【第十四話】 記憶の鎖―後編



累子さんは、私の症状はPTSDだろう、と説明してくれた。
それを踏まえて、心理療法を受けてもらう、とも。

「まず原因となっている事を少しずつ語ってもらうわ。そこに向き合うことが怖いのは、とても理解出来る。
だからといって、いつまでも避けてばかり、逃げてばかりでいると逆効果になってしまうらしいの。
恐怖感に慣れることができないと普通の生活に戻ることもできないということを、ちゃん自身が理解することが大切よ」

そう言ってくれた累子さんに、私は、彼の事をどう思っていたのか、最初の出会いから、その後にどんな感情を抱き、好きになっていったのか。
そんな事を訊かれ、心のうちを少しずつ、ゆっくり話していくと、その間も、絶えず吐き気は襲って来る。
思い出したくないのに、名前を出すだけで胸の奥が焼けるような痛みを感じた。

「大丈夫?無理はしなくていいのよ?」

累子さんは私の背中をさすりながら、心配そうに言った。

「きっと……彼に言われた言葉や、触れられた記憶が、襲われたあの日の感情とリンクしてしまってるのね…」

ポツリと言った累子さんの言葉に、ハッとした。
思い出すのは、好きだった彼の笑顔、声、そして、私に触れる、優しい、手。
その手に触れられた肌のあちこちに、彼の存在を感じる。覚えてる。キスされた時の感触さえ。
幸せに感じてた、それらのものが、今は、忌まわしい記憶として、頭にこびり付いている。
あの、暑い夜、血の匂いがする中、彼の腕に抱きしめられ、口付けられた事まで―――。

「……ぅ…ゲホっ」
「大丈夫?!今日は…この辺にしましょ?あまり吐きすぎたら脱水症になってしまうから…。戻る前に点滴するわね」

私は絶え間なく襲って来る吐き気で、呼吸する事もままならず、何度か頷いた。
苦しくて、苦しくて、いつになったら前のように息が出来るんだろう。
これが永遠に続くかもしれない、と思うと、それだけで怖かった―――。

、喉、乾いてない?暖かい紅茶でも淹れようか」

診察を終えて、硝子ちゃんと離れに戻って来ると、マリンが嬉しそうにすり寄って来る。

「うん…ありがとう」

ベッドに横になると、硝子ちゃんは背中にクッションをいくつか置いてくれた。

「五条は任務行ったし、帰ってくるまで私が傍にいるから。五条の代わりの護衛もそれまで庭の周りにいるし」
「……ごめんね」
「何謝ってんの!私がの傍にいたいだけだから気にしないで」

硝子ちゃんは明るくいつものように笑顔を見せて、キッチンへ走っていく。
その優しさが、ただ嬉しかった。
なのに、私は未だにこんな状態で、先も見えず、ただ、痛みに耐えているだけ。
好きな事さえ、出来ない身体になった。
五条くんや、他の術師に守ってもらうほどの価値なんて、私にはないのに。

(ショーも…無理ね、こんなんじゃ…)

部屋の隅に転がってるハイヒールを見て、ふと諦めにも似た思いがこみ上げた。
こんな体でランウェイなんて歩けるはずもない。
あんなに、楽しみにしてたのに、そんな夢さえ、この手から零れ落ちていく気がした。

「はい、熱いから気を付けてね」

硝子ちゃんが紅茶を淹れて戻って来た。

「ありがと…」
「あ、気持ち悪くなったら言ってね」
「ん。今は…大丈夫。ありがとう」
「お礼なんていらないよ。あ、そうだ!の手のお手入れしようと思って、これ持ってきたの」

硝子ちゃんはそう言ってバッグからネイルケアのセットを取り出した。

、いつもネイルに気を遣ってたでしょ。だから私にやらせて。一応ネットで動画見て練習したんだ」
「え、硝子ちゃんが…?」
「うん。はい、手出して。まずはマッサージで血行を良くして~」

ベッドに腰をかけ、硝子ちゃんは嬉しそうに私の手をマッサージし始めた。
伸びた爪を切りそろえたり、甘皮を取ったりしながら、とても楽しそうだ。

「…硝子ちゃん、上手いね」
「え、ほんと?にそう言ってもらえると嬉しいなあ。練習した甲斐あった」

照れ臭そうに笑う硝子ちゃんを見てると、胸の奥がかすかに痛んだ。
こうしていると、少し前の自分に戻った気さえする。
あの頃は、笑ったり、泣いたり、忙しくて。
辛いこともあったけど、でも。
硝子ちゃんと色んな話をして、沢山相談に乗ってもらった。
そして、傍にはもう一人、優しいまなざしの―――。

「はい、出来た。どお……て、?どうしたの?」

不意に涙が零れ落ち、ハッと顔を上げた。

「泣いてるの…?」
「ご…ごめん…何でもないの…」
…」

泣いたらダメだ、硝子ちゃんが心配する。
私は慌てて涙を拭うと、

「お手入れありがとう。えっと…少し寝るね…」
「あ、眠い?じゃあ…ゆっくり寝て。はい」

硝子ちゃんは笑顔を見せると、背中のクッションを取って、そっと寝かせてくれた。

「あ、私、居間にいるから何かして欲しいことあったら声かけてね」
「…うん。ありがと」

硝子ちゃんは立ち上がると、居間に行って静かに襖を閉めた。
一人になると、小さく息を吐いて布団にもぐる。
こんなんじゃダメだと思えば思うほど息が苦しくなって、どうしていいのか分からなくなった。
心配かけたくないのに、こうしてるだけできっと、硝子ちゃんは私の事を心配してしまう。
私がいるだけで、皆に負担をかけてるような気がした。
嗚咽が漏れないよう、枕に顔を思い切り押し付けて、唇を噛み締める。

支配している不快な記憶を、頭から追い出して欲しくて。
誰か、助けて―――!
心が悲鳴を上げてるのに、誰にも助けを求められない。
今すぐ記憶を消して―――。

彼を、好きになっただけなのに。
たった、それだけなのに。
大好きな人も、彼を想う心も、失った。
今の私は、空っぽだ―――。

"…"

彼の声が、する。

"今は…とこうしていたい"

優しい声で、そう言ってくれた。
これは、あの夜だ。
初めて、彼に抱かれてもいい、と思った、あの夜。
私に優しいキスをしながら、彼の手が、肌に触れていく。
自然と息が上がって、体が熱くなって、心が、震えた――あの、夜の。

「………っ」

フラッシュバックのように、あの夜の記憶がよみがえり、思わず飛び起きた。

「はあ…はぁ……」

呼吸が荒く、肩で息をする。
体中から汗が噴き出していた。
気づけば眠っていたらしい。
すでに夜なのか、室内は真っ暗だった。

「…ぐ…っ」

不意に強い吐き気に襲われ、慌ててベッドの下に置いてある容器に全て吐き出した。
気持ち悪い、彼の触れたとこ全部。
思い出したくもないのに、肌が、覚えている。
全て、洗い流してしまいたい、と思った。

「…?!大丈夫?」

気配で気づいたのか、硝子ちゃんが居間から顔を出した。

「吐いたの?凄い汗…っ」
「しょ…硝子ちゃん……お風呂…入りたい…」
「あ、そ、そうだね。お風呂は沸かしてあるから…じゃあ私に掴まって」
「ありがと…う」

未だこみ上げて来る吐き気を我慢しながら、手を貸してもらい、バスルームまで歩いて行く。
汗で服が肌に張り付いてる感じが余計に気持ち悪い。

、一人で入れる?」
「…うん…大丈夫…」
「じゃあ、着替えとか置いておくから気をつけて入ってね」
「うん…」
「この風呂、無駄に広いから足元気を付けて」
「ありがとう、硝子ちゃん…」
「お礼はいらないって言ったでしょ?じゃあ、バスタオルはここに置いておくから」

硝子ちゃんはそう言ってバスルームのドアを閉めた。
ホっと息をついて、汗で濡れた服や下着を脱ぐと、すぐに熱いシャワーを出して、頭から浴びる。
転ばないようにしゃがむと、また吐きそうになって床に手をついた。

「……ごほっごほっ」

胃液すら出なくて咳き込むと、苦しくて涙が浮かぶ。
それを我慢して、泡立てたリリーで気持ち悪いところを強くこすっていく。
彼の触れたところ全て、その記憶を消すように、何度も何度も洗う。
気づけば肌が真っ赤になっていて、少しだけヒリヒリした。

「……く…っ」

同時に涙が止まらなくて嗚咽が漏れる。
何度こうして洗ってみたところで、記憶がある限り、同じことの繰り返しで、少しも心が楽にならない。

「…?着替え、置いておくね」

その時、脱衣所の方から硝子ちゃんの声がした。

「…う…ん。ありがと…」
「あと、ちょっと夜蛾先生に呼ばれたから高専行って来るけど、大丈夫?」
「私なら…大丈夫…」
「もうすぐ五条も戻って来るから、そしたら手、貸してもらってね。あ!でもちゃんと服着てから呼ぶんだよ?」

そう言いながら硝子ちゃんは明るく笑うと、「じゃあ、行って来るね」と言って離れを出て行く音がした。
硝子ちゃんがいなくなっただけで、急に辺りが静かになったような気がする。
シャワーの音だけが響き、軽く身震いした。
濡れた髪が肌に張り付き、気持ち悪くて手早く洗う。
トリートメントを洗い流し、濡れた顔の水気を手で払うと、軽く息を吐いた。
それだけで酷く疲れた気がして、湯船には入る気にならない。
ドアを開け、脱衣所を見れば、新しい着替えとバスタオルが綺麗にたたんで置いてある。
それを手に取り、濡れた髪を拭いて、硝子ちゃんが置いてくれたルームウエアに着替えた。
ふと横を見れば、化粧品などを入れてあるポーチがあり、中から化粧水を取り出す。
だが、手の力があまり入らず、するりとポーチが落ちて、カシャンと音を立てた。

「いけない…」

化粧品が割れたかもしれない。
すぐにしゃがんで中を確認してみると、幸い割れたものはなくホっとした。
その時、手にチクっとした痛みが走り、慌てて手を抜くと、指先が少しだけ切れて血が出ている。
中を見れば、剃刀のキャップが外れていた。
剃刀を取り出し、キャップを探したが、良く見えない。
仕方ない、とまずは切った指を洗い流すのに、立ち上がろうとした時、軽い眩暈がして洗面台に手をついた。
軽く頭を振り、治まるのを待っていると、出血している指の血が、ポトリと落ちた。
白い洗面台に赤い液体が流れていくさまに、ドクンと心臓が跳ねる。

「血…」

あの夜も、流れてた、私の血。
生暖かい血を吐き出した瞬間の、喉へ垂れていくおぞましさ…。

"―――猿は嫌い"

唐突に思い出した、彼の、言葉。
あの瞬間、胸を貫かれた事まで、はっきりと思い出し、足が震えてきた。

「い…いや……」

"……そこに君は連れていけない"

「…ぃやぁぁああっ!!」

思わず、耳を塞いだ。
思い出したくない。
何もかも、彼の全てを、消して―――。

声を上げながら、窓の外を見上げれば、あの夜に見た霧に隠れたおぼろ月が、泣いているように浮かんでいた。