【第六話】小夜時雨-後編



『えぇぇぇ?!泊まる?!』

受話器の向こうから硝子ちゃんのこれでもかというくらい大きな声が聞こえてきて、私はケータイを耳から少し離した。

『う、嘘でしょ?!もう、そういう中に?!』
「ち、違うってば!」

本題に入る前に泊まることを言わなければ良かったと思いつつ、私は先ほど起きた事を簡単に説明した。

「―――と言うわけで送ってもらったんだけど、雨でびしょ濡れになっちゃって、榊さんがお風呂に入ってけって言い出して、出たら出たでご飯食べてけって言い出して」
『だ、だからって何で泊まることになるの?』
「それが…止んだと思った雨がまた酷くなって、そしたら榊さんが今日は遅いしこんな雨だから泊まっていけって…お母さんも今日は仕事でいないし」
『マジか……恐るべし榊さんパワー』
「ほんとそれ」

硝子ちゃんの言葉に笑いながら頷くと、私は隣で眠るマリンを撫でた。
私だって多少は驚いたけど、でも夏油くんとまだ一緒にいたいと思ったのも事実。
せっかく会えたのに、今別れたら次にいつ会えるかなんてわからないって思ったから。

『で、夏油は?どんな感じ?』
「ちょっと困ってる感じだったけど…最後は榊さんの強引さに負けてた。明日は特に大きな任務もないからって言って、今は榊さんとリビングで話し込んでる」
『マジか、あいつ。って、でもまあも大変だったね。良かった、夏油を置いてきて』
「え?」
『だってあのまま一人で帰ってたら危なかったでしょ』
「た…確かに…。何か家の周りウロついてたみたいだし…」

硝子ちゃんにそう言われて、改めてゾっとした。
家や学校の場所は公開していないから、きっとどこかで待ち伏せして付けて来てたんだろう。
自分の知らないところで後を付けられてたのかと思うと、今度から気軽に外を歩くのすら怖く感じる。

『たとえ家まで送ってたとしても、後で何されるか分からないじゃない。だから警察に通報する流れになって正解だよ』
「うん…」

相槌を打ちながら、さっきの事を思い出していた。

「そう言えば…夏油くんってめちゃくちゃ強いね。電動ノコギリ持ってる相手を数秒でのしちゃってビックリした」

すると電話の向こうで硝子ちゃんの笑う声が聞こえた。

『当前よ。普段呪霊相手に戦ってるし、いくら武器を持ってるからって非術師相手ならアリとターミネーターくらい力の差があるよ』
「アリとターミネーター?!で、でも確かに!前も仮想怨霊って化け物相手に難なく勝ってたし…」
『でしょ?その夏油がストーカーごとき、素手で充分すぎるくらいだったと思うわよ?相手が死ななくて良かったって感じよね』
「はぁ~呪術師って体術も凄いんだね」
『近接は先生や先輩たちにしごかれてるから。まあ夏油と五条だけは別格だけど』
「そうなんだ…。凄いなぁ」

未だによく分からない世界だけど、あの二人が凄い事は何となく分かって来た。
一年なのに護衛任務だって任されるし、あちこち呪霊退治に行ってるみたいだし、ストーカーは瞬殺だったし。
あれを見てしまったら、以前五条くんが「俺たち最強だから」と言い切っていたのがよく分かる。
そんな事を考えていると、ノックをする音がしてハッとした。

、すまない。まだ起きてる?」
「げ…夏油くん…。あ、ちょっと待ってね!」

慌てて返事をすると、硝子ちゃんの、『え、夏油?』とニヤニヤ笑うような声が聞こえた。

「う、うん。何か部屋に来て」
『嘘、それってチャンスじゃない、 ♡』
「え、チャンスって…」
『まだ告ってないんでしょ?ならこの機会にどーんと』
「え、ど、どーんって…む、ムリムリ…言えないよ、そんなの」
『何で?だってストーカーから助けてもらった後で、何か盛り上がりそうな展開じゃない?』
「硝子ちゃん、楽しんでるでしょ…」

一人テンションの高い硝子ちゃんに、私は顔が赤くなった。
でも硝子ちゃんは不意にまじめな声で、『私はの望んでいることが叶って欲しいなって思ってるだけだよ』と言った。

「私が…望んでること?」
『そう。ほんとなら夏油とがそうなるのは、絶対ぜぇーったいイ・ヤだけど!』
「……硝子ちゃん?」
「あははは!でもね、が本当にアイツの事を好きなら…それは叶って欲しいなって思うし応援したいよ。―――の事が大好きだから』
「……な、泣かせないでよ」

いきなりそんな事を言われて泣きそうになった。
最近色々ありすぎて涙腺がおかしい。
私の言葉に硝子ちゃんはちょっと笑ったようだった。

『ほら、夏油待ってるんでしょ?早く行って』
「う、うん…」
『そんなムードになったらちゃんと告るのよ?押し倒してチューでもしてやればホイホイ食いついて来るって』
「で、出来るわけないでしょ、そんなこと…っ」(彼女は夏油くんの事を何だと思ってるんだろう…)

それに、そんな事で流されるような人なら、初めから好きになっていない。
そんな私の気持ちを察したように、硝子ちゃんは『ま、夏油はいい奴だから、大丈夫』と、言ってくれた。
いつもはボロクソ言うのに、心の中では信頼してるんだな、と思うと、胸の奥が暖かくなった。

『じゃ、うちのターミネーターに宜しく』

そう言って電話は切られた。
私は軽く深呼吸すると、急いでドアを開ける。

「ご、ごめんね。ちょっと電話してて…」
「ああ、いや。私こそごめん、急に」
「どうしたの?」

私が尋ねると、彼は困ったように微笑んだ。

「実は…話してたら榊さん寝ちゃって。榊さんが部屋に戻った後に、ゲストルームの場所を聞くの忘れてたのを思い出した」
「え、榊さん寝ちゃったの?あ、ごめんね。ゲストルームは…こっちなの」

私は部屋を出ると、榊さんが用意をしたという二階のゲストルームへ案内した。
室内に入ると、暖房が聞いていて、きちんとベッドメイクもされている。

「へぇ、別荘とはまた違う感じだ」

夏油くんはそう言いながら窓の方へ歩いて行くと、カーテンを少し開けて外を眺めた。
暗い中、外灯の明かりで雨が降っているのがかすかに見える。

「ああ…また強まって来たな」
「何か降ったり止んだりだね」

私も彼の隣に立ち、窓の外を眺める。
さっきまではシトシト降っていた雨も、今は強まって辺りが白く見えた。
ふと隣を見れば、夏油くんがいて、護衛をしてもらっていた日に戻ったかのような気持ちになる。
いつもの高専の制服は濡れてしまったから、と榊さんが御用達のクリーニング屋さんに来てもらって、私の制服と一緒にクリーニングへ出してしまったせいで、夏油くんは父の若い頃の服を借りて着ているから余計に変な感じがした。
父も大きな人だからサイズもピッタリでちょうど良かった。

「ん?何?」

私が見ていることに気づいた夏油くんが照れたように笑った。

「あ、ごめん…。何か…こうして夏油くんがウチにいるのが変な感じで…」
「ああ…まあ、そうだよね。任務も終わったのに」
「それもあるけど…。もう…会えないかと思ってたから」
「え…?」
「だから、今日は…会いに来てくれて…本当に嬉しかったの」

勇気を出してそう言ってはみたものの、夏油くんは黙ったまま私を見ていて。
やっぱり恥ずかしくなった私は慌てて目を伏せた。

「なのに変な事に巻き込んで…また助けてもらっちゃって…ダメだよね、ほんと」
のせいじゃないよ」

夏油くんはそう言って微笑むと、ポンと頭に手を置いた。
それは以前、夏油くんが何度となくしてくれたもので、私は、彼の手でそうされるのが好きだった。
雨脚が更に強まって来たのか、ザーっという音が耳に心地よく響く。
静かな部屋で、夏油くんと二人、夜の雨を眺めているこの時間は、不思議な安心感があった。

「私も……」
「え?」

不意に夏油くんが口を開き、ドキっとして見上げると、優しい瞳と目が合った。

「嬉しかった」
「……?」
「今日、と会えて」

夏油くんはそう言うと、驚いて固まっている私を見て僅かに微笑んだ。

「また…会いたいって思ってたから」
「私…に…?」
「なのに目の前であんな奴に攫われて…参った」

苦笑気味に言いながら、夏油くんは私をそっと抱きしめてくれた。

「無事で良かった…」

安堵するよう息を吐きながら、耳元で囁くように呟いたその言葉に、胸の奥がぎゅっと掴まれたような痛みが走った。
冷静に見えたのに、こんなに心配してくれてたんだ、と思うと嬉しくて。
自然に涙が溢れて来て、泣いてるのをバレたくなくて、夏油くんの胸に顔を押し付けた。

…?」
「ご…ごめ…」

バレたくないのに、声が震えて言葉にならない。
いつの間に、こんなに好きになってしまったんだろう。
優しい声が好き、私の名前を呼ぶ、その暖かい響きが大好き。
でも、その気持ちを言葉にしていいのか、まだ迷ってる。
私と夏油くんでは、住む世界が違いすぎる、なんて改めて気づかされて。
私は何の力も持たなくて、いつも守られてばかりで、こんなんじゃ彼の負担にしかならないんじゃないか、とそう思った。
なのに、夏油くんは私の頭に頬を寄せて、強く抱きしめてくれた。

「全く…目が離せなくて困る」

それは、どういう意味なの?と訊きたいのに、今はこの腕の中に包まれてるだけで、それだけで―――。







腕の中でかすかに震えてるが愛しい、なんてガラにもない事を思った。
さっき彼女に言った言葉も嘘じゃない。
護衛任務が終わって、いつもの忙しい日常に戻ってからも、何度となく彼女の笑顔を思い出しては、会いたいと自然に思った。
街を歩いている時に、が好きだというあの曲が流れて来た時も、ふと空いた僅かな時間でさえ、気づけば彼女の事を考えていて。
連絡先も知らない、任務が終われば会いに行く理由なんかない。
なのに、無理やり理由を作ってしまった。
会えなくなって、初めて気づいた。私はに、いつの間にか惹かれていたんだと。
でも彼女は術師でもない普通の子で、自分の好きな事を必死に頑張りながら生きてる子だから。
呪術師をやっている私が傍にいる事で危険にさらすわけにはいかない、と思った。

呪術師の仕事は闇が深く、が見たのはほんの一部でしかない。
それでも、あれほど苦しんでいた彼女を見ていると、この想いごと、彼女と過ごした時間ごと、消し去ってしまえば良かったのかもしれない。
なのに、その思いとは真逆のことをしてしまった、無責任な自分に笑ってしまう。
私が傍にいても、たとえいなくても。
が危ない目に合うことが避けられないなら、私は―――彼女の傍にいたい、と思ってしまった。

会いに来てくれて嬉しかった、という彼女の言葉が嬉しくて、思わず抱きしめてしまった腕を、なかなか離せなくて。
彼女の方から顔を押し付けられたら尚更、どうしていいのか分からなくなった。

(いつから、こんな初心になったんだ…らしくない)

そんな事を思いながら、多分泣いてるであろう、の顔を覗き込もうとした。
ただ何故彼女が泣いてるのか分からず、どう声をかけようか、と思った時、不意にが私から離れた。

「ご、ごめんね…。ちょっと…まだ情緒不安定かな…」

そう言いながら涙を拭う彼女を見て、その濡れた頬に手を伸ばした。

「夏油…くん?」

頬に触れた私を、戸惑うように見上げるの瞳は未だ涙が溢れていて、綺麗だ、と思った。
その気持ちのまま素直に体が反応して、頬に触れた指を顎に滑らせ、彼女の顔を少しだけ持ち上げた。
そのまま私も顔を傾け、の唇へ自分のそれを近づける。
だが、もう少しで触れそうになったところで、ふと脳裏にある事が過ぎった。

「…すまない」

不意に我に返った私は、ついそんな事を言って彼女から唐突に離れた。
は驚いたように瞳を見開いていて、その頬は少しずつ赤くなっていく。
その顔を見てると、自分が今しようとしてた行為が許せなくて、もう一度、彼女に謝ろうとした。

「…すまない。こんな―――」

そう言いかけた時、が指を伸ばして私の唇に触れて来た事でドキっとした。

…?」
「…夏油くんに訊きたいこと、いっぱいある」
「…訊きたい、こと?」
「さっき言ってくれた言葉も、今の…ことも」

は零れ落ちる涙を拭おうともせず、ただ私を見つめている。
一瞬、怒らせたかとも思ったが、の顔を見てるとそういう風にも見えない。

「私のこと…どう思ってるの?からかってるだけ…?」

不意に紡がれた言葉に、息を呑む。
は真剣な顔で私を見ていて、本気でそう訊いているのだと気づいた。
その時、消しさろうと思っていた自分の気持ちを、彼女に伝えたくなった。
もしかしたらも―――同じ気持ちならいい、と。

「…からかったわけじゃない。が好きだから…触れたくなった」

思い切って口にしたその言葉が、彼女にどう伝わるのか怖くなった。
でも次の瞬間、彼女は急に泣き出した。

「な…何で泣くの…」

ポロポロ涙を流す彼女を見て、私はどうしたらいいのか分からず、再びその腕を引き寄せ、強く抱きしめた。

「えっと…何か言って?」

苦笑気味にそう言ってみた。
思い切って気持ちを打ち明けたのはいいが、彼女はただ泣くばかりで、少し不安になって来る。
だが私の胸に顔を押し付けて泣くを見ていると、それが答えなのか、とも思う。

「好きだよ、…」

もう一度、その言葉を伝えれば、彼女が小さな声で、「私も…夏油くんが好き…」と言ってくれたのが、かすかに聞こえた―――。



や、やっと少し展開。護衛編はこれにて終了です。