【第十三話】 もし君を許せたら―後編



高専敷地内にあるその広い離れは、樹さんが一葉さんと結婚するまで住んでいた場所らしい。
2LDKほどの広さのその離れも、今は誰も使っていないという事で、今日からここでは暮らす事になる。高専敷地内はもとより、この周りには更に外部の人間から見えなくさせる結界を張っているから、万が一、夏油が襲撃してきてもすぐにはバレないようになっているらしい。

「荷物は一葉が取りに行ってくれてるから。マリンも連れて来てくれるよ」

樹さんはそう言いながら抱きかかえたをベッドの上に、そっと寝かせた。

「ここが寝室。まあ家具も置いたままだから、そのまま使って」
「……うん」
「この雨戸を開けると庭も見えるしね」

そう言って樹さんは雨戸をあけ放ち、縁側に出た。
そうする事で庭に植えられた花や木々が見えて、ちょっとした温泉宿みたいな雰囲気になる。
春になれば、更に色とりどりの花が咲くだろう。
高専敷地内の奥に、こんな離れがあるとは、私も知らなかった。
教師の特権なのかもしれない。

「空気も景色もいいし、こんな奥まで誰も来ないから静かでいいよ」

樹さんの言葉に、はゆっくり顔を上げると、感情のない目で庭先を見た。
その様子に、私は胸が痛くなったが、何とか笑顔を見せて、ベッドの方へ歩いて行った。

「私も任務ない時は遊びに来るし、同じ敷地内で寮から10分だから前より近くなったね」
「そう、だね」

はふと私を見上げ、かすかに微笑んでくれた。
少しホっとしていると、そこへ五条が顔を出した。

「樹さん、僕の荷物、どこに置けばいい?」
「ああ、五条くんの部屋はこっち」

樹さんは五条を連れて、の寝室と居間を挟んだ奥の部屋へ向かった。
五条も今日からこの離れに住んで、万が一の為にの護衛をする事になるらしい。
高専結界内でも、あの夏油相手だと油断は出来ない、と上が決めた事らしいが、私としては少々、いや、かなり不服だ。
でもを守る為なら、と泣く泣く(!)賛成した。(どうせ反対しても無駄だし)

あれから累子さんに、と夏油の間にあった私が知り得る全ての事を話した。
それを聞いて、一葉さんは泣き出し、累子さんは難しい顔で、「やっぱり心のケアが必要ね」とだけ言った。
でも昨日、再び目覚めたは水分を摂っても嘔吐する事なく、その後、軽めの食事も摂れるようになった。
だから累子さんが心配してるような事は何もない、と少し安心していたのだ。
けど、夜になっては急に何度も嘔吐を繰り返し、何も口に出来なくなった。
その姿を見て、累子さんが危惧していた事が起きてしまったんだ、と心配になった。

最初、は目覚めた後も特に取り乱す事なく、少し元気がないくらいに見えた。
でも、突然何かを思い出したように嘔吐を繰り返すが、不意に呟いた言葉で、気づいてしまった。

「気持ち悪い…触れられた場所…全部…」

は夏油との事を思い出すたび、吐き気が襲って来るみたいだった。
それは、あの夜、二人の間にあった事も原因なのかもしれない。
きっと夏油との記憶が、を苦しめてる。
それが分かっても、何も出来ない自分が腹立たしかった。

「とにかく…ゆっくり、時間をかけてカウンセリングを受けさせるしかないわ。夏油くんとの間にあった記憶が薄れるくらい今を幸せに感じてくれたらいいんだけど…」

累子さんがふと言った言葉に、自然と涙が溢れた。

(私が男だったら良かった。うんと幸せにしてあげるのに…)

そんなバカみたいな事を考えながら、ボーっと庭を眺めているに声をかけた。

…もし、退屈で話し相手が欲しい時は、いつでも言ってね。飛んでくるから」
「……ありがとう」

更に細くなった手をそっと握り締めると、はかすかに微笑んで目を伏せた。

「でも…硝子ちゃんも忙しいんだから無理しないで。私なら…大丈夫だから」
……」

のその言葉に、何も言えなくなって喉の奥が痛くなる。
その時、樹さんが戻って来た。

、寒くない?」
「…お父さん」

樹さんがベッドの端に座ると、は子供のように樹さんに抱き着いた。
樹さんは黙ってを抱きしめると、「大丈夫。傍にいるから…」とあやすように言いながら頭を撫でている。
そんな二人を見て、私は静かに部屋を後にした。
これ以上いたら、の前で泣いてしまいそうだ。

「おい、硝子」
「…何よ」

奥の部屋から五条が歩いて来た。

「オマエがそんな顔すんなって」
「わ、分かってるけど…あんな元気ない見てたら泣きたくもなるのよ…っ」
「分かるけど…オマエがそんなんじゃが気にする。なるべく普段通りに―――」
「分かってるっ」

そう言いながら五条に背中を向ける。
最近、五条は変わった。
以前のような気性の荒さを見せる事も減り、冷静に周りを良く見て、自分が何をすべきか常に考えているように見える。
樹さんと二人で話したというあの日、五条に何があったんだろう。

(いつの間にか"俺"から"僕"になってるとこも気持ちが悪い…。樹さんに影響受けてるっぽいし、ほんと何を話したらあんなに変わるんだろ…)

そこは不思議だったが、夏油の件があった事で、五条なりに変わろうとしてるのかもしれない、と思った。

(私も…変わらなきゃ…。を支えられるくらい、強くなりたい…私が出来る事なら何でも…やってあげたい)

両手で頬をパンっと叩き、深呼吸すると、私は五条の方に振り向いた。

「私、強くなる」
「は?」
「私はやっぱりの笑顔が一番好きなの。が前みたいに元気に笑ってくれる為なら、何だってする。それには私も強くならないと」

そう言った私を見て、五条は意外にも優しい笑みを浮かべた。

「おう、頑張ろうぜ」
「うん」

そう言って、互いに拳を合わせた。
私達は、夏油に置いて行かれたんじゃない。
あんな事で、負けたくない。私の心まで、折られてたまるか。

「硝子ちゃん」

そこへ、樹さんが歩いて来た。

「五条くんも、ちょっといい?」
「あ、はい」
「何ですか」

樹さんは私達を奥にある五条の部屋に促すと、真剣な顔で振り向いた。

「明日、一葉がここにの荷物を持ってマリンを連れて来るんだけど…僕は入れ替わりでまたアメリカに戻らなきゃいけないんだ」
「え…行っちゃうんですか」
「うん…僕もの傍にいたいんだけどね。仕事をほったらかして帰国したから、さすがにそろそろ戻らないと」
「そっか…」

気づけば樹さんに頼っていたから、いなくなると思うと少し心細い。
でも、私は今、強くなろうと決心したばかりだ。
いつまでも樹さんに頼っていてはいけない。
五条も少し寂しそうだったが、すぐに「僕らがについてます」と言った。

「うん、頼むね。まだまだ不安定なとこあるから…出来るだけでいいんだけど、の傍にいて時々甘えさせてやって。一人にすると怖がるから常に誰かいてくれたら助かる」
「分かりました。僕や硝子が任務の時は、後輩に頼みます」
「そうしてくれる?悪いね」
「いや…を一人にするのは僕も心配なんで」
「ありがとう」

樹さんはホっとしたように微笑んだ。
そこで、「お父さん…っどこ?」との不安そうな声が聞こえてきた。

「今行くよ!」

そう返事をして、樹さんはすぐにの方へ戻っていく。
が樹さんの事を話す時はだいたい愚痴だったが、こうしてみ見ると、かなりのお父さん子なんだな、と思ってふと笑みが零れた。

「やっぱり普段いないし会えないから寂しかったのかな…」
「ああ、かもな」
「でも樹さんなら甘えたくなる気持ち、わかるなぁ」

会った時から何となく、人を安心させてくれる人だ、と思ってた。
たまに見せる優しい笑顔に何度キュンっとなった事か。
なんて考えてると、五条が思い切り目を細めて私を見た。

「硝子…オマエまさか…」
「何よ。いいでしょ?憧れるくらい。あんなにイケメンで優しくて大人な人って素敵じゃん」
「一葉さんにぶっ飛ばされんぞ」
「べ、別に不倫したいとか言ってないでしょ!癒されるくらいいいじゃない」
「まあ…樹さんは癒されるな、確かに」
「五条が何で癒されてんのよ」
「まあ、裸で抱き合った仲だしな」
「は?」

意味深な笑みを浮かべ、とんでもない事を言い出した五条に、私は思い切り顔をしかめた。

「アンタ…まさかそっちに走るつもり…」
「んなわけ。いや、でも樹さんにならケツ貸してもいいかなって思ってしまいそうになる辺りが怖いな、あの人……痛ってぇ!」
「へへ変なこと言うな!」

五条のケツを思い切り蹴っ飛ばすと、私はおぞましい光景を想像して「おえっ」と気持ち悪くなった。

「いちいち蹴るなよ…冗談だろーが」
「アアアンタが言うと冗談に聞こえないのよっ」
「はいはい。つーか、やっとらしくなってきたじゃん」
「…え」

ニヤリと笑う五条に、私は一瞬驚いて顔を上げた。

「硝子はさ、そうやって怒ってるのが一番らしくていいんじゃね?」
「……五条」
「あ、いけね。夜蛾先生に呼ばれてたんだ。ちょっと行って来るし、硝子、ここ頼むな」
「あ、うん…」
「ああ、僕がいないからって樹さんを誘惑しないように」
「うっさい!早く行け」

そう言いながら蹴るマネをすると、五条は笑いながら離れを出て行った。
それを見送っていると、ふと笑みが零れた。

「…五条のくせに気を遣うなんて…生意気」

でも、そういうアイツも、嫌いじゃない私がいる。
少しずつ、少しずつ、私達は変わろうとしていた。








開け放した縁側から、少し冷たい風が吹いて。
私の髪をさらっていくのを眺めながら、暗くなっていく空を見上げた。
夜は怖い。
あの凍えそうな夏の夜を思い出すから。

意識を取り戻した時、何で私はまだ生きてるんだろう、と思った。
あの夜、私は捨てられたのに。
彼にとって、必要のない存在になったのに。
あのまま死んでいれば、それで良かったんだ。
そうしたら、こんな痛みを知る事もなかったのに。

大切な人が、大切な家族を殺した。

それが許せない。
彼が憎い。
なのに、会わなければ良かったとは、どうしても思えなくて。
そんな自分に吐き気がする。

彼に言われた言葉一つ一つ。
触れられた場所、全て。
思い出すたび、それを吐き出したい、と心が叫ぶ。
私の記憶、体内の全てを吐き出してしまえれば、この痛みも綺麗に消えてくれるはず。

父は、彼がまだ私の事を狙っている、と言った。
だから高専で保護対象になった、と。
どうでも良かった。
殺しに来るならそれはそれで、あの夜に戻るだけだ。
彼との全ての記憶が消えてくれるなら、誰が殺してくれてもかまわない。
この不快な感情が、どうしようもない痛みが、消えてくれるなら。

誰か、この心を、取り除いて―――。


「……うっ…」

また吐き気が襲ってきて、手で口を押えた。
でも何も食べていないせいで出るものは胃液だけ。
こみ上げたものが口の中に広がり、更に気持ち悪くなった。

「…?!」

隣の居間で片づけをしていた父が、異変に気付き慌てて走って来た。

「気持ち悪い?」
「ん…うん…でも…大丈夫…」
「吐いてもいいから水飲んで」

父はそう言ってグラスに水を注ぐと、グラスを私の手に持たせた。
それを口に運び、一気に飲むと、一瞬吐き気が治まった。

「大丈夫?」

私の背中をさすりながら、父が心配そうな顔をする。
久しぶりに会った父は、相変わらず過保護だ。
たまたま、あの夜に帰国をした、と言っていたが、父は私と彼の事を、どこまで聞いたんだろう。
出来れば、知られたくなんてなかった。

「もう…平気…」
「良かった…」

大きく深呼吸すれば、父はホっとしたように微笑み、私を抱きしめてくれた。
私は父にこうしてもらうのが子供の頃から好きだった。
でも中等部に上がる頃には私も恥ずかしくて嫌がるようになると、父が凄く悲しそうにしてた事を思い出す。

「ごめんね……お父さん…」
「ん?何で謝るの」
「…心配かけてる」
「親が子供の心配するのは当たり前。会ってない時も常に心配してる」
「……嘘ばっかり。ちっとも帰ってこないくせに」
「ははは…耳が痛いなあ。でも…いつも一葉とに会いたいって思ってる」
「…私も…会いたかった…」

過保護で、いつも私を甘やかして、時々うっとおしいなんて言ってみても。
本当は、私もお母さんに負けないくらい、お父さんが大好きなんだ―――。

「…お父さん…」
「ん?」
「私ね……好きな人が、いた」
「…うん」
「でも……彼にとって…私は必要ない存在だったみたい…」
「……っ」

父は抱く腕に力を入れて、「僕にはが必要だよ…」と呟いた。

でもね、お父さんは無条件に私を愛してくれるから…やっぱり、彼とは違うよ。
初めて、あんなに人を好きになって、これからもっと好きになれるはずだった。
その想いを、突然、あんな形で断ち切られたら、私はどうやって前を向けばいいの。

彼が許せない。
でも、何もしてあげられなかった私自身も許せない。

もし、自分を許せたら、この痛みはいつか消えてくれる?
もし彼を許せたら、私はまた、前を向いて誰かを愛せるのかな。
例え大切な人が出来たとしても、また失うのが、怖いよ。
今はただ、この身体に埋まってる心ごと、私を消し去って欲しい―――。