【第二十六話】 君がいなければ―前編




夏油が10年ぶりに高専へ姿を現してた頃、私は普通に夢の中だった。
夜勤のある日は昼までグッスリ眠るようにしているから、全く気づかなかった。
時間になって起きた私に、家で仕事をしていたがその話を教えてくれたけど、正直なところ、アイツ何やってんだ、としか思わなかった。
百鬼夜行?そんな宣戦布告をする為に、わざわざ処刑宣告をされてる中、古巣に足を運んだのか。暇人だな、と。
呪術師だけの世界を作る、なんてバカみたいな野望を未だに持ち続けてるのか。

いつも、そう。
なまじ強い奴は極端な選択肢ばかり選ぶ。
何でも出来るを通り越し、自分がやらなきゃと思い込み、とんでもないバカをしでかす。
自惚れもいいとこで、迷惑をこうむるのは、いつも周りにいる人間なのだ。
結局、子供と大差ない。昔から、何も変わっちゃいない。
そんな事よりも、もっと大切なものがあったはずなのに―――。

「ふあぁぁ……」

夜勤を終えて、重たい足取りで離れまで歩いて来た。
昨夜は夏油のせいで、夜になっても色んな術師達が高専に出入りをしていて慌ただしかった。
作戦会議がある、と伊地知が私を呼びに来たが、結局忙しくて顔は出せなかったから、後で五条に内容を教えてもらおう。
と言っても、私が戦場でやる事は一つだけど。

は大丈夫だろうか―――)

私が仕事に出かける際、少し動揺していた事を思い出す。
こんな日に一人にしなきゃいけない事が心苦しかった。

「もう起きてるかな…」

腕時計を見れば、朝6時を過ぎたところだった。
はいつも通り、伊地知に頼まれた仕事をしていたし、夕べも遅くまで頑張っていたなら、まだ寝てるかもしれない。
ふとそこに気づき、静かにドアを開けた。
そこで目についたのは五条の靴で、ああ、帰って来たんだ、と少しだけホっとした。
少なくとも、が一晩中一人じゃなくて良かった。
そっと靴を脱いで部屋へ入ると、すぐにの部屋を覗いてみる。
が、ベッドにはいなかった。いないどころか寝た形跡がない。

(え、もしかして徹夜で仕事してるのかな)

少し驚いて、すぐに居間へ向かう。

―――」

と、声をかけながら居間を覗いた瞬間、その光景が目に飛び込んできた。

「………」

は確かにいた。
ソファに座りながら眠ってしまったようだ。
けど、彼女は一人じゃなかった。
隣には五条が同じように寝ていて、二人で毛布をかけ、互いに互いの体へ寄り掛かるようにしながら眠っている。
ついでに五条の手が、の手を握り締めていて。
何とも微笑ましい光景だ。
ただ、夜勤で疲れて帰って来た私の心をイラっとさせるには充分なほど、五条は幸せそうな、穏やかな顔で寝ていた。(!)

(一晩中、仕事をしてた私を差し置いて、と仲良く眠りこけるなんて許せない…)

何の事はない、ただの嫉妬だったが、その気持ちをぶつけるように睨み続けると、さすがというべきか。
私の殺気という気配で五条はパっと目を開けた。

「…硝子?」
「………」

私に気づいた五条は何度か瞬きをしながら、小さく欠伸を噛み殺した。
そんな五条に無言のまま顎でコッチへ来い、と合図をする。
五条は訝し気な顔をしたが、隣で眠るに気づき、ふと笑みを浮かべると、起こさないように彼女の体をソファに預けて毛布をかけてから、静かに立ち上がった。

「何だよ…」

勝手に五条の部屋へ入ると、後ろから五条も歩いて来る。
二人で部屋へ入ると、私は静かに襖を閉めて徐に五条の方へ振り返った。

「何であんなとこで寝てんのよ。風邪引くでしょ?が!」

開口一番、文句を言うと、五条はガシガシと頭をかきながら再び欠伸をした。

「…夕べ作戦会議が終わって帰って来たらが起きてたし…少し話してたらが寝ちゃって、部屋に運ぼうと思ったんだけど僕もいつの間にか寝ちゃってたみたいだな」
「どうせの寝顔でも見てた間に寝ちゃったんでしょーが」
「まあ…そうとも言うな」
「やっぱり…。で?は大丈夫だった?」
「…思ってたよりはね。でも皆の心配はしてたけど」
「そう…。で、会議はどうなったの?」

詳しい内容までは聞いていない為、そう尋ねると、五条は思い出したように指を鳴らした。

「そうそう。とりあえず、OB、OG、御三家、アイヌ呪術連に協力要請する事になったよ」
「えぇ?マジで?」
「夜蛾学長、やる気スイッチ入ったっぽい。まあ…あんな風に堂々と乗り込まれたのが癪に障ったんだろ」
「何でそこで捕まえなかったのよ」

ずっと探してた相手が自ら姿を現したのだ。
普通ならその場で処刑が執行されてもおかしくない。
が、五条は苦笑いを浮かべると、

「その場に生徒が数人いたんだ。あそこでやりあえば少なからず怪我人、最悪死人を出してたよ。憂太もいたしね。里香がまた出ないとも言いきれない」
「そっか…。でも夏油のヤツ、何考えてんの?わざわざ宣戦布告だなんて…」
「さあな。今のアイツの考えてる事なんて知らね」

呆れ顔で舌を出し、肩を竦める五条は、何かが吹っ切れたように見える。
コイツも何だかんだ夏油の事では後悔していたのを知っているから、少しホっとした。

「で、24日、アンタはもちろん新宿でしょ?」
「まあね…。ったく、クリスマスはと食事の約束してたのに。わざとか、傑のやつ」
「イヴじゃなくてもクリスマス当日があるでしょ」

私がそう言うと、五条は「だな」と言ってニヤリと笑う。

「あ、そう言えばと食事で思い出したけど…アンタ、告白はどうなったわけ?」

確か夏頃、急に告白する、なんて言いだして、けど生徒が任務中に夏油の妨害にあった事でうやむやになっていた気がする。
五条もその後は生徒の方にも目を配る必要が出て来て、忙しくなってからはそんな話も出なくなった事ですっかり忘れていたのだ。
未だ応えようとしない五条に返事を促すよう顔を覗き込むと、何故か私から視線を反らした。

「いや…まだ」
「ふーん…っていうか、何で今、視線反らしたの?」
「別に反らしてないけど」
「いや、明らかに反らしたよね?」

更に顔を覗き込むと、五条はそのまま顔を動かし、私の視界に入らないようにしている。

「反らしてんじゃん」
「うるさいなあ…。つーか、硝子も夜勤明けなんだろ?サッサと寝ないと毛穴が開くぞ」
「大きなお世話よっ」

とは言ったものの、確かに疲れて頭も重たい。
五条の怪しげな態度を追求したい気持ちはあれど、肌が荒れるのも嫌だ。

「で、アンタはどうするの?今日から休校になったんでしょ?」
「ああ。明日に備えて色々準備があるし、僕もシャワー浴びたら出かける。新宿も封鎖する許可取らなきゃいけないし、指示する事が山積みで今日は帰れないから、にもそう伝えて。硝子、今日は休みだろ?」
「それはいいけど…護衛はどうするの?」
「七海も京都に行ってもらうから無理だけど、僕は瞬間移動で戻れる範囲にいるし大丈夫。あ、それも伝えておいて」

今では五条の転移する距離が広範囲になっている。
例え新宿からでも一瞬で戻って来れるだろう。(楽でいいな、オマエ)
そしてには何か異変があった時、押すだけで五条に危険を知らせる事が出来る防犯器具を持たせてあった。
伊地知が見つけて買って来たらしい。気が利く奴だと珍しく五条が誉めてた。

「自分で言えばいいじゃない。どうせその細かい作業は伊地知とがやるはめになるんだし」
「グッスリ寝てるし起こすのも可哀そうだから」

五条はそう言って苦笑すると、「じゃ、頼んだよ」と部屋を出て、風呂場へ歩いて行く。
その後ろ姿を見ながら、遂に夏油と直接ぶつかる時が来たのか、と思うと、少しだけ感傷に浸る。
呪詛師になった夏油の事は、バカだなとしか思ってない私でも、やはり実際に戦わなければならない、という状況が現実味を帯びて来ると、正直何ともいえない思いが溢れて来る。
何年経とうと、夏油や五条とバカをやって笑いあってた日々は消えてなくならない。
あの頃の事を思い出すと、こんな私でも胸の奥のどこかが音を立てるくらいには、切なくなるのだ。

「何で若い頃の事って…思い出すとこんなに切なくなるのかね……」

もう二度と、戻れない日々だからこそ、楽しかった思い出が余計に切なさを連れて来るようだ。

「ほんと…バカだよ、アンタ…」

ふと呟けば、一粒、涙が零れ落ちた――――。







目が覚めた時、すでに五条くんは出かけた後で、硝子ちゃんが眠そうな顔で歯を磨いていた。
夜勤明けで、これから寝るとこだったらしい。
ふと、手元を見れば、毛布がかけてあった。

「五条、明日の準備で忙しいから今日は帰らないって。でもすぐ戻れるくらいの距離にいるから安心してって」
「そ、そっか…」
「あ、あと伊地知からそろそろ連絡入ると思うよ」
「あ…うん」

帰ってこない、と聞いて、少しホっとしたような、それでいて寂しいような気持ちになる。
そっと唇に触れれば、夕べ何度も交わしたキスの余韻が残っているような感覚になり、鼓動が速くなった。

(何であんなこと…)

夏油くんと五条くんが戦わなければいけないのが辛くて、ついあんな事を言ってしまった。
五条くんもどこか辛そうに見えて、でもお互いに、心が少し弱っていたのかもしれない。
でもまさか、キスをされるなんて思わなかった。
帰って来るのを待っていた間、気を張り詰めていたせいか、あの後、五条くんの腕に抱かれていたら、安心して眠ってしまったらしい。
言葉を交わす前に眠ってしまうなんて、と自分で自分に呆れた。

(でも…あの時はお互いに弱っていたし…空気に流されただけなのかな…)

キスをしても尚、五条くんの真意が分からなくて、小さな溜息が漏れる。

「どうしたの?溜息なんてついて」

歯を磨き終わった硝子ちゃんが、ふとこちらへ歩いて来たが、隣に座ったのを見て、慌てて、「何でもないよ」と笑顔を作る。
一瞬、硝子ちゃんに相談してみようか、とも思ったけど、五条くんとのハッキリした事は何も言えないし、流されてキスをした形にも思えるから、何となく言いにくい。
過去に一度、あんな事があったから余計だ。

「硝子ちゃん、夜勤明けで眠たいでしょ?早く休んで」
「うん、まあ…。そうなんだけど…」

硝子ちゃんはそう言いながら何か言いたそうに私を見た。

「どうしたの?」
「あ、いや…さっき帰ってきたらさ」
「うん…」
と五条がソファで寄り添って寝てたのよ」
「えっ?」

ドキっとして思わず声を上げてしまった。
ついでに顔まで赤くなってしまったようで、硝子ちゃんは訝しげに眉をひそめた。
というか、五条くんまでソファで寝てたとは思ってなかった。

…何かあったの?夕べ」
「な、何かって…?」
「だから…五条と…話してたんでしょ?」
「ま、まあ…。夏油くんのこと…少し…」
「それだけ?」
「そ、それだけだよ?何で?」

動揺しているのをバレないように何とか笑顔を作ると、硝子ちゃんは首を傾げながら、「五条がちょっと変だったから」と呟いた。
その言葉にドキっとして、「変って…どこが?」と訊いてみる。

「いや…何となく。っていうか、五条に何か言われたり…しなかった?」
「何かって…何?」
「あ~いや、言われてないならいいんだけど」

硝子ちゃんはそう言いながら笑っている。
その様子も気になったが、そこでケータイが鳴りだし、確認すると伊地知さんからだった。

「あ、伊地知さんだ」
「ああ、仕事の割り振りかもね。私は明日の為にちょっとだけ寝ておくよ」
「あ、うん。お休み。硝子ちゃん」
「おやすみ」

硝子ちゃんは欠伸をしながら寝室へと歩いて行く。
それを見送りながら、電話に出ると、伊地知さんから明日の新宿封鎖に当たっての公的機関への必要書類を揃えて学長の印を押してもらうよう言われた。
他にもいくつか必要事項を確認して電話を切ると、思い切り体を伸ばす。
こういう細かなものは何気に大事であり、急がなければ間に合わないものある。
私はすぐシャワーに入り、仕事をする準備を始めた。
高専に行って書類を受け取り、一つ一つ理由付けの為の文を作成して、あちこちに電話もかけないといけないから地味に大変な作業だ。
でも伊地知さんは明日、新宿の方に行くらしいから、私にできる事はやっておかないと。
手早く着替えを済ませ、離れを出ると、高専へ向かう。
今日は昨日と違って快晴で、太陽の日差しに目を細めた。

「五条くん…どこで何してるんだろ…」

空を見上げながら、ふと思い出す。
新宿は五条くんが前線を張るらしく――当然だろうけど――色々他の術師達と話し合う事もあるんだろう。
どれくらいの規模になるのかは分からないが、夏油くんが放つ呪霊の数は千だと言ってたらしいし、やっぱり心配になってくる。

「生徒の皆も行くのかな…」

学生と言っても高専ではプロの呪術師という扱いなだけに、手が欲しい時は生徒だろうと収集されれば戦場に行かなければならないのだ。
出来れば誰にも戦って欲しくはない。
だけど、夕べの五条くんは、どこか覚悟を決めているように見えた。
夏油くんと戦って欲しくない、と言ったけど、きっと止める事は出来ない、そう感じるくらいに。
いつか、決着をつけなければいけないのは私も分かってる。
そして決着をつけなければ、私はいつまで経っても自由にはなれないんだ。
ただ、その自由を手にした時、私は、ここにいられなくなる。五条くんと一緒にいる意味を、失ってしまう。
それが一番、怖かった。

「…早く、用意しなくちゃ」

忙しく動いていれば、余計な事を考える事もない。
今は皆の為に、私が出来る事を一つ一つやっていこう。
心に芽生えた不安を消すように、私は歩き出した―――。









2017年12月24日、百鬼夜行当日―――東京、新宿。


「建物、インフラの破壊は可能な限り避けろ。逃げ遅れた一般市民がいる可能性もある。見つけ次第避難させろ」

臨戦態勢の術師達に、夜蛾学長の指示が飛ぶ。
ただ呪霊を祓うのではなく、人々の心の平穏を守るのも呪術師たちの役目だ。
なるべく不安要素を生まない為にも、最低限の配慮は必要になってくる。
本来ならクリスマスイヴで賑わう冬の新宿。
だが人払いの済んだ街はすでに呪霊だらけで、辺りは魑魅魍魎に埋め尽くされていた。

(傑のやつ、よくもまあ、この10年でこんな数の呪霊を集めたもんだ…)

太陽も沈み、薄暗くなってきた空に浮かぶそれらを見上げながら、溜息が漏れる。
そしてふと、その呪霊たちの後方に見える呪詛師数人を視界に捉えた。

「悟。オマエは前線で相手を―――」
「………」
「おい、聞いてるのか?悟」
「一人、面倒くさそうな奴がいるな」

夜蛾学長の声は聞こえていたが、僕の意識は視界にいる敵に向けられていた。
遠く離れたビルの屋上。
髪の長い女の呪詛師と、もう一人。
褐色の肌にサングラスをした呪詛師の男が、こちらを見ている。
一目見て、分かった。

「なるほど…僕用に用意された相手ってことか。見たところ一級…ってとこだな」

距離のある中、互いに視線を合わせた異国の呪詛師。
ただ一級相当だとしても、僕相手にあの傑がその辺の術師を使うはずがない。
それなりに力がある、と思っていいだろう。

(―――この戦い、楽ではないな)

そう、楽ではない。
無数の呪霊に、厄介な呪詛師。
普段の任務とは違う、最大規模の戦線だ。
でも敗北を危惧するほどでもない。
呪霊の数は多くても、呪詛師はたった数人。
あの人数でどこまでやれると思ってるのか。
これで傑は自分の野望を遂行できると思っているのか。

(―――違和感)

ふとそんな事を思った時、

「五条さん!報告が…っ」

集まった術師の間を抜け、走って来たのは伊地知だった。
術師でもない補助監督が、これから戦場となる前線にわざわざ出向いて来るというのは急ぎの報告がある、という事だ。
だが僕は今、感じていた違和感の正体を思案していて、返事をする事が出来なかった。

「五条…さん?どうされました?」
「いや…」

辺りを見渡す限り、数人の呪詛師と数えきれないほどの呪霊。
だが、肝心な奴がいない。

(あの目立ちたがりが前線に出てこない?京都の方か?いや、それなら何か連絡があるはず…)

それが違和感の正体だった。
だが不確定要素が多すぎて考えを絞り切れない。
とりああえず報告を聞く為に、後ろで待機している伊地知の方へ振り向いた。

「何でもない。どうした?」
「こんな時にとは思いますが早い方がいいかと。以前、調査を依頼された乙骨くんの件です――――」
「……………」

憂太の件は今回の事と関係なく、個人的に依頼したものだった。
だが、伊地知の報告を聞いた時、頭の奥で何かが弾けた。
今、聞いた憂太の情報。
姿を見せない傑。
そして、から聞いた傑の未報告の術式効果―――。

(――だとすれば、まずい)

「パンダ!棘!」

考えるより先に二人の名を呼んでいた。
彼らも貴重な戦力であり、当然ここへ連れて来ていたが、憂太は里香の暴走を危惧して真希と一緒に高専に残して来ていた。

「悟、どうし―――」
「質問禁止!今から二人を呪術高専へ送る!」
「はぁ?!」

細かい事を説明してる時間も余裕もなかった。
指で地面に呪印を描き、現状想定される最悪の仮説を伝える。

「夏油は今、高専にいる。絶対、多分、間違いない!」
「どっちだよっ?」
「勘が当たれば最悪、憂太と真希、二人死ぬ!」
「「――――ッ?」」
「僕もあの異人を片付けたらすぐ行く。二人を守れ。悪いが死守だ!」

必要最低限の情報を伝えた後で、ふとの事が頭を過ぎる。
だが結界の外へ出なければ、今なら傑もあの場所はすぐに見つけられないはずだ。
その為、には家で出来る必要書類の仕事を割り振ってある。大丈夫―――。
指示を聞いたパンダと棘は互いに視線を合わせると、僕に頷いて見せた。

「応!」
「しゃけ!」

その瞬間、術式を発動させ、二人を高専へ飛ばした。
だがその様子を見ていた呪詛師達は慌てたようにこっちを見ている。
あの様子だと僕の勘は当たっているんだろう。
それを裏付けるように、これまで高みの見物をしていた異人の呪詛師が動いた。

「どうやら開戦のようだな」

目の前に降り立った異人は不敵な笑みを浮かべながら、手に持つ妖しい呪力がめぐる幾本もの縄の束を握り締めた。

「アンタノ相手ハ俺ダヨ、特級」

こんなところで時間をかけてる場合じゃない。
サッサと終わらせる―――。
包帯を外し六眼を晒すと、目の前の薄ら笑いを浮かべる異人を射抜くように見つめる。

「―――悪いけど。今忙しいんだ」










「"今度こそ夏油という呪いを、完全に祓う!"とか…息まいてんだろうな。あの脳筋学長」

高専へと続く通路を歩きながら、私は思わず苦笑した。
かつての担任であり、現在の学長である夜蛾正道の言いそうな事くらい、容易く想像できてしまう。

「お互い本気で殺りあったら、こっちの勝率は三割ってとこかな…。呪術連まで出て来たら二割にも満たないだろうね」

だがそれは、まともにぶつかれば、の話。
京都と新宿に注目を集め、警戒の薄くなった高専を直接叩くのは、私にとって散歩するのと何ら変わらない。
高専に向かいがてら、途中で遭遇した補助監督達を次々と手にかける。
悲鳴すら上げられぬまま倒れていく猿どもの亡骸が、通路に転がっていく。

「だが、そのなけなしの勝率を九割九分にまで引き上げる手段が一つだけ―――あるんだよ」

その為の、計画。
その為の、足止めを家族たちに任せた。

「―――乙骨憂太を殺して、特級過呪怨霊、折本里香を手に入れる」

最初から目的はそれだった。
呪霊操術を扱う私にとって、折本里香は戦況を覆す貴重な手駒だ。
私の真の目的を、高専の連中は誰も警戒していなかった。あの、悟でさえ。
嘘の情報を信じているせいで、そこにまで気が回らなかったんだろう。

「学生時代の嘘をまだ信じているなんて、めでたい連中だ。主従契約があろうとなかろうと…首を私とすげ替えてしまえば、呪いなんていくらでも取り込めるんだよ」

一つ危惧していたのは、この事をうっかりにだけ話してしまっていたということ。
あの頃は気づいたばかりの術式効果をそれほど重くは受け止めていなかったせいだ。
だが彼女は呪術師にとっての術式が重要な情報だという知識もなく、また興味もないようだった。
今更、そんな話を覚えているとも思えない。

「勝率の高い戦で高専が乙骨というカードをきることはない。下手を打てば敵も味方も全滅だからね。百鬼夜行の真の目的は…乙骨憂太を孤立無援に追い込むこと。そして――今度こそを手に入れる」

どこへ隠そうと、この敷地内のどこかに必ずは、いる。
長い年月をかけ、遂に見つけた手がかり。
麗良を京都高に残し、学長の秘書をさせていたのも、その場所を探る為だ。
警戒心の強い悟は上の連中にすら、その場所を明かしてはいなかったが、消去法でいけばだいたいの見当はついた。
あの頃、学生の私達に知らされず、また絶対に立ち入らなかった場所。

「さあ…新時代の幕開けと共に、この想いを成就させる時が来た――――」

高まる衝動を抑えながら、私は高専の敷地内へと続く大きな門扉を、ゆっくりと開けた。









「出来たぁ……」

朝からパソコンと睨めっこをしていた私は、最後の書類作業を終えると、思い切り両手を伸ばしてソファに倒れこんだ。
昨日からほぼ二日かけて全ての必要書類を作成していたせいで、かなり目が乾いてる気がする。
とりあえず用意した目薬に手を伸ばし、両目にたっぷり垂らした。

「あ~沁みる…」

乾いた目に水分が染み渡る気持ちよさで、思わず声が漏れる。
暫く目を瞑ったまま横になっていたが、書類を高専に残っている補助監督に持って行かなければいけない事を思い出し、ゆっくりと体を起こす。
本当は明日でいい、と伊地知さんに言われていたが、何もすることがなくなった今、ジっとしているのも不安で今日中に提出してしまおうと思ったのだ。
時計を見れば、とっくに日没の時間は過ぎている。
すでに新宿と京都で戦闘が始まっている頃だろう。

「大丈夫かな…皆」

先ほど電話をくれた五条くんとの会話を思い出し、小さく息を吐いた。

"こっちの戦力が上だから心配しないで"

そう言ってくれたけど、この胸に広がる鈍い痛みは、他にも気がかりな事があるからだ。
夏油くんと五条くんのこと、生徒で唯一参加しているパンダくんや、棘くんのこと。医師として戦場にいる硝子ちゃんのこと、京都へ派遣された七海くんのこと。
他の術師の皆や、現場でサポートをしている補助監督達のこと…心配はつきない。
勝率が高くても、全員が無傷で済むとは限らないから。
そして、この戦いが終わった時の、自分のこと。
今日までの長い年月の間に、高専での生活基盤が出来ていて、明日から自由だ、と言われたら、私はちゃんと新しい人生を歩いて行けるんだろうか。
五条くんのいない日々の中で……。

「結局あのキスの事も聞けなかったし…。はあ。ダメだ…。色々あって考え出したらキリがない」

心配事がありすぎて頭の中がグチャグチャだ。

「やっぱ気分転換に少し外に出よ…。この二日ずっと籠ってたもんね」

軽く溜息をつくと、私は全ての書類を手に、離れを出て高専に向かった。
夏油くんの事があるからか、今日は高専内も人気はなく、薄暗くなった中を一人で歩いていると、少しだけ怖く感じる。
これまでは誰かしら護衛の人がいたから、こんな風に一人になる時間も久しぶり過ぎるせいかもしれない。
百鬼夜行を仕掛けたのは夏油くんという事で、その中わざわざ私を殺しに来ないだろう、と言う事と、戦力となる術師は全員駆り出されてるから、こうして護衛なしの中、一人で過ごすのは10年ぶりだ。

"念のため離れからは出ないでね"

五条くんにそう言われていたが、書類を届けに高専に行くくらいなら大丈夫だろう。
ただ、やはり心細いのは変わらない。

「サッサと届けて早く帰ろ」

根付いた生活習慣というのは、こういうところで現れる。
気分転換に、と出て来たものの、もう帰りたくなってしまった私は、足早に校舎の中へ入って行った。

「見事に静かだな…」

いつもなら何人かの補助監督や教師たちが歩いてたりするが、今日は誰一人いない。
静まり返っている校舎というものが不気味なのは、どこの学校でも同じみたいだ。
そのまま急いで補助監督のいる部屋まで向かうと、そこには一人だけ残っている人がいた。

「あれ、さん?どうしたんですか?」
「あ…尾木さん」

開け放たれたままのドアから室内へ入っていくと、パソコンから顔を上げたのは年配の補助監督さんで、たまに立ち話をする尾木さんだった。
ホっと息を吐き出し、彼の方まで歩いて行くと、

「伊地知さんに頼まれてた書類を届けに」
「あ、そうでしたか。お疲れさまでした。はい、確かに」

尾木さんは簡単に書類へ目を通すと、「では私が伊地知さんに渡しておきますね」と言ってくれた。

「ありがとう御座います」
「いえいえ。さんが作成してくれるものはいつも正確で助かってますよ。地味な作業で疲れるでしょう」
「いえ、もうだいぶ慣れました。やってみて分かったんですけど、一つ任務に行くだけで、あんなに申請が必要なんて知らなかったし、補助監督さん達にはほんと頭が下がります」

そう言って笑うと、尾木さんも苦笑いを浮かべながら頭をかいた。

「まあ呪術師は裏稼業みたいなものですしね。表だって動けない分、こうした細かいルールは守りながらじゃないと」
「そう、ですよね。あ、他の補助監督さんたちはいないんですか?」
「ああ、敷地内の見回りに数人出かけて行ったんですけど…そう言えば遅いなあ。あれから一時間以上は経ってる」

尾木さんは時計を見ながら首を傾げた。

「まあ、そのうち戻って来るでしょ。さんも暗くなって来たし早く戻って下さいね。敵さんも皆が新宿でしょうから大丈夫だとは思いますが」
「はい…。じゃあ…帰ります。尾木さんも休み休みやって下さいね」
「ありがとう」

尾木さんに軽く会釈をしてから、元来た道を戻っていく。
こうして誰かと話すだけで少し気持ちも安らいだ気がした。
でも、この瞬間にも新宿と京都では皆が戦っている現実は変わらなくて。
早く終わって欲しい、いう気持ちと、その結果次第では夏油くんが処刑される、という気持ちがぶつかりあって、どうしても心が騒ぐ。
どちらに転んでも、辛い事には変わりないのだ。

「こんなこと、考えちゃダメなんだよね…」

校舎を出て、そう呟いた時だった。
突然、頭上が黒いもので覆われていくのが見えて足を止めた。

「こ…これって…"帳"…?」

昔、見た事があったソレに、私は小さく息を呑んだ。

(これって一般市民が巻き込まれそうな場合とかに下ろすもんだっけ?)

うろ覚えの、前に説明された内容を思い出しながら、一帯を覆っていく闇を見上げる。

「いったい誰が…補助監督さんかな?」

でも高専は結界があちこちに張られてるって聞いてるのに更に"帳"を下ろす必要があるんだろうか。
そう思っていると、後ろから誰かが走って来る足音がした。

「あ、真希ちゃん?」

青い顔で走って来たのは真希ちゃんだった。今日の居残り組の一人だ。
今週は休校だから寮にいるのかと思っていたが、真希ちゃんは何故かその手に呪具を持っている。
真希ちゃんは私に気づくと、驚いたように駆け寄って来た。

…!バカ、何やってんだ!離れに戻れ!」
「え…?」

彼女は酷く慌てた様子で私の腕を掴んだ。

「ど、どうしたの…?っていうか、これ"帳"だよね」
「アイツが来た!」
「……アイツ?」

真希ちゃんが指をさす方へゆっくりと視線を向ける。
そして門から校舎に続く道に、見覚えのある影を視界が捉えた。
その人物はゆっくりとした足取りで、私と真希ちゃんの方へ歩いて来る。

「……げ…夏油…くん…?」
「やあ、じゃないか。探す手間が省けたなあ」

にこやかな笑みを浮かべながら近づいて来た夏油くんは、私の前に立ちふさがった真希ちゃんに気づくと、不意にその笑みを消した。

「君もいたのか」
「いちゃ悪ぃかよ。てめぇこそ、何でここにいる?」
「悪いが、猿と話す時間はない」
「………ッ」

その言葉を聞いて、ビクリと体が跳ねる。
何故、新宿にいるはずの夏油くんが高専にいるのか。
一瞬、五条くん達がやられたのか、と心配になったが、日没からそれほど時間も経っていない事を考えれば、それはない。
という事は、始めから夏油くんは新宿に行っていなかった事になる。

「……宣戦布告に来たのは…戦力をそこへ集結させるため…?」
「察しがいいね、。その通りだよ。私の目的は最初から乙骨くんと、君だけだ」
「……憂太くん…?何で彼を――――」
「どいてろ、!」
「真希ちゃん…」

私を後ろへ追いやると、真希ちゃんは武器を構えて夏油くんの前へ立ちふさがった。

「私が時間稼ぐから、は自分のいた場所へ戻れ!」
「で、でも――――」
「猿なんかに私が足止め出来るのかな?」
「うるせぇ!惚れた女も大事に出来ないクズが!オマエにを殺させるわけにはいかねーんだよっ」
「真希ちゃん!やめて!」

夏油くんに攻撃を仕掛けようとする真希ちゃんに驚いて止めようとしたその手が、空を掴む。あと一歩、届かなかった―――。

「猿にクズと言われるのは―――不愉快だ」

彼の腕から無数の呪霊が現れ、それが真希ちゃんに向かって襲い掛かるのを、言葉もなく、ただ見ていた。
真希ちゃんの脚が、まるで人形のように形を変えるのを、ただ見ている事しか、出来なかった。

「いやぁぁぁああ!やめて!夏油くん…!!」

真希ちゃんの体から血が流れ、その血だまりに彼女は無言のまま、倒れた。

「真希ちゃん…!!」

震える足で駆け寄り、彼女の体を抱き起そうとした時、夏油くんの腕に抱き寄せられた。
その瞬間、振り向きざまに彼の頬を、力いっぱい引っぱたく。
夏油くんは苦笑いを浮かべながら、切れた唇を軽く舐めると、

「…にもそんな気性の激しいところがあるとは知らなかったな」
「何でこんな事するの?!どうして、そんなに変わっちゃったのよ…っ!」
「私はただ、猿が嫌いなだけだよ」
「会った頃の夏油くんは弱い人を助けるのが呪術師だって…言ってたじゃない!なのに、どうして……」

胸の古傷がジクジクと膿んでるかのように痛む。喉がヒリヒリと焼けるように痛む。目の奥が、熱い。
目の前にいる人は、誰―――?

「その弱者のせいで何人の術師が死んだと思う?私はね、耐えられなくなったんだ。そんな理不尽なこの世界が心底嫌になった」
「……術師の人達が…非術師の人達を守る為に危険な任務をこなしてるのは知ってる。この10年嫌になるくらい見て来た…。でも…夏油くんのやろうとしてる事は本当に正しいの…?」

何を言っても無駄なのは分かってる。
だけど言わずにはいられない。
好きだったから、優しい夏油くんが、大好きだったから。
あんなに優しく笑いかけてくれてた人が、どうして―――。

―――」

と、夏油くんが何かを言いかけた時、「おっと」と、彼は後ろを振り返った。

「誰かが"帳"に穴を開けたな。何事も、そう思い通りにはいかないもんだね」
「……?」

何の事を言ってるのか分からず、眉を寄せる。

「侵入地点からここまで五分ってとこか。無視するべきか、片付けておくべきか。迷うね」

夏油くんがそう呟いた時、轟音と共に近くの壁が砕け飛んだ。

「………っ?」

爆風の中、白黒の体が見えて、パンダくんがこれまで見た事もないような殺気だった顔で現れた。

「パ…パンダくん…?」
?!」

私に気づいた瞬間、驚愕の表情を浮かべたパンダくんは背後にいる夏油くんへ視線を向けた。

「最短距離で来るとは……やるね」

夏油くんは一言、呟いた。
同時に私の体を後ろへ押しやると、それを見たパンダくんが夏油くんへ向かってその剛腕を振り下ろした。
石板の地面が二つに割れて砕け散る。夏油くんはその攻撃を難なく飛びのいて避けた。
パンダくんは格闘が得意だという事を思い出し、私は二人から少しだけ距離を取った。近くにいてはパンダくんが思い切った攻撃が出来ないと思ったのだ。

(でも…パンダくんだけどうして高専に…。しかも新宿に行ってたはずなのに―――)

と、そこまで考えて、小さく息を呑んだ。
まさか五条くんが飛ばしたんだろうか?
新宿から高専まで、そんなに速く戻れるとは思えないが、彼には瞬間移動が出来る。自分以外も飛ばせるとは思ってなかったけど、きっと何か異変を感じたからこそパンダくんを高専に戻したんだ、と悟った。

「よそみ見」

その声にハッとした。
パンダくんは倒れている真希ちゃんに意識が向いた隙に、夏油くんの拳を頬に受け、直後に頭へ強烈な蹴りを落とされた。
その巨体が地面に押し倒されるのを見て、思わず「やめて!」と夏油くんの腕にしがみつく。
これ以上、皆が傷つくのは見たくなかった。
だが、パンダくんは私に向かって、「、ソイツから離れろっ!―――棘!」と叫ぶ。
"棘"―――その言葉を聞いて、私は考えるより先に夏油くんから距離を取った。
その瞬間、頭上から棘くんが舞うように降りて来る。
"蛇の目"と"牙"の呪印が刻まれた口元は、すでに露わになっていた。

「油断したな」

地面に倒れたパンダくんはそう言い放つと同時に、夏油くんの足首を強く掴んだ。
夏油くんが驚いたようにパンダくんを見下ろす。その直後―――。

「―――"堕"――"ち"――"ろ"―――!!」

棘くんの呪いが、夏油くんの頭上から降りかかる。
声を発する事も許さないというように、夏油くんを何十倍もの重力が襲う。
メリメリっという骨の軋む音が響き渡り、彼の足元が崩れ落ちて地面ごと押しつぶされていく。
ドン―――っという高専全体を揺るがす強烈な振動に、私は足元がふらつき、その場に倒れこんだ。
夏油くんのいた場所から土煙が上がり、それが風に流されるとその場に大きな大きな穴が空いているのが見える。

「……夏油…くん…」

震える声で、その名を呼ぶ。
死んだんだろうか―――?

…!」

そこへパンダくんが駆け寄って来て、私の体を起こしてくれる。

「大丈夫か?!」
「パンダ…くん…腕が…」

夏油くんを掴んでいたその腕が、肘から千切れて綿が見えている。
棘くんの呪言に少し触れてしまったようだ。

「ああ、こんなの大丈夫。俺は呪骸だからすぐ治せるさ。それより立てるか?」
「う、うん…」

何とか体を起こした、その時、棘くんが激しくむせて大量の血を吐いた。
強い言葉を使った反動が来たらしい。彼の呪言の力は初めて見たが、強い言葉を使えば使うほど、棘くんの体に返って来るのは知っている。

「棘くん…!大丈夫?!」
「……い゛ぐら゛…」

駆け寄って体を支えると、ガラガラの声で返事をした棘くんは倒れている真希ちゃんの方を指さした。
こんな時でも自分の事より、仲間の心配をする棘くんに泣きそうになった。

「真希ちゃん、助けなきゃ…。で、でもどうしよう…硝子ちゃん今日は新宿に行ってるのに…!」
「落ち着け、。―――おい、真希…大丈夫か?」

パンダくんが真希ちゃんをそっと抱き起こすと、彼女は軽く咳き込んで薄っすらと目を開けた。
重症ではあるが、意識はあるようだ。
生きてる―――。私はホっと胸を撫でおろした。

「良かった…」
「高菜…」

棘くんも喉を押さえながらふらふらと歩いて来る。
その時、真希ちゃんが苦しそうな息を吐きながら、呟いた。

「ま…っだ…だ…」

「「「―――――ッ」」」

真希ちゃんを抱えるパンダくんの背後には、棘くんが空けた穴がある。
そこから不気味な黒い触手が無数に伸びて来たのを、私は信じられない思いで見ていた。
穴からゆっくりと浮かんで来たもの、それは頭に包帯を巻き付け、その黒い胴体には沢山の、顏。
大きく不気味な呪霊の触手は、その胴体から伸びているらしかった。
そして次の瞬間には夏油くんが、ふわりと穴から飛んで来た。

「……嘘」

それはまさに一瞬だった。
パンダくんと棘くんが体勢を整える間もなく。
その大きな呪霊の攻撃により、声もなく倒れる。

「素晴らしい!素晴らしいよ!」

倒れた三人の前に立ち、夏油くんは大きな声で叫び始めた。

「私は今、猛烈に感動している!乙骨を助けに馳せ参じたのだろう?呪術師が呪術師を、自己を犠牲にしてまで!慈しみ、敬う!」

両手を広げ、涙を流し、どこか狂気じみた目の前の夏油くんを、私はただ、見ている事しか出来なかった。

「私の望む世界が、今、目の前にある!」

傷だらけで横たわる真希ちゃん、腕をちぎられ、胸を貫かれたパンダくん、壁に激突し、瓦礫の上に力なく倒れる棘くん。
そんな彼らを見ても、夏油くんは自分の理想論しか語らない。
同じ呪術師の彼らを傷つけてまで手に入れる、そんな理想の世界なんて、あってたまるか。

「もう…無理」

限界だ。
弱者を慈しんでいたあの頃の夏油くんは本当に、この世からいなくなってしまった。

…」

夏油くんがゆっくりと私の方へ歩いて来る。

「ずっと、会いたかったよ…。随分と待たせてしまったね」

私に見せるその笑顔は、昔と何も変わらないのに。
好きだった 夏油くんのその笑顔 …
愛しさを感じた その優しい手で あなたは私を殺すのね――。

躊躇いもなく私の首に手をかけるあなたは、遠い昔…確かに想いを寄せた人。

「今度こそ…終わらせよう」

優しく唇をなぞっていた綺麗な指が、そっと私の顎を持ち上げる。昔と同じように唇を寄せるあなたは、何一つ変わっていない気さえするのに。

「愛してるよ…―――」

唇が触れ合う瞬間、彼はとうの昔に亡くした"愛"を囁いた。

でも、それを亡くしたのは私も同じなの。だって私は―――。

「私は…あなたを愛してない……」

重なる唇が、かすかに震えた。あなたの全てを否定する。あの暑い暑い夏の夜、私はあなたを想う心を捨てたの。

あなたへの想いは―――未完成で終わったまま。







昔と同じように唇を寄せ、愛しいに口付ける。
この想いが、例えば呪いのように、この体を蝕んだとしてもかまわない。
そう思うくらいに本当は、彼女を愛していた。
でも、憎まれるであろうことは痛いほどに分かっていた。

「私は…あなたを愛してない…」

の口からその言葉を聞いた時、どこかホっとしていた。
それでいい。僅かでも、私に心を残さないで。綺麗に忘れ去って欲しい。

を愛してる。
でも、猿は嫌い。

相反するこの感情は、自分でどうする事も出来ないから。
だから、10年という年月を与えた。
誰が一番、自分の事を大切に想っているのか気づくように。
その存在の大切さに。

「良かった…。これで何の躊躇もなく君を殺せる―――」

でも渡したくないのも、本当。
愛情という呪いは、いつでも矛盾している。
だからこそ、こんなにも、苦しいんだ―――。

「でも、どうしても夏油くんのこと…嫌いになれないの…」
「――――ッ」
「私、夏油くんに会えて良かっ―――」
「…やめろ!!」

それ以上、言わないで。
いつからか、引き返せなくなった? 苦しいのに、それなのに。

置き去りは君なのか。それとも、私なのか―――?

償えるなら「許せない」 その答えを聞くだけでいい。