君に夢中-後編



「ん?どうした?傑…んな怯えた顔して」
「いや……今なんか首筋がゾクっとして…」

そう言いながら首をさする私を見て、悟はケータイから視線を外し、

「何だよ、風邪?」
「いや…そういうんじゃなくて殺気と言うか…」
「え、近くに呪いの気配はねーけど」
「…そう、だよな」

いたら悟が気づくし、呪いがいない事は分かっているが、今の殺気は何だったんだろう、と辺りを見渡しつつ、再びケータイ画面に視線を戻す。
今は大阪での任務を終え、帰りの新幹線で移動中の為、特にやる事もなく、ケータイでネットニュース等を眺めていた。
悟も同じようにケータイで何やらサイトを覗いていたが、それにも飽きたのか、大きな欠伸をしながら座席のリクライニングを倒し横になっている。

「寝るのか?悟」
「うーん…たこ焼き喰いすぎて苦しいだけ」
「…そりゃ三人前は喰いすぎだろうな」
「いや腹減ってたしいけるかなと思ったけど、粉もんフツーに舐めてた」

悟は言いながら苦笑すると、苦し気に腹をさすっている。
たまの大阪任務だと半分は小旅行気分になるのか、悟は着いた早々から散々食に走っていた。

「そう言えば硝子に頼まれてた土産って買ったか?」

ふと思い出し、尋ねると、悟はふざけた顔で「バッチリ」と親指を立て、荷物の中からゴソゴソと見覚えのある顔が描かれた袋を取り出した。

「…ほんとに"ソレ"で良かったのか?」
「硝子の土産なんて、"くいだおれ太郎のボールチョコ"で充分だろ」(!)

悟は袋から、まさしく【くいだおれ太郎】の顏形を施した缶のケース(しかもデカい)を取り出し笑っている。
確か硝子は以前テレビで見たという某会社のチーズケーキがいい、と言ってたような気がしないでもないが、この際知らなかった事にしよう、と私は見て見ぬふりをした。

「そういや傑、さっき切子のグラス買ってたけど、アレってもしかしての土産?」
「ああ。彼女が好きみたいで家にもいくつかあったの思い出したから」
「へえ。何だかんだで仲良くやってんじゃん。ラブラブ?」

悟はそう言いながら笑うと、再び座席へ横になった。

「気になるか?」

苦笑しながらそう言えば、悟は不満げな顔で「なぁんで俺が」と徐に目を細めた。
この様子を見ていると、私が思っていた事は外れたのかな、とすら思えて来た。

「悟もの事は気に入ってたろ」
「別に俺は…ってか、もう待ち受けも変えたし!」

ケータイ画面をこっちへ突き付けると、悟は目を細めて私を睨んだ。

「この子は?」
「グラビアアイドルのアミちゃん ♡」
「へえ、また随分とセクシー系に走ったな」
「俺はそもそもセクシーな子が好きなんだよ。それに…人の彼女を待ち受けにしとく趣味はねーし」

悟はそう言って私に背中を向けると、

「まあ…俺は最初からお前とがそうなるだろうなって…思ってたしな」
「…そうなのか?」
「んなの二人を見てたら誰でも分かる。お前らが鈍すぎんだろ」

悟は顔だけ向けると、苦笑いを浮かべた。
それには私も笑ってしまった。
確かに悟の言った通りだ。
互いに惹かれ合ってると、気づかないのは当事者だけなんて鈍いにもほどがある。
そう思いながらにメールをしようとした時、悟が思い出したようにこちらへ体を向けた。

「で、これまでの女とは手ぇ切ったんだろ?」
「…何の事だ?」

そこで私も視線を向けると、悟は「知らないとでも思ってんの?」と意味深な笑み浮かべた。
言われてみて、ふと思い浮かんだのは去年の秋まで会っていた彼女のこと。
京都姉妹校に通う一つ上の東宮時麗良とうぐうじれいらだった。

「ああ…麗良か」
「結構オマエにご執心だったよな?彼女」
「良く見てるな。大っぴらに付き合ってたわけじゃないのに」

私が苦笑すると、悟は呆れたように、

「あの麗良って女、傑がいると目つきが違ったからな。女豹が獲物狙う時の目だな、あれは」
「何だ、それ。私は獲物か」
「でも喰われたんだろ?実際」
「さあ?ノーコメントにしとこうか」

笑いながらそう応えると、悟は徐に目を細めて「うわ、サイテー」と舌を出した。
その態度にはさすがの私もつい目が細くなる。

「そういう悟も色々遊んでたろ。知ってるぞ?」
「俺は高専関係者なんかに手は出さねーよ」
「術師以外の方が何かといいからだろ」
「だって術師の女って生意気じゃん、俺より弱いのに」
「そういうオマエも生意気だと思われてるしな」
「………」

私が突っ込むと、悟はウっとした顔で唇を突き出している。
そして「何でこんな話してんだ、ったく」と理不尽な事を言い出した。

「悟が先に言い出したんだろ。私の過去を持ち出して」
「そうだっけ?でもまあ…あの女とは切れてんならいいけどさ」
「とっくに終わってる。連絡すらしてないよ。そもそも何度か誘われたから会ってただけで今回とは違う次元の話だ」
「へえ…そうなんだ。じゃあは本気って事か」
「何が言いたい?」

やけに拘るな、と思いつつ、そう訊くと、悟は「別に~」と言いながら、再び横になり天井を仰いだ。

「ただ…は知っての通り、純粋だから…泣かせるなよな」
「…泣かせるつもりは元々ないけどな。ちなみに聞くが、何故そんなことを気にするんだ?」

私の問いに一瞬、悟は目を伏せると、暫く考えこんでいたが、不意にこれでもか、というほど顔をしかめて、

「アイツの泣いてる顔見ると…何かこう…モヤモヤして…オレが気持ち悪くなるから?」
「……は?」

さっぱり意味が分からず、目が点になったが、悟はいたって真面目に話してるらしい。
真剣な顔で、私を見ると、

「マージで。俺の色々何か、こう…気持ち悪くなるから、傑はアイツをいつも笑わせとけ。つーか泣かすな。分かったか?」

ビシっと指を指し、そう言ってくる悟の顔はいたって真剣で、

「……ああ、まあ、うん…分かった」(気持ち悪くなる…とは?)

とは言ったが、実のところ何を言いたいのかサッパリ分からなかった。(!)
でも元より彼女を泣かせようなんて思うはずもなく。
私がそう応えた事で、悟は安心したのか、数分もしないうちに眠ってしまった。

「泣かせるな、か…」

ふと笑みが漏れ、再びケータイを開くと、に簡単なメールを送っておく。
早く彼女に会いたくて、次はいつ東京へ行けるかな、と思いながら窓の外を見れば、都会の夜景が遠くに見えてきた。
その後、東京駅に着き、悟を起こして補助監督の運転する車で高専に着いた時には、夜の7時過ぎ。
移動だけで疲れた、とボヤく悟と私を寮の前で出迎えたのは、硝子だった。

「おっそーい!」
「任務終了後に悟が食いだおれしなかったら、もっと早く戻れたんだけどねぇ」
「はあ?くいだおれ?」
「っつーわけで、ほい。硝子にも、くいだおれ的なお土産~♪」
「え!チーズケーキ?」

硝子は嬉しそうに悟からもらった包みを開けていて、私は内心苦笑しながらそれを見ていた。

「…は?何これ」
「だから言っただろ。くいだおれ人―――」

バコッっという鈍い音と共に、悟が「いてっ!」と声を上げた。
どうやら"くいだおれ太郎"で殴られたらしい。(!)

「誰がこんな人形を買って来いって言った?!」
「人形じゃなくて中身はチョコボールだって!」
「チョコボールなんて頼んでないし!って、夏油も笑うな!」
「いたっ」

悟のとばっちりで私まで思い切り背中を殴られ、溜息が出た。
悟の言う通り、移動だけで疲れたのは事実。
ここ連日の任務で明日は休みになっているが、今日は早く寝ようと、自分の部屋へ歩いて行く。
だが、硝子に「ちょっと話あるから来て」と、いきなり腕を引っ張られた。

「何?疲れてるんだけど」

げんなりしつつ、笑顔で手を振る悟を睨みながら、硝子に引かれるまま、部屋まで連れていかれる。
鍵を開けて中へ入ると、硝子も当たり前のように入って来た。

「で、話って―――」

と、振り向いた瞬間、バチンっという音と共に、頬がヒリヒリ痛み出し、自分が殴られたと気づいた。
さすがに驚いて目の前の硝子を見下ろせば、彼女は怒ったような顔で私を睨んでいる。

「…何で殴んの。私が何か―――」
「今のはを悩ませてる罰よ」
「…は?」

私が彼女を悩ませている、という意味が分からず、その気持ち通りの言葉が口から洩れた。
何のことを言っているのか全く分からないが、少なくとも硝子は本気でそう思っているのか、更に怖い顔で私を見上げる。

「悩ませている…って?今朝もと電話で話したけど普通に元気だった―――」
「そりゃ自分の口から言えるわけないもの」
「……もっと分かりやすく言って」

呆れたようにそう言うと、硝子は「う…と言葉を詰まらせ、何故か頬を赤らめた。
普段の彼女なら、私や悟には絶対に見せないであろう、その女性っぽい表情は、さすがの私も驚いた。

「えっと…ああ、そうだ…今日はとネイルサロンに行ったんだよな。何か聞いたの?」

硝子の爪が綺麗に手入れをされ、珍しくマニキュアが施されてる事に気づき、そう言ってみる。
すると硝子は気まずそうに視線を反らし、どこかモジモジしている。(地味に怖い)
その様子を見てると、何か言いにくい事なんだろう、というとこまでは察したが、私が何の事でを悩ませているかまでは分かるはずもなく。
もう一度、「硝子、ちゃんと話してくれないと分からない」と言ってみた。
すると、硝子は覚悟を決めたように深呼吸をして、

「耳、貸して」

指をちょいちょいと動かす仕草に、私は首を傾げつつ、少し体を屈めた。

「…んで……スして…ないの?」
「……聞こえない。もっと大きな声で言ってくれ」
「ぐ…っ」

耳元で話してると言うのに、硝子の声が小さすぎて、よく聞こえず、私は更に耳を近づけた。
その瞬間、硝子が思い切り息を吸う音がして―――。

「だぁぁからぁぁっ!!何でぇー-にぃー!キス!!してあげないのぉぉー-っ?!」
「――――っ」

耳のすぐそばで、今度は大音量で叫ぶ硝子に、さすがの私も目が点に、いや体全体がフリーズした。
あげく内容が内容だけに、一瞬で表情がハニワのように固まる。

「声が大きすぎだろ!しかも何だ、その内容!」
「そっちが大きな声で話せって言ったんでしょ?それと、がその事で悩んでるのも事実よっ」
が…?」
「そ。私だってアンタとのそういう話、聞きたくなんかなかったし口を挟む事もしたくなかったけど!でも…があんなに悩んでるの見てたら…」

硝子はそう言って怖い顔で私を睨んだ。

「まさか…もう浮気とかしてんじゃないでしょーね?!」
「するはずないだろ?そんな事する暇があったと思うか?最近の任務内容を見てれば―――」
「どーだか。じゃあ何でにチューしてあげないわけ?他の女で済ませてると思われても仕方ないんじゃない?」
「ちゅ…っていうか、何故そんな話を硝子にしなくちゃいけないんだよ。しかも人をチャラ男みたいに言うな」

内容が内容だけに、しかもそんな話を硝子と話してるという何とも言えない気まずさで、私は深い溜息をついた。
だが同時に、がそのことで悩んでいるという話は、私にとっても予想外だった。
確かに、ある事を理由に彼女に対し、そういった行為をしないようにしているのは事実だ。

「夏油がを大切にしてるって言うなら分かるけど、他に理由でもあんの?」
「……もちろん大切だよ。大切だから余計…っていうか、女の子はそういう事で悩んだりするんだな……迂闊だった」
「そりゃあ…好きな人の事なら小さな事でも悩むだろうし、ましてこのご時世、付き合って一か月も絶つのにプラトニック通されたら不安になるくらい当たり前じゃない?」
「…不安?」
「だ、だからほら…!その…自分に…そういう魅力がないのかなぁ…とか?って何で私がこんな恥ずいこと、夏油なんかに言わなきゃいけないのよっ」
「…私にキレるなよ。こっちだって硝子とこんな会話、恥ずかしいどころの話じゃない。ったく…変な汗が出て来た」

溜息交じりでそう言えば、硝子も「そ、そうよね…」と顔を赤くしている。

「ただ…にそう思わせてしまった事は私が悪いんだろうな…」
「そうよ。っていうか、その手を出せない理由って何よ」
「…手を出すとかそういう表現はやめてくれないか。そもそも私だって我慢して―――」

と、そこまで言って口を閉じた。
案の定、硝子はこれまでに見た事がないくらいの笑みを浮かべている。(本気で怖い)

「ふ~ん…我慢してるんだ」
「……うるさい」
「夏油って、案外可愛いとこあんのね」
「………ほっといてくれ…(殴りたい)」

あまり知られたくない相手に、知られたくない感情を口走ってしまった自分に怒りを覚えつつ、私はふと時計を見た。

「ちょっと行って来る」
「は?どこへ?」
のとこに決まってるだろ」
「え、今から?!ちょ、ちょっと待ってよっ」

部屋を飛び出す私に驚き、硝子が追いかけて来た。

「ほんとに行く気?」
「明日の昼間にでも行こうと思ってたけど、がそんな事で悩んでるかと思ったら一晩中落ち着かないし眠れないだろ」
「えぇ?それはまあ…分かるけど…」
「とにかく彼女にはきちんと説明するから、硝子は心配しないで"くいだおれ太郎のチョコボール"でも食って寝ろ」
「あ!思い出した…五条のヤツ、チーズケーキって言ったのにあんなもん買ってきて…って――夏油!に宜しくねー!約束通り硝子にシバかれましたって言っておいて ♡」
「…………」

思わず足を止めて、硝子を睨むと、彼女は笑いながら手を振って、寮へ――多分悟の部屋に制裁を加えに――歩いて行った。

「ったく…理不尽すぎる…」

殴られた頬をさすりながら、私は溜息をつくと、ケータイを取り出し、仲のいい補助監督へ車を出してくれるよう電話をかけた。









「まだ寮につかないのかな…」

部屋の電気を消し、スタンドライトを付けた私は、夕方夏油くんから届いたメールを眺めながら、ふと時計を見た。
午後九時過ぎ。
さっき返信した後、まだメールが来ないという事は寮に着いていないという事になる。
あれから東京駅に着いて、そこから迎えの車で高専に戻れば遅くても八時過ぎには着いてるはずだ。

「着いたらメールしてって送ったけど…疲れてソッコーで寝ちゃったのかな…」

最近は毎日のように地方へ行ってはその足で別の街にも移動をしてたらしいから、それもあり得ると思いつつ、少し寂しい気持ちになった。
会いたいと思うのは私ばかりで、夏油くんはそうでもないのかな、なんてことまで考えて、どんどん不安になってくる。
たかだかメールの返事が遅いと言うだけで、そこまで考えて勝手に不安になってる自分にも少しだけ呆れた。

「ねえ、マリン…誰かを好きになると、みんな、こういう気持ち経験するのかな?ちょっとした事で幸せになるのに、次の瞬間にはまた不安になっちゃうなんて変だよね」

ベッドへ寝転がり、隣でゴロゴロ甘えて来るマリンを撫でながら、そんな事を話しかける。
一向に鳴らないケータイを見ていると余計に悲しくなり、無造作に放り投げた。
以前の私なら、モデルの仕事が休みの前日等、こうして空いた時間が出来れば、好きな映画を観たり、音楽を聴いたり、本を読んだり、元気があれば夕海を誘って買い物へ行ったり、いくらでもすることがあった。
なのに今は夏油くんの事で頭がいっぱいで、何もする気が起きないなんて、ほんと私はどうしちゃったんだろう、と怖くなる。

「人を好きになるって…難しいんだなぁ…」

ふとそんな事を思って苦笑が漏れる。
普通の高校生同士ならまだしも、相手が危険な仕事をしている呪術師ともなれば、恋愛初心者の私には少々ハードルが高かったのかもしれない。
任務であちこち出かけて行ってしまう上に、住んでるところが遠くてちょっとした遠距離恋愛だ。
せめて会いたい時にすぐ行ける距離なら良かったのに―――。
学校がなければ、あの別荘にずっと滞在したいくらいだった。

「早く春にならないかな…」

少しは時間が出来ると言っていた事を思い出し、そんな事を呟く。
ただ春になればモデルの仕事も再開する事になる。
それが少しだけ心配だった。

(というか…続けるかどうかだけでも早く決めないとな…)

事務所はこの春でなくなる事が決定している。
となれば他の事務所へ移籍する事になるが、玲子さんもそのつもりで今、条件のいい事務所を探してくれているようだ。
母も延期にしたショーを再開するべく、今は色々忙しく動き回っていて今夜も帰れないと連絡があった。

(モデルを続けたい気持ちはあるけど…今はまだ怖い)

あんな事があったせいで、また新しい人たちと仕事をしていく自信がない。

「なんて…こんなこと言ったら五条くんにまたバカにされそう…」

モデルをやめるな、と言ってくれた事を思い出し、苦笑が零れた。
まさかあんな事を言われるとは思わなかったけど、だからこそ、その気持ちが私には嬉しかった。
あと硝子ちゃんとも色んな話を出来るくらい仲良くなれた事も。
今日も硝子ちゃんにとっては、あまり聞きたくなかったであろう内容の相談を真剣に聞いてくれて、たくさん励ましてくれて、私としては本当に泣きそうになったくらい嬉しくて。
夏油くんはもちろんだけど、皆に会えて本当に良かった、と心の底から思った。
薄暗い部屋でそんな事を考えていたら、いつの間にか眠ってしまったようだ。
突然静かな部屋に鳴り響いたケータイの音で、私は不意に目が覚めた。

「ん…あれ…寝ちゃってた…?」

寝ぼけた頭で無意識に時計を見れば、ちょうど午後十時になるところ。
布団もかけず、ただベッドの上でうたた寝をしてしまったせいで、少し体が冷えていた。
暖房を強めに設定していて、さっきは暑いくらいだったが、寝た事によって体温が下がったようだ。

「さむ…っていうか、あれケータイどこ置いたっけ?」

鳴りやまない着信音に、慌てて起き上がると、ベッドの上に放置したままのケータイを見つけてすぐに手に取った。
そこで表示されている名前を見て、一瞬で目が覚める。

「嘘…夏油くん?え、今帰って来たのかな…」

そう思いながらも急いで通話ボタンを押す。

「…夏油くん?」
『あ、?良かった、まだ起きてて』
「あ、うん。ちょっと居眠りしちゃってたけど…夏油くんは今、高専に戻って来たの?遅かったね」

私がそう訊いた時、受話器の向こうからバイクの通る音がした。
同時にそれは私の家の前からも聞こえて、一瞬音が重なったような気がする。
小さな違和感に私が黙っていると、夏油くんは『いや…』と言って、

『今…の家の前。出てこれる?』
「えっ?い、家の前って…ほんとに?」
『一度、高専に戻ったんだけど…そのまま東京まで戻って来た』
「嘘…あ…ちょ、ちょっと待ってて?今行くから」
『ああ、じゃあ、待ってる』

そこで電話が切れ、私は急いでベッドから飛び降りると、すぐに下へ行こうとした。
が、ふと自分の恰好を見て、一瞬考える。
パーカータイプのふわもこルームウエアにインナーはキャミソールしか着ていない。
とはいえ着替える時間ももどかしく、私はパーカーのファスナーだけ閉めて、髪をチェックすると急いで部屋を飛び出した。
とはいえ榊さんはすでに寝ている時間―毎晩夜の九時には寝る―なので、階段は静かに降りる。
まさか夏油くんが来てくれるとは思わず、この不意打ちに心臓がドキドキして苦しい。
さっきまでメールの返事が来ない、と落ち込んでいたのが嘘みたいだ、と思った。

「…夏油くん?」

静かにドアを開けて、辺りを見渡すと、通りの向かい側から歩いて来る人影が見えた。
それが夏油くんだと分かった瞬間、笑顔になった。

、こんな遅くにごめん」
「ううん…てっきり来るのはメールかと思ったからビックリしちゃった」

そう言って彼を見上げると、夏油くんはいつものように微笑んだ。

「どうしても…に会って話したい事があって」
「え…話…?」
「実は…」
「あ…ここじゃ寒いから入って」
「ああ、でも…」
「あ、お母さんならいないから。また仕事で泊まりみたい」

気にする様子の夏油くんにそう言うと、彼らしい言葉が返って来た。

「いや、でもこんな時間だし、一葉さん不在の時に上がるのは気が引ける」
「え、でもお母さん、自分がいない時、夏油くんが泊まり込んでくれたら安心なんだけどって言ってたよ?ストーカーの事もあったし、私と榊さんだけじゃ心配みたいで」
「………それも…どうかと思うけど」

一瞬、呆気に取られたような顔をして、夏油くんは困ったように笑った。

「え、どうして?」
「いや……その、一応、私も男だし」
「…うん…え?」

言ってる意味が分からず、首を傾げると、夏油くんは更に苦笑いを零しながら、

「まあ…じゃあお言葉に甘えて。っていうかに風邪引かせるわけにはいかないしね」
「それは夏油くんだよ。今、忙しいのに。早く入って」

彼の腕を引っ張り、中へ入れると、榊さんを起こさないよう静かに部屋へ行った。

「今、紅茶淹れるね。あ、コーヒーがいい?」
「いや…紅茶でいいよ」
「じゃあ夏油くんは座ってて」

そう言いながら、電気ポットのスイッチを入れると、いつも寝る前に飲んでいる紅茶を二人分、用意する。
夏油くんはベッドの上で寝ているマリンを撫でながら、どことなく落ち着かない様子だ。
その姿を見て、話がある、と言っていたのを思い出し、少しだけ不安になる。
来てくれたのは嬉しいが、いきなり話があると言われれば、何となく悪い方向へ考えてしまうのだ。

「はい、熱いから気を付けてね」
「ああ、ありがとう」

テーブルに紅茶を置くと、夏油くんはソファに座り、ふと私を見上げた。

「ああ、そうだ。これ」
「え?」
「大阪で見つけたんだ。が好きだって言ってた天満切子」
「え?嘘…どうして…」
「お土産、かな、一応」

夏油くんが手に何か持ってるのは気づいていたが、まさか自分へのお土産とは思わず、驚いてしまった。

「お、お土産にしては高すぎない?」
「そう?が好きなものがいいかなと思っただけだよ」

夏油くんはそう言って笑うと、「開けてみて」と、"天満切子"と書かれた渋みのある袋を差し出した。
思わぬプレゼントに感動して、「ありがとう…」と言えば、彼も嬉しそうに微笑んでくれる。
中にはこれまた切子の名が刻まれた木箱が入っていて、私はドキドキしながら蓋を開けた。

「わ、これレッドクリスタル?」
「そうなの?私にはよく分からないから店員に色々聞いて、一番綺麗で目についたからそれにしたんだ」
「これ凄くいいガラス生地を使用してて口当たりもいいの。ありがとう、凄く嬉しい!」
「喜んでもらえたなら良かった」

私があまりに喜んでいるせいか、夏油くんは照れ臭そうに笑っている。

「あ、これセットだから、こっちの青いのは夏油くん専用にしよっと」
「え、あげた本人が使っていいの?」

そう言って苦笑する夏油くんに、「いいの」と私も笑う。
付き合ってる人とこんな風にお揃いのグラスを使う事に憧れてた、なんて恥ずかしいから言えない。
夏油くんの隣に座り、テーブルに赤いグラスと青いグラスを並べて、使うまでは部屋に飾ろうかな、と思った。
スタンドライトだけの明かりの中で、グラスがキラキラ輝くのがとても綺麗だ。
暫くその輝きを見ていたが、ふと、夏油くんが話があると言っていたのを思い出した。

「あ…そう言えば…話って何?」
「ああ…うん」

夏油くんはそこで少し言いにくそうに目を伏せたが、すぐに私の方へ体を向けて座った。
そんなに大事な話なのかな、とまた不安になってくる。

「何か…良くない話…?」

ここ最近あれこれ悩んでいたせいで、どうしても悪い方へ考えてしまう。
それが顔に出ていたのか、夏油くんはふと笑みをこぼし、静かに首を振った。

「いや…実はさっき高専に戻った時、硝子が待っていて少し話したんだ」
「硝子ちゃん?」
「今日、一緒にネイルサロンに行くって言ってただろ」
「あ、うん。硝子ちゃんの爪、見た?可愛くなってたでしょ」
「あ~まあ、うん。この際硝子の爪はどうでもいいんだけど…」(!)

夏油くんは苦笑気味にそう言うと、軽く息をつき、不意に真剣な顔で私を見た。

「硝子から聞いたんだ。が…私の事で悩んでるって…」
「え…えっ?」

思ってもみない内容で、心臓が大きな音を立てた。
硝子ちゃんに話した私の悩み、と言えば一つしかない。
そしてそれは―――。
思い当たった瞬間、私は顔が赤くなった。

(硝子ちゃんてば、まさか本当にあのこと言っちゃったの…?!それはあまりに恥ずかしすぎる…っ)

確かに私を悩ませている夏油くんを一発シバく、とは言っていたけど、まさか本当に話すとは思わず、私は軽くパニくった。

「え、あ、あのね、夏油くん、それは…」
「すまない」
「…え?」

唐突に謝られた事で少し驚いたが、夏油くんは本気で申し訳なさそうな顔をしていた。

「私の事情で…をそんなに悩ませてたなんて気づかなくて…すまなかった」
「夏油…くん…」

あまりに真剣な顔で言う夏油くんに、私はどうしていいのか分からず、少し戸惑った。
そんな私を見て、夏油くんは軽く息をつくと、

「私の…術式は知ってる?」
「え…?」
「呪霊操術、その名の通り、取り込んだ呪霊を自在に操る事が出来る」
「あ…うん…。前に五条くんが教えてくれた…けど…」

私の悩みの話から急に呪術の話になり、余計混乱していると、夏油くんは何か迷っているように視線を左右に動かした。
だが不意に顔を上げると、真剣な顔で私を見つめた。

「祓った呪霊を取り込む方法。それは…口から呪霊を飲み込む事で完了する」
「………え?」

(呪霊を口から…飲み込む?)

どういう理屈で取り込む事になるのかは知らないが、その方法は思ってもみないものだった。
ただ、あの恐ろしく不気味な化け物を、口から取り込まなければならない夏油くんの気持ちを考えると、術師ではない私でもその辛さを想像くらいはできる。

「驚いた…?」

夏油くんは驚いてる私を見て、ふと笑みを零した。

「私はもう慣れたが……術師でもないからすれば不快に思うだろ」
「…そんなこと…」
「だから…に触れるのが怖かった」
「え…?」
「というか…いつかその事を知られた時、にまでそんな不快な思いをさせるのは嫌だった」

夏油くんはそこまで言うと深く息を吐き出した。
相当言いにくかったんだろう、彼の表情はいつもと違い、どこか悲し気だった。
だけど、私は夏油くんのその気持ちこそが一番嬉しく思うのと同時に、少しだけ、腹が立った。

「ただ、その事でに変な誤解をさせた事は謝る―――」

彼がそう言いかけた時、私は考えるより先に腕を伸ばし、夏油くんの首に回すと、思い切り抱きついた。
そして驚いたように目を見開く彼の唇に、私から口づける。
恋愛初心者の私からすれば、かなり頑張った方だ。

「…?」

ゆっくり唇を離すと、夏油くんの戸惑ったような瞳と目が合う。
彼の顔が少しずつ歪んでいくのは、私が泣いているせいだ。

「何で…そんなこと言うの?そんな事で私が嫌になるとでも思ったの…?」
…」
「私は…夏油くんが呪霊を何体取り込もうと全然気にならない。夏油くんのものだったら何でも大切だもん。術式とかも未だによく分からないけど…でもそれが夏油くんの力なら私はそれも大切だよ?」

一気に自分の気持ちをぶちまけながら、私は夏油くんを見つめた。
どうしたら私の心の中を全て知ってもらえるんだろう。
こんなに好きになったのに、それさえ上手く伝えられていない気がして。
それが、一番腹立たしかった。

「……ありがとう」

不意に夏油くんが呟いた。
ハッと我に返った時、夏油くんはいつものように優しい笑顔で私を見ると、濡れた頬へそっと手を添えた。

「参ったな……。にはいつも驚かされる…」
「…え?」

どういう意味?と訊こうとした時、頬にあった夏油くんの手が滑るように動き、唇をなぞられた瞬間、僅かに鼓動が跳ねた。

「今度は…私から触れてもいい?」

その言葉で一気に頬が熱を持ち、どう応えようかと迷っていると、私の答えを待たずにその腕が私の首へと回る。
そして少し強引に引き寄せられ、唇を塞がれた時、彼の熱で心臓が止まるかと思った。
さっき自分からしたものとは全然違う、角度を変えながら優しく重なる彼の唇の熱で、頬が紅潮するのが分かる。
少しずつ啄むようなキスに変わり、鼓動が更に速くなっていった。

「ん…ふ…」

軽く唇を甘噛みされ、自然に声が漏れた事で恥ずかしくなる。
唇がこれほど敏感だなんて、知らなかった。
好きな人とのキスが、こんなにも気持ちのいいものだという事さえ、私は知らなかった。
気づけばソファに押し付けられるような態勢で、背もたれに頭を預けながら、幾度となく降って来るキスを受け止めるだけで精一杯だ。

「ん…」

不意に唇が離れたと思った時、首筋に甘い疼きが走った。
夏油くんは首筋に口付けながら、唇を下降させていくと、胸元のジッパーを少しずつ下ろし、露わになった肌にも口づけていく。
唇が触れた個所からくすぐったい感覚と、ピリピリとした疼きにも近い刺激が伝わって来るのを感じながら、中はキャミソールしか着ていない事を思い出し、恥ずかしさで軽く身をよじった。

「げ…夏油…く…んっ」

鎖骨から更に下りた唇が、ちゅっと音を立てて、同時にチクリとした痛みが走り、思わず声を上げた。
心臓が普段の倍は早くなっていて、体全体が熱を持ち、額に汗がジワリと浮かぶ。
この後の展開を想像すると、怖い気持ちと恥ずかしさで、かすかに体が震えてるのが分かった。
でも、不意に夏油くんは顔を上げると、私の唇へ触れるだけのキスを落とし、額をくっつけるようにして苦笑いを零した。

「心配しないでも…何もしないよ」
「……え」

心の中を見透かすような彼の言葉にドキっとして視線だけを上げれば、夏油くんは額にも優しく口づけた。

に触れたかっただけ。でも…これ以上、しちゃうと理性がもたないからやめておくよ」

夏油くんはそう言って笑うと、「、真っ赤だしね」と、言ってそっと私を抱き寄せる。

「そんな顔で見られると、ほんと無理なんだけど」

自分の胸に私の顔を押し付けるように抱きしめながら、夏油くんは困ったように笑う。

「え……ど…どんな顔してるの…私」

顔の熱が上がっているのは分かるが、今の自分がどんな表情をしているのか分からず、つい訊いてしまった。
すると、夏油くんは私の頭へ軽く口づけて、

「…今すぐ押し倒したくなるくらい…可愛い」
「………っ」

その言葉を聞いた瞬間、本当に顔から火が出たかと思うくらい赤くなったのが、自分でも分かった。
多分、体もかすかに跳ねて夏油くんにもそれが伝わったのか、彼は私の頬にもキスを落とし、

「そんな警戒しなくても」

と笑った。

「け…警戒…とかじゃなくて…恥ずかしい…だけだから」

そう言って彼を見上げると、夏油くんは明らかにドキっとしたような顔をしたが、すぐに苦笑いを浮かべた。

「だから…そういうとこ、ほんと困る」
「え…?」
「無意識にが私を煽るから」
「あ…煽…るって…そんなつもりは―――」

ない、と言おうとした瞬間、また唇を塞がれた。
驚いて目を見開けば、すぐにそれは離れ、強く抱きしめられる。

「…でも…大切にしたいんだ。が好きだから」

耳元で聞こえた彼のその言葉に、胸の奥が音を立てて、また涙が零れ落ちた。

「……泣かないでよ」
「だ、だって…」

困ったように笑う夏油くんは、あやすように私の頭を撫でる。
彼の優しい手が心地よくて、ゆっくりと目を瞑れば、夏油くんは小さな声で、「ありがとう…」と呟いた。
その言葉に、どんな意味が込められているのかを理解した時、本当の意味で私の気持ちが彼に伝わったんだと、心の底からホっとした―――。