【第十三話】 もし君を許せたら―前編



新宿で傑と話した後、高専に戻った俺を、夜蛾先生が待っていてくれた。

「何故、追わなかった」
「………それ、聞きます?」

溜息交じりで石階段に腰を下ろし、ポツリと言った俺に、夜蛾先生は何かを察したのか、「いや…いい。悪かった」とだけ言って、項垂れている。
ふと顔を上げ、隣に立った先生を見ていたら、ほんの、少しだけ。
弱音を吐きたくなった。らしく、ないけど。

「先生」
「ん?」
「俺……強いよね?」
「あぁ。生意気にもな」

苦笑を零し、夜蛾先生が俺の頭をぐりぐりっと撫でて来た。
その力強い手に、何故か喉の奥が痛くなる。

「でも…俺だけ強くてもダメらしいよ」
「………」
「俺が救えるのは……他人に救われる準備があるヤツだけだ」

言ってから、苦い思いがこみ上げた。
どうして、傑があそこまで堕ちる前に、気づけなかったのか、と後悔だけが残る。
アイツの心の闇に少しでも気づいてやれたら…今とは違う未来があったんだろうか。

俺が無茶をして、それを止めるのは、いつも傑の役目だった。
傑が隣にいたから、俺は好き勝手やれていたんだな、と改めて気づかされた。
これからは、誰も俺を止めてくれるやつなんていない。
俺が間違った事をした時に、本気で叱ってくれるやつもいない。

突然、置いてきぼりを喰らった気分だ―――。

"君は五条悟だから最強なのか?最強だから五条悟なのか?"

いや、もしかしたら傑も、そんな気分だったのかもしれない。
ふと、アイツに言われた事を思い出し、そう思った。
きっと傑も、心のどこかで、俺に置いて行かれた―――。そう、感じていたのかもしれない。
そこに気づいた時、俺の中の苦い思いがいっそう深まった気がした。
いくら後悔したところで、二度と、傑は俺の隣で笑う事はない。ならば―――。

これからは全て、自分で考え、判断し、答えを出さなければならない。
今の自分じゃダメだ。今の俺じゃ…
変わらなければ、俺はずっと、この場所に立ち止まったまま、一歩も前に進めない。
誰も守れない…を、守れない―――。

「先生…」
「ん?」
「俺……心入れ替えるわ」
「何だ、急に」

夜蛾先生は驚いたような顔で、俺を見下ろした。

「今の俺じゃ……ダメなんだって痛感した。もっと…」
「もっと…?」
「いや……」

俺一人が強くてもダメなら、この呪術界全体を強くすれば、何か変わるんだろうか。
でもそれをするなら、あの下らない爺どもをどうにかしなきゃならない。
利用できるものは何でも利用し、安全な場所でのうのうと笑ってるアイツらが上でのさばっている限り、呪術界は腐っていくだけだ。
術師は使い捨ての駒として、弱者はただの餌として、利用され、捨てられるだけ。
心身ともに強く、聡い術師が増えれば、俺と並んで共に歩めるくらいの術師が増えれば、あるいは―――。

「せんせー」
「何だ」
「教師って……どうやったらなれんの?」








特級呪詛師の夏油傑が、友人関係にあったを襲撃してから約二週間。
傷も回復し、どこにも異常が見当たらないというのに、彼女は一向に目を覚ます気配がない。

「ふむ…他に何か原因でもあるのかな?」

だいぶ血色の良くなった彼女の顔を見ながら、私は軽く息をついて、手にしたコーヒーカップを口へと運んだ。

(そもそも夏油傑は何故、彼女を?護衛任務で知り合い、友人になったと硝子は言っていたけど…)

五条くんと硝子の話によれば、夏油傑は非術師をこの世から消そうとしているらしい。
また突拍子もない話だが、でも、だからといって、手配された最中わざわざ見つかりそうな場所へ行き、彼女を殺そうとした理由が曖昧だ。

(まあ…思い当たるとしたら…やはり二人は…)

先日、樹くんに追及された時の硝子の態度を見れば、私の勘は当たっていると言っていいだろう。
ただ樹くんの事を多少、彼女から聞いていたのか、その話を父親である樹くんに勝手に話すのは躊躇われる、といったところか。

「もしそうなら…心の方が心配かな…。やっぱり硝子にその辺の事を詳しく聞いておかないと今後の対処が出来ない…」

独り言ちながら、窓を開けて外の空気を入れると、カーテンがふわりと揺れて気持ちのいい風が入って来る。

「うーん、金木製の匂い…。明日から十月だし、すっかり秋だね」

思い切り空気を吸い込んで腕を伸ばす。
ここ最近は彼女に付きっ切りで高専の外に出ていないが、彼女が目を覚ましたら、知り合いの精神科医に会いに行ってみようか、と思っていた。
その時、僅かな気配を感じ、ふとベッドの方へ振り向いた。

「………ッ?」
「ここ……どこ、ですか…」

先ほどまで横になっていたが、その体を起こし、室内を不思議そうな顔で見渡していて、思わず息を呑んだ。
驚きはしたが、すぐに気持ちを落ち着かせると、私は笑顔で彼女の方へ歩いて行く。

「えっと…ちゃん?私は江藤累子えとうるいこ。硝子の先輩で高専で医師をしてるの。ここは高専内にある病室よ」

まずは名乗り、不安にさせないよう、彼女の友人である硝子の名前を出す。
彼女はやはり、その名に反応し、ふと私を見上げた。

「硝子…ちゃんの…先輩?」
「ええ、そうよ。累子って呼んでね」
「累子…さん」
「ええ。それで…体調の方はどう?どこか痛むところはあるかしら」

そう尋ねると、彼女は少し首を傾げて、それから小さく首を振った。

「そう、良かった。ああ、喉乾いたでしょ?これ、飲んで喉を潤して」

常に用意しておいた常温の水をグラスに注ぐと、彼女の細い手に持たせる。
二週間も寝たきりだったのだから手に力が入らないだろう、と思い、グラスを持つ手を支えるようにすると、彼女はゆっくりと水を飲みほした。

「あ…ありがとう、御座います…」
「まだ体力が戻ってないから、もう少し横になってましょうか」

そう言いながらちゃんの体をそっとベッドへ寝かせると、彼女は初めてその大きな瞳を揺らした。

「私……助かっちゃったんですね……」
「え…?」
「彼……夏油くん、は……ぐっ…」
ちゃん?!」

何かを言いかけた彼女は、突然手で口を押え、今飲んだ水を吐き出してしまった。
驚いて背中をさすりながら、「大丈夫?!」と声をかけると、彼女は苦しそうに咳き込みながら、胸を押さえている。

「す…すみませ……き…気持ち悪い……」
「いいのよ、無理に止めないで吐いちゃって。ああ、でも吐くものもないわね…」

背中をさすっていたが、未だ吐き気がするのか、彼女は苦しそうに涙を浮かべている。
その様子を見て、これは精神的なものからくる嘔吐かもしれない、と思った。

(こんな時に限って硝子と五条くんは任務でいないし、樹くんはさっき買い物に行くとか言って出かけちゃったし…困ったな)

そう思っていると、不意に病室のドアが開き、樹くんが戻って来た。
が、娘が起き上がっているのを見て驚いたのか、手にしていたコンビニの袋をボトリと落としている。

…っ?」
「さっき気づいたんだけど水を飲ませたら吐いちゃって…まだ苦しいみたいなの」

樹くんはすぐに駆け寄り、彼女の手を握ると、「、大丈夫か?」と声をかけた。
すると彼女も酷く驚いたように顏を上げた。

「お…お父…さん…?な…何で…ごほっ」
「無理に話すな。ゆっくり呼吸して…そう…ゆっくり」

樹くんは娘の背中をさすりながら、優しく声をかけている。
彼女も父親の顔を見て安心したのか、呼吸も安定しはじめ、私はホっと息をついた。
樹くんはそのままベッドへ腰を掛け、彼女を抱きしめながら、「大丈夫だから。大丈夫」と言って、あやすように背中をポンポンと叩いている。
その姿を見ていると、ああ、彼は本当に父親になったんだ、と今更ながらに実感が沸いて来た。

制服のデザインを頼んだ若手デザイナーだった一葉さんと、術師を引退して高専で教師をしていた樹くんが知り合い、結婚すると言い出した時は本当に驚いたっけ。
その後、娘が産まれたんだ、と嬉しそうに報告してきた時は、あの樹くんが父親?と想像すら出来なかった。
でもこうして初めて父娘を見ていると、案外いいお父さんになったんだな、と思うのと同時に、過去の想いが胸を痛くさせた。

「あれ……また寝ちゃったみたいだ」

樹くんは苦笑しながら、彼女をそっとベッドへ寝かせ、その額に口付けた。
その様子を見ていると、話しに聞いた通りの娘バカだ、と思わず目が細くなる。

「まるで恋人ね」
「え?」
「そりゃ一葉さんともケンカになるはずだわ」
「…凌士から聞いたの?アイツ、余計な話をペラペラと…」

苦笑する私を見上げ、樹くんは照れ臭そうに目を細め、唇を尖らせている。
そういう所は昔と少しも変わっていない。

「それより…と何か話したか?」
「ううん。話す前にあんな状態になっちゃって…。でも……」
「でも?」
「あ、ううん、何でもない。ただ今は体力もないし、今後は軽めの食事を摂らせたいんだけど…」

あの様子ではまともに食事が出来るか分からないな、と心配になった。
それに、さっきのあの言葉…。

"私……助かっちゃったんですね……"

あれは一体どういう意味だったんだろう。
そして、夏油傑の名を口にした途端、吐いてしまった。
やっぱり硝子に詳しい話を聞かなければならない。
それまでは樹くんにも話さない方がいい気がした。

「とりあえず、僕は一葉にが目を覚ましたって連絡してくるよ」
「そう、そうね。私も硝子と五条くんに連絡入れなくちゃ。そう約束してるの」
「じゃあ二人への連絡は累子に任せるね」

そう言って樹くんは嬉しそうな笑顔を見せると、ケータイを手に廊下へと出て行った。
それを見送り、小さく息を吐き出すと、私も二人に連絡を入れる為、ケータイをポケットから取り出した。

「夏油傑、か…。彼とちゃんの間に、何があったの…?」

ふとベッドで眠る彼女を見れば、小さな涙が一粒、零れ落ちた。








累子さんから、が目を覚ましたと連絡が来て、急いで高専に戻ってみると、待合室には先に帰っていた五条の他に、樹さんと一葉さんがいた。

「ああ、硝子。待ってたわ」
「累子さん、はっ?」
「一度気が付いたんだけどね。ちょっと嘔吐しちゃって、その後にまた眠ってしまったの」
「……嘔吐…」

そう聞いて胸の奥が痛くなった。
目が覚めた時、はどんな思いを抱いたのか。
それを考えるだけで、私まで胃がキリキリ痛む。

「それでね、ちょっと聞いておいた方がいいと思って」

累子さんは真剣な顔で、私を見た。

「え?」
ちゃんと、夏油傑の間に…何があったのか」
「……っ」

累子さんの言葉にドキっとして、私は無意識に五条を見てしまった。
五条は軽く首を振ると、「俺はまだ何も話してない」とだけ言った。

「ま…俺よか硝子の方が詳しいだろ?」
「……うん」

私が頷くと、累子さんは私の両肩を掴んだ。

「ちゃんと事情を知らないと、今後どう対処していけばいいか分からないから出来れば最初から詳しく教えて欲しいの」
「最初から…」
「ええ。二人の間のこと。硝子が知ってる事だけでいいわ」
「…はい」

累子さんの言葉に頷いたものの、の両親の前で、特に樹さんや五条にまで全てを話していいものか考えていると、樹さんが私の方へ歩いて来た。

「男の僕らの前じゃ話しにくいなら席外すよ」
「…え?」

驚いて顔を上げると、私の頭にポンと手を乗せ、樹さんが微笑んだ。

「そんな顔してる。まあ…僕にしてみれば聞きたくもない話になりそうだから」

笑いながら軽く舌を出す樹さんに、私は何と応えていいのか分からず、黙って目を伏せた。
優しいところはそっくりで、私に気を遣ってくれる樹さんの気持ちが嬉しかった。

「じゃ、五条くん。男同士で風呂でもどお?任務からトンボ帰りで風呂まだでしょ」
「え、あ…まあ」
「大浴場に行こうよ。あそこ広くて気持ちいいからさ」
「え、大浴場って…生徒は入っちゃダメなんじゃないすか…?」
「あ~いいの、いいの。僕と一緒なら文句言われないっしょ。僕、元教師」

樹さんはそう言って笑うと、戸惑い顔の五条の肩を抱いて歩いて行く。
それを見送りながら累子さんは苦笑すると、「相変わらずね、樹くん」と肩をすくめている。

「昔っからテキトーでルールも無視して、しょっちゅう極矢が怒ってたわ。また樹が"帳"忘れて暴れたーって」
「今もあまり変わってないわよね、あの二人。極矢学長によく怒られるってボヤいてるし」

一葉さんもちょっと笑いながらそんな事を言っている。
その話を聞いて、私も思わず吹き出した。

「何か…樹さんって五条みたいですね」
「あ~。言われてみれば似てるとこあるかもね。強気で生意気だったとことか」

累子さんはそう言いながら笑うと、

「樹くんも引退する前は特級術師になったくらい強くて、そういうとこも二人は似てるわね」

それを聞いて、私はギョっとした。

「と…特級?樹さんって特級術師だったんですかっ?」
「そうよ?まあ色々あって引退しちゃったけど、続けてれば今も呪術師として暴れてたんじゃないかしら」

その話を聞いて唖然としていると、一葉さんが「今だって極矢学長にはコキ使われてるけど」と笑った。
何故引退したのかは分からないが、確かに初めて会った時に見たあの身のこなしは非術師のものではなかった事を思い出す。

(通りで…。特級呪具があったとはいえ、呪力もない樹さんが夏油の放った二級呪霊数体を瞬殺してたのはそういう事だったんだ…納得)

というか今でも現役で戦えるんじゃ?とまで思った。
どんな理由で引退したのか分からないが、樹さんが今、呪術師として一緒に戦ってくれたらどんなに心強いんだろう。

「何か…不思議です」
「え?」
「任務でと知り合って…非術師だと思っていたのお父さんが呪術師だなんて…。そういう縁が合ったんだなと思うと嬉しくて」
「そうね。も…ほんと皆の話をする時は嬉しそうで…。それまで仲の良かった夕海ちゃんがあんな事になって心配してたんだけど、私もホっとしてたの。なのに…」

一葉さんはそう言って溜息をついた。

「夏油くんなら…を大事にしてくれるって思ったのに…」
「……やっぱり…ちゃんと夏油傑は…恋愛関係にあったのね」

一葉さんの言葉を聞いて、累子さんは静かに言った。

「はい…。私が知ってること…全てお話します」

と夏油がどういう経緯で惹かれ合い、付き合いだして、どう関係を築いて行ったのか。
軽く深呼吸をして、私はこれまでの二人にあった事を、一つ一つ思い出しながら話して行った。









「あ~!気持ちいいー!」

大浴場に浸かりながら、両手両足を伸ばして叫んでいる樹さんの隣に腰を下ろし、苦笑しながら俺も肩までお湯に浸かった。
こんなにゆっくり風呂に浸かったのは久しぶりだ。

「あーマジ気持ちいい~。こーんな広いとは思わなかったけど」
「だろ~?僕も教師になって初めて入った時は驚いたよ。今も高専に寄ったらこっそり入ってる」
「夜蛾先生に見つかったらゲンコツの刑だけじゃ済まねーな……」

あのゴツイ顔を思い出して顔をしかめると、樹さんは笑いながら、

「ああ、僕もよく正道にはゲンコツ喰らったなぁ。アイツ先輩の僕に対しても容赦なかったし」
「え、樹さんも?夜蛾先生って後輩なの?しかもゲンコツって…」
「うん。正道は僕の一つ下。まあ、僕、昔は問題児だったから」
「問題児って…まあ、俺もよく言われるかな…」

そう言いながら、もう一人、いつも隣にいた問題児を思い出し、軽く目を伏せた。
樹さんはふと俺に視線を向け、すぐに天井を見上げると、

「五条くんはさ、これからどうするの」
「…え?」
「いや、どうしたい?」
「どう…って…」

樹さんは黙って俺が応えるのを待っているみたいだった。
だけど、正直どうしていいのか、俺自身もまだハッキリとは分からない。
今はただ、流されるまま任務をこなして、それ以外の時間はの傍で彼女を守る。
それしか考えていなかった。
傑があそこまで堕ちる前に、気づくことが出来なかった、止める事が出来なかった自分に対する怒りが、まだ心の奥で燻ってる。
だけど、答えのような道筋は、少しだけ見えてきた気がしていた。
樹さんは何も応えようとしない俺を見て、優しい笑みを浮かべた。

「五条くんにとって…夏油くんは親友だったんだね」
「……向こうはそう思ってなかったみたいですけどね」
「そう?」
「じゃなきゃ、あんなバカな真似しないでしょ…」

そう呟きながら、思わず失笑した。
ずっと、一緒だと思ってた。
何の根拠もなく、俺の隣には傑がいて。
この先も一緒に呪術界を引っ張っていくものだと、そう思ってた。
でも、その親友はもう、いない。
俺を置いて、遠いところへ行ってしまった。

「五条くんにとって…彼はどんな存在だった?」
「どんなって…」

唐突に聞かれ、俺は答えに困った。
だが、樹さんの優しい目を見ていると、心のうちを、何故か話したくなった。
樹さんは彼女と同じ、優しくて、暖かい空気を持ってる。

「…傑は…俺が無茶してバカやった時、正しい道を示してくれるような…そんな奴でした」
「そう…」
「でも俺は傑に言われること全て説教としか思ってなくて…いつも聞き流してた…。傑はそれでも懲りずに…何度も、何度も、……っ」

俺が間違えた答えを出した時、いつも正しい方向へ導いてくれたのは、傑だった―――。

これまで、傑に言われた言葉一つ一つ思い出して、喉の奥が痛くなった。

"いいかい、悟。呪術は非術師を守るためにある"
"一人称「俺」はやめた方がいい。特に目上の人の前ではね。「私」「最低でも「僕」にしな。年下にも怖がられにくい"

傑が俺の為に言ってくれた言葉だ。
不意に涙が零れ落ちた。
嫌いに、なれたらいいのにな。
嫌いになって、憎しみあって、オマエを―――。

「いい…友達だったんだね」
「……っ」

樹さんは俺の頭をそっと抱き寄せ、そう呟いた。

「夏油くんは…優しすぎたのかもしれない…。常に弱い人の立場に立って物事を考えていた彼が、弱者の醜い顔を見て、自分の中の正しい道が見えなくなって、術師が命を懸けて守るべき対象は何なのか、分からなくなったんだよ」

樹さんの静かな声が心地よくて、俺は黙って聞いていた。
らしくないくらい、涙が止まらなくて。
俺は、こんなに弱かったのか、と、自分でも驚いた。
"最強"が聞いて呆れる。
俺は、これから変わらなければならない。
力だけ強くてもダメなんだってこと、思い知らされたから。

「五条くんと夏油くんの道は分かつことになってしまったけれど、一緒に過ごした時間は消えない。彼に教わった正しいことは無駄にしないでね」
「…はい」

優しく頭を撫でる樹さんの言葉は、自然と俺の心に沁みた。

「樹さんは…」
「ん?」
「傑のこと、怒ってないのかよ…?」

大切な娘を傷つけた傑のことを、何故この人は"優しい"なんて言えるんだろう、と思った。
そういう樹さんこそ、優しすぎるだろ。

「怒ってるよ、もちろん」
「…え?」

驚いて顔を上げると、樹さんは思い切り目を細めていた。

「僕はね、を心から愛してるから。彼女を傷つける奴は絶対に許せない。でも…きっとも彼の事を大切に想っていた時間があったんだろうし、五条くんにとっても大切な親友なら…過去の彼の事まで嫌いにはなれないよ」
「………」

この人は、ほんとに。
ああ、そうか――――。
こんなに優しい樹さんに愛されて育ってきたから、彼女はあんなにも、純粋なんだ。

のこと、頼むね。五条くん」
「え?」
にとって、これからがツラいと思う。でも…傍に自分を必要としてくれる人がいれば、きっと立ち直ってくれると思うんだ。だから…と仲良くしてやって」
「……はい」

優しく微笑む樹さんの前では、何故か素直になれて、俺は自然と頷いていた。
その時、風呂場の扉が開く音がして、ハッとした時には、夜蛾先生が驚愕の表情で立っていた。(もちろん素っ裸)

「うお!オ、オマエら!何やってんだ…っ男同士でっ」
「………え?」

夜蛾先生は顔を真っ赤にして驚いている。
そこで気づいた。
俺は樹さんの肩に顔を押し付けている状態で、頭を撫でられている、という傍から見れば、多分BL的な光景。(!)
男同士、しかも素っ裸で抱き合っていれば、夜蛾先生みたいな反応になるのも当然かもしれない。
俺は慌てて離れると、「ち、違う!」と首を振ったが、樹さんは全く気にもしてない笑顔で、夜蛾先生に手を振った。

「正道も、一緒にどう?」
「樹さん!アンタ、また勝手に入って…しかも五条まで…て、オマエら、どういう関係だ!」
「何って男同士、裸の付き合いでしょ。そんなゴツイ顔を赤くしても気持ち悪いだけだよ ♡」
「ちょ、樹さん、離して…っ」
「うううるさい!裸の付き合いはいーからオマエら、早く離れろ!」

その後、夜蛾先生の誤解を解くのに一時間はかかってしまった。