【第九話】 小さな種-後編



高専の敷地にある庭の石階段に座り、太陽が沈んでいくのをただ眺めながら、私はぼんやりと空を見上げた。
だいぶ蒸し暑くなってきたせいで、湿気を帯びた風が吹くと、肌にまとわりつく感じが気持ち悪い。
もう夏なんだな、と思った。
夏は術師にとって、忙しい時期になる。

「夏油さーん」

声のする方へ視線を向けると、後輩の灰原が飲み物を買って戻って来た。
任務後だと言うのに、相変わらず元気な様子で走って来る。

「はい、これ」
「ああ、ありがとう」
「いえ、ご馳走様です」

たかだかコーラの一本奢ったくらいで、灰原は嬉しそうな顔でお礼を言って来る。
素直で無邪気な灰原を見ていると、少しは元気をもらえるような気がしてくるから不思議だ。

「いやあ、今日は夏油さんのおかげで任務が早く終わって助かりました」

私の隣に腰を掛けると、灰原は美味しそうにコーラを飲んでいる。

「大した事はしてないさ。それより…七海の体調はどうなんだ?」
「ああ、だいぶ熱は下がったってメールが。次の任務は行けるみたいですよ」
「そうか。なら良かったな」
「はい!でも僕としては夏油さんとまた任務ご一緒させて頂きたいですけどね」

灰原の気持ちが今はありがたいと思った。
私が微笑むと、灰原も照れ臭そうに笑い、一緒に空を見上げる。
だいぶ沈んだ太陽が、怖いくらい近くに見えて、私は軽く目を細めた。

「あ、いけね!これから報告書まとめないと」
「ああ、あれ面倒くさいよな」
「そうなんですよね~。でも今日は七海もいないし僕がちゃんとやらないと」
「頑張れよ?」
「はい!じゃあ、僕は先に戻りますね!コーラ、ご馳走様でした!」

ペコリと一礼した灰原は、また元気よく校内へ走っていく。
その後ろ姿を見送りながら、再び空を仰いだ。
任務中や誰かと接している時には忘れていても、こうして一人になると、自然に思い出すあの光景。
満足そうな笑顔を浮かべ、少女の亡骸を前にしながら、心底嬉しそうに拍手をしている信者たち。
あの醜態を、何度夢に見た事か。
私が守っているのは、あんな醜い生き物なのか、と虚しさに襲われる。
そのたび、あれはほんの一部なんだ、と言い聞かせ、そして、また答えの出ない迷路に迷いこむ。
何度思い返したところで、彼女たちはもう生き返らない。

「…………」

手にしたコーヒーの缶から流れた水滴が、私の指を濡らしていき、無意識に溜息が零れた。
プルタブを開け、少し温くなったコーヒーを飲みながら、ふとポケットに入れたままのケータイを取り出す。
から心配してるといった内容のメールが何通か届いていたが、未だに返信する事が出来ないでいた。
こんな気分のままじゃ、きっと二人でどこへ出かけても彼女を心配させると思うと、どうしても返事を送る事が出来なくて。
私の心に生まれた小さな疑問は、そんな日常にも影響している事を悟った。

(そろそろ部屋へ戻るか…)

そう思った時、門の方から話し声が聞こえて来て、ふと顔を上げた。
見れば硝子と悟が何やら言い合いをしながら歩いて来る。
また下らない事でケンカでもしてるのか、と思いながら立ち上がると、悟が私に気づいた。

「お帰り」

そう言って手をあげようとした瞬間だった。
悟はまっすぐ私の方へ歩いて来ると、思い切り顔を殴りつけて来た。

「五条…!!」

硝子の驚く声を聞きながら、後ろへ吹っ飛びそうになるのを何とか踏ん張り、留まった。
同時に口の中で鉄の味が広がる。

「何のマネだ、悟…」

口から流れる血を拭いながら、目の前の悟を睨む。
顔を合わすなり殴られる理由など、ないように思えた。
なのに悟の私を見る目には、怒りという感情がハッキリ浮かんでいる。

「何のマネ?はっ!それはこっちのセリフだよ」
「…何を言ってる。私が何か―――」
「…に連絡してないって?何でだよ」
「………っ?」
「約束したんだろ?あの任務が終わったら連絡するって。二人で出かけるって言ってたもんなぁ?」

悟の口からの名前が出たのも驚いたが、ここまで悟が怒りを露わにする理由が分からず、私は軽く息を吐いた。

「私たち二人の事に口を出されるのは不愉快だ。オマエらには関係ないと前にも言わなかったか?」
「あー関係ないね!関係ないけど、のあんな顔見たら言いたくもなんだよ!」
「…っ彼女に会ったのか?」
「あ?会ったから何だよ」
「ちょっと、五条…!落ち着きなって」

そこで硝子が間に入った。

から私に連絡が来たのよ。夏油からずっと連絡ないから心配だって…。それで…今日会いに行って来たんだけど…」
「……勝手な事するな。彼女にはそのうち―――」

そう言いかけた時、悟が胸倉を掴んできた。

「勝手なのはオマエだろ、傑…」
「離せ…」
「まだ引きずってんのかよっ?」
「離せよ…っ」

掴まれている腕を振り払うと、悟はその碧い眼で、射抜くように私を見据えた。

「そんなにツラいなら、あの時、意味がどうだとかゴチャゴチャ言わねーで、あの場にいた奴らぶっ殺せば良かっただろうが!!」
「………っ」
「なのにカッコつけて気持ちに踏ん切りつかないまま終わらせたから、そんな腑抜けたツラになんだよっ!」
「オマエには関係ない。これは私の問題だ。ゴチャゴチャ言われる筋合いはない。の事も―――」

言いかけた瞬間、また悟に殴られ、今度こそ植え込みの上へ倒れこんだ。
だが起きる前に悟がまた胸倉を掴む。

「オマエの問題だろーが何だろーがには関係あんだろ」
「…何?」
「俺たちに関係なくたってには関係あんだろ!オマエが今どう思ってるのか、それくらい聞く権利がアイツにはあんだろーがっ」
「悟……?」
「それすら話さないで自分だけツライみたいな顔してんじゃねーよ…アイツは、お前に自分は必要ないかもしれないって、そこまで思い詰めてんだよっ!」
「………っ」

必要ない―――?
その言葉を聞いて、胸の奥がじりじりと焼けつくような痛みが走った。
にそんな風に思わせてしまった事も、彼女の気持ちを思って私に怒りをぶつけて来る悟の本心にも、気づけなかった事に後悔した。
自分の中の信念が揺らいだ事で、傍にいる大切な存在すら見えなくなっていたなんて。
何も言い返せない私を見て、硝子が歩いて来た。

「夏油…はアンタがツライ思いをしてるんじゃないかって心配してる。でもそんな時に連絡絶たれちゃ自分は必要ないって思うのも仕方ないよ…。だってそういう時こそ甘えて欲しいって思うんじゃない?好きな人にはさ」
「…硝子…」

ハンカチを差し出しながら、硝子は真剣な顔で私を見ていた。

「…そう、だな…。ほんと…何故気づかなかったんだ…。私はただ…こんな気持ちのままで会ったとしても、を心配させるだけだ、と…。いや…見せたくなかったんだ…こんな自分を」

そこで初めて自分の本音が零れた。
私の中にあった弱者を守るという強い信念が、あの悪夢のような光景に侵され、心に疑念と言う小さな種を植え付けた。
その種から伸びた負の感情が細かく枝分かれし、私の中に根付いていくような恐怖。
自分が自分でなくなるような、そんなおぞましい感覚に心を支配された弱い自分など、彼女に見せたくはなかった。

「ありがとう…悟、硝子…」
「チッ。やっと素直になりやがった」

悟は呆れたように言うと、

「俺、言ったよな?アイツ泣かすなって。約束破んじゃねーよ」
「ああ…」

私は苦笑しながら硝子のハンカチを受け取り、血を拭った。
そして、二人に「のところへ行って来る」と言って歩き出そうとした、その時。

「あーそれなんだけど…さ」

その声に足を止めると、悟は頭をかきつつ、門の方を指さした。

「実はもう、来てんだよね、
「……は?」
「俺が無理やり連れて来ちゃったし?」
「む、無理やりって……」

呆気に取られながら門の方へ視線を向けると、篠田さんと一緒にが歩いて来るのが見えて、大きく鼓動が跳ねた。

…」

彼女は私に気づくと、一瞬足を止め、泣きそうな顔で俯いたと思った瞬間、踵を翻した。

!」

私から逃げるように走っていく彼女を追うと、すぐにその腕を掴まえ、自分の方へ引き寄せた。
強引に振り向かせれば、の瞳から涙が零れ落ち、何かを言いたげに揺れている。
その顔を見て、私は自分の情けない気持ちを押し隠すように、彼女を強く抱きしめた。

「連絡できなくて…すまなかった…」
「夏油…くん…」
「……会いたかった」

を抱きしめて、一番最初に思った事を口にした。
心に生まれた小さな疑念が、いつしか大きな歪みとなり、私の心を蝕む事になるなんて、この時の私は思いもしなかった。
今はただ、彼女の温もりに癒されたくて、その僅かな違和感に、気づかないふりをした。








「どうやら上手くいったみたいね」
「ああ、ったく世話の焼ける…」

抱き合う二人を遠くで見ながら、私は呆れたように笑う五条を見上げた。
あの時、夏油に会いに行くのを拒んだを、「やっぱり会って話せ」と説得し、半ば強引に連れて来たのはコイツだ。
ゴチャゴチャ言ったところで、お互い、顔を見てしまえばどうとでもなる、と分かっていたのか、いないのか。

「でもあんなに殴らなくたって良かったんじゃない?」
「あ?オマエも殴りたいつってたろ」
「そりゃそうだけど…さ…。夏油も色々ツラかったんだろうし…」
「あれくらいしねーと傑は素直にならねーよ」

五条は苦笑いを浮かべると、「腹減ったー」と言いながら、サッサと寮へ戻っていく。
その後ろ姿を見ながら、私はさっきあった違和感をぶつけてみる事にした。

「ねえ、五条」
「何だよ」
「アンタ…何であんなにキレたの?」
「は?キレてねーし」
「キレてたよ。いつものアンタらしくない」
「そうか?まあ…いつまでもウジウジしてる傑にイラついてたからな」
「それだけ?」

私が尋ねると、五条は訝し気に振り返った。

「どういう意味?」
「だって…アンタ、明らかにの為に怒ってたよね」
「……そりゃ…あんな泣き顔見せられたら何かこう……イラっとしたし」
「イラって…」
「傑にあれだけ泣かすなって言ったのに、ソッコー泣かしてるし、それもイラっとしたんだよっ」
「ふーん…」
「何だよ?その顔」

思い切り目を細めた私を見て、五条も同じような顔をした。

「アンタさ、何でそんなこと夏油に言ったわけ?が泣いてたらアンタも困るの?」
「困る…っつーか……やっぱ見たくないだろ」
「何で?」
「何で?何でって…オマエだってそうだろ」
「そうね、私もが泣いてる顔は見たくない。だって大切な友達だもん」
「だろ?」
「……って事はアンタも同じようにの事を大切に思ってる…って事でOK?」

まるで誘導尋問のような流れで問い詰めると、五条はハタっと立ち止まった。

「…大切…?」
「そういう事でしょ?」
「………」

私の質問に、五条は何かを考えるような仕草をして、暫く黙り込んだ。
が、不意に私を見ると、徐に顔をしかめて、

「わかんねーよ、そんなこと。考えた事ないし。ただ……」
「ただ?」
っていっつもキャンキャンうるせぇじゃん」
「…それは五条にだけだと思うけど」
「オマエもたいがいうるせーな…。つか、だから、そのうるさい奴があんな切なそうに泣いてる顔って何か……」
「…何か?」
「………気持ち悪くない?」
「は?」
「こう、モヤモヤするっていうか、あんまいい気分にならないっていうか…。アイツはさ…キャンキャン言いながら笑ってる方がいーかなって…思う」

五条は首を傾げながら再び歩き出すと、「まあ、そんな感じ」とだけ言って寮へ入っていく。
その背中を見ながら、五条の良く分からない言い分を脳内で反復し、首を傾げた。

(モヤモヤする…気持ち悪いって結局のところ、五条の中ではが泣いてると、嫌な気分になるって事よね…?で、何で嫌な気分になるかと言うと…)

と、そこまで考えた私は思わず声を上げそうになった。

(え、嘘でしょ…?まさかね…。ああ、私と同じって事は、五条もの事を大切な友達って思ってる…のか?なるほど…って、それも意外なんだけど)

五条は非術師に対して特に面倒くさい以外の感情は持ってない奴だと思ってた。
アイツは生まれた時から無条件に強くて、だから弱者の気持ちなんか微塵も分からない。負けた事がないんだから当たり前だ。
非術師に気を遣って戦闘しなきゃいけない事をむしろ面倒だと思ってるところすらある。
そして今回の件でアイツは一人でも最強になり、一瞬でも非術師を殺そうとまでした。
例えば許可さえ下りれば、周りに非術師がいようと制御しないで、あのヤバイ力を平気で使うまで考えられる。
それくらいモラルがなくて、危険な面もあるのは事実。
五条の善悪の基準、それは夏油の善悪であり、彼本人のじゃない。
夏油の善悪で、五条は物事を判断し、考え、動いてるところがある。
言い換えれば、夏油がモラルを失えば、五条を制御するものがなくなる、という事だ。

(そんな男が一人の、それも非術師の女の子の涙でモヤモヤする?私的にはそんなオマエが意外で気持ち悪いわっ)(!)

一瞬ぶるっと身震いして、私は思い切り顔をしかめた。

「だけど…そういうアイツは嫌いじゃないな、意外ではあるけど」

誰よりも強く、人より数倍何でも出来て、一見完璧に見える五条でも、一つだけ足りないもの。
最強でありながら、自他ともに認めるほど性格が悪い五条が、唯一人間らしい優しさを持てるなら。
私はそれを与える事が出来るのは夏油だと思っていた。
でも今、それもまた、少し違うと感じる。
術師としてなら夏油が隣にいる事は正しいのだろうが、術師の前に私たちは人間なのだ。
敵から化け物、と称される五条が、唯一足りない"人間らしさ"。
どんな感情であれ、それを埋めてくれる"誰か"がいるなら、五条は変われるかもしれない。

(…もしがその"誰か"になり得るなら…それはそれで…)

と、そこまで考え、ふと思った。

「……まさか…ね。そうなったら色々と問題あり、だぞ?すでに人のものなんだし」

私と同じ感情ならいい。
だけど、それとはまた違う、別の感情なら。
そこに気づいた時―――アイツはどうするんだろう?