【第十話】 月は見ていた-前編





2007年8月―――。



「―――えっ?!嘘、でしょ?まだ?!」

ついポロっと口から洩れた私の言葉を聞いて、硝子ちゃんは驚愕したように振り返った。

「ちょ、ちょっと硝子ちゃん、声が大きい…っ」
「え、だってまだプラトニ―――」
「わーっ!!」

慌てて彼女の口を塞ぎ、後ろを振り返れば、夏油くん達は戻っていなくてホッとした。
そこで口を塞いでいた手を離すと、硝子ちゃんは目を丸くしたまま未だに固まっている。

「そ…そんなに驚かなくても…」
「い、いや、フツー驚くでしょ…。一年ちょっと付き合ってて、まだキスどまり、なんて聞けば」
「う……だ、だって…」
「キスしてくれないって時とは違って、今回はそういった相談もないから、てっきり私は二人がもうそういう関係なんだと思ってたけど…」

硝子ちゃんの指摘に言葉が詰まり、顏が赤くなった。
私だって一年も付き合ってるのにプラトニックなんて変かなって思うけど、実際そうなんだから仕方ない。
溜息をつきつつ、日差しが強くなった気がして、私は手にしていた麦わら帽子を頭にかぶった。

「そもそも呪術師が忙しいのがいけない…。ゆっくり会う時間も少ない上に休みも殆どなくて、出張とかが多いし」
「あーまあ、確かにアイツら特級になってから一気に任務が増えたしね~。え、でもそれにしたって二人きりの時間は全くないわけじゃないでしょ?普段どうしてるの?」
「普段は私の家で会ったり、時間ある時は外でデートもするけど、あまり長い時間は取れないっていうか…。そもそも高専が遠いのも悪い。ちょっとした遠距離恋愛だもん」
「あ~まあ確かに。でもの家で会ったりしてるなら、そんな雰囲気になりそうなもんだけど…」
「ウチには榊さんがいるし…そういう雰囲気になったとしても何か落ち着かないっていうか…夏油くんも同じだと思う」
「あー榊さんか!まあ、確かにそういう気持ちも分かるけど…夏油のヤツ、よく我慢してるな。かわいそ~」

硝子ちゃんはそんな事を言ってケラケラ笑っている。

「笑いごとじゃないよ…。今日だって、ゆっくり会うのは一か月ぶりなんだから」
「そうよね~。今年に入ってから特級案件が各地に出て、夏油も五条もそれぞれであちこち飛び回ってたし。あ、でも今日はこっちの別荘に泊まるんでしょ?」
「うん。学校は夏休み入ったし、夏油くんが久しぶりに任務が入ってないって言うから、仕事を別の日にしてもらって、私がこっちに来ちゃった」

朝から別荘に移動し、今日は夏油くんも任務もなく、特級術師には授業といった授業もないという事で、こうして高専に遊びに来ている。
夏油くんと五条くんは今、飲み物を買いにコンビニまで行っていて、それを待ちながら硝子ちゃんとお喋りをしていたが、

「今日は二人とも久しぶりだし燃えそうだね、エッチ」

なんて、からかわれて、「ま、まだしてないもん」、と、つい余計な事をバラしてしまい、今に至る。

「あ、じゃあ…今日こそチャンスって感じじゃない?」
「え?」
「だって別荘には一人で来たんでしょ?」
「うん。明日には帰るし、一泊で移動させるのは可哀そうだからマリンは置いて来たの」
「いや、マリンじゃなくて、今回は榊さんも来てないんでしょ?だったら今夜は完全なる二人きりじゃない?」
「…あ、そっか。そうかも…!」

硝子ちゃんに言われてドキっとした。
去年の夏休みや冬休みは少しでも夏油くんの近くにいたくて、別荘に二週間ほど滞在したけど、その時は食事などが心配だと言って榊さんも一緒について来たのだ。
でも今回は私も仕事があり、夏油くんも明日にはまた出張という事で、一泊だけにしたから別荘には一人で来ることになった。

「って事は、ひょっとしてひょっとするかもよ?」
「えっ?」
「だーって夏油も今夜別荘に泊まるんでしょ?」
「う、うん…。また明日からしばらく会えなくなりそうだし。ほら、私もショーの準備に入るから」
「あ…それもあったね!遂に開催するんだっけ!」
「うん。だから私も夏休みは他の仕事も含めて色々忙しいんだ」

一昨年の冬、夕海の事件で延期になっていた一葉・十周年のファッションショーも今年の秋に開催される事が決まり、母も今はその準備で大忙しだ。
玲子さんもすっかり元気になり、今はアシスタント兼秘書として母を支えてくれていた。
私も新しい事務所に慣れて来たところで、今は小さなコレクションに出たり、主に雑誌の仕事をやっている。
それと同時に、玲子さんの事務所にいた頃に決まっていた写真集の仕事も、今年の秋に撮影に入るため、私も何だかんだ忙しかった。

「じゃあ今夜は貴重な時間ってわけだ」
「そう、なるかな」
「じゃあ…やっぱり今夜ね、やるなら」
「やっやるならって…」

ニヤリと笑う硝子ちゃんに、顏が赤くなる。
一度意識してしまうと、変な緊張感でドキドキしてきた。
この一年、二人の関係がなかなか進まなくて、多少考えた事はあったが、キスをしてくれない、と悩んでた頃よりはまだ思い詰めたりする事もなく。
やっぱり心のどこかでまだ怖い、という気持ちも少なからずある。

「でもなあ…夏油とがそういう関係になるって何かやっぱり私は嫌だなぁ」(!)
「え…」
「だって、初めてでしょ?前に言ってたじゃない。憧れてた人に襲われそうになって怖い思いしたから、今もまだそういうのは怖いって」
「う、うん、まあ…」

高居さんとの事は以前硝子ちゃんに話してある。
モデルと言う派手な仕事をしてるわりに経験がない事を驚かれたのもあり、心のうちを明かしてしまったのだ。
もちろん、その事は夏油くんに内緒にしてもらっている。

「そのオッサンカメラマン、私がシバきに行こうか?」

と、硝子ちゃんは本気で怒ってくれて、その気持ちが凄く嬉しかった。

「あの時はほんと子供だったから…。でも夏油くんは優しいから、もしそうなっても怖くないかなぁ、とは思ってるんだけど…」
「私は夏油がの初めての相手になるって思うと、無性に腹が立って悔しいやら悲しいやら…」
「しょ、硝子ちゃん…っ声が大きいよ…」

一応、ここは高専の敷地内で、時折教師らしき人や補助監督といった人たちも通る為、私はだんだん恥ずかしくなってきた。
ただでさえ部外者の私はこの空間で浮いているのだ。

「私は…その…そんなに焦ってないし…」
「そうなの?」
「うん…。それに…夏油くんもまだ一年前のこと、完全に吹っ切れたわけじゃないと思うから、今はただ精神的に支えてあげたいなあって気持ちの方が強くて」
「え、アイツ、まだあの事悩んでるの?」
「悩んでるって言うか…夏油くんがそう言ったわけじゃないけど、時々暗い顔で考え込む事が多くなった気がして…様子がおかしいって言うか」
「マジ?気づかなかった…。ああ、でも言われてみれば確かにそういう事もあるかも。私はてっきりに会えなくて凹んでるのかと思ってたけど」

硝子ちゃんがそう言って笑っていると、ちょうど二人が戻って来るのが見えた。

「あ、か、帰って来た…!硝子ちゃん、この話は五条くんに内緒ねっ!バレたらまたからかわれちゃうし」
「え?ああ…二人がまだエッチもしてないって話?」
「しー!聞こえちゃうからっ!」
「あはは、真っ赤で可愛い!もちろん五条には言わないってば」
「俺に何を言わないって?」
「――――ッ」

背後から五条くんの声が聞こえて、慌てて振り向けば、不機嫌そうに顔を覗き込んでくる。

「え、えっと…」
「何だよ、二人して。俺の悪口でも言ってたわけ?」
「ち、違うけど…」

訝し気に目を細めて見て来る五条くんに、つい顔が引きつってしまう。
そこへ夏油くんが歩いて来た。

、これで良かった?」

頼んでおいた無糖の缶コーヒーの銘柄を見せられ、私は「あ、これこれ」と、それを受け取った。

「ありがとう」
「私も同じのにした。これって新発売のやつ?」
「うん、芽衣ちゃんに教えてもらったんだけど、缶コーヒーにしては香りが良くて美味しいからハマってるの」
「ああ、芽衣ちゃんって前に学校で会ったクラスメートの子?」
「あ…うん。そう」

そう言ってから少し後悔した。
夏油くんと芽衣ちゃんが会ったのは、あの任務の時だったから。
あの時の事はあまり思い出してほしくなかった。

「傑~。俺のプリンはー」
「オマエのオヤツは多いからこっちの袋。どんだけ食べる気だ?」
「目移りしたから全部買った。今はプリン食いたい」

会話に五条くんが入ってきたことで話題がそれてホっとした。
彼はコンビニの袋から甘そうなクリームたっぷりのプリンを取り出し、付属のスプーンで美味しそうに食べ始めた。
相変わらずの甘党ぶりで、内心苦笑してると、五条くんは不意にこっちを見て、

も食べる?」
「え?あ…ありがと。でも今はダイエット中なんだ」
「ダイエット?!する必要あんのかよ。そんな痩せてて」
「秋には写真集やショーの仕事があるから平均体重をキープしなくちゃダメなの。それで今から調整中」

溜息交じりで言えば、五条くんは「かわいそ~」と言って笑っている。
その憎たらしい顔を見て目を細めていると、夏油くんがふと思い出したように、

「あ、そうだ。これ、が載ってたから買って来た」

と袋からファッション誌を取り出した。

「あ、これ春に撮影したやつだ」
「えぇっ。!ちょっと夏油、見せて!」
「おい、硝子…」

夏油くんがめくっている雑誌を、硝子ちゃんが横から奪っていく。

「きゃーっ!、カッコいい!ね、これ夏の新作の口紅だよね?」
「うん。あ、発売前にたくさんもらったのあるから、今度硝子ちゃんにもあげるね」
「え、いいの?やったー♪」
「あんなにもらっても使いきれないし。色も結構あるから好きなのあげる」

今日持ってくれば良かったな、と思っていると、五条くんは硝子ちゃんが見ている雑誌を覗き込み、ニヤリと笑った。

「それ硝子がつけんの?似合わねー」
「黙れ、五条」
「そもそも口紅つけたってデートする相手もいないんじゃね~」
「はあ?アンタだっていないでしょーが」
「俺ぇ?俺はいるけど?デートの相手くらい」
「はぁぁぁ?!」

得意げに言い放つ五条くんに、硝子ちゃんが驚いたように声を上げた。
そして夏油くんも「マジで?」と驚いているところを見ると、二人とも知らなかったようだ。
私もビックリはしたものの、何だかんだで五条くんがモテるのは知ってるから、二人ほどの驚きはなかった。

「い、いつの間にそんな相手見つけたわけ?」
「いいだろ、別に。出会いなんてそこら中に転がってる」
「げー!どーせ猫かぶって相手騙してんでしょ」
「は?俺だって可愛い子には優しいんだよ」

五条くんはふふんと鼻で笑うと、硝子ちゃんはショックを受けたのか、膝落ちして「ご、五条に負けるなんて」と項垂れている。(そんなに?)
そんな二人を見て、夏油くんは笑いながら、硝子ちゃんの前にしゃがむと、

「硝子も早く彼氏くらい見つけなさい」
「……余計なお世話よ!」
「…こわ」

ジロっと睨まれ、夏油くんは私のところへ避難して来た。

「アイツ、この話題になると狂暴になるからな」
「きょ、狂暴って…。まあ、いつも五条くにょり先に恋人見つけるって言ってたもんね」

硝子ちゃんはふらりと立ち上がると、石階段へ腰を掛け、「そもそも出会いもないのにどうやって見つけろと?」とブツブツ言っている。
その姿を見て、私はふと思いついた。

「硝子ちゃん。今度ウチの事務所でちょっとしたパーティあるんだけど、硝子ちゃんも来ない?」
「えっ?パーティ…?」
「うん。今度の事務所は男の子も多いから出会いもあるかもよ?それに他にもタレントさんとかアイドルとか呼ぶみたいだし」

そう言って硝子ちゃんの隣に座ると、彼女は途端に瞳を輝かせて私に抱き着いて来た。

「行く!絶対行く!ありがとー!!」

と、そこに五条くんも話に入って来た。

「えー俺も行きたい、そのパーティ」
「黙れ、五条!デート相手がいるオマエには関係ないだろっ」
「はあ?出会いなんかあればあるほどいいじゃん。なあ、そのパーティ、アミちゃん来ないの?」
「ああ…どうかなぁ?グラビアの子はちょっとわかんないけど…つて、五条くん、それ彼女に怒られるやつ」

呆れたように言えば、五条くんは笑いながら肩をすくめた。

「別に彼女じゃねーし」
「えっ?でもデートしてるんでしょ?」
「デートはデートだろ。付き合うとなれば話は別」

五条くんはそう言って意味深な笑みを浮かべた。
どういう意味だ?と思っていると、夏油くんは呆れたように、五条くんの頭を小突いた。

「そういう話はの前でするなよ、悟」
「へいへい。男女の事にはお子ちゃまのに言っても分からないよなぁ」
「む…誰がお子ちゃまよ」

良く分からないがバカにされたのは分かる。
ムっとして五条くんを睨むと、彼は苦笑しながら新しいプリンを食べ始めた。

「ねね、それよりパーティってどんな格好で行けばいいの?」
「ああ、立食パーティだからカジュアルな感じだよ?今度買い物でも行く?」
「うん。あ、じゃあに選んでもらおうかな~。いい?」
「もちろん」
「やったーありがとー♪」

喜んでる硝子ちゃんを見てると、私もつられて笑顔になる。
そこへ夏油くんが不満げな顔で隣に座った。

「そんなパーティにも行くの?色んな男が来るなら心配」
「え…?」

ドキっとして顏を上げると、夏油くんは苦笑しながら、

「硝子に紹介するのはいいけど、も声かけられるだろ、絶対」
「ま、まさか。それに私、付き合ってる人がいるって言ってるし…」
「言ってるって事は…すでに声かけられてるって事だろ?」
「………」

軽く目を細める夏油くんに、私は一瞬言葉に詰まった。
すると隣で聞いてた硝子ちゃんが立ち上がり、夏油くんの隣に座り直すと、

「妬くな、妬くな」

と肘でつついてからかっている。
それには夏油くんも嫌そうな顔で溜息をついた。

「妬くっていうか…私は心配なだけ。前にも変な男に付け回されてた事があるんだから当然だろ」
「あ、あったねー!あ、でも私がきっちりは護衛するから、夏油も安心して、私に出会いがある事を祈ってて」
「はあ…。どうせイケメンに囲まれたらを放ってそっちに行くだろ、オマエ」
「む…そ、そんな事は…ないわよ」

硝子ちゃんは目を泳がせながら、「多分…」と口ごもる。
それを見て軽く吹き出すと、

「大丈夫だよ。私もあれから気を付けてるし、パーティは極力女の子と一緒にいるから。心配しないで?」

そう言って夏油くんの顔を覗き込むと、彼は困ったように微笑んで私の頭に手を置いた。

がそうでも相手側の問題だから。まあ、なるべく遅くならないようにして」
「う、うん。分かってる」

そう頷くと、夏油くんは優しく微笑んでくれた。
と、そこへ二つ目のプリンを平らげた五条くんが、ふと思い出したように歩いて来る。

「あーそうだ。傑と硝子さー。ちょっと実験付き合ってくれる?」

「何の?」
「術式効果で試したいことあんだよねー」

五条くんは楽し気に言うと、ポケットから消しゴムと万年筆を取り出した。

「何それ。そんな物で何の実験?」

硝子ちゃんが訝し気な顔で万年筆を摘むと、五条くんはニヤリと笑った。

「硝子がそれで、傑はこっち。俺に向かって思い切り投げてみて」

五条くんは消しゴムを夏油くんに放ると、二人から距離を取って振り返った。
何の実験をするのか分からず、石段に腰を掛けながら私は見学する事にした。

「いっくよー」

硝子ちゃんが万年筆を持ち上げて合図をすると、夏油くんも消しゴムを構え、二人同時にそれらを五条くんへと勢いよく投げる。
すると万年筆は五条くんの顏に当たる直前で止まり、消しゴムだけコツンと額に当たって落ちた。

「うん、いけるね」

五条くんが満足そうに頷いたが、私にはサッパリ分からない。
彼の術式は護衛されていた際、簡単に説明された事があるものの、未だに全部は理解できていない私は、その光景に内心驚いていた。

(無限がどうのって言ってたけど…ほんとに当たらないんだ…。でも消しゴムだけ当たってたけど、何で?)

そう思っていると、硝子ちゃんも同じ気持ちだったようで、「げっ何、今の」と驚いている。
でも夏油くんだけは分かったようだ。

「術式対象の自動選択か」
「そ」

五条くんは頷くと、落ちたペンと消しゴムを拾って二人を見た。

「今までマニュアルでやってたのをオートマにした。呪力の強弱だけじゃなく、質量、速度、形状からも物体の危険度を選別できる。
毒物なんかも選別できればいいんだけど、それはまだ難しいかな。これから最小限のリソースで無下限呪術をほぼ出しっぱに出来る」
「出しっぱなし、なんて脳が焼き切れるよ」

硝子ちゃんがそう言うと、五条くんはニヤリと笑い、

「自己補完の範疇で反転術式も回し続ける。いつでも新鮮な脳をお届けだ」

その説明を聞いても、私にはマニュアルだとかオートマだとか、彼の無下限呪術が凄い、という事しか分からなかった。
ふと夏油くんを見れば、彼は理解してるんだろう。
真剣な顔で五条くんの話を聞いている、
ただ、彼の表情が、どこか暗いのが少しだけ気になっていた。