【第十二話】 沈没船-前編




私の腕に抱かれ、ぐったりとしているを見ていると、愛しさがこみ上げて来て。

「愛してる……」

本人には一度も言った事のない愛の言葉が、自然と口から零れた。
彼女の腕が、ずるりと落ちて力なく揺れている。
まだ息はあるが、それも持ってあと数分、といったところだろうか。
私の腕の中で、がその命の灯を消していくんだと思うと、意外なほど安堵している私がいた。

"これで誰にも奪われる事はない―――。"

そんな、身勝手な安堵感だった。

彼女の身体を包むように抱きしめる。
もう、二度と触れる事の叶わない、愛しい温もりを忘れないように。

「さよなら………これで君は、私だけのものだ」

最後に、その赤い唇へ触れるだけのキスを落とす。

「――――ッ」

いつから、いたのか―――。
顔を上げた時、その人物はすでにエントランスに立っていた。

「……?」

男の顔は驚愕に満ちた表情を浮かべ、静かな怒りを灯した目を、私に向けた。

「…アナタ、は?」

そう問いながらも、無意識に男から距離を取っていた。
本能が、危険だと告げているのか。
だが、目の前の男からは一切の呪力を感じない。あの男のように、天与呪縛でもない。
私の嫌いな、ただの猿だ―――。
そう、言い聞かせながら、腕の中のをゆっくりと床へ寝かせた。

「彼女から…離れるんだ」

男が静かな声で言った。

「言われなくても。私の用は済んだ」

言いながら一歩下がる。
同時に呪霊を呼び出しながら、真っすぐ男を見つめた。
身長は私と同じくらい。黒髪。年齢は30代くらいに見える。
それでも、少し長めの前髪から覗く鋭い目は、とても非術師とは思えなかった。
何者か分からないが、侮って面倒な事にはなりたくない。
私には、これからやる事がある。

「式神…いや、その感じは…呪霊…操術…?」

私の背後に現れた呪霊を見て、男は少し驚いたように言った。
少なくとも、術式の知識はあるようだ。
ちらりとリビングの方へ目を向ける。
すると、男は素早い動きで私の退路を断つよう入口の前へ立った。

(…速い)

そう思った瞬間、素早い動きで男の手が私の腕を掴んだ。

「逃がすかよ」
「……ッ」

非術師が、まさかこう出て来るとは思わなかった。
すぐに呪霊を操作し、男を攻撃する。
だが男は一気に後ろへ飛びのき、呪霊の攻撃を腕で弾いた。
…が、同時に、顔をしかめると、

「…つぅ…痛ぇな、この野郎」

と、腕をプラプラ振っている。

「生身で受けたんだ。当然だろう。アナタは何者?」
「オマエこそ、誰だ。何故を傷つける?」
「アナタには関係ない、とでも言っておこうか」
「関係…?あるに決まってるだろうが!」
「……っ?」

初めて男が激高したように叫ぶ。
と、その時、よく知った人物の気配がして、ハッと息を呑んだ。

「―――傑!!」

名を呼ばれ、弾かれたように振り向けば、そこには髪を乱し、恐ろしいほど冷えた目をした悟が、いた。






「ちょっと!マジでそれ言ってんの?!笑えないよ!」
「冗談でこんなこと言うわけねぇだろ!とにかく急ぐぞ!―――篠田さん、飛ばして!」
「はい!」
「………」

五条の顔は冗談でも嘘でもなく、恐ろしいくらいに真剣で。
私たちの仲間が、あの、夏油が、非術師を呪殺、という大罪を犯したという現実を突きつけて来た。

数分前、タクシーで高専に帰る途中、またしてもかかってきた五条からの電話。
あまりのしつこさに渋々出てみれば、これまで見せた事もないほど、動揺した様子の五条から聞かされた有り得ない話に、私は言葉を失った。
すぐに篠田さんの車で移動しているという五条と合流し、今、の家まで向かっている途中だった。

「でも…何で?夏油はいつも非術師を守る為の呪術だって言ってたじゃん…っ!その村で何かあったんじゃ…」
「俺だってどうなってそんな事になったのかなんて分かんねぇよ!」
「そ…それでもまで殺す、なんてありえないよ…!だってそうでしょ?夏油はのこと―――」
「アイツは実の親も手にかけてるんだぞ…?絶対ないって言いきれんのかよっ?」
「それは…っ」

ダメだ。頭が回らない。
何がどうなって、こんな事になってるのか、理解できない。
今はただ、が無事な事を祈るだけだ。

「見えてきました!」

篠田さんの言葉に、五条はハッとしたように顔を上げた。
車は更に加速すると、すぐにの家の前へ到着した。
停車した途端、車を飛び出して行く五条を、私も慌てて追いかける。
だがその時、良く知った夏油の気配を感じ、ドクンと心臓が音を立てた。

「アイツ…来てる」

五条はとっくに気づいていたのか、凄い速さで家の前まで走っていく。
家の前には見慣れぬ四駆が止まっていて、エントランスのドアが開いてる事に気づいた私達は急いで中へ飛び込んだ。

「―――傑!!」

五条の後に続いて中を覗けば、確かに夏油が、いた。
同時に、足元で倒れている血まみれのを見た瞬間、全身から血の気が引いた。

(やっぱり…やっぱり夏油はの事まで……!)

頭が真っ白になった。

…!!」
「待て、硝子!」

思わず駆け寄ろうとした時、五条に腕を掴まれ引き戻された。

「離してよ!を治療しなきゃ死んじゃう!!」
「分かってる!でも、もう一人いる…」

その言葉に改めて中を見れば、確かに夏油の傍に見知らぬ男が立っていて、驚いたような顔でこっちを見ていた。

「あ…あの人は…敵?」
「いや…術師じゃねぇ。あれは―――」

五条が何かを言いかけた時。
その男は五条を見ると、「その制服…君たち高専の生徒か?」と訊いて来た。

「え…」
「そこの君、今…治療、と言ったか?もしかして反転術式を?」

真剣な顔で私を見るその男は危険な感じはしない。
思わず頷くと、男は安堵したように深い息を吐き出した。

を頼む!一刻を争うんだ!」
「は…はいっ」

見知らぬ男だというのに、有無を言わせぬ迫力に、つい返事をしてしまった。
けどを助けたいのは私も同じだ。
すぐに中へ入り、の方へ駆け寄った。
その時、夏油と目が合った。

「硝子か…参ったな」
「夏油…アンタ…ッ!」
「もう少しだったのに、とんだ邪魔が入った」

ゆっくりと後ずさり、リビングに入ると、夏油と対峙していた男がそれを追っていく。

「逃がさないと言っただろ」
「猿に何が出来る?」

夏油はそう言いながら不意に振り向くと、勢いよく走り、窓ガラスを割って庭へと転がり出る。
同時に数体の呪霊を放ち、男が素早い動作でそれを交わしたかと思うと、手にした何かで一体を弾いた。
その動きは非術師のものではなく、思わず目を見張った。だが今は―――。

「五条!!夏油が外に逃げた!」

この男が何者なのかは知らないが、今は先にやる事がある。
の傷を確認しながら叫ぶと、五条はエントランスからすぐに姿を消した。
どうにか夏油を捕まえて高専に連れ帰れたら、と思いながらの傷口を見て 小さく息を呑む。

「…深い…」

呪霊で攻撃されたのか、胸の傷口は裂け、内部から血が溢れてくる。

(まさか心臓に傷が…?)

早く止血をしなければ、出血多量になってしまう。
慌てて傷口へ手を当てると、術式を使い、一気に止血をする。
それでも、の血の気のない顔を見ていたら、自然と涙が溢れて来た。

…どんな…気持ちだったんだろう……。あんなに…あんなに夏油のことを想っていたのに、こんな…)

気づけば、ボロボロと涙が零れ落ち、私の頬を濡らして行った。
例え命が助かったとしても、ケガを綺麗に治せたとしても……心の傷は、私じゃ癒す事が出来ない。
初めて、夏油が許せない、と思った。

は…っ?」

その声にハッと我に返った。
そこへ、あの見知らぬ男が歩いて来た。
夏油の放った呪霊をどう処理したのか、リビングへ目を向けると、その気配が消えている。

(この人、いったい…何者?)

そう思いながらも、目の前にしゃがんだ男を見て、小さく息を吐いた。

「傷が…深いです…。でも絶対助けてみせる…っ」
「…ありがとう」
「いえ、は…大切な友達ですから」

そう言った私に、男は何故か優しく微笑んだ。
だが、すぐに立ち上がると、

「…クソッ。アイツ誰なんだ…?」

男は夏油の逃げた方を見ながら独り言ちた。

「アナタが誰か知らないけど……アイツ、追わなくていいんですか?」

先ほどの様子を思い出し、治療の手を止めずに訊けば、男は小さく息を吐いたようだった。

「さっきの五条って…五条家のボンだろ?"六眼"の。彼に任せれば問題ないと判断した」
「…な、何でそんなこと知ってるんですか?アナタ、いったい…」

そう言って改めて男を見上げる。
前髪から覗く目は殊の外優しい。
けど、その面影が不意に目の前のと重なった。
男はゆっくりしゃがむと、の頭をそっと撫でながら、

「僕は…樹。の父親だ」
「……え?!」

まさかの人物に、私は絶句した。

のお父…さん?」

そこへ五条が戻って来た。

「あーっ!くそ!逃げられた!」
「は?嘘でしょ?」
「アイツ、篠田さん襲って車を奪って逃げた」
「マジ?篠田さんケガしたの?」
「幸い軽傷だった。それより…のケガは?」

慌てたようにしゃがむ五条に、「こっちはかなり重症…」と告げた。

「止血はもう終わるけど、傷の方は少し時間かかる」
「それ、止血終えたら、後は移動しながらやって」
「え?」
は…高専に連れてく」

五条は真顔でそう言うと、隣にいるのお父さん――樹さんを見た。

「いいですよね?―――樹さん」
「…ああ」
「え、五条、知ってるの?」

驚いて顔を上げると、五条は小さく息を吐いた。

「学長室で…写真見た事あるからな。一葉さんにも一度、ケータイの待ち受け見せてもらったし」
「え、そうなんだ…」

と言ってすぐ、そう言えばウチの学長とのお父さんは古い友達だ、と聞いたことがあるのを思い出した。
すると樹さんは苦笑しながら、前髪をかきあげると、

「五条…悟くん?だっけ。それと、君は?」

と言って、私の隣へしゃがんだ。

「あ…家入硝子、です」
「硝子ちゃん、か。は動かして大丈夫?」
「あ、はい…。とりあえず止血はしたので…今すぐ命にかかわると言うとこは脱しました。あとは移動しながら傷を治していきます」
「そうか……良かった」

樹さんはホっとしたように微笑むと、私の肩にポンと手を置いた。
少なからず、ドキっとさせるくらいのイケメンぶりで、こんな時なのにさすがのお父さんだ、と感心してしまう。
それにしても、ずっと海外に行っていると聞いてたのに、何故急に帰って来たんだろう。

「五条くん…硝子ちゃん。君たち二人にのこと頼んでいいかな。僕は一葉と一緒に後で高専に行くから」
「はい…。樹さんは?」
「…僕は後処理がある。榊さんが殺されたみたいでね…」
「え…っ?」

その名を聞いて、五条は驚いたように声をあげ、悔しそうに目を伏せると強く拳を握り締めた。
私も護衛任務の時、色々お世話になった事を思い出し、不意に涙が浮かんだ。
優しくて、いつもニコニコしながら美味しいものを作ってくれた人だ。
きっと、五条もそんな思いがあるのかもしれない。
夏油は、そこまで堕ちたのか、と苦い感情が腹の底から湧き上がってくる。

「…すみません。俺がもっと早く来てたら…」
「いや…僕も同じだ。まあ…こんな状態になってるなんて思わなかったけどね」

樹さんは憤ったように深い息を吐いた。

「一葉から話は聞いてる。五条くん達はの護衛をしてくれたんだったね」
「はい…」
「その説はありがとう。を守ってくれて」
「いえ…。今回は…守れなかった…」

五条がそう呟くと、樹さんは静かに首を振った。

「どんな状況だったかは知らないが、こうして二人はが危険だと知って駆けつけてくれた。それだけで充分だよ」

樹さんのその言葉を聞いて、私はのお父さんらしい、優しさがある人だ、と思った。
五条は軽く唇を噛み締めると、思い切ったように顔を上げた。

は…高専で保護してもらいます。傑…アイツがまたを襲わないとは言いきれないんで」
「…傑?さっきの彼は…夏油傑か…?」
「はい…知ってるんですか?」
「いや名前だけは…由基が先日高専に行った時、少し話したと言ってた…」
「由基…?」

どこかで聞いた名だ、と私も顔を上げると、樹さんは「九十九由基だ」と応えた。
その名は私でも知っている。
高専で唯一の特級術師だった九十九由基。
今年特級に昇進した五条と夏油に挨拶をしに、先日高専へ来た、と夏油が言っていた。
彼女のいい噂はあまり聞かないが、少なからず樹さんは親しいみたいだ。

「まさか彼が…でも何故を…?」

そこだけが腑に落ちないといったように、樹さんが五条を見た。

「それは…後で説明します」
「分かった。じゃあこれ。僕の車を使っていいから」

樹さんは余計な質問はせず、五条の言葉を信じるといったように頷くと、車のキーを渡した。
そしてをそっと抱きかかえると、外に止めてあった四駆まで運んでいく。
その後を五条も追うと、キーを篠田さんに預け、樹さんの方へ歩いて行った。

「彼女は俺が」
「うん、宜しくね」

樹さんは五条にを預けると、彼女の額にそっとキスをした。

「じゃあ…なるべく早く僕も行くから、を頼むね、硝子ちゃん」
「はい」

五条はを抱いたまま車に乗り込むと、「硝子」と私を呼んだ。

「隣に乗って治療して」
「分かってる。じゃあ…樹さん、また」
「うん。ああ、篠田さん、だっけ?安全運転で宜しく」
「は…はい!」

篠田さんは緊張したように返事をすると、すぐに運転席へと乗り込んだ。
樹さんは非術師だが、どこか纏っている空気が術師のそれと似ていて、補助監督の篠田さんでも何かを感じてるようだ。

「で、では…車お借りします」
「うん、じゃあ頼むね」

樹さんは車のドアを閉めると、片手をあげて家の方へ戻っていく。

それを見送っていると、車が静かに走り出した。







"私はやっと気づいたんだ。自分の本音に"

夏油くんの…声がする。

"選択だよ"

何を、言ってるんだろう…。
私にはよく、分からなかった。

赤い、血にまみれた腕が見える。
不気味な化け物が、振り返る。

これは、現実―――?

こんなに怖いのに、目の前にいる夏油くんは優しく微笑んでいるだけ。
助けて欲しいのに、ただ、私を抱きしめる。なのに―――少しも温もりを感じない。

ああ、全身が冷えていく。
ゆっくりと、静かに、血が、流れる感覚。

あなたに抱かれてるのに、寒いなんて、おかしいよね。

身も、心も、凍り付いたように、寒い。

深い深い、海の底へ落ちていく、沈没船のように、私の心も、沈んでゆく―――。









高専に戻って早々、上層部の奴らに呼びつけられた。
薄暗い部屋に、沢山の衝立がある。
その向こうにいる無能な爺どもが、口を開いた。

「逃がした、だと?!」
「せっかく見つけたのに何故そんな事に?」
「事情を説明しろ。五条悟!」

(うるさい…そんなにわめくなよ。今、お前らと話す時間すら惜しいというのに―――!)

内心そう毒づきながら、深い溜息が漏れた。

「アイツは…傑は俺が必ず見つける。その上での保護をしてくれ」
「む、無礼な物言いだな。いくら五条家の者でも、その態度はいかがなものかな」
「そんな下らねえこと言ってる場合かよ?」

爺どもは一瞬黙ると、深い息を吐く声が聞こえた。
そのうちの一人が口を開く。

「あの少女を夏油傑が狙っているというなら、それは当然そうする。だが、今後も狙って来る、という根拠は?」
「逃げる時、俺にハッキリそう言った。アイツは…傑は彼女に固執してる」

さっき傑を追いかけて行った時、篠田さんに呪霊を仕掛け、車に飛び乗った傑は確かに、俺の顔を見て言った。

"は…渡さないよ、悟。必ず、"私だけ"のものにする"
"どういう、意味だよ?!だいたい何でこんな――――"
"悟には……絶対に理解できないさ"
"………っ?"

篠田さんを助けた一瞬の隙に、傑は車で走り去った。
追おうと思えば出来た。でも…。
理解?できるわけないだろ。
突然、こんな事をする理由なんて――――。

「五条!」
「―――っ」

ハッと我に返れば、爺の一人が「応えろ。何故、夏油傑はあの少女に固執している」と訊いて来た。
こいつらは何も事情を知らない。
下で起きている任務の内容すら知らないだろう。
こんな奴らに何を言っても無駄だと思っていたが、今はを守る為に利用するしかない。

「……自分、だけのものにする為。は…傑の恋人だ」
「何?それは…あの非術師の少女と夏油傑が恋愛関係にあった、という事か」
「ああ、そうだよ!だから今は彼女が一番危険―――」
「もし君の言うように、奴がそこまで固執していると言うならば囮にも使える、という事だな」
「…は?」
は高専での保護を認める。速やかに高専結界内、ならびに日常生活での保護対象として手続きを―――」
「ちょっと…待てよ!囮って何だよ?アイツにそんな危険な真似させられるわけねぇだろ!」

カッとして怒鳴れば、爺どもは失笑にも似た笑い声をあげた。

「最優先事項は夏油傑の処刑、だろう?」
「……っ」
「大量殺人を犯した最も危険な特級呪詛師となり果てた術師は一刻も早く処刑しなければならない。手段を選んでる場合か?」
「そもそも、あの少女の父親は高専の関係者だ。協力する義務はあれど、しないなどというのは道理に反する」
「……彼女に、どうしろ、と?」
「特級呪詛師である夏油の危険性を考慮して、高専敷地内に拠点を移し、回復後は通常通りの生活をしてもらう」
「な…通常って―――」
「ただし、護衛は就ける」
「護衛…?」

あの傑を相手にできる術師など、今の高専にはいない。

「五条悟。明日から特級保護対象、の護衛、ならび特級呪詛師、夏油傑、処刑の任を命ずる」

この、俺を除いては――――。