【第六話】 小夜時雨-中編



(誰…?!)

叫ぼうにも口を塞いでいる大きな手は凄い力で抑え付けてくるから、くぐもった声しか出ない。

「んんーっ」

後ろから羽交い絞めにしてくるのが男だというのは分かるが、顏すら見えず、私は恐怖で全身が強張った。
男は私を脇道の奥にある建築現場まで連れて来ると、ビニールが張られたドアを開け、中まで私を引きずっていく。
雨予報のせいで午後の工事は休みになったのか、辺りに作業員の気配はない。
室内も壁中にビニールが張られ、作業途中らしくペンキのツンとするような匂いが鼻を突いた。
その時、口を塞いでいた手が離れ、私は床へと突き飛ばされた。

「痛…っ」

床に無造作に置かれていた金槌や釘の入った道具箱にぶつかり、ガシャンという音を立てる。
その時、影が落ちて、私が顔を上げると、そこには見た事のある男が怖い顔で私を見下ろしていた。

「あなた…事務所に来てた…」

それはモデル事務所に出入りしていた清掃会社の若い男で、何度か挨拶をしたことがある人物だった。
いつもの作業着ではなく、黒いパーカーにジーンズといった軽装で、黒いキャップをかぶっている。

「小野さん…?」

口にしてから確かそんな名前だったことを思い出す。
彼には何度か手紙をもらったことがあるからだ。

「覚えててくれたんだ…」

小野さんは口元を歪めながら呟いた。
何故、彼がここにいて、こんな事をするのか分からず戸惑っている私を見て、小野さんは目の前にしゃがんだ。

「一緒にいた男、一葉さんが連れて来たモデルだったよな。昨年末、事務所に来てた」
「…え?」
「彼氏?」
「ち、違う。彼は…友達だけど…」
「友達?そのわりには仲良さげだったけど?顔なんか触っちゃってさ」
「…だから?アナタに関係ないでしょ?何でこんな―――」

と言いかけた時、小野さんは不意に立ち上がり、傍にあった工具箱を思い切り蹴とばした。

「…きゃっ」

その反動で飛び出した釘が飛んできて、私は顔をそむけた。

「関係ない?俺、に手紙書いたよね。好きだって」

そうだ、確かそんな内容だった。
でも何度か言葉を交わしただけの相手だったから、いつものファンレターと同じ意味合いだと思っていた。

「でもは返事をくれなかった…。あげくバカ女が事件起こしたせいで事務所は閉鎖?困るよ…君に会えなくなる!」
「……っ」

恐ろしい形相で怒鳴り、小野さんは私の上に圧し掛かって来た。

「や…やだ!」
「だからわざわざ学校まで会いに来たのに…何だよ、あの男…。いつの間に君に手を出したんだ?」
「だ、だからそんな関係じゃないってば!放してよ!」

どうすれば近くにいるであろう夏油くんに気づいてもらえるか考えながら辺りを見渡した。
さっき二人でいた場所から脇道を入った奥のところにこの家はある。
ここは高級住宅街で、今建てているこの家も当然、かなり広めの戸建てになっている。
完全に家の中まで入った事で音が漏れにくいのかもしれない。
そう思うと焦りが出てくる。

(こんなに近くにいるのに…夏油くん…お願いだから気づいて…!)

「アイツが来るの待ってるの?」
「……っ」
「無駄だよ。この家さ、防音設備なんだって。看板に書いてあったよ」

ククク…と喉の奥で笑う男を思い切り睨みつける。

「去年から毎日のようにの家の周りを調べててさー。いつ、どこで話しかけようかと機会を伺ってたんだよねー。その時、ココ見つけてさ」

学校からの通り道だろ?と言って楽し気に笑う小野さんの言葉に驚いた。

「まさか…あなただったの?ずっと付けまわしてたの…」
「付け回してた?そうじゃないよ。俺はただと二人で話がしたいと思って機会を伺ってただけ」
「…こんな事されて楽しくあなたと会話できると思う?」

怯えてるのを悟られたくなくて、冷静にそう返すと、小野さんは酷く冷めた目で私を見つめた。

「ふーん。じゃあ…会話じゃなく別の事でも…する?」
「や…っ」

顔を近づけて来る小野さんに驚き、慌てて顔を反らす。
その顔を強引に戻され、無理やり床へ押し倒された。
コンクリートの床に思い切り背中と頭をぶつけ、痛みで意識が飛びそうになる。
すると動きが鈍くなった私を見た小野さんは私の着ていたコートを無理やり引き裂き、ボタンが弾け飛ぶのが分かった。

「やめて…っ」
「会話するの嫌なんだろ?だから話さなくても出来る事しようよ」

そう言ってニヤリと笑う彼の顔にゾっとした。
あの時の高居さんと同じ、男の欲が見え隠れしたその目が、いっそう恐怖を煽る。

「やっぱり制服姿もいいね。そそられるわ」
「やだ…っ」

膝を使い強引に足の間へ割って入り、体重を乗せて覆いかぶさって来る小野さんを何とか押しのけようと両腕で突っぱねた。
だが彼の手が太ももを撫でながらスカートの中に入って来た感触に「やめて!」と叫ぶ。

「夏油くん…!!」

好きでもない男の手が、普段隠れている部分を撫でまわす気持ち悪さに、足をバタつかせて抵抗する。
でも押さえつけて来る相手がビクともしない恐怖で、咄嗟に彼の名を呼んだ。

「無駄だって。防音だって言ったろ」

小野さんは息を荒くしながら顔を近づけて来て全身に鳥肌が立つ。
彼の手が乱暴に下着の中へ入って来るのを感じて、もうダメだと思った、その瞬間―――。
彼が凄い勢いで真横へ吹っ飛んだのを、信じられない思いで見ていた。

「―――あ~あ…ったく。下衆い奴のやる事は底が知れてるわ」

その声を聞いた時、私は涙が溢れて来るのが分かった。
夏油くんに力いっぱい蹴り飛ばされた小野さんは床を転がり、したたか背中をぶつけたようで、うんうん唸っている。

「夏油くん…っ」
…!大丈夫か?」

夏油くんはしゃがむと、私の頬を手で包んで顔を覗き込んできた。
呼吸を乱した彼の目には焦りの色が見えて、必死にここまで走って来てくれたんだ、と思った時、気づけば彼に抱きついていた。

「ごめん…怖かったろ」

そう言いながら抱きしめ返してくれる夏油くんは、優しく頭を撫でながら、「…良かった」と深い息を吐いた。

「…全く…目が離せないな、は…」
「ご…ごめん…」

僅かに顔を上げれば、困ったような顔で微笑む夏油くんと目が合う。
その時、今まで倒れていた小野さんが立ち上がったのが見えてハッとした。

「…く…俺の前で…イチャイチャするなぁ!!」

そう怒鳴ったかと思うと、床に落ちていたハンマーを握り、それを思い切り投げつけて来た。

「…危ないっ」

そう叫ぶのと同時だった。
夏油くんは飛んできたハンマーを右腕だけで受けて、それを弾き返した。

「だ、大丈夫?!」
「あんなの、呪力で受ければどうって事ないよ」

夏油くんは平然と言い放つと、「は動かないで」と、私から離れてゆっくりと立ち上がった。
見れば小野さんはまだ諦めていないのか、今度はその手に電動ノコギリを持っている。

「な…何してるの?そんなもの持ってどうする気…?」
「お、俺をコケにしやがって…!!の前でオマエを切り刻んでやるっ」

そう言いながら電動ノコギリのスイッチを入れると物凄い騒音が室内に鳴り響く。
あんな危ないものが少しでも掠ったら大けがどころの話じゃない。
なのに夏油くんはゆっくり小野さんの方へ歩いて行くと、突然、耳に手を当て、聞き返す仕草をした。

「騒音がひどくて聞こえないな。もう少しデカい声で喋ってくれ」
「……てめえ…舐めてんのかっ!!殺すって言ってんだよ!!」
「……?」

小野さんが更に怒鳴っても、夏油くんは耳に手を当てたまま、え?みたいな顔で彼を見ている。
その舐めた態度に、小野さんの顏は真っ赤になった。

「聞こえてるだろーが!」
「オマエみたいな非術師に殺されるわけないだろ」
「ひじゅつ…?って、聞こえてんじゃねーか!!舐めやがって…っ」

小野さんは額に血管が浮き出るほど怒りだし、持っていた電動ノコギリを思い切り振り上げて、夏油くんの方へ向って行った。
その姿を見て一気に血の気が引く。

「危ない、夏油くん―――」

私が叫んだのとほぼ同時だった。
物凄い速さで小野さんの背後に回った夏油くんはノコギリを持つ腕を掴み、手刀で武器を叩き落とした。
同時に彼の横っ面を手の平で強打、もう片方の拳で、もう一度小野さんの顔を殴りつけた。
時間にして3秒。
小野さんは白目を向いて崩れ落ちるように床へと倒れた。

「………(つ…つよっ!!)」

あっという間に決着がついたその光景に唖然としてると、夏油くんは床に転がった騒音元の電源を切り、私の方へ歩いて来た。

、ケガは?」
「え…?あ……だ、大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ。頬と足が切れてる」
「え…?」

夏油くんが私の顎を持ち、傷を確認しているのを見て、自分の足に視線を向ければ足首の辺りには切り傷がいくつか出来ていた。
さっき飛んできた釘が何本か掠ったのかもしれない。
不思議なもので、傷があると認識した途端にヒリヒリしてくる。

「あ、大丈夫…このくらい」
「あ~コートもこれじゃ着れないな…」

さっき無理やり引っ張られたせいで殆どのボタンが外れたコートを手に夏油くんは溜息をついた。
そんな彼を見て、ふと思った。

「でも…何でここだって分かったの?」
「ああ、それはの気配の傍にあったアイツの残穢を追えばすぐわかる。何かやらかそうって奴はそういうの強く出るんだ。―――立てる?」
「う、うん…」

そう言って手を貸してもらいながら何とか立つと、未だに白目を向いて気絶している小野さんを見下ろした。

「ところで…コイツ、誰?」
「え?ああ…えっと…去年から付け回してたストーカー…彼だったみたい」
「えぇ?モデルも大変なんだな…こんな奴にまで目を付けられるなんて」
「この人は…事務所に出入りしてた清掃業者の人だったの…。前に何度か手紙もらってたんだけど私が返事してなかったから怒らせちゃったみたいで…」

私がそう説明すると、夏油くんは呆れたように目を細めた。

は悪くないだろ。仕事柄そんな事はしょっちゅうあるだろうし」
「…まあ。そうだけど…ちゃんと対応してたらストーカーにならなかったのかなって」

そう言った私を見て、夏油くんは「それは違うよ」と真顔で言った。

はもう少し自分を傷つけようとした相手に対して怒った方がいい」
「え…?お、怒ってるよ?もちろん…でも…」
「でも、私も悪かった?」
「だって、そうだし…」
「はあ…ったく優しすぎるだろ…。そもそもこういう奴はどういう対応したって同じようなことをする。きちんと相手にしたら今度は自分に気があるって勘違いするかもしれない」
「あ…そういう人もいた…かも」

前にもストーキングされてたことを思い出し、つい口にすると、夏油くんは更に目を細めて怖い顔をした。
彼のそんな顔を見るのは初めてで、怒らせてしまったのかと不安になった。

「ごめんなさい…怒らないで…」

と彼を見上げれば、夏油くんは一瞬驚いた顔をして、すぐに苦笑いを浮かべた。

「怒ってるんじゃなくて心配してるんだよ。ほんと…傍にいてもこれじゃ、会ってない時はもっと心配になるだろ」
「え…」

それはどういう意味?と聞きたくなった。
でも今の言葉でまたしても心臓が早くなって、顔が熱くなってきた。

(好きな人から心配されるのが、こんなに嬉しいなんて…知らなかった…)

夏油くんは「ああ、そうだ」と、ケータイを取り出し、倒れている小野さんへ目を向けた。

「通報しとくし、コイツは放置して私たちは帰ろう」
「うん…」

夏油くんは建築現場に不法侵入者がいる、とだけ通報して電話を切ると、私の手を引いて外へと出た。
すっかり暗くなった空からは予報通り、大粒の雨が降り出していた。

「あ~雨かよ…ついてないな」
「大丈夫、うち近いから」
「でも、その足で走れる?」
「大丈夫。ただの切り傷だし」

そう言って見上げると、夏油くんは上着を脱いで私の頭にかけてくれた。

「え、夏油くん、濡れちゃう」
「どっちみちこの雨じゃ濡れるし、サッサと帰ろう」

そう言って笑うと、夏油くんは私の肩を抱いて一気に走りだした。
この家から四軒ほど先が私の家だったが、走る間もどんどん雨脚が強まり、家が見えて来た時には本格的な土砂降りになっていた。

「あ、あれ?門柱に別荘と同じオブジェがある」
「うん!」

激しい雨の中を一気に家まで走っていく。
何とかエントランスまで辿り着いた時には二人ともびしょ濡れだった。

「凄い雨だな…ったく。ックシュ!」
「だ、大丈夫?」
「大丈夫…と言いたいけど寒い」

夏油くんは笑いながら濡れた髪をかき上げて水滴を払ったが、全身がシャワーを浴びたように濡れている。

「風邪引いちゃうから入って」

私はすぐ鍵を開けて中へ入ると、榊さんを呼んだ。

「こんな遅くまでどこに……って、あら?夏油さん?!」

慌てて出て来た榊さんは夏油くんを見て驚いている。

「まあ、どうしたんです?二人してびしょ濡れじゃないですか!」
「事情は後で話すからタオルお願い」
「あ、ああ、っそうですね!ああ、それよりお風呂入って下さい。それじゃ風邪ひいてしまいますから」
「え、いや…」
「いいから早く!夏油さんはこちらへどうぞ?」

榊さんに急かされ、夏油くんは困ったように振り向いたが、私は彼の背中を押して「早く行って。風邪引くよ?」と言った。

「じゃあ…お言葉に甘えて…お邪魔しま、す…」

そう言って榊さんに手を引かれるまま、夏油くんはバスルームへと連行されていった(!)
こんな時でも礼儀正しい彼に苦笑しながら、私も寒くなって来て急いで自分の部屋のバスルームへと飛び込んだ。
髪も制服もびしょ濡れで、体が芯から冷えていたせいで、シャワーのお湯がかなり熱く感じた。

「痛…」

あちこちに切り傷がある事を忘れていたせいで、シャワーが当たるたび傷に沁みた。
同時にさっきの恐怖を思いだし溜息をつく。
心のどこかで夏油くんが来てくれるんじゃないか、と思っていたけど、実際は本当に怖かった。
私にはそんなつもりはなくても、相手からすると無視されたとか冷たくされたと思い込んで、あんな風に暴力的になる人もいる。
それは怖い事だった。
夕海の事があってから、それが身に染みて分かった。

(何か…人と接する事が怖くなったな…)

さっきの小野さんも、事務所で会った時は気さくで良い人に見えたのに。

"もう少し自分を傷つけようとした相手に対して怒った方がいい"

さっき夏油くんに言われた言葉を思い出し、胸が痛くなった。

「怒った方がいい、かあ…」

私は夏油くんが言うように優しいわけじゃない。
ただ、臆病なだけ。
相手が怒るのは私にも問題があったんじゃないか、と高居さんの事で学んだから。
夕海の事で思い知らされたから。
どうしたら、誰も傷つけずに生きていけるんだろう―――ふと、そう思った。