【第十六話】 正しくなどなくても―後編



「え……五条くん…と?」

累子さんは心底、驚いたような顔で、私を見つめた。
午後の診察に来た時、私の外見や内面の変化に気づいた累子さんには到底隠しておけず、きちんと夕べの事を話してみた。
治療してくれる彼女には、それが必要だと思ったのと、私もどうしてこんなに気持ちが楽になったのか、訊いてみたかった。
だから恥ずかしいのを我慢して、夕べ、どういう状況で、私がその時、どう辛かったか、五条くんに抱きしめられて、どう思ったか、そして何故そんな事を彼に頼んだのか。
出来る限り、詳しく説明してみた。
累子さんは黙って聞いてくれていたが、一通り話し終えると、大きく息を吐き出し、困ったような笑顔を浮かべた。

「それはまた…荒療治的な方法を取ったわね」

そう言われて一気に顔が赤くなる。
頭でそんなことを考えていたわけじゃない。
あの時は自分が壊れてしまいそうで、ただ、助けて欲しいと強く思っただけだ。

「まあ、でもショック療法みたいな感じだし、そっちの方が強く脳に作用するから、ある意味正解だったのかな。特に信用出来る相手が傍にいた事が一番良かったのよ」
「…五条くんは…私の気持ちを一番分かってると思ったから…素直に助けてって言えたんだと思います」
「そうね。でも、それで情動的記憶が上書きされた事は本当に良かったわ」
「情動的記憶…?」
「そう」

累子さんは頷くと、立ち上がって、私の隣に腰を下ろした。

「記憶にも様々な種類があるの。事実的記憶や情動的記憶。単純に起きた記憶と、感情が絡まった記憶なんだけど…
分かりやすく言うとね。"今日、大切な指輪をなくしてしまった"。これは事実的な記憶で、"その指輪は恋人からのプレゼントで凄く悲しい"。これは情動的な記憶なの。 ポイントは、記憶の中には事実と感情があるということ。そして、記憶の中の事実そのものを消すことは出来ないけど、それに繋がる辛い感情は消せるということなの」
「消せる…」
「例えばちゃんが幼い頃に友達の前で何か恥ずかしい失敗をしてしまったとするわね?それを友達に散々からかわれて悲しい思いをしたせいで、これは記憶から消したい記憶になる。 だけど、それを今、大人になって当時の悲しい記憶のまま残ってる?残ってないでしょ。恥ずかしかった事実、として記憶には残っていても、子供の頃のちょっとした笑い話になるじゃない」
「そう、ですね…多分」
「それは時間が過ぎて、情動的記憶が事実的記憶に自然と変わっていったからなの。こんな風に人は辛い記憶にまとわりついた辛い感情だけを削ぎ落として情動的記憶から事実的記憶に変えることが出来るのよ。
辛い感情が消えれば、その出来事を思い出すたびに辛い思いをしなくて済むし、思い出したくもない辛い記憶を必死に抑え込もうとする必要もなくなるの。
もちろん記憶から感情だけを削ぎ落として事実的記憶になっても、その記憶が消えるわけじゃない。でも辛い感情がなくなった事実的記憶はただの思い出の一つになって、特別なきっかけがない限り思い出すことがなくなるわ。
つまり、別れによる辛い記憶も事実的記憶になれば日常生活で思い出す事がほとんどなくなるのよ」

累子さんはそう説明しながら、私の肩を抱いた。

「まあ今回、その治療をやっていこうと思ってたんだけど…五条くんのおかげで普通よりも早く辛い記憶が薄まったんだと思う。ちゃんの心が辛い記憶を過去のものとして認識してきてるって事かしら」
「過去のもの…」
「まあ、まだそこまで時間が経ったわけじゃないから、実際に顔を会わせたりとか特別なキッカケがあれば、また辛くなることもあると思うけど、前ほど重たい症状は出ないと思う。多分ね」
「はい…」

私が頷くと、累子さんもホッとしたように微笑んでくれた。
そして、ふと思い出したよう、私を見ると、

「ところで…その、アレはちゃんとしてくれたの?」
「あれ?」
「避妊」
「………ッ」

まさかの話で真っ赤になった。
でも大事なことだっていうのは分かってる。
夕べ、五条くんはちゃんと俗にいう避妊具というものを私の知らない間に付けてくれてたようだ。
何でそんな物を都合よく持っていたのかは知らないけど、まあ、そこはあの五条くんだから、という事で納得した。(!)
応えを待ってる累子さんに何とか小さく頷くと、彼女はホっとしたように息を吐いた。

「大事な事だから良かった。五条くんもあなたのこと、大切に思ってるみたいね」
「え…?」
「避妊具は主に女性の為の物だから、大切な子の体を守りたいって思ってくれる男性なら、女性から言わなくても自分でつけてくれるはずだしね」
「大切…?」
「だってもし妊娠、なんて事になれば辛い思いをするのはちゃんだもの。まして二人は恋人同士でもない。この若さでそうなって困るのはあなたでしょ?」
「…じゃあ五条くん、そんな事まで考えて…?」
「それは分からないけど。いい加減な気持ちじゃなかったって事なら、そうね。いい男なんじゃない?」

累子さんは笑顔でそう言うと、

「今後は落ちた体力を戻すのに、きちんと食事して、軽めの運動もしないとね」
「はい。あ、あの…二か月後のショーに出たいんですけど…それまでに体、戻せますか?」
「もちろんよ。今言った事を実行していけば、元々ちゃんはちゃんと運動して健康的な生活を送ってたみたいだし、前のように動けるようになるまで、そんな時間はかからないわ」
「良かった…」

そこで私もホっとして、つい笑顔になった。
すると、累子さんは、「そんな明るい笑顔、初めて見たわ」と苦笑した。

「ほんと、笑顔なんか樹くんにそっくり」
「え…お父さん、ですか」
「そんな嫌そうな顔しなくても」

クスクス笑う累子さんに、思わず頬が赤くなった。

「あの…累子さんはお父さんと同級生なんですよね」

ふと、先日父から聞かされた事を思い出し、訊いてみた。

「ええ、そうよ」
「学生の頃のお父さんって…どんな感じだったんですか?」
「そうねぇ…今よりヤンチャでテキトーで、言ってみれば少し前の五条くんそっくり、だったかな」
「え……五条くん、ですか」

その話を聞いて、私は少し驚いた。
私の覚えてる限り、父はかなり親ばかで私に甘く、一言で言うと優しい人だ。
ヤンチャ、と言われると、あまりピンと来ない。しかも五条くんに似てる、なんて。

「五条くんほど気性は荒くないと思うんですけど」
「あはははっ。まあ、今の樹くんはね。でも若い頃はそりゃー生意気で、後輩の夜蛾くんにまでしょっちゅう説教されてたわよ?」
「え…夜蛾って…硝子ちゃんや五条くんの担任だとかいう…」
「ええ。極矢くんなみにゴツい顔してるクセに、可愛い呪骸ばっか作ってる変わった人だけど、凄く頼りになるいい先生になったわ」

じゅがいって何だろう、と思いながら、父が後輩術師に説教を喰らっているところを想像すると、少し意外で笑えてくる。
まさか本当に父までが高専に通い、五条くん達みたいに呪い相手に戦ってたと聞かされた時は驚いたけど、不思議な縁だな、と嬉しくなった。

「あーでも樹くんで思い出したけど…この話、バレたらアイツ、キレそうで怖いな」

ふと累子さんが思い出したように呟き、ドキっとした。
累子さんに話したのは医師として話を聞いてもらう必要があったからだ。
だけど親にこの話をするのは、いくら何でも気まず過ぎる。

「あ、あの…五条くんとの事はお父さんに話さないとダメですか?」
「ダメって事はないけど、ちゃんがこんなに回復した理由は訊かれるでしょうね、きっと。今も一葉さんにもちくいち連絡は入れてるし」
「え…っ。そ、それは…ちょっと…」

思わず顔が引きつると、累子さんも困ったように笑った。

「そりゃそうよね。初体験を治療的な目的で済ませた、なんて両親には言いにくいでしょ」
「ち、治療的とか…そんな事は考えてなかったんですけど…」
「でも、そうね。例えば、五条くんが本当に恋人になったら…二人にも言いやすいと思うんだけど、そんな感じはないのかな?」
「えっ?」
「そんな驚かなくても」

動揺した私を見て、累子さんは苦笑すると、

「まだ夏油くんのことがあったばかりで、ちゃんの気持ちが次の恋に向かいにくいのは分かってる。でも、新しく恋をすればするほど、心も元気になるし、さっき言ったように過去の情動記憶は消えていくわ」
「そ…それは…」
「五条くんのこと、どう思ってるの?」
「え…っど、どうって…?」
「だから、男として、どうなのかなって。少なくとも好意がなければ、そんな事は言わなかったでしょ?」
「それ…は…そうですけど…」

改めて訊かれると困ってしまう質問だ、と思った。
これまで、五条くんの事を異性として見て来たか?と問われたら、多分応えはNOだと思う。
私が好きだったのは夏油くんであり、五条くんは彼の親友、そして私にとっては友達、と言う風に見て来たし、そう接してきた。
だから男として好きか、と訊かれると、まだハッキリ分からない。
夕べは、まるで恋人のように扱ってくれたけど、それは私を気遣っての事だろうし、行為自体も精神的に参ってた私の為に了承してくれたんだと思ってる。
もちろん、五条くんだって男だから据え膳喰わぬは…なんて男の本能みたいな気持ちも少なからずあったんだろうし…。(!)
でも、私はそれを利用したような形になってしまった。
ただ、これまでもさりげなく助けてくれたり、励ましてくれたり、そういう不器用な五条くんの優しさが好きだって思ってるのは確かだ。
もちろん、抱き合った相手であり、初めての人だから凄く大切だと感じてもいるけど、でもそれで五条くんの負担になってしまうなら私は今のままでいい、と思った。

「…五条くんは…私の傷を少しでも癒そうとしてくれただけで、私はその優しさに甘えてしまっていて…凄く、好きですけど、私と五条くんにそれ以上の事はきっと、ないと思います」
「それは、どうして?」
「ずっと友達として接してきたから今も変な気分だし…それに私が彼の事を例えば好きになったとしても…五条くんは私みたいな子、タイプじゃないと思うから」
「これまた、どうして」
「だって…いつもセクシーな子が好きだーって言ってるし。グラビアアイドルが好きなんですよ、こーんな巨乳の。だから私みたいな細っこいのはタイプじゃないと思います」

笑いながら、そう言うと、累子さんも軽く吹き出した。

「へえ、五条くんは巨乳アイドルが好きなんだ」
「水着姿の子、ケータイの待ち受けにしてるし。だから…私との事は本当に助けてくれようとしただけなんです。そこに愛なんてないって感じだったし」
「そう、なの?」
「ハッキリ言われたわけじゃないですけど…私が初めてだって知った時、"ほんとに僕でいいの?後で後悔されても困る"、とは言われたから」
「そう…」
「きっと彼女でもないのに、初めての相手になるのが重荷だったんだと思います」
「そう、なのかな」
「え…?」

累子さんは訝し気な顔で首を捻りながら、

「それって…ちゃんの気持ちを考えて敢えてそう言ったように聞こえるけど」
「…私の…気持ち…?」
「そう。初めてだからこそ、好きでもない自分に抱かれて、ちゃんに後悔して欲しくなかったんじゃないかな」
「……私に…後悔して欲しくない…」
「まあ、五条くんはあんな性格だし意地悪な言い方したみたいだけど、でも逆にそれが優しさのように、私は感じたかな。普通男なんて、その状況で相手が初めてだって分かったとしても、途中でやめようとする人なんて殆どいないと思うし」

苦笑気味に言う累子さんの言葉に、ドクンと鼓動が跳ねた気がした。
言われてみれば、そうなのかもしれない。
あの時、五条くんは本気で慌ててたし、本気でやめようとしてくれてた気がする。
私は気持ち的にも限界で、あげく初めての行為でいっぱいいっぱいだったから、あまり深くは考えられなかった。
でも今、そう言われてみると、五条くんが何を言いたかったのか分かった気がして、胸の奥が熱くなった。

「まあ、まだちゃんも元気になったばかりで考える余裕もないと思うけど…もし好きになるのが初めての相手なら言う事なしでしょ?少しは意識して見てみたらどうかな」
「え、でも意識する方が迷惑かなと思って…。五条くんはそんなつもりで我がまま聞いてくれたわけじゃないと思うし…」
「どうして?五条くんの気持ちは分からないけど、向こうだって気持ちがなければ友達の女の子を抱こうとは思わない―――」
「い、いえ!五条くんはその…元々エッチなので(!)相手が誰であろうと、同じことをしたと思います…っ」

ふと過去にあった事を色々思い出し、ついそう口走ると、累子さんは楽しそうに笑い出した。

「まあ、でも。私はお似合いだと思うわよ、二人」
「お…お似合いって……」
「もし二人がこれをキッカケに恋人にでもなれば、私も安心して樹くんに報告出来るんだけどね」
「おおおお父さんには言わないで下さいっ!あの人、アメリカからすっ飛んできそうだし、五条くんに何するか…」
「あははっ!確かにね。でも樹くん、五条くんのこと凄く可愛がってたし認めてるから、まあ多少、いやかなりヤキモチは妬くと思うけど、さすがに殴ったりはしないと思うわよ?」
「…か、可愛がって…た?」
ちゃんが目を覚ます前、確か二人で高専の大浴場忍びこんで裸の付き合いしたとか言ってたけど。まあ、その後に夜蛾くんに見つかって変な誤解されて二人で説教喰らったみたいよ。ほんと笑えたわ」
「な、何ですか、それ…。聞いてない…。お父さんてば…私が意識ない時に何やってんだか…」

軽い眩暈を感じて深い溜息を吐く。
お父さんと五条くんが一緒にお風呂…なんて、とことん想像できない。

「ま、父親とも仲良くなれる相手が一番じゃない。ちゃんもちゃんと考えてみて。それが心の治療にもなるから」

累子さんはそう言って笑うと、「じゃ、今日のカウンセリングは終わり」と言って、廊下で待つ五条くんを呼びに行った。

(五条くんとのこと……考えてみてって言われても……)

そう思っていると、診察室に五条くんが顔を出した。

「何やってんの?戻るよ」
「あ…う、うん」

慌てて立ちあがると、五条くんはすぐに手を差し伸べ、体を支えてくれる。
食べてないとはいえ、精神的に楽になったおかげで、昨日よりは足に力も入るのに、私が転ばないよう肩を支えながら、五条くんはゆっくり歩いてくれてる。

(何か…変な感じ…。やだな……五条くんが、優しい)

抱かれてる肩が熱くて、そこに心臓があるみたいだ。

(累子さんが意識しろ、なんて言うから、変にドキドキしてきちゃった…)

勝手に顔が熱くなっていくばかりで、何とも落ち着かなくなり、どんどん俯いてしまう。

、今日の診察はどうだった?」
「…えっ?!」
「な、何だよ。何でそんな驚いてんの?」
「べ、べ別に……」
「…………?」

五条くんの顏が見れなくて、俯いたまま応えていると、しばし無言が続いたあと、不意に彼が立ち止まった。

?どうした?」
「な…何が」
「顔、上げて」
「…何で?」

ダメだ、意識しないようにすればするほど、意識してしまう。
今こんな赤い顔を見られたら誤解されちゃう。
五条くんにこれ以上、迷惑かけたくないのに。
あれこれ考えて、なかなか顔を上げられないでいると、五条くんは痺れを切らしたのか、私の顎を軽く掴んでグイっと上へ向けてきた。

「……っ」
「……な…何で赤いの」

私の顔を見るなり、五条くんはドキっとしたような顔で目を細めた。

「あ…暑くて…」
「今日…マイナス0度だぞ、この一帯。つーか、息が白いけど?」
「え、えっと…だから…診察室の暖房が暑かったの…っ」
「ふーん…っていうか何で目が泳いでんの?」
「そ、そんなことないってば…。いいから放してよ…」

顎を持ち上げられ、無理やり上を向かされてる状態が妙に恥ずかしくて、思い切り顔を反らした。

「あ、ああ、ごめん。まあ…でも具合悪いんじゃないなら、いーけど」
「え…?」
「ほら、寒いから帰るぞ。って、は暑いんだっけ?よくわかんねーな…」

五条くんはそう言いながら再び私の肩を支えながら歩き出す。
その横顔を見上げながら、ふと気づいた。

(そっか…私がずっと俯いてたから具合が悪いのかと勘違いして、心配してくれたんだ…)

そこに気づいて申し訳なくなった。

(累子さん、やっぱりダメだよ…。意識なんかしたら余計五条くんに負担かけちゃいそうで、怖い…)

夕べの事は忘れて、今日から前のような関係に戻るって決めてたのに、意識してこんな微妙な空気を出しちゃったら、この先もたない。
明日も、明後日も、いつまで続くか分からないけど、これからも五条くんといる時間は長いんだ。
前の関係に戻れたら、それが一番いい。
累子さんは五条くんと恋人同士になった方が自然でいい、なんて思ってるみたいだけど、それはちょっと違う。
もし、万が一、そういう関係になったとしても、それが永遠に続くかなんて分からないのだ。
好きだとか、愛してるだとか、そんなの一時の想いでしかない。
恋愛なんて今日幸せでも、明日には絶望が待ってる儚いものだ、と思い知らされた。
だったら、絶対に別れる事のない、壊れない関係でいた方がいいに決まってる。
だって私は……五条くんと壊れたくない。そう思ってしまった。

「あ、そーだ。明日、硝子と美容室に行くって言ってたよな」
「あ…うん」
「高専の外に出るって事はいつでも敵が狙ってきやすい状態だから、明日は僕の後輩も連れていくけど、いい?」
「え、五条くんの…後輩?」
「そ、七海建人って言って、まあ…根暗な方?」

五条くんは私を見ると、苦笑いを浮かべた。
そこで前に硝子ちゃんに聞いた話を思い出す。

「あ…じゃあ灰原くんの同級生…」
「ああ、そうか。は前に灰原と挨拶したんだっけ」
「…うん」

あれは、今年の夏の事だ。
一瞬、あの夜の事まで思い出しそうになり、軽く目を瞑った。

…?大丈夫?」
「大丈夫…」

苦しくなりそうな胸をぎゅっと抑えて何とか堪える。
大丈夫、吐き気は、しない―――。
以前より酷くはないが、少しだけ頭がクラクラしてきて、小さく深呼吸をした。
その時、肩にあった五条くんの手が離れ、ふと顔を上げた瞬間、ぎゅっと手を握られ、ドキっとした。

「こっちの方が歩きやすい」

五条くんは私を見て微笑むと、手を繋ぎながら歩き出した。
その手の温もりに、何故かホっとして、息苦しさが和らいでいく。

「あ、そう言えば硝子、どこ行ったんだ?アイツ。朝から散々人に暴力振るって、どっか行きやがって」
「ぼ…暴力?何で?」
「え?あ、いや……僕が爆睡してたから起こそうとしたんじゃない、か?うん。まあ…いつものことだけど、硝子のDVは」

五条くんは何故か焦った様子で私から目を反らした。

「DV……?硝子ちゃんならさっき高専行くって言って慌てて出てったよ」
「え、マジ?何か任務でも入ったのかな」
「さあ?その辺の事は何も言ってなかったけど…」

敷地の奥の庭の辺りに戻って来た時、ふと私道が目に入り、私は足を止めた。

「どうした?

急に足を止めた事で、五条くんが振り返る。

「あ、あの、少し一人で歩く練習したいから、五条くん寒いなら先に戻ってていいよ?」
「え、歩く練習って…」
「ここ最近、一人でまともに歩いてなかったから、軽めに練習しておきたいの。二か月後のショーに出たいから」
「えっ?ショー出る事にしたの?」
「うん…。やっぱり…そのために準備もしてきたし、こんな事で負けたくないって思って…」

そう言って五条くんを見上げると、彼は嬉しそうな笑顔を見せた。

「…は、やっぱり強いな」
「え?そ、そんなことないでしょ…。弱いからみんなにも迷惑かけちゃったし……」

照れくさくて俯くと、頭にポンと手を乗せられた。

「迷惑だなんて誰も思ってないと思うけど?」
「………」

ぐりぐりと頭を撫でる五条くんの優しい手に、泣きそうになって、慌てて俯いた。
でもそんな些細な事も、五条くんにはバレてしまう。

「相変わらず泣き虫だな、は」
「わ…悪かったわね…。どーせモヤモヤするって言うんでしょ?」

前によく言われた言葉を思い出し、涙が零れ落ちる前に手で擦る。
すると五条くんは笑いながら、「いや…」と首を振った。

「そういう泣き顔は……平気っぽい」
「そういう…泣き顔って?」
「嬉し泣き?」

そう言いながらニヤリと笑う彼を見上げると、鼻をぎゅっと摘まれた。

「トナカイの出番はまだ早いと思うけど」
「い、痛いよ…」

彼の手を掴みながら軽くにらむと、五条くんは楽しそうに笑いながら指を離した。
こんな風に、前みたいに、憎まれ口をたたき合う関係がいい。
彼の笑顔を見ていると、ふと、そう思った。

「で、どこで練習するの?」
「んーこの私道を一人で往復して歩く。慣れてきたらウォーキング、その後はヒールを履いて歩く練習。まずは体力と筋力戻さないとなあ」

どんよりとした空を見上げながら独り言ちると、五条くんが、「じゃあ僕が見ててあげるから練習して」と、微笑んだ。

「え…見てるって…いいよ、寒いのに。それに高専内だから大丈夫なんでしょ?」
「そういう事でもなくて、僕が見ていたいだけ。ダメ?」
「………ダ、ダメじゃ…ないけど」

そのワードに少しドキっとした。
一瞬、ほんの一瞬、夕べ、そう言った時の子供みたいな五条くんを思い出して頬が熱くなった。
いつもは俺様のくせに、五条くんは時々そういう顔をする。
そのギャップは、ズルいと思った。

「それにはよくコケるから、僕が傍にいないとね」
「そ…んなコケてないもん…。今はヒールだって履いてないし…」
「でも、まだ心配。万が一の時の為に見てるから、ほら、練習して」
「………」

ニコニコしながら、そんな事言う五条くんをチラっと見上げると、彼は「?」と首を傾げた。
慌てて目を反らし、握られてる手を離して彼に背を向けると、ゆっくりと私道を歩いていく。
こんな奥の庭先には関係者も立ち入らないらしく、辺りは静かで練習するにはもってこいの場所だ。
すぐ先には離れもあるし、ここまでなら一人でも来れる。
そう思いながら歩いていると、ふと気配を感じ、振り返った。

「…何で後ろ歩くの…?」

少し離れながら五条くんが付いて来るのが見えて、思わず目を細めれば、彼は澄ました顔で肩をすくめた。

「見守ってるだけだから気にしないで」
「………(気になるんですけど)」

そうは思っても、この様子じゃ何を言っても無駄な気がして、私は再び歩き出した。
何か子供を見守るお父さん的な感じになってる気がしないでもない。

(五条くんて、こんなキャラだっけ?)

そう思いながら数歩先まで歩いた時、再び下腹部に鈍い痛みを感じ、立ち止まってお腹を押さえた。

「……いたた…」
…?!」

私がお腹を押さえている事に気づいたのか、五条くんは慌てたように駆け寄って来た。

「どうした?どこか痛い?」
「え?あ…あの…だ、大丈夫!どこも痛くないっ」

心配そうに顔を覗き込んで来る五条くんに、私は慌てて首を振った。
この腹痛の原因は絶対にバレたくない。
なのに五条くんは、「でも腹、押さえてんじゃん」と余計に心配そうな顔をしてくる。

「えと…ちょ、ちょっと鈍痛が……。あ、でも大丈夫だから!」
「……ほんとに?」
「うん、少し冷えたのかも…って、ちょ、ちょっと!」

いきなり抱き上げられ、驚いた。

「午後になって冷えて来たし、もう帰ろう」
「わ、分かったから下ろして!一人で歩けるからっ」
「ダーメ。元気になったのは嬉しいけど、急に無理しちゃ体がついてかない。とりあえず今日はもう部屋でゆっくり休んで」

五条くんは真剣な顔でそう言うと、真っすぐ離れへと歩いて行く。
まさか、こんなに心配されるとは思わず、困ったの同時に、ふと思った事を口にした。

「…五条くん、何かお父さんに似て来たね、過保護なとこ」
「え、マジ?つーか、こんなの過保護じゃないだろ、別に」

そう言って笑うと、軽く首を捻りながら、

「でも、まあ樹さんに似てるって言われるのは嬉しいけど」
「えぇ?何で?」
「樹さんって何か癒されるし、好きなんだよね」
「癒される…?お父さんに?何それ…」
「あの人、めちゃくちゃ優しいだろ。そういうとこ惹かれる」
「………ふーん…(惹かれる?)」

累子さんが言ってた通り、五条くんとお父さんは私が知らないところで何かしらの絆を深めたようだ。
それはそれで凄く変な感じがする。

ってさ、樹さんそっくりだよな」
「……え?ど、どこが」
「だから優しいとこ」
「え、私、お父さんみたいに優しくないよ」

驚いてそう言った私に、五条くんは軽く吹き出して笑っている。

「自覚ないの?は僕の知ってる人間の中で一番、優しいと思うけど」
「………」

五条くんはずるい。
いつもは意地悪なクセに、時々こうして優しい言葉をくれる。
今、思えば出会った頃からそうだったかもしれない。
凄く腹の立つことを言ってきたと思えば、実は優しさの裏返しだったりして。
最初は本当に分かりにくかったけど、少し大人になった今は何となく、五条くんのそういう不器用なところに気づくようになった。
それに…こうして冷静になってから気づいたのは、五条くんも最近、少し変わった、ということ。
前みたいな棘がなくなったような、シッカリしてきたような、そんな印象を受ける。
でも当たり前のことかもしれない。
あれから二年も経っている。
いつまでも、お互いに子供じゃいられない年齢に近づいてきてるんだ。

「こ、ここまででいいよ。下ろして」

離れが見えて来た事で、そう言ってみる。
でも五条くんは苦笑しながら、「ダメ」と言った。

「このままベッドまで直行だよ」
「えっ?!な、何で?!」

ベッド、と聞いて一瞬焦った私を、五条くんは驚いたように見下ろした。

「だって具合悪そうだし」
「え、あ…ああ…あの、もう大丈夫だから!」

変な勘違いをしてしまった自分に恥ずかしくなり、無理やり下りようと体を動かした。
でも力で敵うはずもなく。

「こーら、暴れんなって。落ちるだろーが」

呆れたように私を見下ろすと、五条くんは私を抱え直す。
その顔を見上げてたら、さっきの勘違いも相まってどうしようもなくドキドキしてくる。
やっぱり夕べの今日じゃ、意識するなって言う方が無理なのかもしれない。
抱かれてる腕の強さや、すぐそばに顔がある事で頬の熱が、勝手に上がっていく。
五条くんは離れの玄関まで歩いて行くと、引き戸のガラス部分に足を引っかけて開けた。

「行儀悪い…」
「僕、両手に大きな荷物を持ってるんで」(棒読み)
「……ごめんね。重たい荷物で…」
「重くはないだろ。、軽すぎ」

五条くんは吹き出しながら、靴を脱いで玄関口へと上がった。
その瞬間、「お帰り!」という明るい声と共に、硝子ちゃんが居間から顔を出し、次の瞬間には般若みたいな顔になった。(!)

「って、五条!!何してんの?!」
「あ?何が?」
「ななな何で、を抱っこしてんのよ!」

何故か怒りだした硝子ちゃんに、五条くんは訝しげな顔をしながら、息を吐き出した。

「何でって…が具合悪そうだったから―――」
「い、いいから下ろして!っていうか離れてっ」
「はあ?何でいちいちオマエに指図されなきゃいけないわけ?」

呆れ顔で更に溜息をつくと、五条くんは私を部屋に運んで、本当にベッドへ寝かせた。

「あ…ありがとう」
「いや、、寒くない?」
「…大丈夫」
「そう?あ、暖かい紅茶でも淹れようか」
「え?い、いいよ。自分でやる」
「いーからは横になって休んでて。あ、硝子、暇ならに紅茶淹れて」
「………(やっぱり過保護になってる気がする)」
「はあ?私もアンタに指図されたくないんですけど。紅茶ならの為に私が自発的にやるわっ」
「……やるのかよ」

硝子ちゃんの態度に苦笑しながら、五条くんは立ちあがると、すり寄って来たマリンを抱き上げ、私の手元へ乗せた。
今朝洗ったばかりだからか、昨日よりも毛がふわふわになっていて良い匂いがする。

はマリンと寝てて。えっとお腹痛いんだっけ。薬ってあったかな…」
「え?あ、あの、ほんとに大丈夫だから!そこまで酷くないし…」
「いや、でも―――」
「腹痛って?、お腹痛いの?」

そこで紅茶を淹れてくれてた硝子ちゃんまでが心配そうに歩いて来た。
だんだん大ごとになってきて、私は次第に変な汗が出てきてしまった。
そもそも、この鈍痛は病気とかの痛みじゃないのだ。
そんな事、恥ずかしくて絶対に言えないし、まだ硝子ちゃんに何も話してないのだから理由を言えるはずもない。

「ううん、ほんと大丈夫!五条くんが大げさに言ってるだけだから」
「大げさって…でもさっきお腹押さえて痛そうにしてたろ」
「だ、だからアレは一時のもので、そこまで酷いものじゃないから今はほんとに大丈夫。だから気にしないで」

これ以上誤解されたら、また累子さんのところまで連れて行かれそうだ、と思い、必死に笑顔を作りそう言ってみる。
すると五条くんは、「そう?」と言って安堵の表情を浮かべると、

「でもまあ体が温まるまでは寝てなさい」

と言いながら、私の頭をクシャリと撫でた。
その優しい手に、胸の奥が鳴って、少しだけ戸惑った。
最近の五条くんは前と少し、いやだいぶ違うから、どう反応していいのか困ってしまう。
意識したくないのに、こんな風に優しくされると、勝手にドキドキするのが凄く嫌だ。

「で、硝子はどこ行ってたわけ?つーか、何しに来たの。今日は任務ないし、には僕がついてるけど」
「ああ、その事だけど」

硝子ちゃんは私に紅茶のカップを渡すと、満面の笑みを浮かべて、五条くんの方へ振り向いた。

「今夜から私もここに住む事になったから。宜しく ♡」
「………は?」

その一言に、五条くんは驚いたように固まった。







(はあ…何でこうなった?)

コタツに入りながら、目の前に並べられたビールの空き缶を見つつ、小さく息を吐きだした。

「ほらーももっと飲んで」
「え、も、もうクラクラしてきたから私はいいよ…硝子ちゃん、飲んで?」
「え~せっかくの引っ越し祝いなのに~。じゃあ私が全部飲んじゃうよ~?」

硝子はすでに酔っているのか、顔を赤くしながらビールを再び飲み始めた。
そもそもこの状況、いきなり戻って来た硝子が、突然「私もここに住む事になったから」と言い出し、引っ越し祝いやろーと言い出したのがキッカケだ。
寒いからお鍋、というとこまでは許せたが、酒が入り、だんだん酔って来た硝子は、病み上がりのにまでビールを進め、止めたにも関わらず、も一杯だけ付き合うと言って飲んでしまったせいで、今はトロンとした顔をしながら硝子の話を聞いている。
そして酒が飲めない僕としては、凄く、暇だ。

硝子が何故急に一緒に住むと言い出したのか、それは夕べの事が原因なのは間違いなく。
ちゃっかり学長の元へ行き、「護衛とはいえ、若い男女が二人だけなのは良くない」と力説して、無理やり自分が住む事を了承させたらしい。

「あんな事があったアンタとを二人だけにしておくのは心配だから」

と、真顔で言われた時はマジシッペ100回の刑にしようかと思ったくらいだ。
硝子はほんと、の事になるとフットワークが軽い。
だいたいをここで保護する際、万が一の場合の事を考え、貴重な医療術師でもある硝子に何かあってはいけないから、と護衛任務から外させたのは学長だ。
なのに硝子の戯言を真に受け、「樹の大切にしている娘に何かあってはいけない」と、結局硝子の要求を呑んでしまった。
おかげで、こうして押しかけて来た酔っ払いの相手をさせられている。

「何よ、五条~。そのウザー-い奴を見るような目は~」
「僕の素直な感情が顔に出てるだけだけど?」
「はあ?アンタ、私が来た事に何か文句でもあんのぉ?」
「……文句なら山ほどある…っていうか、もう飲むなよ…。明日はと美容室に行くんだろ?」

溜息交じりで言えば、硝子は、「あ、そうだ。明日はと美容室デートだもんね~?」とに抱き着いている。
で、少しは食事も出来るようになったけど、いきなりビールを一杯だけとはいえ飲まされ、今では眠そうに硝子の相手をしている。
このままじゃ体に良くない、と思い、僕は静かに立ち上がった。

「はい、そろそろお開きね。、眠たいだろ?硝子の相手はいいから先に寝な」
「……ん」

は子供のように目を擦って小さく頷いた。
その様子に自然と笑みが零れ、酔っ払いから奪うようにを立たせると、案の定、苦情が飛んできた。

「ちょっと五条~!に近づくなって言ったれしょ~」
「……(呂律が回ってねー)」
「聞いてんのぉ?」
「はいはい。オマエもがぶっ倒れたら嫌だろ。そろそろ解放しろよ」
「それはやだっ!…わーかったわよ~。ったく~」

硝子はブツブツ言いながらテーブルに突っ伏した。
多分、あと5分で寝る。酒が入るといつもの事だ。(※未成年)

「硝子もこの歳からのん兵衛じゃ先が思いやられるな…」

歯を磨きたい、と言うを支え、洗面所に連れて行くと、は半分寝かかりながらも歯を磨きだした。
それが終わるのを待って、再び彼女の体を支えると、マリンの待つベッドへ連れて行く。

「おい、大丈夫か?そんなフラフラして」
「……ん、大丈夫…」

は相当眠たいのか、半分瞑った目をこすりながら歩いて行く。
あまり食べられない中、アルコールを少量とはいえ口にしたのだから当然と言えば当然かもしれない。
でも硝子が来た事で、も嬉しそうだった。
まあ、何だかんだ僕も硝子が来てくれた事で、ある意味ホっとはしている。
理性を保てる、とは言ったものの、この先の見えない護衛任務で何が起こるか分からない。(夕べの件もかなりの予想外)
が、そんな事はアイツに絶対言いたくない。(!)

「あ、危ないって―――」

その時、がフラつき、部屋の入口の柱にゴンっと頭をぶつけた。

「いったぁ…い」
「あーあ…弱いくせに硝子になんか付き合って飲むから…。ほら、見せて」

悲しげな声を上げ、額をさするに苦笑しつつ、ぶつけたところを確認すると、少し赤くなっている。
でも血は出てないようでホっとした。

「たんこぶ出来るくらいかな。すぐ治るよ。っていうか硝子がいるから明日にでも治してもらいな」
「……ぅん」

は額の痛みよりも睡魔に負けそうなのか、すでに目を瞑って今にも寝てしまいそうだ。
仕方なく、彼女の肩を抱いてベッドの方まで連れて行く。

「はい。上がって」

コケないように背中を支えながら布団の中にを寝かせると、彼女はすぐに丸くなった。
に布団をかけながら、ふと、これじゃ本当に父親みたいだな、と苦笑が漏れる。

「樹さんも、こんな感じでの面倒見てたのかもな」

何となく想像できて笑みが零れた。

「ん…眩しい…」
「あーじゃあ電気消すよ?」
「ん…ありが…とう…五条…くん」
「はいはい」

そう言って電気を消すと、こちらに顔を向けているの頭を軽く撫でる。
すると僅かに彼女が目を開けた。

「……お休み…なさい」

子供みたいな顔で、トロンとした目で、そんな事を言われると、ついお休みのキスをしたくなった。
でも、二度と、に触れてはいけない、という思いがあるから、そこは我慢する。

(さっきも何回、我慢したことか…)

ふと昼間の事を思い出し、苦笑が漏れた。
肩を抱いた時、手を繋いだ時、彼女を抱き上げた時。
ホントは何度も、強く抱きしめて、キスをしたくなった。
でも、それをしてしまったら、せっかく元気になって来たをまた、失うかもしれない。
正しいのかは分からないけど、夕べの事はあくまで彼女の思い出したくない記憶を中和するための行為。
それ以上でもそれ以下でもない。

「早く…忘れないとな」

それがいつになるのかなんて、僕にも分からないけれど―――。




出来上がったようで出来上がってない関係とか逆にドキドキしませんかね笑。
次は少年伏黒、登場。その後は少し未来に話が飛びます。