【第十一話】 願わくば




"すまない…"

何度も、何度も、あの時の彼の言葉を思い返しては、胸が痛む―――。


「―――丈夫?……?」
「…え?」

名を呼ばれ、ハッと顏を上げれば,硝子ちゃんが心配そうに私を見ていた。
同時にカフェ内の賑やかな音が耳に入り、自分が今どこにいるのかを思い出して、慌てて笑顔を作る。

「だ、大丈夫。ごめんね」

あの夜から二週間。
今は硝子ちゃんと約束した買い物をする為、渋谷に来ていた。
一通り服や靴などを買った後、このカフェに入って休んでいるところだ。

「ほんと大丈夫?、顔色あまり良くないよ?」
「…ちょっと寝れなくて」
「分かるけど…。でも夏油、ただ体調悪かっただけなんでしょ?そんなに気にしなくて大丈夫だって」
「うん…」

あの夜の事は硝子ちゃんに話してある。
一人で悩んでいても不安が膨らむだけで怖くなったからだ。
初めて彼に抱かれてもいい、と覚悟をした夜だった。
でも、直前で夏油くんは様子がおかしくなり、私の前から突然いなくなった。
何度電話しても留守電に切り替わり、連絡が来たのは次の日の昼過ぎだった。

「本当にすまない。急に体調がおかしくなって…。また時間が出来たら会いに行くよ」

夏油くんはそう言ってくれたけど、私はどこか釈然としないものを感じていた。
こんな事は今まで一度もなかった。

「夏油くん、いつもと変わらない感じ?」
「ん~。ちょっと元気ないかな、とは思う。でも本人に聞いても夏バテだとしか言わないし、忙しいから疲れてるってのもあるのかも」
「そっか…。何か心配で…」
「大丈夫よ。夏油は浮気なんてしてないって。きっとと遂にデキると思ったら興奮しすぎて体調崩しただけだよ」(!)
「しょ、硝子ちゃん…声が大きいってば…っ」

豪快に笑いながら、とんでもない事を言い出した硝子ちゃんに、思わず顔が赤くなった。
それでも硝子ちゃんは意味深な笑みを浮かべながら身を乗り出して来た。

「でも最後まではしなくても途中まではいたしたんでしょ?どうだった?」
「な…ななな何が?」
「あははっ!そんな真っ赤になってどもんなくたって。だから~どんな感じだったのかなぁと思って」
「ど…どんな感じって言われても……恥ずかしいのと怖いのとでテンパってて私も良く覚えてないっていうか…」
「えーっ覚えてないなんてある?」
「だ、だって、あんなことするの想像以上に、ほんと恥ずかしいんだってばっ」
「そんな恥ずかしいことされたんだ」
「………っ」

まるで誘導尋問のように追及され、私は顔が真っ赤になった。

、真っ赤になっちゃって可愛い」
「か、からかわないでよ…」

楽し気に笑う硝子ちゃんを睨みつつ、顏の熱を下げようとアイスティを一口飲む。

「まさか変態プレーとかされてないよね?」
「ま、まさか!夏油くんは凄く優しかった―――」

と、そこまで言いかけ、言葉を切った。
硝子ちゃんが不満げに目を細めたからだ。

「夏油の野郎…私のに優しくエロいことしたなんて、やっぱり許せないな…」
「しょ、硝子ちゃんっ」

面白くなさげにボヤく硝子ちゃんに更に顔の熱が上がってしまった。
硝子ちゃんは凄く応援してくれてるようで、たまに相反する事を言うから困ってしまう。
彼女にしてみると、その辺は色々と複雑らしく、私の為に応援したい気持ちは凄くあるけど、相手が夏油くんだと思うと無性に腹が立ってくるらしい。(!)

「まあでも優しくしてくれようとしたなら、ほんと何も心配することないよ。涼しくなって任務も減ってきたら体調も戻るんじゃない?」
「だと…いいんだけど…。はあ…次はいつ会えることやら」

溜息をつきながら外を眺めていると、硝子ちゃんが「あ、そうだ」と言って、また身を乗り出した。

「夏油、今日は早めに終わるみたいだし、私と一緒に高専来る?今から行けば夕方には着くから夜は一緒にいれるじゃない」
「行きたいけど…明日は早朝から仕事が入ってるんだぁ…。学校もあまり休めないから来週は余裕ある時に行かなきゃだし」
「あ~そっか。も忙しくなってきてるもんなあ」
「うん…ちょっと私も夏バテ気味だから体調管理も気を付けなくちゃいけないし」

そう相槌を打ちながら溜息をつく。
考える事が多くて、最近は本当に眠れていないせいか、この暑さも相まって地味に体がキツかった。

(夏油くんのことも心配だし…早く任務が楽になってくれないかな…)

そう思いながら、窓の外に見える太陽を見上げ、僅かに目を細めた―――。







「あ、夏油さん!」

明るいその声に、ふと顔を上げれば、そこにはニコニコしながら後輩の灰原が立っていた。

「灰原…」
「お疲れさまです!」

この自販機コーナーに飲み物を買いに来たのか、灰原は笑顔で私の方へ歩いて来た。

「何か飲むか?」
「えぇ?!悪いですよ…!コーラで!!」

遠慮をしたかと思えば、次の瞬間には好きな飲み物を告げる灰原に思わず笑みが零れた。
ひたむきな性格で根っから明るい灰原の存在は、私にとっても救いになっている。

「ほら」
「ありがとう御座います!頂きます!」

コーラを買って渡すと、灰原は笑顔でそれを受け取り、私の隣へと腰を下ろした。

「夏油さん、今日は早かったんですか?」
「ああ。現場が近かったしね」
「あ、じゃあ今から彼女さんとデートとか」
「…いや。今日は硝子と買い物へ行ってる」
「え、家入さんと?そう言えば仲良しなんでしたね。この前も一緒にいたし」

その言葉を聞いて、ふと灰原を見た。

「ああ、この前ここ来た時に会ったんだって?私と悟がちょうどコンビニへ行った時だったか」
「はい!ちょうど通りかかったんですけど家入さんに挨拶したら隣に知らない女の子がいて。夏油さんの彼女さんだって聞いて飛び上がりました」
「飛び上がる…?」
「綺麗な方で驚いたって意味です」

訝し気な顔をした私に、灰原はそう言って明るく笑う。

「モデルさんって聞いて納得しましたよー。めちゃくちゃスタイルいいし、凄く優しくて可愛らしい彼女さんだったから夏油さんが羨ましいなあ」
「灰原は彼女いないのか?」
「いませんよ!術師やってると、なかなか出会いが…。夏油さんと彼女さんは任務で知り合ったんですよね。僕も可愛い子から依頼こないかな」

真剣な顔でそんな事を言う灰原に思わず笑う。
確かに、あの護衛任務がなければ。
いや、あの夜、悟がコンビニに行きたい、と言い出さなければ。
先に帰ろうとして、私があそこを通りかからなければ。
どれか一つでも欠けていたら、私は彼女に出会えていなかった。

一緒に過ごすうち、ゆっくりと彼女を好きになった。
大切な存在になったはずだった。
なのに、酷い事をして、傷つけた―――。

"夏油くん…大丈夫?"

あの次の日、私が思い切って電話をすると、は開口一番そんな事を言ってきた。
あの場から逃げ出した私を責める事もせず、むしろ私の体調を酷く心配していた。
それが、逆に辛かった。
自分でも、どうしてあんな事をしてしまったのか、分からないからこそ、苦しくなった。

未だに幾度となく悪夢にうなされ、あの日の任務の記憶が消えるどころか、日に日に鮮明になっていく。
不快な頭痛はいっこうに消えてくれない。

「明日の任務、結構遠出なんですよ」

コーラを飲みながら、灰原が楽しそうに話す。
今の私には、灰原の明るさは、少し眩しく感じる。

「そうか。お土産頼むよ」
「了解です!甘いのとしょっぱいの、どっちがいいですか?」
「悟も食べるかもしれないから甘いのかな」
「甘いのですね。OKです!」

元気に返事をする灰原を見て、ふと気になった事を訊いた。

「灰原…」
「はい」
「呪術師…やっていけそうか?辛くないか?」

私の問いに、灰原は一瞬考えるような顔をして、

「そう…ですね。自分はあまり物事を深く考えない方なので…自分に出来る事を精一杯頑張るのは気持ちがいいです!」

清々しいほど、ハッキリとした灰原の答えに、私は一瞬言葉を失った。

「……そうか。そうだな」

自分にできる事を精一杯。
今の私に、これくらいハッキリ言えるほど、今を頑張れているのかどうか、自分でも分からなかった。
その時、不意に誰かの足音が聞こえた気がして、顔を上げる。

「―――君が夏油くん?」

目の前に歩いて来た背の高い女性は、私を見るなり、

「どんな女が好みタイプかな?」
「…………」
「ん?」
「どちら様ですか?」

見た事がない顔だ、と警戒しながら問えば。
隣にいた灰原が元気よく応えた。

「自分はたくさん食べる子が好みです!」
「灰原……」
「大丈夫です!悪い人じゃないです。人を見る目には自信あります」
「……私の隣に座っておいてか」
「…?ハイ!!」
「………」

無邪気に返事をされ、思わず目を細めると、見知らぬ客は楽しそうに笑いだした。

「あっはっは!君、今のは皮肉だよ」
「え?」

灰原はキョトンとしていたが、私に客が来た事で遠慮したのか、部屋に戻ると言って帰って行った。

「後輩?素直で可愛いじゃないか」

その女性は私の隣に座ると、帰っていく灰原に手を振った。

「術師としてはもっと人を疑うべきかと」
「で、夏油くんは答えてくれないのかな?」
「まずはアナタが答えて下さいよ。どちら様?」

意味の分からない質問を繰り返され、小さく溜息をつくと、その女性はニヤリと笑みを浮かべて私を見た。

「特級術師、九十九由基つくもゆき…って言えば分かるかな?」
「…?!アナタが…あの?」

その名に驚き、改めて彼女を見れば、嬉しそうな顔で身を乗り出してきた。

「お、いいね。どの?どの?」
「特級のくせに任務を全く受けず、海外をプラプラしてる、ろくでなしの…」
「…………」

遠慮なく噂に聞いたままを口にすると、彼女、九十九由基は唖然とした顔で固まった。

「私、高専って嫌ーい。は~あ」
「……(スネた…)」

自分の感情に素直すぎる九十九由基を見ながら、何故その嫌いな高専に戻って来たんだろう、と考えていると、彼女は「冗談」と言って私を見た。

「でも高専と方針が合わないのは本当。ここの人達がやってるのは対症療法。私は原因療法をしたいの」
「原因療法?」
「呪霊を狩るんじゃなくて、呪霊の生まれない世界を作ろうよってこと」
「……っ」

その言葉を聞いてハッと顔を上げた私に、彼女はニヤリと笑みを浮かべた。

「少し授業をしようか。そもそも呪霊とは何かな?」
「人間から漏出した呪力がおりのように積み重なり形を成したものです」
「その通り。すると呪霊の生まれない世界の作り方は二つ。①全人類から呪力をなくす。②全人類に呪力のコントロールをさせる。
①はね、結構イイ線いくと思ったんだ。モデルケースもいたしね」
「モデルケース?」
「君もよく知っている人さ。禪院甚爾ぜんいんとうじ。天与呪縛によって呪力が一般人並みになるケースはいくつか見てきたけど、呪力が完全に0なのは世界中探しても彼一人だった」

その話を聞き、あの太々ふてぶてしい男の顔を思い出した。
九十九由基はあの男がいかに超人かという話を延々と語りだし、

「負けたことは恥じなくていい。彼を研究したかったがフラれてしまってね。惜しい人を亡くしたよ」
「………」
「天与呪縛はサンプルも少ないし、私の今の本命は②だね」
「…全人類に呪力のコントロールをさせる、ですか」
「そ。知ってる?術師からは呪霊が生まれないんだよ」
「……?!」

思わず、息を呑んだ。

「もちろん、術師本人が死後呪いに転ずるのを除いてね。術師は漏出が非術師に比べ極端に少ない。術式行使による呪力の消費量や容量の差もあるけど、一番は流れだね」
「流れ…」
「術師の呪力は本人の中をよく廻る。大雑把に言ってしまうと全人類が術師になれば呪いは生まれない」
「――――っ」

それを聞いた瞬間、あの醜悪に満ちた非術師達の笑顔が脳裏を過ぎった。
あいつらが消えれば、この世に呪いは生まれない。そういう、事か―――。
目から鱗、とはこの事だ。元から断てば、全て解決するなんて。

「じゃあ…非術師を皆殺しにすればいいじゃないですか」
「夏油くん」
「……っ」

つい零れた自分の言葉にハッとした時、彼女は言った。

「それは"アリ"だ」
「え…」
「というか、多分それが一番簡単イージーだ」
「…いや…」

まさか肯定されるとは思わず、私は言葉を濁した。
だが彼女は特に気にする風でもなく、淡々と言葉を続ける。

「非術師を間引き続け生存戦略として術師に適応してもらう。要は進化を促すの。鳥たちが翼を得たように、恐怖や危機感を使ってね」
「……」
「だが私はそこまでイカレてない」

彼女は苦笑しながら肩をすくめると、

「非術師は嫌いかい?夏油くん」

改めて私を見て言った。
九十九由基のストレートな質問に、ふと、あの日以来、モヤモヤと燻っている心の内を吐き出したくなった。

「分から…ないんです。呪術は非術師を守る為にあると考えていました。でも最近私の中で非術師の…価値のようなものが揺らいでいます。
弱者ゆえの尊さ、弱者ゆえの醜さ、その分別と受容が出来なくなってしまっている。非術師を見下す自分、それを否定する自分…
術師というマラソンゲーム、その果ての映像ビジョンがあまりに曖昧で…何が本音かわからない」

気づけば堰を切るように話していた。
これまで、誰にも理解されないであろう、と感じていた、私の中の迷いみたいなものを、彼女なら理解してくれるんじゃないか、と思ったからかもしれない。
九十九由基は黙って私の話を聞いていたが、アッサリと言った。

「どちらも本音じゃないよ。まだその段階じゃない」
「段階じゃ…ない?」
「非術師を見下す君、それを否定する君。これらはただの思考された可能性だ。どちらを本音にするのかは、君がこれから選択するんだよ」

彼女は明るくそう言うと、そろそろ行かなくちゃ、と立ち上がった。
見送るために一緒に外へ出ると、彼女は乗って来たというバイクにまたがって、

「じゃあね。ほんとは五条くんにも挨拶したかったけど間が悪かったようだ。これからは特級同士、仲よくしよう」
「悟には私から言っておきます」
「あ、そうだ、最後に」
「え?」
「星漿体の事は気にしなくていい」
「………っ」
「あの時もう一人の星漿体がいたか、すでに新しい星漿体が産まれたのか、どちらにせよ天元は安定しているよ」
「……でしょうね」
「じゃあね」

そう言うと、エンジンをふかし、九十九由基は笑顔で走り去った。
それを見送りながら、何とも言えない思いがこみ上げ、小さく息を吐き出す。

「…どちらを本音にするか、ね」

この時はまだ、気持ちがハッキリ決まっていたわけじゃなかった。
けれど、次の日、話に聞いていた任務から、灰原が遺体で戻って来たのを見た時、また一つ、私の心から何かが剥がれ落ちていくような気がした。

「なんてことはない二級呪霊の討伐任務のハズだったのに…!クソッ!!産土神信仰うぶすながみしんこう…アレは土地神でした…。一級案件だ!」

目にケガを負った七海が、憤ったように言うのを聞きながら、私は灰原の亡骸に布をかけた。
もう、彼の明るい笑顔を見る事は出来ない。
元気な声を、聞く事はない。

"夏油さん!お疲れ様です!"

昨日、いつものように声をかけて来た灰原の顏が、浮かんでは消える。

「今はとにかく休め、七海。任務は悟が引き継いだ」
「………」

七海は黙ったまま天井を仰いでいたが、ふと呟いた。

「もう…あの人一人で良くないですか?」

また一人、大切な仲間が消えていく―――。

術師というマラソンゲーム。
その果てにあるのが、術師の屍の山だとしたら―――?

答えが出ないまま過ぎた一か月後、私に新たな任務が舞い込んだ。
山深い、とある村にて、神隠し、変死、その原因と思われる呪霊の祓除ばつじょ

残暑が厳しい中、いつものように一人で赴き、呪霊を祓ったあとで、村人の、ある夫婦の家へ報告しに寄った時。
大きな檻の中に傷つき、ボロボロになった幼い少女が二人、監禁されているのを見た。

「…これは何ですか」

少女たちは怯えるように身を寄せ合い、恐ろしいものでも見るように、私を見ていた。

「何とは?この二人が一連の事件の原因でしょう?」
「違います」
「この二人は頭がおかしい。不思議な力で村人をたびたび襲うのです」
「事件の原因は、もう私が取り除きました」
「私の孫もこの二人に殺されかけた事があります」
「それはあっちが―――!」

少女の一人が叫ぶ。
また頭痛がしてきた。

「黙りなさい!化け物め!アナタたちの親もそうだった!やはり赤子のうちに殺しておくべきだった!」
「………」

妻の方が少女たちを怒鳴る。
―――不快だ。頭が痛い。
私の中でぷつり、と何かが切れた瞬間だったかもしれない。

《だ…だい…大丈夫…》

取り込んだ呪霊を指で操作し、少女たちにそう告げると、二人は驚いたように私を見上げた。

非術師を見下す自分。
それを否定する自分。

"どちらを本音にするかは――――"


「皆さん、いったん外へ出ましょうか」


"君がこれから選択するんだよ。"


答えが決まった瞬間、だった――――。