【第二十五話】 明けない夜の中で―後編




高専の正面ロータリー辺りまで歩いて来ると、ふと前を歩くパンダくん、真希さん、狗巻くんが空を見上げた。

「珍しいな」
「憂太の勘が当たった」
「しゃけ」
「え?」

やっと三人に追いついた僕も、皆につられて空を仰ぎ見る。
すると、頭上には大きな大きな影が一つ。

(鳥―――?それにしては大きい…)

ソレを見上げながらぼんやりと思う。
が、その大きな影がゆっくりと降下し、バサバサと羽音を立て、目の前に降り立つのを見て、僕は唖然とした。
どこかペリカンにも似たその大きな鳥から、人が降りて来たのが見えたからだ。
その時点で普通の鳥ではない、と分かる。
前にパンダくんが教えてくれた式神、という感じでもない。
あれは、やはり呪霊の類だろうか。
そして、その呪霊から降り立った人物は五条袈裟を身にまとう長髪の男だった。
僕には見覚えのない人物だ。だが、それは皆にも同じだったようで。

「関係者…じゃねえよな」

真希さんがケースから呪具を取り出す。

「見ない呪いだしな」

パンダくんが両手にグローブをはめる。

「すじこ」

狗巻くんがネックウォーマーに指をかけ、口元の呪印を露わにする。

「でっかい、鳥…」

皆のただならぬ様子には気づいていたが、目の前の男からは特に敵意を感じなかったせいで、僕は呑気にそんな事を呟いていた。
皆もこの男の事は知らないようだ。
いったい何者なんだろう、と思いながら様子を伺っていると、五条袈裟の男は辺りを見渡し、ウンザリしたような顔をした。

「変わらないね、呪術高専ここは」

その言葉が合図だったかのように、大きなペリカン呪霊の口から、またしても人が顔を出すのが見えた。

「うぇ~夏油さまぁ。ここ本当に東京ぉ~?田舎くさぁ」
「菜々子…失礼」
「え~美々子だってそう思うでしょ?」

先に降りた黒髪ボブの女の子に、同意を求める茶髪をお団子にした女の子。どう見ても女子高生くらいの年齢だ。
すると彼女の後ろから筋肉質で大柄な人物が顔を出した。

「んもう!さっさと降りなさい」
「アンタ、寒くないの?」

お団子少女の指摘通り、その大柄な男(?)は上半身裸に、何故か乳首にハート型のニップレスを貼っている。
僕は今日一、それに驚いた。

(こ、これが噂の…オネエ…?!初めて遭遇した)(!)

そもそも、この突然訪問してきた人たちは何者なんだ?と思っていると、黒髪ボブの少女が「アイツら、何?」と、腕に抱いてる不気味な人形を抱きしめた。

「あ、パンダだー!可愛い!」

お団子少女の方はパンダくんを見るや否や、スマホでカシャカシャ写真を撮って来る始末。
その不躾な態度が、僕は少しだけ不快に感じた。
それはパンダくん達も同じだったのか、勝手に写メを撮っている少女にシッシとやる仕草を見せながら、

「オマエらこそ、何者だ?侵入者は許さんぞ!憂太さんが!!」
「こんぶ!」
「えっ?(僕?!)」

まだ何も言ってないのに、勝手に許さない事になっている。
それはパンダくんだけじゃなく。

「憂太さんに殴られる前に帰んな!」
「えぇぇっ?!(真希さんまでノったー!)」

パンダくんのフリに、真希さんまでがノリにノってしまい、勝手に僕が大親分的な扱いにされてしまった。
この悪ノリのテンプレは五条先生だな、間違いなく。(!)
心の中でそんな事を考えながら、この場をどう収めようか、と考えていると、

「初めまして、乙骨くん。私は夏油傑」
「えっあっ。初めまして…」

(((速い――――!)))

気づけば五条袈裟を着た男に手を握られていて、僕はつられて挨拶をしたものの、いつ目の前に来たのか視認できなかった。
そしてそれを見ていたパンダくん達は驚愕したような表情で、男を見ている。
パンダくんに至っては「夏油…?」と顔をしかめていて、この男の正体に気づいたような印象を受けた。

「君はとても素晴らしい力を持っているね」

夏油、と名乗った男は馴れ馴れしく僕の両手を握りながら、笑顔を見せた。
相変わらず、彼からは敵意や殺意といったものは感じない。
だけど、そのにこやかな笑顔が、どこか不気味にも思えて、僕は少し違和感を覚えた。

「私はね…大いなる力は大いなる目的の為に使うべきだと考える。今の世界に疑問はないかい?」
「……?」
「一般社会の秩序を守る為、呪術師が暗躍する世界さ。つまりね、強者が弱者に適応する矛盾が成立してしまってるんだ。なんって嘆かわしい!」
「はあ…」

よく分からない事を力説し、今度は僕の肩にまで腕を回してきた夏油傑に、少々呆気に取られる。
パンダくん達も、警戒はしているようだが、何が言いたいのか分からない彼の話に、少々面食らっている様子だ。
そんな場の空気など気にもせず、更に夏油傑は言葉を続けた。

「万物の霊長が自ら進化の歩みを止めているわけさ。ナンセンス!そろそろ人類も生存戦略を見直すべきだよ」

何だかとても素晴らしい演説をしているように聞こえるが、正直、僕には夏油傑という男が何を言いたいのか、サッパリ分からなかった。
パンダくんや真希さん、狗巻くんも、僕と同じ事を思っているに違いない。
そんな空気に気づいているのかいないのか。
夏油傑は笑顔で僕の顔を覗き込むと、

「だからね、君にも手伝って欲しいわけ」

よく分からない話を聞かされた後に、いきなり僕に話を振ってくる夏油傑という人物に、更に混乱した。

「…?何を…ですか?」

今日会ったばかりの人間から頼まれごとをする理由が分からない。
恐る恐る尋ねると、夏油傑は何とも爽やかな笑みを浮かべた。

「非術師を皆殺しにして、呪術師だけの世界を作るんだ」

「「「「――――ッ」」」」

さも日常の会話のように言われたその言葉は、耳に届いていたが、理解が出来なかった。
きっと、パンダくん、真希さん、狗巻くん、皆もそれは同様だったはずだ。

何を言ってるんだ―――と。

そしてその前に並べ立てていた話は、その事を前提にした理屈だった、という事に気づいた。
自分は正しい事を言っている。
そしてそれが出来る、と本気で信じているような夏油傑の言動は歪み切っていて、到底僕には理解しがたいものであり、正直不快でしかない。
嫌な緊張を感じ、背中に冷たいものが走る。
弱者を守る為に呪術を使い、呪いを祓うのが呪術師としての誇り。そこから大きく外れた思想の人間がいる事を、僕は初めて知った。
寒いはずなのに、気づけば額にじっとりと汗が浮かんでいる。
この突然の訪問者は、僕らの手に負えるような奴じゃない、と肌で感じていた。

「―――僕の生徒にイカレた思想を吹き込まないでもらおうか」

この嫌な緊張感が漂う空気を変えたのは五条先生だった。
夏油傑はその声に反応したかのように、僕の肩に回していた腕がピクリと動いた。
そしてゆっくり振り向くと、満面の笑みを浮かべる。

「悟ー!久しいねー!」

五条先生の事を親しげに"悟"と呼ぶ夏油傑に、僕の鼓動が大きく跳ねた。
知り合い?それもただの知り合いじゃない。夏油の五条先生への態度は、もっと何か深い情がこもっているような気がする。
ふと先生を見れば、その顔にいつもの笑みはない。

「まずその子達から離れろ。傑―――」

五条先生も彼の名を呼び、僕に見せた事もないような殺気だった顔で夏油傑を見ている。
その後ろには、高専に属する呪術師たちが集まっていて、目の前の人物が、それほど危険なんだと内心驚いていた。

集まっている術師たちの顔ぶれは、僕も知っている人たちばかりだ。
二級術師の猪野琢磨さん、五条先生に最も近い後輩の七海建人さん、大先輩に当たる冥冥さん…
今年の春に高専に来てから、何度か顔を合わせた事のあるベテラン術師の人達だ。
皆、実力経験ともにある凄い術師であり、それほどの人達が、この夏油傑という侵入者を睨み、臨戦態勢を取っている。
ビリビリとしたプレッシャーがこの場を満たしていくのを感じ、経験の浅い僕の目から見ても、今のこの状況が異常事態だというのが分かった。
それでも、夏油傑は余裕の顔で周りに集まった術師達を見渡すと、再び五条先生へ視線を向ける。

「…今年の一年は粒揃いと聞いたが、なるほど。君の受け持ちか」

夏油は再び僕らを嫌な目付きで見渡すと、

「特級被呪者。突然変異呪骸。呪言師の末裔。そして―――」

夏油は、何故かとびきり侮蔑的な笑みを、真希さんに向けた。

「禪院家の落ちこぼれ」

その言葉に、真希さんが瞬時に反応する。

「…っテメェ―――」
「発言には気をつけろ」

激高した真希さんの叫びを、夏油の冷たい言葉が遮り、まるで下等な生き物を見るような目つきで彼女を見下ろした。

「君のような猿は、私の世界にはいらないんだから」

言葉にも、その細められた目にすら、溢れんばかりの蔑みが見て取れる。
夏油にとって、真希さんが何の価値もない存在なのだと、全ての態度で表していた。

「…ごめんなさい」

考えるよりも、体が勝手に動いていた。
肩に回されていた夏油の腕を思い切り振り払う。

「夏油さんが言っていることは、まだよくわかりません。けど―――」

沸々と腹の奥底から溢れて来る怒りという感情が、僕を飲み込んでいく。
その熱をぶつけるように、夏油を睨みつけた。

「―――友達を侮辱する人の手伝いは、僕には出来ない!!」
「………」

ハッキリ自分の意思を口にすると、夏油はそれでも小さな息を吐く程度の態度で、再び笑顔を見せた。

「すまない。君を不快にさせるつもりはなかった」
「じゃあ一体、どういうつもりでここに来た?」

突然、五条先生が僕と夏油の間に割って入り、僕を守るように、後ろへ追いやる。
それを見た夏油は苦笑いを浮かべながら、

「宣戦布告さ」

と言うと、突然周りを囲む術師達を見渡した。

「お集りの皆々様方!耳の穴かっぽじって、よーく聞いて頂こう!来たる24日、日没と同時に我々は"百鬼夜行"を行う」

声高らかに告げられた宣戦布告。
これだけの術師達を前にして、それはあまりに不敵な犯行声明だった。

「場所は呪いの坩堝るつぼ、東京新宿。呪術の聖地、京都。各地に千の呪いを放つ。下す命令はもちろん―――鏖殺おうさつだ!」

呪術師たちの間に緊張が走るのを感じた。
冗談でも何でもなく、この男は本気でそんな事を言っている。

「地獄絵図を描きたくなければ、死力を尽くして止めに来い。思う存分、呪いあおうじゃないか―――!」

前代未聞の凶行にして、未曽有の大規模テロ。
それをこの夏油傑という男は本気で実行しようとしている。

(狂ってる……)

この状況でもなお、夏油は余裕の笑みを浮かべていて。
その姿が、僕には同じ人間、だとは、とても思えなかった。

「ところで―――はどこかな?」
「………ッ?」

夏油が不意に口にした名を聞いて、思わず息を呑む。
額から流れ落ちた汗が、顎のあたりで雫となって、ポタリと落ちた。
それまでの不敵な笑みではなく、ふと自然に出たような優しい笑みを見せながらその名を口にした夏油は、集まっている術師達を一瞥いちべつしながら、再び五条先生へ視線を戻した。

「彼女はここにいるんだろ?悟」
「……さあ、どうかな」
「…ふん、すでに隠した、という事か。残念…会いたかったのに」
はオマエなんかに会いたくもないだろうよ」

五条先生の笑みを浮かべながら言ったその一言に、夏油の感情が初めて揺れた気が、した。
彼の先生を見る目つきは、どこか羨望と嫉妬の狭間で揺れているような、そんな暗い影が見え隠れしている。
そこに集まった術師達はピリピリとした空気を出し、緊張した面持ちで二人のやり取りを見守っていた。

「その様子だと…悟もやっと、自分の本音に気づいたようだね」
「10年も経ってる。昔とは違うさ」
「へぇ……随分と変わったな、悟も」
「傑ほどじゃない」

一瞬、二人の間に見えない火花が散ったように見えた。
が、次の瞬間、夏油は心底楽しいと言うように声を上げて笑い出した。

「あの悟が、ねえ…。ますます彼女を渡したくなくなったな」
「もう、オマエのもんじゃないだろ?いつまでも彼氏ヅラしてんじゃねぇよ」

静かな怒りを見せた五条先生は、そう言い捨てた。
こんなにキレてる先生は初めて見た気がする。百鬼夜行を宣言された時でさえ、冷静に聞いていたのに。
そして二人の会話を聞いていた僕は、気づいてしまった。
もしかして、と思ったけど、やはり、この夏油傑がさんの元恋人…
彼女の家族を殺し、彼女すらその手にかけようとした、五条先生の親友だったという人か。
夏油は明らかに気分を害したように顔を歪ませると、怒りのこもった視線を五条先生に向けた。

「そういうところは変わってないんだな、悟…」
「あ?」
の事になると熱くなるところさ。昔、彼女の為にブチ切れた悟に殴られた事を思い出したよ」
「もう一度、殴ってやろうか」

五条先生が笑みを浮かべながら両拳を合わせ、指を鳴らす。

「ははは。遠慮しておくよ」

その様子を見て、夏油は笑いながら一歩、後ずさった。

「この場で呪いあうつもりはない」
「あっそ。んじゃあ……僕からも傑に一言」
「……何だい?」

五条先生はゆっくり歩いて行くと、少し身を屈め、夏油の顏に自分の顔を近づけた。

「"を泣かすな"」
「…何?」
「という、僕との約束をオマエは破ったんだ。―――僕も、傑にを渡す気ないから」

五条先生は不敵にもそう言ってから、ニッと笑ってみせた。
夏油の顏が一瞬で強張る。その時―――。

「あー--!!」

それまでスマホをいじっていた茶髪お団子頭の少女が突然大きな声を上げた。

「夏油さま!お店閉まっちゃう!」
「…もう、そんな時間か」

少女の一言に、夏油は緊張が解けたのか、ふと苦笑いを零し、「すまないね、悟」と言った。
少女や、あのオネエ風の男たちはすでにペリカンへと乗り込んでいる。

「彼女たちが竹下通りのクレープを食べたいときかなくてね。の顏が見られなかったのは残念だが…そろそろお暇させてもらうよ」
「早くー!」
「いやはや…あんな猿の多いところの何が―――」

少女達に急かされ、夏油もペリカンの方へと歩いて行く。
それを黙って行かせるはずもなく。

「このまま行かせるとでも?」

五条先生が後を追おうとした時、

「やめとけよ」

その瞬間、夏油の背後から一つ目の大型呪霊が姿を現した。
それだけじゃない。同時に悪鬼の如く、大量の呪霊が、一瞬で僕らを囲む。

「可愛い生徒が、私の間合いだよ」

僕や真希さん達もすぐに武器を構えたが、それでも呪霊の数が多すぎた。
この数では到底無傷で済むはずもなく、五条先生は難なく倒せたとしても、これでは僕らが足手まといになってしまう。
それを分かっていたのか、夏油は笑みを見せながら手を振ると、

「それでは皆さん、戦場で」

と言い残し、ペリカンの足に捕まり飛び去って行く。
その場にいた全員が、それを見送る事しかできず、僕は強く拳を握り締めた。
五条先生も、無言でその姿を見つめ続けていた。
その横顔はどこか悲しげで、何を思っているんだろう、と心配になる。
先ほどの二人のやり取りを聞けば、確かに親友だった時間があったんだろう。
それくらい、僕にでも感じる事は出来た。

(その頃の事を思い出しているんだろうか―――)

他の術師が校舎へ戻って行く中、五条先生だけは、小さくなるその影をいつまでも見上げていた。








静かな部屋に、時計の音だけが響く。
ふと顔を上げて時間を見れば、すでに深夜近くになっていた。

「…いけない。頼まれてた資料、まとめなきゃ…」

時間を見て、自分が一時間はボーっとしていたのだと気づき、慌ててパソコン画面に視線を戻す。
伊地知さんから日本各地にいる"窓"の人達の連絡先を、地方ごとにまとめておいて欲しい、と頼まれているのだ。
"窓"とは術師ではないが、呪いを視認できる高専関係者らしく、呪霊の目撃情報や、残穢という痕跡を追って捜査に協力してくれる人達らしい。
そんな人たちがいるんだ、と伊地知さんのサポートをやり始めてから初めて知った。
"窓"は各地にいるので、任務で出張に行った際、捜査を手伝ってもらう事もよくあるらしいが、今回こんな仕事を伊地知さんが頼んできたのは少なからず五条くんのせいだった。

「五条さん、出張のたび、そこの土地の"窓"の連絡先を私に聞いて来るので、いちいち調べるのが大変で…」

と、ボヤいていた事を思い出す。
そこで土地別に"窓"の人達の連絡先をまとめておけば便利なんじゃないか、という話になり、多忙な伊地知さんに代わって、私がその連絡先を作成しているところだ。
ただ日本各地にいる"窓"の人の数は膨大で、北海道から始めたものの、未だ横浜までしか出来ていない。
今はそれよりも、気になる事があって、何度となく手が止まってしまっていた。

(五条くん…遅くなるって言ってたけど…まだ作戦会議してるのかな…)

もう一度、時計を見ると、ちょうど針が0時を指すところだった。
朝から、この住所録の作業をしていた時、いつものように高専へ出かけた五条くんが、突然戻って来た。
そしていつになく怖い顔をして、「傑が来た」と、私に言った。
何しに来たのかは分からないが、仲間を引きつれ高専の敷地内へ降り立ったという。
そこで五条くんは「この離れから一歩も出ないで」と、私に告げて、再び高専へと戻って行った。
夏油くんのその行動には私も本気で驚いた。まさか高専に直接姿を見せるとは思わない。
この離れは結界なるもので覆われてるようで、外部の者からは視認、または侵入が出来ないようにしてあると前に話していた事を思い出す。
それでも夏油くんくらいの術師に場所を知られた場合、その結界を破壊する事は難しくないらしく、主に隠す事に特化したものだから安心は出来ないと言われていた。
だからこその敷地内での護衛だったようだが、今日みたいな突発的な事が起こった場合、術師総出で撃退に出る為、ここを直接攻撃されないと判断した時は傍で護衛するより、直に侵入者を叩く、という事だった。
なので私は言われた通り、今日は一歩も外へは出ず、大人しく仕事をしながら五条くんが戻るのを待っていた。
そして、夕方、五条くんは一度、戻って来ると、夏油くんがここへ来た理由を簡単に教えてくれた。

百鬼夜行―――未曾有のテロを起こすと宣戦布告に来た。

それを聞いた時は耳を疑った。
一瞬、私を殺しに来たのかと思ったけど、今回は違ったようだ。
夏油くんの目的は聞いてはいたが、それはあくまで非術師に対しての殺意だったはずだ。
なのに今日、彼は古巣でもある高専に侵入し、術師の皆に対して大々的な攻撃を仕掛ける、と告げた。
昔、お世話になった先生や先輩、後輩、その人達を前にしながら、夏油くんは何も感じなかったんだろうか、と思うと悲しくなる。
そして、10年ぶりに夏油くんと顔を合わせたであろう、五条くんの気持ちを思うと、どうしようもなく胸が痛んだ。
私に説明し終えると、五条くんはこれから術師達や学長と作戦会議があるから遅くなる、と言って、また出かけて行った。
誰もケガをしていない、と聞いてホっとしたけど、でも今日それが回避されたところで、24日には結局、戦場へと送り出さなければならないのだ。

「戻っては来ないと思うけど、念のため、もまだ外へは出ないでね」

最後にそう言われ、頷いたものの、あれから数時間は経ったのに、未だに戻ってこない。
五条くんもどこか元気がなく、それだけが心配だった。
が、その時、玄関のドアの開く音が聞こえて、ハッとした。

「あれ、、起きてたの?」
「あ…お帰りなさい」

居間に入って来た五条くんは驚いたような顔で私の隣へ座ると、

「寝てて良かったのに」
「だって…寝てられないよ。それに仕事も終わってないし」
「え?あ…これって全国各地の"窓"の連絡先?がまとめてくれてるの?」
「伊地知さんは他にもやること、いっぱいあるから」

苦笑交じりで言うと、五条くんは僅かに唇を尖らせた。

「それ、僕のせい?」
「半分くらいね。いくら優秀でも伊地知さんはAIじゃないんだから、そんな事でいちいち時間取らせてたら他の仕事に影響出るでしょ?」
「いや、それひっくるめてアイツの仕事でしょ」

五条くんは笑いながら言うと、不意に室内を見渡した。

「それより…硝子は?」
「あ、今日は夜勤だって」
「そっか…」

五条くんは目隠しを取ってソファに凭れると、大きな溜息をついた。
その横顔はどこか疲れているように見えて心配になる。

「大丈夫…?」
「ん?」
「久しぶりに…会ったんでしょ?夏油くんと」
「あ~、まあ…。っていうか、傑、変わりすぎてて、いまいちピンと来なかった、かな」

五条くんは苦笑気味に言うと、ふと私を見た。

「そんな心配しないで」
「心配するよ…。だって皆が戦うんでしょ…?」

新宿と京都、その二つを呪霊に襲わせる。
それを迎え撃つのは、夏油くんのかつての盟友たちなのだ。
どうしたって心配になってしまう。
でも五条くんは私を安心させるように、笑顔を見せると、

「大丈夫。学長が本気出してるから」
「え、本気って…」
「他の地方の術師とか呪術連とかに協力を要請するって言うし、そうなれば多分こっちが優勢。まあ傑の事だから負け戦を仕掛けて来るとも思えないけど…」
「五条くんも…戦うんだよね」
「もちろん。僕は新宿で傑を迎え撃つ。七海とかは京都に行ってもらう事になったよ」
「京都…」

まさかそんな大規模な戦いになるなんて思ってなかった。
夏油くんが殺したいのは非術師だけだと思ってたのに。
どんどん彼の罪が大きくなっていく気がして、古傷が痛むように胸の奥がジクジクする。
出来れば昔に戻って、皆で笑いあえたら一番いいのに、と、この期に及んでバカな事を思った。
あの頃の夏油くんは、もういないって思い知らされたのに、まだどこかで彼の事を信じたいって思ってるんだろうか。
だって、皆で笑いあってた時間は、確かにあった。
あの頃の思い出は色褪せないまま、記憶の片隅に、まだ残ってるのに。

「何で…こんな事になっちゃったんだろうね……」

言っても仕方がない言葉を口にした途端、涙が零れ落ち、ハッと我に返った。

「ご…ごめん。バカなこと言った―――」

慌てて涙を拭って顔を上げた瞬間、五条くんの腕が私の体を包むように抱きしめた。

「ご…五条…くん?」

突然の事に戸惑い、彼の名を呼ぶ。
でも、私の首筋に顔を埋めるように抱きしめて来る五条くんの体は、かすかに震えていた。

「僕も…さっき去っていく傑を見ながら同じことを思った…」
「……え?」
「どうして…そうなってしまったのか。何度も、何度も、あの頃だって考えたのに未だに答えなんか出ないんだ」

私の耳元で話す五条くんの声は、どこか弱々しくて。
あの日から、五条くんだって割り切れない思いをたくさん抱えて来たんだと、気づいた。

「新宿で…最後に傑と話した時、僕はアイツを殺せなかった。追えなかった…。いや…その前に、アイツが変わっていく事にすら、気づけなかった。結果、止められなかった」
「五条くんの…せいじゃないよ……」
「今日まで…傑が去っていく後ろ姿しか、思い出せなかったんだ…」

また涙が、溢れた。
あの日から、五条くんは私の心配ばかりして、何度も助けてくれていたけど、でも本当は。
五条くんの方が心にいっぱい傷を作ってたのかもしれない―――。

「…泣かないでよ、

少しだけ体を離した五条くんは、両手で頬を包んでくれる。
でもその碧い瞳も、悲しげに揺れていて、また涙が零れ落ちてしまう。
五条くんは精神的にも強いけど、でも、傷が出来ないわけじゃない。
誰にも見せないけど、本当はいっぱい、いっぱい辛かったんだろう。
今、私を見つめる五条くんは、あの頃と変わらない、夏油くんの親友の五条くんだ。
夏油くんの隣で、いつも楽しそうに笑ってた五条くんだ。

私よりも、誰よりも、五条くんの事だけは、裏切って欲しくなかった――――。

「戦わないで……」
「…
「やだよ……二人が殺し合いするなんて…や…だ…」

胸が痛い。どうしようもなく。
あんなに信頼し合ってた二人が、何故戦わないといけないんだろう。

「……?」

私の名を呼ぶ声が聞こえて、ふと彼を見上げた。
五条くんは、笑ってもいない。泣いてもいない。ただ、静かに私を見つめている。
その顔が、溢れた涙で揺らいだ時、ふと本音が零れ落ちた。

「二人に…戦って欲しくない――――」

そう、言った瞬間―――。
頬を引き寄せられて、互いの唇が、かすかに触れ合う。
でもすぐにそれは離れ、目の前の碧い瞳の中に、私の驚いたような顔がゆらゆら揺れながら、映ってるのが見えた。

「五条く…」

名前を呼ぼうとした時、今度は押し付けるようなキスをされ、心臓が音を立てる。
ゆっくりと目を閉じれば、涙が一粒、頬に流れ落ちた。
触れては離れ、また重なる唇の熱に、体が震えて、背中に回った腕に腰を抱き寄せられた時、更に深く唇が重なりあう。
言葉を交わす事もなく、ただ、私達は何度も、キスを交わした―――。







戦って欲しくない―――。

彼女のその言葉を聞いて、どうしようもなく胸が苦しくなった。
今の僕とを苦しめているのは、幸せな頃の過去の記憶。
その中にはあの頃の傑がいる。
未だに残る後悔とか、虚しさとか、全てを消し去ることが出来ないまま。
どうして、あの頃の記憶は色褪せないんだろう。
もっと色んな事が今日まであった気がするのに。
まるで切り取った写真のように、皆の笑顔しか思い出せない。
なのに最後は決まって、傑が去っていくあの日の後ろ姿が、残るんだ。

何度も、何度も、手を伸ばしたけど届かなかった。
救われるつもりのない人間には、いくら手を伸ばしたって、僕一人では届かない。届かなかった。たった、一人では。
唯一、この手に残ったのは、彼女だけだ。
寂しさを埋めるために、を求めているんじゃない。
もう手放せないくらいに、彼女の存在が僕の一部になっているから。
さえいれば、目の前の君さえいれば、後はどうなったっていい。

だから、ごめんね―――。
僕は、今度こそ、傑と決着をつけなければならない。
過去の全ての思いを封印して、全力で、アイツを止める。
願いが一つだけ叶うなら、守りたいんだ。
との、明日を、未来を。

その想いが伝わるように祈りながら、何度も唇を重ねて、彼女を強く抱きしめた――――。




終盤です。次がラストです。