気づけなかった自分にも無性に腹が立った。

「嫌いだからよ!どいつもこいつも上から物を言ってきて、どんだけなんだよ!でもアンタが一番嫌い…ホントは…ァアンタに…死、死ンで欲し…欲しかった……死ねヨ、死…死ネ…シね」
「…夕…海?」

夕海は身震いしたかと思うと、上手く話せないのか、壊れた人形のような動きをしながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。夕海の様子がおかしい事に気づいたが、その異様な雰囲気にゾっとした。俯いたままの夕海はケータイを強く握りしめ、その手がカタカタと震えている。

「…夕海――」

どうしたの、と声をかけようとした瞬間――。
夕海の口からウネウネと動く髪の毛のようなものが出て来て、それが彼女の身体を覆っていくのを、ただ見ている事しか出来なかった。

「…!!」

宙をうねりながら凄い速さで飛んできた長い髪がスローモーションのように見えた時、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。派手にガラスの割れた音が響き、ハッと顔を上げると、私は五条くんの腕の中にいた。見れば今まで私が寝ていたベッドは切り裂かれ、先ほど五条くんが開けた窓のガラスが粉々に割れている。どうやったのか、一瞬の事で分からなかったが、五条くんが私を助けてくれたんだ、と気づいた。

「五条くん…」
「急に呪いの気配がデカくなったと思ったら…何だ、これ」

五条くんの視線の先を追うように目を向ければ、そこには化け物に身体を侵食されている夕海が、いた。真っ黒い長い髪がが重なり合い、それは夕海の体内から伸びているように見えた。ところどころ服が破けた箇所から見える肌にもびっしりと髪が絡みつき、それは足首よりも長く伸び、動くたび衣擦れのような音がする。その音はケータイから聞こえて来たあの"音"と同じだと言うことに気づいた。

《タ…助ケて…な、にコ…れ…》

かろうじて意識はあるのか、戸惑うような夕海の声が聞こえて、私は無意識に手を伸ばしていた。

「いゃぁっぁあっ!夕海!!」
「やめろ、!もう無理だっ」

五条くんの腕に引き戻される。同時に髪が生き物のように飛んできたのを手で防ぐと、五条くんは私を抱えてそのまま廊下へ飛び出した。

「あれ…夕海って子だよな…?」

五条くんは怖い顔で私を見下ろした。答える代わりに何度か頷いて、震えが止まらない身体を抑えるように自分で抱きしめる。

「こいつの気配が分かりにくかったのは彼女の体内に隠れてたせいか…。強い憎しみに共鳴して呪力が増大した…。、俺から離れるなよ?」
「ど…どうするの…?」

何とか声を絞り出すように訊けば、五条くんは真剣な顔で「祓う」とだけ言った。

「は…祓うって…だってあれは夕海だよ!呪霊じゃない!」
「分かってる!でもああなった以上、無理だ、助けられないんだよ!」
「やだ…!夕海を助けて…殺さないでっ」

攻撃態勢に入った五条くんを見て、私は彼の腕に必死でしがみついた。

、放せって…!――チィッ」

病室の方から飛んできた無数の髪がドアを突き破り、飛び出してきたのを五条くんは片手だけで弾いた。そして彼の腕を掴んでいた私の両手首を掴むと、力いっぱい自分の方へ引き寄せる。

「いいか?俺が助けるのはオマエだ。あの呪いじゃない」
「夕海は呪いなんかじゃない…っ」
「もう取り込まれてる!それはオマエを心の底から呪ったせいなんだよ!人を呪ったら報いを受ける…。更に力が増大して怨霊になる前に祓う」

冷たい、眼。
感情などまるでない。
先日まで普通に話して笑いあってた相手を、夕海を、今は化け物としてしか見ていない、そんな眼。
本気なんだ――。
五条くんは本気で夕海を呪いとして祓おうとしてる。

「夕海……」

今も髪をうねらせ攻撃をしてくる親友だったものを見る。すでに自我すら消えたのか、さっきまでの夕海の姿ではなく、そこには異形の化け物だけがいた。

「…どうして……」

涙で視界が歪む。小学校からずっと一緒で、二人して身長が高いからクラスでも浮いていて、だから自然と一緒にいるようになった。そんな私たちは悩む事も同じで、夢もまた同じだった。何でも話せて、親友だと思ってた。夕海も同じように思ってくれてると信じてた。なのに、私は夕海の本心にも気づかず、彼女を知らないうちに傷つけて、結果、あんな化け物にしてしまった。

「ごめん…ごめんね…夕海…」

もう一度、夕海の笑顔が見たかった。あの明るい笑顔に何度も助けてもらったのに。

…!下がってろっ」

五条くんは自分の後ろへ私を押しやると、病室に向かって手で印を結ぶような動きを見せた。
その時――。

「悟!!」

その声に、五条くんはハッとしたように手の動きを止めた。声のした方に振り向くと、夏油くんと硝子ちゃんが慌てたように走って来る。

…!大丈夫?」
「硝子…ちゃん…」
「何があった…?これは…」

硝子ちゃんと夏油くんは崩れた壁と奥でうごめく呪霊となった夕海を見て、驚いた顔で五条くんを見る。
五条くんは振り向くことなく、

「傑!を連れていけ」
「悟…オマエ…」
「こいつは俺一人で充分だ。いいから早くを連れて行け!!」
「五条くん…」

そこで初めて五条くんは私の方へ視線だけを向けた。

「……ごめん」
「五条く…」

その言葉にハッとして立ち上がろうとした時、夏油くんに腕を掴まれた。

「行こう…。は見ちゃダメだ」
「…夏油くん…」

夏油くんは何かを察してるようだった。事務所にあった藁人形に夕海の痕跡が残っていたのかもしれない。目の前の変わり果てた姿からもケータイに取りついていた呪いの気配を感じているのか。どちらにしろ、この場で私が夕海にしてあげられることは何もない事を悟った。せめて祓われる事で夕海の魂が楽になることだけを、それだけを願う。

「行こう、…」

夏油くんに手を引かれ、廊下を走りだした時、背後で大きな衝撃音が聞こえて来た――。







「終わったか?」

病院のロビーにいると、悟が大勢集まっている患者の間を抜けて歩いて来た。

「ああ…」

悟は疲れ切ったような顔で応えると、僅かに視線を周りに彷徨わせている。

は鎮静剤を打ってもらって別の病室で休んでる。硝子がついてるよ」
「そっか…」

悟は深く息を吐き出すと壁に背を預け、その場にずるずると座り込んだ。さっき見た呪霊は一級相当ではあったが、あの悟がそれほど苦戦するはずもない。これほど消耗してるように見えるのは精神的なものだろう。

「何があった?」

だいたいは想像がつくが、と彼女の間に何があって呪いに変化したのか、気になった。私の問いに、悟は俯いていた顔を上げ、天井を仰いだ。

「…夕海が来て、何か落ち込んだ様子に見えたしに何か相談でもしたいのかと思って俺は廊下に出て、少し離れたとこで待ってた」
「その時点で呪いの気配はなかったのか?」
「アレは…夕海の体内で生まれた呪いだったっぽい。呪力を持たない彼女の中にいたから残穢はあっても視えない状態だった。あの時点ではあそこまで育ってなかったしマーキングの際の残穢なのか本体なのか分かりにくかった」
「そうか…呪霊に呪われたというより彼女そのものが呪いになってしまったんだ…」
「二人が…何かもめてるような声がしてきて…ケンカでもしてるのかと…様子を伺ってたら気配が急激にデカくなって…中に飛び込んだら…手遅れってやつ?」

悟はそう言うと失笑した。

「もっと早く…気づくべきだった。ケータイを媒体にして繋がった相手を呪殺してた時点で――」
「悟…」

悔しそうに壁を殴った悟の頭にポンと手を置けば、悟は戸惑うような顔で私を見上げた。

「生きた人そのものが呪いに転じ怨霊になる事例は少ないし、残穢だけじゃ、ただ呪われてるだけなのか判断が難しいよ…」

私の言葉を黙って聞いていた悟は、慌ただしく走り回る医者や看護師、警察官たちを表情のない顔で見つめている。の病室で起きた騒動は爆発事故として処理され、今は病院内も騒然としていた。体内に生まれた呪いが増大し怨霊になりかけた夕海の肉体は、その時点で喰われたのと同じ、祓えば消滅し、遺体さえ残らない。にしてみれば、突然親友が姿を消したのと同じで、その死をどう受け止めるべきなのか、分からないだろう。そのうえ、信じてた相手から呪われていたと知ってしまった事で、どれだけの傷を受けたのか。彼女の気持ちを考えると、私でさえ心に何かぽっかり穴が開いたような気分になる。

ふと、手の中にある藁人形を見た。
結局、夕海は自分の中の悪意に勝てなかった。
これを手にした時、夕海の残穢に気が付いて、正直私も驚いた。
親友である夕海がこんなものを用意してまで彼女を呪った理由は想像でしか分からないが、 おそらくの事が大好きだからこそ、芽生えた劣等感。強い愛情は時に些細な事がキッカケで、激しい憎しみへと変わることがある。その心の闇に生まれた強い怨念ともいえる悪意が、彼女の知らないうちに増幅して体内を蝕み、彼女そのものを呪いに変えて死ねと強く思った相手を呪殺していた。結果、彼女の中のへの強い憎しみと殺意が餌になり、自我を失い自身が呪いに転じた。どこかで間違いに気づいて、そんな負の感情など捨て去っていれば、もっとマシな結末になっていたかもしれないのに。

少しずつロビーの人だかりも減っていき、騒々しかった空間が静かになって来た頃、悟がポツリと言った。

にさ…"夕海を助けて…殺さないで"って言われたんだ…。でも俺、無理だって言った」
「実際、無理だった」

夕海が変異した姿は私も駆けつけた時に見たが、あそこまで肉体が侵食されてしまっては元の姿のまま助けると言うのは例え悟でも不可能だ。
元は人間だった相手を祓うという嫌な仕事を、に憎まれるかもしれない仕事を、悟は敢えて一人で引き受けた。以前の悟なら、これほど精神的なダメージは受けなかっただろうし、彼女に言われた事をそこまで気にしなかったはずだ。でも今の悟は明らかに、許しを請うような、そんな眼をしていた。結局、呪術師は呪いを祓うことしか出来ないのに。
悟は正しい事をした。何も間違っていない。

「悟は間違ってないよ。何一つ」

私がそう言うと、悟は泣きそうな顔で、僅かに微笑んだ―――。



何かキツかった…護衛編は次でラストです。