【第十四話】 記憶の鎖―前編




父は、放って来た仕事がある、と言って、次の日には再び日本からいなくなったけど、今の仕事を終わらせて、またすぐ帰国すると約束してくれた。
その後、母が三日ほどついててくれたが、一か月後に開催されるショーの準備があるから、と、一度東京へ戻って行った。

は無理しないで、ショーの事より、今は元気になる事だけ考えて」

帰り際、母はそう言っていたけど、ショーに出る為に準備をして頑張って来た事を思えば、こんな事で諦めるのも私は嫌だ、と思っていた。
なのに心も体も思うように回復してくれず、未だに嫌悪感が襲って来る。
彼との記憶が私の中にある限り、この不快な感情と、吐き気は消えてくれそうにない。
襲って来る吐き気と戦いながらも、頭に浮かぶ彼と過ごした全ての記憶が、死ぬより辛かった。

ふと、母が持って来てくれた私の荷物に目が向いて、隣に眠るマリンを起こさないよう、フラつく足でベッドから下りた。
さっきまで傍にいた五条くんは、母を見送りに出たのか、家の中は静かだ。

(特級保護対象、か…)

そんな事を言われても、いまいちピンと来ない。
五条くんに、また護衛をしてもらう事になるなんて、思ってもみなかった。
意識のない間に、色んな事が決まっていて、気持ちがまだついて行かない。
今日まで父や母が一緒にいたが、今夜からは五条くんと二人になる。

まだ二人で何も話していない事に気づいて、少しだけ怖い、と思った。
五条くんを見てると、どうしても隣にいるはずの人を、思い浮かべてしまうから。
あの頃の事を思い出すと、消えてしまいたくなる。
同時に、皆に心配かけてしまうのが嫌で、そんな心を封印する。
色んな感情が混ざり合い、息をするのも苦しい。

「お母さんたら…夏物なんて、もういらないのに…」

母が持ってきた着替えを見て軽く息を吐く。
そのまましまっておけばシワになる、と思って、トランクケースから服を取り出していく。
が、服の下に入れてある箱を見つけた時、ドクンと心臓が音を立てた。
それは、彼がお土産に、とくれた切子のグラスだった。

「…んで…っ!何で…こんなの持ってくるのよ…っ!!」

衝動的に箱を開けグラスを掴むと、雨戸を開け放ち、庭先に力いっぱい放り投げた。
庭に置いてある大きな石に、赤いグラスが当たると、ガチャンと派手な音を立てて割れ、マリンが驚いたように飛び起きる。
力の入らない足が、その勢いでふらつき、よろけて床に手を着いた。
それでもかまわず、縁側に這っていく。早く、目の前から消し去りたかった。

「…こんなもの…っいらない…のにっ!」

もう一つ、青いグラスを掴むと、それを思い切り振り上げた。
不意にその手を掴まれ、ハッと顔を上げる。

…!何してんだよ?!」
「……五条…くん…」

知らないうちに涙が零れていた。
グラスを掴んでいる手が、震える。
これは、幸せだったあの頃の、二人の思い出がたくさん詰まってる。

「放して…!いらないの…っ!こんな…ものっ」
「落ち着けって!危ないから、それ寄こせっ」
「やだ…!!放して…っ」

後ろから抱きしめられ、その腕を思い切り振り払う。
その瞬間、持っていたグラスが、五条くんの頬に当たってしまった。

「……っ」
「…痛ってぇ…」

手で頬を押さえている五条くんを見て、全身の力が抜けたのと同時に、持っていたグラスがゴトッと落ちて、縁側を転がっていく。

「…ごめ…ん…」

昂っていた感情の波が、静かに引いて行く。
赤くなっている五条くんの頬へ、そっと手を伸ばすと、その手を逆に引き寄せられた。

「ご…五条…く…」

強く抱きしめられて、また、涙が溢れた。

「…落ち着いた?」

そう訊いて来る五条くんの声も、少し震えてる。

「……それ。アイツにもらったんだろ」
「……っ」

ビクっと肩が跳ねた。

「な…んで…」
「一緒にいたんだ。それ…買ってる時」
「………っ」
「アイツ、凄く嬉しそうな顔でそのグラス、見てた。きっとのこと―――」
「聞きたくないっそんな話…!!」

慌てて五条くんを突き飛ばした。
あの夜、そのグラスをくれた時の光景が脳裏を掠め、激しい吐き気に襲われた。

「…う…っ」
…っ」

たまらず庭先に吐くと、嗚咽が漏れて、涙の味と胃液の味が入り混じる。
苦しくて、心臓の音がうるさくて、床に突っ伏した私は、声を上げて、泣いた。

「思い出させないでよ…っ忘れたいのに…!」
…」
「消したいの…全部…全部、忘れたい…っ!」

顔を上げて振り返ると、私の背中をさすっている五条くんの胸元を強く掴んだ。

「思い出すたび…気持ち悪くなる…息が止まりそうになる…。どうしたら…忘れられる…?」

真っすぐに五条くんを見上げれば、彼はその綺麗な瞳を悲しげに揺らして私を見ていた。
彼のこんな表情は一度も見た事がない。
出会った頃の、強気な彼は、どこにもいなかった。
ああ、私のせいでこんな顔をさせてしまった、と思った。
私がいると、周りにいる人たちまで、辛い思いをさせてしまうんだ。

ごめん、と、言いかけた時、床について自分の体を支えていた彼の手が伸びて来て、また抱き寄せられた。
五条くんの肩に顔を押し付けられた時、ふと、懐かしい甘い香りが鼻を衝く。
そこで、前にも五条くんに抱きしめられた事を思い出した。

「…僕も、出来れば忘れたいって思うことがある」
「……五条…くん?」
「ずっと…アイツと一緒だったから。これからも一緒だと思ってたから…。ただ、全てなかった事にはしたくない」

五条くんは静かに言葉を紡ぎながら、私の背中を父と同じように、あやすように叩いていた。

「でもは僕とは違う…。アイツに、心も体も傷つけられた。どうしたら…忘れさせてあげられるのかなって…思うよ」

優しい、声。
五条くんじゃないみたい。
ふわふわ、心が久しぶりに安堵感に包まれて、背中を叩くその優しいリズムに、体の力が抜けて来るのが分かった。
感情が高ぶった後は、酷く疲れて、気だるくなるからかもしれない。

……?」
「……ん」
「寝てるの…?」

五条くんの腕の中で目を瞑っていると、さっきまでうるさかった頭の奥が静かになっていく。
心地よい睡魔がゆっくりと近づいて来た時、意識を手放す瞬間、「…子供かよ」と、優しく笑う、五条くんの声が聞こえた気がした―――。








「何、そのほっぺ。赤くなってる」

朝、診察の為、を累子さんのところへ連れて行った時、後から顔を出した硝子が、めざとく言った。

「…あ?」

休憩所のテーブルに突っ伏しながら視線だけ声のする方へ向ければ、怪訝そうな硝子と目が合う。

「何だよ…その顔」
「アンタ…まさかに何かいやらしい事して引っぱたかれたとかじゃないでしょーねっ」
「何だそれ…朝から下らないこと言うのやめてもらっていいですか。僕、寝不足なんで」

限りなく棒読みで言えば、硝子はムっとしながら向かいの椅子へ座った。

「じゃあ何よ、それ。昨日はそんな傷なかったじゃん」
「あぁ…まあ…不慮の事故」
「はあ?」

硝子は納得いかないといった顔をしていたが、実際そうなんだから他に言いようがない。
ふと、夕べ錯乱状態になったを思い出し、重苦しいものが胸の奥にこみ上げてくる。
傑からもらったグラスを見つけて発作的にあんな事をしたんだろう。
分かっていたつもりでいたが、あれほど苦しんでいるを見るのは、やっぱり辛かった。

"消したいの…全部…全部、忘れたい…っ!"

心の底から願う、あの悲しい叫びが、今も耳に残ってる。
あんなにもの心を打ちのめした傑に、改めて怒りが沸いてくる。
アイツは言った。

"オマエに彼女を渡すつもりはない"

勝手だ、と思った。
大事な女を自ら殺そうとしたくせに、渡さない?
どんな理由があれば、あんな事を言えるんだ。
最後まで大事に出来ないなら、何故の気持ちを受け入れた?

傑ならきっとを大切にするだろう、と思っていたし、が傑に惹かれてることに気づいた時も、むしろ良かったと思った。
バカみたいに純粋な子だから、傑みたいなシッカリした優しい男なら、きっと大丈夫だと思ってた。
初めて感じた胸の痛みなんか気にならないくらい、二人の事を祝福したい気持ちの方が大きかったんだ。

なのに、彼女の想いを、アイツは粉々に砕いた。
優しいが、あんな事をしてしまうほど、心に大きな傷をつけた。
それだけは、どうしても、許せない―――。

「五条…大丈夫?アンタも辛そうだよ…。真面目な話、夕べ何があったの?」

ふと、硝子が泣きそうな顔で言った。
深い息を吐き、「ああ…」と言って体を起こすと、椅子にもたれて天井を仰いだ。

が…さ、一葉さんの持ってきた荷物ん中に傑からもらったグラス見つけて…取り乱して、それぶん投げて割った」
「え…あのが…?」
「…止めようとして、彼女が振り上げたグラスが顔に当たって、これ」

頬の傷を指して苦笑すると、硝子は「そうだったの」と目を伏せた。

「……で、大丈夫だったの?は…」
「全部、忘れたいってさ……」
「え…?」
「全部、忘れて、消し去りたいんだろうな。傑と過ごした時間、全て」
「そりゃ…そうだよね…。大好きな恋人が突然、家族同然だった人を殺して、自分の事まで殺そうとしたなんて…起きた事を頭で理解出来ても心が追いつくはずない…」

硝子は苦々しい顔で呟いた。
結局、榊さんの遺体は殆ど残ってない状態で、はお別れすら出来ていない。
一葉さんが密葬という形で、榊さんを弔ったようだ。
小さい頃からの面倒を見て、長い間傍にいた存在が、あんな形で亡くなった事も、の心に傷を残している理由の一つだった。
僕も護衛任務の時は色々お世話になったし、あの明るい笑顔を思い出すと、らしくないほど胸が痛んだ。

「累子さんが言ってた。そういう辛い記憶が消えるくらい、幸せな記憶を上書き出来ればいいのにって…」
「上書き…?」
「うん。ほら、よく言うじゃない。失恋は新しい恋で癒せって。それと似たような事だと思う。夏油との間にある記憶を別の何かで上書きして消しちゃえればいいのにね」
「それで…の症状が治るならな」

それなら、どんなにいいんだろう。
あのままじゃの心は壊れてしまう。
いや、体も心配だった。
あの症状のせいでろくに食事が出来ていない。
昨日だって少し立っただけでフラついてた。
思い出すのがそんなに辛いなら―――。

「…傑の記憶を…確かに消してあげられたら一番いいんだろうけどな」

ふと、出来もしない事を呟いた。

「やっぱ…新しい恋が出来れば、それが一番いいよ」
「そんな気分じゃねーだろ」
「まあ…そうだよね。それに…きっとは怖いはずなんだ」
「…怖い?」
「また人を好きになること。は…元々誰かを好きになるのが怖いって話してたような子だから」
「…そうなの?」
「うん。初恋の相手がクソ野郎でさ!ソイツに片思いしてたに酷い事したのよ」

言いながら、硝子は怖い顔でドンっとテーブルを叩く。

「酷い事って…?」
「それは言えない。に言わないでって言われてるし。でもマジ、ぶっ飛ばしに行こうと思ったくらいのゲス男よ」

硝子は小さく息を吐いて、テーブルに突っ伏した。

「まさか次に好きになった奴までクソ野郎だったとは…。これじゃホントに男なんて信じられなくなるに決まってる」
「…そう、だよな」
「は~私が男だったら絶対、を泣かせないのに…。大事に大事にして、めちゃくちゃ愛してあげられる自信しかないわぁ…」
「ぷっ…何だよ、それ」
「何って…本心よ。男連中なんてバカばっかりでを任せらんない」
「…オマエ、ほんと大好きだな。つーか、人にそっち系に走るの?とか言って、自分が走る気か」

思わず目を細めれば、硝子はムっとしたように顔を上げた。

「うっさい!そっち系じゃなくて私が男だったらって話よ。それだけ信用出来る男がいないのっ」
「あーっそ」
「…………」

硝子の戯言に付き合ってられないと、自販機でミルクコーヒーを買うと、プルタブに指をかけた。

「…何だよ」

硝子が無言のまま、人の顔をジっと見ているのに気づき、再び椅子に座りながら眉間を寄せた。

「五条ってさ」
「ん?」
のこと、どう思ってんの?」
「…は?」
「アンタ、ファンだったよね。私が買って来た雑誌、勝手に見て言ってたじゃん。"この子、すげータイプ"って。その後もショーの動画見せたら、歩き方が綺麗で余計好きになったって言ってたよね?」
「……いつの話だよ」
「んーと二年前?」
「いちいち応えんな」

顔を反らし、コーヒーを飲む。
だが硝子は身を乗り出し、「ねえ、どう思ってるの?」としつこく聞いて来た。

「去年もの為にキレて夏油ボコった事、あったよね?その時は友達として大事に思ってるみたいな感じの話で終わったけど、結局のとこ、どうなの?」
「それを聞いてどうすんの?オマエ」
「べ、別にどうするとかって話じゃないけど…さ。あの時、の事に関してだけで言えば(!)五条は信用出来るかもって…思ったというか…」
「…さり気にディスってね?」

ジトっとした目で睨むと、硝子はあははっと笑って誤魔化した。

「好きだよ」
「…え?」
のこと」

一気にコーヒーを飲み干し、呪力を込めて潰すと豆つぶになった缶だったものをゴミ箱へ放る。
それが見事にホールインワンになり、カラン、と音がした。

「今……何とおっしゃいました?」
「あ?」

振り向くと、身を乗り出したまま、見事に鳩が豆鉄砲みたいな顔になっている硝子を見て、軽く吹き出した。

「何だよ、その顔。ウケる」
「好きって……どういう意味で?」

いつもなら、うるさいと返してくる硝子も、今はそんな気分じゃないのか、少しずつ真剣な顔になって、今では真顔でそんな事を訊いて来る。
自分で散々聞いて来たくせに、と思いながら小さく溜息をついた。

「意味ねぇ。Like or Love?って意味なら……まあ、Love、だな」
「ら…ららぶって……五条、マジで言ってる?」
「マジだけど」
「……はぁぁぁぁああ?!」

突然、怪獣かと思うような声で叫ばれ、たまらず両耳を塞いだ。
まあ、こういう反応するだろうな、とは思っていたけれど。

「っせぇなあ…。診察室まで響いたぞ、今の」
「だだだって…!い、いいいつから?!」
「………(どもりすぎだろ)」

見た事もないくらいパニくってる硝子も意外と面白いな、と思いつつ、いつから、と訊かれて首を捻る。

「最初から」
「えぇっ?」
「…のような気もするし、護衛任務後、のような気もするし…うーん…」
「な、ハッキリしなさいよっ」
「うるせぇなぁ…。そもそもファンとして好きなのか、違う好きなのか曖昧で自分でもよく分かんなかったんだよ」

ガシガシと頭をかきつつ、ふと出会った時の事を思い出した。
マリンを保護した僕に、は心から嬉しそうな笑顔を向けて、"この子を保護してくれてありがとう"と言ってきた。
あんな素直な"ありがとう"を貰ったのは初めてだったっけ。
僕の眼を見て、"宝石みたい"と、自分の方こそ宝石みたいに瞳を輝かせて言ってくれた事もあった。
親友の子を祓った時も、怒るどころか、逆に僕の気持ちを察したうえで酷い事を言ってしまった、と謝って来た時は本当に驚かされた。
もしかしたら、そういうの純粋な優しさ一つ一つが積み重なって、知らないうちに、惹かれていたのかもしれない。
今より更に捻くれてたあの頃の僕は、相変わらずの態度で彼女を何度も怒らせてしまったけど、結局は好きな子をイジメて楽しんでるガキと同じだったって事だ。
自分でも嫌になるくらい笑える。

「じゃあ…気づいたのはいつよ」
「気づいた…のは…」
「夏油と付き合う前、後?」
「ああ、それは…前、かな?多分」
「えっ!!!」
「…何だよ」

さっきから硝子の情緒がおかしい、と心配になりながら目を細めれば。
呆れたような顔で溜息をつかれた。

「じゃあ何であの時、夏油に良かったじゃん、なんて言えたわけ?フツー好きな子が自分の親友と付き合いだしたらショックじゃない?」
「そうか?お似合いだと思ったし、本当に良かった、と思ったから言ったんだけど?」
「げ…何その心の広さ。五条らしくなーいっ!」
「…僕の心はいつでも空のように広い―――」
「はいはい…」(!)

更に呆れたように手をプラプラ振る硝子に、今度はこっちの目が細くなる。

「まあ、冗談はさておき」
「冗談かよ」
「いちいち突っ込むな。まあ…ちょっと真面目な話すれば…僕は性格悪いし?」
「良く分かってんじゃん」
「硝子、後でマジシッペ10回ね」
「げっ」

思わず身を引く硝子に、苦笑しつつ、

「でさ。みたいな純粋な子には、傑みたいな男がいいんだろうな、と惹かれ合ってる二人を見てて思ったわけ。正直あの頃は自分でも自分の気持ちなんて具体的には分かってなかったし」
「分かるでしょーが、普通」
「いや…が泣いてたり、悲しい顔してたら何でこんなに気分が悪いんだろう、とは思ってたけど、その時点で胸のモヤモヤにどんな意味あるのかなんて分かってなかったかな」
「にっっぶっ!」

その突っ込みに思わず笑った。

「ほんと、鈍いにもほどがあるよな。前、傑にそう言った事があったけど…人のこと言えなくて嫌になった」
「それにしたって…。あの頃、五条がハッキリしてたら今、こんな事になってなかったのに…」
「いや、例えそうでもが傑に惹かれてるのは何となく気づいてたし、同じだったと思うけど?」
「まあ、そっか…」

硝子は溜息交じりで再びテーブルへ突っ伏した。
暫くウダウダしていたが、硝子はふと顔を上げると、

「じゃあ、さ」
「ん?」
「今は…?」
「今?」
に……伝える気はないわけ?」

伺うよう、ジっと僕の顔を見つめて来る硝子の顏は、意外にも真剣だった。
言いたい事も分かるけど、でも、それはきっと、

「ないね」
「何でよ!」

ガバリと顔を上げた硝子は、怒ったようにドンッとテーブルを叩く。
それを見て、ふと苦笑が漏れた。

が望んでないから」
「……え?」
はまだ傑のこと想ってるからこそ、あんなに傷ついてるんだ」
「…五条…」
「許せないのに、嫌いになれないから辛いんだ。思い出がありすぎて苦しいんだよ」

夕べのを見てて、よく分かった。
思い出の物を捨てたい、と思うのも、傑との事を全て忘れたい、と思うのも、そこに気持ちがあるからだ。
心から憎むことが出来れば、嫌いになれれば、きっとあそこまで心は削られない。
だからこそ、その記憶を消してあげられたら、と、無謀な事を思うんだ。

「じゃあ、さ」

硝子は軽く息を吐くと、何かを考えるように目を伏せた。

「もし……が、いつか夏油の事を忘れる事が出来て……五条の事を好きになったら?」
「……100パーならないと思うけど?」
「はあ?何で…そう思うの?」
「傑と僕は正反対だろーよ、どう見ても」
「そ……そうね」(!)

それでも硝子は諦めきれないといった顔で僕を真っすぐ見つめた。
そもそも何でそんな事を気にしているのかすら分からない

「で、でも!それでも…もし…が五条のこと好きになったら……アンタ、どうする?」
「そしたら…」
「…そしたら?」

ググっと身を乗り出して来た硝子の言葉に、しばし天井を仰ぎながら考えて、自然と浮かんだ言葉を言ってみた。

「幸せ」
「はぁぁぁぁっ?」

素直に思った事を口にしたのに、硝子は心底呆れたような声を上げた。

「どの口が言ってんの?五条のクセに何よ、幸せって。キモ!!!」
「失礼な奴だな、オマエ。そもそもそっちが聞いて来たクセにキモいとか、さすがの僕もムカつきますね」(棒読み)
「そ、そうだけど…。いや、違う!私が聞きたいのはアンタが幸せかどうかじゃなくて―――!」
「こら、さっきから何を騒いでんの」

そこへ累子さんが呆れ顔で歩いて来た。
どうやら診察は終わったらしい。

「累子さん、は?」

彼女の姿が見えず、尋ねると、累子さんは診察室の方を指で示しながら、

「ああ、今は点滴をしてるから、もう少し時間がかかる」
「そっか。それで体の方は…」
「まあ…衰弱はしてるな。精神的にも参ってるし…。でも今日からカウンセリングも始まったからね。少しずつでも心が回復していけばいいんだけど」
「カウンセリング…ですか」

硝子も心配そうに呟くと、隣に座った累子さんを見た。

「それって傷になってる事を自分の口から話したりしなきゃいけないんですよね?」
「まあ、そうね。ちゃんの場合は主に夏油傑との間にあった彼との会話だったり、してもらった事だったり、あとはスキンシップの類、かな」
「スキンシップって…夏油に触れられたりした時の事を思い出す…って事ですか?」
「そう。これが結構、根深いの。視覚、聴覚、臭覚、触覚とある中で、特に人間の脳が強く覚えてるのが臭覚なんだけど、次に触覚。ふとした時に思い出しやすい」

累子さんは大きく息を吐き出すと、無造作にポケットから煙草を取り出し、火をつけた。

「生徒の前で吸ったのバレたら極矢くんに怒られるから内緒ね」

と笑い、美味しそうに煙を燻らせた。

ちゃんの吐き気の原因はそういった事を思い出した時に症状が出るみたい。まあ…今回PTSDの原因となった対象が恋人だったから特に強く出ちゃうのかもしれないわね。 肩を抱かれたり、手を繋いだり、キスしたり、性行為とか、強く心に残ってしまうでしょ?愛情があれば余計に」
「そ…そう、ですね…」
「オマエが泣くなよ…」

不意に泣き出した硝子の頭に手を置く。
硝子は色々との相談に乗ってたみたいだから、その気持ちが理解できてしまうのかもしれない。

「許せない……」
「硝子……?」

涙を拭いながら、硝子がふと呟いた。

「アイツ…私に言ったの」
「…え?」
「新宿で話した時…の事を殺そうとしたのは何でって聞いたら…夏油は"愛してるから"って言った」
「………っ」
「"死んでしまえば、誰にも盗られない"って…。"このまま置いて行っても、どうせ嫌われる。その前に、まだ私の事を想ってくれてる間に、自分だけのものにしたかった"…そう言ってた」

拳を握りしめ、硝子は声を震わせていた。

「アイツの勝手な想いで…は今、あんなに苦しんでる…。許せないよ…っ」
「硝子……」

そっと、彼女の怒りで震える肩を抱き寄せると、硝子は両手で顔を覆った。
僕も、同じ気持ちだった。
許せない―――。
愛してるから、と、そんな理由で自分の想いを優先し、を傷つけた傑の事が。
今、目の前にいたら思い切りぶん殴りたい気分だ。

「まだまだ不安定だから…彼女の前ではなるべく、その頃の話題は避けて、ちゃんの好きな事を話してあげて」
「…はい」
「じゃ、そろそろ点滴も終わるし、ちゃん連れてくるわね」

煙草を灰皿へ押しつぶし、累子さんは診察室の方へ戻って行った。
それを見送りながら、未だ泣いている硝子を見て、「大丈夫か?」と声をかける。

「うん…に泣き顔は見せられないし、もう大丈夫」

そう言うと、硝子は涙を拭いて、徐にティッシュを出すと鼻をかみだした。

「はー!スッキリ!」
「女、捨ててるな、オマエ」
「は?五条の前で女出す必要性を感じない」
「あっそ。ああ、そうだ。を離れに送ったら、僕は任務行かなきゃいけないから、夜までのこと頼めるか?」
「そのつもりで来たのよ。任せなさい」

すっかりいつもの顏に戻った硝子を見て、ふと笑みが零れた。

「何を見て傑のこと思い出すか分からないからその辺気を付けて、一応夕べ割れたグラスは片付けて、もう一つはキッチンの棚の奥に隠してあるから見つからないようにして」
「分かった。あ、の好きなコレクションのDVD一緒に観ようかな。あ、ネイルのお手入れしてあげよ!あとは~」

楽しそうに、あれこれ考えている硝子を見て、本当にが好きなんだな、と苦笑した。
硝子も何だかんだ同じ歳の同性の友達がいなかったし、傍にいるのは野郎二人で寂しかったのかもしれない。
憧れてた彼女と仲良くなれた事が、凄く嬉しいんだろうし、大切に想ってるんだろう。
同時に、同じ気持ちだったはずの親友の心を思うと、苦い感情がこみ上げて来るのを感じた。