【第二十五話】 明けない夜の中で―前編



私の仕掛けた呪いは、呪言師である少年のたった一言であっけなく、捩じり潰された。

「―――残念。噂の里香ちゃんを見に来たのに。同じ"特級"、早く挨拶したいなぁ」

商店街の上に設置された梁に腰を下ろしながら、腕に抱いた呪霊を撫でる。
昔、あの男が飼っていたこの呪霊は口の中に何でも収容できるから重宝している。
手を差し出すと、ソイツの口から一枚のカードが出てきた。

「落とし物も届けなきゃだし」

それは最初に仕掛けた小学校で拾った、あの少年の学生証。
そこに刻まれた"特級"の文字を見て、自然と笑みが零れる。
商店街で"帳"が上がるのを待つ二人を見ながら、彼――乙骨憂太にまとわりつく、禍々しい呪力を感じていた。






伊地知から連絡を受け、僕はすぐにハビナ商店街へとやってきた。
ここは昼間、棘と憂太が討伐任務に来た場所だ。
現在は寂れたシャッター街となっているが、ここら一帯を解体して、ショッピングモールを誘致する計画があり、その前に厄介な噂が立たないよう、高専に呪い祓徐の依頼が来た。
今は高専関係者によって現場検証が行われている。

「商店街をくまなく捜索したところ三種類の残穢が発見されましたっス!これ以上はもう見つからないだろうと伊地知さんからっス!」

現着したばかりの僕に、そんな報告をしてきたのは、伊地知よりも若い女性補助監督だった。
新田明と名乗ったその女性は、どこか緊張した様子で、僕を見ている。

「ん、分かった。ありがとう」
「はいっス!」

気持ちいいくらい元気よく返事をする新田を見て、内心苦笑すると、一人、商店街を歩いて行く。
すでに予感はあったのかもしれない。
商店街の中は、棘や憂太が戦った痕跡が、僕の眼に映し出されている。
少々苦戦はしたようだが、二人で協力しながら戦ってたようだ。
そして、後半に出て来た呪霊の残穢を見つけ、ふと足を止めた。

(最初の依頼で、ここまでの呪いはいなかったはずだ…やはり、誰かが意図的に?)

そのまま辺りをゆっくり見渡すと、これまで眼に映したものとは明らかに違う残穢を見つけた。
数歩ほど歩き、上を見上げれば、一本の梁。
そこにはすでに誰もいない。
けど確かに残っている呪力を発した時の痕跡――残穢。
その残穢の形に、僕は確かに見覚えがあった。

「……傑」

懐かしい、とさえ感じる、かつての仲間の残穢に、苦い記憶が蘇る。
近づいてきてる。確実に。
傑がここにいた、という事は、憂太の事も知っているとみて間違いないだろう。
何が目的でこんな場所まで出て来たのか、考えたくもない。

「一度、戻るか…」

珍しく嫌な予感がして、すぐさま高専へと戻ると、青い顔をした伊地知が僕を出迎えた。

「申し訳ございません。何者かが私の"帳"の上から二重に"帳"を下ろしていました。加えて予定にない準一級レベルの呪いの発生。全ては私の不徳の致すところ。なんなりと処分を―――」
「いや、いい。相手が悪すぎた」
「…と、申しますと、犯人に心当たりが?」
「………」

伊地知は僕らの二つ下だ。
顔見知りではないにしろ、存在くらいは知っているだろう。

「夏油傑」
「……っ?」

呪術高専、いやこの呪術界にとっては忌むべき存在。
術師の中でも秀でた存在であり、同時にこの高専生徒が過去に引き起こした中でも類を見ない不祥事を起こした男。

「四人の特級術師が一人、百を超える一般人を呪殺し、呪術高専を追放された―――最悪の呪詛師だよ」

伊地知の顏が、更に青くなる。
当然、の事を狙っている相手、というのも伊地知は知っている。

「な、何故、彼がこんな事を…」
「さあね。僕の生徒と知っての事か、それとも他に何か目的があるのか。どちらにせよ、アイツが動き出したって事には違いない」
「は、はあ…」
「ま、今回は棘も憂太も無事で良かった。ケガも大したことなかったから」

二人の事を心配していたであろう伊地知にその事を伝えると、彼は安堵の息を漏らした。
補助監督の立場では、まだ年端も行かぬ生徒たちを危険な場に送り出さなければならない。
けど、やはり人間である以上、その生徒達を大人として守りたい、という気持ちがある伊地知にとって、彼らが傷つくのは相当キツイだろう。
以前、高専の関係者と飲み会をした際、伊地知が酒に酔い泣きながら、そんな事を言っていたのを思い出す。
そんな伊地知の優しさが、僕は何気に好きだった。

「ま、新人の新田って子も頑張って事後処理やってくれてるから、今日は帰って休みなよ」
「で、でも―――」
「学長への報告は僕がしておくから」

肩をポンと叩くと、伊地知は酷く驚いたような顔で、僕を見上げた。
その目は、どこか怯えたような感じで左右に泳いでいるように見える。

「こ、これ…何か試されてます?罰ゲーム的な……」
「僕の優しさを罰ゲームだと思うその理由は?」
「い、いえ!失礼しました!」

冷んやりとした低い声で問うと、伊地知は再び青い顔になり、慌てて頭を下げると、そそくさと廊下を走っていく。
その後ろ姿を見ながら苦笑いを零すと、その足で夜蛾学長の元へ急ぐ。

(傑が初めて自分の痕跡を残した…今回派手に動いた理由は何だ…)

"来年、また会おう"

去年、京都でに告げたその言葉の意味。
何か仕掛けて来るとしたら、そう遠い日ではないだろう。
これまで以上に此方も準備をしておかないと…
アイツがどんな手で、何を仕掛けてこようと、を必ず守れるように―――。

「告白なんて…してる場合じゃない、か」

ふと失笑を漏らし、気持ちを切り替える。
当初の目的通り、傑との決着をつけなければ、まだ、僕は前には進めないようだ。
まずは夜蛾学長と話し、他の呪術連にも援護を要請してもらえうよう手配をしてもらわなければ。
そう思いながら、足早に学長室へと向かった。








「夏油さま、そろそろ準備の方が整いますが」
「そうか」

部屋に顔を出した菅田真奈美に、笑顔で頷くと、

「じゃあ、皆に集まるよう―――」
「傑」

そこへ東宮時麗良が顔を出した。

「…本当に24日は私を京都に行かせる気?」
「ちょっと麗良…いつになったら、夏油さまに対してその馴れ馴れしい態度を改めるのかしら」
「…アンタはあっちに行ってて。私は傑と話してるの」
「何ですって?年下のくせに偉そうに―――」
「真奈美。大丈夫だから、ここは任せて。真奈美は皆を集めておいてくれる?」

そう言って彼女に微笑むと、真奈美は渋々といった様子で、「分かりました」と、一礼をして部屋を出て行く。
麗良は真奈美の背中を忌々し気に睨むと、すぐに私の方へ歩いて来た。

「ああいう態度は良くないよ、麗良」
「何よ。あっちが先に―――」

開きかけた唇を塞ぐと、麗良の体がかすかに震えるのが分かった。
ゆるりと舌を差し入れて彼女の舌へ絡ませれば、艶のある声が喉の奥から漏れ聞こえてくる。

「ん…傑…」

ゆっくりと唇を解放し、その白い首筋にも口付けた。

「君に京都を任せたのが不満かな?」
「だ…だって…ん、」

のけぞらせた首元を軽く舐め上げれば、麗良は体を預けるように私の腕の中へしなだれかかった。

「あちらの足止めも充分、大切な仕事だよ」
「わ、分かってるけど…」

抱きしめながら頭を撫でれば、彼女の瞳に妖しい光が灯る。
もっと欲しい、とでも言いたげな、その唇に触れるだけのキスを落とすと、

「残念だけど、時間がない。続きはまた帰ってからね」
「…そんなこと言って…あの子を連れ帰ってくる気じゃないでしょうね。未だに場所は特定出来てないけど、あの敷地内のどこかにいるはずだし」
「そんな事はしないさ。ただ挨拶に行くだけだ。今日はね」

麗良を解放し、背中を向けると、彼女は「本当に?」と不満げな声を出す。

「まだ…あの子のこと…愛してるんでしょ」
「もちろん」
「なのに殺すの?」
「彼女は非術師なんだ、当然だろう。愛してるからこそ殺さないといけない」
「そんなに盗られたくないの?五条悟に」

その問いに、私はふと笑みを浮かべた。

「誰よりも、悟にだけは」
「何よ、それ…。あんな猿、誰に盗られようと関係ないじゃないっ!どうせ傑だって、あの子に憎まれて―――んぐっ」
「彼女は非術師だが…君が猿呼ばわりするのは許せないな」

片手で首を絞め上げると、麗良の綺麗な顔が悲しみと恐怖で歪む。
すぐに手の力を緩めれば、彼女は軽くむせて、その場へ崩れ落ちた。

「苦しかった?すまないね、麗良。でもちゃん自分の仕事をしてくれれば、君は家族のままだ」
「……わ…分かった…わ…」

しゃがんで、指で彼女の顎を持ち上げると、もう一度口付け、震えている体を抱きしめる。

「もう少しで終わるはずなんだ…。やっと…この矛盾から解放される」

この、苦しみから。
彼女を殺せば、この心は楽になるんだろうか。
が生きている限り、この焼けるような胸の痛みは消えてなくならない。
初めて彼女の心臓を貫いたあの夜から、殺し損ねたあの夜から、ずっと、燻っている嫉妬という名の呪いがある限り、私の心は休まらない。
どれだけ猿を殺そうと、例えこの世から一掃したとしても、が生きている限り。

猿は嫌い―――。

そう、自分で選択したはずの未来に、ただ一つ足りないもの。
今はただ、見て見ぬふりをして、

「では、行こうか」

ゆっくり立ち上がると、家族の待つ会議室まで歩いて行く。
重たい両開きの扉を開けば、私の新しい未来が、そこにある。

「さあ、時が来たよ―――」

真奈美の連絡通り、家族全員が会議室に集まっていた。
菜々子、美々子、麗良、ミゲル、真奈美、ラルゥ、祢木。
志同じく、私の元へ集った者たちだ。

「猿の時代に幕を下ろし、呪術師の楽園を築こう」

この日を待っていた。
10年と言う長い年月をかけ、自らの望みを叶える時が、遂に来たのだ。

「まず手始めに、呪術界の要―――呪術高専を落とす」







2017年、12月。

「ふわぁぁ…」

不意に大きな欠伸が出て、僕は目に浮かんだ涙をゴシゴシと擦った。
夕べは五条先生に借りた映画に夢中になり、少しだけ夜更かしをしてしまったせいで、まだ少し眠たい。
あの商店街の任務から数か月が過ぎ、季節はすでに冬。
吹き付けて来る冷たい北風に思わず首をすぼめながら、マフラーをしてきて正解だったな、と思う。
寮から校舎まで、それほど遠くはないものの、やはりこの時期の、特に朝などは余計に寒い。
そのせいなのか、それとも別のものなのか、首筋にゾクリとしたものを感じ、僕はふと足を止めた。

「どーした?憂太」
「………」

何となく後ろを振り返った僕に気づいたパンダくんも、こちらを振り返る。

「えーっと…何か嫌な感じが……」
「気のせいだ」
「気のせいだな」
「おかか」

真希さん、パンダくん、狗巻くん全員の意見が一致して、無理やり気のせいにされてしまった。

「えぇ…ちょっと、皆ぁ…」

サッサと歩いて行ってしまう皆を走って追いかける。

「だって憂太の呪力感知、超ザルじゃん」

パンダくんに断言するように言い切られ、僕は「う、」と言葉を詰まらせた。

「まあ里香みたいなのが常に横にいりゃ鈍くもなるわな」
「ツナ」

真希さんと狗巻くんまでがパンダくんと同意見なのか、そんな事を言い出した。
まあ確かに言われても仕方ないところはあるけど。
戦闘に関してはだいぶ上達してきたものの、未だに呪力感知の方は皆の言うように鋭くはない。
それでも、さっきは本当に、何かを感じた気がしたのに。
ただ、具体的にその"何か"を言ってみろ、と言われれば、自分でもよく分からない。

「おい、早く行こうぜ。寒くて仕方ねー」

その場で足踏みをしながら僕を見ていた真希さんも、吹き付ける北風に首をすぼめている。
パンダくんも「早く来いよー」と言うので、僕は仕方なく皆の後を追いかけた。




四人が登校してくるのを校舎内から見下ろしていると、隣で同じように窓の外を眺めていた夜蛾学長が静かに口を開いた。

「未だ、夏油の動向はつかめん。やはり、オマエの杞憂じゃないのか?」
「学長、残念ながらそれはあり得ないです。直接現場を確認しました」
「………」
「僕が傑の呪力の残穢を間違えるわけないでしょ」

核心を持って、そう口にする。
普段の自信とはまた別の、相手が夏油傑だからこそ、そして僕だからこそ、分かるのだ。

「…そう、だな」

夜蛾学長も言っている意味を理解したのか、深い溜息をついた。
傑はここに来て大きく動いている。
コソコソ動いていた以前とは明らかに違う。
絶対に何かある―――そう思った時だった。
高専の敷地内に突然、大きな力を感じ、ハッと顔を上げた。

(傑―――!!)

「ガッデム!噂をすればだ!」

夜蛾学長も気づいたのか、すぐに動いた。

「校舎の準一級以上の術師を正面ロータリーに集めるよう指示しろ!!それと悟、オマエはすぐ離れの結界を確認しろ!」

言いながら夜蛾学長は廊下を走っていく。
僕も早々に廊下を抜け、階段を一気に飛び下りながら、すぐに伊地知へ電話をかけて今の指示を伝える。
受話器の向こうから息を呑む気配がした。
この指示の意味は厳戒態勢――高専始まって以来、初の脅威が迫っていることを示している。

(嫌な予感は当たってしまった…)

校舎を駆け抜けながら、かつての親友の事を思い、僅かに鼓動が早まるのを感じていた。